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  3. saihikarunogoさんのレビュー一覧

saihikarunogoさんのレビュー一覧

投稿者:saihikarunogo

181 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本我、言挙げす

2010/10/26 10:14

「おかしゃん。これ、おかしゃんのね」

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

不破龍之進たち、北町奉行所の見習い同心たちは、時にやんちゃやしくじりをしながらも、成長している。辣腕だが黒い噂のある隠密廻り同心小早川瑞穂や、かつて奉行所の「不正」を糾そうとして閑職に追い遣られた帯刀精右衛門など、反面教師とも模範ともどちらとも言える先輩たちから、人生や生命を賭けた、貴重な教えを受けて。

幼い伊与太や茜の成長も、かわいく、けなげで、たのもしい。伊三次が不破家に子連れ出勤し、不破友之進と龍之進の髪を結った後、いなみに茜を預かってもらう。伊三次がその日の仕事を大急ぎで終えて不破家に迎えに行くと、伊与太は、おとなしくかわいく待っていたが、よく見ると、泣くのを堪えているようす。伊三次が抱き上げたところに、友之進も帰って来る。ふだんならば愛想よく挨拶する伊与太が、伊三次に顔を押し付けたままで、何にも言わず、友之進から顔を見られないように、必死に隠している。

小さい子がこういうことをするときって、あるある。

不破家を出てから、伊与太は、伊三次に、その日のできごとを話して、泣いた。

> 「おいら、我慢した。お利口さんだった」

おお、よし、よし!

優しいパパの伊三次と、すなおでかわいい伊与太。このふたりを見ていると、ほほえましくて、ほっとする。伊三次の弟子で、伊与太の兄代わりの九兵衛も、いい。

平和な親子の風景のなかで、どきりとさせられたのは、お文の心の中を描いた、「明烏」だ。

お座敷勤めの帰り道、「明烏夢泡雪」を歌う、新内流しとすれ違った後、辻占いに出会い、姐さんの帰る家はそっちの道じゃない、と言われる。それから辿る闇の中の道、たどりついたのは、伊三次と伊与太の待つ我が家……じゃなかった!

お文が帰り着いた家は、『さらば深川』で登場した、生みの母おりうのいる家だった。大きな呉服屋である。なんだってこんなところに来てしまったのか、と、思ったものの、そうか、生みの母に一目会いたくて会ってみると、情にほだされて帰るに帰られなくなったのだ、と合点する。母おりうの病が癒えるか亡くなるまで、いるつもりなのだが、おりうの現在の夫清兵衛は、お文がいることが気に食わないようす。できるだけ早く、お嫁に行かせようとする。三人の子持ちの男の後添えに。

あれ?

『さらば深川』では、おりうの現在の夫は、おりうが生き別れの娘を探し始めるよりも三年前に、死んでいなかった?

お文は、おりうから、実の父親の名前を明かされる。そして、父が母に贈った簪を、形見に貰い、意地悪な清兵衛につかまらないうちに、逃げ出した。

夜道を走って逃げていると、また、「明烏夢泡雪」を歌う、新内流しとすれ違った後、辻占いに出会い、姐さんの帰る家はそっちの道じゃない、と言われる。それから辿る微かに明るい道、たどりついたのは、伊三次と伊与太の待つ我が家……だった!

家のなかで、ふとつまずいて、髪から落ちた簪は、母の形見の簪。お文は、夢か現かわからなくなり、わざと知らんふりをしていると、伊与太が拾って、差し出した。

> 「おかしゃん。これ、おかしゃんのね」

伊三次は、何も気づかないようだ。だけど、伊与太には、見えたのだ。愛し合った父と母との形見の簪が、愛し合っているお文と伊三次の間に生れた伊与太には!

すべては、お文の心の中のことに違いない。ほんとうは、あのとき既に死んでいたはずの、精右衛門が出てきて、お文を、生みの母の家から追い出す、というのは、すべては、お文の心の中のことに違いない。

もしかして……

伊三次もまた、どこかで、「明烏」に出逢っていないかしら。「辻占い」に出逢っているのじゃないかしら。

私は、そんなことを想像してしまった。

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紙の本君を乗せる舟

2010/10/24 13:01

我を頼めて来ぬ男、その後

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『黒く塗れ』で登場した、一風堂主人、越前屋醒が再登場。越前屋の話は、この作者の他の作品みたいに、「ひとつ灯せ~」「ええい!」と、気合を入れてから聞いたほうが、良さそうだ。かわいそうに伊三次は、そんな気合も知らず(他の作品だから当然だが)、素直にこわがり、こわいくせに、自分から話をせかしたりして、まんまとのせられている。そんな人の良さにつけこまれて、徳川将軍も大名も恐れて封印していた妖刀をこっそり持ち出したらしい老女を探るようにと、北町奉行所定廻り同心不破友之進から命令されてしまう。けなげにもひとりで屋敷に乗り込む覚悟を決めた伊三次は、越前屋醒に、

> 「この世に不思議なことは一つもありゃしねェ」

と、まるで京極夏彦の小説に出てくる古本屋の主人みたいな啖呵を切る。内心は、がくがく、ぶるぶるなのに。

妖刀は、伊三次の目の前で、あっという間に、三人の命を奪った。どうしてそうなったのか、皆目、見当が付かない。恐る恐る屋敷から逃げ出す伊三次の背中に、
「カタリ」
という音が聞こえた。伊三次は振り向かずに逃げた。後始末に向かった同心緑川平八郎と越前屋醒は、妖刀で自らの手を傷つけた。伊三次だけが、かすり傷一つ負わなかった。

妖刀の住まう屋敷のかもしだす恐ろしさのすべてが、「カタリ」に収斂している。伊三次は後々まで、刀に追いかけられる夢を見る。伊三次と川の字になって寝ている赤ん坊の伊与太も、おとっつぁんの恐怖に感応してこわそうな顔をする。女房のお文だけが、平気な顔で、

> 「今月の実入りはやけに少ないよ。もちっとお稼ぎよ」

とけしかける。御蔭でやっと伊三次も落ち着いた。ありがたや、ありがたや。

おとっつぁんの恐怖に感応する、やさしくてかわいい伊与太は、疱瘡にかかってしまう。伊与太が高熱でうなされているとき、伊三次は、鮮やかな江戸紫の着物を着た娘に出会う。近頃巷で噂の幽霊だ。伊三次は幽霊娘に必死で頼み込む。きっとおまえさんを陥れた悪党をつかまえるから、どうか、伊与太を助けてくれ!幽霊娘はどことも知れないお寺に伊三次を連れて行き、伊三次は、疱瘡からこどもを救うおまじないを見つけた。

> 「おんころころ……」

みごと悪党を捕えた伊三次が大急ぎで家に帰ると、伊与太も快復し始めていた。ちょうど、伊三次が、

> 「おんころころ……」

と祈っていた頃から、伊与太の熱が下がり始めていたのだ。よかった。あの幽霊娘は、ほんとうは誰だったのか、わからないままだけど。

伊与太は、ききわけがよくて気さんじだけど、ちょっと発達が遅いようだ。伊与太よりも半年早く生れた、不破友之進といなみの娘茜は、逆に、同じ頃に生れた赤ん坊と比べても、発達が早いぐらいだ。口も手も足も、そのしっかりしていること、とても伊与太のかなうところではない。

伊与太が風車を吹いて回していると、さっと横取りする。伊与太、ぼうぜん。ややあって、茜の手にある風車を取り返しに行くと、ぱしーんと、(茜の手で)鋭い平手打ち。伊与太、号泣。お文が次々とおもちゃを出すも、すべて、茜に横取りされ、手を伸ばすと「メッ」と(茜に)叱りつけられ、しまいには、(茜と)眼が合うだけで、伊与太は泣き出す始末。

どこかに、こんなカップルが、いたなあ。

そうそう、片岡美雨と、乾監物である。

> 「美雨殿も拙者の心意気だけは買って下さった」

おお~、よかったねえ! 久しぶりに伊三次が会った監物は、剣術に精進した御蔭でスタイルもよくなり、男ぶりを上げた様子。そのうえ、不器用で馬鹿正直な男女の恋を取り持つのに奔走した心意気を買って、美雨も、監物の器量に満足したようだ。

更にうれしいことには、あの不破友之進が息子の龍之介改め龍之進に、

> 「あれはなかなか目端の利く男だ。いずれ片岡様の跡を継ぎ、吟味方与力として腕を振るうだろうて」

と言っている!

よかった。前作『黒く塗れ』を読んだ時、並みの男以上に武芸の達者な美雨に、八丁堀界隈の連中が罰ゲームのようにカスをつかませたんじゃないかと、私は、心配し、憤慨していたんだ。そうじゃなかったんだ。よかった、よかった!

だけど、ほんとうは、『黒く塗れ』で、美雨が満開の桜の下で謡を口ずさんだとき、心の中にいた「我を頼めて来ぬ男」は、すぐそばでその声を聞いていた龍之介じゃなかったのかなあ。年下でも、何年か待つ甲斐のある男だと感じていたんではないのかなあ。

なぜって、今作『君を乗せる舟』で、お文が、龍之介改め龍之進が二十歳になった頃にはどれほどの男ぶりになることか、道を通るだけで娘達が黄色い声を上げることだろう、と言っているからだ。それに、剣の腕もたつし、そのうえ、伊三次の弟子の九兵衛が、龍之進のことを、「意地の強さは半端じゃねェ」と言っているから。こういう男こそ、美雨の理想の男性だったんだろうと思う。

龍之介は元服して龍之進に名を改めた。同じ年頃の少年たちと合わせて六人が同時に奉行所の無足の見習いとなった。彼らは、本所無頼派と呼ばれる不良少年たちの取締りに熱を上げる。無頼派の頭株の男を追っているうちに、龍之進は、憧れのひとあぐりに再会した。前々作『さんだらぼっち』で、龍之進は、あぐりの父が殺人を犯した場面を目撃し、悩んだ末に、とうとう、告発した。あぐりの父は死罪となった。そして、あぐりは、かつては琴を弾き、華を生ける、御嬢様の暮らしだったのに、今は長屋で仕立物などで身過ぎ世過ぎをしてつましく暮らす身の上だ。

龍之進の母いなみは、あぐりのために、縁談を持っていく。あぐりよりも十五歳も年上で、妻を亡くした男の後添えの話だ。暮らしは豊かになるが、それって、親切なんだろうか。あぐりはまだ十六歳だ。『紫紺のつばめ』で、かどわかしから戻ってきたおみつに、三人の子持ちの男の後添えの話があると聞いたとき、お文は、あんまりだ、まだ十六なのに、と言って泣いた。それと同じじゃないのか。

だけど、あぐりは、本所無頼派の頭株の男に、もう少しで騙されて吉原に売り飛ばされそうになった。それを、龍之進や伊三次や不破友之進や不破家の下男の作蔵が、身を挺して守ってくれた。特に作蔵は、かつて、自分の娘を身売りした罪悪感から、ほんとうに命を投げ出してあぐりを守った。その作蔵から、今際の際に、後添えの話を受け入れるようにと言い遺されてしまっては、あぐりは、逆らえない。

あぐりのために、「君を乗せる舟」になりたい、と、伊三次だけに打ち明ける、龍之進。あぐりに、龍之進が二十歳になるまで待って貰うことはできなかったのかな。みんな、親切でしているようだけど、あぐりから、年下でも彼女にふさわしい男と結婚する機会を奪ってしまったんじゃないのだろうか?

龍之進を見守る伊三次の優しさに、読んでいる私も慰められる。龍之介が龍之進になったのと同じ様に、伊三次も、いつの間にか、若い男から、円熟した大人の男になったようだ。

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紙の本さらば深川

2010/10/20 12:31

ここ一番というとき

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

不破友之進が伊三次に謝った。

> 不破はカンと灰落としに煙管の雁首を打つと膝を正して伊三次に向き直った。その厳しい表情に伊三次も思わず背筋を伸ばした。「あいすまぬ」(略)「たとい相手が素町人だろうが、小者であろうが、誤りは誤り。拙者、おぬしが下手人として疑われた時、力になれずに御無礼致した。ならびに、妻女の不届き至極の振る舞いに身体を張って阻止した一件、不破友之進、心からお礼申し上げる」

これって、不破友之進がいなみに結婚を申し込んだときと同じだね。

> 申し訳程度の肴がついた台の物の酒を飲み干すと、不破は「わが妻になっていただきたい」と深々と頭を下げた。(略)「あなたはこんな所にいてはいけません。拙者のことが少々気に入らずともそうする方があなたのためです」(『幻の声~赤い闇~』)

不破友之進は、町廻りに出ると袖の下を取りまくるし、芸者をあげて遊ぶとセクシャルハラスメントをしまくるし、清濁合わせ飲むどころか濁ばっかり飲んでいるような同心だけど、ここ一番というときには、馬鹿正直に糞真面目になるのだ。

何がここ一番なのか、いつが大一番なのか、わかっているのだ。そのときにはためらわずに、裸になるのだ。

だから、彼は、生涯の伴侶を得たし、去っていった相棒を取り戻すこともできた。

> 「旦那、やめて下せェ!」
> 伊三次は仕舞いには悲鳴のような声で不破の腕を取った。顔を上げた不破と眼が合った時、伊三次の鼻の奥はつんと痛み、我知らず、ぽろりと涙が頬を伝った。不破も伊三次の涙に誘われたように赤い眼になった。

この二人、愛……

なんとかさりげなくかわした不破がいなみに食事を持ってきてもらおうと思って襖をあけると、彼女がそこにお膳を持ってすわっていた。

> 「手前ェ、立ち聞きしていたな?」

てっきり、いいえ、すわって聞いていました、って答えると思ったのに、立ち聞きしていない、と答えただけだった。

不破の小者に戻った伊三次は、さっそく、掏摸を追いかける。お文の財布をとった女掏摸。どうやら、元から江戸にいた掏摸ではないらしい。蛇の道は蛇で、伊三次は知り合いの掏摸に相談する。これがまあ、役者のようないい男。

> 「油断していると巾着切りに狙われるわよ」
> ぴったりと伊三次の横に貼りついて来た男が伊三次の耳に熱い息を吹き掛けた。

伊三次がうらやましくなるくらい、かっこいい!

女掏摸は増蔵親分と訳ありのようす。このままでは、増蔵親分も女掏摸もふたりとも悲惨なことになってしまう。そのとき、あの正吉が、ここ一番の、いかにも正吉らしい、大活躍をする。そのおかげで増蔵親分は助かったが、女掏摸は悲しい最期を遂げてしまった。増蔵の慟哭……

ほんとうに、「髪結い伊三次捕物余話」シリーズは、悲しい話が多い。お文の女中のおみつがめでたく弥八の嫁になったのはいいとして、その後に女中に来たおこなは、猫かわいがりしてくれていた亭主を失ってしまう。

お文の生みの母らしい人も出てくる。とてもりっぱな御隠居さんで、その息子も嫁も、よくできた人たちだ。事情があって赤ん坊のときに手放した娘を、病で余命幾ばくもなくなった今になって、探している。お文は、名乗り出ない。名乗り出ればいいのに。御隠居さんの夫は、お文の実の父親とは別人だが、とうに亡くなっている。遠慮する相手はもういないのに。

お文の実の母と父とが、仲を引き裂かれたとはいえ、つかのまでも、愛し合って暮らしていた、というのは、少しでも心慰められる話だけれど。

それにしても、江戸は火事が多い。森鴎外の『護持院原の敵討』に、二月七日、九日、十日、十一日、十二日と、毎日のように出火するので、敵討の旅に出る仕度もままならないようすが描かれている。護持院原は火除け地で、敵討と鷹狩りの名所だったらしい。そこで不破友之進や伊三次たちと、幻術使いの男とが、対決する。昔、テレビでやっていた、「妖術武芸帳」を思い出した。幻術の恐ろしさに後々まで脅え、それでいて、幻術使いの孤独にも思いを致す伊三次たちの姿は、やっぱり、「捕物余話」だな、と、ちょっと、ほっとする。

男の嫉妬が深川を火事にする。お文は、一旦は逃げたのに、実の母の形見を取りに戻ってしまう。

猛火の中に飛び込んでお文を助け出す伊三次。

でもね。ほんとうの、伊三次のここ一番は、その後なんだよ。

> 「茅場町の塒は狭めェが辛抱してくんな」
> 「こんな時に我儘なんざ言わないよ」
> 「すぐに、もちっとましな家を見つけるからよ」

いいなあ。でも、一応、お文は、言います。

> 「もっと前にその台詞、聞きたかったねえ」

ほんとうはね。お金がなくても、家が狭くても、一緒になってくれ、って言われるのを、いつも、今か今かと待っていたのさ。

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さらば、ふるさと

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『ねじまき鳥クロニクル』を読めばロッシーニの『泥棒かささぎ』を、『1Q84』を読めばヤナーチェクの『シンフォニエッタ』を、さらに、村上春樹の訳したレイモンド=チャンドラーの『リトル・シスター』を読めばレオンカヴァッロの『パリアッチ』を聴きたくなるように、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読むと、リストの『巡礼の年』を聴きたくなった。

で、『巡礼の年 第一年 スイス S160 8 郷愁 ル・マル・デュ・ペイ』を聴いてみると、ほんとうに、小説にぴったりな感じがする。この曲を弾いていた「ゆずき」の、高校時代から30歳になるまでの人生に、思いを致さないではいられない。言っても詮無いことだけれど、彼女が望んだように、獣医の道に進めば、違った人生が開けていたんじゃないか、と思う。みんなが、彼女は音楽のほうが似合っている、白雪姫みたいな美しくて優しい娘だから、と思って反対したのは、まちがっていた。30歳になった時、彼女の生命の輝きは既に失われていたという。彼女は20歳の時にたいへんな悲劇に襲われて、それが多崎つくるにも、死の淵を覗くほどの苦しみを与えることになった。

>「航行している船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出された」

>「デッキの明かりがどんどん遠ざかっていくのを眺めている。船上の誰も船客も船員も、僕が海に落ちたことを知らない」

でも、とにかく、つくるは、夜の海を泳ぎ切った。

36歳のつくるがたどりついた、フィンランドの夏の森と湖畔の別荘もまた、この曲に合う。そこに到ってやっと、ほんとうは何が起こったのかを語り合い、抱き合うことができた、つくるとえりにも、この曲は合う。

仲の良かった高校生のグループ、男3人、女2人。彼らは夏休みの課題のボランティア活動で知り合い、卒業までボランティアを続けた。子供たちのためにピアノを贈るという目標を立て、実現できたのは、ゆずきの意思に、みんなが協力したからだ。ゆずきは、けがしている犬や猫を助けずにはおれない性格だった。ピアノを演奏することよりも、子供にピアノを教えることのほうに才能があった。

それでも、えりや、よしおは、自分の進学先や就職先が向いていないとわかってから、方向転換に成功しているではないか? なぜ、ゆずきにはそれができなかったのか? 結局、弱かったから、何をやってもどこかでつまずいて、輝きを失ってしまったのではないか?そうだとしても、私自身、進学先が向いていないとわかってからうまく立ち直れなかった過去があるから、ゆずきのことが、とても身につまされる。

故郷というのは、山だの川だの街だのという空間じゃなくて、誰かと心をへだてなく分け合った時間のことなのかもしれない。つくるが、よしおの現在の職場を訪ねていくくだりは、ちょっとおもしろかった。応接室の家具や壁に掛けられた絵、受付の女性、よしおのいる個室の家具など、細かく描写するのは、チャンドラーそっくりだ。だが、マーロウの物語は、ちゃんと結末が付くが、多崎つくるの物語は、中途半端に終わる。愛する人を手に入れることができるのか、できないのか。

>「彼は心を静め、目を閉じて眠りについた。意識の最後尾の明かりが、遠ざかっていく最終の特急列車のように、徐々にスピードを増しながら小さくなり、夜の奥に吸い込まれて消えた。あとには白樺の木立を抜ける風の音だけが残った」

いくら、つくるが、駅をつくる仕事が好きだからって、ねえ。駅で寝るのが好きなわけじゃないだろうに。それでも、『郷愁 ル・マル・デュ・ペイ』にふさわしい終わり方ではある。

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紙の本波紋 新装版

2012/01/25 18:34

一歩先に「老い」と「死」を迎える友の姿に、小兵衛は……

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この『剣客商売』シリーズ第十三巻は、天明三年春の、桜の花が散りかける頃から始まっている。前の第十二巻第四話『十番斬り』の冒頭で、天明三年の年が明けて秋山小兵衛六十五歳、大治郎三十歳、おはると三冬は二十五歳、大治郎の一人息子で小兵衛の初孫でもある小太郎は数え年の二歳になったと述べられていた。小太郎は、この第十三巻第二話『波紋』で、間もなく満一歳になると述べられる。その頃には蛙が鳴いている。

史実では、既に天明の大飢饉が始まっていて、この年の前後数年間に何万人もの人が餓死する。前のほうの巻で、天候が不順であることや、田沼意次が進歩的開明的な政策をとっても、最も苦しんでいる農民を救うことができないので悩んでいる、というくだりがあったりしたが、その後、深刻な流民や疫病の話は出てきていない。江戸時代に大小の飢饉は何度もあり、一番有名なのが天明の大飢饉で、田沼意次が失脚したのも、『剣客商売』シリーズに登場する一橋家の陰謀や松平定信との確執だけでなく、大飢饉へ対処しきれなかったことが、背景にあると思えるのだが。

さて、第一話『消えた女』は、小兵衛の妻にして大治郎の母であったお貞が死んだ後、小兵衛が関係を持った女性にまつわる話である。小兵衛は彼女がなぜ黙って金を持って消えたのか、わからない。どうせなら有り金全部持って行けばよかったのにそうしなかった理由もわからない。そして、彼女と自分の娘かもしれないけどそれにしては年が合わない小娘が、目の前にいる。といっても、声をかけるには、距離がありすぎる。彼女は捕り物の囮に使われているのだ。危ないじゃないか、と気が気でない、小兵衛。

いつものようにスーパー老人小兵衛の活躍もあり、小娘のほんとうの父母が誰なのかもわかるが、それでもやっぱり、小兵衛は、愛した女がなぜ有り金全部持って消えなかったのかがわからない。でも、彼女は小兵衛を愛していたのだろうし、事情があったのだろうと、推測する。思いやる。蛙の鳴く声を聞きながら、黙って冷えた酒を飲む、小兵衛と弥七だった。

小兵衛って、年をとっても、「男」の部分が、ちっともなくならないなあ……。今更の感想だけど……。もっとも、おはるからは、子供を産ませろ、という不満の声も聞かれるから、たとえば、2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」の白河法皇などに比べると、やはり、もののけよりも仙人に近い。

そして、第十三巻第二話『波紋』である。秋山大治郎が路上で刺客に襲われ、もちろん撃退したが、敵は更に人数をふやして、道場を襲ってくる。これももちろん、三冬と協力して撃退する。このパターン、私の大好きなものである。今回は更に、心配してようすを見に来た小兵衛も協力した。なにしろ敵は弓矢も使うので、油断がならなかったのだ。

私は、もっと大治郎と三冬の活躍が見たいのだけど、『剣客商売』シリーズは、小兵衛が中心になる話の方が多い。そして、老人の述懐が多い。かつての弟子や友人知人が長い年月の間に転落してしまうことや、老いて貧しかったり、病にかかったり、鋭かった頭が衰えてきたりする、哀しみ、寂しさ、そんな話も多い。それでも全体に明るい雰囲気が残っているのは、軽妙な会話やユーモラスな場面がちりばめられていることと、やはり、小兵衛がスーパー老人で、しかも、そばにおはるがいてくれるから、なのだろう。なにも自家用運転手さながらに小舟を漕ぐだけじゃないのだ。武州の草加から野菜を売りにくる婆さんの身の上話を聞いたり、その婆さんはもしかしたら庭先ですれちがった男の母親かもしれないのに誰も気づかなくて、私なんか、ああー、親子の対面ができない、こんなんかわいそうや、あかんあかん、って思ってしまうのだが、それでもこの小説では、小兵衛が、冬より夏がいいと言うと、すかさず、

>「冬は炬燵があるものねえ」

と返したりする、おはるの明るさ、健康さが、全体の雰囲気を支えている。

第三話『剣士変貌』では、一介の剣士として生きているうちは剣の腕も人柄も良かった男が、道場主となったことが人間としての堕落のきっかけになり、ついには罪を犯すようになってしまっていた。一方、彼にねらわれた商人もまた、かつては穏やかな人柄だったのに、法律上はともかく道徳的には悪人に成り下がっていた。ちょっと成功したり、身内が死んだりという、それ自体は、いわば、ありふれた、あたりまえの出来事がきっかけで、人が(悪い方に)変わってしまうというのが、悲しくも、こわくもある。

第四話『敵』には、藩の財政の立て直しを請け負う「仕法家」というものが登場する。また、田沼意次が印旛沼の干拓や北海道の開拓に着手しようとしている、という記述もある。印旛沼の干拓は徳川吉宗も試みて、失敗した。この小説には出てこないが、田沼時代の後、水野忠邦も試みて失敗している。そして、意次の失脚は、この「干拓」の失敗の直後にやってくる。秋山小兵衛や大治郎や三冬たちにも、どんな運命の変化が訪れるか、私は心配でしようがない。

さて、『敵』では、財政手腕も人柄も優れた仕法家が暗殺されてしまう。田沼意次はこの事件を重く見ていた。秋山小兵衛と大治郎と、四谷の弥七たちが大活躍するのが楽しい。最後に、意次によって、徳川吉宗に関わる秘密が明かされる。意次は父の代に紀州から吉宗に率いられて江戸に来たから、こういう話も出来るのですね。しかし、結局、大きな政治的陰謀の話とかではなかったのは、ちょいと残念。

第五話『夕紅大川橋』では、小兵衛の親友内山文太の秘密が明かされる。それとともに、文太の「老い」が、小兵衛の胸をしめつける。そして、「死」。

小兵衛が、大川橋へ疾走していく。秋の日が沈もうとする頃、まだ大勢の人が行き交う大川橋で、小兵衛は、無頼者たちをたたきのめす。あっという間に走り去る小兵衛。人々は、天狗か、と噂する。

今まで、天狗になったり河童になったり、スーパー老人小兵衛は変幻自在に活躍してきたけれど、このラストは、遊びでもいたずらでもない。小兵衛もまた、「老い」と「死」の恐怖と孤独を実感したとき、もののけになるのだろうか。ほんの、いっときだけでも。

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紙の本狂乱 新装版

2012/01/08 15:29

曼珠沙華、散る

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

第一話『毒婦』で、小兵衛が羽織を頭からかぶって、暴れる酔っ払いを取り鎮める。それだけならただの気の利いた爺さんだが、気を失った酔っ払いを鐘ヶ淵まで連れてきて、知らぬ顔で介抱してしゃあしゃあと親切ごかしに身の上話を聞き出すところが、さすがのいたずら小僧的狸爺いである。

ところで、タイトルの毒婦とは、どんな女か。

>「……あの女の、どこがよかったのかのう。何人もの男が現(うつつ)をぬかすほどの美形でもなし、陰気で無口で、酒の相手にもなるまいし、抱いて寝たところで、つまらぬような……」
>「ですから、その陰気なところが、たまらねえのでございますよ、男には……」

ふむふむ。いるいる。よく、後宮もののドラマや小説に、いかにも寵愛を受けて当然と思える才色兼備の女性と、こういう、どこがいいのだかわからない女性とが登場し、しかも、最後には、どこがいいのだかわからない方が、最高の権力と財力を手にしたりする。この小説に登場する弁慶草は、ウェブで調べたところ、生命力が強いことからその名が付いたそうだ。だが、『毒婦』のヒロインは、とうとう、小兵衛に生きている姿を見せることなく終わってしまった。

小兵衛が、もはや、いつもの、といってもいい、述懐をする。おはるでさえ、肚の中で何を考えているのかわからないことがあると……。私としては、やっぱり、十七歳の娘に手を出したことに罪悪感があるのね、と突っ込みたいところだが、小兵衛に応えて、板前の長次もまた、妻のおもとに対して、同じ気持ちを抱くことがあるという。

>「女の嘘は男の嘘と、まったくちがうものらしいのう」
>「嘘を嘘ともおもわないのでございますからね」

そうかもしれないが、男を惑わすのは女の嘘じゃなくて、男自身の欲望じゃないの? と、私などは思うのだが……。

第二話『狐雨』はとても楽しくて大好きな話だ。『鬼平犯科帳』にも同じ題の話があり、両方とも、狐憑きが出て来る。どちらの作品でも、池波正太郎はなんて狐憑きを表現するのが上手なんだ、と思う。別に、ほんものをみたことがあるわけではないが、『剣客商売』の白狐のしゃべり方といい、狐が憑いたときの杉本又太郎の振舞いといい、絶妙である。弱い侍が急に強くなって悪者をやっつけるくだりが、小兵衛もまっさおの人間離れしたダイナミックさと漫画のような滑稽さで、胸がすき、抱腹絶倒だ。

現代の日本にこんな白狐がいてくれたら、オリンピックで金メダルがとれるぞ。それにしても、小兵衛が、道場の隅に何かいる、と気づくのは、さすがの狸爺いだ。ただに鋭いだけでなく、「両手に茶碗を抱くようにしながら、目を閉じ」て考えたあと、なんかわからないけど、又太郎が強くなればよいのだと、微笑んで受け入れる、この優しさと知恵。

そして、第三話『狂乱』も、小兵衛の優しさと知恵が発揮されるのだが、これは対照的に、とても悲しい話である。この話に出て来る、甚市と小兵衛との関係は、よく小説やドラマにある、幕末の人斬り以蔵と勝海舟との関係に、似ている気がする。武士としては一番低い身分で、剣術が抜群に強く、教養がなく、内面はとても傷つきやすく寂しい男が、周囲から軽んじられ嫌われ怖れられ、相手を斬るつもりで出かけて行ったところが、かえって、暖かい心と聡明な精神に触れて感化され、明るい道へ踏み出せそうになったのに、結局は、暗く悲惨な最期を迎えてしまう。ただ、甚市は小兵衛によって、おだやかで美しく、「童児(こども)のような」相貌にもどっただけ、幸せだったのだろうか。小兵衛が甚市に出会う前に語られる、皆から嫌われる曼珠沙華(彼岸花)を、小兵衛だけは何とも思わなかった、という話は、後から見れば、暗示的だった。

第四話『仁三郎の顔』は、傘徳こと傘屋の徳次郎や四谷の弥七が知っている仁三郎の顔と、秋山大治郎の見る喜三郎こと実は仁三郎の顔とが、正反対なのだ。大治郎に命を救われた喜三郎は、まったく善良な商人(あきんど)そのものだ。そして、大治郎が「仁三郎」の顔を見る直前に著者は筆を止めている。とても気になる終わり方だ。

第五話『女と男』には、第一話の『毒婦』ほどではないが、悪女に分類される女性が登場する。少なくとも、おはるにとっては悪女だ。なにしろ、小兵衛が彼女の色香に迷いそうになる、いや、おはるにはそう見えたのだ。事件が解決してから約一年後、彼女に再会したときの、おはるの態度。

>「あの女の首を切っちまうんですか?」
>おはるが目をかがやかせた。

一方、小兵衛のために袖無羽織を縫って持って来た三冬に対しては、

>「あれまあ、よく出来ましたよう」

この違い。かつての三冬への嫉妬は影も形も無い。そして、鐘ヶ淵の隠宅の奥の間で、小兵衛は、瀕死の床についている愛弟子を、おはるとともに看取り、庭先では三冬が、六人の曲者を迎え討つ。三冬が凄い。かっこいい。

第六話『秋の炬燵』で、そのときの三冬を見せたかったと、小兵衛が大治郎に言うと……。

>「見なくとも、わかります」

だいたい、大治郎は、第四話『仁三郎の顔』でも、三冬の好きなお菓子を買うために遠回りしたので、喜三郎こと仁三郎に会ったのだし、三冬が結婚してから髪が伸びて来ても女髷を結わずに垂らし髪を紫縮緬で包んでいるのを、三冬らしくていいと言ったりして、すっかり愛妻家だが、更に、この『秋の炬燵』では、三冬の料理の腕を小兵衛から尋ねられて……。

>「母上のお仕込みにて……」
>にやりと笑った大治郎へ、
>「こいつめ」
>と、小兵衛が睨んだ。

単に、「母上のお仕込みにて」と答えるだけでなく、「にやりと笑った」、この「にやり」が何よ、かつて、三冬が彼女より腕の立つ武士と試合をすることになり、今度こそ負けて嫁いでしまうと心配し落ち込み小兵衛にさんざんどやされた、あの意気地なしの内気な草食男子の童貞のウブな男が!!小兵衛でなくても睨むわ。

『秋の炬燵』では、手裏剣お秀が、第七巻第六話『越後屋騒ぎ』の小兵衛を彷彿とさせる活躍を見せる。だが、この話も、あの越後屋の事件と同じく、解決した後、関係者の子供たちがかわいそうだった。小兵衛も、秋なのに炬燵を出してくれとおはるに言うほど、寒さを感じる。不機嫌になった小兵衛に、黙って煙草を銀煙管につめて差し出す弥七。

小説の時間はゆっくり進んでいる。この第八巻は、安永十年改め天明元年(1781年)夏から秋までの出来事の話だった。『狂乱』と『女と男』で、小兵衛は、不運な男に、せめて満足のいく最期を迎えさせた。助産ならぬ、助死とでもいえようか。

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紙の本隠れ簔 新装版

2012/01/06 14:46

死ぬまで仕合せな勘違いができるようになりたい小兵衛

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『剣客商売』第一巻の書評で、私は、こう書いた。

>60歳間近で20歳になるかならずの女性と結婚するという……秋山小兵衛って、久米の仙人の「その後」みたいな暮らしをしている。これが15歳~18歳ぐらいの娘とそんな仲になったのなら、現代の法律では許されないということを別にしても、まず、全読者から、すけべ爺い、とののしられること必定である。19歳の心身ともに健康でかつ金持ちというほどでもないが経済的にも家族の愛情にも恵まれた家庭の娘が相手だから、おもに男の読者からうらやましがられ、女の読者からも許しを得ているのだ。

ああ、それなのに、それなのに、この『剣客商売』第七巻では、小兵衛は、おはるが十七歳で道場にやってきたときに、「手をつけた」と、なっているではないか。第一巻の記述と矛盾している。どういうことだ、すけべ爺い!!

と、言いたいところだが……。

第六巻が安永九年(1780年)秋~安永十年、天明元年(1781年)春の物語で、第七巻が安永十年、天明元年(1781年)春~夏の物語と、ここへきて、時間の進み具合が、ぐっと遅くなっている。なにしろ天明時代になれば、有名な大飢饉もあるし、田沼意次の失脚のときも近づいて来る。そうなれば、田沼家と関わりのある人々にもどんな不幸がもたらされるかわからない。だから、いたずら小僧的不良老人小兵衛を中心とする明るい世界を長引かせるために、このような書き換えをしたのだろう。(関係ないかもしれないけど……)

第一話『春愁』で、桜の花の盛りの頃、小兵衛は、かつての愛弟子の仇を討とうとする。しかし、その結果、かえって、愛弟子の裏切りに気づいてしまう。

>(ああ……わしも、いま、このとしになって、このようなことをおもい出そうとは……まだ、いかぬな。まだ、わしはだめな男よ)

遅桜の花びらをつまみあげたおはるに答える声も、沈んでいる。事件に関わった、二十年も親しくしている刀屋の孫助に、小兵衛は、人には誰でも「二つや三つは、他人のはかり知れぬ恐ろしいことがある」と、語った。

ちなみに、この刀屋の孫助は人相手相を見、小兵衛は九十歳過ぎまで生きる、という。何か、刀を扱う商売の人には霊感が働くという話が、江戸時代にあったのだろうか?宇江佐真理の『髪結い伊三次捕物余話』でも、刀剣骨董の店の主が、怪談じみた話を聞かせて伊三次をこわがらせていた。

第二話『徳どん、逃げろ』は、始めは愉快な話かと思った。小兵衛も、「こういうことがあるから、長生きをする甲斐もあるということよ」と言って、ひざを叩かんばかりにうれしがっている。

しかし、徳次郎にとっては、哀しい終わりを迎えた。こちらは裏切っていたのに、相手は真心を尽くしてくれた。小兵衛は、その真心を、「勘ちがい」によるものだという。

>「ごらんな。太閤・豊臣秀吉や、織田信長ほどの英雄でさえ、勘ちがいをしているではないか。なればこそ、あんな死にざまをすることになった。わしだってお前、若い女房なぞをこしらえたのはよいが、それも勘ちがいかも知れぬよ」

小兵衛、やはり、十七歳の娘に手を出したことに内心、罪悪感があるのか? いや、作者はそんなことは書いていないけれども。

第一話、第二話と、人の裏表がもたらす悲喜劇が続いた。小兵衛は、人には裏があるから醜いとか信じられないというのではなく、そういうものとして、受け入れていこうとしている。ときには、進んで騙されようとしているようだ。小兵衛のそういう態度は、ときにはずるいが、賢く、優しく、謙虚である。

第三話『隠れ蓑』では、「噎せ返るような新緑のにおい」がこもる夜、隠れ蓑の花が咲く頃、年老いた僧と盲目の浪人の二人連れを、大治郎と小兵衛が、襲撃から救う。この年老いた二人連れの後半生こそ、だまし続け、だまされ続けて、信頼と献身とに貫かれた、苦難と愛に満ちたものだった。一度被った隠れ蓑は、死ぬまで脱いではならない。一度騙されたら、信じたら、死ぬまで騙され続け、信じ続けるのが仕合せだ。だが、一方が死んだ後、残された者は、何をよすがに生きるのだろう。

つい、「永遠の嘘をついてくれ」という歌を思い出す。「永遠の嘘を聞きたい」男が、遠くにいる友に、「永遠の嘘をついてくれ」と呼びかけるのだ。「隠れ蓑」の二人が、寄り添っていられたのは、「失明」という奇禍があったればこそ、だった。誰かを信じ続けるためには、何も見ないのが一番いいのかもしれない。

第四話『梅雨の柚の花』と、第五話『大江戸ゆばり組』の冒頭で、飯田粂太郎に続く、秋山大治郎の二人目の弟子、笹野新五郎に関わる事件が起こる。飯田粂太郎は三冬の紹介だったが、笹野新五郎は田沼意次の用人の生島次郎太夫の紹介である。大治郎はよくよく田沼家と縁がある。

笹野新五郎の顔を初めて見たとき、笑いをこらえて袂で顔をおおって逃げ出したり、後で大治郎に叱られる前に自分から謝ったり、新五郎の世話を実の親以上に焼く生島次郎太夫を見て、かつては「この男は体に血が通うておるのか」と思ったが見直したと言ったりする、三冬。夫婦のやりとりもほほえましい。

五月雨がふりけむる昼下り(旧暦だから五月雨は梅雨の雨)、墓地に咲く白い五弁の可憐な花の名を「柚(ゆ)の花」とは知らぬまま、新五郎が「さびしげ」と感じたのは、自身の出生の秘密を知らぬ彼がその花のようだからか、新五郎が愛する人のたたずまいがその花のようだったからか……?

第五話『大江戸ゆばり組』で、小兵衛が河童になって悪者の鼻をちょんぎったのはまたまたいたずら小僧的不良老人の面目躍如だったが、その後日談では、酸いも甘いも噛み分けて枯れきったような絵師川野玉栄に、すっかりとぼけられてしゃっぽをぬいでいる。上には上がいるものだ、と思う。

『大江戸ゆばり組』に出て来る、囲い者になって手付金を取って一晩で手を切る方法というのは、他の作家の小説にもあった。やはり、江戸時代の文献に残っているのだろう。

『越後屋騒ぎ』では、小兵衛のすばらしいスーパー老人ぶりが堪能できてうれしいが、事件の関係者の子供たちがかわいそうだった。

『決闘・高田の馬場』でも、小兵衛のいたずらスーパー老人的大活躍が、特に「いたずら」が堪能できて、しかも、大治郎も「共演」し、三冬とおはるも衣装方で活躍し、これは、文句なく、楽しい話だった。

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紙の本天魔 新装版

2011/12/03 12:34

秋山小兵衛、おはるに瞠目する

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

>「や!!」
>と、小兵衛が瞠目し、
>「お前も知らぬのか」
>「知りませんよう」

この場面が好きで、漫画のように、目の玉が二倍ほどになって飛び出ている姿を想像してしまう。ここへくるまでに、『鰻坊主』『突発』『老僧狂乱』と、三話も引っ張る作者。もっとも、間に入っている『突発』には、問題のその言葉は出てこない。だから、『鰻坊主』の話が、秋山大治郎と佐々木三冬とが誘い合って秋山小兵衛のところへききに行こうとしている場面で終わってから、どう落ちがついたのか気になって仕方ない読者は、一旦、肩透かしをくわされる。

そもそもは、小兵衛の悪友小川宗哲が、健全(すぎるかもしれない?)秋山大治郎をからかう……つもりもなくて、当然、知っているだろうと思って、まじめな顔で「とんでもないこと」を言ったら、健全(すぎる!)大治郎にはわけがわからず、意味をききかえしてきたので、笑い出して教えなかったのがいけないのだ。だから、大治郎は、三冬にもきくし、三冬もわからないので、飯田粂太郎「少年」にまできく。(きくなよ!知ってたらどうするんだよ!)

作者は、実にうまい。小兵衛がおはるに瞠目する場面よりも前に、大治郎と三冬に問題のその言葉の意味を教える場面があり、そのくだりの最後に一行、おはるはいなかったと、書いてある。だから私も、もし、おはるがここにいたら、さぞかし、大笑いしただろうなあ、と、思った。実は私も、問題のその言葉の意味を知らなかったが、なんとなく、文脈から想像していた。しかし、大治郎と三冬は童貞で処女でウブだから想像もできなかった……、という、小説的表現なんだろうと思っていたら、おはるまでも知らなかったということは……小兵衛と宗哲が不良老人だからいけないのだ!ということになるではないか!

そして、後できっちり、大治郎は小兵衛に仕返しする。すなわち、『老僧狂乱』の終章で、小兵衛が、何々の食べすぎは、「よほどに心ノ臓へひびくと見える」と言うと、すかさず、
>「父上も、お気をつけなされますように」
大治郎、よく言った!

この『剣客商売』シリーズ第四巻『天魔』は、『雷神』の話から始まっている。前の第三巻『陽炎の男』の最終話が、『深川十万坪』で、おはるの、
>「あれ、雷(らい)さまだ。梅雨が明けるよう」
というせりふで終わっていた。その雷(らい)さまが、とんでもないいたずらをする。

前に、Jリーグで、雷がひどかった時に、審判の判断で試合を中断したことがあった。そのとき、こわくて地面に伏した選手もいたという。だから、剣の試合でも、危険を避けるために、中断したり、地面に伏したりするのが、正しいはずだ。小説での勝ち負けの決め方に、私は異論があるぞ。

人のいい弟子落合孫六が、お金のためになれあい試合をしてもいいですかと尋ねたとき、小兵衛が、簡単に許しちゃって、その話を聞いた大治郎が不機嫌になっちゃって、そこまでならこの親子の場合、普通だけど、途中から現れた三冬が、大治郎どのはどうなさったのですか、と小兵衛にきいて、小兵衛が、大治郎の顔色を読んでくれたか、と喜び、それを三冬が恥ずかしがるのが、いい!『陽炎の男』のときから更に、三冬の大治郎に対する恋心が深くなっている。

で、大治郎のほうはどうなのか。これまでの話で、友人として好ましく思っているのはわかるけど、恋人としての想いは無いのか?

シリーズ第一巻から、無外流三代の辻平内・喜摩太・平右衛門のように、妻子を持たずに剣の道に精進した剣客たちが、何人も登場している。大治郎もそういう生き方をするのか?それとも、小兵衛のように結婚して家庭を持つのか?

秋山小兵衛の場合、第一巻の嶋岡礼蔵の話から、大治郎の母とは恋愛結婚だったことがわかるが、おはるについては、彼女を妻に迎える前に「手をつけた」という、その「手をつける」っていうのって、どうも対等でない雰囲気がある。まあ、今、おはるが幸せだからいいけれども。

少なくとも、大治郎が三冬に対して「手をつける」ってのは、無理だと思うし、私も、そんな関わり方はしてほしくないわ。これは、結婚前にからだの関係を持つな、という意味ではなくて、それはいいけど、大治郎と三冬の間は、対等であってほしい。

妻子を持たないといっても、女性と関係を持ち、子供まで生まれていながら、全く顧みずに振り捨てて、まるで独身のように剣の道に打ちこむというのは、ただの自分勝手であり、利己主義である。そんなので修行と言えるのか?

それが、第二話『箱根細工』の話である。横川彦五郎は、良い師匠や友や弟子や隣人に恵まれ、礼儀正しく、潔く生きてきた。彼が生ませっぱなしにした息子は、父以外の人から剣を学び、父親に挑んで負けた。

その後の顛末を読むと、あのとき横川彦五郎は、なんとしてでも息子を追いかけてつかまえて鍛え直してやるべきだったのだ、あれは息子の方から父を訪ねてきてくれた、最後の和解のチャンスだったのにと、私は思う。

結局、大治郎が、父子ともども、死に立ち会うことになってしまった。それがせめてもの慰めだったと、横川彦五郎は言う。備前兼光の大刀を大治郎へ、波平安国の脇差を小兵衛へと、形見にする。こののち、小兵衛が波平安国の脇差を遣う話が幾つも語られて、藤原国助の大刀とともに、剣客秋山小兵衛の重要アイテムとなる。

大治郎は箱根細工をおみやげにした。「母上」こと、おはるに。これは、小兵衛とおはるとがいい夫婦になっていることを、認め、喜んでいると伝えるものじゃないかしら。だから、おはるは、涙ぐんだのでしょう。ここに来て大治郎も、小兵衛とおはるのような幸せな家庭を築きたいと思い始めたんじゃなくて?

第三話『夫婦浪人』は、けなげな男の一生の話だ。

>「弥五さん、御助勢」
と、小兵衛が言って助太刀に加わる場面が好きだ。それまでの小兵衛は、「女房浪人」の弥五七が、心変わりした「夫」と愁嘆場を繰り広げるのを、笑ったこともあったし、つきあってみて、彼の一途さに感心するものの、うんざりしたときもあった。だが、しまいに小兵衛は、誠実で勤勉で書と剣に優れた弥五七に、尊敬を抱くようになる。最後に、愛する人に去られ、ただひとりの友へと遺した手紙を、小兵衛が読んでいくときには、私も、じいんとした。

第四話『天魔』では、小兵衛と大治郎とが剣客として認め合う。第五話『約束金二十両』で、大治郎と三冬の仲が進展する。『陽炎の男』でも語られた三冬の妄想が更に過激になり、まことに健康である!そして、大治郎と一緒に老武士平内太兵衛との腕試しに出かけて行くが、ふたりとも、及ばない。上には上がいるものである。その後、太兵衛と小兵衛とが試合をする。小兵衛同様に小柄でやせた太兵衛に、もたれて昼寝する「憎々しいまでに」肥えた大きな赤猫や、何かと太兵衛の世話を焼く「物干しざおのような」小娘おもよが、おかしみとあたたかみをかもしだしている。

不良老人小兵衛は、おもよを鉄鍋で煮た大根みたいに太兵衛に食べさせて、「うまくてうまくて、たまらぬ気もちに」させたいようだが……。

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紙の本陽炎の男 新装版

2011/11/16 13:34

三冬にとっての「陽炎の男」

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『剣客商売一~剣客商売~』が、安永六年(1777年)十二月~安永七年(1778年)梅雨明けの頃、『剣客商売二~辻斬り~』が、安永七年(1778年)文月~安永八年(1779年)如月、そして、本作『剣客商売三~陽炎の男~』が、安永八年(1779年)三月~梅雨明けの頃までの話である。

安永八年二月下旬、将軍徳川家治の長男・家基が急死する。表題作『陽炎の男』は、それから二週間ほどたった、三月中頃に三冬の身に起こった異変を扱ったものである。三月といっても旧暦で、桜も散ってしまったと冒頭に書いてある。

秋山小兵衛は、前作『剣客商売二』で、鐘ヶ淵の隠宅が焼失し、未だ再建ならず、おはるとともに不二楼に寄宿している。相変わらず、いたずら小僧ならぬいたずら爺いで、不二楼の主人所有の、池大雅の絵に執心し、主人の弱みにつけこんで恩を着せて謝礼として手に入れている。このように『剣客商売』では田沼時代の実在の芸術家や作家の作品が短編のモチーフに使われるのも楽しみの一つで、前作『剣客商売二』では、鳥山石燕の〔画図百鬼夜行〕から小雨坊がフィーチャーされ、ために隠宅を焼かれてしまった。

『陽炎の男』で小兵衛は、三冬から異変を知らされると、大治郎に駆けつけるように割り振る。三冬の住む根岸の寮の下僕の嘉助も、そのほうがうれしそうである。だいじなお嬢様の危難に際して小兵衛のような(スケベ)爺いが駆けつけてくるよりも、若くたくましく独身の男性が来る方がいい、と思うのは、家族も同然の老僕の抱く親心というものだ。

家基の急死について、後になって、田沼意次が毒を盛ったなどという噂が流れたが、このときはまだそんな噂はなかった、と池波正太郎は述べている。かえって、意次自身も暗殺される危険があるとみなされて警固が厳しくなり、三冬も田沼邸に泊りこみ、江戸城への往復にも付添い、父を守った。娘ながら三冬、かっこいい。

山本周五郎の『栄花物語』でも、意次の若い側室が、意次を守るため、男装して鷹狩りに随行するくだりがあるが、彼女は武芸の心得が無いため、かえって敵に付け込まれ、意次の立場を困難にしてしまう。ドジ!と思ったものである。

その点、三冬は、『剣客商売一』の第一作『女武芸者』から、颯爽と登場し、強く、勇ましく、しかも……やっぱりドジを踏んで秋山小兵衛に助けられるけど、その御蔭で男性への愛に目覚め、やがて大治郎とも知り合えたのだから、いいとしよう。大治郎のことはまだ、ただの友達としか思っていないけど……。

初めは父意次に反発していた三冬も、小兵衛の御蔭で、だんだんと父を理解するようになり、父を守ることにかけては、ドジを踏まない。りっぱである。

『剣客商売』シリーズでは、三冬のファッションチェックも登場するたびに抜かりなく、季節ごとに、冬は薄紫の小袖と袴に黒縮緬の羽織、または黒の小袖と茶宇縞の袴にむらさき縮緬の頭巾を着用、夏は白麻の小袖に夏袴と、衣更えしているし、足元は冬でも夏でも素足に絹緒の草履である。

そして、本作の、『陽炎の男』では、春らしく、「若草色の小袖」である。髪も、いつもの若衆髷ではなく、

>洗い髪をうしろで束ね、紫の布をもって結んである。いつもよりは女らしい。

「若草色の小袖」も最初は下着も付けずに手を通して帯を巻きつけただけだった。どうしてそうなったかというと、入浴中に曲者が侵入したからで、曲者にとっては、

>全裸の若い女性が悲鳴もあげずに、むしろ、襲いかかるつもりの自分たちを迎え撃つかたちで飛びかかって来ようとは、おもいもかけぬことだったにちがいない。

仮に勇ましい女性が「迎え撃つかたちで飛びかかって」いったとしても三冬でなかったら違う意味だっただろうが、三冬だから文字通りの単純な意味で、曲者を撃退する。かっこいい!

とにかくかっこいい三冬が、この事件で、小兵衛から大治郎に愛の対象が移り、夢に現に妄想も抱くようになる。めでたい。

大治郎もだんだん小兵衛に似て来て、事件のたびに「秋山小太郎」だの「橋場弥七郎」だのと変名を使って潜入し、なかなか、芝居気たっぷりにやってのける。その調子で三冬に対しても、もうちょっと色気を出せ!

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紙の本剣客商売 新装版

2011/11/03 15:43

久米の仙人の「その後」の優雅な生活

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>「武芸はおこたらずに心がけ、ことに若者たちは別して出精すべきである。その余力をもって遊びごとをするのなら、別にさしとめるにはおよばぬ」

という、田沼意次が遺した家訓をもとに、池波正太郎が創り上げた田沼意次像が、『剣客商売』のバックボーンとなっている。なにしろ、第一作『女武芸者』のヒロインは、意次の妾腹の娘、三冬なのだ。彼女は、剣術の仕合をして勝った人に嫁ぐ、という条件を出している。

私が子供の頃、うちにあった赤穂浪士の講談本の『赤穂義士銘々伝』にも、そんな娘が登場した。彼女は薙刀で自分を打ち負かした男性と結婚し、夫が吉良家への討ち入りを果たした後、出家して貞女の鑑としての人生を全うした、という。

力比べや知恵比べに勝った人に嫁ぐヒロインは、世界中の昔話に存在し、有名どころはオペラ「ニーベルンゲンの歌」や「トゥーランドット」になっている。つまり、『剣客商売』は、人類の想像力の普遍的パターンにのっとって始まっているのである!

さて「女武芸者」の冒頭は、若くたくましい剣士がみそさざいを目で追っている場面である。これがとてもすがすがしい。すてきである。彼のもとに、立派な風采の侍が、ある人物の両腕の骨を折ってもらいたい、と依頼してくる。ここから謎が始まる。そして、青年剣士、秋山大五郎こそ、三冬の夫になるに違いない、と私は読者として当然の期待をするが……物語はそう簡単に昔話風大団円へ向かわない。

60歳間近で20歳になるかならずの女性と結婚するという……秋山小兵衛って、久米の仙人の「その後」みたいな暮らしをしている。これが15歳~18歳ぐらいの娘とそんな仲になったのなら、現代の法律では許されないということを別にしても、まず、全読者から、すけべ爺い、とののしられること必定である。19歳の心身ともに健康でかつ金持ちというほどでもないが経済的にも家族の愛情にも恵まれた家庭の娘が相手だから、おもに男の読者からうらやましがられ、女の読者からも許しを得ているのだ。それだけでも贅沢なのに、小兵衛はそのうえ、三冬からも熱烈な慕情を捧げられるようになってしまう。それは、三冬を打ち負かしたからではなく、三冬の危機を救ったからであった。ここが、昔話的パターンからの分岐点である。

おはるという実質的恋女房のいる小兵衛は、三冬に対して、照れながら祖父のような慈愛を注ぐ。その「照れ」方がまた、まだまだ枯れていないすけべ爺い的な照れ方で、それは男として優しいのかもしれないが、贅沢な爺いだ。

大五郎と三冬とは、知り合った後も、あっさりしていて、さわやかなスポーツ愛好青年男女の友情、といった雰囲気である。

小兵衛はなまえのとおりに小柄で、飄々として身軽に飛び回り、知恵があり、軽妙洒脱で、女性関係と食欲を別にすれば、まさに仙人のように活躍する。近くの川から家の庭まで水を引いてあって自分の持ち舟をおはるに漕がせて出かけて行く姿はとっても江戸的で優雅で機能的ですてきである。

一方、田沼意次もまた小柄とされているが、風采があがらず、威厳をとりつくろおうとせず、気さくな人物とされている。特に、意次毒殺未遂事件では、自分の家の御膳番が実行役にされていたことを知っても、問責も処罰もせず、御膳番の家族にも何も気づかせず不幸にならないように配慮するという、小兵衛も感服するほどの、肝の据わった、度量の大きい人物として描かれている。三冬も、初めは、赤ん坊のときに人手に渡し、十四歳ぐらいになってから正妻の怒りが溶けたからと本宅に戻し、今さらながら父だと名乗りを上げると言う、身勝手さへの反抗もあり、世間の評判どおりの悪徳賄賂政治家として、意次を嫌っていたが、小兵衛との交流が深まるにつれ、父への理解を深めていく。

田沼時代の江戸の風物や情緒もこの小説の楽しみである。よく中洲の料亭が出てくるが、佐藤雅美の小説を読んだ人は知っているが、中洲の歓楽街は田沼時代に繁栄し、田沼失脚後、松平定信によって撤去されるのだ。また、当時の料亭には、隠し部屋があったというのもおもしろい。その機能と目的はまさに現代の監視カメラの江戸時代版である。隠し部屋にひそんで悪者の企みに耳を澄まし悪者の顔を確認するのは、小兵衛の弟子にして四谷の御用聞きの親分弥七である。

『剣客商売』は、テレビで放映されたシリーズもおもしろかったが、小説を読むと、俳優とは違うイメージが湧いてくるので、私は、テレビで見た記憶は消しながら読むようにしている。

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紙の本たどりそこねた芭蕉の足跡

2011/08/28 11:18

働き蜂が一矢ならぬ一刺報いるまで

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表紙の絵は、大名の奥女中のような人が鏡に向かって口紅を塗る姿で、扉の絵は、紅花である。単行本の表題にもなっている短編『たどりそこねた芭蕉の足跡』に出てくる、尾花沢の紅花なのだろう。

>御大名の奥方などが唇に引く高価な口紅は一グラムをつくるのに紅餅三百個を要したというから、重さでいうなら純金よりも高いことになる。出羽村山地方中心部の北寄りの一帯は、そのまた北の最上地方と並ぶ紅餅の産地として知られていた。

八州廻りはそんなところまで行かないのに、桑山十兵衛は最上川をはさんで尾花沢の対岸にある柴橋まで行く。そこが幕府の代官所の北限だという。盗賊を追っているという口実を作っているが、実は芭蕉の「奥の細道」の跡を辿る、つまり勤務中なのに観光目的の旅であった。同時に、柴橋の代官所の手代の須田甚兵衛と話をするためでもあった。

前作『六地蔵河原の決闘』で十年ぶりに桑山十兵衛のもとに戻った娘八重は、今作では幸せな結婚をし(わずか15歳で!)、今作の桑山十兵衛は久しぶりに、家庭に後顧の憂いがない。それで、なにもあくせく働くばかりが能でない、上司への報告書は適当にごまかして、芭蕉の足跡を辿ろう、などと考えたのだが……結果的に口実が本当になって捕物をしてしまうのは、運がいいのか悪いのか、要領がいいのか悪いのか。

八州廻りは、評定所留役から指令を受け、そのもっと上には勘定奉行もいるが、身分としては、代官の手代・手付なのだという。手代は百姓町人から採用された人、手付は桑山十兵衛のように御家人で採用された人、らしい。八州廻りと異なる、本来の(?)代官所の手代手付は、年貢の収納など、行政の実務に携わっている。

今作では、桑山十兵衛は、代官川崎平右衛門から手代の小川万蔵とのトラブルを相談され、それが収録作品を貫く、裏のテーマとなっている。柴橋の須田甚兵衛もかつて川崎平右衛門のもとに勤めており、小川万蔵の先輩だった。

小川万蔵は先輩の須田甚兵衛と同じく、行政実務に優れていたが、三十年間仕えた川崎平右衛門に、1600両もの貸金があるという。そんな借金はないという川崎平右衛門と、小川万蔵の、どちらが正しいのか?

そして桑山十兵衛が携わる事件の端々に、小川万蔵の影が出没する。香具師と何やら関わりがあるらしい。

小川万蔵は代官の川崎平右衛門とだけでなく、香具師の親分の酒々井の茂左衛門ともトラブルを抱えていた。最後に小川万蔵は、「復讐」をする。八州廻り桑山十兵衛も、『花輪茂十郎の特技』のラストで、「復讐」というか、過激な「懲らしめ」をしたが、小川万蔵も、やられたらやり返す人間だった。百姓出身でも御家人出身でも関係なく、小川万蔵も桑山十兵衛と同質の人間だった。

江戸時代には、百姓や商人の出身で農政改革や大名家の財政改革に成功した人々がいるが、そのなかには一度は高い地位を得ても、後に失脚させられたり、非業の最期を遂げさせられたりする人もいる。そこまでいかなくても、代官所の手代のように、散々働かされるが武士としては最低の身分のままで報酬も少なかったりする。佐藤雅美は、そのような人が一矢報いる話を書きたかったのだと思う。ミツバチの働き蜂は針を刺すと二日ぐらいで死ぬらしい。小川万蔵は一刺ししてもなお、老後を楽しむ余裕はあったのだろう。

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紙の本花輪茂十郎の特技

2011/08/22 13:35

矢部彦五郎、桑山十兵衛、どちらも職場の「和」が難敵に

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新婚アツアツの桑山十兵衛のために、職場の上司が粋な計らいをして、半年間、内勤にしてくれた。ところが、代わりに廻村に出た、職場の古株が、このほうがからだにいいと喜んで、一年半も続ける。桑山十兵衛は贅沢にも、退屈だなあ、外回りに戻してほしいなあ、なんてつぶやいたから、ばちが当たった。

その退屈な内勤のときに、矢部彦五郎(のちの矢部駿河守、定謙)が、火盗改の不正を暴いた。かの長谷川平蔵は例外として、代々の火盗改は、台所事情が苦しいため、屋敷内で賭場を開かせて、アガリをカスっていた。

このシリーズの第一作『八州廻り桑山十兵衛』所収『密命』で、病みやつれてすさんだ顔の武士が、こう言っていた。

>「(略)われらは御役に取り立てられるとき、喧嘩口論はいたしません、博奕には手を出しませぬと誓紙血判する。それがあろうことか(略)、賽子博奕のテラをかすって負けを返す羽目になった。武士の風上にもおけない、などというものではない。犬畜生にも劣る。外道も外道だ。それは面にも出ていよう」

その「犬畜生にも劣る。外道も外道」なことを、役所ぐるみでしていたのだ。矢部彦五郎が、おとり捜査に使った部下もひっくるめて大量に検挙したことを、読者の私は称賛する。しかし、矢部彦五郎は、汚い手を使って同僚まで陥れたとして悪評がたち、それが後に、水野忠邦のもとで重い罰を受ける遠因に……なったのかどうかはわからない。この小説では、「祟り」にされている。

ちなみに、三浦周行著『大阪と堺』(岩波文庫、1984年)所収『町人の都』(大正六年)に、こう書かれている。

>かように底力のあった町人を相手に、侍の最も不得手とした貸金銀の訴訟などを沢山手に掛けるのであるから、大阪町奉行はよほど務めにくい地位であったが、(略)それだけ敏腕の能吏にとっては分担事務が定まって居た幕府の三奉行よりも仕事が面白かった。川路左衛門尉、矢部駿河守のごとき幕末の名士は、いずれも大坂町奉行から中央江戸町奉行や勘定奉行に栄転した(後略)

佐藤雅美は川路左衛門尉を主人公にした小説は書いているが、矢部駿河守に対しては、総じて扱いが冷たいような気がする。

桑山十兵衛は矢部彦五郎が火盗改の不正を暴いた事件に関連して、散逸した貴重書を現在の持ち主から返還させる役目を命じられる。こういう、資料の収集にまつわる話も私は好きなので、なかなか、おもしろかった。

その後、天罰覿面、桑山十兵衛が廻村に出ている間に、むかしの女が現れて、愛妻登勢が実家に帰ってしまう。そんな女がいたなんて、これまでのシリーズ四作品で全然語られていなかったので、読者としても裏切られた思いだ!むかしの女にまつわるごたごたはだんだん錯綜していき、桑山十兵衛は刺客に狙われる。当然の報いだ!登勢の父も、むかしの女とくの父も、桑山十兵衛が娘に会うのを嫌がる。当然だ!

それにしても、

>「できたら内輪揉めを起こさず、和気藹々でやっていきたい」

という職場の和至上主義が、不正や腐敗をはびこらせ、それに染まらぬ者を排除する。この点では、手堅く仕事をする桑山十兵衛の方を私は応援する。木崎の喜三郎のときもそうだったが、自分が狙われたら必ずやり返すのも。

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紙の本江戸からの恋飛脚

2011/08/19 15:24

リゾート地で出逢った怪盗淑女とのロマンス!

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まるで一昔前のUSAの映画に出てくる、洒落たおとなのロマンスのようだ。ケーリー=グラントやデボラ=カーやオードリー=ヘプバーンが演じる紳士淑女が豪華客船やスキー場で出逢い、恋と冒険と謎の物語が始まるように、

真冬の熱海で、三十歳代半ばで独身で日々の武芸の稽古で鍛え抜かれたからだ(!)の桑山十兵衛と、「歳のころ三十二、三、御用御側の奥方と思わせるに十分な、上品な顔立ちの婦人」登勢とが出逢い、

>奥方は足袋を脱いで裸足になり、襷がけして網引きの仲間にくわわる。

久米の仙人も、「大長今」のミンジョンホも、男は、水辺で裸足で遊ぶ美女に弱い。そして楽しくお食事なんかしちゃって……。

ところが、彼女は凄腕の詐欺師だった……?!

事件を知った上司に叱責されても、桑山十兵衛はにわかには信じられない。

>「いずれ、あばずれの莫連女に違いない」
>それは違う。莫連女なんかではない。

物語はその前、桑山十兵衛が構想した組合村が実現した文政十年から始まっている。稲刈りが終わって柿の色も紅葉も濃くなる頃、八州廻り桑山十兵衛の一行は、「神々しいばかりに美しい十と五、六あまりのお姫様」の噂を聞く。お姫様とお供は、その後も、桑山十兵衛たちの行く手にちらほらと出没し、娯楽の少ない田舎の人々はお姫様を将軍の御落胤に違いないと信じてお米やお金を貢ぎ、お姫様の一の家来がおもしろおかしく講談をするのを聴いて楽しんでおり、十兵衛は、悪質な詐欺として取り締まる必要はなさそうだと判断する。

登勢の実家は夷隅郡白旗村の、安房里見家の流れをくむ名家ということだが、現実には夷隅郡に白旗という村は存在しない。登勢は佐藤雅美が創り出した怪盗(?)淑女である。登勢を追いかけ、十兵衛は白旗村へまた江戸へと、東奔西走する。ときには強力なライバルが現れ、ときには登勢の甥を危難から救い、その甥と話をしているときに、自分のことしか考えない若者だと内心でののしるが、十兵衛だって、早く登勢の話をしろ、としか考えておらず、お互い様だ。

今作『江戸からの恋飛脚』でも、哀れな飯盛り女のエピソードは尽きない。五歳で売られた娘の話がある。数え五歳、満三歳半。

>半三郎はきよの父伊平次から五歳のきよをおそらく二束三文で買ったに違いなく、相応の鞘をとって水戸の惣兵衛に転売した。これという小娘を安く買って下女としてこき使いながら、身体に丸みがでて売り物になったら高く売って鞘を稼ぐ手合いがいるが、惣兵衛もその類に違いなく、きよを買って、またまた利右衛門に転売した……。半三郎も、惣兵衛も、利右衛門も、女の生き血を吸う人非人だが、飯盛奉公はお上が暗に認めている。証文さえととのっていれば、売ったり買ったりを誰も咎められない。

>「とにかくお前は、娘はすぐに大きくなる、大きくなったら、女だ、いかようの役にも立つといった。そして二両を受け取った」

現代でも児童虐待は後を絶たないが、その背景に貧困の問題がある場合も多い。江戸時代は、人身売買を書類操作によって合法的におこない、親たちは養育を放棄して収入を得た。売られた娘は、病にかかって早死にするか、生き延びて、「莫連女」になって、ときには生き血を吸う側に回るか、である。このシリーズの第二作『殺された道案内』で、木崎の色地蔵の歌を聴かせた老女は、卓越した三味線と唄の芸を磨いたから、そのどちらにもならずにすんだのだろう。

文政十年は将軍家斉の父一橋治済が亡くなった年でもあり、翌年、水戸の徳川家を斉昭が継ぐ。この物語は、その一年間の出来事である。「神々しいばかりに美しい十と五、六あまりのお姫様」は、ある藩の後継ぎの出生の秘密を巡るごたごたと関わりがあった。桑山十兵衛は上司の命令によって否応なくごたごたに巻き込まれ、しまいには大勢の敵に囲まれ、傷を負って馬で逃げ、一軒の家にたてこもり、火をかけられそうになり……。

桑山十兵衛にしろ、縮尻鏡三郎、新材木町の半次親分、それにあの居眠り紋蔵まで、美しくて聡明で色気と品があって気立てのいい女たちから愛される。主人公だからという点はさておき、腕が立つとか頭がいいとか度胸があるとか割と顔立ちもいいとかもあるが、やはりなんといっても彼らは、優しいのだ。身内からも行きずりの人間からも迷惑をかけられたり、損をしたり理不尽な目に遭ったり、怒りを呑みこみ、悔しさを噛みしめることもある。それも結局、優しいからである。それが、女たちに愛される、一番の理由だと思う。

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紙の本殺された道案内

2011/08/15 18:21

木崎音頭と北辰一刀流

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まるで白楽天の『琵琶行』のように、田舎の宿で老妓の名演名唱に酔いしれる。もっとも、『琵琶行』の老妓は、もとは吉原の花魁のような人だったが、桑山十兵衛が上州木崎宿で三味線と喉に耳を傾けたのは、越後の「蒲原郡から二八(十六)の歳に、一枚証文で売られてめえりました」飯盛り女のなれのはてである。たいていは二十歳そこそこで亡くなって宿屋の裏庭に埋められて石が一つ置かれて終わるが、彼女は七十歳近くなった今も矍鑠としていた。

そこまで生き抜いたからこそ、八州廻りに木崎の色地蔵の歌を聞かせてしんみりさせ、伊勢崎屋で虐待されているそめに、日光例幣使への駕籠訴をさせる。

老妓に心打たれながらも、十兵衛はこう言わざるを得ない。

>「この世がつづくかぎり困窮はつづく。こればかりはどうにもならぬ」

だが納得できるものではない!恐らく老妓は死ぬまで木崎の色地蔵を歌い続けるだろう。それは現代に「木崎音頭」として伝わっている。

桑山十兵衛はそめを連れて江戸に戻った。とりあえず、ひとりの女を苦界から救えたように見えたのだが……。

新進気鋭の剣術師範千葉周作が、上州の武士も百姓も嗜む馬庭念流の高弟たちを次々と倒して名を挙げていくが、それに対して反発も起こってくる。

同じ頃、忍・桑名・白河の三方領地替えが行われることになり、寺社奉行の水野左近将監(水野忠邦)が、忍藩の江戸留守居役に、白河の隠居の楽翁(松平定信)が転封を願い出たのだと、告げ口したという。桑名は先祖ゆかりの地だからというのは口実で、もっと豊かな土地に移りたいというのが本音らしい。

ここで例に引かれている文化十四年(1817)の唐津・浜松・棚倉の三方領地替えは浜松の殿様が百姓の女を強姦したことへの懲罰だったと述べられているが、徳川家斉を主人公にした小説『十五万両の代償』では、以前から老中になる資格を得るために転封を願い出ていた水野忠邦の希望も入れたのだと、佐藤雅美は書いている。

忍藩には、桑山十兵衛の親友の川村左兵衛と、左兵衛の妹初枝、その夫森本勘兵衛がいる。初枝と十兵衛とはかつて相思相愛だった。剣一筋の森本勘兵衛は転封騒動そっちのけで千葉周作のもとへ駆けつけ、初枝は愛想をつかして離縁し、桑山十兵衛のもとへ。ふたりはめでたく結ばれるかと思いきや……。

そめはいつの間にかまた飯盛り女をしているし、もとの主人の伊勢崎屋が追ってくるし、千葉周作と馬庭念流一派とは一触即発になり……まあ、最後は、なるようになった。それはいい。

私が許せないのは、僧順休の死の一件である。大名旗本から無理矢理に借金の連帯保証人にされた百姓が、返済を滞らせた殿様のせいで、理不尽に処罰される制度を、僧順休が目安箱に投書して改善を訴えようとする。

桑山十兵衛は、上司から順休に投書を諦めるように説得せよと命令される。だが十兵衛が説得に失敗したと上司に報告した後、投書の直前に順休が死んでしまう。十兵衛は不審に思って調べるが、最後には、上司に言いくるめられる。

ここで納得しないと、主人公が社会的身体的に抹殺されてシリーズが終わってしまうのだろう。一方で作者は、他のシリーズで、矢部定謙や大塩平八郎をモデルとしたと思われる人物が役所の不正を暴く時、野心的で同僚への仁義に欠ける人間としている。共同体の調和を乱す人物を否定的に描くだけでいいのか。内輪の馴れ合いを守るだけのえせ仁義が、たとえば、原子力発電の危険性を訴える同僚と議論して負けると私にも家族があるんだと言いわけする科学者を許容し、「原子力ムラ」を温存し、危険性を訴える人々を疎外したのではないのか。

韓国のドラマ「大長今」のチャングムは、どんなに困難に見舞われようとも志を貫くし、日本のドラマ「相棒」の杉下右京は、どんなに組織のなかで嫌われようと恨まれようと、正義を貫く。結果的に組織がその力で抑え込んでしまうことがあっても、杉下右京が心まで抑え込まれることはない。

それなのに、佐藤雅美の主人公は、90パーセントぐらいまではチャングムや杉下右京なみに抵抗するが力及ばず諦めるのはしかたないとしても、ときに、心まで、納得しようとする。納得するな!気持ちが悪くなる。

もっとも、居眠り紋蔵は、引き取って育てている子供を守るためなら、最後まで抵抗を貫いていた。それは気持ちが良かったが。

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紙の本老いらくの恋

2011/08/05 17:03

只野真葛は帳合米取引の夢を見るか

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>堂島川を隔てた中之島の川沿いに二千人におよぼうかという人があふれていて、熱気と雑踏と喧噪が渡辺橋の袂にいる九郎右衛門にまで伝わってくる。
(中略)
>シカゴの商品取引所には、十八世紀の中ごろ、日本の堂島というところで世界ではじめて先物取引がおこなわれたと掲示してあるそうだが、そのとおりで、江戸の中期に、中之島の堂島浜通りといった、青空が天井の堂島川沿いで、米の先物取引がおこなわれるようになった。

現代でも、穀物の騰貴が問題になっているが、それは江戸時代のわが日本で始まったらしい。それが青天井のもとでおこなわれていたとは知らなかった。

『縮尻鏡三郎』シリーズの今作『老いらくの恋』は、この米の先物取引、帳合米取引がテーマとなっている。時代は天保の改革の直前、天保の飢饉が始まった頃であろうか。寛政の改革の前に天明の飢饉が数年間続いていたように、天保の改革の前にも飢饉が数年間続いた。そして、飢饉になれば米が値上がりする。その頃、江戸でも、大坂には及ばないが尾張藩の屋敷と紀州藩の屋敷とで小規模な帳合米取引がおこなわれていた。同じ作者の『半次捕物控』シリーズの第一作『影帳』では、先発の尾張の米会所が物語の中心となっていた。この『縮尻鏡三郎』シリーズの『老いらくの恋』では収録作品中の『瞼の母』で、紀州藩の屋敷の米会所を舞台とし、勘助という青年を主人公にして、相場に臨む緊張感と高揚感、乾坤一擲の壮絶な戦いが描かれている。

しかし、『老いらくの恋』全体を通しての主人公は、老人といってもいい年頃の九郎右衛門で、なかなか飄々としたくわせものだが、根は潔い人物である。縮尻鏡三郎の飲み仲間のひとりとなり、また、親戚の子を預けられて、その子が知穂の世話で手習い塾に通うようにもなる。この九郎右衛門の親戚の子、六歳の新助がまた、なかなか、おもしろいガキである。母親が引き取りに来ても、帰るのはいやだと言う。どうせ長続きしないから、また新しい男を引っ張り込むから、と言う。深刻な育児放棄の事例だと思うのに、悲惨にならず、ぼーっとしているようでいて、実は度胸があって頭も鋭い。

知穂は、前作で、いい結婚相手が現れたのに悲しいことになってしまったが、彼の忘れ形見といってもいい女の子みつをひきとり、前々作でひきとった女の子せんとともに、幸い、すくすくとまっすぐ育っているようである。

そして、六歳の新助がキューピッドとなって、九郎右衛門の『老いらくの恋』が始まるのだが、恋の相手須藤妙子は、あの只野真葛(工藤綾子)がモデルとなっていることは明らかで、また、滝沢馬琴らしき人物湯沢鶏琴も登場する。史実の只野真葛は、儒教への批判を含み、競争を肯定し、フェミニズムの先駆ともいうべき斬新で独自な思想を綴った文章を、滝沢馬琴から徹底的に非難批判され、馬琴のしるした記録によると、晩年は憂鬱そうな顔で暮らしていたそうである。教養豊かで、「むかしばなし」という楽しい随筆を残し、佐藤雅美はじめ多くの作家たちにネタを提供してくれた女性が、そんな悲しい晩年を送ったなんて、残念でならない。尻の穴の小さい男だ、滝沢馬琴め!と、佐藤雅美も思ったのだろう。この小説の湯沢鶏琴(滝沢馬琴)は、須藤妙子(只野真葛、工藤綾子)の文章を読むうちに彼女にひかれ、あわてて自分の恋心を封じ込めるために、わざと意地悪したことになっている。どっちみち、鶏琴(馬琴)は馬鹿な糞親父だ。彼の作った物語はおもしろくとも。

傷ついた妙子を、九郎右衛門がさらって、大坂へつれていくことになる。良かった。作者の粋なはからいに拍手を送りたい。

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