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小梅さんのレビュー一覧

投稿者:小梅

4 件中 1 件~ 4 件を表示

あなたはあなたの言葉を語れ

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書で扱われるのは、コソボ空爆後のユーゴスラヴィアの現在である。内容は、徹底した現場からのルポルタージュである。日本においては、ユーゴスラヴィアのことなどほとんど報道されない中、事件が過ぎ去った後も継続的に地道な取材を続けるこのような仕事は、敬意を払うに値するだろう。どの立場の人に対しても、先入観を持たず、まず現地の人々の声を聞こうとする姿勢には、好感を覚える。ところが、長所でもあるこの点が、同時に本書の食い足りなさにもつながっているようにも感じられるのだ。それは、特に、事件の被害者となった人々へのインタビュー箇所だ。
 一番最初に出てくる行方不明者のエピソードは、衝撃的だ。民族の区別なく、兄弟のように仲良く育ってきたアルバニア人の親友が、セルビア人の息子を欺いてアルバニア系民族派組織コソボ解放軍(KLA)に引き渡したというのだ。両親は息子捜しに奔走するが、空爆後すべてがセルビア人に不利となった社会状況の中で息子の行方は杳として知れない。そればかりか、息子を引き渡したかつての親友は、両親に対してあざけるような言葉さえ述べたのだ。一家は、自宅からも追われ、貧しい難民生活を送っていると言う。
 兄弟のように育ってきた幼なじみの事さえ憎む、そんなことがありうるとは信じたくはない。「何故なのかわからない」と言う被害者側の両親の言葉を筆者はそのままに書く。だが、本当に「わからない」のだろうか。同じような幼なじみの殺し合いについては、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争を描いた映画『ボスニア』のテーマでもある。あまり信じたくないことではあるが、こうした出来事はユーゴ内戦において比較的多くあったケースなのではないかと思う。なぜそんなことが可能となったのか、理由らしい理由はないかもしれない。だが、そうした売り渡しの行為を行うまでの、背景や犯人の思考の過程を追うだけでもいい、そこにこそ、なにか描かれたことのない、一番重要な問題が孕まれているのではないか。まだ事件の渦中にある当事者が加害者の言い分を聞き、自分のまわりの大きな流れを含めて理解することはなかなか困難だろう。だが、取材に当たる側には、それができなくてはならない。当事者が語る以上のことを語れ、それが報道する側の使命だと思う。
 筆者の木村氏は非常に優しい人なのだと思う。だからだと思うが、被害者の言葉に振り回されすぎているきらいがある。他の政治家などへのインタビューでは距離を取り、聞くべき事を聞いているような印象を受けるが、事件の被害者となった人々に対しては、あまりに距離が近すぎる。当事者の言葉というのは、どうしても狭く、偏ったものになりがちだ。また、それは致し方のないことだ。だからこそ、取材する側の力量が問われる。被害者が語った以上のことを描きだすか、あるいは常日頃被害者が語っている以上の言葉をインタビューによって引き出すか、プロのジャーナリストに求められるのはそうした事柄だろう。
木村氏は自らの行っていることは、「情報を搾取する」と言うが、それはあまりに感傷的に過ぎる。筆者が四年間活動を追い続けた「コソボ国際行方不明者会議」の事務局長をつとめていた女性オリビラの言葉、「あなたの存在は解決の何の足しにもならなかった」、多分に八つ当たりのこの言葉に対しては、実利的な解決への方途を提供するのではなく、取材の成果として当事者には持ち得ない視座を提供することで応えるべきだろう。当事者たちには不可能な視座を提供すること、それが大きな救いとなることもある。歓迎されるとは限らないし、反発されることもあるだろう。だが、悲劇をただの悲劇として終わらせないために、それは何より必要なことなのだ。被害者の言葉を代弁するのではなく、筆者自身の言葉で出来事を語ることが出来れば、それは可能となるはずだ。

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近代的人間は終焉を迎えるのか?

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書で明らかにされたPR会社による国際世論操作は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争以降も止まることを知らない。ウクライナのいわゆる「オレンジ革命」や、イラク戦争でも深く関与していたと伝えられている。国内政治においてもアメリカ大統領選はもとより、日本の選挙でも各政党によるPR会社への依頼が始まっているという。
 本書の内容を、情報社会の裏舞台にあるもう一つの戦争を描いたと要約するのは容易い。だがその意味するところを深く考えると、深刻にならざるを得ない。なぜならば、ここに描かれた実態は、現代の民主主義を支える理念自体を揺るがすものだからだ。
 近代以降形成されてきた現在の民主主義は、一言で言えば「人間への信頼」に基づいている。根底にあるのは、人間は「正しい情報」を与えられれば、「正しい判断」ができるという理性的人間観である。この人間観自体がどこまで現実に沿ったものであるかどうかはさておいて、少なくとも、判断を任せるに値する程度の理性を持ち合わせているとの暗黙の了解があることは間違いない。
 本書に描かれるルーダーフィン社の戦術を見てみよう。たとえ正しくない情報であったとしても、同じ内容を繰り返しメディアに露出させることで世論に本当らしく強く印象づける。あるいはメディアに影響を及ぼす公正な観点を持つ人間を偏った人間であると非難のシャワーを浴びせることで、失脚に追い込む。ひとつのキーワードを連呼し、世論の関心をその一事に集中させる、など。こうした行為は、人間の「正しい判断」のための情報提供とはまったく異なる。むしろ判断以前のイメージや感情に働きかけ、判断する人間自体を操作するものである。形式としては、個々の人間が判断の主体性を保っているように見せかけながら、その実、人間は情報に踊らされる操作対象に過ぎなくなる。ここには、理性的人間観を支える「人間への信頼」はまったく見いだせない。むしろ人間への信頼は瓦解し、不信の種が世界にばらまかれることになる。
ルーダーフィン社が喧伝したセルビア人による強制収容所も国家的大量虐殺も今では存在しなかったことが明らかになっている。情報に踊らされた者、その情報のせいで空爆を受けたセルビア人、双方に拭いがたい不信を植え付けたことは間違いないにも関わらず、誰もこの情報の出所を裁くことはできないのだ。
そして、さらに驚いたのは、本書で情報社会の「死の商人」とまで指摘されたPR会社のルーダーフィン社が決して民主主義を軽んじているのではなく、むしろ自由と民主主義の信奉者であることだ。彼らは、社内の厳しい倫理審査委員会を経て、倫理的に問題がないと判断された依頼だけを受けているのだ。上記の強制収容所の情報もわざと誤報を流したのではない。彼らが「正しい」と信じたからこそ流したのだと言う。民主主義を土台から揺るがす動きが、自称「世界一の民主主義国家」で、自らを民主主義者であると信じ、倫理的でさえある者たちから出てくることは、皮肉としか言いようがない。
 絶望的でさえあるのは、こうした理性的人間観を内部から瓦解させるPR会社の活動を、民主主義をも内側から崩壊させるものであるとメディアも政治家も認識していないことだ。政治家に至っては、自らの政治的目的を達成するための便利なツールとしか思っていないようだ。
 フーコーが1966年に『言葉と物』で近代的人間の終焉を予言したとき、このような形で人間が解体されてゆくことを誰が予想し得ただろうか。近代的人間がどれほど欺瞞に満ち、それに基づく民主主義がどれほど愚かしくあったとしても、来たるべき新たな時代の人間像は、よりマシなものであると皆思っていたはずだ。このまま不信による亀裂を広げながら近代的人間は終焉を迎えるのだろうか。

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紙の本あかるたへ

2005/01/21 20:03

虚構の他者

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 水原紫苑の新作『あかるたへ』を手にしてみた。

 紫苑の歌は以前から好きではあったけれど、能や古語へ傾倒しはじめた頃から、耽美的な色調があまりに強くなりすぎて、前作は読む気もしなかった。
 今回、手に取ったのは、師の春日井健を亡くした後、紫苑がどこへ向かおうとするのか関心があったからだ。

 たましひの濃きあやふさを恃みにて朧月夜を素足にあゆむ

 秋好むこころは湖(うみ)の深みより生ける女人を呼びいだすかも

 雲隠かくれゆくらむ月の道 むらさき匂ふわれと成る道

 この人の歌は、美しすぎるのだ。
 言葉が美しいだけではなく、描かれるすべてが美しさに彩られ、淡い逆光に縁取られた一枚の画彩か何かを見せられているような気分になる。その表現の抽象性に圧倒されることはありながらも、結局は退屈してしまう。特に近著はその傾向が強かった。

 この歌集に収められた、一連の春日井健を偲ぶ歌は、好きだ。
 けれど、やはり美しすぎる。

 建すなはち倭おぐなの逝きませるさつきゆふやみあやめも知らず

 白鳥となりますならば虚空(おほぞら)は母なる刀自か闇ふかめゆく

 古事記には、倭建尊(ヤマトタケルノミコト)が死した後、白鳥となって飛び立ち、妻や子どもたちがその後を追った、という記述がある。
 古事記の中で、倭建の妻子らは、野に阻まれ、足を傷つけながら、白鳥となった倭建を追う。春日井健を倭建尊に見立てた上記の挽歌は、倭建の妻子らの倭建を求める激しさとは対照的に、一所に止まり、ただ神話を夢想し、空を見上げるだけだ。

 けれど、春日井健は神話ではなく、神など遠の昔に死に果てたこの時代、今を生きたのだ。それでもなお、虚構の神話に師を飾ろうとする、彼女の心は何なのか。

 膨張をつづくる宇宙ひらきゆく冬薔薇(さうび)いかに他者と逢ふべき

 戦争の世紀を越えてゆく水におのれを映し歌たらむとす


 和歌の本質は、古い意味での「相聞」にある、と私は思っている。「己」から「他者」への呼びかけ、これが和歌の魂だ。
 けれど、紫苑の歌には、他者がない。
 いや、おそらくそれは紫苑に限らない。現代は他者なき時代だ。紫苑は自覚的であるけれど、自覚さえないものの方が多いだろう。
 それゆえ、虚構の他者を設定せざるを得ない。
 神話、美、古き時代。
 あるいは「春日井健」という師自体も虚構の他者なのかもしれない。
 しかしそれはひとつの予定調和の物語に過ぎない。
 ここをどのようにして越えゆくことが出来るのか。
 短歌の未来は、そこにかかっているような気がする。

 少なくとも、今のライトヴァース(口語短歌・軽い内容が多いと私は理解している)の流れでは、短歌はその本源を失い、単なる五七五七七の形式に成り下がるだけだ。

 後書きによれば、紫苑は中部短歌会を離れたという。
 これから先、彼女は虚構の他者の世界を歌い続けるのか、あるいは、虚構を打ち崩す何かに出逢うのか。興味を持っている。


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紙の本幸せではないが、もういい

2003/02/07 13:24

「ただ一回きりの個別的な事態」としての生によせて

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 人は誰しも何らかの物語に依って生きている(こんな書き出し自体が既に「物語」の始まりである)。
 だが、どのような物語にも反発する人間もいる。それが自覚的なものであれ、無意識的なものであれ、あらゆる物語を剥ぎ取られた生は、時として、耐え難いほどに過酷である。
 その過酷さに比すれば、「およそ表現は、どんなものでもあまりに穏やかすぎる」。(138ページ)
 私には、本書の「主人公」であり、著者の母であるマリア・ハントケもそうした過酷さに晒された、そんな風に思えてならない。だが、「主人公」という言い方は、この「物語」に関しては、おそらく相応しくない。なぜなら、これは著者の母についての「物語」であることを徹底的に拒んだ作品であり、一方で〈書く者(こと)〉〈書かれる者(こと)〉とのせめぎ合いの記録であるからだ(本書訳者による「後書き」参照のこと。「言葉をめぐるその戦い」)。 作品の最後に浮かび上がるのは、よくある(マリア・ハントケという人物をめぐる)人生物語ではなく、書くことに晒された著者自らの姿である。

 「ただ一回きりの個別的な事態」(113ページ)としての生は、人が何者でもない場である。あらゆる「タイプ論」「物語」から解放されれば、本来的な自分の姿が見つかるというのは幻想に過ぎない。何者かであるためには、自らを定置する何かしらの土台を必要とする。真に「個性的」であることは、自らを定置する基礎さえ失うことである。それは、「ただ単に存在していること、それが拷問に等しい苦痛」(123ページ)であるような場である。おそらく、マリア・ハントケはこのことに自覚的ではなかっただろう。著者であるペーター・ハントケが充分に自覚的であるのとは対照的に。
 いずれにせよ、剥き出しとなった存在は、他人に仮借なく「生身の姿」を突きつける。「いま彼女はまさに生身の姿で、私に迫ってきた。彼女は、肉体をもった、なまなましい存在になり、彼女の状態は、私が何度も瞬間的にそれに引き込まれるほど、具体的に経験できるものとなったのだ」。
 ここで著者は、「母」としてのマリアではなく、あらゆる物語から排除された/物語を排除した生身の存在であるマリアに遭遇する。彼女は、もはや〈何者でもない〉何者かであり、周囲に対しても物語に亀裂を走らせるよう、存在そのものを突きつける。存在の不可解さ。この生が存立する世界の不安定さ。マリアはその不可解さ・不安定さに耐えられず、自死を遂げる。

 一方で、表現を志すものには、この地点は「書きたいという欲求」が生起する場所でもある。
 その欲求に従い、ハントケは言葉を記す。ページが進むに連れ、文章は断片的となり、まとまりのある形態を保ち得なくなる。対象が「ただ一回きりの個別的な事態」としての生であればあるほど、それを書き記す作業は困難を極める。この作品とてそれを免れるものではない。
 言葉は、生身の存在を過不足なく描写するに適したものではない。もし、その営為に何かの意味があるのかと問われれば、言葉の困難さと格闘する、無意味さこそが今日の〈文学〉の本質なのだと応えるしかない(仮に〈文学〉が存在するとすれば)。
 生身の存在の不安定さに晒されながら、書くことに誘われる、この困難さを引き受けることだけが〈書くこと〉を表現たらしめるのである(このとき、私はこの書かれたものを抵抗なく〈文学〉と呼ぶだろう。同様の理由で、『空爆下のユーゴスラビアで』もまさしく〈文学〉的な著書である。政治的なタイトルとは裏腹に、その言葉は政治的な言葉とは全く異なるものである。著者の〈書くこと〉に向かう姿勢は、1972年に書かれた本書の時から一貫している)。

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