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  3. ちひさんのレビュー一覧

ちひさんのレビュー一覧

投稿者:ちひ

156 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本他人を見下す若者たち

2006/09/04 01:21

若者をなげく年長者たち

18人中、18人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 はたして今の「若者」が本当に他人を見下しているのかどうかが気になって本書を手に取り読み出したわけだが、冒頭からいきなり「実はこの著者が若者を見下しているのでは?」ということが気になってしまう。
 他人を見下す行為は他人を決めつける立場から開始される。なぜなら、相手が自分より低いと「決定」しなければ見下すことができないからである。そしてこの著者は科学的とは到底言えない「データ」をもとに若者や子どもの傾向を「決定」し、それから安心して、「最近の若者の傾向にはほとほと困った困った」という趣旨でぼやく。しかしその内容は何も「現在」の「若者」や「子ども」にのみあてはまることではなく、「過去」の時代の若者や子どもたちにも、そして著者の態度を例に引くまでもなく、現在の、かなり年長で、いろんな意味で模範を示さなければならないかもしれない人たちの中にも容易にあてはまる人が多い、そういう傾向であると思うのだ。
 それなのになぜ著者は問題を矮小化し、現在の若者にのみタイトルのような問題があるかのように語ってしまうのだろう。若者は若者たちだけで若者になり得るものなのか?
 古今東西、世代と世代との間には広くて深い価値観のミゾが走っているものなのではなかろうか。どの世代も若いときには老人から「最近の若いモンは‥‥」と嘆かれるものなのではなかろうか。その証拠として採用できるかどうかわからないが、古代の遺跡から発掘された「くさび形文字」で書かれた文章の中にも「最近の若者はなっとらん」的に書かれているのだそうである。(「最近の学生はちっとも勉強しない」という嘆きも不滅らしい。勉強する学生・しない学生、ともに昔からそれぞれ大量にいたということなのだろうか。)
 ‥‥この本は、そのような、上の世代が下の世代をわけもなく嘆く、そういう文章の一つであるように思えてならない。

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紙の本

紙の本靖国問題

2005/10/21 00:06

靖国神社は一習俗ではなく一宗教です。

19人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 靖国神社国家護持問題や国家による追悼施設建設問題の入門書。
 東西両本願寺が靖国神社や政教分離の問題などについて、今までずっと口を酸っぱくして主張し続けてきた内容をそのまま、宗教者ではなくごくフツウの哲学者・ごく普通の論客が、ついにまったく同じ内容・同じ主張・同じ目的をもって語り始めた。そういう意味では非常に画期的な書である。逆に言えば内容的に目新しいことはあんまりないということかもしれないが、とてもよくまとまっている。
 いわゆる靖国神社国家護持派が主張する内容に対しては、感情的にも論理的にも、きっちり反論することができるし、完膚無きまでに論破することができる。それをあらためて白日の下に晒してくれていると思う。
 政教分離は憲法に定められているから従わなければならないというものではない。歴史や他の国家での政教一致がどんな悲劇をもたらしたか・もたらしているか・もたらしつつあるかを眺めれば、政教はすべからく分離されるべきであることがわかる。でも「一般大衆」の目に見えた右傾化が激しい昨今なので、こういう内容でも「サヨク的」と思われたりしてしまうんだろうか。だとしたら淋しいことである。
 (余談。毎年夏に東西両本願寺の有志が河原町界隈で「非戦・平和」をキィワードにデモ行進している。そのメンバの一人が「高橋哲哉の『靖国問題』には今までわたしたちが言ってきたことがまったくそのまま書かれている。すごくよく読まれていると聞く。わたしたちの本はまったく読まれてこなかったのに。本当にそのままなのになあ!」的なことを言っているのを聞いた。嬉しがってるのか悔しがってるのかよくわからなかったが、たぶん両方なのだろう。)

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紙の本

紙の本国家の品格

2006/09/04 01:03

文章のうまさに酔わされるたびに内容を鵜呑みにしていたのでは身がもたない。

17人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いまに至るまで、世界には強者が弱者を虐げてきた歴史が厳然と存在している。その過程において、虐げられた側には様々な不幸や様々の苦渋があった。ちなみに私は日本が大好きだ。そんな私は提言する。これから日本人は確信を持って日本が世界の強者たらんと努力邁進していくべきであり、(そして、これまでの歴史とまったく同じ轍を踏んで)世界をリードし、強者として君臨していくべきなのである‥‥。
 飽きのこない文章で綴られた非常に楽しい一冊ながら、内容をかいつまんで要約するとこのようなことにしかならない。ただ部分的には本当に楽しく読める。「楽しく読めたから良い本だ」とは必ずしも言えない、そのことをとてもよくわからせてくれるという意味では非常に素晴らしい本である。
 無知と偏見と誤解に礎をおいた「論理」を文章の勢いだけで読ませようとするのだが、矛盾や誤謬に気付けば頭の中が「?」でいっぱいになりそのまま読み進めることは苦痛にならざるを得ない。しかし「すべてを是とは受容せず批判的に読み、わたしとの議論を楽しんで欲しい」という著者の真のメッセージを読み取ることができた気がしたので苦痛にも何とか耐えられたのだろう。逆に、文章の表面的な勢いに完全にやられてしまうと、何の批判もなく、最初から最後まで楽しいだけで読み終えることもできてしまう、らしい。
 本をけなしておいて言うのも変な気がするが、しかし著者の語り口のなめらかさとウィット、洒落っ気には驚かされた。これは著者が新田次郎氏とあの名著中の名著『流れる星は生きている』の藤原てい氏との間の息子として二氏の薫陶を受けた結果なのだろうか。(しかし文章のうまさに酔わされるたびに内容を鵜呑みにしていたのでは身がもたない。)
 この本は大ベストセラーになった。つまり多くの人が非常に楽しみながらこの本を読み終えたはずである。なお、著者の「論理」にしたがえば大衆の大多数は愚か者であることになる。その事実を重く重く受け止めたい。

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紙の本

紙の本2円で刑務所、5億で執行猶予

2010/02/08 05:09

懲罰では更正できない。

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本にデータを挙げて紹介されている事実の一端は以下のようなものである。
 
◇少年犯罪は増加傾向にない
◇団塊の世代の周辺人口の犯罪は増加傾向にある
◇「割れ窓理論」は拡大解釈しない方がよさそうだ
◇「スケアード・ストレイト」は再犯率を高めた
◇「ブートキャンプ」はそれほど効果的ではない
◇怒りをコントロールするプログラムがある
◇犯罪防止にまつわるショック療法には副作用が多い
 
 法務省等が集めた公式な・信頼できるデータを精査すると、マスコミが煽るほどに少年犯罪は増加傾向にない。逆に犯罪数が増加傾向にあるのはいわゆる「団塊の世代」、戦後生まれの世代においてである。また、明治以降の近代日本でいちばん犯罪が多かったのは、わたしたちがノスタルジックに振り返りたがる昭和30年代であった。
 
 外国から輸入される「割れ窓理論」や「ブートキャンプ療法」が万能ではないのは、冷静にデータを読めばすぐにわかる。また「スケアード・ストレイト」(交通事故防止ではなく犯罪防止の方)など、犯罪防止にまつわるショック療法には一時的な効果があっても、根本的で持続的な効果は認められない場合が少なくない。
 
 なお、犯罪を防止するために「懲罰」を与えるのは逆効果である。そんなふうに痛めつけることに重きを置くよりは、更正を促すプログラムを充実させた方がより効果的だしコストパフォーマンスも良い。
 
 「誤解を恐れず大胆に要約すると、犯罪者が立ち直るためには、その人を立ち直らせたいという思いを強く持った人との出会いや関係性が重要であり、その関係性を通して、自分が社会にとって役に立つ人間であるという自己イメージを持つことができたときに、人は立ち直ることができる」
 
 「北風と太陽」みたいな話だ、ということだろうか。
 
 浄土真宗本願寺派の機関誌である『宗報』の2009年11・12月号に掲載された「治安悪化の真実と厳罰化の意味」は、この本の内容をまとめたものである。そこにはこうある。
 
 「人は社会とつながらずに生きていくことはできない。刑罰後の更正には社会とのつながりを取り戻すことが不可欠であるが、社会的制裁を含む厳罰は、社会とのつながりを断ち切ってしまう。当然、これによって刑罰後の再犯が助長される。厳罰化は、刑罰と社会的制裁の微妙なバランスを崩し、更正の道を絶つことで再犯を促進している。」
 
 「事実は小説よりも奇なり」と言われるが、この本には逆に淡々と「事実はそれほど劇的でもなければ面白くもない」という事実が書かれている。だからあまり顧られていないようだが、もったいない。大変に建設的な内容である。

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紙の本

紙の本ジャーナリズム崩壊

2008/09/12 02:53

ジャーナリズムから批判精神を取ったら、何も残らない。

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 タイトルから、「日本のジャーナリズムはここまで崩壊している!」という嘆き節が展開されているものと思って読み始め、‥‥予想は少し裏切られた。
 
 日本の新聞社が実質的には海外で言う「通信社」や「政府公報」的な活動ばかり熱心にしていること、「記者クラブ」が「負の世界遺産」に登録申請可能なのでは?と思えるほど閉鎖的・排他的であること、記者の目線が庶民から離れ「あちら側」になりがちなこと、NHKの記者になるには政治家の推薦状を持っているのが有力なコネとして働くこと、不偏不党で客観的な報道など人間には不可能である事実を日本の各メディアが無視し続けていることなど、現状での多くの問題点が指摘されている。
 
 つまり「崩壊している」の意味合いが違っていた。「昔はまともだったが今は崩壊している」という指摘ではなく、「現状ここまで崩壊している、でもこれは最近のことではない。ここ数十年ずーっとこんな感じである。」という、崩壊の開始ではなく継続が指摘されているのである。
 
 おもな「崩壊」ターゲットは新聞であるが、NHKその他TVもひどい。宮内庁関連の「報道」が完璧に横並びなのがジャーナリズムとして如何に異常事態であるのかがよくわかった。また国内政治に関する報道内容が各メディアまったく同一である理由もよくわかった。‥‥逆に言えば、日本のジャーナリズムは一体何をしているのか、これで本当にジャーナリズムを名乗っていていいのか、まったくもって、よくわからなくなって来る。
 
 指摘されてみれば、大新聞やTVでいっせいに同じ報道がなされるのは非常に不思議なことなのである。また、記事の引用元を明示せず「一部週刊誌によると」や「‥‥であることがわかった。」などと言ってぼかし、読者を意図的に一次ソースから遠ざけてはいけない。そう、言われてみれば指摘される通りだ。今までなぜ気にせずに新聞を読めていたのか不思議でならない。
 
 要するに、盗作・剽窃・カンニングが日常的にすぎる現状が最大の問題であるのだろうと思う。
 
 報道を鵜呑みにするなどとんでもない。批判精神を持たない不健全な日本のジャーナリズムと付き合うには、ジャーナリズムが忘却の彼方にやってしまった批判精神をこちらが自覚的にもって臨むしかない。

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紙の本

希代の漫画家サイバラが語る「カネ」の話。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 西原氏には、かつて隔週刊の麻雀マンガ雑誌に連載された『まあじゃんほうろうき』という作品がある。賭け事が禁止されているはずの日本で、堂々と賭け麻雀をやり、堂々と負け(というか読んでいるこちらが本気で心配するほど負け続ける)、その顛末を堂々とマンガでおもしろおかしく紹介する。笑えない水準の負けこそが強烈なネタとなる。「他人の不幸は蜜の味」という言葉があるが、まさにアレなのか。わけがわからないくらい笑える。絵は汚い。字もうまくない。言葉使いも下品。やってることも格好悪い。でも激烈に面白い。
 
 タイトルだけは『麻雀放浪記』のパロディだが共通項は「賭け麻雀」だけである。でもカネを軸に人生を「麻雀」で「放浪」する西原氏の「記」録であるのは間違いなかった。
 
 その後、氏に『ちくろ幼稚園』というマンガがあるのを知り、読んだ。可愛らしい絵なのにえげつない。でも温かい。「ただ者ではない」と思った。やがて氏の最高傑作とも言われる『ぼくんち』にも出遇えた。
 
 一連の作品を眺めて不思議に思う。「この人、何なんだろう? なぜこんなふうに描けるのだろう? 冷めた中に底知れぬ暖かさがある、この心地よい違和感は一体なに?」
 
 その謎がこの本を読むことで氷解していった。最貧層を描いた『ぼくんち』は氏にとって他人事の世界ではなかった。なるほど、人は環境とその人のポテンシャルの相乗効果によって作られていくものなのだ。
 
 西原氏の底知れぬ魅力が裏打ちされる本である。かつ、カネとの付き合い方・スタンスの取り方、職業その他について考えるために、幅広く意義のある一冊。

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紙の本

メディアが捏造する「霊」の幻想世界

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 帯には「斬り捨て御免! 江原さん、細木さんから、ユリゲラー、FBI超能力捜査官まで 新進気鋭の宗教社会学者がブッタ斬る!」とある。しかし著者みずからがブッタ斬るわけではない。著者は、読者が彼ら「テレビ霊能者」をブッタ斬るために必要十分な情報を提供してくれている。
 
 江原啓之・細木数子という大物は第1・2章で徹底検証。ユリ・ゲラーや宜保愛子、丹波哲郎などの単発系は第3章で「テレビ霊能者クロニクル」と題し俯瞰する。第4章では日本人の宗教性を分析し、今後を展望する。
 
 大学で若者を相手に講師をされているからか、文章は論理的でありつつ平易で読みやすい。各章の終わりにいちおう「まとめ」があるのも親切である。
 
 また、「テレビ霊能者」たちから似非[えせ]の「癒し」をもらっている人にはちょっとした目覚めの機会を提供してもくれるだろう。入門的であり、わかりやすいと思う。

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紙の本

すこし、ほめすぎ。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ある場所で著者が会社の経営について講演したとき、前段として、ある会社の実際を紹介したところ、会場で聞いていたほぼ全員が心を打たれて泣いてしまったそうである。それを偶然聞いていた編集者が尽力して出来た本らしい。
 
 すばらしい経営理念にもとづいて経営されているすばらしい会社はたくさんある。著者はそのような会社のどこがどのようにすばらしいのかを分析、分類して、全国のいろいろな業種のいろいろな会社を、ワンマン社長にべったりするでもなく、変な理想論に堕すでもなく、感情的な水準で「それいいなあ!」と思える具体的なエピソード満載で紹介してくれる。
 
 おそらくどんな会社にも誇るべき要素や他の追随を許さない理念などはあるのだろうと思う。しかしそれらが創業者の独断や、社内でのみ通じる独りよがりなマイナスを完全に払拭したものであることは、実は非常に稀なことであるのかもしれない。
 
 わたしの家の近所の本屋さんでは、超地元のお菓子屋さんが紹介されているせいもあってか、一時期とても目立つ位置に平積みになってたくさん売られていた。紹介されているのは「柳月」[りゅうげつ]。地元のお菓子屋さんで最初に全国区になったのは「六花亭」[ろっかてい]だが、どちらのお菓子も大変おいしい。地元にはそれ以外にも美味しいお菓子屋さんがたくさんある。お菓子屋さんだけじゃない。いろんな会社がある。地元だけじゃない。日本中に、世界中にいろんな会社がある。
 
 紹介されている会社に限らず、みんながんばってるんだろうな。どんな会社にも・どんな従業員にも、誇るべき何か、輝いている何かがきっとあるんだろうな。あってほしいな。
 
 ‥‥そんな気分にさせてくれる。
 
 若干「ほめすぎ」の嫌いがあったり、著者の独断と偏見に充ち満ちている感もありすぎたりするが、すごく潔い。まあ、いいんではないだろうか。

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紙の本

紙の本お坊さんが困る仏教の話

2008/02/12 20:51

お坊さんが困る仏教ではない話

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 主な主題は戒名とお経である。戒名が仏教徒としての名前(クリスチャンネームならぬブディストネーム)であることを認識しつつ、現代はもはや戒が成立しないから戒名など無意味だと結論づけたうえで(法名も同じ扱いを受ける)、戒名について大変くわしく解説する。また、大乗仏教は非仏説であるとの説を肯定的になぞった上で、それでも大乗のお経は敬うべきだと言う。混乱している。
 
 たくさんのテーマを、調査も理解も不十分なまま中途半端に扱い、オチだけつけて放り出している。結論としては〈仏教は葬式だけやっていれば良いのです〉と言っているに過ぎない。仏教語の解説も、正しいものもあるが、知識が不完全で空回りしたり偏ったり独りよがりであったり単純に間違ったりしているものも多くある。(地の文で自明的に扱われている言葉がかえって危ない。)
 
 仏教が人にもたらすのは、癒しよりも、圧倒的に救いである。この本のように自身の救いを問題にしない場所から仏教をどれだけ調査して語っても知識的な一時の癒しにしかならない。それでは意味がないのだ。
 つまり、この本は、カルチャセンタ的に表層的な知識にとらわれ、仏教が何を目的にしているのかを見誤った地点に立ち、知識的欲求から仏教を理解し尽くすことが可能だと勘違いしている典型的な野狐禅の書、と言える。
 
 「縁なき衆生」は一人でやれば良いのに、本を書いて仲間を作ろうとしているのがいただけない。竹内靖雄『〈脱〉宗教のすすめ』(PHP新書、2000年)なみにひどい。どこがどう事実と違うのか指摘するのも徒労と思える。往生と成仏をまったく理解していない・理解する気もない著者が仏教を語ることなど不可能である。それでも知識欲を刺激する作りになっているから、仏教をよく知らない読者の中には引きずられて間違ってしまう人も出るだろう。そうなると、その人の往生・成仏も叶わない。
 
 こんな悪書が世に出たのは、われわれ「お坊さん」が現状を憂えつつも、抜本的な対策を講じることができず、仏教を説いていないからである。仏教に対する誤解と無理解がここまで進んでしまったのは誰のせいか。われわれ「お坊さん」は、今まさに猛省を促されている。
 
 そういう意味ではたしかにお坊さんが困る本ではあるが、この本は仏教の話ではない。

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紙の本

なりたくてギャンブル依存症になる人はいない。依存症の実態は想像を遙かに超えてすさまじいが、しかし、生還は可能である。本人も、周囲のひとも、ともに勇気を得て、はじめの一歩を踏み出すことの出来る本。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本に登場するギャンブル依存症の人の実に9割がパチンコ・スロットがらみである。法的にはギャンブルではないパチンコ・スロットがギャンブル依存症を今日も作り出している現状は改善されなければならないだろう。
 
 帚木蓬生氏の著作は以前『臓器農場』を読んだことがあった。社会派で提言的・啓蒙的な、それでいてエンターテインメント性も豊かな素晴らしい小説であった。
 
 この本は社会派のルポである。
 
 前半ではギャンブル依存症の実例が詳しく紹介される。依存症の人は一体どういう精神状態になっているのか。どのくらいのお金がギャンブルに捨てられるのか。周囲はどのように振り回されるのか。何もかもがダメになっていくさまが本人の視点から語られ、本人がそれをどうとも思っていないことが心底からの恐怖を誘う。
 
 後半はギャンブル依存症から生還するための方策である。気を紛らわすことや互助組織が大変に有効であることも教えていただいた。
 
 ともかく、ギャンブル依存症は病気であり、治療しなければ絶対に治らないことがわかる。
 
 もし、もし、これを読んでいる人の中に、ギャンブルから逃れられず困っているひとや、知人にそういうひとがいる人がいたなら、読んでほしい。この本は必ず闇の中の一筋の光となるだろう。一人で悩まず相談しよう。「人は変われる。一緒なら。」とも言う。

 同じパチンコを少し違った角度から扱う、溝口敦『パチンコ「30兆円の闇」』、若宮健『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』などと併読すると、理解がより深まると思う。

 なりたくてギャンブル依存症になる人はいない。依存症の実態は想像を遙かに超えてすさまじいが、しかし、生還は可能である。本人も、周囲のひとも、ともに勇気を得て、はじめの一歩を踏み出すことの出来る本。

 ★は、可能なら10コ以上つけたい。

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紙の本

聖域なき議論のための「課題図書」。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『おぼうさん、はじめました。』の著者が、お坊さんを始めてしばらく経ち、いろいろ考えいろいろ実践しています、ついては、こういう提案があります‥‥という本。
 
 わたしは著者と同じ浄土真宗の僧侶で「寺族」だ。寺で暮らしている家族のことをそう言う。学生の時は一応お寺を離れて東京や京都で一人暮らしをしていたが、今は北海道の生家・お寺で暮らしている。いわゆる「どっぷり」状態である。そうなると、お寺が「世間一般」とは異なり、結構特殊な環境であることがよくわからなくなってくるし、お寺が何のためにあるのかも、やっぱりよくわからなくなって来る。そして、世間一般の人と自分との間にある「お寺」や「宗教」、「仏教」などとの向かい合い方、理解の仕方、そういうのが全然違うことにもどんどん鈍感になってくる。
 
 それじゃあやっぱりいけないわけで、それもあって読んでみた。
 
 ‥‥うーん。耳が痛い。「どっぷり」に気を付けて暮らしているつもりだが、やっぱり気を付けても気を付けすぎることはないとあらためて思う。
 
 いろんな提言がなされている。「その通りだ!」も「それはどうかな?」も「そんなこと言っても‥‥」も、いっぱい詰まっている。たくさん唸らされたり汗をかかされたり気が滅入ったりした。
 
 なかでも「そうそう!」と思ったのは、「在家」の考察と、お葬式についての考察である。
 
 真宗の僧侶が一人のこらず「在家のお坊さん」であることからくるいろいろな矛盾は、著者にまかせておかず、わたしもきちんと考えなくてはいけないと思う。(しかしどうやって考えていけば良いのか。)
 
 また、僧侶が「直葬」や「無縁社会」など、葬儀形式や看取りの変化のあれこれ、人と人とのつながりの希薄さなどを考えるとき、「根底には「このままでは自分たちの生活が維持できなくなる、だから今のうちになんとかしなければならない」という、宗教的な動機とは関係のない世俗的な動機があるにもかかわらず、それを直視することなしに、宗教的理念で装ってしまっている」問題も指摘される。「無意識になされる保身的な議論」が怖いということである。「仏教界を、世界を、本当に良い方向に持って行きたいと思ったら、私たちは聖域を残さずに真剣に議論しなければならない。」そのとおりだなあと思いつつ、課題の深刻さにお腹がきりきり痛む。
 
 一般向けか僧侶向けか、対象がどうもはっきりしないように思って読んだが、それは関係ないことに気付いた。どのような思いで書かれた本であれ、もらうべきものがいっぱいあるからわたしのための本である。
 
 また、真宗の僧侶ではない人が読んでも、お坊さんの「本音」以上のものが聞けるので大変おもしろいと思う。提言もある。
 
 読書感想文なんかとは別の意味での「課題図書」だと思う。特に真宗の僧侶は必読だ。そして「聖域を残さずに真剣に議論しなければならない。」
 
 重要な課題をたくさんありがとう、正直「うへえ」です。‥‥なんて言ってばかりいないで、しっかりしなければ。

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紙の本

紙の本現代萌衛星図鑑 第1集

2009/09/08 17:54

人工衛星を主人公にした、一種の、正しいラノベ。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「今週のオススメ書評」で書評が紹介されていて、それを参考にして購入。日本の人工衛星のいくつかを擬人化して紹介している。マンガあり、イラストあり、写真あり、文章あり。そして笑いあり、涙あり。
 
 マンガやイラストはいわゆる「萌え系」である。だが絵がカワイイだけではなかった。写真や資料はきちんとJAXAから提供してもらっている。文章は、擬人化されただけの、フツウの人工衛星のことを書いているはずなのに、なぜかとても感動的である。それは、開発されるに至った経緯から、開発上の問題点、開発されてどうなったか、打ち上げのとき何が起こったか、そして、どのように役目を終えていったか‥‥などなど、人工衛星の「一生」を追っているからかもしれない。人工衛星はそれ単体としてではなく、技術者・開発者、研究や運営に携わっている人たちすべての思いが結実して人工衛星として存在しているのだ。そのあたり、盛り上げるべきところは大いに盛り上げて書いていて、一種ラノベ調である。すばらしい。
 
 著者のしきしまふげんさんは、JAXAの公式サイトでもイラストがすごく好意的に紹介されている。☆(『萌図鑑』の表紙となっている「かぐや」とはちょっと違う絵。)人工衛星の擬人化はこの本だけじゃなかったみたいで、そういう同人誌を出しているようです。秋葉原に行けば買えるらしい。
 
 「またヲタクが好みそうな本だなあ」と思いながら(自分をすっかり棚に上げて)読んだのだけど、これは案外すごい本かもしれない。自分がなんにも知らずに、でも何か知ってるつもりで毎日「ひまわり」から来る写真を眺めていたことがわかったし、いろいろちょっと、見方が変わってしまった気がする。擬人化ってすごい。

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紙の本

紙の本寺よ、変われ

2009/09/02 00:33

「すべき」ではなく「したい」が、わたしを・寺を・世界を変えて行く。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 出版されてすぐ購入、たちどころに半分読み、その後なぜかパタッと止まってしまったが、やっと読了した。止まった理由は、内容的に叱られている気がしてキツかったからだと思う。叱られる気がしてキツイのは、自分の為すべきことの書かれた読むべき本であるゆえだと思う。
 
 前半は、仏教や現代の日本をめぐる現状分析と、「高橋卓志はいかにして今日の高橋卓志的な問題意識を持つに至ったのか?」という自己分析である。
 
 後半は、「どうすれば寺は変わるのか? 寺が変わればどうなるのか?」プラス、高橋卓志が今まであまり明らかにしてなかったと思われる、「高橋卓志、『イベント』以外の日々あれこれ」的な、バイタリティ溢れる実際の紹介である。本願寺派のご門主が上田紀行氏と対談して「エンジン」「ハンドル」と言っていた、その両方がまったくすごいのだ。
 
 高橋氏、お坊さんからよく「あんたのやってるのは顕徳だ」(本来やるべきではないことをしている)と言われるらしい。でもそう言う人が「陰徳」(本来やるべきこと)と思っていることを高橋氏は「あたりまえのこと」として全部すでにやっている。その上でこう言う。
 
「仏教者には保持する三つの主義があるという。第一に、先の宗教評論家【註:118頁】の言う、原始仏教への回帰や解脱[げだつ]へ向かう修行中心の原理主義、第二に、安心[あんじん]、決定[けつじょう]、そして信仰中心の生活に向かう信仰主義、第三に、「苦」の現場に向かい、そこでさまざまな「苦」と切り結びながら、「苦」を緩和・解消しようと試みる社会対応主義である。主義は他の主義を容易に認めないものだ。しかし、戒が失われ、棄信感が増大し、多様で異質な「苦」があふれる現代社会に、単一の主義を完遂すること、主張することには無理がある。それよりは、それらの主義を統合・連携させ、絶妙なブレンドを生み出す方が現代に即している。神宮寺【註:高橋氏のお寺】の仕事(活動)は、原理主義を標榜しながらもそれをバックグラウンドに置き、信仰主義は当然行うべきこととして日々実践しながらも披瀝せず、常に現場を見据え、社会対応主義に徹するというブレンド方法を採っている。原理主義や信仰主義は、表に見える必要はない。しかし、それらは通奏低音として、神宮寺の仕事の地下水脈を流れている。流れていなければ、このような仕事はできない。」(120~121頁)
 
 何をどういふうにして日常と関わっても良いのだと思う。あえて言えば、逆にすべてがダメでもある。何故なら、わたしたち人間が為すことは、すべてが「人」の「為」すこと、つまり「偽」であり、大慈大悲・小慈小悲でいえば「小」の行為に決まっている。やりたいから仏教的な肝心要のところ(だと本人が思っているあたり)の研究をやる・やりたくないからやらない。同様に、やりたいから社会対応型の仏教をやる・やりたくないからやらない。
 
 法然聖人は「お念仏申しやすいように生きなさい」とおっしゃった。つまり仏教研究をしていた方が救いを感じやすいのならそうすれば良いし、社会対応型の仏教をしていた方が救いを感じやすいのならそうれば良い、ということだと思う。こだわらなくて良いのだと思う。
 
 「仏教が盛んになっていくために自分は何をすべきだろう?」と考えるよりも、「わたしに救いが届いている!」と感じられるかどうか、そしてその後で「仏教が伝わっていく今この時、わたしは何がしたいだろう?」と感じ考える、それがすべてなのだろうなあ、そう思う。
 
 「すべき」ではなく「したい」が、わたしを・寺を・世界を変えて行く。

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紙の本

紙の本愛と痛み 死刑をめぐって

2009/02/17 16:44

やはり秀逸な辺見庸。

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 かつて『もの食う人びと』という秀逸なルポルタージュをものした芥川賞作家である著者が、日本でおこなわれている死刑と、その周囲に漂う不思議な雰囲気、ならびに「世間」や「日常」に思いを馳せて暴き出す、愛と痛みの危うい関係。
 
 著者は、自分が自分に都合の良いものしか愛せない存在であることに愕然とし、自分の都合とまったく関係なく他者を愛したマザー・テレサに思いを馳せる。そこから愛を考え、痛みを考える。死刑を考える。戦争を考える。
 
「死刑は地方自治体や中央裁判所が執行するものではありません。では誰が執行するのか。私はこう考えています。死刑は国権の発動ではないのか。国権の発動とは、自国民への生殺与奪の権利を国家にあたえるということです。私たちがその権利を黙契によって国家にあたえる、これが死刑なのではないでしょうか。」 
「他国民にも死刑を拡大していくのが戦争というものなのではないか。戦争とは大規模な死刑執行のことではないか。」(ともにp.109)
 
 著者がそう言っているわけではないが、「日本で執行される死刑には愛も痛みもない」ということに思える。愛があれば死刑なんてしない、そんな単純なことではない。痛みがなければ死刑なんて無意味だ、そんな単純なことでもない。何かが欠落しているからこそ日本の死刑は成立しているのだ。
 
 個人的な印象だが、最近、死刑に関連する書籍が増えていると思う。本書はその中でも特に、大変に重く大変に広く、また深い内容となっている。

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紙の本

TVやネットにあおられずに、せめてもう少し考えてみよう。

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 中学生向けの「よりみちパン!セ」シリーズ、今回は少年犯罪と、犯罪の後のことについて考えている。例によって大人が読んでも良い内容、いや大人こそが読むべき内容と言えるかもしれない。
 
 本は、扉や目次や前書きからではなく、まず漫画から始まる。相手を死に追いやるような罪を犯した少年たちや、その家族たち、また死に追いやられてしまった少年の家族たちを描いた、非常に重い内容の漫画である。人を死に追いやる犯罪は、言葉にならない「やりきれなさ」ばかりをいかに生みだすのか。それが、こちらが逃げ出したくなるような迫力で伝わってくる。この漫画家(武富健治)の作品は今まで読んだことがなかったが、多くの事実をもとにして、この密度、この奥行き、このラストで描けるのは、すごいと思う。
 
 漫画の後は以下のような章立てである。
 
 第1章 子どもでも、死刑になるの?
 第2章 「少年法」は、子どもを守ってくれるの?
 第3章 「少年院」って、どんなところ?
 第4章 「少年法」が改正されたのは、なぜ?
 第5章 犯罪少年の家族は、どうしているの?
 第6章 被害にあった人は、ゆるしてくれるの?
 
 少し前まで、少年犯罪と大人の犯罪との線引きはどのように行われていたのか、そこにはどのような願いや期待があったのか、そして今はそれがどのように変わってきているのか、その原因は何か、そして、いま私たちが考えなければならないことは、しなければならないことは、何だろう。
 
 読んでいて、ため息をつきながら空を仰いでしまうことが何度もあった。たぶん我々は、少年犯罪にまつわるいろいろなことを実際にはまったく知らないのに、TVのバカが視聴率を稼ぐために無いこと無いこと(有ること無いこと、ではない)言ってるいるのを真に受けすぎていて、知ってるつもりになっていすぎるのだ。
 
 ネット検索で知識ばかり詰め込んでも2ミリだって賢くはならない。ちょっとだけで良いから、ブラウン管も液晶もプラズマも消して本を読もう。そして、もっと、自分の頭でしっかり考えよう。

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