サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. yama-aさんのレビュー一覧

yama-aさんのレビュー一覧

投稿者:yama-a

339 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本恋する原発

2012/03/07 20:57

あのあり得ない状況に対しては、きっとこういう「不謹慎」をぶつけて行くメソッドしかない。

6人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まあ、なんなんだろべ、これは? なんですかね、一体?

タイトルからしてテーマは原発告発かと思ったら、まるでできそこないのポルノじゃないですか! なんですかね、「大震災チャリティAV」って?

んで、ふざけた文体。ポップと言うか、スカスカのレイアウト。進んでるのか進んでないのか、同じ所をぐるぐる回っているだけなのか、よく分からないストーリー。

まさか舞城王太郎の真似をしようとして失敗に終わった小説というわけでもないでしょう(まあ、文中に引用があったので、多少は舞城を意識してるのかもしれませんが)。そう、これは明らかにわざとなのです。作者が何を言いたかったのかを整然と述べるのは不可能ですが、あの地震と原発事故を目の当たりにして、こういうものを書かずにいられなかった衝動だけはひしひしと伝わってきます。そう、あのあり得ない状況に対しては、きっとこういう「不謹慎」をぶつけて行くメソッドしかないのです。

あんまり筋を説明しても仕方がないでしょう。冒頭に書いたように、この小説は大震災チャリティAVの監督の一人称で語られます。どこからが監督の語りで、どこまでが作ったビデオの内容なのかも判然としません。だらだらと、「この話一体どうやって終わるの?」と心配になるような記述が続きます。電車の中などで読んでいると、太字で印刷された「おまんこ」等々の文字が山ほどあって、周囲から覗かれていないか気になってしまいます。

かと思うと、終盤に入って突然「震災文学論」と題したクソ真面目な論文になります。これがものすごいギャップであるとともに、内容的にもものすごいのです。スーザン・ソンタグと川上弘美の『神様(2011)』とナウシカと水俣病のルポルタージュを統合して震災を語っています。この論理展開を前にして、我々は呆然と立ち尽くすのです。

すると、またクソみたいな小説に戻って行きます。

何度も書きますが、そう、これはわざとなんです。ヤケクソでもなく失敗作でもなく、この如何ともしがたい岸辺に立って、作家はこういうものを吐き出すしか仕方がなかったのです。正直それ以外のことはよく解りません。ただ、そのことだけがびしびしと伝わってきます。

あの地震は、あの事故は、それほどのものでした。なんなんですかね、一体これは?

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本持ち重りする薔薇の花

2012/02/25 00:01

とてもうまい。とても面白い。

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

丸谷才一は、僕にとっては読むのが最後になってしまった大物作家だった。なにしろ初めて読んだのが2003年の『輝く日の宮』である。その後遡って『裏声で歌へ君が代』を読み、今作が3冊目になった。

読んだことのない時からずっと気になってはいたのである。ただ、「日本語の達人」という触れ込みに恐れをなしたということもあるし、いまだに旧仮名遣いで書いているという偏屈さに対する反感もあったし、「きれいな日本語が書けるだけでは仕方がないではないか」と高をくくっていた面もあった。ところが、読んでみるとそうではないのだ。この作家は何よりもお話が面白いのである。稀代のストーリー・テラーなのである。ともかく話に引き込まれる。先が読みたくてどんどん進む。そして、文章がうまい作家であることを感じるのは全部読み終わってからなのである。

文章がうまい作家は読んでいて引っかからない。そんなにお前は読んでいて引っかかるのか?と言われれば、僕の場合は割合そうである。

「この場面でこの台詞は不自然ではないか?」「会話であるのにあまりに説明的ではないか?」「この文節はあの文節の前に持って行ったほうが文意が通りやすいのではないか?」「この力の入りすぎた表現は何だ!」──いろんなことを思う。

ところが丸谷才一を読んでいるとそんなことは全くない。それはプロの文章家として一番求められることなのであって、本当に文章が書けるということの証明なのではないかと思う。

さて、『輝く日の宮』を読んだ時に、「源氏物語にもっと詳しければもっと面白かっただろうに」と思ったのと同じように、今回は「クラシック音楽に造詣が深かったらもっと面白かっただろうに」と思う。

登場するのはブルー・フジ・クヮルテットという日本人の弦楽四重奏団と、彼らの名付け親で、年長のアドバイザーとして彼らを支える元経団連会長である。その財界の重鎮にジャーナリストがインタビューするという形で物語は始まる。

そして、『輝く日の宮』の時に「源氏物語にもっと詳しければもっと面白かろうに」と思う一方で、「しかし、あまり詳しくなくても、めちゃくちゃ面白い」と思ったのと同じことが、この作品でも起こる。それどころか、あまりクラシックに詳しくない者にさえ、クラシックの面白さが伝わってくるのである。この辺がやはりこの作家の腕なのだろうと思う。

この達人の作家は、決してこれ見よがしの衒学的なクラシック論を持ち出さないし、「どうだ!」と言わんばかりの派手な比喩や凝りまくった表現を弄することもない。作中に使われているビッグ・ワードは表題になっている「持ち重りのする薔薇の花」くらいのものである。これは作品の中ほどで、クヮルテットのあるメンバーのエピソードとして出てくるのだが、さすがにここぞとばかりのこの表現は見事に効いている。

作者は主人公にクヮルテットのメンバーを語らせる。彼らの音楽家としての凄さと、人間としての面白さとつまらなさを語らせる。彼らの女性関係を語らせる。そんなこんなの合間にクラシック音楽を語らせる。

そして、それを語る主人公と、それを書き取るジャーナリストを描くことによって、この二重構造の人間描写は完成するのである。とてもうまい。とても面白い。

あっさりとした終わり方である。これが物足りないという人もいるだろう。そこが粋なのだという人もいるだろう。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ジェントルマン

2012/02/13 22:08

本質というのは男であるか女であるか、ホモであるかヘテロであるか、正常であるか異常であるか、そういう差異を超越して厳として存在する何かなのである。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

とても山田詠美らしい小説だと思う。愛にゲイもバイもヘテロもない──そういう分け隔てない感覚に基づいて、分け隔てない恋心が分け隔てなく描かれている。恋するって、痛くて、苦しくて、危ういものなのである。それは相手が誰であろうと関係がない。

読み始めて2ページほど、僕らは状況がつかめない。それは恋する2人と言えば、僕らは必ず男女の組合せを思い浮かべてしまうからである。アニー・リーボヴィッツによる有名なジョンとヨーコの写真になぞらえられているので、なおさら勘違いをしてしまう。だが、恋愛はヘテロ同士だけのものではないと僕らは知る。さらに、カップルでいるからといって必ずしも単純に互いに恋する関係であるとも限らない。──夢生と漱太郎はそういう関係である。

漱太郎は非の打ち所のない優等生でありながら、優等生ならではの嫌味なところがなく、万人に好かれている。だが、その胡散臭に気づいていたのは、クラスでは夢生と圭子だけだった。そして、ある日、漱太郎の予想だにしなかった面があらわになる事件を目撃してから、彼は一気に恋に落ちる。生涯の友である圭子には隠したまま──。

人物の造形がすごい。どう考えてもそんじょそこらにいるはずのないキャラである漱太郎が、ここまでリアリティを持って僕らの前に立ち現れてくるのは、ひとえに山田詠美の筆力によるところである。

これほど異常なもの、あるいは異形のものを描いて、それでもこれだけの説得力があるのは、本質に到達しているからである。本質というのは男であるか女であるか、ホモであるかヘテロであるか、正常であるか異常であるか、そういう差異を超越して厳として存在する何かなのである。そして、どんな異形の2人の間にも厳として存立可能なものが愛なのである。

このことに陽を当てるために、ストーリーはますます異常な、扇情的な、唾棄すべき結末へと転がり堕ちて行く。

終盤少し書き急ぎすぎた感もないではないが、しっかりと構築された恐るべき小説世界である。

愛するって痛いのである。そしてその痛みは、一見誰も愛していないような“ジェントルマン”漱太郎の中にもある。何かを愛さないと生きていけないから──生きることが痛いのはそのためなのである。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本神様2011

2012/02/03 00:01

とても不思議なことがまるで何でもないかのように起きている。

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

bk1 から現物が届くまでこんなに薄っぺらい本だとは知らなかった。短編小説集である。最初に筆者が1993年に書いた『神様』という小説が掲載されている。お弁当を持って熊と一緒に散歩に行くという、とても現実離れした小説である。ちょうど小川洋子の作品のように、とても不思議なことがまるで何でもないかのように起きている。

それから、昨年その作品に手を入れた『神様2011』という短編が続いている。「手を入れた」と言っても、ほとんどは元のままで、ほんの何箇所かが書き換えられているだけである。しかし、ほんの何箇所かが書き換えられているだけなのに、熊と散歩に行く半ばファンタジーが、完全に福島の原発事故を扱った小説に変貌してしまうのだ。この不思議を何と考えたら良いのだろう。

川上弘美は多分、「あ、そうか、ここをこう変えたら原発事故の小説になるな」と思いついて書き換えたわけではないはずである。何かが彼女にこんな風に手を入れさせたのである。それが何であるのかは分からない。だが、原発の事故こそが、とても不思議なことがまるで何でもないかのように起きている事例そのものではないか。

この符合に驚き、そして、彼女自身によるあとがきを読む。
確かに神様はいるのかもしれない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本舟を編む

2012/02/02 23:58

ケレン味のない、編むように書かれた小説

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

僕は三浦しをんのことはあまりよく知らない。何しろ『風が強く吹いている』一作しか読んでいないのだから(まあ、映画で『まほろ駅前多田便利軒』は観たが…)。ただ、その一作から受けた印象は、「設定と筋運びの人」であって、あまり言葉そのものに切れのある人ではなかった。その人が辞書編纂者を扱った小説を書くというのがなんとも面白そうで取り寄せたのである。

ただ、読む前に想像したような、言葉や辞書の非常に深い薀蓄に分け入って組み立てた文章ではなく、やはりここでも彼女は設定と筋運びの人だった。

主人公は馬締光也という、名前の通り真面目な、しかし、どう見ても冴えない出版社勤務の男である。むしろ変人である。他の作家が書いたなら、多分このまじめ君の性格や行いを思いっきりデフォルメした上で、誰も知らないような語彙や語釈を繰り広げて、とりあえず読者をあっと言わせながらストーリーを進めて行くだろう。しかし、三浦しをんには全然そういうケレン味がない。淡々と進む。いや、もちろん山も谷もある。だが、テーマは人間の暖かさみたいなところからあまりぶれずに展開する。辞書は完成に向かってのろのろと進んで行く。奥手のまじめ君は理想の女性としっかりと結ばれる。

この辺、話がうますぎるのではないかという気がするのだが、軽薄な西岡という登場人物と比較しながら、まじめ君のような、こういう男こそが女性の愛を勝ち得るのだと言われると(言っているのが女流作家であるということもあって)、はあ、そんなもんなのかなあと納得させられてしまう。

最初から最後まで、そういう良いお話なのである。僕としてはもう少し難易度の高い言葉遊びを見せてほしかったのだが、しかし、こういう何の衒いもない良いお話には敵わない気がしてくるから不思議である。

そんな中で「舟を編む」というタイトルが秀逸である。この小説においては、言葉で遊ぶのはこのタイトルだけで充分なのかもしれない。

まさに編むように書かれた小説である。そして、読み終わったら、大海に漕ぎ出す勇気が湧いてくる小説である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

短絡的な結論に異を唱えるところから始めたメディア論

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者が社会心理学者として、またBPOの委員として、長年取り組んできた精緻な研究データを素に、それぞれのメディアと日本人のメンタリティを論じている文章である。

さすがに社会心理学、統計学の専門家が書いた本である──というのが僕の第一印象であった。ともすれば、たったひとつのアンケート結果から安易に誰もが思いがちな結論に持って行くような本が多い中、この本はまずそういう短絡的な結論に異を唱えるところから始めている。「そういう風に思われがちだが、実はこの調査結果からそういう結論を導くことはできない」というような記述が随所に見られるのである。統計的に見てそれが優位な差であるのかどうか、あるいは擬似相関を示しているだけなのではないか──そういう「統計の見方」について教科書的な正しさで、街場のいい加減な推論を覆しにかかるのである。

もっとも分かりやすい例としては、終盤180ページにある、「日本人の20歳から50歳までについて、50メートル走の速度と年収との関係を『統計学的に』分析すれば、おそらく50メートル走の速度が遅いほど平均年収が高いという統計的に優位な関係が出るはずである」という説明が面白く分かりやすい。

ことほどさように、この本は地道な調査結果と、そこから正当に引き出される結論を冷徹に開示する本であって、放送やインターネット業界の立場からそれぞれのメディアを擁護するものでもなく、逆に若者のテレビ離れやインターネットによる弊害を声高に語る社会学者のような立場でもない。

むしろ、そのいずれの陣営の人たちとも一緒になって、今それぞれのメディアがどういう状況にあるのか、それらはこれからどういう方向に進むのか、そして我々はどうして行くのが正しいのか──そういうことを考える上での貴重なデータベースがここにあると考えるべきなのである。

メディアを考える上で、これほどちゃんとした「資料」にはあまりお目にかかったことはない。ただ、あくまで資料としての本である。優れた資料ではあるが、資料である分、キャッチーで解りやすい結論を書こうなどとはしていないので、その分読み物としては別段面白くないかもしれない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本日本のセックス

2011/12/27 00:32

真正面からの怒涛のポルノ

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

昔から「ポルノは善か悪か、あるいは必要悪か」とか、そもそも「ここまでは芸術、ここから先はポルノ、みたいにきっちり分けられるものなのか」とかいう議論は幾度となく繰り返されてきただろうが、そんなものは分けられるわけがないし、どっちかが善でどっちかが悪なんてこともない。同じものでもある角度から見れば芸術で別の角度から見たらポルノ、なんてこともなければ、同じものでもあるときは芸術になり、またあるときはポルノになる、なんてこともない。そもそも分明な境界の存在を想起するのが間違いで、ポルノを切り分けることも、それだけを規定することも無意味であると私は思っている。

ところが、この小説を読み始めて端的に持った感想は、「これはポルノである。ポルノ以外の何ものでもない!」ということであった。しかも、そこら辺のポルノではない。結構突き詰めた究極のセックスの姿なのである。

セックスという行為は基本的に日常性からの脱却に向かうので、それを極めようとする者は勢い「変態」に収束して行くことになる。ところが、どのような変態に向かうかは、これまた人によって千差万別で、それぞれに嗜好性もあり、嫌悪感もある。例えば私は痛いのや汚いのは苦手なのだ。しかし、この本には少し痛いのも少し汚いのも出てくる。なのに読むのをやめられない。いや、そこに至る前に、小説冒頭からいきなりパイパンである。そしてカンダウリズムである。カンダウリズムというのは自分の妻や恋人を他の男に犯させて性的快感を覚える男たちのことである。主人公の容子は夫である佐藤の希望によって、すでに300人の知らない男たちと交わってきている。

なんという設定だ。いや、しかし、よく書けている。なんだか読んでいて催してくる。これはポルノに違いない。ただ、やたら筆致の冴えたポルノである。やたら力量のある作家によるポルノである。第二部「容子のいちばん長い日」で描かれる乱交スワッピング・パーティの終わりまでの190ページは、一気に畳み掛けてくる見事なポルノである。読者はそれこそ翻弄されてしまう。

ところが第三部に入ってから、ポルノの様子はすっと色褪せてくる。決してポルノであったものがポルノでなくなったなどと言うのではない。ポルノの色がすーっと引いて行ったのは確かだが、いきなりポルノでなくなったりもしないのも確かだ。

そこからはまさに小説的な世界がポルノの上に覆いかぶさってくる。ストーリーも動き出して事件が起き、大きな展開がある。ドン引き状態で読み始めた読者は一気に持って行かれることになる。どこに? ──日本のセックスの彼岸に、ということになるのだろうか?

小説内で引用される映画やら音楽やら禅の思想やら、その他もろもろがいちいち面白い。それがセックスとごっちゃになっている。それはまるで男女の体液がぐちゃぐちゃに交じるような世界である。

読んでげっそりする人もきっといると思う。でも、げっそりしても読んでみるべきだ、と闇雲に他人に勧めたくなる。おい、ヤバイよ、この小説ヤバイよ。

「『日本のセックス』って何じゃ、その変なタイトル?」と思いながら読み始め、最初の数十ページ読んだ辺りで「おいおい、これが日本のセックスって、そりゃないだろう」などと思いながら、結局読み終えてしまうとしっかり「このタイトル以外にありえない」と思っている。そう、ただの変態の物語のようであり、これはあなたのセックスの物語なのである。

そして、やっぱりポルノなのである。真正面からの怒涛のポルノである。とんでもない小説に強姦されてしまった。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

2011/11/29 23:24

そしてやっぱり一途に深い。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この作家を読むのは『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』以来2作目であるが、読みながらまず思ったことは、あれ、こんなに巧い作家であったかな、ということである。いや、それよりも、あまりにトーンが違うので、ひょっとしたら自分は何か勘違いをしているのであって、『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』の著者とは別の作家なのではないかと思ったほどである。

この作品では主人公は女性である。それがとてもよく書けている。女性の読者がどう感じるかは分からないが、男性の読者からすれば、ひょっとして書いているのも女性なのではないかと思わせるくらいの出来だと思う。

そして文章がとてもスムーズに流れて行く。本当に巧い文章というのは読んでいる者が巧いとも下手だとも感じる隙を与えない文章である。これくらいこなれた文章を書ける作家にはそうそう巡り会えるものではない。

前に読んだ時には、多分この作家は派手目のストーリーをうねらせて行くことが得意なのだろうと思った。しかし、今回は非日常的な面もあるが、決してドラマチックな展開でもなければサスペンス・タッチの進行でもない。むしろおとなしく観察された深い物語という気がする。

そんなことを思いながら一年半前に自分が書いた書評を読み返すと、「まっすぐに死生観に繋がって深く掘り下げて行く、むしろ一途な感じの作品なのだと思った」とある。ああ、そうか、その部分はずっと共通なんだ、と思う。

そんなことを思いながら改めて本の帯を読むと、「テーマ競作小説 死にざま」とある。6人の作家が同じテーマで書いているのである。しかし、これこそは白石一文のために与えられたようなテーマではないか。

三十歳を過ぎたばかりの仕事のできるOL・里江子と、その親友の夫である岳志の物語である。──と書くとどろどろの不倫小説と思われるかもしれないが、そんな話ではない。もうちょっと一筋縄では行かない不思議な話である。何しろ交際相手の親友として初めて会った翌日に、里江子はいきなり岳志からプロポーズされるのだから。この岳志を突き動かす不思議な確信を軸に物語は展開する。肉体関係は、この小説では完全にテーマから外れている。

途中から岳志が熱心に語り始めて、すんなり流れていた物語が少し理屈っぽく滞ってきたなあと思ったのだが、そこからの運びがとても巧い。結末まで意図的に書かずにおいたことを一気に公開する書き方は少しあざとい感じもあるが、これまた作者一流のテクニックなのだと思う。

そして、この、ある種ぶっきらぼうな終わり方も、まさに著者の「死」に対する諦観を反映したものなのだろう。

前回の書評の表題に僕は「意外に軽い、だが一途に深い」と書いた。今回は軽くはない。だが、依然軽やかではあって、そしてやっぱり一途に深い。

最初に『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』を選んで読んだのは失敗であったかもしれない。この作家の懐は多分僕が思うよりもずっと深いのである。読み終わってすぐに、もう次の作品を読むしかない気になっている。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

これは短歌をやっている人だけに通じるものではない。例えばポップスの作詞をしている人なんかにも大いに役立つはずだ。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

世の中にテクニカルに解決できることは意外に少なくない。挨拶するとか敬語を使うなどというのもつまらない争いを避けるためのテクニックである。それを「人として当然身につけておくべきこと」とか「先輩を敬う気持ち」などと言い始めると途端にややこしくなる。

そういうことは表現という行為のなかにもある。「見たまま感じたままを表現せよ」「細部を削ぎ落して本質を描け」などと抽象的なことを言われてもどうすれば良いのか分からない。芸術というものはとかくそんな風に伝承されてきたのだが、そんな中で表現の難しさをテクニカルに解決する術を教えようとする本書は本当に良書であると思う。

僕は『サラダ記念日』の頃からの俵万智ファンである。ただ僕自身は、ごくまれに戯れに短歌らしきものを詠んでみることもないではないが、日頃から短歌に親しんでいる訳でも何でもない。しかし、それでもこの本が、表現という問題を如何に見事に解決しているかはよく解る。これは短歌をやっている人だけに通じるものではない。例えばポップスの作詞をしている人なんかにも大いに役立つはずだ。

著者は各講の冒頭にまず「公式」(例えば、「体言止めはひとつだけにする」等)を掲げ、そして実例を挙げて添削する。その「使用前」と「使用後」の短歌の出来栄えの違いは素人目にも明らかである。ああ、そんなことでこんなに良くなるのか、と感心せざるをえないのである。

中には逆に「この素敵なコスモスの歌二首を、ダメなほうに改作してみよう」(64ページ)などという試みもやっていて、これがこれまた見事にダメになる。この説得力は、やはり著者がどれだけしっかりと「公式」を把握しているかという証でもあるのである。分けても、サ変動詞のない名詞の場合は「の」で繋いで良いが、サ変動詞がある名詞の場合は「する」で繋ぐべきである(114ページ)などという明快な分析に出くわすと驚きを通り越して嬉しいくらいである。

これは職業であれ趣味であれ、ともかく何かを表現しようとする人間にとっての大きなヒントになる本である。もちろんヒントだけでは何も書けないということは言うまでもないが、そのことは言わずもがなの大前提とした上で、名人・俵万智がテクニカルな部分だけをきれいに切り取って提示してくれているのである。小気味良いほどの参考書である。いや、参考書と呼ぶには、読み物としてあまりに面白い。

ただ、この尻切れトンボみたいな終わり方は如何なものだろう。これは雑誌の連載記事ではないのである。1冊の本という体裁を取るのであれば、最悪「あとがき」という形でも良いから、何か全体のまとめめいた文章で本を締めるべきであって、そうしなければそれこそ「けり」がつかないと言うべきなのではないだろうか?

ま、不満はそこだけである。逆にどの講からでも読める辞書的なものを目指していたのかもしれない。僕にとっては辞書と言うよりむしろバイブルと言っても良いくらいなのだが。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ゴーストハント 5 鮮血の迷宮

2011/11/12 23:40

とかくありがちな単純なハッピーエンドに収束させないところがこの作家の力量なのかな

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ずっと気になっていた小野不由美を初めて読んでみた。初めて読むのにシリーズ物の第5作とは如何なものかと我ながら思うが、買った時には気づいていなかったのだからしょうがない。

で、残念ながらこれは僕が好きなタイプの小説ではなかった。ふーん、京大推理小説研究会出身ですか。その割には設定・進行ともに随分マンガっぽいね。まあ、そのあたりが僕があまり好きではない所以なのだけれど、でも、まあ、そこそこ面白かったのは事実である。多分シリーズ第1作から順序正しく読んできていたら、恐らく読んでいるうちにレギュラーのキャラがしっかり立ってきて、随分楽しみ方も深くなったのではないかと思う。

多分毎回そういう構成なのだろうと思うのだが、高校生を主なメンバーとする「渋谷サイキックリサーチ」が怪現象を解決する話である。で、今回は増改築を繰り返して迷宮のようになった大邸宅で行方不明者が続出し、それを解決するために全国から霊能者が集められたという設定。

この手の小説は展開が命なのでネタバレに繋がることは一切書かないが、今回は一連のシリーズの中で、語り手である麻衣の霊能者としての覚醒に少し焦点が当てられている。麻衣のある種の成長物語的なしつらえをしてあるところあたりが読者に受けている点なのかなあと想像したりもする。そして、彼女の能力が発現して彼女が見てしまう夢の描写は結構おどろおどろしい。また、渋谷サイキックリサーチの所長であるナルこと渋谷一也がてきぱきと判断して、結局のところ事件を解決したようなしていないような終わり方が僕は気に入った。とかくありがちな単純なハッピーエンドに収束させないところがこの作家の力量なのかな、などというのが初めて読んでみた者の感想である。

さて、次は大作『十二国記』に手をつけようかどうしようか、などと考えている。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

僕らはもう買う前に読んでいるのである

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

さとなおさんの『明日の広告』に続く本である。よく売れているらしい。この手の本としては初版が25,000部というところからして破格なのに、発売10日ほどでもう増刷が決まったと言う。

しかし、そんなことは当たり前なのである。何故なら僕らはもう買う前に読んでいるのだから。

僕らは日々 www.さとなお.com で彼の言説と日常に触れ、さまざまなソーシャル・メディアを通じて彼の感じ方を知り考えを学んでいる。僕の場合は twitter や facebook での交流もあり、たまに直メールでのやりとりもあり、講演を聞かせていただいたことも何度かあり、もっと言えば短い時間だが直接お会いして言葉を交わしたこともある。

当然彼の前著『明日の広告』は読んでいるし、この本にも登場する電通の京井良彦さんの本も、あるいは同じ電通の岸勇希さんの本も、はたまたさとなおさんの古巣の電通とは最大のライバル会社なのに一緒に何度か仕事をしている博報堂の須田和博さんの本も読んでいる。

「いや、自分はそこまでの交流はない」「読むのはこの本が初めて」などと言う人もいるだろうが、濃淡の差こそあれ、みんなすでに何らかの形でさとなおさんと繋がっている、あるいは繋がり始めているのである。

なにしろさとなおさんのサイトのアクセスカウンターはなんと4,000万を回っているし、twitter では60,000人以上がフォローしているし、facebook には1,200人を超える「友達」と400人を超える「フィード購読者」がいるのである。僕らはもうこれらの全てのメディアを通じて、もうこの本を買う前からすでに彼の考え方・感じ方を読んで知っているのである。では、何故みんなこんなにさとなおさんと繋がっているのか?──それはさとなおさんに、あるいはさとなおさんの考え方や行動に「共感」を抱いているからである。

そう、この本をマーケティング的に捉えるなら、SIPS のSはすでに終わっているのである。あとは彼が今まで書いてきたり言ってきたりしたことを、どう整理して、どう展開するのか──僕らは興味津々でそれを読みに行っているのである。

この本は初心者に対してそれほど親切な書き方はしていない。それはさとなおさんが意識してやったことではなく、ページ数の関係もあってのことなのだろうが、結果的にそれで良かったのである。なにしろ僕らの多くは買う前から読んでいるのだから。

だから、この書評においてもちょっと端折った書き方をさせてもらって、僕がこの言説において優れているなあと思う点を断片的に抜き書きさせてもらうと、

1)閉じたソーシャルメディア上での分析ではなく、リアル世界への広がりをきちんと捉えていること。
2)コミュニケーションを扱うプロに対しては、まず個人として、生身の人間としてソーシャルメディアにどっぷりと使ってみなければならない、ときっぱりと宣言していること。
3)自らが提唱したSIPSを喧伝するのではなく、AIDMA と AISAS と SIPS は共存するのであり、その3つを組み合わせることでコミュニケーションが強化されることを正しく指摘していること。
4)そして、企業と生活者の関係は「広告」とか「広報」とか「販促」とか「営業」とか、領域を区切れるものではなくなるだろう、と見事に予言しているとこと。

等々だと思う。

ともかく読み始めると、そういうことが違和感なく入ってくる。よくまとまっていると感心する。そして「関与する生活者」として他人に広めたくなる。そういう訳でこんな風に書評を書いて、SIPS の最後のSである Share & Spread が完成するのである。
ああ、僕はエバンジェリストになれたのだろうか(笑)

【追記】ひとつだけ誤りを指摘させて下さい。98ページに「F1は20-35歳の女性、F2は35-50歳の女性、M3は50歳以上の男性」というような説明がありますが、これだと35歳や50歳の人がどちらに属するのか分かりません。僕らテレビの業界では20-34、35-49、50-という年齢の区切りに対して1,2,3という番号を振るのが通常です。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ばらばら死体の夜

2011/10/13 21:52

物語のほうからこの作家にとって一番得意な領域に入ってきたような気がする。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

読み終わって最初に思ったのは、巧いな、ということだった。

前から巧かったのかそれとも巧くなったのかは判らない。ただ、少なくとも僕が1冊だけ読んだ『赤朽葉家の伝説』ではこんな巧さは感じられなかったように思う。あれだけ長いスパンの物語になると、どうしても筆が先走りして描写が荒っぽくなっていた印象が強い。今回は、言わば何代にも亘る壮大なサーガを描きたいという野心からから解き放たれて、ほぼ人間の一生に相当するくらいの長さに絞り切れたことによって、そしてこのテーマを選んだことによって、物語のほうからこの作家にとって一番得意な領域に入ってきたような気がする。

さて、この小説では冒頭で殺人が描かれる。しかし、最初に殺人があって最後に犯人が捕まるという小説ではない。いや、実際小説の中で犯人が捕まるかどうかを言っているのではない。そういう表現軸では描かれていないということを言っているのである。殺人犯がどこまでも逃げ切るというクライム・ノベルでもない(これも逃げ切るかどうかを云々しているのではない)。もっとねじれた、いや、まっすぐだけれど斜めに傾いた座標軸に捉えられた物語であるような気がする。その傾きこそがこの小説の命なのではないだろうか。

ただ、どこにも仕掛けがないかと言えばそんなことはない。多分少なからぬ人が僕と同じように騙されたのではないかと思うのだが、Prologue に叙述上のトリックがあって、途中まで誤った思い込みを持たされたまま読み進んでしまうのである。章ごとに主人公と話者が替わって行くのだが、その辺りにキーがある。さらにそこに、ひとつふたつ、かなり込み入った設定を加えて、作家は物語をうねらせて行く。

別に殺人を美化するわけでも肯定するわけでもない。かと言って、殺人を異常なものとは捉えていない。殺人を犯してしまう人間という存在を、いや、殺すほうも殺されるほうも、ひたすら転げ落ちて行く人たちとどこかで踏みとどまって這い上がってくる人たちの不思議を、ありのまま、しっかりと捉えて描いているように思う。

ある意味怖い話である。Epilogue にある1シーンが特に怖い。なのに読後感がこれだけ良いのはまれに見る小説ではないか。

帯には「改正貸金業法」云々との記述があるが、これはそういうことを描いた小説ではない。これは人間を描いた、深い味わいのある、怖くて爽やかな不思議な物語なのである。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

マニア垂涎!研究者必携!

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

知っていたらもっと早く買っていたのですが、出ていることを知らなかったので慌てて買いました。絶版にならないうちに気づいて良かったです。このシリーズ、僕が買ったのはこれが3冊目です。

『Hotwax presents 歌謡曲 名曲名盤ガイド 作曲家編 1970s』(これについては書評も投稿して掲載して頂きました)と『1980s』を持っています。『1960s』は時代的に少し面白みに欠けるので買いませんでした。ちなみにこの3冊はすでに一般の書店では手に入らないようです。

言わずと知れた、歌謡曲研究者の第一人者・高護先生の編著です。まだ冒頭数ページしか読んでないのですが、いやあ、予想した通りの宝物みたいな本ですね。

『19X0s』のシリーズは言わば編年体の正史であるのに対して、こちらは紀伝体。まさに司馬遷の『史記』のような血湧き肉躍る読み物になっています。『19X0s』シリーズの後に『歌謡曲番外地』シリーズのような文字通りの番外編がいくつか出たので、まさかこういう形で日本ポップス史が編み直されることになるとは予想していませんでした。

高護先生についてはここではあまり多くを語りませんが、僕がまさに心酔している研究者です。これほどよく聴きよく知っていて、これほど的確な分析と表現を操り、かつ、マニア的ヲタク的な視点をしっかり保持している人は他にはいません。

最初の数章の目次(即ち取り上げた作曲家名)を紹介しておきましょう。

中村八大、浜口庫之助、宮川泰、いずみたく、鈴木道明、平岡精二、すぎやまこういち、鈴木邦彦、・・・。

ここまで読んでうっとりした人は、最後までその気持ちが続くこと請け合いです。整然と並ぶ膨大なレコード・ジャケットの写真を見ているだけでも飽きません。

そして、例えば中村八大であれば『太陽と土と水を』みたいな、誰もがもう忘れていた名曲をきっちり拾ってありますし、宮川泰であればザ・ピーナッツのナンバーと『宇宙戦艦ヤマト』の間にちゃんと沢田研二の『君をのせて』を入れ込んであります。筒美京平には、当然の処置ですが、他の作家の3倍のページを割いてあります。

不満なのは中村泰士のページにジュディ・オングの『リクエスト』が入っていないことくらいです。その代わりと言っては何ですが、大信田礼子の『何がどうしてこうなった』なんて、記憶からほとんど消えかかっている曲を思い出させてくれる作品が載っていたりします。

終盤には吉田拓郎や中島みゆきなどもリストアップされています。そして、いつもながら高護先生の本領発揮とも言うべきところですが、三枝伸に半ページ割いてくれています。こういうところが、まさに僕が全幅の信頼を寄せる所以です。

オリコンのデータをベースにしたリストのページも、網羅的ではありませんが、象徴的に充実しています。

すぎやまこういちの最初のページには「全文を以下に差し替えます」とする「訂正のお知らせ」なる紙が挟み込まれており、読み比べてみてこれがそんなに支障があったのだろうか、どういう経過でこういう処置に至ったのか、などを考えていると、なおもマニア的興味は尽きないのでありました。

本当に気づいて良かった。本当に買って良かった。これこそマニア垂涎、研究者必携のバイブルではないでしょうか。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本もてなしごはんのネタ帖

2011/08/27 20:33

よう~し、次はこんな風にもてなしてみるぞ!」という気にさせてくれる。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

知人の料理研究家・山脇りこさんの初めての本(電子出版は除く)である。
まず、何が素晴らしいって、写真がきれい!

──なんて書くと、りこさん、ちょっとがっくりするかもしれない。そう、見た目がきれいでも食べたら大したことない料理って世の中に意外に多いもので、そういうことを考えると、写真ではなくレシピを褒めるべきなのだろう。しかし、入り口としてはこれはとても大事なことなのである。

写真がきれいだとまず美味しそうに見えるという利点がある。そして、もうひとつのメリットは作ってみたい気になるということである。本は残念ながら直接食べられないので、本当に美味しいかどうかをすぐに確かめることはできない。そうなると勝負は作ってみたい気にさせるかどうかで、そういう意味からするとこの本は大正解なのである。

で、読めばすぐに解ることだが、多少とも料理を嗜む者が見ると、「なるほど、その組合せは旨そうだ」というレシピが次から次へと並んでいるのである。そして、いざやってみるとあまり面倒な料理はない。時間のかかる下拵えも必要ないし、手に入りにくい食材も使っていない。

この手の“きれいな料理本”にありがちなのは、「そんなもんウチの近所のスーパーで売ってまへんがな。ああ、この人は僕らと住んでる世界がちゃうわ」などと思わせてしまうことだが、そういう面は全くない。ちょっと小洒落た調味料や酒類、こだわりの薬味などが出て来るところもないではないが、でも、それがないから作るのを断念しなければならないようなものでもない。

りこさんのブログではあまり細かいところまで作り方が載っていなかったので、今まで真似して作ってみても何かどこかが違うような気がしていたのだが、この本を読んで、「ああ、そうか。そうするのか!」とストンと落ちた気がする。

作ってみれば解ることである。端的に美味しい。

そして、話はもとに戻るが、このきれいな写真とレイアウトである。食材とソースと食器とクロスと本の装丁のコンビネーションである。わざとガラス製の食器に盛って、それを鮮やかな色のクロスの上に据えて、色を透かせてあったりもする。──その粋、そのセンス!

そう、タイトルにあるように、これは「もてなしごはん」のネタ本なのである。人をもてなす時にはこうしましょうというヒントは、もちろんレシピの中にもあるのだが、それは食器やクロスの組合せにも現れ、それが本のデザインと相俟って止めを刺すのである。

多少料理に自信があっても、本を出版するに至らないのは何故か?──それは、我々にはこういう色彩感覚やセンスがないからなのである。一度こんな風にもてなされてみたいものだ。そして、見ているだけでもてなされたような気になってくる本であり、「よう~し、次はこんな風にもてなしてみるぞ!」という気にさせてくれる、文字通りのネタ帖ではないだろうか?

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本恋文の技術

2011/08/08 22:12

最後に来て初めて、あ、やっぱりこの作家は巧いのだと気づかされるのである。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本屋で見つけて何となく惹かれて買った。文庫が出てから読むのは最近の僕としては珍しいことである。書簡小説の形を採り、恋愛の指南書のように見せかけて、実はいつも通りイカキョーの情けない青春をペーソスたっぷりに描いた小説である。特に何人かの登場人物の書簡を、交互に時系列に並べるのではなく、人ごとにまとめる構成にしたのもアイデアである。そういう意味では非常に森見登美彦的な作品でもあり、いつもの森見を超えた小説でもある。ただ些か遊びすぎの感がなきにしもあらず、なのである。いや、遊ぶのはいつものことで、いくら遊んだって構わないのだが、しかし今回はそれが少し上滑りしてはいないかい?という感じ。面白い読み物に仕立てようとするあまり、如何にも作り物感があって嘘っぽい。日本語の物語は誇張が過ぎると滑ってしまう典型のような気もする。

とは言え、もちろん全編にわたって滑っているわけではない。

ヒトが四つん這いだった時代にはおっぱいは見えなかったから「お尻の時代」が続いたが、二足歩行するようになっておっぱいが注目をあびるようになった(128ページ)とか、美術展の素晴らしいところは一緒に行った彼女の横顔が見られるところだ(184ページ)とか、これは森見でなければ書けない、いや、観察できない、思いつかないというような見事な描写もところどころにある。しかし、それはあくまでところどころなのであって、やっぱりちょっと引いてしまう部分が多い。特に作家が自分の小説の中に自分自身を登場させて、主人公である語り手に語らせてしまうというのはどうも悪趣味、あるいは悪乗りという感じで、読んでいるほうはなかなか乗り切れないのである、途中までは。

ところが、やっぱり最後にはこの作家が力量を見せてくる。最後の第十ニ話になってまるでギアチェンジしたみたいに一気にスピード感が出てくる。細かなギャグ以外はおふざけを概ね抑えて、主人公の伊吹夏子さんへの渾身の手紙が披露される。ここまで来て初めて、あ、やっぱりこの作家は巧いのだと気づかされるのである。上滑りした感じも、全てはここに至るための助走路だったのである。

「なぜあんなにも夢中になったのであろうと考えるに、それは手紙を書いている間、ポストまで歩いていく道中、返信が来るまでの長い間、それを含めて『手紙を書く』ということだったからだと思います」(333ページ)と主人公は述懐する。

手紙なんかほとんど書いたことのない世代もそんな風に思ってくれるのかどうかは解らないが、僕らの世代は間違いなく、ああ、そうだったと思う。そして、恋愛の真髄に思い当たるのである。見事な本であった。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

339 件中 1 件~ 15 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。