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良書普及人さんのレビュー一覧

投稿者:良書普及人

67 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本国家の品格

2006/02/24 17:48

子供に勧められて読んだ「国家の品格」

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

高校生の長男が藤原正彦氏の著作のファンで、ごく最近、「国家の品格」を読んで痛く感動したということで、私のところに本を持ってきました。私にも読めということでした。こんなことは余りないことです。
たまたまある県の町村会の勉強会の講師として呼ばれたので、行ってきましたが、その往路、新幹線の中で一挙に読みました。明確な文章で、高校生にも分かる内容でした。なるほど、子供が親に勧めたくなるのも分かる内容でした。
要は、経済学を含めた欧米流の論理には所詮限界があり、日本の情緒とか惻隠の情といった「武士道精神」の伝統価値をもっと重視し、この日本的価値を世界に向けて発信していくべきである。「論理」と「合理性」頼みの改革は、社会の荒廃を促進するだけである。美しい情緒は人間の傲慢を抑制し、謙虚さを教えてくれる。という所論です。
講習会の中で、現在の財政構造改革路線、市場経済化路線の下での地方財政制度改革、地方交付税改革の動きに触れつつ、日本人全体で惻隠の情という
感情が薄れつつあり、地方や農村部を突き放すような議論が横行しつつあるが、そういう動きの中で、「国家の品格」に見られるような考え方もどっこい生きているのは嬉しいことです、と思わず書籍紹介までをしてしまいました。なお、これと比較する意味で、「冷徹な新古典派的論理」で書かれていた、ある若手学者の所論のさわりも紹介しましたが、講習会に参加された皆さん方は、深く記憶に刻んだご様子でした。
後日、早速この本を購入したいという話を何人かの方から伺いました。
子供から薦められた本に親父が気軽に乗ってしまうのも恥ずかしい限りですが、少しは成長した子供を見ていて、読書が情操教育に果たす役割の一端を垣間見た気がしました。藤原正彦さんが本当に言いたかったのは、読書の薦めなのだと思いました。事実、この本も、藤原さんの読書の成果が本になったようなものなのですから。

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紙の本

紙の本財政学 改訂版

2008/01/31 17:55

「イースタリンの逆説」

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私はロンドンに来るにあたって、神野直彦先生の本書を持参し、少しずつ読み進めているが、学生の初心に帰る気がする。

経済学、財政学は、何のためにあるのか、ということを常に問いかけられながらのお話は、聖書を読むような気分だ。経済学の一般の教科書にありがちな無味乾燥な感覚は皆無だ。

その神野先生は、最近、「誰をも不幸にする豊かさ」というお話をされている。神野先生によると、豊かさと幸福との関係には「イースタリンの逆説」が妥当すると考えられるのだそうだ。豊かさと幸福との間に相関関係があることを見出せるのは、貧しい国に限られていることを思えば、ある一定水準の豊かさに到達すると、豊かさと幸福との間には関係がなくなるということが真理だといってよい、と。

神野先生は、現在の日本の経済政策を見て、豊かな者をより豊かにすることが目指されているとし、こうした経済政策を正当化する背後理念は、トリクル・ダウン効果であり、「豊かな者がより豊かになれば、その富のおこぼれが貧しい者にまで滴り落ちる」という理論であるが、実はそれが妥当しないと指摘する。

何故かというと、「アダム・スミスやリカードがトリクル・ダウン効果を説いた時には、富は使用されるという前提が存在した。しかも、人間の欲望には限度があるという想定があった。つまり、豊かな者がより豊かになれば、使用人の報酬を引き上げるなどというトリクル・ダウンが生じると考えたのである。ところが、現在では富は使用されるために所有されるのではない。富を所有することで、人間を動かそうとする。つまり、権力を握るために富は所有されるために、トリクル・ダウン効果は生じない」と断言する。

現在のオイルマネーを主体とするヘッジファンドの横暴な振る舞い、或いはサブプライム問題の発生過程を見ていると、この指摘は正鵠を射ていると思わざるを得ない。豊かな者をより豊かにする経済政策は、誰も幸福にはしないことになる。時代の転換期にふさわしい、人間を真に幸福にする経済・財政理論を構築する必要がある。
 

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紙の本

平成合併の悲喜交々をリアルにルポ

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

現在進行形の平成大合併の現状を、朝日新聞の菅沼栄一郎記者が、豊富な現場取材に基づき、まとめたのが本書です。
2006年3月時点で村がない都道府県は13県、村が一つだけという府県は11府県になる、といったデータを紹介しつつ、その残った村の「11通りの事情」を、現場取材で丹念に探っています。
飛び地で有名な和歌山県北山村は、「村人の命を守る」ために合併を断念したのだそうです。役場の脇には、役場職員が運転する患者搬送車があり、当番の職員二人が40分離れた病院に患者を搬送する体制になっているのだそうです。合併の話し合いの中で、消防士を合併後の旧村内に常備するように求めたところ、合併の相手側の反応は、隣町の救急車を活用する案だったのだそうです。それでは倍の80分がかかることになり、合併により住民が危険にさらされるのであればこのままでいるのがましというのが村長の判断。
大分県国東半島の先の小さな島姫島にある姫島村。ここが合併できなかった理由は、「役場の給与が周辺町に比べて低すぎた」から。姫島町は、給与を低くし、その分、職員を雇い、島民で役場の仕事をワークシェアーしてきたのです。こうしないと、姫島からは人口が減ってしまうのです。島最大の産業である役場を島民の雇用確保の場として活用してきたのです。合併により、給与水準を他と合致させると、その分職員数を削ることになり、島の人口減に直結するというのです。
野中広務氏へのインタビューも掲載されています。合併の数値目標を掲げる流れを作ったのが、当時自民党の幹事長であった野中氏であるとされているからです。
2000年8月に、野中氏は、自民党本部の講演で、「市町村は1000程度に合併しなければならない」と断言。インタビューではこのことに言及しつつ、野中氏は「明治に3万が1万になった。昭和の大合併で更に3600に減った。それから40年以上たったのに300しか減っていない」、「合併に手をつけて本当の地方分権をやるべきだ」、「(外交、防衛、経済政策など)国は基本的なところだけをやって、後は自治体に任せればいい。財源を含めて」、と語っておられます。
合併推進は、与野党を問わず、当時の選挙公約として、数値目標が掲げられました。それを受けて、政府をあげて、合併推進の舵が切られたのです。
そのような意味では、今回の平成の大合併も、国と地方の仕事の関係に着目し、地方自治体側に地方分権の受け皿を強化するという側面が強いのですが、一方で、住民自治の強化が求められます。
現在では住民参加のための仕組みである地域自治組織、地域審議会などの仕組みが新たに導入されていますが、この本では、住民自治強化のための試行錯誤の取り組みの事例が紹介されています。上越市の「地域協議会」で無報酬の議員の実験が進められている模様、安芸高田市の「振興協議会」の成功例が紹介されています。安芸高田市の川根地区では強力な「小さな自治」=「振興協議会」が機能し、住民のアイデアや自立の競争を促す役割を果たし、マーケットまでも経営するに至っているのだそうです。
大きな制度改正は、それなりに時代の雰囲気を反映しているものです。そういう制度改正の趣旨を前向きに捉え、地域の生き残りのために、皆の智恵を結集すれば、地域が活性化する元気な事例も本の中にはあり、読んでいてホットします。合併の結果は悲喜交々ですが、最後はその地域の地力がものをいうことになるようです。合併の成否で問われるのは、最後は地域力そのものなのだというのが、読後感でした。

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紙の本

紙の本メディア危機

2005/09/03 23:12

報道を読み解くメディアリテラシーの重要性

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

古くて新しい問題として、メディアによる世論誘導という問題があります。
スピン・ドクターという言葉があるのだそうです。政治においてある出来事や話を「スピン」するというのは、特にマスメディアを使って、出来事や話を自分自身に有利なように、そして政治的ライバルに対して不利なように描写するという意味があり、この様な仕事のために雇われている人々は、多くの場合、「スピン・ドクターズ」と呼ばれるのだそうです。
読者としては、報道されるものは、現実そのものではなくそれが構成されたものであり論理的に分析できるということを理解しないといけない、それがメディア・リテラシーの基本的メッセージであり、スピンの根底に潜む利害関係を理解し、そのスピンが利用している手法を見抜く方法を教えるというのがメディア・リテラシー運動となっているのだそうです。
情報操作が行われる局面で、二分法的報道が行われがちなことを繰り返し主張しています。日々視聴率や読者数の獲得競争に曝されているメディアは、二項対立の図式を使って、より分かりやすい記事や番組を作る傾向がありますが、二分法では解決不能なものが、分かりやすさで人々に受け入れられていく危険がある、と。
「官から民へ」という議論についても、公的部門のモラルが崩れている中で、官は悪で民は善だという議論が人々の耳に入りやすいが、民営化や規制緩和で市場に任せればよい結果になるというのは単純であり、民間企業でも銀行の不良債権隠し、BSEの日本ハム、雪印、三菱自動車のリコール隠しなど数多くの民間企業にもモラル低下が見られ、問題は、日本の意識決定や組織の在り方そのもので、官も民も問題を抱えていると書いています。
軍隊まで民営化した結果、何が起きているかが、紹介されています。イラクでは、民間企業の提供する傭兵需要が「バクダッド・ブーム」と呼ばれ、民間兵士の賃金は高く、しかも、民間兵士は訓練の程度や交戦規則を守る意志について均質ではなく、形式上「民間人」であるため、軍隊による戦争犯罪を処罰するジュネーブ条約の隙間となってしまうのです。誰が民間企業兵士の行動を監視するべきか、という本質的な問題を多くのメディアは迫ろうとしないと、この本は問題視しています。
メディアによる情報操作の危険性を巡って、既に1920年代にリップマンとデューイの論争があったのだそうです。リップマンは、公正無私なメディアが的確な情報をもたらることに期待するのは無理で、参加型民主主義という幻想を捨て、私心のないエリートに政策の討議や決定の殆どを任せるべきだというものであり、これに対して、ディーイは、教育により市民や有権者に懐疑的意識を植え付け、この意識の普及によりメディアや政府を人々のコントロールのもとに置くことが可能になるとの考えであった、というものです。
さて、現在の評価はどうなのでしょうか。リップマンとデューイが論争を始めた地点からそう進歩していないけれども、メディア・リテラシーの教育を制度化し、地方分権や参加型民主主義を導入することで、扇動されない国民を作っていくしかないと結論づけています。
不正確ないし意図的な情報の洪水の中で、冷静に現実を見据え、報道内容を批判的に読み解くことの必要性が、実例を交えながら説かれており、今の時代に即応したメディア・リテラシー論の到達点だというのが読後の感想でした。

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紙の本

紙の本山岡鉄舟幕末・維新の仕事人

2005/05/01 09:32

敵味方を問わず信頼された人物像に迫る

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「晴れてよし曇りてもよし不二の山 元の姿は変らざりけり」と超越した心境を詩に詠んだ幕末から明治にかけての一人の男の仕事ぶりが清涼感を持って読者に迫ります。
私は、鉄舟は、官軍を突破し、官軍本営が置かれた駿府で西郷隆盛と交渉し、江戸を無血開城し、無用な維新の混乱を回避したという捨て身の功績は知っていましたが、それ以外の功績は正直なところ知りませんでした。このほかに知っているということと言えば、私も茨城県勤務経験があり、昔の幹部一覧を見る機会があった折に、明治4年に廃藩置県で茨城県が成立した際に、初代の参事(当時はまだ県令が発令されず事実上の茨城県トップ)として短期間在籍したことを知ったことでした。
当時は何故旧幕臣たる山岡鉄舟が顕官に叙せられたのか突き詰めて考えることもなかったのですが、この本を読むことで、鉄舟が無私に徹した行き方を貫くことで、敵味方を問わず信頼を勝ち得た当然の結果だということが理解できました。
江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、単身で西郷と面会。開城の条件について合意を取り付けることに成功した折、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させたことは有名な話。
明治維新後、徳川家達に従い、駿府に下った際は、徳川家の大リストラを引き受け、士族授産プロジェクトとしての困難な茶畑開発を成功に導いた話は始めて知った次第です。
廃藩置県に伴い、新政府に出仕、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任する中で、茨城県、伊万里県とも維新後の混乱した派閥抗争を、持ち前の切れ味鋭い仕事ぶりで収拾した事実が描かれています。酒宴で鉄舟を飲み潰させようとした相手を逆に飲み潰させ、翌朝遅刻したその者を大喝し解任、後任に人望のあった山口某を権参事に発令、山口権参事も旧怨を捨てて仕事に励んだ・・・というストーリーが続きます。伊万里県の内紛も同様の手法で短期間で収拾し、東京に戻っています。
その後は、西郷の依頼で、明治5年に宮中に入り、侍従として明治天皇に仕えました。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇を諫言したり、明治6年に皇居仮宮殿が炎上した際、寝間着のまま淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが記されています。与えられた職務を誠実にこなし、無私の仕事ぶりが回りに好感を持って受け止められていったのだそうです。
鉄舟の精神修行の背景には、剣・禅・書があったとの見立てが本の中で記されています。何か一つのことに徹底的に打ち込むこと、そのことで、揺るぎない自己を確立していったのが山岡鉄舟だったのです。

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紙の本

紙の本海からの贈物 改版

2004/10/16 22:01

マーラーのアダージョが文章になったような読後感。自分の内面を見つめ直す切っ掛けに。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 10年ほど前に、職場の上司からリンドバーグ婦人の手による「海からの贈物」という本があり、大変示唆に富むので読んでみるとよい、と言われ、図書館で本を借りたことがあった。しかし、どうもその時は読んでもピンと来るものがなかった。最近本屋で文庫棚を何気なく眺めていて、改めてこの本が目に留まった。購入して読んでみると、今回は前回とは異なり、非常に心に染み入る感覚をもてた。何だろうこの変化は、と。恐らく自分自身の年齢や意識の変化に関係があるのだろうと思う。
 リンドバーグ夫人は、一人になって自分自身を見つめ直すことの大事さを、一人きりの海岸での一週間の休暇中思いめぐらしながら語っている。不自由ではあるが、海辺での簡素な生活が自分自身をどんなに落ち着いた気持ちにさせるか、そしてそのことが自分自身を深く見つめ直す機会になることの意義を語り、」薦めている。働き盛りの仕事本位の生活にはないものが人生の午後が始まる頃には待っている、知的で精神的な活動に時間を割けるのは、中年からの人生であるとも語っている。
 「我々の生活が引き潮になっている時に、どうすれば生き抜けるのか」。「浜辺にいるとそれが比較的に分かりやすい。引き潮の時には普段知らずにいるある別な世界が現れる」。「この待機の瞬間に、海の底の世界を覗く機会を与えられる。海が引いたこの静かな時間は実に美しい」。「潮の満ち引きのどの段階も、波のどの段階も、そして人間関係のどの段階も、意味があるということの思い出かも知れない」。
 海辺での潮の満ち引きを人生模様に置き換えて語るそのデリケートで深遠な語り口には、思わず溺れそうになる。リンドバーグ夫人の境地には到底至らないまでも、その感覚を共感できる年代になったことを悲しむのではなく、楽しむべきなのだろうと思えてくる。
 この本の翻訳は、故吉田健一氏で、吉田茂元首相のご子息だそうだ。大変分かりやすい翻訳で、練れている。
 最後に一点。ブレークの詩の引用がある。「喜びを自分のために曲げるものは翼がある生物を滅ぼすが、通り過ぎる喜びに接吻するものは永遠の日差しに生きる」という詩だ。
リンドバーグ夫人は、「恐怖」が「翼ある生命」を滅ぼすと書いている。恐怖はその反対の愛によってでなければ追い払えない、心が愛で一杯になっていれば恐怖や疑惑が入り込む余地はない、と書いている。50年ほど前の随筆であるが、「恐怖が恐怖を呼び悲劇の連鎖が広がっている」今の世情にもぴたりと当てはまる真理を述べていると思う。
 

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紙の本

自立できない若者を大量生産する日本的メカニズムを説き明かすサル学者

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書の著者である京都大学霊長類研究所教授の正高信男氏の
話を伺う機会があった。携帯電話の普及が、携帯電話を作っ
た人の予想を超えた使い方をもたらしており、日本ではその
ことが家族の崩壊に繋がりかねないと警鐘を鳴らしておられ
た。

正高教授に依れば、固定電話の時代は一家に一台で家族単
位の情報集約が出来、子供の生活実態もそれなりに把握可能
であったものが、親とか家といった「窓口」を通さずに、子
供が自由に行動し始め。子供だけの世界を持つようになった。
最早、空間的に近いということは、「一緒にいる」保障でも
何でもなくなった、ということだ。

そこで、本の題名に繋がるのだが、携帯の普及そのものは、
必ずしも子供の「サル化」をもたらすものではなく、北欧な
どを見ると携帯の普及率の高さは、だらしなさと関係ないこ
とが分かると指摘しておられる。

「サル化」とは、容易に想像がつくように、NEETや引きこも
りといった自らの世界に閉じこもる若者やそれと対極に公私
の区分の出来ない、靴の踵を踏みつぶし、スカートをはいた
まま地べたに座り込む女子高生などの若者の生活実態のこと
を指している。

公私の区分とは、きりっとした服装や靴をきちんと履くこと
で世間に出る覚悟が出来ることから始まる、という分析。そ
れが出来ないと、公の人間として行動することを拒否してい
るということになると断言する。欧米と日本が違うところが
そこにあるとの論。

何故日本の場合はそうなのか。その分析が正高教授の学者と
しての真骨頂。教授の調査では、日本人の3歳から5歳のこ
どもは攻撃性が少なく、怯え度合いが少なく、社交性が高い
のに対して、米国は、攻撃性が高く怯え度合いも高く社交性
も低いとのことだ。

要は、日本人は学齢期までは「良い子」で育てることが子供
の親離れを助長できず、ひいては母親の子離れも助長できず、
自立できない日本人を大量に作り出している原因だと指摘し
ている。

よい子は親の期待どおりに行動しようとする。親は子供に辛
い思いをさせないように育てる。「お前にはあらゆる可能性
がある」と万能感を与え続けて育てる。そのまま思春期に移
行し、そこで人生初めての挫折感を味わうことに。

それを乗り越えられない若者は引きこもる。男の子は責任が
あるとされているので、責任を感じて引きこもる。女の子は、
挫折により、とにかく毎日が楽しければいいやと開き直るの
で、公の場でも私を通し、だから電車の中で大声で喋ったり、
化粧をしたり、スリッパ代わりにかかとを踏んだ靴で外出し、
と分析観察する。

パラサイトシングルはその結果に過ぎない。夢が叶わなかっ
た場合の答えを持っていない。自立感がないし、子供を持つ
ことなど考えない。自分が依存しているので人に依存される
ことなど考えられない。ましてや年金の掛け金を収める気に
は到底ならない。そういう引きこもりが100万人以上日本にい
る。

日本では自立を促す教育をしていない。教育は、ストレスの後
送りをやっているので、ストレスに強い子供が育たない。人間
は辛い思いをして脱皮して一人前になるのに、そのプロセスが
無い。ストレスに強い子供を育て、自立心を育める教育を行わ
ないといけない。この現象は、ニホンザルの集団と似ている。
群だけで生活しているサルは、母親から離れずに育つ。社会が
狭い。日本はサル化している、ということになるのだそうだ。





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紙の本

日独で前後して進む医療保険制度改革

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

平成17年の年末の政府・与党の議論で、最近の改革の中では大きな医療保険制度の改革案がまとめられた。秋からの議論が政治レベルで一挙にまとめ上げられた感が強い印象を受けるが、今回の改革は、少し前のドイツに於ける医療制度改革の議論に類似する面が強いことを、本書を読んで認識した。
ドイツの社会保障制度の沿革と現状に造詣の深い手塚教授は、日本の改革のスピードは、ドイツの於ける改革と比較してまだまだ遅れていると指摘している。ドイツは手厚い医療保険や公的年金の保障によって高度な福祉国家となったが、その福祉制度がもはや維持継続できない状態になっており、福祉国家のプロモーターであった社会民主党・緑の党連立政権ですら、福祉政策を大きく見直さざるを得なくなっている事情にあることを、EUの成立、東西ドイツの統一といった国際関係の変化の事情を背景にリアルに描いている。
教授は、「日独両国が直面する課題として、少子高齢化が、他の先進国に増して進んでいることがあげられる。少子高齢化により、年金・医療・介護の改革が待ったなしとなっているとともに、高齢者と若い世代の社会的公正・公平が問題となっている」と述べた上で、ドイツの医療保険は、「日本の医療保険のモデルとされ、その保障内容は広く、眼鏡、出産も無料、疾病後のクアなどにも保険給付がなされてきたが、財政悪化とともに徐々に給付の範囲が狭められ、一定地域の総医療費が、医療の供給者側と疾病金庫側で決められることになった」といった改革の流れにあると指摘しておられる。
しかしそれでも保険財政は赤字となり、更なる医療保険改革が始まり、その第1弾として当面の医療保険改革法が通過し、2004年1月からは、医療供給側の報酬等引下げ、医療の供給価格の抑制、被用者側の自己負担を広範囲に導入、歯科を医療保険の枠内から除外、医療保険給付範囲の限定といった内容の改革が施行されていることが紹介されている。
以上の内容は、最近の我が国の医療保険改革の議論の中でも同趣旨の議論が行われていることを見ると、このドイツの医療保険改革の議論が大いに参考にされていることが伺える。
また、手塚教授は、人口減少社会への決め手として外国人労働者の受け入れをあげる意見に対して、ドイツの経験に基づき、その効果に疑問を呈しておられる。ドイツのケースで見ると、「外国人の第二世代はドイツの教育、職業訓練からドロップアウトする例が多く、失業率が極めて高い。つまり、十分な教育がなされず、失業したまま高齢化し、それが今や大きな社会的負担となっている実態」があることから、少子化対策として外国人を受け入れる政策は、「短期的な人口減をカバーし、数パーセントのGDPのプラスに寄与したとしても、高失業を生み、失業者の生活保護の必要とともに、高齢化した外国人への負担増もあり、結局は社会的負担の方が大きくなる」と断言している。
いずれ日本においても外国人労働者の受け入れの問題が、国家的政策課題にのぼる日も遠くないと考えられるが、ドイツの先例は大いに参考になるものと思われる。
我が国において、高度成長の時代に制度化し、国民に約束した手厚い年金・医療給付の仕組みが、少子高齢化で持続可能なものでなくなっている中、ドイツの改革の後を追うように日本の制度改革が行われつつある状況は、この本を読むと、一瞬、既視感(デジャビュ)のような思いにとらわれる。

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紙の本

紙の本小説後藤新平

2005/12/09 17:54

明治大正の日本を作った器量の大きな官僚・政治家の足跡

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

過日都心のホテルで元同僚の結婚披露宴がありました。お相手は都庁にお勤めの才媛です。新婦は、都庁の幹部の秘書をお勤めの経験があり、その方が新婦側の主賓として招かれていました。
後日、その方から文庫本が送られてきました。「献本」とあったのでよくよく著者を見ると、その方が筆名で記した本だったのです。
戊辰戦争の賊軍側となった没落士族の家系の後藤新平は、苦学の末、文字通り自らの能力と努力のみで、若くして台湾民政長官、満鉄総裁、内務大臣、外務大臣、東京市長、関東震災後の帝都復興院総裁などの要職を歴任し、明治維新後の日本の国造りに強烈に関与した足跡がエネルギッシュに伝わってくる内容となっています。
器量の大きな人物というのは、この様な人を云うのだということが、著者の文章から熱っぽく伝わります。
目的を設定するとそのために最も効果的な手段を執ろうとする。そのために財政当局や周囲との軋轢が絶えなかったエピソードもふんだんに盛り込まれています。しかしそれにめげないところが、後藤新平の後藤新平たるところのようです。
以下、断片的ですが、記憶に残った記述を紹介します。
都市計画的な発想で関東大震災後の帝都復興を企てた後藤の復興計画が結果として実行されなかったことに関し、昭和天皇が、昭和58年の記者会見で、「それが実行されていたら戦災がもう少し軽く、東京あたりは戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあの時のあの計画が実行されないことを非常に残念に思っています」と言及されたというエピソードが紹介されています。
関東大震災の年に難波大助が起こした摂政の宮襲撃事件(虎の門事件)の際の警視庁警務部長の正力松太郎は、警備上の責めを負って懲戒免職処分になって失業中、少し前まで内務大臣として上司だった後藤新平を訪ね、「どん底の読売新聞を買収して経営したいのですが、至急10万円が必要です。何とかならんでしょうか。」と金の無心をした経緯が紹介されています。後藤は、「新聞経営は難しいと聞く。失敗したら未練を残すな。金は返す必要はない。」といってこれに応じたのだそうです。その金は、後藤が麻布の今の中国大使館が建っている場所にある自宅を抵当に入れてつくった金だったと書かれています。正力が金の出所を知ったのは後藤が亡くなってからのことだとも。
この本を読んでいるときに、懇意の読売新聞の政治部記者がひょっこりとタイミング良く遊びに来たので、「このエピソード知っている?」と聞くと、「読売関係者の中では結構有名です。よく知ってますね。」という落ちまでありました。
後藤は、有能な人への個人的援助を惜しまず、右は北一輝から左は大杉栄まで多くの人を援助し、多額の借金を残して亡くなったのだそうです。
晩年は、現在のNHKにあたる東京放送局総裁、ボーイスカウト総裁などを勤め、ボーイスカウトでは、「自治三訣」すなわち、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そしてむくいをもとめぬよう」と説いて歩いたのだそうです。
著者からこの本をお送りいただいたのは、「君らはまだ若いんだから大きな目標を見失うなよ」、との温かいメッセージが込められていたのだろうと、勝手に思った次第です。

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紙の本

近隣自治こそが地域再生の鍵

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

読後感は、一言で表すと、地域社会論の全体像を見通せたような気分とでも言いうるもの。

本の中では、経済システム、市場システムによる競争原理や政府・行政システムによる一律・効率化原理ではなく、地域社会レベルで協力、協働原理を基礎とした社会システムによって今日的な課題を乗り切るほかないとの時代認識に立脚する包括的・体系的な地域社会論・地域自治組織論が展開されている。これからの社会は、経済的豊かさよりも文化的・精神的豊かさがより重要であり、個人にとっての肉体的・精神的健康性、社会にとっての安全性・安心性・健全性といった価値がこれまで以上に重要となってくるとの認識の下に、環境や資源の有限性を視野に入れた場合に、「互譲と謙抑」の精神のもとに「健全・健康」に満ちた社会を持続的に形成できるのは「地域社会(コミュニティ)」とりわけ「近隣社会」しかないと断言。

今日の中央政府の機能不全は言うまでもなく、一方のセクターである市場(マーケット)も、危機的状況においてはかえって投機資金が暴力的な振る舞いをするなど、到底社会システムを十全に担いうる機能を果たしえないことは昨今の状況を見るにつけ明らか。その中で、安定した社会システムとしての近隣社会の再生、近隣自治の重要性が以前にも増して重要になってきているとの視点が示されている。

社会学の分野では、近年、社会関係資本(ソーシアル・キャピタル)という価値が探求され、地域社会に協力・協働の伝統の積み重ねがある地域ほど経済的パーフォーマンスや教育レベル、地域安全のレベルが高いことが実証されていることも指摘している。

特にわが国においては市町村合併が推進され「団体自治」が充実強化される一方、そのことが却って「住民自治」を後退させその基礎が掘り崩される懸念が生じているとし、そのような事態を回避するためにも市町村内の近隣社会レベルにおける「近隣自治」をより充実させる方策が不可欠となっているとしている。その中でも、わが国に伝統的な自治会、町内会といった地縁組織に期待し、その能力を引き出す手法の重要性について語っている。

国際比較も行い、近隣社会再生の議論は日本だけに特有な現象ではなく、EU統合が進む中での英国の近隣自治機構である「パリッシュ」重視の政策展開、欧州大陸の近隣政府重視の政策、米国における多様な近隣自治組織の活性化、アジアにおける近隣自治組織活性化の動きなどを見た場合に、同時代的な必然の現象であることも指摘。

政府にはそのような認識の下、今日的な視点でコミュニティ政策を展開することが求められているとしつつ、その場合に留意しなければならないことは、「近隣自治」の仕組みを法律で画一的に定めるようなことは不要であるばかりでなくかえって有害になるとし、仮に国法で枠組み形成を行う場合にも、「その自主的形成・展開を支援」し、各地で多様・多彩な「近隣自治」が咲き乱れることが望ましいとしている。

とき恰も団塊の世代が大量退職し、会社組織から地域社会に戻ってゆく時期にある。この世代の能力、資金力、意欲を地域社会活性化の材料として活用できるか否かが、今後の地域社会再生の試金石となる。人々がグローバルに思考し広域に行動する傾向が強まっているとは言っても、実態的な生活者としては日常生活は地域社会で営むほかはないわけで、おまけにわが国が超高齢化社会になればなるほど、この地域化志向は強まることは必定。

この本に書かれていることは、いまこそ今日的な観点に立ったコミュニティ再生策が、わが国の社会の安定にとって極めて重要な鍵となる政策であることを論証し、かつまた幸いなことに、歴史的な経緯からして、また、今日の人々の意識を忖度した時に、その再生がわが国において十分可能であることを論証。

現在政府・与党では、地域格差是正策の関連で、コミュニティ再生に関する基本法の制定を検討していると伝えられているが、この本はその背景となっている理論的・時代的背景を十分に説明。

評者は現在英国に在住し、パリッシュの実際などを調査する機会があり、また日本においては各地の地域活性化の取り組み事案、安全安心な街づくりの事案などを実地に調査する機会に恵まれた。EUの拡大や地方自治体の規模拡大の流れの一方で、欧州においても近隣自治重視、コミュニティ政策は非常に重要視されており、小滝氏の認識にはまったく違和感がない。


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参議院議員の骨太政治姿勢

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参議院議員の森元恒雄氏人が、「日本の課題、日本の進路」という本を書かれた。
比例代表の参議院議員の同氏にとって、選挙区が全国に亘るために普段有権者と接する機会が限定されていることを補おうとメルマガを活用し、これまで発信してきたレポートがある程度の分量になったこともあり、今回本に編纂して出版したとのこと。
通常政治家の本にありがちな自慢話は皆無で、内容充実、政策提言として一級、の、なかなかのものだと感心。その関心事項は多岐にわたり、産業再生、日本経済の諸課題、国際競争力、分権の国造り、生活とまちづくり、少子化対策、教育改革、持続可能な社会保障制度、新しい社会への諸改革、これからの日本の進路など、盛り沢山。
「まえがき」に、政治家と役人の違いが明確に書かれている。
・役人は自分の持ち場が明確で、権限と責任が限定されており、それ以外のことには基本的に口出しできない立場にある。
・一方、政治家にはおよそ持ち場が無く、議会の権限の属することであれば、何事であれ進んで関わることが可能である。
・もちろん、議員一人の力で動かせることには限界があることは言うまでもない。それだけに達成感、充実感に欠ける面があることは否めない。
・しかし、その反面、自分の関心事や問題意識の強い事柄、あるいは使命感を帯びた領域は、やる気さえあれば何処までも深く関わっていくことが可能である。
・およそ政治家の仕事には、ここまでで終わりということはない。
その上で、政治家としての森元恒雄氏が取り組みたいテーマと政治姿勢についてもはっきりと書かれている。
・地方分権は終生大切にしたいメインテーマの一つであり、更に、教育力の衰え、少子化の進行、国際競争力の低下、憲法をはじめとする諸制度の疲労、我が国の地位の確保などの諸課題に積極的に取り組んでいきたい。
・政治家の仕事が学者や評論のそれと大きく異なる点は、真相の究明、真理の追究に止まらず、国民との対話を通じてその声を真剣に受け止め、それを国の政策や予算などに反映させ、その実現を図ることにある。
・人的資源以外に見るべき資源を持たない我が国は、常に歴史と世界から学ぶという謙虚な気持ちを忘れてはならないと思う。
・一人の政治家に出来ることには自ずから限りがある。しかし、一人がその気にならなければ何事も始まらないことも事実である。
選挙のことよりも読書や勉強が好きだという森元恒雄氏は、政治家としては変わった方かも知れないが、その視点は骨太であり大いに参考になる。こういう参議院議員が増えて欲しいと思う。

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時代のけじめの犠牲者

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この本を読むと、「鈴木宗男という利権政治屋に取り入って自らの栄達を目指す腹黒い外務省職員」というマスコミ的イメージはものの見事に翻り、「事なかれ主義の組織防衛に徹する外務官僚とは異なり、異能な情報収集能力を駆使し、ロシア、の学会、政界の枢要な人脈に食い込み、北方領土問題の解決という国家的課題に取り組む道半ばで、国策捜査に巻き込まれた、真の国益を考えていた国士」というイメージに鮮明に変わる。
取り調べ検事とのやりとりが具体的に記されている。検事の言葉は迫真性を持って読者に迫る。
「これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は、時代のけじめをつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです」、「運が悪かったとしか言いようがない」、「評価の基準が変わるんだ。何かハードルが下がってくるんだ」、「法律はもともとある。その適用基準が変わってくるんだ。特に政治家に対する国策捜査は近年驚くほどハードルが下がってきているんだ」、「あなたはやりすぎたんだ。仕事のためにいつのまにか線を越えていた。仕事は与えられた範囲でやればいいんだよ。成果が出なくても。自分や家族の生活を大切にすればいいんだよ。それが官僚なんだ」。
佐藤氏の記憶力は抜群で、記憶は「映像方式」、何か切っ掛けになる映像が出てくると、そこの登場人物が話し出すのだそうだ。それにより、検事とのやりとりを克明に再現できている。
佐藤氏の情報収集能力は、目覚ましい実績によって評価が高い。エリツイン大統領辞任とプーチン首相の大統領代行就任を世界の先進諸国に先駆けて入手したのは佐藤氏なのだそうだ。
今回の「事件」で、政府にとっての異能の情報ルートを、国策捜査は絶ちきってしまった。ただでさえ十分でないといわれる日本の国際情報収集の能力が、更に凡庸な情報収集能力に惰していくのか心配である。
佐藤氏は、「時代のけじめ」の意味について、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換という二つの線があり、その線の交差するところに鈴木宗男氏がいた、という見立てている。
同志社大学で、組織神学を学んだ佐藤氏は、旧ソ連のゴルバチョフ政権時代、当時のソ連共産党幹部に、キリスト教社会主義、ロシア正教会などの関係について、神学専門家としての初歩的な説明を行ったことから、ロシア政権中枢との深い関わりが始まった経緯が書かれている。共産党幹部に、当時既にイデオロギー的有効性を失っていたマルクス・レーニン主義にロシア政教を再評価することで共産主義イデオロギーを再活性化できるのではないかとの思いがあったようである。深い哲学が佐藤氏にはあり、これが信頼関係に基づく人脈形成に繋がっていったとのことが淡々と描かれている。
512日間の独房生活は、「読書と思索にとって最良の環境だった」と吹っ切れた心境を吐露している。そして、「困難な外交交渉を遂行するためには、日本国家が天狗の力を必要とする状況は今後も生じる」、「誰かが国益のために天狗の機能を果たさなくてはならない」と、自らの国益重視の心情を述べている。佐藤氏は、刑事被告人になったことで、決して自らを卑下していないことが分かる。
非常に読み応えのある本に出会った思いがする。

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紙の本

紙の本お経の話

2005/07/31 11:22

手短に仏教教義を体系的に理解できる本

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この夏に岳父が急に亡くなり、女房の実家で通夜、告別式と、慌ただしく済ませてきた。

通夜と告別式の関係は、地域によって大きな違いがあるようだ。通夜に一般の人も来られる地域があると思えば、女房の実家の地域周辺では、通夜は親戚などの本当の近親者で執り行う。今回の葬儀もその通りで、通夜は20人くらいの近親者で自宅で行った。

菩提寺の曹洞宗住職に丁寧な読経をおこなって頂た。節回しをつけた御詠歌を尼さんと一緒に詠い、そのもの悲しい旋律が遺族の心に響いた。「諸行無常」の内容が詠われているのが分かった。

読経の後で住職から講話があったが、仏教では、世俗のうつろいやすい価値観を超越し、何時の世にあっても変わらぬ真実を人々に語っているのだと語っておられた。「今日までは正しいとされた価値観が明日には全く逆の評価をされる。前に進めと言われたら今度は後ろを向けと。そういうことは世俗の世界ではよくあるが、仏教では2000年以上にに亘って続く真実を伝えている。」と。

「諸行無常」はその絶対真理の一つなのだ。

以前渡辺照宏著の「お経の話」を読んだが、この本の中には、「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」(諸の行は無常なり これ生滅を法となす 生滅にして滅しおわらば 寂滅してらくとなる)という般若経の一部の漢訳文があると記されている。この漢訳文の意味を今様歌に作ったのが「いろは歌 = 色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」で、一般的には弘法大師の作と伝えられているものの、七五調のいわゆる今様歌は大師の時代よりもずっと後の成立、と書かれている。

ところで、通夜の講話の中で、住職から、岳父は生前得度を得ていたということだった。岳父は信心深かったのだ。得度に至るには、それなりの修行が必要で、勿論出家修行ではなく、在家修行なので、無理な修行は出来ない。

住職によると、仏教では、いろいろな欲望や迷い悩み多いこの現実世界を「此岸」(しがん)と、苦しみのない理想世界を「彼岸」(ひがん)と教えるのだそうだ。迷いの此の岸を去って悟りの彼岸に渡るという意味なのだ。その修行の代表的実践行為が、「六波羅密」で、「向こう岸へ行く方法には6つある」ということになる。その6つの方法とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧なのだそうだ。

住職は、このうち、布施と持戒について講話をした。

「お布施」というと、お坊さんの読経のお礼に渡すお金、という印象があるが、そうではなく、本来は執着心を外すところに意味があるのだそうだ。従って、例えば、自分の所有物を分け与える、つまり自分のものだと、と思ってぐっと握っている手を離すことでそれが執着を離れる実践となる、ということなのだそうだ。

持戒に関しては、「戒」というと、遵守すべき決り事という感があるが、仏教の「戒」は、むしろ「習慣づけ」といった意味合いが強いのだそうだ。戒を守るのではなく、自分が戒に守られている、戒を守ることは、自分が戒に助けられていることだ、と考えるのだそうだ。釈尊の戒めをまもり、清らかな心を保つことで、平和な生活は持戒の徳の上に築かれていくものだということになるのだそうだ。

以上、通夜の席での住職の話ではあったが、「お経の話」のお陰で、仏教教義の奥深さを、私なりに少しは「体系的に」感じることが出来た。

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紙の本

紙の本日本教育小史 近・現代

2005/11/15 00:47

維新時の地域主導の学校設立

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都立大学の総長をなさった教育学者の山住正己氏のロングセラー「日本教育小史」(岩波新書)をたまたま古本屋で目にし、購入しました。明治維新前後の混乱期の地方における学校の自主的創設について、興味深い事例紹介があります。
まず、維新を積極的に推進した新政府首脳にとって、文明開化は大方針であり、当時、教育によって陋習を破り知識を世界に求めようとの建言が続いた経緯が紹介されています。
・明治2年(1869)木戸孝允は、戊辰戦争が終わるやいなや、「一般人民の知識進捗を期し、文明各国の規則を取捨し、徐々全国に学校を振興し、大いに教育を布かせられ候議は即ち今日の一大急務に存じ奉り候」と、普通教育振興は急務だと朝廷に建議。
・伊藤博文も、東西両京に大学を、郡村に小学校を設け、都市僻村の区別なく「人々をして知識明亮たらしむ可し」(「国是綱目」)と建言。
こうした政府内部の検討が行われている中で、明治政府の政治をまたずに各地で独自の構想による学校設立が始まっていたことが紹介されています。
・「各地における学校設立の動きで特に目立ったのは、京都の事例で、明治2年から翌年にかけて、市の64の町組に小学校が設立された。小学校であるから、その仕事の中心は子供の教育であるが、同時に地域の福祉・文化・治安などのセンターを兼ねていた。」
・「名古屋県も住民の協力により、『義校』と称し、京都よりも大規模な学校建築を始めていた。」
・「沼津の場合は、徳川家の静岡移封にあたって随行した洋学者たちが沼津兵学校を設立、その予備門として附属小学校を設け、庶民の子弟にも門戸を開いた。その小学校では自然科学の他、従来は為政者にのみ必要とされていた歴史の教育も行われており、その教育課程は注目に値する。」
この様な動きを支持し、更にそれを促進しようとしたのは福沢諭吉ら洋学者たちであった由、その福沢先生は京都の小学校を視察し、日頃考えていたことがここにはほぼ実現されているのをつぶさに見分し、感動をこめて「京都学校の記」で報告しておられます。
・国の学制公布をまたず、明治2年に開始された京都の学校作りは、東京遷都に対抗して、人材育成により京都の再建を図ろうとするもの。
・小学校の設立費用は「官」と市中の富豪が折半、加えて各区の戸毎に一様に運営費用を賦課。資金の出納は区の年寄が管理し官員は一切関与せず。
・「小学校の教師は官の命を以て職に任ずれども、給料は町年寄の手より出るがゆゑに、其実は官員にあらず。」
国を頼ることのない、自立する人々の作り上げる公共の教育環境が130年前の京都に芽を出していたのです。地域社会の教育に対する本能的な情熱を如何に引き出して教育力を高めるのか、義務教育が危機に瀕していると言われている中で、危機打開の方策について、国と地方の対応の在り方が問われます。
現在の中央教育審議会は、義務教育における国の役割が重要だと強調していますが、残念ながらその議論の背景には地方不信の考えが見え隠れします。
しかし、もともと子ども達の教育は、子供が地域社会の遺伝子を受け継いでいるという認識の下、どんなに貧しい時代でも地域が真剣に担ってきた歴史があるのです。米百俵の話は長岡市の話ですが、他にも、地域社会の教育に対する思いを伝える歴史的事実は沢山あるのです。
現行の義務教育費国庫負担金が維持できなければ、「義務教育が崩壊する」という発想は、如何にも偏狭な考え方のように思えて仕方がありません。負担金の削減分は地方税源の移譲により確保し、しかも明治時代にはなかった地方交付税が財源保障をする時代です。「五箇条の誓文」ではありませんが、文部科学省自身が「旧来の陋習を破り」、発想の転換を果たし、地方分権時代にふさわしい義務教育財政制度の構築に前向きに取り組むことが期待されると、この本を読んで思いました。

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紙の本

紙の本フランスの地方分権改革

2005/11/06 23:15

分権国家に転換したフランスを紹介

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「自治・分権ジャーナリストの会」という団体がありますが、2004年に有志でフランスへ地方分権の現状を調査に行った結果を本にまとめたものがこの本です。
フランスはフランス革命以来中央集権国家の典型的な国として有名でしたが、1880年代のミッテラン政権による第一次地方分権改革を経て、現在は保守のシラク政権による第二期の分権改革が進行中です。2003年には地方分権を大きく支える内容の憲法改正まで行われ、急激に地方分権への舵を切っています。
その理由は何か。欧州の国々から異口同音に聞こえてくるのは、「権限移譲が国力を高める」という確信に満ちた論調であり、裏を返せば、国際社会の中で一定の国力を維持するためには、「中央政府がこまごまとしたことをやっている場合ではない」という現状認識がある、と記されています。
特にEUの場合は、加盟国間の激しい経済開発競争があり、域内の人や物、金の移動が自由になった結果、企業誘致などで地域間の競争が激しくなり、国境を越えた地域間競争に勝つためには、小回りがきき、更に一定の財政力を持った塊が必要であり、国という単位では大きすぎて小回りがきかず、意志決定に時間がかかるという難点がある、といった背景事情の説明があります。
そうは言っても、フランス革命以来の「自由・平等・博愛」の中で、特に平等原理が好まれるフランスのことなので、話はそんなに単純ではなく、様々な悩みもあるようです。
フランスは、自由と平等の間のバランスの取り方に苦心しながら、大きく分権化に向けた舵を切っているとの分析がなされています。
1982年の第一次分権改革では、
・国の事前の後見監督廃止
・県行政の執行権を地方長官から県議会議長へ移譲
・州の地方自治体への昇格
が制度化され、
2003年の憲法改正では、
・憲法上、地方分権原則の導入
・地方自治体への「実験的試行制度の導入」
・(地方自治体の代表性が確保されている)上院に、地方自治体の組織に関する上案の先議権の付与
・州を憲法上の地方自治体に加えたこと
・補完性原理の導入
・(議会の発意による)意志決定型の住民投票制度の導入
・財政自主権に関する原則の導入
が制度化され、関連の法律が矢継ぎ早に制定されたことが紹介されています。
第一次分権改革の以前に制度化された地方財政委員会の仕組みも紹介されています。「国と地方の協議の場であると同時に、交付金を分配する意志決定の場である」との機能を有する組織なのだそうです。
フランスの地方分権改革と日本のそれを比較すると、フランスの改革は日本よりも10年以上先を行っているという印象のようです。フランスは1982年の第一次分権改革をスタートとし、日本は1995年の地方分権推進法の成立と地方分権委員会の発足をスタートラインとする、ととらえ、そこから両国がそれぞれの制度改革の動きが始まったと比較しています。
思えば、日本も、フランスと同じく、旧社会党の村山首相の下で分権改革の流れが始まり、それが小泉政権の三位一体改革に引き継がれているのと、フランスが革新系のミッテラン政権で始まった分権改革が、保守のシラク政権で更に拡大しているのと軌を一にしているところがあります。三位一体改革も、紆余曲折を経ながらも、補助金を大幅に整理し、着実に国から地方への税源移譲という成果を残しつつあります。そして、フランスの後を追うように、昨今の憲法改正の議論の中で、地方自治に関する条項を厚くし、欧州自治憲章などの国際標準に沿ったものとする提案が自民党などから示されています。
この様に見てみると、地方分権化の流れは、現代の世界の潮流であり、そういう巨視的な視野で、現在の地方分権の流れを見ていくことが必要だと思えた次第です。

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