よっちゃんさんのレビュー一覧
投稿者:よっちゃん
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罪と罰 改版 上巻
2004/04/07 18:34
学生時代に読んで「ラスコーリニコフはなぜ高利貸しの老婆を殺害したのだろうか?」という基本の問題提起が解けぬままその後私は40年近く生きてきたわけだ
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高校か大学の時か、記憶の中に残ったのが唯一ラスコーリニコフの犯罪論であった。
すべての人間は「凡人」と「非凡人」に分けられる。凡人は法律を踏みこえる権利はないが非凡人はあらゆる犯罪を行い勝手に法律をふみこえる権利を持っている。そしてその理論から導かれ微細な罪悪は百の善行に償われるとし、前途有為の貧しい青年が生活の糧の金銭目当てで有害無益な高利貸しの老婆を殺害することは許されるとした確信犯的・哲学的殺人であると理解した。
当時、安保闘争からベトナム反戦などの学生運動の渦中にあって漠然と権力とはそういうものだろうと思い、映画でナチスを痛烈に批判したチャップリンの『殺人狂時代』に重なったそんな印象が残っている。
次の読んだ時は二年前であった。人々を隷属させていたもろもろの制度、政治・社会構造、宗教も含めロシア的なるものが崩壊しつつ、自由主義・個人主義、合理主義・社会主義など近代という新時代の思想・社会観・人間観が台頭する。それらの輻輳するはてしない混沌とそこに生きるものの戸惑い・苦悩・憂鬱、慟哭、そしてその閉塞状況の中で登場人物それぞれが主張する自己存在性の強烈な主張に私は圧倒された。
『蛇にピアス』を読んだあとでこれが三度目の読者体験である。そして、19世紀の中ごろの作品であるが、現代という社会、よりどころを見失った日本人が目下漂うところにある混迷と苦悩に深く共通するものがあること気づいて驚嘆させられた。これがまぎれない「古典」の価値なのだろう。
学業を放棄し家庭教師のアルバイトにも嫌気をさし着るものも食うものもなくひたすら小部屋に閉じこもるだけの青春。この逼塞状況にあるみじめな自分から本来あるべき自分へと高く飛躍しなければならないと焦燥感をつのらせ、そして一歩踏み込むのがラスコーリニコフだ。短絡的だが、芥川賞『蛇にピアス』の三人の男女の奇矯で異常な行為もあるべき自分を無意識にではあるが求める結果であれば、ラスコーリニコフ的踏み込みといえないことはない。知性もあり教養を身につけた青年たちが人生を真剣にみつめた結果、本来の自分をもとめてオーム真理教の無差別殺人へ踏み込んだのはまさに現代版の『罪と罰』であった。
ラスコーリニコフにとって本来の自分とは征服者・英雄「ナポレオン」であった。将来の「ナポレオン」である彼は犯罪理論を具体化し、老婆殺しを実行する。しかし理論としては完全であり輝かしい第一歩であるにもかかわらず彼の懊悩は晴れるどころかますます深まるのだ。なぜだろう。
どうやら『罪と罰』は、ラスコーリニコフの犯罪動機を問題とするよりも、この強盗殺人の行為を罪であるとし、彼に罰を課し、さらに彼がその罰の受ける代償として救済される、つまり文字通り罪と罰のこの道筋を彼の内心がどのように整理するのかを問題とすることにウエイトがおかれているようである。確信犯であるからこの犯罪では法は彼に服役を科することはできても彼の内心を裁くことはできないのだ。無神論者である彼を神は裁くことができないし神は彼の魂を救うことはできない。そして最終章にいたるまで彼の心に突き刺さった咎めから彼は解き放たれないのだ。
しかし感動的なエピローグで突如として彼は喜びに満ちた復活を予感するのである。なにによってか? 聖なる娼婦ソーニャの愛か? 人間の絶対的尊厳性への目覚めか? ドストエフスキーは直線的に語ることがない。ミステリー愛好家でしかないわたしは実はこの覚醒感を三度目の読書体験をもってしても実感できないままでいる。結局「わかった」と言えぬままであるが、このボリューム感をたんのうできた。一仕事したあとの心地よい疲労感、爽快感がうれしかった。
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