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  3. じゃりン子@チエさんのレビュー一覧

じゃりン子@チエさんのレビュー一覧

投稿者:じゃりン子@チエ

67 件中 31 件~ 45 件を表示

失恋芸人化する藪内笹子

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 「一生藪内笹子だけ描いて生きていけるかも知れない」と思ったらしい、しりあがり寿の笹子シリーズ三作目。笹子の失恋はもはや芸になってます。「瀕死のエッセイスト」という、死を描いておそろしく幻想の無い作品をも、ダ・ヴィンチ誌上で死に芸(?)マンガにしちゃった作者だけあります。一巻に比べるとギャグそのものがベーシックなものになった印象はありますが、まだまだ楽しめます。
 ところで、椎名誠の「場外乱闘はこれからだ」に、ノイローゼで精神科に通っていたときのことが書いてありまして。その当時はずっと厚いジャケットを着込んでいたが、回復してからは重苦しくて着られなくなった、という記述を発見しました。これが「心が寒くてコートが脱げない」という笹子のセリフにあまりにぴったりくるので、母に話したところ「あんたもあんたの弟もいじめられてた頃はびっちり厚いジャンパーを着込んでたもんねえ。ホントに心が寒いとそうなるのよ」と、えらくしみじみとした答えが返ってまいりました。なるほど。
 しかしですね、何の根拠もありませんが、しりあがり寿は「コートが脱げなかった」事はない人だと思うのですよ。でも、彼は「コートが脱げない人」をその本質からとっつかまえて描ける人なんですよねえ。すごいです。不思議です。

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紙の本童話作家はいかが

2002/09/21 02:33

斉藤洋の風が吹く

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「児童文学は子供の頃に読んだっきり」なのに講談社児童文学新人賞に応募し、一発で受賞しちゃた斉藤洋は今では児童文学に欠かせない人だ。偶然買った日刊ゲンダイに告知が載ってなかったら、きっと「童話作家になってはいなかった」、という著者。今でも亜細亜大教授でありながら作家、という生活の彼が「ルドルフとイッパイアッテナ」を書き上げるまでの話はかなり印象深い。
 まず、教養小説を書こうと決める→研究対象であったドイツのホフマンの代表作「雄猫ムルの人生観」を換骨奪胎しようと決める→日本人に受ける要素を入れようとして「忠臣蔵」、すなわち仇討ち話を入れる。
 プロットを先に立ち上げてから、肉付けをしていったそうな。合理的! さすが、当時から亜細亜大で非常勤講師として学者の卵をやっていただけある。
 合理的といえば、p数が60〜300枚に設定されていたが何枚書いてよいのかわからず、近くの本屋で児童書を一冊買ってきてそれが200枚だったから200枚にした、という話もおかしい。さらに、その本が全く面白くなかったので「こういう本にはしないぞ」と心がけながら書いたなんて話も。本の題や作者は当然明らかにされていないが、なんだか目に浮かぶようだ。
 児童文学というのは風通しの悪い業界だ。よくは知らないが、きっとそうだ。あの業界では「子供のため」という大義がまかり通っちゃうからである。大義なんて代物、ろくなこと無い。大義を持った人々は大概その「正しさ」のせいであんまり物を考えなくなっちゃうからだ。
 斉藤洋のこの本はそんな中にあって、えらく風通しがよい。物語を作る楽しさも児童文学の奥深さも業界の厳しさも、全部ひっくるめて書いてあるのに気負いがない。落語好きとのことで、サービス精神に溢れた文章はトントン進んで読み易い。その中に時折混じる批判精神はピリッと辛く、直球だ。
 タイトル「童話作家はいかが」には実はシビアな三重の意味が隠されている。答えが知りたい方はどうぞ。

 それにしてもやっぱり「ルドルフとイッパイアッテナ」は人間が書いた物だったのか…。いや、そうだろうとは思っていたけど証明されてしまうとさみしいものです。例えて言えば「クリスマスにプレゼントを置いてくれるのは両親と知っているけど、フィンランドにはサンタがいるんじゃないかな…」と思う、ではなく願う心情。人間の文字が書ける猫はやっぱりいなかったんですね…。ううむ。

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天才アラーキー世紀末という嘘をつく

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 「表現だ芸術だ」と言うごたくで写真を見ることのない弟に、この本を見せたら「陰鬱な本だ」「怖いというか、風景が悲しい感じ」と言った。そういえばアラーキーにはエロスとタナトスをあわせた「エロトス」と言う言葉があった。「死とエロスは隣り合わせ」とは時々聞くが、それが知覚化されているというのは確かに怖いかも知れない。
 しかし「私日記・世紀末」と言うのは、アラーキーらしい嘘に満ちたタイトルだなあ。最近思うことだけど、荒木経惟はきっと「天才写真家アラーキーを演じている」役者さんだ。荒木経惟に詳しい方なら「何を今更」と思われるかも知れないし、逆に「そう単純ではない」と思われるかも知れない。ともかく私はそう思った。そして、この本はそういうアラーキーの演出によって成り立っている、確信犯的な本なのだ。
 使用したカメラはティアラだそうだ。手のひらに入る小さなカメラ。映し出された風景は私的でとりとめがない。仕事中のおねえさん達の写真も混ざる。「ん? この人はガロの表紙で見たことがあるような…。でもそれは1999年じゃなかったはず」。全ての写真に日付が入っている。かといってこの写真が時系列順に並べられているのか、というとそうではない。写真自体は1995年に撮られた物だったりする。色々が嘘なのだ。
 そのうちにフィルムに線が入り始めてきた。カメラに傷が付いたのか。それを「世紀末の傷」を受けたなんて言うところもいかにもだ。演出家アラーキー。
 ドキュメントのようでいてフィクションな写真たちは、「世紀末」という言葉を聞かされた後には随分となまめかしく写る。いや、実際写真そのものがエロトスだけれどね。しかし、全てがアラーキーの演出なのだ。日常を見せる振りして、見る物を惑わせる。彼のほくそ笑む顔が見える気がする。最後の写真もわざとだな、これは。
 現実の日常と作者の演出。そのはざまがよくわからん。どこまでが嘘ですか、荒木さん! 「世紀末という嘘」が写された写真集。

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紙の本天涯 第1 鳥は舞い光は流れ

2002/09/12 03:32

沢木的な「旅」の写真集

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 当然のことだが、写真集として見るのであればこの本の水準は低い。けれど、「旅の本」として味わうのであれば、確実に良書として紹介できる。そういう本。
 言うまでもないことだが、沢木耕太郎は写真のプロではない。フレーミングはシンプルで隙だらけだし、手ぶれも多い。荒木経惟のようにカメラを肉体化していない彼の写真は、作者自身が「ディケイド〈十年〉のスケッチ」というように淡々とした記録としての写真だ。私小説性の薄いその写真たちは、しかし、一冊の本にまとめられたときに、「旅の本」として不思議な魅力をはなつ。
 仕掛けは言葉にある。作者自身の「旅」に関する散文と、多くの物語から抜き取られた文章。アルバムのようにまとめられた写真の横に添えられた文章はとりとめないようでいながら一つの主題をひっそりと映し出している。
「旅はなぞれない。なぞろうとすると復讐される」。
「その時、幻想は悪賢く罠を織り始める。私は「本当の」旅の時代に生まれ会わせればよかったと思う。旅人の前に展開する光景が、まだ台無しにされていず、汚されても呪われてもいず、その有丈の輝かしさのうちに自己を示していたような時代に」クロード・レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』。
 沢木耕太郎は一貫して「時間」にこだわる作家である。「敗れざる者たち」も、「テロルの決算」も、「オリンピア」も、年齢という形で「過ぎゆく時間」というテーマを照射している。彼の文章が当初から持っていた普遍性は、おそらくそういった「時間の持つ残酷さ」に由来しているのだろう。
 この本もその例外ではない。「旅」という経験の中で過ぎゆく時間。とりとめのない写真の中に挟まれた言葉は、通り過ぎていった時間を、私的な感傷ではなく普遍的な経験として蘇らせる。旅の中にある孤独、寂寥、倦怠、そして麻薬のような魅力。そういったものを、まるで追体験させるように読者のうちに再生させるのだ。
 この本は
「私は旅をする」
という一文で始まり、「旅の終わり」に関する文章で終わる。その文章構成は、旅に関する記述であると同時に、作者の哲学のような何かを予見させるものになっている。そういう意味では、いつも通りの沢木耕太郎の本。
 そして、この本のもうひとつの注目点は実はサイズにあるのだ。彼自身が言っていたことだが、どんなに魅力的でも通常の写真集というのはなんとなく眺めるのにあまりに大きすぎやしないか。いつでも気軽に開けるような写真集にしたい、とのことでふつうの単行本サイズとしてできあがったそうだ。そういえば、この後から電車で広げられる大きさの写真集が増えたような …。もし最近の写真集の形態の変化がこの本の影響なら、無意識のうちに革命的なことをやっているのだな。沢木さん。

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紙の本かつをぶしの時代なのだ

2002/09/09 23:46

椎名沢野が新人だった頃

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 小学5年生だったある日、椎名誠の面白さに目覚めた私はとにかく家にあった椎名本を片っ端から読んだ。いつでもどこでも読んだ。家で読んだ。教室で読んだ。習い事に行くバスの中で読んだ。どっぷり「椎名な日々」だった。が、しかし、小学生には沢野ひとしの絵は馴染み難かった。何処を見ているのか分からない不振な眼の男。横に添えられた何が言いたいのかよく分からない文字。意味不明だった。ちょっと怖かった。おびえていたと言った方が近いかもしれない。
 そして、この本の表紙は両面そんな沢野絵テイストに溢れていた。マスクを付けた男が「女の敵は女なのだ」「フッフフ」と言ったり、「おせるうちはまだよかった、妻24才」「今はひっぱるだけ、妻34才」の隣におっぱいの絵が描いてあったり、いかがわしかった。悪いことをしているような気分になった私は、バスに乗る前、カバーを剥いだ。すると本体(?)にも青地で同じいかがわしい絵が!! しかたがないのでカバーをひっくり返し、白地の部分を表紙にして読んだが、何だか奇襲を受けたようで驚愕したのを覚えている。
 そんな私も20を越え、「このころの沢野絵が一番エネルギッシュだったんだな」と、思うようになってきた。意味不明度が高いほどエネルギッシュと言うのも妙だが、気持ち悪さと情緒が無理矢理同居しているあの感じ。今となっては懐かしい。読み返してみると、あの意味不明の文言が実はギャグだった、と言うことも分かってきた。若き日の椎名誠は一生懸命「ナンセンス」に挑戦しながら世界を観察していたんだな、などと思うようにもなった。「昭和軽薄体」と言う言葉と椎名誠が結びつかなくなって随分経つのだろうけど、このころの意味のないノリはやっぱり最高に面白かったなあ、と思ったりもする今日この頃でした。

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紙の本はじまりのレーニン

2002/09/09 03:05

レーニンという怪物

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 すいません。何が書いてあるのかはよく分かりませんでした。唯物論も弁証法も資本論も三位一体もよく、あ、いやむしろ全然知りませんので検証は出来ませんでした。でも、この本は面白かったです。読んで「レーニンって怪物だったのか〜」と思いました。
 「はじまりのレーニン」の第一章「ドリン・ドリン!」は、彼の笑いを糸口にして始まります。
 トロツキーが描写するレーニンの笑いはとても魅力的です。魚を釣り上げたとき、子供や動物と共にいるとき。ゴーリキー曰く「彼はからだ全体で、ほんとうに「波を打たせて」、陽気に、時には涙まで浮かべて笑った」。
 そこで、著者はもうひとつのレーニンの笑いを引き合いに出します。ボリショイ劇場での第五回ソヴィエト大会の席上でのこと。レーニンとボリシェヴィキを激しく攻撃するエス・エル派左派のマリア・スピリドーノヴァの演説を聞きながら笑い出すレーニン。
「悪罵、弾劾、直接的な威嚇にさらされながら、彼は笑うのをやめず、やめそうにない。この悲劇的な事態の中にあって、彼の事業も、生命も、全てが危機に瀕しているのを知っている彼の、その茫洋として純粋な、巨大な哄笑は、場ちがいだと見る人もあるだろうが、私には異常な力の印象をあたえる。ときどき …一段と激しい罵声がほんの一瞬その哄笑を凍らせる。敵手にとっては、途方もなく屈辱感をそそり、憤ろしさに狂い立たせる哄笑である …」。
 面白そうでしょ。私はこの辺だけ読んで買ってしまった訳で。そして、著者はこの笑いの内実を、上にあげた弁証法だとか、唯物史観とかの観点から説いてゆきます。本題に入ると、知識の足りない人間にはついていけなくなります。さっぱりわかりませんでした。
 でも、面白いんですよ。哲学をたずさえて革命を遂行する怪物。その影が行間にちらほら見え隠れして不思議とスリリングな読書体験が出来ます。面倒でしたが、とてつもなく。
 そして、最後の数行と結びの文に到達して「あーっ! この文を解説するためにこの長くてわかり辛い膨大な文章があったのかーっ!!」と納得。それ自体は一瞬で読めてしまう文ですが、それがこれまでの苦労に報いるようにすーっと吸収されてゆく快感。中沢新一の気障でロマンチックな文章も手伝って、レーニンについての論文は、まるで活劇のように見事に閉じられます。
 中身を理解していないのにほめすぎですが。面倒な本につき合ってなおかつすっきりした読語の快感を味わいたい方にオススメ。

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買うならこれだ!行間のある写真集

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イベント毎に出版されるスポーツ写真集というのは大概良い紙で作られていて厚い。当然重い。ところが、写真そのものの枚数は少ない。勢いで買ったは良いが、しばらくすると邪魔になる。まったくと言っていいほど開かなくなる。最終的には、古本屋で買いたたかれて終わり。
というイメージがある(いや、実体験)。ひょっとすると、きちんと眺めて大切に見返している人もいるのかも知れないが、どうも買った分の元を取っている人は少ないんじゃなかろうか。心の底から盛り上がった、あのときの熱はスッと冷める。見返しても心が動かなくなった瞬間というのが結構寂しい。
 その瞬間の熱情や雰囲気を思い返したいのであれば、写真集より、雑誌のような断片的でいずれ無くなってしまう物の方が適している。日付や当時のライターたちのコメントを見て「ああこの時はドイツ対ブラジルなんて誰も予想してなかったんだな〜優勝候補フランスか〜」なんてのの方が、絶対的に楽しい。
 そんなこんなで、ワールドカップ写真集がバカバカ発売されているのを見て「ああこの本たちもいずれ古本屋ね…可哀相に…」なんて言っていた私だが、この本に限ってはなかなかいい。三センチ近い厚さがあるのに紙が軽くA5判なので、手に持てる。電車の中でも読めそうな案配だ。
 そして、この圧倒的な写真の量が本に行間を作り出す。ほとんどの写真集ではゴールシーン、歓喜のシーン、あとはぼちぼちうなだれるシーンなどが挿入されて、いかんせん濃口。主張が強すぎて見るのがしんどいことが多い。しかし、これは観客に手を振る瞬間、国歌を歌う瞬間、FKの際に壁を作る瞬間、試合後の健闘をたたえ合う瞬間など、さまざまな時間が切り取られていて飽きがこない。どうしても日本代表中心に構成せざるを得ない他の写真集に比べて、登場する選手たちも圧倒的に豊富だ。選手たちの様々な表情が淡々と、しかし、写真として美しい構図で載っている。監督の写真もわずかだが、くまなく載っている。サポーターの応援の様子のみを撮った写真も何枚か。このバラエティーの豊かさが、こちらの想像力を広げさせてくれる。まさに行間。写真には写っていない時間の存在は眺める楽しみというのを存分に味わせてくれるのだ。途中に挿入される選手たちのコメントもうまい。
 いくぶんか物語的に編集しすぎているキライはあるが、あの熱狂を淡々と編集することによって完成された写真集としてまとめ上げた、その巧みさが素晴らしい。2002年KOREA・JAPANの記憶を末永く保ち、なおかつ普遍的なモノにしている。
ほとんどのワールドカップ写真集は十年後には開かれなくなっていると思うが、これはきっと大丈夫。写真の張り付け集ではなく、写真集だから。

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アイディアもディテールも綿密に練られたエンターティメント毎回最終回のつもりで描いてますって?カッコイイなあ

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サトラレとは…
口に出さずとも自分の考えが周囲に「悟られ」てしまう不思議な能力の持ち主のこと。
常人とはかけ離れた強い意志が外に漏れだしてしまうと言う彼等は、例外なく天才である。彼等の能力を人類共有の財産と認めた政府は、人に思念が伝わってしまうという自殺をも引き起こすストレスから彼等を守るため、特別委員会を設置した…。
 超能力と聞いて思い出すのは藤子不二雄「エスパー魔美」と筒井康隆の「七瀬シリーズ」のみ、の私の感想だが、超能力者が無自覚に守られている話は珍しいのでは。現代社会を舞台にすると、超能力者ってはずれモノで能力を隠してこそこそしているしかなくて、人助けしても遠くで見守っているだけとか。悲惨な人たちだったのに。
 「サトラレ」では、彼等は守られる立場だ。彼等は自分がサトラレであることを知らない。周りの皆が必死になってその秘密を守っているから、サトラレたちは日常生活を送っていけるのだ。物語を支えるのは、サトラレの周囲の人々の魅力である。特に、臨床医志望の青年サトラレ里見をフォローする東先生と、自身がサトラレであることを知ってしまい、無人島で生活している白木。マンガは大人がきちんと描かれることの少ないジャンルだが、この二人の造形はとても説得力のあるものになっている。それゆえ、里見を見守る東の対応は頼もしいし、白木の、孤独を一人で抱え込んでいるのにも関わらず、他者に対する愛情を忘れない繊細な態度はもの悲しい。
 時に、かなり情緒的な話を展開しているのにも関わらず、白っぽい画面と時折挟まれる軽い笑いが淡々とした印象を与え、物語を抑制する。おかげであまりに人格的な登場人物がわざとらしくならず、静かな感動を与えてくれるのだ。
 感情的な話が長くなったが、アイディアもいい。想像してみて欲しい。
「もし、サトラレが恋をしたら?」
「臨床医になりたがったら?」
「棋士になりたがったら?」
感情が筒抜けなのに。作者はこのアイディアを全てきちんとまとめ上げて、こちらへカタルシスを与えてくれる。「毎回最終回のつもりで描いてます」という言葉にものすごく説得力がある。エンターティメントの名に恥じない作品だ。
 最近はサトラレが与える社会への影響と、人々がサトラレに向ける悪意にまで踏み込んで話を展開している。彼等の存在が徐々に脅かされてゆくのだが…。
 ますます楽しみ。早く続きが読みたい。
 
 余談だけど、ドラマのオダギリジョーは可愛いですね。

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紙の本NARUTO 10

2002/08/19 01:03

ジャンプのもうひとつのセオリーに泣かされました

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 少年ジャンプバトルマンガには負けキャラというのが存在する。いや、今私が言い出したんだけど。いるんすよ。
 まず、負けキャラの条件其の一、コンプレックス増幅装置としてのライバル(おおむね主人公)の存在。其の二、とにかく意味なく片思い。其の三、ギリギリボロボロまで戦って、負ける。代表例として、「ダイの大冒険」のポップ。「幽遊白書」の桑原和真。「ジョジョの奇妙な冒険」の虹村億泰が上げられる。もっといる気もするが思いだせん(異論のある方もおられましょうが、こらえて下さい)。ジャンプのセオリーが努力・友情・勝利だったら、負けキャラのセオリーは片思い・友情・惜敗。
 いやー痛い。必死で戦って服は裂けるわ、顔中斜線だらけ(傷だらけとも言う)になるわ。なのに腹に穴開けられたり、恋敵に助けられたり、ライバルにあっさり抜かれたり。
 なんで負けキャラがそんな苦労を強いられるのか? 彼等には重大な存在価値がある。彼等がボロボロになったり、主人公のために死んだりすると話が圧倒的に盛り上がるのだ。失った記憶が取り戻されたり怒りでパワーアップしたり。読んでる方も盛り上がる。○○の分まで頑張れ〜!なんつって。彼等の犠牲はいわばジョーカーだ。そうそう使えないけれど、使うと必ず物語は緊迫感と切実さを増し、残されたキャラにはどんな苦境をも乗り越えられるパワーが与えられる。えらいマンガ的な存在だが、そこにとてつもない魅力を感じるのは私だけではあるまい、多分。前置きが長くなったが、そういう意味で十巻はロック・リー(表紙で飛び蹴りしてる少年)が負けキャラとして、その魅力を十二分に発揮してくれた巻だろう。カブト、我愛羅の本性発揮、重大な新キャラ登場も面白いが、主役は彼だ。
 一対一のバトルというジャンプの伝統的舞台で、相手は砂の我愛羅。おでこに「愛」と書いてあるのが謎だが、全身に砂の鎧をまとい不可解な内面を持つ我愛羅は、強い。なんか、中ボスと言う感じ。強敵を相手にして、リーの強さと過去が徐々に明かされるてゆく。この過去が泣かせる。「NARUTO」は忍者マンガ。バトルの際には忍術・幻術・体術という基本能力の配分と、それぞれのキャラの特殊能力によって試合内容にバリエーションが付けられる。ところが、リーの能力は体術だけだ。もともと人並み以下の体術しか持ち合わせていなかった少年が、努力によって登り詰めてきたエピソードが明かされる。
 リーには、ネジという同じ班のライバルがいる。努力によってやっと勝ち上がってきたリーに対し、ネジは天才だ(天才だからって努力してないわけではないが)。ネジに勝つためのリーの努力は常に報われない。それでも、リーが延々と努力を続ける姿を見て、指導教官のガイ先生が言う。
 お前もネジを超える可能性を秘めているんだぞ
 「なぜならお前は…努力の天才だ」
 それを受けてリーが答える。それを信じて修行してきたけれど、本当の天才にはかなわないんじゃないか。努力は本当に報われるものなのか。
 「いくら努力してもボクは強くなれないんじゃないかって…」
 「怖くて怖くてたまらないんです!!」
 わかるでリー君! 私はキミほど努力しないけどな! そりゃ永遠のテーマだね! この後のガイ先生の対応がまたいいんだが、それは買って確かめて。そういう少年が、自分の全てをさらけ出して試合に臨むのだ。現在進行形の少年マンガで久々に感動した。ありがとう岸本斉史先生! どうにも、登場人物に情をかけすぎてしまうのがこの作者の短所でもあり長所でもあるのだが、この巻ではその情にやられた。ぐっときた。体術中心のバトルが見せてくれるスピード感のある戦闘シーンもマンガ的でいい。あり得ないことをささっと実現されるのもマンガの楽しみなのだから。あーやっぱり、お約束のジャンプ的展開って楽しいなあ。ごちそうさまでした。

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紙の本散文売りの少女

2002/07/22 19:33

あ、かるい殺人の行方

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 こんなに装丁が可愛ければそれだけでもう20%位OKな気分ですが中身もそれに違わず、しゃれてます。でも、起こっているのは殺人です。作者不明の本をめぐる殺人。ミステリーとしてはあっさりしたオチですが、物語の細部の小道具、舞台がなんだかおもしろおかしい。
 主人公の妹の結婚相手が「殺人犯を芸術活動に従事させることで彼らの心の平穏を保つ刑務所」の所長60歳、だとか、勤め先の出版社の女社長ザボ女王は「幼い頃ごみための中で、ニセ稀少本を作って金儲けをしていた」だとか。
 わあい、浮世離れだ。登場人物達もとっても魅力的なのに、友達にするのが面倒そうな連中ばっかり。なかでも、愉快なのが常に受け身の主人公マロセーヌ。持ち込みにきた大男に投げ飛ばされても、妹が60歳の紳士と結婚しても、脳天をぶち抜かれても常に変わらぬ彼の様子が、ううむキュートと言うべきかなんというか。おばかっ、でも好き!
淡々としてシニカル、統一されたトーンが気持ちよかった。また、登場人物達に会いたくなる本でした。

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古本家業も因果な商売

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 私にとって商売の話を聞くのは面白いもの、と相場が決まっていますがそれが映画専門古書店というのはいかがなもんでしょ。
「客数0人、売り上げゼロ」なんて書かれた日記を見ると、ついつい同情を禁じ得ません。作者、人と関わるのがしんどくて古本家業を始めたと言っておりますが、世間の目から見たらそれ以上に古本屋って辛そうです。同業者の死に直面すると、例えその人が懐かしく思い出されるお世話になった人でも、「じゃあこれからは競りであの人に負けなくてすむ」との考えが頭をよぎる。店番が出来るのは自分と嫁と叔母の3人だけ、映画を見るヒマもない。重い本を抱えて腰が痛む。店も土地もあるのにまるで根無し草のような不安定さが切ないコトこの上なし。
 映画学の資料散逸の有様を嘆き、喜劇研究の発達しないことを嘆く。作者のじめじめした嘆きの姿勢はしかし、映画に対する偏愛と、文字通り積み重ねの歴史が感ぜられて気持ちよいモノであります。
少々文章が読みづらいのを、日陰で文化を支える人間に対する敬意でチャラにして、三つ星。

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風の感触を呼ぶ本

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 うう、欲張りだ。おかざき真里。風、熱気、冷気等々、マンガの表現方法ではなかなか描けない季節の予感を描いて、さらに少年少女の成長の様子まで季節の変化に寄り添う形で読者に伝えるのだから。
 舞台はぬいぐるみが教師だったり、羽の生えた女の子がいたりという不思議な場所「めりの県」夏を呼ぶ少年シュウの訪れと共にはじまる恋の物語。さて、恋だ。恋を知ると孤独になる。恋するというのは他者の存在に気付くということだからだ。普通、マンガという物語の上では恋に付随するイベントの楽しさが描かれそれが主題になる。しかし、作者は恋を通して「少年や少女ではない何か」に変わる子供たちを描く。その変化の瞬間に生まれる緊張感を、神経質なほど繊細な画面で表現する。
 例えば夏の章。シュウに対する恋心をもてあますとさちがお酒を一杯呑み干す。体に熱を抱えた彼女が冷たい夜の宙に放り出される画面から、読者は夏の夜の果てしない美しさと孤独の感覚を同時に受け取る。普遍的な主題を、マンガだけが伝えうる快感によって描き出した贅沢な佳作。

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卵の黄身が奇麗だ

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この作品一番の名シーンは、主人公の佐々がポーチド・エッグの黄身を割って「きれいな黄色」とつぶやくシーンだろう。これが描けるから小池田マヤは強い! 次のコマですぐ「黄色いランプの救急車は精神病院行きだって小さい頃聞いた…」と言わせ、オチをつけるところも! 佐々はこの後精神科にゆくのに、だ。
 そんな「バツイチ30tans」は離婚手続きの様子で始まる4コママンガ。主人公の佐々は30歳OL。離婚したばかりで不安定なある日、中学時代の友人、豪が会社に新任してくる。過去と現在の様々な思いに振り回され、佐々は次第に心のバランスを崩し始める…。佐々の重圧は、彼女の視界が黒い固まりに覆われることで表現され、回復は彼女が卵の黄身をきれいと思うことで表現される。体に優しくすることで、自分自身を大事にすることを少しずつ思い出してゆく彼女の様子がリアルだ。
 女であること、30歳であること、過去を後悔と共に懐かしく思い出してしまうことの重さと、それに立ち向かってゆく人間の強さと弱さ。地に足のついた描写が魅力の一品。

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サッカー批評という冗談

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いやあ、何というかこういう本大好きです。
 戦略的な分析や、一次リーグ突破の為のあれこれなんてのは一言も載っていませんが、サッカーを無責任に楽しむことの面白さがこの本には凝縮されています。
オープニングは選手名鑑。バティストゥータ、ジダン、ベッカム等々という人選はスタンダードなものの、行間に漂うファンのエゴは思わず笑いを誘います。
 マルディーニに添えられた「そう、DFは顔が命なのである」「独り秋田のみがいつでも人の一人くらい殺せますぜ、と言うディフェンダー顔をしているが」。
 そう言われてみるとあるある! ディフェンダー顔! 稲本なんて天地がひっくり返ってもDFにはならない顔してるし。
 「ジダンの頭頂部が禿げているのは偶然ではない。現代サッカ−の頂点に広がる不毛を物語る暗喩だ」。こんな勝手な書き出しから始まるページで、著者(この回は小田嶋隆)は何を主張するのでしょう。かつてのわがままで放埒な王者達の名を並べ、真面目に守備に徹する愛妻家のジダンに著者は、「いい人とはほど遠いんだけどそれこそ王者と言わせてしまうようなエゴ」をすすめます。こんなん。
「ジズーよ。キミは王だ。黄金の才能を持った本物の天才だ。王様らしく好き放題にやれよ。な。手始めに… そうだな、まず、女房を殴れ」。
 大きなお世話だっちゅうの。しかし、全編この調子のこの本は楽しい。抜群に楽しい。スポーツの楽しみ方なんて所詮勝手なものなんですってば。
 金子達仁も村上龍もカトリーヌあやこもスポーツを自身の欲望に当てはめて見て、その欲望をもとに金稼いでる点で同じなんですが、金子達仁や村上龍とこの本のライターが違うのは所詮河岸の人間のお遊びにすぎない「批評という行為」に対してどれだけ自覚的であるか、その一点でしょう。そう言う意味でこの本はケンキョです。くだらないトピックスもたくさんあります(キャプ翼の今後の展開とか、あだ名で呼べば通っぽい!とか)。でも、いいじゃん面白いんだから。
 この本は「愛」と言う名の下に赦された大いなる冗談です。で、私冗談大好きです。だからこの本良書です。

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紙の本怪盗スパンコール

2002/06/20 15:08

おまぬけ貧乏な怪盗ののんびりとした窃盗の日々

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 これを青年マンガとして紹介したbk1はエライ! なるほど、絵本好きの大人へのプレゼントにいい。独特のバタくささも、のんびりとしていながらドタバタ調の展開も、大人がほしがる絵本としての要素を十二分に満たしている。
 もともとは児童書老舗の福音館書店が刊行している「大きなポケット」という月刊誌の不定期連載をまとめたものだ。
 ぼんやりとした怪盗スパンコールと相棒のラメ。おまぬけ貧乏な二人の泥棒の日々が、テンポよくつづられる。まぬけな怪盗というのはなんだかいつも魅力的だ。「ルパン三世」しかり、宮崎駿による「名探偵ホームズ」のモリアーティー教授しかり。それは、魔法のような特殊技能を手にし、夜の闇というこの上なく魅惑的な舞台で活動する彼等がほのぼのとした欠点で失敗を犯す、そのギャップが楽しいだろう。
 この作品でも、美しい色彩で描かれる夜の街や、豪快に飛び上がるヘリコプターと、半分眠ったような目のスパンコールとのギャップが楽しい。お茶の水博士のような鼻だが、以外としっかり者のラメや、銭形警部のようなノビレ警部。登場人物達はみんなスタンダードな雰囲気だが、佐々木マキ独特の安定していながら不可思議な印象の絵と無駄のないテンポのよい構成が気持ちいい。
 プレゼントするも良し。手元に置いて眺めるも良しの快作だ。

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