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わたなべとしみちさんのレビュー一覧

投稿者:わたなべとしみち

6 件中 1 件~ 6 件を表示

紙の本山猫

2005/02/18 10:49

反時代的憂愁

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

1958年、ミラノで出版されるや本国のみならず英仏においても早々に訳出されベストセラーとなった長編小説『山猫』は、当時のイタリア文壇における、モラヴィアやパヴェーゼに代表されるネオリアリズモ小説と、ブッツアーティやカルヴィーノのようなフィクション性の強い寓話的物語作品という二大潮流の、どちらからも外れたアナクロニックなまでに反時代的な本格小説の傑作である。
文壇においてほとんど知られていなかった著者の名は、ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ。1896年シチリアの名門貴族の家に生まれ、パレルモの公爵にして、天文学と狩猟のみを愛し本書が上梓される前年に世を去ったという人物である。生前ただ一冊だけ発表した作品がスタンダール論であったというだけあって、その小説は、地中海的デガダンスが濃密に根を下ろした作品風土を持ち、著者の出自から想像される貴族的な憂愁に全編が彩られている。
物語は1860年代にはじまる。イタリア独立戦争のたけなわ、ガリバルディがシチリア島に上陸してナポリ王国軍を一蹴、ローマに迫ってイタリア独立への道を切り開いた時期を主として、エピローグ的に1883年の主人公シチリア貴族のドン・ファブリツオ公爵(著者の祖父がモデルとされる)の死と、その子息の世代の行末が暗示的に描かれる1910年で幕を閉じる。いわば動乱期を舞台とした歴史小説なのだが、前述したとおりその叙述はプルーストを思わせるアラベスクふうの精緻な描写を駆使し、シチリアのギラギラした太陽と土砂降りの雨を背景に、没落する貴族社会のグロテスクで官能的な美しさを抽出することに作品の主題がおかれており、そこにあるのはルネサンス以来の憂愁に充ちた汎心論的な肯定であって、現代的な、いわゆる「歴史への闘争」というべき視点が一切欠如している。
「我々は自分たちの息子や、たぶん孫たちのことを、真剣に心配するかもしれない。しかし自分たちの手で愛撫することのできるものを越えては、義務は少しもない。だから私は1960年の偶然の子孫がいったいどうなるかなどと、ほとんど気にかけていられない」という公爵の没落意識は、現に今眼前でくりひろげられている貴族社会の滑稽さをも辛辣にえぐりだす。作中のクライマックスとなる舞踏会の席上、公爵が近親相姦と運動不足のために「脚が短くなり、肌が荒れ、発音の汚くなった小娘たちの群」に「百匹ばかりの若い尾長猿が飛んだり跳ねたりしている動物園の幻覚」を重ね合わせるシーンはその白眉といえよう。
この、頑として動じない貴族的なペシミズムは、ヨーロッパ文化の残光の気高さと闇の深さを感じさせ、読むものを魂の奥深くで動揺させずにはおかない。動乱の「歴史の時代」の中で、芸術に何が可能かを考えさせてくれる一冊である。
なお、今回の文庫復刊に当たって、草稿原稿の断片が二篇付録収録されている。

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紙の本恐怖の館 世にも不思議な物語

2005/02/18 10:54

シュールな動物的生命力

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

工作舎から1997年に出版されたレオノーラ・カリントンの短編集『恐怖の館』は、この数奇な運命を辿って独自の作品世界を作り上げた芸術家の20歳代の代表作で、当時愛人であったマックス・エルンストの序文と挿絵付きで出版された表題作と三冊の短編集を編集した英語版(1987)を翻訳したものである。
ウィリアム・ブレイクに代表されるような、正規の学校教育から脱落して開花する才能の伝統とでもいうべき土壌がイギリスにはあるが、ヨークシャーの裕福な実業家の父とアイルランド人の母の間に生まれたカリントンも、当時の上流子女が通う修道院付属学校では教育不可能児だった。イギリスの尼僧たちの手には負えず、フィレンツェの上流子女校、パリのフィニシング・スクールを経てやっと教育課程を修了したカリントンは、1936年ロンドンで開かれた国際シュルレアリスト展でエルンストの作品に衝撃を受け渡仏、翌年にはエルンストと邂逅を果たして前述したとおり愛人となる。パリとアムステルダムのシュルレアリスト・グループによる展覧会に幻想的な絵画作品を出品すると同時に、ルイス・キャロルを思わせる奇妙な動物たちが登場するブラック・ユーモア溢れる短編小説を次々に出版するが、1939年第二次世界大戦が勃発するとパリを追われ、ドイツ人のエルンストが強制収容所に送られた後フランスの片田舎で孤独に追いつめられた彼女は精神を病みスペインに脱出するも精神病院に収容される。病からの回復後はエルンストへの愛情も冷め渡米、ニューヨークでシュルレアリスト・グループと再開を果たしメキシコ人外交官と結婚して1942年以後はメキシコに在住。
シュルレアリズム運動にはたくさんの女性芸術家が参加しているが、その役割は「欲望に目覚める以前のまだ欲望の実態を知らないままにそれを口にする少女のような女性(ファム・アンタン)」であり、芸術家(男たち)を不合理な世界に導く媒介者であって、自立した一個の人間とも芸術家ともみなされていない。カリントンを見舞った狂気の発作もそのような状況が生んだ不可避的な病であったと見ることが出来る。彼女の作品がグロテスクなユーモアを湛えながらどこかに巨大な不安の影を帯びているのは偶然ではないだろう。しかし「あまりにもパリ的」である多くのシュルレアリストの作品群の中で、カリントンの小説に登場する動物たちの生態にはたとえば『くまのプーさん』や『ピーターラビット』に通じるような透明さがあって、また後年メキシコに花開く女性シュルレアリズム(それは後にラテン・アメリカ文学に受け継がれるだろう)のおおらかな生命力を予感させる要素もあり、独特の魅力はいまも色あせない。
なお、集中「デビュタント」と題される短編は澁澤龍彦が「はじめての舞踏会」の邦題で訳出している。

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紙の本しゃぼん

2005/01/16 17:12

甘い蜜の部屋の《外》へ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

04年2月に第3回女による女のためのR-18文学賞を受賞した吉川トリコの処女短編集。受賞作ではなく書き下ろしが表題作になっているのは、作者がメキメキと成長している最中にある証拠だろう。実際、四篇収録されている作品の中で、表題作が抜群に密度の濃い内容になっている。あらすじは単純で、後一ヶ月で30歳になろうとしているヒロインが、ある不安から仕事もせず家事もせず、風呂も三日に一回で同棲している恋人ともセックスをしなくなってしまい、恋人と恋人の妹との微妙なトライアングルや母親や恋人の良心からのあからさまな「結婚」をめぐる干渉に葛藤したり反抗したりしつつ、結婚・出産した姉との再会を通して立ち直っていく、という物語であるのだが、生理のエピソードからはじまる小説の前半部分の迫力がともかく凄い。何が凄いと云って、ヒロインの造型がブス・デブ・性格悪いの三拍子で、しかも無気力状態から幼児退行を起こしている語りはとても歪み、たとえば自分が無感覚状態にある、と自己認識を示しながら、語られている内容では明らかに外界の状況に対して過剰とも思えるビビッドな感情的な反応で前後の見境なく行動するさまなど、「女であること」が必然的にはらむ構造的な病理がきめ細かく描かれていて、やや散漫に並列される個々のエピソードに読者として私はそのたびごとに立ち止まり、ちょっと考え込まされてしまう、その引力が凄いのだ。エンターテイメントの物語のメソッドに沿うように、前述したとおりヒロインの不安は解消されるわけだが、しかし読者としてはヒロインが陥っている事態は何一つ解決されておらず、この結末は偽の結末であって、まったく、何も終わっていない、と思った。このテーマは重い。作中、ヒロインの恋人が語る「女の子はかわいそう」という言葉に対し、甘い蜜の部屋を作ること以外に、どうやって肯定の戦いを開始するのか。そのスタートラインに、確かにこの作品は立っているのだと思う。

ところで、吉川トリコさんの描くヒロインは、語り口はがらっぱちでもいつもとても真面目で育ちが良いので、読んでいていつも虚を突かれたようにちょっと驚いてしまう。たとえば彼女たちが欲しがる洋服やアクセサリーのブランドは、一流企業のOLとかじゃなくても、フリーターの給料で買えるような手頃で堅実なものばかりであり、ヒロインは常に「世間の目」に対して、自分なりの価値観による「ルール」を道徳的に立てようと努力している。「しゃぼん」には「常識外れ」とされるような怠惰な生活が書き込まれてはいるのだが、実際に私が知っている「だらしない女」から較べれば全然きっちりした生活であって(なにしろ二週間は風呂に入らず着替えないような女だって世の中にはざらに存在する)、しかもほとんど借金をしないし、暴力も振るわない、というか、そういうチャンネルが彼女たちには存在しない。自分自身のありように悩みジタバタしながらも、決して自分を支える価値観の枠組みの「外」へは出ようとしない少女性が、私にはとても興味深く、面白かった。

他の収録作、「いろとりどり」は小学生の女の子による一人語りで始まるちょっといい話、「もうすぐ春が」と「ねむりひめ」は女子中学生の切ないセックスと恋の話で、両方で同じ感受性の裏表、というような関係になっている。また、「しゃぼん」「いろとりどり」「もうすぐ春が」はそれぞれに連関する構成になっていて、ちょうど少女漫画によくある連作短編集のスタイルを連想させ全編読み切った後にちょっと得したような気分になれる。


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紙の本アジアの岸辺

2005/01/16 17:04

世界は悪意で出来ている

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

絶好調国書刊行会の「未来の文学」シリーズ第3弾。
こういう物語小説はそういえばひさしぶりに読むので、最初ちょっと戸惑ったが調子を掴むと非常に楽しめた。いわゆるブラック・ユーモア風味の強い作品(「争いのホネ」「リンダとダニエルとスパイク」「国旗掲揚」「死神と独身女」「犯ルの惑星」「本を読む男」「第一回パフォーマンス芸術祭 於スローターロック戦場跡」)は、筒井康隆のある種の傾向の作品を連想したが、筒井のそういった作品の特徴がそこに込められる悪意の透明性にあるのだとするなら、ディッシュにはもっと知的な屈折が感じられる。それは「降りる」「リスの檻」「カサブランカ」「黒猫」「話にならない男」といった作品で、どんどん展開する不条理な物語が、語りの多様な技術と相俟って一種悪夢的な世界を作り上げるときに強靭な核として機能しているのだが、細部細部はとても面白いのに、作品のコンセプトから予想しうるポテンシャルを充分に使いきっていないように私には思え、やや消化不良のように感じた。エンターテイメントの物語としてはきっちりまとまったいて非常に面白かった、といえるのだけれど、小説としては、もっと展開できるのではないか、という疑問を読後に持ってしまう。その意味では表題作の「アジアの岸辺」はやはりこれもやや短いような気はするのだが、しかし完成度は申し分のない傑作。ヨーロッパとアジアの境界としてのイスタンブールを舞台に、分身のテーマをリアルに描き、独特の美学理論を蘊蓄に込めながら幻想小説の輪郭を象っていく技巧は圧倒的で、都市の彷徨部分ではなんとなくローデンバックの『死都ブリュージュ』を、そして唐突と思われるかもしれないが、後半部分でふとカミュの『不貞』を連想した。解説を読むと、わりと近年の長編小説も翻訳されているみたいなので、ちょっと意識して探してみようと思う(サンリオSF文庫の作品を復刊して欲しい)。

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紙の本蝶のゆくえ

2005/01/16 17:01

語りの残酷さについて

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橋本治がたまに書く、ごく普通に生きている市井の人を主人公にした短編小説集。冒頭の児童虐待を描いた「ふらんだーすの犬」がなにしろ傑作。単に「方法的意志」と言うにはちょっと理解できないような叙述のかたちを取っていて、ともかくその語り口に圧倒されてしまう。とても客観的とは言えない主観的挿評を交えたナラティヴなのに、怜悧な分析的知性が必然を積み重ねていく調子で作品は語られ、まったく救いのない物語をドラマティックさを拒絶した残酷な悲劇にしている。これはやはりちょっと凄いと思う。二篇目以降はいつもの橋本治で、明晰な論理性に支えられた主観性の強い叙述が、ほとんど通俗的とも言えそうな物語の生き生きした瞬間を掴みとって読者に差し出すような趣で、この作品集で橋本治が描いたのは「孤独」であろうと思われる。「ごはん」「浅芽の宿」「白菜」が良かった。



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男の死体

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

相変わらず空疎とも思える抽象的な美文。しかしこれは空疎なのではなくて、単に「貧しさ」と呼ばれるべきだろう。たとえば冒頭の「「何もない」があらわれる」という文章には、遠く蓮實重彦の安岡章太郎論における『海辺の光景』のリフレインが聴こえるが、小説の構造に肉薄し描写に寄り添うように書かれた蓮實の文章とは異なって、あくまで抽象的な言辞を繰り延べる丹生谷の文章は、いわゆる「文学の豊穣さ」を徹底して避けているように見える。「男であることの恥ずかしさ」において書く、とよく引かれるドゥルーズの言葉があるが、むしろこの文体はまるで「男の死体」のようだ。
タイトル通り、この本は三島とフーコーについて語られているのだが、文芸時評をまとめた『家事と城砦』で、三島について書くことはとうぶんしない、と書いていたにもかかわらず三島なのだった。基本的にはこれまでと同じことが書かれているわけだが、比較的長篇小説について具体的な記述が多くなっていて、「戦後作家」としての三島を総括するような塩梅ではある(その意味では「真の戦後・真の荒野」の延長といえるかもしれない)。この調子で書くのならば、たとえば川端康成についても長く書けそうだと思うのだが、どうして三島に拘るのかというと、自註して三島の「聡明さ」のためだ、と丹生谷はいうのだが、おそらくは三島のテクストにある決定的な「貧しさ」のためだ、というのが本当なのではないだろうか。認識が貧しさに雪崩こんでいくこと。そこに丹生谷の美学(倫理)があるのだろう。
終章の書き下ろしは、ちょっと感動的なフーコー論のデッサン。具体的なテクスト分析が一切ないのでデッサンとしかいいようがないのだが、丹生谷がフーコーに何を読んでいるのかがよくわかるきっちりまとまったエッセーになっている。バルト・フーコー・ドゥルーズ・デリダの「ポスト構造主義四天王」の仕事の中では、私はフーコーがもっとも好きで、しかしフーコーにはどうにも言葉にしがたい不透明さがあるとずっと思っていたのだが、その不透明さについてかなり肉薄している印象を受けた。
いかにも取ってつけたようなタイトルの本だが、ここ数年の丹生谷氏の仕事の中ではもっとも充実した本だと思う。


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