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k.m/personal noteさんのレビュー一覧

投稿者:k.m/personal note

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紙の本枯木灘 覇王の七日

2002/08/31 15:15

おまえがおれをつくった性器と同じおれの性器で、おれはおまえを犯した。(作中引用!)

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この物語の重層的な複雑さは、それを解説する者の多くが「背景」を読み「作者」を読もうとする態度にあらわれていく複雑さがあり、読む前からそれらを取り込み僕の中で増幅されても行くからだった。それでもなお多くの人を魅了し続けている作品として中上健次の存在が日々増していくのも、そんな言説の影響が大きかった。

ではなぜ彼らはその作品をより複雑化させるばかりに力をそそぎ、魅力を伝える言葉を並べてくれないのだろうか。もちろん小説の魅力をただ言葉にする段階よりも、「どう」読んだかを語るアクティブな作家として中上健次は生き続け、古典のように語られるにはまだ早いのだし一方的な僕の思い込みでもあるのだろう。

例えば…「近代化から取り残された「路地」に生きる青年が葛藤しながら、人間らしい生を求めてあがくさまを鮮烈に描く」。…といった解説などの集約は、あまりにもスケール感を矮小化させていると思う。それはハリウッド大作といったスケール感でもなく、オデュッセイヤのような大きさでもない。むしろ建築家・安藤忠雄のグローバリズム的成功に通じるような、徹底したローカリズムではないだろうか(?)。

世界の大きさはその活動範囲に比例して実感できるものでは無い。この物語には紀伊半島という狭い範囲、さらに「路地」という近所付き合いの至近距離にまで限定されている。なのに主人公・秋幸の感じ得ている自然への一体感には、土方という「日と共に働き、日と共に働き止める」を通じながら宇宙をも思わせるパースペクティブへ達している。

「複雑さ」とはむしろそんなスケール感の飛躍から生じ、そう感じられるほどに、自分の立っている世界の狭さが際だってしまう。「立っている世界」とは、現にそう「認識している自分」の大きさに帰ってくるのだと思った。秋幸の認識した世界は広大だ。けれど彼の存在する世界はとても狭く、なによりも血縁関係が入り組んでいる。

この血を巡る複雑さが、一連の紀州作品に通じる構造でもあると思う。狭さと血の複雑さがもたらす困難は、秋幸だけでなくこの小説に登場してくる若者ほとんどにもあてはまっていく。余りにも日常化された困難はいっぽうで、そうして行かなければ生きられない人間の知恵や業を見るようで生々しい。困難を避けるため大人達はみな思考停止を招き、目の前の日々のみを生き、遠く過ぎ去った昔のみを語る。

ただ自分を認識していく過程にある若者にはそれは悲劇でしかない。諦めのような思考停止の前に、自分というものの存在自体に困難を感じられずにはいられないのだから。その中心に秋幸がうごめき、観念という血縁図式に迷い込んで行くばかり。このように僕は血縁というものが観念でしかないのではと思った。

現にそれは思春期から芽生え、大人になる過程で失われていく呪縛のようだ。ただ芽生える前から運命付けられ、失われたように了解させていくのだとういう意味では観念ではないのだろうが…。太陽と共に働く秋幸の身体にはそんな観念はない。それはいくら呪縛されようと身体に感せられる悦びには所詮かなわない観念の限界を示しているようで、希望に満ちている。だからほんの一瞬、心のスキを捕らえるようにしか観念は秋幸の内部へ存在出来ず、そしてその一瞬で弟・秀雄を殺してしまったのだ!

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