サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. cuba-lさんのレビュー一覧

cuba-lさんのレビュー一覧

投稿者:cuba-l

51 件中 1 件~ 15 件を表示

私たちの中にもある「絶望と転落への片道切符」

25人中、25人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ウシジマ君は違法な金融会社(闇金)の社長である。この漫画では闇金をめぐる人々の転落と絶望・犯罪と暴力の構図という、極めて不快で時に陰惨な直視したくないような話が続く。もちろん、私を含めたいていの読者はウシジマ君に描かれる人々とは、直接には無縁の世界にいることだろう。
それでもひとたび読み始めるやこの漫画の魅力にひきつけられ、目が離せなくなったばかりか、いつまでも印象がまとわりついてしまった。
  
この作品についてはネットの上にも様々な書評や分析が打ち並んでいる。
「ダメ人間列伝」、「現代の貧困の構図」、「貧困と絶望のスパイラル」などなど、社会分析に掛けた書評も多いが、どれもが正しい。だがそれでも、この漫画で描かれる貧乏や暴力・犯罪と転落の模様はヘドが出そうなほどだ。本当に反吐が出そうなほど面白い。
   
それはもちろん怖いもの見たさということもあるだろうが、ウシジマ君の世界が直接的には無縁でも、同じ時代・同じ社会の隣接する現場として極めて高いリアリティを持っているからだ。そしてこんな反吐が出そうな話に高いリアリティを感じるというのは、闇金に群がる彼らの要素は私たちの中にも決して低くない割合で存在するからでもある。
  
大企業に勤めるOLが会社のグループ内での付き合いのために見栄を張って、背伸びした生活を続けて闇金に手を出して、結局苛烈な取立てにボロボロになるまで搾り取られる話がある。
次々に世の中に流れ出す、より付加価値の高い商品やサービスを無批判に追いかけていれば、当然社会生活に必要なコストは止め処もなく上昇していくが、所得が同じペースで伸びるわけはないのだから、たいていの人間は闇金に手を出す前に歯止めがかかる。周りがどうであれ、自分の生活のペースというものを自覚せざるを得ないことになるはずだ。
ウシジマ君は言う。「見栄っ張りは、アホ女の基本だ」
  
また、自分には夢と才能があると信じ、すべての他人を見下して尊大に構える若者の話がある。
この男は「自分以外はみんな馬鹿」とばかりに学校も辞め、その一方で自らは前向きなことは何も為さないのだが、実はこれは行動を起こして社会の評価にさらされるのが怖いことの裏返しで、30になるまで半端なフリータとパチスロ暮らしをした挙句、闇金に手を出して追い詰められていく。
当たり前すぎてひどく地味な事実だが、社会で情け容赦ない評価にさらされて「身の程」を知り、反省を踏まえて次の策を打つことはどんなに大事なことか。社会の中での自分の身の丈を知って現実に適応しなかったツケはいずれ苛烈に巡ってくるものだ。
       
こんな闇金をめぐる登場人物はどれも吐き気がするほど最低なやつらだが、同時に彼らの要素はどれも私たちにも決してないとはいえないところがある。みんな普段はコントロールが働いているものの、ひとつ間違えば彼ら同様、負のスパイラルに陥ってしまうことを、ほかならぬ私たち自身がよくわかっているのである。
  
見栄っ張りや怠惰・自堕落、快楽に流される破滅への誘惑はどれも甘美だ。だから、その恐怖の代償を赤裸々に描くウシジマ君の世界から私たちは目が離せないのだろうか。

もちろんこの漫画はフィクションではあるが、そこにリアルを感じる私たちの心は紛れもない現実であり、リアルと感じるがゆえに実は私たちの心が危ういバランスの上に成り立っていることを、この漫画は自覚させてくれる。それがこの漫画の魅力でもある。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

改革と規制緩和の皮をかぶった狼の正体

20人中、20人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

90年代の前半頃まではうちの近所にも小さな店が肩をを寄せ合った商店街があって、毎日子供連れの買い物客が行きかい、お盆や歳末にはに店の間には万国旗が張られて福引もある大売出しの期間のにぎやかさは穏やかな日本の風景そのものだった。

だが今はどの店にもシャッターが降り、後からやってきた大手資本のコンビニが営業をつづけているものの、通りに子連れの家族の姿はなく、埃と騒音を巻き上げる車がスピードを落とさずに走り抜けていくだけだ。

圧倒的に支持に基づいて改革を押し進めた未来とはこんなものだったのだろうか。

最も直接的な原因は、市場原理主義に基づく「規制緩和」が既得権益にすがりつく悪い悪人や商慣行ばかりか、実際には社会が営々と積み上げてきた公正なルールも破壊することになってしまったためだともいえる。
本書では、そんな野放図な市場原理主義と虚業のマネーが実体経済を破壊し、人々の暮らしを荒廃させていく過程を、各国の事例に基づいて検証し、「ネオリベラリズム政策によって生じる循環」(悪夢のサイクル)であると結論づけている。

さらに、人は潰れても市場経済は元気なシステムのもと、一部企業と資本だけの好景気を受けて、さらに経済効率化を進めようとする日本はこれから二度目の経済破局に向うとも予言する。その向こうに待っているのは更なる格差と社会不安だろう。
身近に現在実感できる社会事例で読んでいて気の重くなる面もあるが、いずれにせよ社会の制度は人が作って動かす。私たち一人ひとりが、経済の効率化と金儲けが究極の目的なのではないと認識すること、人々の幸福・公正こそ社会の目指すべき目的だと自覚して振舞うことが第一歩だと気づかせてくれる本書は良書である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ウミウシ

2007/09/19 23:46

この不思議なほど美しい、海辺の癒し系

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ウミウシはいわば貝殻のない巻貝の仲間で、日本には1200種以上が生息しているといわれています。

内陸の淡水育ちでウミウシとナマコの区別もろくに意識したことがない私としては、水辺の軟体生物などというと、ぐにゃぐにゃした気持ちの悪いものという意識がどこかにあったのですが、そんな無知ゆえの偏見を吹き飛ばして有り余るほどウミウシは美しく、時に愛くるしく、時に精妙にして幽玄、時には荘厳ですらあります。

形状といい模様といいその配色といい、あまりに多種多様な上に、どれもがいったい何の必要があってかといぶかしく思うほど美しく、ぼんやりとページをめくるだけでも写真のウミウシに引き込まれて飽きません。

また写真の途中に著者の夢を追う過程とウミウシとの縁について短いエピソードが添えられていて、ウミウシの撮影をめぐる不思議な縁が綴らています。
ウミウシを追いかけ写真を撮って旅するうちに奄美大島にたどり着き定住を決意したものの、旅の途中の不摂生がたたり、仕事もないまま通風を発病した著者がいかにして南の島の日常を手に入れるに至ったか。---これがこの本を単なる図鑑的な写真集だけでない、親しみあるものにして、ウミウシの写真と共に楽しめます。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

世の中の多数派に違和感を持つ人のための幸福論

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

中島氏一流の毒をまきちらしつつ、会社や世の中の多数派にあわせて生きることに違和感を感じる人に向けて書かれた、社会に着かず離れず半隠棲してしっかり自分の居場所を確保して生きる人生の指南書である。

たとえば会社や産業社会とは、個々の感受性はどうあれみんな同じ方向を向いていっせいに走ることで効率化を図り利潤をあげようとするものだから、
社会的な動機とすべての人の個人的動機が一致するわけではない。というよりも一致する人はまれである。ところが会社も会社以外の組織だって大きくなれば多数派を構成して組織運営をしようとするのはみな同じである。
  
それでも多くの人は自分の心にふたをして多数派の構成員をしているのだが、著者はこの多数派の論理と価値観に盲従するのをやめ、人生を半分降りる生き方を提言している。
 
人生を半分降りるとは、簡単に言えば会社や社会のために使われたりそのために働く時間を極力排除して、個人的な時間を確保し自由に生きようというようなことであるが、それ自体は特に目新しい論旨ではない。方丈記だの徒然草だのもそうだといえば言えないこともない。
 
ただこれまでも数々書かれている半隠遁の薦めと違っているのは、会社や組織での出世や世間的な栄達をあきらめる代わり、自分自身のための自由な時間を確保する生き方を、これまでの本が「足るを知る」と前向きに幸福ととららえているのに対して、中島氏はこれを「社会的には不幸になることであり、不幸を自覚して生きねばならない」と言っていることである。
 
しかしながら不幸を自覚しなければならないのは、世間の価値基準から外れた生き方だからだとしたら、これは社会的価値基準に背を向けながらまたその基準で自分の幸せ度を計っているようなもので、なんともあきらめの悪いことこの上ない。

そのあきらめの悪さこそが「半分人生を降りる」生き方ではあるのだが、人生を半分降りた著者が表向き不幸だという顔をして、その実自分だけの幸福の蜜を集めていることは言うまでもない。
  

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本人生の短さについて 他二篇

2007/09/08 00:08

短い人生を生き生きと生きるために

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

セネカは古代ローマ時代、皇帝ネロの命令により自殺に追いやられるまで、数々の著作を残している政治家・劇作家にして哲学者であるが、この著作などは二千年近い時代を経ても色あせず、現代の私たちが抱える問題の核心を痛いほど突いてくる。
 
たとえばセネカは、幾度も公務や世俗の雑事から足を洗って自分の魂のために生活することの重要性を説く。
社会的な都合に奪われた時間を取り戻せ、自分の時間をかき集め、守り有意義に費やせば人生は十分に長い、と。
 
セネカはこうも言う。「年寄りだからといっても、自分のために生きたのでなければそれは長く生きたのではなく、単に長くあったにすぎない。」
 
社会は、特に現代の産業社会は、組織の利潤目的のために個人の意志の発露など踏みにじっても、人々を十把一絡げに束ねて同じ方向に走っていくものだから、大多数の人は仕事に全人格的な納得を得ることができないことを前提に社会が成り立っている。 だから無自覚に仕事や社会に追い立てられては、自分に何がもっとも大切かを見定めることもなく、困苦と苛立ちのうちに人生は過ぎ去っていくものだ。

そして心から意義を感じることに時間を費やしている場面というのはごく少ない私たちの日常において、人生において確実な何かがあるとすればそれはただひとつ、私たちは遠からず死ぬということだけである。
  
さらに死というものは人生の終着点において突然現れるものではない。生まれてこの方、今この瞬間にも死へ向かった歩みは止まらず続いていることに意義を唱える者はいないだろう。つまり私たちの一挙一動はすべて私たちの生命を費やしてあがなわれている一方、死はその完成に向かって日に日に積み上げられているものだ。だから人生の終焉としての死亡宣告は、一杯になった死棺の蓋をする最後の手続きに過ぎない。確かに私たちは日々死んでいるのだろう。

それなのにまだ、退職したら、老後に至ったら、一区切りがついたら、あるいはいつかその時が来たら、自分の思うとおりに生きようと、不確かな将来に生きることを夢見て今を失っていることもまた多いのだが、死が十分に強大に育った死ぬ間際に至って生きることを始めても、それは手遅れの色が濃い。
 
だから私たちは「今直ちに生きねばならない」と、セネカは説くのだが、本書はまるで仕事に追い立てられ、情報に流され、社会や欲望に翻弄される現代の私たちに向けて当初から書かれたような錯覚を起こす。まさに本物の古典とは時代を経ても色褪せない。
善く生きるとは、徳のために、なにより自分のために生きるとはいかなる事か、その答えを示唆するヒントが全編いたるところにあふれている。
 
生き生きとしたセネカの表現もそのままに訳文も簡潔で読みやすく、普段何気なく手にとってみるように扱うにも良いし、セネカの思想に触れる入門書としてもお勧めである。


このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本魔王と呼ばれた男北一輝

2007/10/07 07:25

神秘主義者と革命家

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

北一輝について、その神秘主義的行動から解析を試みた異色の評伝である。
戦争への不安と社会不安が渦巻く昭和初期における北は、天才思想家、社会主義者、国家主義者、革命家、恐喝屋、事件屋、等々相矛盾するような様々な顔をもち、国家を揺さぶる様々な事件に暗躍した巨大な影としても知られるが、理想を追求する求道者のような謹厳さと、豪奢な生活と夜ごと遊興を繰り返す卑俗さを合わせ持ち、二・二六事件後に銃殺された後今なお混迷の時代にあって妖しい光を失わない存在である。だから北一輝は研究の対象としても世俗的な興味の対象としても様々なイマジネーションをかき立てる人物だ。 
  
この本ではそんな北一輝を、神憑りの神秘主義者としての面から足跡を追っている。北一輝には長く執拗に綴った「霊告日記」などの著作もあるが、これまではこうした活動を真正面から取上げた評伝や研究は少なかったようだ。むしろ、政治犯としての当局の追及を逃れるためにカモフラージュとして宗教がかった言動をしていたと簡単に片付けるものすらある。
 
しかし、幽霊を恐れ自らを法華経の行者であると認識している北一輝にとって、「心霊との交流は間違いなくリアルな現実そのもの」であったようだ。
 
卓抜した頭脳を持つことの自負。病弱な体と若くしての失明。徴兵検査も通らず進学もままならないことに加えて失恋に実家の没落。結局は通常の社会に居場所がなく、猛烈な自負と劣等感を抱えた自我を扱う場所としては、北一輝と言う存在にしかなかった。
そんな北が、実力があるのに世俗的な後ろ盾や権威もなく、各界に大物振りをアピールし影響力を維持していく存在でありつづけるための支えとしては、誰よりも明晰な頭脳と自負と虚勢だけでは足りなかったのかもしれない。
 
北は日本改造法案や国家改革のプログラムを生み出し、やがて激動の時代の中で策動の求心力として本人の好むと好まざるとに関らず巨大な座に至ってしまった。国家改革者として期待に応え続けねばならない重圧や負担も並大抵のものではなかったはずである。コンプレックスをバネにしたパワーだけではそんな自分をまかないきれないとき、一方では理性を超えた霊的な気づきこそが発想の源泉という意識もあっただろう。
   
そうした様々な要素があって最終的には霊的な支えこそが巨大な影響主としての北一輝を北一輝であり続けさせたという解釈もまた可能なのかもしれない。 
 

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

いまさらムーミンなんて読めないと思っている大人の方へ

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「コーヒーは、年老いてふるえがきてから、飲むものです。」
(ヘムレンおばさんの言葉)

コーヒーについて、ことの是非はともかく、何事をするにもその事にぴったりのタイミングやふさわしい年齢というものがある。トーベヤンソンのムーミンシリーズにだって、アニメやコミックで触れた人は多いのだろうが、物語の方を大人になってわざわざ読もうと思う人は多くはないし、いざ読んでみようと思っても子供向けの文学ということもあって大人が読むにはまどろっこしくてとても読み切れなかったりするものだ。

そんな大人、つまり、ムーミンにはいろいろと良い思い出や印象を持っていながらも、いまさら児童文学などを読むという抵抗があったり、大人向けの書物に慣れてしまったゆえに児童文学のリズムにあわせて読むのが耐えられないような大人には、本書はぴったりのアンソロジーである。

ムーミンの物語は理想郷のような世界に見えて、実は人間社会への深い洞察に支えられた人物や出来事が展開するためか、時に現代の神話とも呼ばれる事があるが、そんな物語からなにがしかの示唆を含んだような言葉を抜き出してまるでムーミン谷哲学のエッセンスを抽出したような本が本書である。
ただし、トーベの編んだ言葉はどれも魅力に富むのだが、同時にどうとらえようとそれは読者の自由と裁量次第という突き放した雰囲気も同居しているようだ。

「誰かを崇拝しすぎると、本当の自由は得られないんだよ。」
(スナフキンの言葉)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ファッション指南は、迷えるおじさんの救いか、余計なお世話か

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

想定読者は40才前後から始まって主体は50台以降のホワイトカラーおじさん層の、ファッション評論本である。
 
日本のおじさん(じいさん)ファッションというと、平日は型にはまったスーツ姿と、休日は背広・ジャージ・靴下・つっかけサンダルのような、とことんイケていないスタイルが主力のような気がするが、この本ではとりあえず、そこまでの底辺(?)層はあまり相手にしていないらしい。
  
近年はビジネスカジュアルだのクールビズだの、世の中の変化と業界の思惑に翻弄される日本のサラリーマンに対するファッションの要求はなんとも捉え難く、何が正解かと迷う人も多いのだろう。そんなこと自分で考えろといっては身も蓋もないのだが、たいてい誰かに何か方向を示してほしいと思っているから、ここにファッション評論家の飯の種もある。そしてこの本の柱もおじさんファッションの分類と、おじさんへのファッション指南である。
 
本書では現代のおじさんファッションを類型化し、オバマ大統領や麻生首相に代表されるおじさんファッションの先端トレンド(?)との比較もして考えましょうという設定は、とりあえず具体的で分かりやすい。 

ただし、これはあくまでファッションを作り出して流行らせてナンボの業界人の目線である。本人の中身が身なりに表れるだの、自分を主張する戦略としてファッションに気を遣えだのというのは、まったく目新しい話ではないし、結局話は「今のトレンドを追いかけないとあなたは時代の変化についていけない人と見られますよ」、というような安い脅しめいたオチでは、納得する内容に乏しい。
 
たとえば、今のトレンドは細身の服がスタイリッシュだと著者もこれを推奨しているようだが、現実によく見かける流行の若者向けのようなスーツを着ているおじさんが、窮屈な上着では出っ腹を隠せず、細いズボンには腿の肉の削げ落ちた脚を強調されているのを見ると、似合わないどころかもはや物悲しいものを感じる。
ここら辺がいったい誰のためのファッション考察なのかと、ステレオタイプの評論を感じ、とてもまじめに読む気が失せるところではある。
  
全体として本書はファッションの典型の分類も話もありきたりで目新しいところも示唆するところも乏しいが、一昔前に流行った「チョイわるおやじ」を真に受けた連中を、「チョイ馬鹿」にしているのなどは面白いし、「一時のギャグ」として読むのならそこそこ楽しめる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

中高年を主人公にした稚拙な恋愛少女漫画

10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一組の中高年男女の恋愛の発端から顛末までを描いた少女漫画である。なんとなくハイソでリッチな設定を下地に、もどかしい恋愛の道行にハラハラドキドキの事件を織り交ぜ、いっとき大人の恋愛事情への憧れと共感を誘ってくれるかもしれないというチープなストーリーには、好き嫌いが分かれることだろう。
 
人は誰しも老いとともにるときめく恋愛には自然に疎遠となり、その現実に困惑や焦燥を感じることもあるだろうし、まして、中高年で未婚となればなおさらだ。この漫画ではそんな状況を、いっときときめく感覚への未練や憧れを誘うような安手のお膳立てをして揃えてくれているのである。

主人公の女性は、かつてミス原発と呼ばれ重電メーカーの管理職にして、年の割りには若くてきれいなお姉さん風の容貌をした中年女。これがまたよくモテるのだが、彼女はかつて妻子持ちの男に手を出してしくじっていて、その後ずっと長いことその傷を繰り返し思い出してはもてあそぶのが習い性になっており、当然新しい恋愛にも手を出せず、今もって独身。

もう一方の男は結婚暦のない50過ぎの哲学教授にして、エッセイを書いたり、講演をしたり、多彩な活動を見せる世間的には立派なエスタブリッシュメントだが、変わり者。容貌はどう見てもお爺さんで、作者は時々中身の若さを見せようとしているが、それは酒で羽目をはずしたり、けんかをしたりという「幼稚さ」でしか表現されていない。癖のあるヨボった見た目と変人ぶりとがあいまって、このキャラは正直漫画で見るのも気持ちが悪い。さらに仕事や話の中身も学者っぽくない。リアリティよりそれっぽい気分だけ付加しておけばいいという作者の方針なのだろうが、非常にうすっぺらく読んでいてシラける。
 
まあ、二人とも仕事は出来る、金はある、女は容姿容貌も平均よりはいいみたいだし、都会を離れて田舎の一軒家で在宅勤務の許される自由のきく生活。ただし恋愛だけがもどかしく思うにまかせない。そんな二人は、女の祖母の残した田舎家で男が押しかけ強引に同居生活をはじめストーリーが回りだすのだが、いそうもない二人のキャラクターに降って沸いた突然の出会いとありそうもない話が展開する。

つまり、これはなんとなく素敵そうな安っぽい設定を楽しむ漫画であり、恋愛観や体験の共感をなぞるような漫画ではない。
読もうと思う方はそれを承知のうえで手にとるのであれば、本代を損したと感じることもないだろう。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本何もかも憂鬱な夜に

2012/12/21 23:48

憂鬱の壁の向こうへ

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

親に捨てられ施設で育った主人公は刑務官として働いている。社会や自己の矛盾が破たんした結果犯罪に至ったような様々な受刑者と向き合う毎日は、自分を含めた人間という得体のしれない存在のとりとめもなさや陥穽を目の当たりにする毎日だ。多少なりとも感受性のある人間ならば過敏にならざるを得ない。そんな主人公は、死刑判決に対し控訴しようとしない若い殺人犯を担当することになる・・・。
  
私はこの物語を、多かれ少なかれ誰もが若いころに経験する不安と焦燥に向き合った作品として読んだが、それはたぶん、私の若い頃に漠然と自己の毎日を包んでいた何とも言えない陰鬱な気分を多少なりとも思い出すことになったからだ。
漠然と包んではいたものの、若いころの様々な気分のうちもっとも支配的な気分だったかもしれない。 
  
このまま自分は、どうにも何ともならないのではないかという不安。今の自分でない何者かになってしまえばきっと楽になってうまくやっていけるのにという根拠も実現のあてもない願望のむなしさ。でも、今まで引きずってきた自分から自分でない何者かになってしまうことへのおびえ。そんなやり場のない今とこれから先への混沌とした不安に絡み取られて、ひりひりする痛みの中で過ごす毎日。
 
そんな不安と焦燥は若いころに通過するちょっとした疾病というだけではなく、年を経ても痛みに慣れはすれ完治することなく、今も時折そんな記憶が身を苛むことがあるようだ。たぶんそれは治ることはない。
 
ただ、この小説は何もかも憂鬱な陰の部分を描いてはいるが一筋の光として芸術との出会も述べている。
確かに「世界にはすばらしいものがある」ことを知るのは憂鬱な壁の中の気分を一時楽にしてくれるものだし、芸術が「お前の狭い了見を広げてくれる」としたらそれは世界を囲む息苦しい壁を押し広げてくれることに他ならない。
 
また終盤近く、主人公は親しい女友達に対し二人で新しく自分たちだけの生活を少しずつ作っていこうと提案をしている。確かに他人のコピーでない、自分だけの生活こそはオリジナルなアートでもある。アートでなくとも、ささやかでも丁寧に自分なりの生活を紡いでいくことこそ憂鬱の壁の外へとつながっていく手堅く現実的な手段の糸口であることを示唆しているようにも読める。
もっともこれは幾多の憂鬱の壁を見てきたもう若くもない私のただの個人的な思い込みに過ぎないかもしれないが。
  
結局今に至るその後の私はひょとして強い何者かになったのかもしれないが、ちゃんとした解を出せるような何者にもなりはせずわが身を痛みに鈍く作り変えてきただけなのかもしれない。ただ、何者にもならなかったかもしれないけれど、今も毎日をやり過ごし何とか生きている。
 
この本は身近で果てのないような憂鬱に生きる息苦しさに圧倒される作品だが、本来それぞれに個人的な感覚であるあの憂鬱な気分を、小説という手段で表現することで、みんなで共有して客観的に眺めることを可能にしてくれた。これは作品の大きな魅力であり功績だ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本食文化あきた考

2007/08/27 10:26

食を巡る知の冒険 ~ ババヘラの謎からスローフード、食育政策異聞などなど

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

よくあるご当地の名産品紹介だの地場産業の振興ヨイショ本かと思って全く期待せず手に取ったのだが、違った。 秋田といえば有名な、きりたんぽ、あきたこまち、ショッツル、はたはた、比内鶏などの名産品もこの本で登場はするが、この本は単なるご当地食材の自慢と紹介の本ではない。
 
秋田の食文化を足がかりにはしているが、日本の食とその周辺の文化を全国・全時代を股に掛けて再考する、知的な快楽に溢れた本である。
 
たとえば、秋田の路上販売のひとつに「ババヘラアイス」と言うものがある。婆さんが何もない国道沿いの路肩などにビーチパラソルと大きなブリキ缶だけの店を出して、客が来ればブリキ缶を開けヘラでアイスをすくってカップに盛りつけてくれるのだが、ババがヘラで売るアイスだから人呼んでババヘラ。
私も初めて秋田を訪れたときは意外なところに出現する店とその当意即妙のネーミングに意表をつかれるとともに、いったい誰がこんな販売システムを確立したのか大いに訝しく思ったものである。
この本ではしっかりそんな疑問にも応えてくれて、様々な見聞をもとに丹念にババヘラの出生の謎を読み解いていくのだが、沖縄のアイスクリンが・・、米軍が・・、道交法の改正が・・、はたまた高知のアイスが・・・知のルーツは各所を飛び回り、次々と知ることの楽しさと興奮がもたらされる。
 
もちろん、本書で扱われる話題はこんな大衆食だけでなく、高級食材から酒、日常の食卓や殿様の食卓から縄文時代の食と、カテゴリーも時代もと超えて飛び回る。そして話題がどんなに広がっても、常に視点は現代社会の私たちを見つめる目で一貫しており決して揺らぐことがない。
 
また、どの話題もほぼ見開きの二ページにまとめられ大変読みやすいのだが、内容は濃厚でよくぞこれを二ページの話題にまとめてあると感心するとともに、しっかりと食材の魅力も盛り込まれていて、読みながらにしてヨダレが湧いて湧いて、しばしば読書を中断しては次の食事の事を考えることにもなってしまった。
 
まさに知力と食欲の両面を刺激して、人間本来の力を揺さぶってくれることが実感できる一冊である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本新・環境倫理学のすすめ

2006/12/29 23:53

民主主義と市場経済では私たちの明日に足りないものを考える

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私たちの社会の「幸福の尺度」という意味に限りなく近い「経済の成長」とはいずれ枯渇する天然資源を奪っては食い潰しつつ、処分の限界を超えた廃棄物を生み出すことでようやく可能になるものである。
言うまでもなく地球の環境は有限であるから、もはや私たちには経済成長社会か、持続可能性のある社会かの選択肢はない。持続可能性のある社会へ社会構造を転換するかしないか、転換するのならいつ行うのかという選択肢があるだけだ。

ところが一方でアメリカの生態学者が1974年に発表した「救命艇の論理」(途上国の保護をすれば地球と言う救命艇は人口過剰で沈没するだろう、というアメリカ優位主義を正当化するもの)の信奉者がアメリカ政府に影響力を持つシンクタンクの中で増えているという不気味な話があるという。
実際アメリカは世界規模の持続可能社会への出発点と思われた京都議定書の批准を拒否している。

こんな程度の論理の元では、地球規模での環境対策など永遠にとれるはずもないだろう。

確かに成長志向社会の転換と貧困の克服とは相矛盾する困難な課題だが、著者はこうした救命艇の論理に対して、 「途上国(の貧困)をともに救うのでなければ、地球を救うことができないという『倫理』を先進国が実行することが、地球の環境問題への途上国の参加のために必要である」と反論している。

私たちもまた、アメリカの推し進めるグローバリズムが基本的な理念に据える「民主主義」と「自由市場経済」と「基本的人権」で行き着く先はこの程度の「救命艇の論理」である現実を見据えねばならないだろう。 そしてこの「民主主義」と「自由市場経済」と「基本的人権」では、地球と人類の持続のために何が足らないのか、何が必要なのかを考察するのが環境倫理学であるともいえる。

本書では哲学・倫理学はもちろん政治・経済・科学その他様々な情報を引用して現状の把握分析が試みられており、事例の新鮮さと豊富さで読んでいて飽きない一方、これが環境問題の本なのだろうか、倫理学の本なのだろうか、と驚く点も多く簡単には読み解けない。
だがこれは即ち、単眼的な論理や特定分野の専門的な分析だけでは現在の世界を取り巻く環境問題とは読み解けないということでもある。

この本は、今の環境問題解決のために、人間の存在形態を問う総合的な視点から多種多様な情報・知識統合の実践を例示してくれる、優れた環境倫理学の入門書である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本秘密と噓と民主主義

2006/11/18 11:25

欺瞞と不安に満ちた現代社会に立ち向かう希望の求め方

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

大きな権力は人々の民主的な制約を嫌い、大衆が意志決定に加わるのを望まない。
その結果こんな現代における自由とは、大企業の専制に都合の良いこととなる。民主主義は企業の無制限の利潤追求を妨げないことに堕して、もはや政治は「企業が社会に落とした影」(デューイ)となる。
本書で次々と暴露されるアメリカの堕落。産業資本のための民主主義と政府。ファシズム機関としての企業。痛々しくも悲惨な現実であるはずなのに、あまりの露骨さゆえに小気味よくも感じてしまうほどである。

格差や将来への希望の衰弱、不安と不信で八方ふさがりのような現代世界であるが、チョムスキーは世の中は変わる、変えられると説く。
「解決策はきっと見つかる。啓蒙と粘り強い活動が世の中を変える。」
現実には、時代の渦中にいて流れに翻弄される人間というのは、時代がどちらに向っているのか、何が良くて悪いのか把握するのは難しいのかもしれない。
それでも人々が個々の問題を注意深く考え、実際に社会で何がおきているのかを見極めることの大切さを粘り強く説く本書は、不安の不信の時代を生きる私たちを大変勇気づけてくれる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

組織論理と私たちの内なる義経

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

腕に覚えの自信家で、人が尻込みする難プロジェクトを、己の腕を頼りに切り抜ける、その事自体に快感を覚えるが、目的のためなら手段を選ばず、上司の意向など二の次三の次。社内の根回しや上司の顔を立てるなんてことに労力を使うのは大の苦手。
内外の部下には絶対服従の信奉者も多いが、無能な上司は無能とはっきり言うようなヤツが社内でかわいがられるはずがない。外目には行け行けドンドンのやり手にして、内部では社内営業音痴のかわいくないヤツ。
−−−こんな義経タイプは、実際にいずれ社内でも干される可能性が高い。

義経は、組織の目的よりも難敵を打破するプロセスに快感を覚えるタイプで、組織の意志をくみ取って行動する内的な気配りに欠けた。どんな功績を挙げても人事評価するのは他人。自分の評価は他人が下す。
業績を上げること以上に組織の評価基準を理解し遵守することは重要なのである。

こんな評価基準をわかっていることをアピールするのは、ホウレンソウと呼ばれる、上司へのこまめな報告・連絡・そして相談。あなたの意図を確認してますよ、あなたの意志を反映してますよ、あなたのために働いてますよ、とかいがいしくアピールするヤツこそ評価を下す上司にとってカワイイヤツなのであるのは、800年の昔も今も変わらない。
もし、源義経にケータイがあったら・・・、頼朝に疑念を抱かせるような局面局面でこまめな連絡が取れていたら・・・。
これは義経失脚の経緯から現代企業の組織人事の論理を読み解く本ではあるが、内なる義経を抱える社内営業下手へのメッセージでもある。その意味で実は私にはとても痛い本だったが、義経には共感を覚えることができた。
また、一方で組織的栄達の極にあって世間的には成功者の頼朝が、組織目的の遂行に徹したために、個人的にはとても不幸な生涯を送った面も明らかにされており、組織人間にも、はぐれ組織人間にもなにがしか示唆するところのある好著である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ムーミン谷の十一月

2008/08/31 08:04

秋に読みたい現代人のための童話

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これはムーミン一家の出てこないムーミン谷の物語なのだが、ムーミン一家に様々な思いや期待を抱いてやってくる悩み多き様々な登場人物たちが、まるでそれぞれが私たちの断片であるようだ。
 
孤独になりたいのに本当はどこか誰かとつながっていたかったり、何か自分の意思でやりたいのにいったい何をしていいのかわからなかったり、自分で決めた日常の決め事に反対に自分が縛られて行き詰っていたり、私たちがごく日常突き当たるありふれた戸惑いが個性的な登場人物に託され生き生きとたくみに描かれている。
  
なぜ、彼らがムーミン一家を訪ねて悩みが解決すると思ったのかは、悩みと向き合う彼らの行動により明らかにされるのだが、それはムーミンたちの存在を間接的に描写することによって、いっそうムーミンたちのキャラクターを鮮やかに浮き上がらせているようだ。

たとえばスナフキンはこんな自問自答をしている。
  「・・・ムーミンたちだってうるさいことはうるさいんです。おしゃべりだってしたがります。どこへ行っても顔が合います。 でも、ムーミンたちと一緒の時は、自分ひとりになれるんです。いったい、ムーミンたちはどういうふうにふるまうんだろう、と、スナフキンはふしぎに思いました。」

ともあれそれぞれに悩みを抱えてムーミンの家にやってきた彼らは、ムーミン一家のいないこと(舟で島に出かけている)に当惑しつつ奇妙な共同生活を始めるのだけれど、年も志向も性格も違いすぎる彼らの生活はギクシャクとしたものだ。
 
それでもぎこちない共同生活の中で自分と向き合い、結局彼らは自分で解決の糸口を見出してまたそれぞれの場所に帰っていくのだが、この過程はほっとした穏やかな幸福感に包まれる。
 
結局、様々なキャラクターが躍動し悩み衝突を繰り返す物語で描かれているものは、現代に生きる上で私たちが避けられない不安や焦燥の対極にあるユートピアとしてのムーミン一家であると同時に、たとえムーミン一家が現実世界にはいなくとも私たちは私たちの不安や悩みを解決する手段をもっていることを示唆しているのだということである。
  
そしてその手段とは、作者がこの物語のタイトルでもある11月の季節をこんな風に描いているところにもヒントは見て取れるようだ。
  「冬もまぢかな、ひっそりとした秋のひとときは、寒々として、いやなときだと思ったら大まちがいです。 せっせとせいいっぱい冬じたくのたくわえをして、安心なところにしまいこむときなのですからね。自分の持ちものをできるだけ近くに引きよせるのはなんとたのしいことでしょう。自分のぬくもりや、自分の考えをまとめて、心のおく深くほりさげたあなにたくわえるのです。その安心のあなに、たいせつなものや、とおといものや、自分自身までを、そっとしまっておくのです。」
 
木や草も外への繁茂がやみ内へとエネルギーが向かうように、冬に移り行く秋は人にとっても内省的な季節だ。
そんな時期の代表である11月を舞台とすることで、作者のトーベ・ヤンソンは現代人のいつも外に向いて忙しい自分の意識を、時にはじっくりと自分の内に向けることの大切さを描いたのだろう。
  
秋に大人こそ読みたい童話である。
 
 

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

51 件中 1 件~ 15 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。