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桃屋五郎左衛門さんのレビュー一覧

投稿者:桃屋五郎左衛門

23 件中 16 件~ 23 件を表示

現代の明快な見取り図

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

グローバリゼーションは、資本や情報の世界規模の流れだけではなく、途方もない人の移動をもたらしている。同時多発テロで崩壊して間もなく一年となるWTCは、本書の終わり近くに指摘されているように、グローバル資本の流れの担い手であるエリートたちとともに、多くの低賃金移民労働者が働いていた。つまりWTCとは、アメリカ経済の繁栄の象徴ではなく、グローバリゼーションを象徴するものだった。
とはいえ、グローバリゼーションは、経済のみならず、政治、文化、社会といった諸分野の交錯する領域において現に今も進行している。それが指し示す事態は、多岐にわたっているだけでなく、重層的でもある。それゆえ、「グローバリゼーション」をキーワードとして語られる現代社会の諸相の、簡にして要を得た見取り図を示してくれる本書は待望の一冊と言えるだろう。著者はここ数年さまざまな媒体でグローバリゼーションについて論じてきており、それらは多くの部分で本書の内容と重なるのだが、こうして新たに簡便な新書の形で一冊にまとめ直されたことは、それらの多くを読んできた者にとってもありがたい。

 本書の内容についても簡単に触れておこう。著者は、グローバリゼーションを帝国主義的な枠組みの再構成ではなく、新しい世界秩序の様式と捉えた上で、グローバリゼーション研究のテーマとして、第一に国境を越えた経済活動の拡大と国民国家に代替する新たなる権力の出現を対象としたポリティカル・エコノミーと、メディアを通じて生産されてきた大衆文化の世界的浸透や消費文化の均質化といったグローバル・カルチャーという二つの分野の接点を解明することによって両者の対話の場を切り開くこと、次に従来の社会科学や人文科学の思考様式における国民国家という枠組みからの脱却を構想することという二点を挙げている。
 その上で、サッセンの「世界都市」、ウォーラーステインの「世界システム」論、ネグリ&ハートの「帝国」などについても批判検討を加えつつ、グローバリゼーションによってもたらされた地政学と資本蓄積メカニズムの変容やグローバル資本が新たな格差を生み出す過程を解明しながら、近代の延長にあって、それから区別された「現代」を問い直し、さらにグローバル資本に対抗する場を構想していこうとする。

 それゆえ、本書は、時代の波に完全に乗り遅れてしまわないうちに、ビジネス・チャンスを掴むヒントを手っ取り早く手に入れようと考えている読者には失望を与えるかも知れないが、「現代」という時代を多角的に捉える視点を獲得するための、また未来への展望を切り開いくためのさまざまな示唆を与えてくれる一冊であると言えるだろう。

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彼自身によるジャック・デリダ

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ジャック・デリダがはじめて自身の顔写真の公開を認めたのは、1987年の『火−灰』以降のことだったと記憶している。それ以前はブランショほどではなかったにせよ、デリダもまた“顔のない思想家”だった。そして、様々なところでデリダの顔写真を見るようになった頃、デリダによる政治的な言説も目にするようになった。
 アルジェリアでの少年の時代やフランスでの学生時代の記憶を召喚しながら、「私は一つしか言語を持っていない。ところが、それは私のものではない」という自身のパラドクシカルな言語的条件をめぐって(デリダとしては、という断り書きをしておかなくてならないのだけれど)、思いのほか平明さに語っていく『たった一つの、私のものではない言葉』、このバルトの書名をもじって『彼自身によるジャック・デリダ』とでも呼びたくなるような本を読みながら、そのようなことを思い出していた。
 ここで「たった一つの、私のものではない言葉」とデリダによって名指されているのは、フランス語のこと。フランス植民地のアルジェリアのユダヤ人家庭に生まれたデリダは、一方でアラビア語・ベルベル語の文化からもユダヤ文化からも隔てられて、フランス語を唯一の言語として育つ。ところが少年時代に、第二次大戦中、フランス政府よってフランス市民権を剥奪され、二年後一方的に回復するという経験をする….。この「他者から強制された単一言語使用」、言語的=文化的同一性を確立し得ない言語的状況を指して、デリダは「私は一つしか言語を持っていない。ところが、それは私のものではない」と語る。
 こうした言語的条件が、脱構築的エクリチュールを自らに選ばせ、翻訳とそのアポリアについて語らしめると「根源的な一つのgrief=悲嘆」の色調の中で語られていくが、『たった一つの、私のものではない言葉』は、こうした言語的「同一性障害」をめぐる自伝的アナムネーシスにとどまらず、デリダの言語や形而上学についての思考と政治についての思考とを一つに結び合わせる結び目となるのが、「私は一つしか言語を持っていない。ところが、それは私のものではない」というデリダ自身の言語的条件ということが明かされる。
そしてこのデリダの<grief(=悲嘆/苦情)>がこの書物を読むことに対してなにがしかの傷みを伴わせる。

 ともあれ、アレントの言語観とハイデガーのそれとの類縁性を「母語」を切り口に指摘する注釈の一節などデリダならではで、何より下手な解説書を読むより、デリダという思想家に近づけるという意味で、お薦めの一冊。

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紙の本つっこみ力

2007/05/23 22:49

人間を眼差すためのメディア・リテラシー入門?〜つっこみ入りヴァージョン

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 擬似科学や権威に対しては批判力も、論理力も、メディア・リテラシーも有効な批判のツールとはならない。人は必ずしも正しい言葉を必要とはしていないからだ。したがって正しさを正しさとして主張するよりも、正しさをおもしろさに転化した方が有効な場合もある。そこで愛と勇気とお笑いの三つの柱で構成された「つっこみ力」の出番となる、というのが著者の主張だ。「つっこみ力」とは場を盛り上げようとするサービス精神と自己犠牲の精神を要する。ただし、異才・奇才の業であるボケと異なり、「つっこみ」はある程度修練で鍛えられるものだ、ともいっている。(ホンマカイナ?)
 では「つっこみ力」とは何か。著者は「メディア・リテラシー」とは一線を画す、しかもそれに変わる思考のツールとして「つっこみ力」を提唱していながら、なかなか一般に定着しない「メディア・リテラシー」という語の親しみやすい代替案として「つっこみ力」を提唱していたりもする。また対象があまりに広範囲にすぎる「メディア・リテラシー」によりも、統計やアンケートのデータだけに対象を限定した「リサーチ・リテラシー」の方を好んでいると述べる一方で、逆に「メディア・リテラシー」が対象をメディアだけに限定することへの不満を隠さなかったりする。(デ、結局「ツッコミ力」ッテ何ヤネン?)
 本書の前半は理論編、後半が実践編となるが、残念ながら本書の中では「つっこみ力」を身につけるための具体的な修練方法が書かれているわけではない。しかし、後半部分を読めば、「つっこみ」を入れるポイントを見つけるコツはわかってくる。そのコツとは、ふたつの現象の間に因果関係が認められると主張する何らかの仮説に対し、他に有力な仮説がないか考える、ということではないだろうか。(ダカラ、ソレガ論理力トチャウンカイ)
 たとえば相関関係が認められそうなふたつの現象があり、それらの現象の間に因果関係を読み取って仮説を組み立て、さらにいくつかのデータでこの仮説を裏づけようとしている言説があるとする。こうした言説に対して、ふたつの現象の間に一見したところ相関関係があるように思われるのは単なる偶然なのか、あるいはふたつの現象が共通の原因によってもたらされているのか、それとも原因と結果の関係が転倒している可能性はないかなどと吟味しながら、現象をよりうまく説明できる代替仮説を考える姿勢を身につけるということだ。(ソウイウノガめでぃあ・りてらしいチャウンカイ?)
 そもそも本書が「つっこみ」を入れているタイプの本のスタイルを真似て、講演の口述筆記の文体による新書版で出版し、そこに『・・・力』というタイトルを冠した著者もおかしいが、それ以上に巻末の「好評既刊」に本書が「つっこみ」そうな本を並べるという編集部の手の込んだボケぶりはさらにおかしい。しかし著者の本意は案外真面目なもので、前半では自己目的化した社会科学に「つっこみ」を入れながら、後半でデータばかりを追うのではなく、もっと身近な人間との関わりに眼差しを向けよ、というメッセージを発している。そのために、まずは「つっこみ力」を、ということだ。いずれにせよ、本書は気軽に読めるメディア・リテラシー、あるいはリサーチ・リテラシーの入門書と言えるのではないか。
(ホナ、サッソク130ぺえじノ職別年間賃金一覧表カラ、ツッコミイレテミヨカ!)

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紙の本歴史の想像力

2011/06/19 23:51

過去と現在の隔たりをこえて

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 『二十世紀のプリズム』(角川書店・1999)の新装版ということらしいが、かなり大幅に再編集されているようだ。奥付を見ると、2001年10月の発行となっており、巻頭の「はじめに」の日付は同年9月となっている。この中でイスラムとアメリカという「偉大な両文明が『文明の衝突』といった誤った水路に迷い込まないように願わざるをえない」と記している。

 同時多発テロ当時、著者はしばしばTVのコメンテーターとして登場していた。本書が絶版となったのは、企画としてはずっと以前から準備はされていただろうが、こうした時事的な側面を強調して、あるいは時事的な読み物として編み直されたからか。とはいえ、そのまま絶版となるにはもったいないと感じる。

 全体は5つのパートに分かれていて、前半の大佛次郎や辻邦生らの歴史小説を論じた「歴史・文学論」、歴史上の人物や歴史学の先達を論じた「人物論」と、後半のグローバリゼーションが進行するなかでのイスラム圏情勢を中心に論じた「民族関係論」と現代史の方法論を論じた「現代史論」に挟まれて、著者の歴史叙述に関する基本的なスタンスを述べた「史論」が置かれている。試みにそこから引用する。

もともと、歴史を意味する「ヒストリー」(history)とは、物語を指す「ストーリー」(story)にほかなりませんでした。よく歴史と文学の性格が比較されることもあります。たしかに、歴史と文学には大きな共通点があるかもしれません。この二つは、自然への愛や人間の可能性に対する信頼に加えて、〈叙述〉という表現手法を重視する点でも似ているからです。英語のヒストリー(history)の語源であるギリシア語のヒストリアには、「歴史叙述」の意味もあるといわれます。この意味で、ヒストリー(歴史)は、ストーリー(物語)に通じる、といってもあながち間違いとはいえないでしょう。(「ストーリーとしてのヒストリー」)

 その上で、ヘロドトスとイブン・ハルドゥーンの歴史観を比較しながら、

歴史とは、文学や年代記の素材にもなった事件を優雅に記録し、ときには詩文で感興を飾り立てながら、われわれに人間関係の機微を理解させてくれる営みである以上、何よりも読書の楽しみに堪えるはずのものなのです。歴史の変化と不変が人間関係の機微にいかなる影響を及ぼしたのかという問いは、いかにして国家の盛衰が進んだのかという問いと同じくらい重要なものです。(「ストーリーとしてのヒストリー」)

と結論する。

 こうした観点から書かれた本書の諸篇は明快な論旨で読みやすい。しかも一気に読み通しながら、さらにいくつかの歴史書を読みたくなる。本書でも取り上げられているヘロドトスでもよいし、あるいはブルクハルトやホイジンガでもよいだろう。

 ただし、引用した「ストーリーとしてのヒストリー」にも見られるように、著者にとっての歴史叙述(学)とは、「かつて」という異質なものを「いま」において何らかの必然性をもつ、理解可能なものとして提示するものとして捉えられている。現在と過去とのあいだにある絶対的に隔たりを解消し、そこに何らかの連続性を見出す作業といってもよいだろうし、「いま」と「かつて」を「ここ」と「よそ」と置き換えることも可能であると思われる。

 著者はホブズボームの西欧中心主義を批判しているが、著者自身の思考の前提となっているものも普遍的な人間性というヨーロッパ的理性の産物であることも確かだろう。それゆえか、サイードなどについては、本書の端々で批判を加えることになる。

 もっとも、こうしたことを思ったのは、「歴史」と「想像力」という二つの概念を結びつけている点に、擬似科学としての歴史学へのラディカルな問題提起がなされているのではないかと勝手な思い込みをしたからなのだが。

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紙の本青の美術史

2003/03/30 21:27

「青」をめぐる逍遥〜彼らは何を表象したのか

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

≪「青」という色をただひとつの手がかりにして、美術の世界を、あるいはもう少し広く人間の文化を、さまよい、散歩してみる。さまざまな青の世界に入ったり、出たりしながら、たぶん究極的には、人間の、そして人間が世界を表象することの不思議さを感じ、考えてみる。≫

冒頭でこのようにその狙いが語られた小林康夫の『青の美術史』は、古代オリエントからイヴ・クライン後まで、主に西洋美術史における「青」の変容の歴史を概観するという一冊。


 それにしてもなぜ「青」なのか。

自然界に青いものはほとんどない。なるほど空や水も本来は無色透明で、その青さは「光の効果としての『青』」だった。さらにヨーロッパの源流たるギリシアにあっては、世界は黒と白と赤と黄」からなっており、「青」はむしろ夜と死の色、辺境の色、野蛮な色とみなされていた。そこにキリスト教がヨーロッパ文明に超越神的な「運命の色」としての意味づけをもたらす。青の顔料の稀少性という当時の事情もあり、こうして「青」は「遠い、近づきがたい色」と位置づけられ、やがて人はそのような「青」に形として捉えがたいもの、たとえば理想や夢や世界理解の表現を託していったのだ、という。それゆえ「青」の世界を探索しつつ、「人間が世界を表象する仕方の歴史」を辿って旅することは、「人間の魂の根源にある限りないものへの憧れを分有」する試みともなる。


旅のはじまりは神聖な「青」の系譜を辿る旅。フラ・アンジェリコが描く聖母のマントの「信仰の色」から、一旦時間を遡り、ビザンチンのデーシス(代願図)を彩る「無意識の部分に浸透してくる」青と「聖堂を奇跡の場とする」シャルトルの荘厳な青を訪ね、この東西の「青」の合流する地点として、ジョットの「聖なるものが出現する場」に至る。

次に一気に時代を下ると、プルーストともに、「黄」の対比を軸に「日常の事物が周囲の空間や空気に与える色」として見出された光の中に内在するフェルメールの「青」や、「性格、現在の感情」を映し出す色としてのシャルダンの「青」に出会い、ヘルダーリンやノヴァーリスともにフリードリヒとルンゲの「呪われた運命の象徴」としての青の系譜を辿りつつ、そこからマラルメの蒼空への憎悪を連想し、マラルメの同時代人マネの「欲望の戯れ」としての青へ、あるいは画家自身の「感覚」を色に翻訳したセザンヌの「青」へと旅はつづき、そこからマチス、ピカソ、サム・フランシス、ポロックらの「青」を経巡って、「空間の向こう側」へと「行って」しまったイヴ・クラインの「青」に辿り着く。

このイヴ・クラインによって、「現実に存在しない」がゆえに様々なものを表象してきた「青」は、「事物の意味にも、人間的な意味にも還元されない純粋状態で凝縮された」「青」へと変容したが、著者は、それがまさに人類が「青」を自らにとってもっとも根源的な色であったことを知った同時期の経験 —ガガーリン飛行士が宇宙船の窓から、つまり文字通り「空間の向こう側」から、地球が「青い惑星」であったことを発見した経験! — と呼応していると指摘する。「青」は「色のなかにあり、また、色の外にある」。思えば、「青の歴史とは、現存と不在のこの根源的な二重性の絶えざる変奏」でもあったのだ。


 著者とともに「青」の世界を逍遥する時間に私は心踊らされた。本書は、すでに見たように「青」の表象史の大まかな見取り図といったもの。より網羅的な「青」の美術史を望むなら、あとは読者それぞれが自ら「青」の世界を探索し、それぞれの地図を描けばいいだろう。その場合にも、本書はよき旅のガイドブックとなるはずだ。惜しむらくは、カラー図版が少ないこと、またもう少し判が大きくてもよかったのではないかということか。

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書物のあとに〜ハーバーマス嫌いの思想家が語る「記憶はあるが、思い出したり忘れたりすることのできない」メディアがもたらす知のかたち

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 グリーナウェイの映画『プロスペローの本』の中でとりわけ印象的なのは、プロスペローが「本は一切無用」と宣言した途端、天使たちが宮殿内に巨大な音を響かせながら本を閉じていく場面だった。あの天使が本の上に腰を降ろしているスティル写真を表紙にあしらった本書の中で、ボルツが提示するのは、活字メディアに代わるハイパーメディアによって形成される新たな知のデザインの設計図だ。

 けれども、この新たな知のデザインを語るに先立って、ボルツはまずコミュニケーション、インターフェース、メディア美学という三つの鍵概念を通じて、この新たなメディア環境がもたらす人間の認識の変容を素描する。それは次のようなものになる。
活字メディアによって形成された知(グーテンベルク銀河系)の線的な合理性は、新たなメディアによって、相対的な配列の中の思考にとって代わられる。たとえば因果律に代わって再帰性へ、分類に代わってパターン認識へといった具合に。また新しいメディアは人を情報の支配者ではなく、メディア同士の結節点として、ユーザー・インターフェースという表面に向き合う存在にする。さらにこの新たなメディア環境は、異なるメディア間のブラウジングを可能とする。

 では、ハイパーメディアが可能にする「新しい知のデザイン」とはどのようなものなのか。原著の刊行が93年とのことで、今ならもう少し違ったものになるかもしれないが、ここではテッド・ネルソンのドキュヴァース構想を参照しながら、「何度もパースペクティヴの変更が行われ、再解釈が繰り返される」多元的なハイパーテキストとして描き出される。ボルツは、このようなハイパーテキストが実は注釈や学問論争の蓄積によって編まれたテキストであるタルムードのようなテキストとして既に実現していたと指摘する。つまりハイパーテキストとは古くて新しいテキストの形態だというのだ。

 また、サイバースペースを近代における知覚(とくに視覚)の拡張の歴史に位置づけようとする議論も興味深かった。すべてを見るという夢を実現する装置、遠方を室内に封じ込めるファンタスマゴリの装置であるパノラマにサイバースペースの起源を見るボルツは、今やサイバースペースにおいて、観察者がイメージの周囲の枠組みを破壊し、自ら視界の中に入り込むことで、すべてを見るパノラマ的統覚が完全なものになりつつあるという。ただし、ボルツは、パノラマ的な遠方や過去が異質なものに開かれているわけではなく、ゆえに世界を平板で閉じた影像としてしまうものであると付け加えることも忘れない。

 ルーマン、ベンヤミン、アドルノ、ドゥルーズ、デリダといった思想家やマレーヴィッチ、モホイ・ナジ、グリーナウェイといったアーティストを自在に参照しながら展開するボルツの議論は、刺激的で魅力的な細部に充ちている。もっともボルツが示す、活版印刷機のプレス(=抑圧)から、サイバースペース上の自由で多次元的なテキストへの解放という(余りにも割り切った)図式を前にして、それでも<書物>という形態が完全になくなるわけでもあるまいという感想をついもらしてしまうのは、私が書物を読むという行為が、単にそこに印刷された文字を目で追いつつ情報を得るだけのものではなく、物としての書物や紙自体の触感や質感への偏愛をも喚起させるものだと考えているからだろう。

 ついでに付け加えておくと、本書の第3章でボルツはゲーレンの「豊富な知識を与えられた無知」という言葉を引用しながら、マスメディアがもたらす大量の情報の無方向性を論じているが、最近邦訳の出た『世界コミュニケーション』では、これを出発点とし、さらに多岐に渡って検証され、考察が深められている。

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ネット生活のお伴に

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 ネット掲示板を見ていたり、メーリングリストに参加していると、極端な意見が飛び交ったり、特定の見解が場を圧倒して多数派意見のように錯覚され反対派を沈黙に陥らせたり、ある種の話題が他の何にも増して当面考えるべき問題であるかのように見えてしまったりする光景に遭遇する。本書ではこれらをリスキー・シフト現象、沈黙のらせん現象、メディアの議題設定機能といった社会学でマス・メディアや流言を分析する用語を用いて説明する。筆者は、ネット上のコミュニティもまた人が集まる空間であるという認識に立っているがゆえに、このように社会学的な分析理論を駆使してヴァーチャルなコミュニティを考察することが可能だという。しかも、こうした認識によって、現実世界とヴァーチャルな世界を分離して考える視点からは設定しづらい、ネットを通じた市民の育成とコミュニティ形成の可能性といった課題が取り出されることになる。

 インフォアーツとは、「市民として自律的に思考し、行動するのに必要とされる基礎的な教養・教育」であるリベラルアーツを源流としていて、インフォテック(情報技術)の対抗概念として提示されている。が、両者は単に排他的な関係にあるのではなく、後者を前者が包含するものとして捉えればいいだろう。本書では、メディア・リテラシー、情報調査能力、コミュニケーション能力、シティズンシップという四つの柱からなるインフォアーツという概念を駆使して、ネット・コミュニティ、情報教育、市民的公共圏といったテーマが取り扱っていく。

 最初の二章では、初期のネット・コミュニティがガバナンス原理に基づいて一種の市民主義的文化を合意形成してきたものの、それが匿名性の増大、統制主体の欠如、大量性によって崩壊しつつあることが指摘される。次に冒頭で紹介したネットの言説空間の諸現象を説明しているくだりが続くが、この部分はメーリングリストや掲示板の管理者にとって大いに参考になる視点を含んでいるのではないかと思う。第三章では高校の情報教育が俎上に上せられ、それがインフォテックに関する教育に限定されることへの危惧が表明される一方で、初期のネット社会が有していた市民育成の機能をインフォアーツの理念に基づいて情報教育に託す方向性が示唆される。
 筆者の考えるネット社会を生きていく「市民」のあるべき姿(眼識ある市民)が具体的に論じられるのが第四章であり、これに続く二章がこの「市民」像の具現化の手段、つまりインフォアーツの実践のための具体的な提案に充てられている。著者はインフォアーツ教育の場として対面集団を想定していて、そこから、大学であれば授業クラスごとのメーリングリストの開設や掲示板などの活用、さらに一般社会では生協、PTA、NPOなどのローカルな組織がふさわしいと提案する。さらにネット・コミュニティにおける「専門家」の果たすべき役割についても言及される。

 ネット・コミュニティの現状に対する分析は、私たちが日頃感じていることを明確に指し示してくれる。それよりも興味深いのは筆者の提示するネット・コミュニティの未来像で、いつでも参加者が対面できるローカルで小規模なグループを「苗床」としてインフォアーツの育成に活用するという筆者からの提案は、充分に実現可能なものだと思われるし、「苗床」が成長すれば次にそれらを相互にネットワーク化することで「分散的知性」の連鎖を実現するというヴィジョンも楽しい。
 本書は情報教育に携わる人、あるいはこれから携わろうとしている人にとって大いに示唆されるものが含まれていると思う。また、メーリングリストや掲示板の運営者だけでなく、その参加者、多くのネット・ウォッチャーにとっても、特にメディア・リテラシーの面で刺激をもたらすだろう。

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インターネットをめぐる思考への誘い

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 新しいものをめぐる言説は、多くの場合、安易な楽観主義に基づく無批判な讃美か、郷愁に支配された道徳的な論難のどちらかに陥りやすい。本書もその例外ではない。しかもドレイファスは、インターネットの可能性をある程度認めながらも、たとえば他者と他者とをあたかも何も媒介していないかのように結びつけ、現実世界の遠近感を反転させるメディアとしての性質を見極めようとはしていない。このようなインターネットのメディアとしての側面への考察が充分になされていないことがインターネットを論じる上での限界となっていると感じられた。

 ドレイファスは、脱身体化というキーワードを切り口にインターネットを批判している。冒頭でその四つの論点が提示され、それらが続く四つの章で順を追って吟味され、最後に総括されるという構成になっているので、論旨を辿ることは容易だ。以下、ドレイファスのインターネット批判の骨子を簡単に整理してみよう。

 一点目は階層的に体系化されていない情報の検索しづらさに対する批判で、さらに『コンピュータに何ができないか』以来の、情報を情報として認知するためのフレームの必要性という観点から、ネットにおける身体性の欠如と情報をツリー状に分類していないハイパーリンク構造が関連性の能力、つまり世界を理解する能力の喪失をもたらすのではないかと警告している。二点目は遠隔学習における当事者性の欠落による限界の指摘。ドレイファスはこれを教える−学ぶという関係において、関わりあいや模倣を可能とする両者の現前を重視する立場から論じている。三点目はリアリティの感覚の源泉としての身体の重視という立場から、テレプレザンスやヴァーチャルな世界が人や事物に対するリアリティを喪失させるという批判。四点目は現実的なリスクを伴う真正なコミットメントにこそ人生の意味があるとする立場から、匿名のリスクなきコミットメントが人を無関心・無差異の支配するニヒリズムに導くという主張で、キルケゴールの「傍観的な観察者」(やハイデガーの「世人(das Man)」)への批判を援用した議論になっている。

 ドレイファスのインターネット批判は、特に最初の二点に顕著だが、より正確にはインターネットをめぐる誇大宣伝や楽観的に過ぎる言説に対する批判と呼ぶべきものだろう。ハイパーリンク構造の情報を検索する不便さなどは、ドレイファスに指摘されるまでもなく周知のものだ。問題は、ドレイファスが指摘するような、ハイパーリンク構造がもたらす関連性の能力の喪失ではなく、雑多で玉石混交の情報を関連性の能力によっていかに整除し、どのような形の知として構成していくか、という点にあるのではないか。またドレイファスは現実世界とヴァーチャルな世界の断絶を強調し、前者を上位に置くヒエラルキーを前提に、身体から切り離された精神がその存在の足場をヴァーチャルな世界に移すことの危険性を指摘するのだが、そもそも私たちの精神が身体から切り離され、ヴァーチャルな世界のみをその存在の棲家とすることなどありえるのだろうか。

 本書への疑問はまだまだある。しかし、それらの疑問は直ちに幾つもの新たな問いを生む。たとえば、ヴァーチャルな空間を媒介としてリンクされた複数の現実世界のリアリティはどのような変容を被るのか、そのようなリアリティの変容がわれわれにどのような影響をもたらすのか、さらに膨大な情報とインタラクティヴな性質によって知が再編成されるとして、それがどのように編成されるべきなのか、といった問いだ。これらの問いはドレイファスの問いの傍らに位置するものであり、本書を媒介とすることで得られた収穫であることもまた確かだろう。

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