チャチャヤン気分さんのレビュー一覧
投稿者:チャチャヤン気分
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上海独酌
2004/10/24 11:35
歌で綴られた私小説
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本書は、歌と散文で綴られた「私小説」といえるかも知れない。妻子ある男との上海への旅。別離。そして著者はひと月後のクリスマスに単独上海を再訪する。唯一の散文である第一部に記されるのはまずこの独り旅。それは一種〈感傷旅行〉の記といえよう。ここで「ただ、わかったのは、男があのとき自分と二人旅をしていたのではなく、一人と一人の旅が連なっていたということだった。」と回想される最初の上海行は、そう回想されるからには著者に於いては確かに「二人旅」だったのだろう。そう自ら規定することによって結果される諦念が、本篇をある色調に統一していて、独特のムードがある。
第二部は歌集。「上海」の題のもとに(1)最初の上海行(2)帰国後の日々、そして(3)第一部の感傷旅行に於いて、折々に詠まれた歌が集められている。
《難波江の朝岸に待つ君ありて夢と思いし旅ははじまる》という歌に始まる(1)の歌たちには、とりわけ恋人と「二人旅」する素直な喜びに溢れている。《船室というかりそめの新居にて我は羽織りぬ黒き旗袍》
とはいえ、岸壁の向こうに置いてきたものに気づかぬわけではない。《離れ行く岸を見ぬ君我は知る紙テープ引く誰か居ること》
そうして着いた上海は折悪しく雨天だった。が、著者の内心は喜びに燦めき、その内面の光が上海の風景を明るく照らし出している。《がたがたと濡れた舗道に鞄引く我取り囲む上海の声》《幻の日照雨見たさの道行きは歌えぬままに外灘(バンド)きらめく》
中国語で愛人とは妻の意なのであろうか、彼我の語の違いにこと寄せて、《「愛人」という語の違いそのままに我はこの地の妻としてある》 と、自らを恋人の妻として思い振る舞う著者。《嬉々として酸菜購う君の後附き従いぬ旅先の市》
しかし、旅程も半ばを過ぎ、次第に現実(日本、置いてきたもの)が脳裏をよぎり始め、光に満ちた内面に影が差し始める。《君のいる朝に慣れまじ旅ゆえと言い訳し居る折り返しの朝》
やがて帰る日が来る。中国語の愛人から日本のそれへと戻る哀しみ。《外灘は曇天のもと遠ざかる「再会(ツェーウェ)」と言う、君の背に言う》
(2)日本へ帰着直後に恋人との別れがあったのだろうか。後出の「宿直(とのい)」の題のもとに収められた歌を関連させるなら死別か? しかし第一部の散文からはそのような事態は読み取れないのだが。《病棟に上海の菓子食べ尽きて旅路の終り霜月の末》
この病棟は著者自身のそれなのか、それとも恋人のか? いずれにしても「上海旅行」が土産の菓子を食べつくしたときに終わるという見立てが秀逸。
(3)そうして病(?)癒えた著者は、クリスマス再び赴く、夫婦であった彼の地へと。《回転扉君と暮らせし客室は光るツリーのその奥であり》
短い感傷旅行は終わり、著者は心にひとつの決着をつける。《君といた確かに君とこの街にそれを糧にし年越えて生く》……
散文と短歌が互いに照応し合うその交差に、読者は否応なく〈物語〉を読まずにはおれぬ。そしてその物語に、私はとても清々しいものを感じる。もとより以上は、私の解釈あるいは私の裡から引きずり出された物語なのであり、何ら事実であるを保証しないのは無論である。かくのごとく本書は、いくらでも深読みのできる、あるいは読者の裡から〈物語〉を引きずり出さずにはおかない、そういう途轍もない力を持った歌集である。
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