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  3. YOMUひとさんのレビュー一覧

YOMUひとさんのレビュー一覧

投稿者:YOMUひと

41 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本昭和精神史

2006/01/14 20:46

日本人の座標軸としての精神史

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

司馬遼太郎が、明治を描くのを好み、昭和の作品化を嫌ったことはよく知られているが、昭和とはそんなに正視できない時代であったのだろうか。
本書は、昭和前期を軍国主義日本という一語で済ます皮相な歴史観に対して、政治の世界と文学・思想界の両面から昭和史を再構成し、戦後の日本人が忘れてきたこと、失ってきたものの豊かさや深さを鮮やかに蘇えらせる。
また、戦後の社会に通説となった見方に対し、より事実に即した、あるいはより公平な異議を穏やかに、かつ冷静に提起するとともに、事件の一面的な解釈を排し、歴史を重層的に多面的に描くことによって、あるべき昭和史への探究を一層促している。
例えば、日本は好んで日米開戦に突き進んだのであろうか。開戦に1カ月先立つ昭和16年11月、日本側の譲歩を一蹴し、最後通牒となる「ハル・ノート」は、ルーズベルト大統領の「あからさまな最後通牒を日本が突きつけるように仕向け、最初の攻撃を日本に行わせるようにするという意志であった。」
同8月、近衛文麿首相は緊急の日米首脳会議を提案しているが、米側から丁重に拒否されている。同9月、御前会議でほぼ日米開戦が不可避となった後も、昭和天皇の意向もあって、臥薪嘗胆の慎重論が繰り返し蒸し返された。
といっても、著者は日米開戦を無条件に肯定しているのではない。これまた無謀のそしりを免れない日露戦争と異なり、和議の仲介国がない状況で、「長期戦において、いかに敗けるかといふ思想がない」と批判する。
しかし、アメリカの主張を全面的に受け入れ戦争を避けるべきであったという戦後の議論に対しては、「一民族、一国家が、その安全と利害打算からのみ、なりふりかまはず生きるといふ考え方は、その自立的生存の根拠になり得るであらうか。」と問う。これは戦後の、そして今日の世相に対する痛烈な皮肉となっている。
文芸批評家である著者の本領は文学や思想の分野にある。主要な歴史的事件の流れに従って、繰り返し言及される永井荷風、保田與重郎、小林秀雄、中野重治を始め、多彩な作家、詩人、思想家が登場する。
例えば、昭和12年に発表された永井荷風『濹東綺譚』では、主人公が「娼婦から、おかみさんにしてくれないと水を向けられて、自分の方から遠ざかって失恋する」。この作品を批評した佐藤春夫はこう述べる。荷風の倫理では、「陋巷に笑いを売ることは堕落ではなくて、真の堕落は懶婦となり悍婦となっていわゆる良家に主婦たるにある」から、主人公は「彼女を堕落させるに忍びなかつた」ので「自ら彼女を失ふ苦痛に耐えて彼女から遠ざかる決心をした」。『社会的虚飾に対する烈々たる義憤と、能くこれを忘却した者に対する愛惜及び社会の虚飾のために犠牲となった個人に対する翕(きゅう)然たる同情』という意味において、佐藤春夫はここに荷風文学の「ヒューマニズム」を見る。
戦後、この批評に異論を唱えた平野謙は、「要するに荷風が書きたかったのは、娼婦から愛情告白をささやかれる情景」であると断じる。この対立の背景には、昭和33年の売春防止法の施行に現れた人権思想があることを指摘しつつも、著者は「平野謙の感受性は佐藤春夫にはるかに及ばない」と見る。時流に乗った平野謙と佐藤春夫の読みの射程の差は明瞭であろう。
本文に散りばめられた詩文は、評者のように至って散文的な人間にも、本書のテーマの一つである日本文芸の豊かさの証しとして魅力的である。本書によって日本の近代における文芸というものがかつて占めていた重みも実感することができる。重厚で格調高い文章は内容にふさわしい。管見の範囲ではあるが、このような作品を書くことのできる著作家は現在の日本にほとんど見当たらない。
品切れ中であった本書の再版を心から喜びたい。

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紙の本

国際的な視野から日本人を励ますサムライ論

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書はまず、問題設定が鮮烈である。欧米において個性のない集団主義の国とされる日本が、なぜ個人主義の結果である工業化と企業経営で成功したのか。マックス・ヴェーバーのいう資本主義の精神を推進したプロテスタンティズムを欠いている日本がいち早く近代化を成功させたのはなぜか。この問題設定からして、私たち読者は本書に引きずり込まれてしまう。

確かに、明治維新をなしとげ、先の大戦では壊滅的な敗戦の瓦礫の中から経済大国の一角へと甦った日本という歴史を顧みれば、ただ受身の従順な日本人というイメージから理解することは不可能であろう。著者はそこに集団主義だけでなく個人主義の文化の存在を見て取り、その源泉をサムライの文化の中に求める。サムライが誕生した中世にさかのぼってその文化を掘り起こし、どのように形成され、どのように変容してきたか、説得力ある説明を展開する。

ここに析出される個人主義は西洋の近代個人主義とは異なる「名誉型個人主義」であるということは大変興味深い。西洋型の近代化が唯一の道であるとすると、西洋以外の国々の近代化が相次ぐ現在、それが納得のいくものでないことは明らかであろう。この概念は今後、日本以外の近代化研究においても大いに寄与するのではないであろうか。このように、日本史を社会学的手法で理論的にとらえ、さらに西洋や中国・朝鮮と比較するという方法は、非常に新鮮で興味の尽きないものを感じる。

さらに、本書は最初、英文で書かれ米国で出版されたものであるので、日本史に関して厚い蓄積のある多量の日本語文献を縦横無尽に利用した面が強みのひとつであろうが、逆に日本語の著作と見ると多量の外国語文献の引用が大きな特色となっているため、本書が世界的な研究史のなかに位置づけされ、それがわれわれ日本の読者を一段と開かれた視界にいざなうこともまた魅力の一つである。

このサムライ論が米国人(多分)に嫁いだヤマトなでしこによってなされたという事実には、正直言って少し複雑な思いにさせられるのであるが、アメリカの大学という熾烈な競争社会に身を置きながら、その著作のモチベーションに「従順で無個性なハタラキバチ」とする日本人観に抗する意識が働いたに違いないと思うとき、何か読者の胸を打つものがある。

他方、現今の日本の精神風土を考えると少し気恥ずかしい気持ちになりながら、本書によって大いに勇気づけられてしまうのも事実であろう。

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紙の本

紙の本昭和精神史 戦後篇

2004/09/13 14:15

名著のみが与える充足感

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 昭和という時代、特にその前半期は私たち戦後派の父母がその人生の中心を過ごした時代であり、日本史上にも、おそらく類例のない激変に翻弄された時代であって、私たちは正面からこの時代を見据える必要がある。私たちが今ここに、こうしているのは、私たちにじかに接する、彼ら先達が背負った辛苦のお陰であることは、言うまでもないからである。

 にもかかわらず、私たちは、そしてそれ以降の世代も、恐ろしいほどこの時代について無知であろう。それは、本書にいう「東京裁判史観」によるところが大いに関係していると思われる。「大東亜戦争を、好戦的な軍国主義国家日本による、英米国家に代表される文明に対する野蛮な挑戦」とみる。従って、その戦争を準備し、経験した時代の暗さのみが強調され、余り学ぶことのない時代と見誤ってしまったのであろう。もちろん意識的、無意識的に現代史の教育を敬遠、軽視した戦後教育、受験教育の影響も大きい。

 日本の戦後について、マッカーサーはその『回想記』でこう記した。「一つの国、一つの国民が終戦時の日本人ほど徹底的に屈服したことは、歴史上前例を見ない。(中略)幾世紀もの間、不滅のものとして守られてきた日本的生き方に対する日本人の信念が、完全敗北の苦しみのうちに根こそぎくずれ去ったのである。」彼の単純さに苦笑せざるを得ないが、そういう傲慢さには十分裏づけがあった。

 本書によって、アメリカの占領政策は、ポツダム宣言を踏みにじった、情報操作と威嚇によってなされたことが明らかにされる。情報操作とは、建前は言論の自由を謳いながら事前検閲によって証拠を残さない検閲を行うとともに、自己に甚だ都合のよい戦争史観を強制すべく、昭和20年12月8日付の各新聞に「太平洋戦争史」なる連載記事を掲載させたことがその第一弾である。江藤淳も「戦争についての罪悪感を日本人に植えつけるための宣伝計画」が民間情報局によって昭和21年初頭から何段階にもわたって行われたと述べているという。

「大東亜戦争」という用語の使用禁止が命令されたのは同年12月15日の「神道指令」によるという。先立つ9月には「新聞報道取締法」によって検閲により徹底的に言論統制を行う体制を敷いた。

 その総仕上げともいえるのが、21年5月からの極東国際軍事法廷(東京裁判)であろう。「侵略戦争を企てたのは一群の戦争犯罪人であって日本国民ではない」という口実を設けたのも巧妙であった。日本人の多くはマスコミを始めとして、雪崩を打ってこの逃げ口に殺到した。しかし、今日にあってもこのような単純な一面的史観の呪縛がまだまだ根強いのは、怠慢のそしりを免れない。もっとも確信犯かもしれない。


 本書の本領は精神史であるが、一読して日本の精神史のうっそうたる森の奥深さに惹かれない人は少ないであろう。またそれを貫く、岡倉天心や内村鑑三から島崎藤村、小林秀雄、保田與重郎を経て竹内好や高橋和巳、三島由紀夫にいたる思想と文学の稜線(しかし、その後継者は?)をたどってみたいという要求が読者の内面に強く喚起されるのである。

 高橋和巳亡き後、大江健三郎以後の現代文学にほとんど魅力を感じない評者であるが、「文学にこころざしという倫理的動機を重要視する日本浪漫派」の文学が、「精神」という語が貶められたこの飽食の戦後日本にこそ求められていると思うのは、評者だけではないであろう。

 本書は、名著『昭和精神史』(平成4度毎日出版文化賞受賞、ただし品切中)の続編である。この両書における、政治と精神の歴史を包括的に捉える精神史という方法が、おそらく余人をもっては代えがたい著者を得て、通常の政治史や、経済史、あるいは文学史が到底及ばない、深い充足感を読者に与えてくれる。

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紙の本

紙の本人類進化の空白を探る

2003/04/23 21:29

人類進化のミッシングリンクはどこまで解明されたか

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者達は、ヒト科化石「ボーイ」を1984年発見し、
なぞの多い人類のミッシングリンクを次々に解明していく。

同時進行的に、ダーウィンの崇拝者で人類学史上初めて
ミッシングリンクの概念を提唱したヘッケル、ヘッケル
に感化されてアジアに赴きジャワ原人を発見したデュボア
を始めとして、人類学史上の様々なエポックと、
個性豊かな人類学者群像が描かれる。

なによりも、脳の発達、二本足歩行、言語の獲得、草食から
雑食への変化、社会性の発達等に関する通説が、次々発見
される新しい化石や新テクノロジー、あるいは発想の転換
によって覆っていくドラマチックな展開は圧巻である。

ここには現実に真実を探求して我々の認識を豊かにしてくれる、
健康な科学者達が確かにいる。そして科学の終焉とかは
大風呂敷に聞こえてくる着実な科学の世界が。

しかし、ミッシングリンクはまだ解明からは程遠い。
彼らは今日もこつこつと世界各地で人類の化石を探し、
悩み、考え、発見している。

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紙の本

紙の本オレ様化する子どもたち

2006/01/14 16:25

なぜ子どもたちは荒れるのか、どう対処すればいいのか

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最近は小学一年生にまで下降した「学級崩壊」に現れる子ども問題発生の原因は、やや乱暴に単純化すれば、幼少のうちに身につけるべき倫理やしつけやの欠如であろう。子どもが著者の言うフロイト流の「象徴的な父」に出会っていないか、「象徴的な父」の力が圧倒的に弱いためである。その結果、主観を叩かれたことがなく、自分の力を過大評価する幼児的全能感が温存されたまま、学童期を迎えてしまうのであり、評者も同感するところである。
教育界、マスコミの「子どもは決して変わっていない」信仰のなかで1980年ごろから、幼児期の全能感に由来した自己を特権化する子どもの出現を察知したのは、著者が教師という教育の最前線に立つ鋭敏な実践家であったからであろう。
第二部では、宮台真司、和田秀樹、上野千鶴子、尾木直樹、村上龍の教育論を論鋒鋭く批評する。この部分もなかなかおもしろく、教育現場に基づいて理論武装した著者の方がこれらおなじみの著作家より一枚上手であることが見て取れる。
ただ、著者は、キリスト教の神のような超越的な「外部」を持たない日本という国の教師が「知的専門家プラス『魂』の導き手のような性格を持つようになっていった」というが、戦前においてならいざしらず、戦後教育を受けた評者が出会ってきた教師たちを思い出すと、一、二の例外はあるが、ちょっと違っていたといわざるを得ない。
教師が使命感を持つことはありがたいことではあるが、彼らがそのような過度の責任を負わざるを得ないと考えるのは、本来わが子に最も根幹的な家庭教育をなすべき世の多くの親たちがその責を、意識していなかったり、しり込みしているからであろう。

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紙の本

「知られざる巨人」の途方もない構想

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

出版されたとき大評判になった本であるが、相当遅ればせながら、やっと読んでみることができた。

3000年前まで人類は「意識」を持たず、神々の声に従っていたという、いわば途方もない、そして雄大な仮説は、私たちの好奇心を根底から刺激する。

「神々の声」とは一体何なのだろうか。何を根拠に著者、ジェインズはそう主張するのか。神々の声はなぜ衰退したのか、神々の声に従っていた人類は、なぜ、どのようなプロセスに従って「意識」を獲得したというのか。そして最後に、では現代にその神々の声の名残りはあるのだろうか。それによって何が解明されるのであろうか。著者は読者の意表を突くような、そしてワクワクさせるような推論を繰り広げていく。

例えば、「右脳にささやく神々の声」というが、なぜ右脳なのか。左脳に言語機能が局在している事実を前提に、脳の解剖学的な知見を踏まえて、右脳に幻聴を聴く機能を推論していくくだりは特にスリリングで、エキサイティングであった、

何といっても本書の圧巻は、神々の声が徐々に衰退し、やがてそれに代わって「意識」が表れてくる過渡期の記述であろう。神々の時代と意識の時代の対比がことのほか劇的だからである。特に評者にとって、神が玉座についているハムラビ王の石彫と、その約1000年後のアッシリア王の神の玉座が空席である石彫を対比して、神々の声の存在とその衰退を論証する部分は、余りにも鮮やかであった。

さらに完成に多年を要した『イーリアス』における単語の意味の変遷から意識の誕生をさぐるため、具体的で身体的なものを表す単語が、後に精神的な意味を表すようになっていくという考証は綿密で説得力がある。

紀元前20~10世紀の古代において、互いに関連がなかった散発的な事跡や記録が著者の壮大な仮説のピースとして見事に組み立てられ、関連付けられていく手際に読者は感嘆せざるを得ないであろう。

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紙の本

紙の本時間の比較社会学

2009/04/04 22:41

時間のニヒリズムをどう乗り越えるか

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

自分が、あるいは人類が、いつか死を迎え、その後には何も残らないことは、おそらく揺るぎのない真実であろう。では私たちの生は「みんな夢の中」というむなしいものであろうか。

本書はこのような近代理性の死の恐怖と生の虚無は、「抽象的に無限化する時間意識と自我の絶対性との矛盾の表現」であるとする。即ち、近代化の中で一方では具象性を失い、生の意味を未来へ、未来へ先送りする時間意識が形成されたにもかかわらず、他方、同じ過程のうちに、自然と共同体とから切り離され、自立を遂げ、進行した個我の絶対化は、一回限りの生への執着を凝縮するので、両者の矛盾はますます鋭くなり、死の恐怖と生の虚無は増幅されざるを得ない。

しかしながら、著者は言う。「…第一に、現在の生をそれじたいとして愛する実感を失わないかぎり、そして第二に、未来がある具体性のうちに完結する像をむすぶかぎり、すべての未来がそのかなたに死をもつという事実といえども、われわれの個体や人類の生涯をむなしいものとしない。」

また言う。「そしてわれわれが、現時充足的なときの充実を生きているときをふりかえってみると、それは必ず、具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された『自我』の牢獄が溶解しているときだということがわかる。」

ここに至って読者は救いを感じないであろうか。近代化の末にたどり着いた死の恐怖と生の虚無からの救いを…。難解な部分もあるが、そのように感じさせるに足る書物である。

過去から未来へ直線的に伸びるという時間意識は近代固有のものということも、さまざまな文化、時代の時間意識を比較することによって明らかにされる。そのことによって私たちの時間感覚は豊かになり、それら文化、時代を見る目も豊穣になるであろう。評者には万葉集、古今和歌集の歌を題材とする古代日本の時間感覚や個我意識の剥離過程が特に興味深かった。

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紙の本

壮大な「コミュニティ学」の可能性

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

日本の都市はアメリカ型を辿ってきたので、それを急激に、歩いて楽しめる商店街や市場などのエリアの多いヨーロッパ型に方向転換できるだろうか。例えば、スーパーに車で買い物に行く自動車中心の私たちに習慣は、経済合理性と、多様な商品という利便性などに裏打ちされているので、簡単には変えられないであろう。

しかし、市街地の空洞化、・荒廃や団地の高齢化は放置してよいわけではない。また本書にあるように、見知らぬ他人に対するマナーの悪さも同様である。本書はこれらすべてを無関係とはみなさず、コミュニティの問題ととらえる。
その上で,ここにまで至った日本の厳しい、そして困難な状況のなかで、実行可能な政策を現実的に、かつ理論的・体系的に提示している。

本書は、著者の考え方が新書という限られたスペースに過度に押し込まれている感があり、やや説明不足な部分もあるが、そのなかで、注目されるのは次のような点である。まず、都市計画と福祉政策の結合である。例えば、中心部に高齢者住宅や福祉施設を整備する。また、住宅費助成によってまちなか居住を推進するという、所得の再分配と、空間(都市)の整備との結合策である。

既に先進的な自治体では、このような政策を実施していたり、あるいは検討中であることには目を見張る。

次に、注目されるのは、都市政策と切り離せない社会保障政策、そのなかでも「ストックをめぐる社会保障」である。この前提には著者の時代背景のとらえ方がある。現在は「貨幣で計測できるような人間の需要」がほとんど飽和しつつある「経済の成熟化」(「定常化社会」)の状況にあり、また消費構造においては、「コミニュテイや自然や公共性、スピリチュアリティといった領域に関する人間の欲求」である「時間の消費」に向かいつつあるとする。

このような経済の成熟化においては、富の源泉は、市場経済の発展期におけるフローに代わり、ストックにシフトする。従って、ストックの格差是正こそ重要であるという主張は首尾一貫していて説得力がある。

また、コミュニティ学ともいうべきものの、気宇壮大な位置づけも披瀝される。つまり、コミュニティ学が「近代科学」のあり方そのものを大きく問い直す意味をもつという。失礼ながら半信半疑で読み進めると、医学における「気」の重要性や、脳科学者自身の口から「個体を超えたレベルで脳がどう作動するかについての研究はまだ緒についたばかり」
という発言をきくと、なるほどと納得させられてしまうであろう。

とにかく何よりも、私たち日本人が、ムラ社会の付き合い方だけでなく、自立した個人間相互の「新しいコミュニティ」の人間関係をつくり上げていかなければならないことは間違いない。「コミュニティ」は現代日本の最も根底的なキーワードである。

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紙の本

紙の本ウェブ人間論

2008/03/31 17:22

スケールの大きいウェブ論

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ポジティヴなウェブ論の旗手である梅田望夫と、京大在学中に芥川賞を獲った平野啓一郎という興味津々の対談である。

例によって梅田の発言は、ネットの世界の明るい面を牽引するものであるが、この対談で特に興味深かったのは、ネットによって社会の三層化が進展するという観測である。従来のエリート対大衆という社会の階層に加えて「クラスの上から五人、親戚という小さなコミュニティで一番敬意をもたれている人」といういわば中間層が浮上するというのである。確かに出版界やマスコミで発言できない一般人も、ネットでは自由に発信でき、内容によっては脚光を浴びることもありうるからであろう。このように私たちを力づけるのは梅田の面目躍如というところである。

 また、グーグルを弁護して、「プログラムおたく的な性質と『スターウォーズ』に代表されるSFおたく的性質が結びつき、自分が何かすると世界が変わるという創造の喜びが基本」とこの人が言うと非常に説得力がある。しかし、現状はそうでもそれが永続する保証はなく、評者のグーグルへの警戒心は払拭されきれるものではないのであるが。

平野は、本来的な作家らしく、ウェブ世界の正負両面を正面から論じようという姿勢が感じられる。例えば、特に「公私の峻別」という言葉が「効率的な経済活動から、個人の思いとか思想だとかを排除」する理由づけとなっている現代日本において、ハンナ・アレントの所論を引用しながら、ウェブ社会が「人間が自分自身を表現するための新しい公的領域の出現」となる可能性を認める。

 他方、「世界中のブログで使用されている言語の中で最も使用頻度が多いのは英語でなく日本語」という衝撃的な調査結果(紹介されたURLによって評者も確認)を披瀝する。その理由の一つとして、「日本では気楽な食事の場でも『場の空気を読む』という一種の抑圧が働くため、そこで言い残したことがブログにこぼれ落ちていってるんじゃないか」と分析する。これもさすがに鋭い指摘であろう。

 残念ながら評者はまだ平野の作品を読んでいないが、この作家への関心をかきたてられた対談であった。

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紙の本

小泉元首相の器の程度

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 世評に違わぬ読み応えのある本である。
 「これは国策捜査だよ。」と検事自身からの発言は、やはりショッキングである。その中立性をかなり信じていた読者は、検察庁もやはり時の政治権力に擦り寄る一官庁に過ぎないのかという感に捉えられざるを得ないであう。
 正直、「国策捜査」という表現を本書の帯の広告文に見たとき、マユツバモノじゃないかと疑ったことは事実である。しかし、本書を読めばこの著者の眼力の鋭さ、深さに舌を巻かざるをえないであろう。この著者の書くことならと読者に思い込ませる力がある。
 メディアに叩かれた外務省職員というイメージは、他国の顔色ばかりを窺う腰抜けであり、他方、外交官というと、何か華やかなエリートというイメージがついて回る。しかし、著者たちは、真に見識ある政治家とともに国益に沿って外交戦略を構想し、行動する泥臭いナショナリストであり、油断ならないタフネゴシエーターである。その例は北方四島返還問題における周到で、デリケートな取り組みに見られるし、イスラエル経由のロシア情報の重要性にいち早く着目し、粘り強く情報のくもの糸を張り巡らし、返還交渉に結び付けていく著者たちの努力に舌を巻くであろう。
 著者のような外交官はごく少数派であり、外務省はあたら有意の人材を失ったと、読者は歯ぎしりするであろう。それにしても、やはり、日本は本当に有能な人材を生かせない国なのであろうか。
 著者が尊敬する鈴木宗男議員についても認識を新たにした。特に、9・11同時多発テロ後、アフガニスタン・タリバン政権攻撃に伴う中央アジアへのアメリカ軍の進駐を見越して、アフガニスタンの裏庭である親露的なタジキスタンに日本と米露を加えた四カ国の反テロ国際協力メカニズムをつくることによって、テロ抑止のため産業を興し、失業をなくし、市民社会が成立する基盤を確保するという鈴木氏の戦略は、これぞ政治家の発想という意を強くする。小泉前首相が嫉妬したということも確かに一理あるのである。小泉前首相の器もその程度ということであろう。
 ただ、鈴木宗男議員と著者に代表されるこの国策捜査が、一つは、国際協調的愛国主義から排外主義的ナショナリズムへの転換という「時代のけじめ」をつけるため行われたという著者の見解には同意できない。例えば、前者の概念は、「プライドは人の目を曇らせる、基準は国益」と断言して国益のため才知を尽くして行動した著者だから言える規定であって、一般に外務省にそのようなものが存在したとは到底思えない。

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紙の本

合理性の進展ではないもう一つの西洋精神史

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ヨーロッパの景観というとまず連想するもののなかに、ゴシック大聖堂は必ず含まれているだろう。し
かし、日本人は、そのいかにも西洋的な、直線的で巨大な石造り構造、天を突く尖塔、あるいは、壮麗なステンドグラスといった見た目の威容に感心するものの、建設当時、そこで暮らした住民たちの精神生活について、あまり知識は持ち合わせないであろう。

ゴシックがキリスト教における天上世界への憧れを形象し、司教や国王の威信を高めるための建築であったということは、容易に想像できるが、中世都市民がもつ異教の信仰心の発露でもあるという点は、大変興味深い。著者は、大聖堂に対するノートル・ダムという呼称に表れた聖母信仰や、大聖堂内部の、樹木を模した、あるいはグロテスクな怪物の彫刻、さらには苦悩のキリスト磔刑像などから、都市民に残存する異教信仰の名残を鮮やかに解き明かしていく。
また著者は、そこで行われた宗教行為に不浄で不吉な「左極の聖性」を読み解く。都市民は「人間一人一人を画する精神の殻が壊されて人間間に深い共同性が実現し、自然の律動と重なる、そういう機縁を求め」たという。宗教社会学やバタイユの思想を援用した「聖なるもの」は、宗教というものの本質に関わるものかもしれない。
逆に、これら都市民の異教信仰を取り込んでいく、キリスト教の側の巧妙さも印象的である。
さらに、古典主義時代における受難を経たゴシックの復活は、西洋精神史について、もう一つの視点から見る可能性を示しているのではないだろうか。
本書は2000年度サントリー学芸賞受賞作であるが、読者が世にある各賞の受賞作を読み応えのある書籍選択の目安とする方法に、相当の有効性があることを(なかには例外もあるが)証明する結果となった。
しかし、このような良書が早々に品切れになって放置されるのは、嘆かわしい。

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紙の本

日本政治の混迷を切り拓く

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本書は日本の統治システムの現状についての静態的な解説書ではない。日本の政治を変えようとする熱い思いを秘めた、しかし、冷静な分析にもとづく厳しい現状批判の書である。

日本の政治は、どこに向かおうとするのか、一体、日本に民主政治は根づいたのであろうか。具体的には小泉改革は何であったのだろうか。そして有権者は成熟してきたのだろうか。

現象ばかりに振り回されがちな私たちに、本書は明快に、日本が官僚内閣制から議院内閣制への途上にあることを示してくれる。私たちが議院内閣制と思っていたシステムが実は日本特有の官僚内閣制であったことが、諸外国の事情に照らして明確にされる。

例えば「政府・与党二元体制」とか「審議会システム」が、いかに官僚内閣制を補完する特異な制度であるか、勿論その存在意義にも目配りしつつ明らかにされる。

そして、民主党の公務員改革も迷走する現在、オーソドックスな議院内閣制とはどういうものであるか、なぜ官僚内閣制でなく、議院内閣制でなければならないのか、説得力のある議論が展開される。

本書によって、官僚政治という問題が政治の一論点などではなく、日本の政治を根底から規定する枠組みそのものであることを読者は教えられる。

わがくにの現状は、政党のあり方の改革などまだほとんど手がつけられていない部分も多いが、ここで私たち読者は、やや心もとないながら、戦後の日本政治の進路がようやく本来の議院内閣制に向けられ、実績を積んできていることに気づかされ、力づけられるであろう。

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紙の本

紙の本罪と罰

2010/03/04 16:53

この国もまだ捨てたものじゃない

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2008(平成20)年4月22日、光市母子殺害事件について広島高裁の差し戻し控訴審の判決は、市井の人たちの常識が司法を動かし、この国の、犯罪加害者の人権に対する歪んだ偏重を匡した画期的なものであった。この時、この国もまだ捨てたものじゃないと思った人は少なくないであろう。

ご存知のように、この「加害者の人権は被害者の人権とイコールでしかありえない」という常識を貫く動きの先頭に立ったのが本村洋さんである。一般市民の常識さえ持ち合わせず、今頃になって「被害者が忘れられた存在であった」と語る専門家とは一体何であろうか。

彼については、テレビの記者会見を時々見ること以外何も知らなかったが、弁護士を伴わない席において、内心の、おそらく煮えたぎるような情動を抑制しながら、あくまで自分の言葉による、理路整然とした、プロもはるかに及ばない説得力あるコメントを聞き、この人について、特にその内面について知りたいと思い本書を手にした次第である。

本書によって、この理性の人が、いかにその情念を維持させる努力をしてきたか、社会契約論をはじめ関連の古典を勉強してきたか、そして魂の危機をどう切り抜けてきたか、読者は知ることができる。それ以外にも、例えば、裁判における精神鑑定偏重の傾向を批判して、鑑定者がその本来の役割を踏み外して被告の心理状態まで根拠なく憶測したりすることを鋭く批判している発言などが印象深い。

本書は、宮崎哲弥、藤井誠一との対談であり、死刑制度や犯罪防止もテーマになっているが、その中でもなかなか興味深い問題が提起されている。

例えば、死刑制度を廃止した諸外国のなかでも、スペインでは、国会議員が2004年マドリード列車爆破テロの翌日に死刑復活を提議し、廃止後20年経過したフランスでは復活を求める声が4割、オーストラリアでは廃止と復活の世論は半々という。これらの国々も現状に納得しているわけではないのである。

また、再犯防止については、犯罪白書(2007年)によると再犯率は70%にのぼるそうだが、一般市民にとって何が最も重要かというと、凶悪犯の再犯防止であろう。本書によって、日弁連と精神科医師学会が、凶悪犯罪防止のための保安処分(将来、罪を犯す危険性のある者に対して治療や改善のための処分や拘禁を行う)に強く反対していることも知るのである。酒鬼薔薇聖斗はどことも知られぬまま野に放たれているのである。まだまだ打破すべき宿弊は根深い。

この宿弊多き国に彼のような若者が登場してきたこと、その姿を見てこう思う。まだまだこの国は捨てたものじゃないと。

本村さんの、これまでの記者会見の内容を、DVDでも書籍でもよいからまとめて出版してもらえないであろうか。あの説得力ある言論の力を再現してほしいと思うのは、評者だけではないであろう。

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紙の本

紙の本大学受験のための小説講義

2009/04/04 22:30

小説オンチのための極上の小説講義

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者、石原千秋の文章は、新聞の文芸時評で知った。評者は、原則、小説は読まないが、文学界の動向には関心がないでもないので、新聞のその手の記事ぐらいは一瞥している。読んでみてこの著者の文章には、その著書を読んでみたいという気持ちを起こさせるのに十分のものがあった。本書は、版を重ねているので多分受験目的として定評があるのであろうが、評者は「小説講義」として読んだ。

この小説講義、やはり期待通りとても面白かった。「大学受験のための」が冠されているので、試験問題そのもの、即ち小説原文がかなりの量、引用され、実例に即して講義が行われるので、かえって生きた講義になっている。

小説が「意図して肝心のことは書かずに隠す」と言われると、評者なんか「なんだ、そういうことだったのか、それならそうと早く言っといてよ」とつぶやきたくなるのは、やはり小説オンチなのかもしれない。かなりショックであった。

読書は「主体的な創造行為」であると序論で一般論を述べているが、十数題の過去問を解いていくなかで、一般読者はここでまさに「読み」が創造行為であるということを具体的に、また存分に味わうことができるであろう。また、さりげなく著名な文学評論、現代思想などが具体的な「読み込み」の中に織り込まれているのも、大変分かりやすく、また内容に奥行きを与えており、まさに「講義」の名にふさわしい。

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紙の本

紙の本日本宗教史

2008/03/31 17:17

知的刺激に富む宗教史

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、日本の宗教に関する通史であるが、平板な教科書的記述ではなく、重要な点については踏み込むメリハリのある宗教史になっている。説明は明快で、教えられるところが多い。

まず、読んで気がつくのは、日本の宗教における神仏習合の強さである。仏教が伝来した直後から、今日まで、それは神道が優勢になった幕末から明治初期の一時期を除いて、一貫して持続的に民衆の生活に根を下ろしてきたといって過言ではない。しかしそれは荒唐無稽なものでなく、今日の日本人が正月は神社にお参りし、お葬式に関わることは仏教式に行うことがまだ多いことを考えれば、一脈通じていると言えなくもないであろう。

日本固有の原宗教として神道を考えることは、本書にいう通り、かなり無理があるかもしれない。インドのヒンディ教や中国の道教の場合と同様、仏教の伝来がむしろ神道形成の契機になったと考える方が、文献的証拠から見ても確かに説得力があるであろう。

しかし、伝来した仏教が、「山岳修行を取り込むなど、変質していく」なら、わが国古来の山岳宗教が存在したことは否定できない。それはどのようなものであったのだろうか。それはどの程度日本固有のもので、世界の他の地域の山岳宗教との関連はどうなのであろうか。

また、柳田国男の「日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まつて、さう遠方へは行つてしまはないといふ信仰」という日本人の意識の「古層」(著者は否定するが)と、山岳宗教との関係はどうなのであろうか。

神道についても、その起源や他の宗教との関連、そして幕末に突然ブームになった背景など、さらに疑問は深まる。

オウム事件は、日本人にとっても、宗教というもののマイナス・エネルギーの底知れぬ怖さを思い知らせたが、これによっても日本人が世界を席巻している宗教原理主義と無縁ではないことを知るのである。この事件も十分に解明されたとは思われない。

読後にさらに探求すべき多くの疑問が促されるのも本書がもつ力の一つであろう。

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