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たこさんのレビュー一覧

投稿者:たこ

10 件中 1 件~ 10 件を表示

紙の本

家族というしがらみ

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

何度も笑った。そして泣いた。
本人が本名そのままに出てくる、完璧な自伝小説。小説というよりも記録に近い。そこで綴られるのは、子ども時代からオカンの死までの、家族の歴史である。
本人は雑誌の対談で、こんなに辛い文章は書いたことがなかった、書き上げてからしばらくは文章を書くのが嫌になった、と言っていた。
突き放したような語り口には、母親への愛情と、決して取り戻せないものに対する後悔とに、どうやって折り合いをつけたら良いのかわからない彼自身の苦渋が滲み出ている。恐らく、その折り合いをつけるために、身を削る思いでこの文章を綴っていったのだろう。その真摯さが胸を打つ。
『漠然とした自由ほど不自由なものはない。それに気付いたのは、様々な自由に縛られて身動きがとれなくなった後だった。
大空を飛びたいと願って、たとえそれが叶ったとしても、それは幸せなのか、楽しいことなのかはわからない。
結局、鳥籠の中で、空を飛びたいと憧れ、今いる場所の自由を、限られた自由を最大限に生かしている時こそが、自由である一番の時間であり、意味である。
就職、結婚、法律、道徳。面倒で煩わしい約束事。柵に区切られたルール。自由は、そのありきたりな場所で見つけて、初めてその価値がある。
自由めかした場所には、本当は自由などない。自由らしき幻想があるだけだ。
故郷から、かなた遠くにあるという自由を求めた。東京にある自由は、素晴らしいものだと考えて疑いがなかった。
しかし、誰もが同じ道を辿って、同じ場所へ帰って行く。』
オカンのもとを離れて東京で自由を手に入れるが、自由に倦むにつれ、自分の自由がオカンの人生を切り刻むことで成り立っていた幻想だったと気付く。
そして、30を過ぎて再開されるオカンとの奇妙な共同生活。
可笑しみと哀しみに溢れたそのディテールの一つ一つが愛おしい。
冷たくなった身体を一晩中抱き締めても、骨を食べても、失われたものは取り戻せない。その喪失感を乗り越えて、男はやっと一人前になる。
親とうまく付き合えず、妻と家族を作ることもできない自分にとって、家族は一番痛いテーマだ。家族から逃げ続けている限り、自由は、所詮、かりそめのものでしかない。
それを改めて痛感させられる本だった。

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紙の本

紙の本「荒ぶる」復活

2003/01/26 23:11

逞しきインテリどもの唄

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ゴール前に蹴り上げられた高いボール。早稲田のフルバックの今泉が空中に飛び上がってキャッチに行く。彼の着地の瞬間を狙ってタックルに行ったが、一瞬タイミングが早く、まだ宙に飛んでいる今泉にタックルしてしまう。いくら巨体とは言え、踏ん張りのきかない空中では彼も吹き飛ぶしかない。ラグビーでは空中でのタックルは危険なプレーとして禁止されている。当然にペナルティを取られた。

せっかくのトライチャンスを一瞬のタイミングのずれでペナルティにしてしまったと悔やんだ瞬間に、ぐいっと首根っこを捕まれ、身体が持ち上げられた。「てめえ殺すぞ」。片手で僕のことを持ち上げながら、そうドスのきいた声で脅してきたのが、当時、早稲田の主将であった著者である。

クールな頭脳と熱いハートの持ち主。それが実際にラグビーをプレーすることを通じて知った著者のイメージである。

弱小ラグビー部でプレーをしていた自分にとって、早稲田ラグビー部というのは憧れの的であった。何度も東伏見のグランドに足を運び、早稲田がどんな練習をしているのか研究をし、歴代の監督達が書いた本を読んだ。4年生になって主将をすることになっても、目指すべきは早稲田であった。絶対に早稲田にはなれないことはわかっていたが、早稲田の組織力の秘密を解き明かせば、なにがしかのものを自分のチームにももたらせるのではないかと思った。結局、早稲田のような素晴らしいチームとすることができなかったのだけれど。

代々の早稲田の主将には素晴らしい男が多い。この男がいるからこそこれだけ素晴らしいチームになれるのだと感心させるものを早稲田の主将達には感じることが多かった。著者の清宮氏はまさにそういうタイプであった。個人としてのつきあいはなかったが、実際に試合をしたり練習を見学したりする中で、彼が偉大な男であることはすぐにわかった。そういうオーラが彼にはあった。

その清宮氏が早稲田ラグビー部の監督となって、低迷していたラグビー部を復活させた。今年、早稲田は11年ぶりに大学王者に返り咲いている。清宮氏が監督としてどのようにチームを再生させたのか、その過程を描いているのが本書である。

豊富なラグビー経験に裏打ちされたクールな分析力と指導者としての透徹した視点。何よりもラグビーに対する熱い想い。学生の時に抱いたクールな頭脳と熱いハートというイメージを裏切らない清宮氏が本書の中にいた。いや、正直、ここまで素晴らしい人だったとは知らなかったというのが正直な感想である。

「逞しきインテリたれ」というのが高校時代のラグビー部のモットーだったのだけれど、清宮氏はまさにこの逞しきインテリを体現する人物であろうと思う。

本書は、その逞しきインテリによる実践に基づいた良質な組織論・モチベーションマネジメント論にもなっている。このため、ラグビー関係者だけでなく、企業のマネージャーや管理者にも読んで欲しい一冊である。

恥ずかしながら、清宮氏のラグビーに対する情熱とチームのメンバーに対する熱い想いが伝わってきて、何度も胸があつくなり、感動のあまり電車の中でぼろぼろと泣いてしまった。30歳を過ぎた大の男をぼろぼろと泣かせてしまう、そういう純粋さもまたラグビーの良さである。

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紙の本

思わず胸が熱くなる

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

有形無形を問わず、ものをつくって売るという行為には、常に創り手の想いと受け手の評価のギャップが存在する。
特に、芸術行為の場合は、芸術性と商業性とのせめぎあいになる。
良質なものは必ず評価してくれる人がいるが、それが多くの人に評価されるものであることを保証するものではない。
そして、創り手の想いのつまり過ぎたものは、得てして「売れない」のである。

インディーズ映画というのは、まさに、こういうものである。
大きな売上が見込めないから資金も集まらない。
資金が集まらないとスタッフを集めるのも一苦労だし、いつまでも撮影は続けられない。だからトラブルも多い。

「基本的に、低予算映画というのは、危機の連続だ。もてるすべての力を限界まで出し切り、そのうえで、その限界そのものを押し広げていかなくてはいけない。常にクリエイティブな頭でいることが必要だ。というのも、何かマズい状況に陥ったからといって(というか、いつだって何かがマズい状況になるものだけど)、お金で解決できるほどの資力はないのだから。」

著者は、このようなインディーズ映画を専門とする米国在住のプロデューサーだ。

お金を集め、進行を管理し、配給会社との交渉をする。それがプロデューサーの仕事。

日本映画界では、まだまだその存在が一般に知られることのないプロデューサーの仕事とは何なのか。
この本を読めばそれが良くわかる。

しかも、金のないインディーズ映画のプロデューサーだ。
場数を踏んだ人ならではの臨場感溢れるトラブルやエピソード、それに工夫の数々は、当人にしてみれば、とても笑えたもんじゃないのだろうと思いながらも、思わず笑ってしまう。そんなおかしみと哀しみに溢れている。

映画業界の方々が読んだらはまるだろうなあと思う。
でも、映画に限らず、ものづくりに関わる全ての人が共感を持って読めること請け合いだ。
また、小さな会社で、マンパワーと知恵だけに頼って仕事をしている人達にもきっと勇気と希望を与えてくれることだろう。
組織論、リーダーシップ論としてもヒントに満ちている。

金がないほうが良いとは言わない。
しかし、「低予算を補うためにひねり出すさまざまな問題解決法は、逆に、とてつもなく創造性に溢れた発想につながる」のも事実である。
そして、金がないなかで苦労するからこそ生まれる団結心。
インディーズならではのものづくりの感動がここにはある。

「自分の手の仲に映画を抱えているのだけど、実はそれは水銀で、手にしたと思った瞬間に指の間からすり抜けていってしまうというイメージを頭から振り払うことができなかった」
何かを成し遂げようと思う人は、必ず、こういう思いに直面することだろう。

けれども、「奇跡は、自分のためにきっちりとした枠組みを作っている人々に起こるものなのだ」。だから、常に諦めずに一つ一つ積み上げていくことが必要だと著者は言いたいのだろう。

「インディペンデント映画は新しい希望の競技場(アリーナ)なのだ。そして、わたしが心の底から求めるのは、映画を敬虔な気持ちで扱う、向上心に燃えたプロデューサーや監督や脚本家たちだ。大衆の知性を過小評価した多くの人は、破産へと追い込まれた。わたしは、しっかりとした仕事をやり通せば、映画は−いつか必ず−観てもらえるものと信じている。信じなくてはいけない。さもなければ、やり続けていくことはできないのだから。」

彼女のこの映画に対する愛と情熱、そして信念の強さを前にして、僕はただただ敬虔な気持ちに包まれた。本当に映画って素晴らしい。皆でものをつくることって素晴らしい。そう思わせてくれる本である。

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紙の本

貴方は唾をかけられても笑っていられるか?

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

自分の顔が醜いあまり電車の中で見知らぬ人に唾をかけられたことがありますか?

僕はこれまでの人生でどんなに辛い思いをしたことがあると言っても、見知らぬ人に電車の中で唾をかけられるような思いはしたことがありません。

この本にはそういう経験をしてきた人々が登場します。何らかの理由で顔に障害を持った人達。その人達が、この本の中では、自分の顔さらして、これまでに経験してきた人生を語っています。

たまたま顔に腫瘍を患ったがために、人から蔑まれ、唾を吐きかけられるというのはどういうことなのでしょう? 世の中は普通でないことを嫌がります。普通でないものは可哀想なものとして過度に同情されるか、排斥されるか、のどちらかです。いずれにしても、「普通である」自分たちとは違うものとして、レッテルを貼られるのです。

そういう思いをしてきた人々が語る人生は「普通の」人々にとっては十分に衝撃的です。唾をかけられて、それでもジロジロと自分の顔を見る人々にあえて微笑みかけることができるのでしょうか? そういう強さを自分が持てるようになるとは、僕には想像できません。

この本に登場するのは、明らかに他人にわかる障害を持った人々です。なんだこの程度なら大したことないじゃない、と思える人もいれば、ちょっとこれはひどいのではないか、と思える人まで様々です。その様々な人が正直に自分の障害と人生を語っています。

この手の本は得てして怖いもの見たさ的な際物的な扱いをされてしまうのですが、そんな生半可な気持ちで読むと必ず後悔します。

この本の最後に登場する円形脱毛症で全身の体毛がなくなってしまった女性。その女性の生き様に僕は衝撃を受けました。

9人の生き様を描いてきた最後に、これはないでしょう? 読み終わった後、深い闇に落とし混まれて、しばし立ち上がれなくなってしまいました。

似非ヒューマニストは読まないでください。でも多くの人に読んで欲しい本です。

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紙の本

紙の本

2005/07/10 09:58

肌触り

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

たまたま書店で手にとった『無伴奏』を読んで、一気にこの作家の世界にはまってしまった。『無伴奏』の次にむさぼるように読んだのが本書である。
これまで女流作家の小説は殆ど読んだことがない。食わず嫌いというまでもなく、単に興味を持ったことがなかったというだけである。
だから、久しぶりに寝食を忘れて読みふける小説が女流作家のものだということに対して、我ながら驚いている。
ストーリーが特別に面白いとか、文章が素晴らしいとか、世界観が凄いとか、そういうものは彼女の小説には感じない。ただ、何と言うか、紡ぎ出される言葉から立ち現れてくる肌触りが独特で素晴らしい。
「何だろうこの感じは」と思いながら、どんどん小説の世界に引き込まれ、気付いたらその肌触りを慈しみ、全身で愛おしんでいる自分がいる。それはとても不思議で官能的な体験だった。
『無伴奏』も『恋』も、狂おしいほど相手を愛し、求める女性が主人公である。その恋愛が悲劇的な結末を迎えるという点も共通している。
自分の全てを相手に捧げ、狂おしいまでに相手を求める愛し方。相手と交合することで味わうことのできる恍惚。相手がいないと自分の存在が無になってしまうという、ひりひりするような孤独への恐怖。
そんな熱情的で盲目的な恋愛は所詮お話の世界の中にしかないとは思わない。若さゆえ、幼さゆえの一時の熱情だとも思わない。多かれ少なかれ、これが女性の愛し方の本質なのかなとも思う。そして、それは男の愛し方とはやはりちょっと違うように思う。
この男女のズレは、いつしか亀裂になっていく。だから愛が狂おしいほどに、それは破滅につながりやすいことになる。狂おしいまでの愛をどうやって成熟した愛へと高めることができるのか。それが男女の永遠の課題なのかもしれない。

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紙の本

紙の本造形集団海洋堂の発想

2005/07/05 01:53

手に宿る脳味噌

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

食玩で有名な海洋堂の専務(創業者の息子)が書き綴ったものだけど、模型が好きで好きでしょうがないという想いがいっぱい詰まった、気持ちの良い本だった。
会社に泊まりこみながら模型を作る造形師達は、社会に適合できないような変人が多いようだけど、模型に対するこだわりは凄い。その人達の想いがこもってるからこそ、「マニアさえも納得させる」模型やフィギュアになるのだろうと専務は語る。
そうなんだよなぁ、想いのこもったカタチには、例え工業製品であっても、やっぱり他と違う何かが宿るんだよなあ。
作り手の思い込みが先行してしまった製品は売れないけれど、作り手の想いが伝わってこない「ぬるい」製品は、これはまた、絶対売れない。
何にしても、結局、生み出す側の「想い」の強さが一番重要だと言うことだ。
仕事がら色んな経営者達と付き合ってきたけれど、もっと儲けたいという以上の想いのある人って意外と少ないんだなと思う。そういう人が経営する会社は、時流に乗っている時期はうまくいくけれど、決してそれ以上にはならないような限界を感じる。何よりも、その下で働く社員達が可哀想だ。
みんな夢を見たいと思っている。夢を見つけられた人は独りで努力できるけれど、夢なんてそうそう簡単に見つけられるものではない。会社に入るのは、会社に入れば自分では見つけられなかった夢のかけらを共有することができると思うからだ。
だから、会社ってやっぱり社員に夢を与えられないと駄目だと思う。
そんなことをここのところ考えていたので、海洋堂の本はタイムリーだった。
造形師たちの「ぼくら手にしか脳味噌がないから」という言葉が、とても素敵だった。

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紙の本

紙の本胎児の世界 人類の生命記憶

2005/01/10 00:49

稀代の奇書

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

魚を通じて自己の探求を行ったアートユニット明和電機の作品の中でも「サバオ」は特に有名だ。13週目の胎児の顔を模ったサバオ(鯖男)は、「胎児が魚の顔をしている時期がある」ことをそのモチーフにしている。

これを生物学の用語で言うと「個体発生は系統発生を繰り返す」(ヘッケル)となる。生物は、その発生の過程において、生命の誕生から現在までの進化の過程を辿る。原始の海で生まれた原始生命は魚へと進化した。そして、魚は上陸して爬虫類を経て哺乳類へと進化する。この過程が、固体の生命発生の過程でなぞられるのである。

著者はこの発生について研究をしていた学者で、本書は著者の研究の成果を著したものである。タイトルどおり、ヒトの発生過程である胎児の世界についての本であるが、これはまた、生命の本質を探求する試みでもある。

異様な本だ。こんな奇本もそうそうあるまい。脳味噌よりも内臓に来る、そんな本である。

れっきとした科学者の書いた本書が有するこの異様さは、著者の熱に浮かされたような語り口と、胎児の世界を通じて生命や宇宙の本質にまで迫ろうとする、時にナンセンスなまでの壮大な試みの故だろうと思う。

例えば、著者は、胎児の顔を確認したいという科学的探究心を抱きながらも、そのために必要な胎児の首を落とすという行為を前に倫理的な葛藤を抱えることになる。逡巡した末に胎児の首を落とすのだが、その時の熱に浮かされた状態をそのままに伝える以下の記述には、荘厳なまでの凄みがある。

『そんなある朝、深い木立におおわれた窓辺で、ふと手をのばして、三ニ日の標本瓶を静かに光にかざしたのである。嵐のような蝉しぐれが耳を打つ。半透明の珠玉のからだが液体のなかで小さく揺れる。蓋をとって、きれいに洗ったシャーレのフォルマリン溶液のなかに、そっと中身を移す。切断はいともたやすくおこなわれた。
グラッと傾き、やがて液のなかをゆらゆらと落ちていく、そのゴマ粒の頭部…。わたくしは、その一瞬、顔面が僅かにこちらに向いたのを見逃すはずはなかった。フカだ! 思わず息をのむ。やっぱりフカだ…。
(中略)
…おれたちの祖先を見よ! このとおり鰓をもった魚だったのだ…と、胎児は、みずからのからだを張って、そのまぎれもない事実を、人々に訴えようとしているかのようだ。読者はどうかこの迫真の無言劇を目をそらさないでご覧になって欲しい。』

本書の後半は、宇宙や生命の本質に迫ろうと言う野心的な試みにさかれている。そこでは、生命体が宇宙から切り離された一個の生きた惑星ではないかとの仮説が示される。全ての生命は宇宙と臍の緒でつながっていたからこそ、生の波は、宇宙リズムと交流することになる。「生きた惑星」であり、「星の胎児」である生命体という仮説。

このような仮説は、科学的常識から言えば、ナンセンスなものかもしれない。しかし、このナンセンスなまでの壮大な仮説を提示され、読者は否応なく異様な興奮に包まれていくのである。

最後に著者はこう締め括っている。

『いま、こうして筆を擱きながら、わたくしはあらためて、ここまでやらねばならぬ人間の“業”を思う。体腔のどこにも“生の舞台”を持たぬ、それは悲しき性に許された唯一の代償行為なのではないのか…。』

科学の道を生きながらも業を思う。その真摯な姿勢に触れられることにこそ、稀代の奇書である本書の価値があるのだろう。

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紙の本

紙の本家族の深淵

2003/01/18 19:00

他者に対する限りなく優しい眼差し

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

初めて中井久夫の著作を読んだ時の不思議な感動は忘れられない。当時はどうしてそこまで感動したのかわからなかった。比較的専門的な著作だったせいもあると思う。

だが、久しぶりに彼の著作でも読むかと何気なく手にとったエッセー集である本書を読んで、この人の文章の何に自分が惹かれてきたのかがようやくわかった気がする。

この人の書くエッセーを通じて感じるのは、人間の微妙な距離感であり、ぬくもりである。そして人間に対する優しい眼差しである。
著者自らがいうように感覚の人なのだろうと思う。決して理論や論理をおろそかにしているという意味ではない。
一旦起こっていることの全てを自分の身体に受け入れ、感じることでしか分かり得ない人なのだろう。
その受け入れ方が他者に対する配慮に満ちており、それが文章に滲み出ているので、こんなに優しい文章に出会ったことがないと感じてしまう。そして、文章を読むことを通じて、他者に対する距離のとり方を自然に教わっているような気にさせられる。だから、読後にはこれまでよりも少しだけ他者に対して優しくなれるように思うのだ。

そういう稀有な体験をさせてくれるから、僕は中井久夫の文章を愛してやまないのだろう。そういうことを本書を読みながら考えていた。

本書は、精神医療の現場でのフィールドノートとも言える表題作を皮切りにして、新聞に連載した日記風のエッセーや精神病棟設計の裏話、自らが第一人者として手がけてきた現代ギリシャ語詩について、はたまた著者としての心構え論等を集めたエッセー集である。ただ、何について語っているかはさして重要ではない。ひたすらこの人の文章が発する優しさに触れることが大切なのだと思う。

ジョン・カサヴェデスという映画監督がいる。彼が自分の妻であるジーナ・ローランズをヒロインにして捕った映画「こわれゆく女」を見たときの衝撃を僕は忘れられない。画面全体から痛いほどの愛情がほとばしっていたからである。映画はかなり見る方だが、そんな映画体験をそれまでにしたことがなかった。
ストーリーや映画の作りが特に優れているわけではない。だが、こんな映画を見たことがないという気にさせられる。彼の妻に対する愛の深さ、映画に対する愛の深さを感じさせられる映画だからだろう。

中井久夫の著作を通じて感じるのもカサヴェデスの映画に感じるものに似ている。文章全体から自分が接してきた人間や自然に対する愛が伝わってくる。だから、こんな文章に出会ったことがないと感じてしまう。

全ての人に読んで欲しい。切にそう思える稀有な本である。

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紙の本

無垢の力

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ウィリアム・ブレイクは、大江健三郎の「新しい人よ眼ざめよ」で初めて知った。大江の他の作品にはないこの作品の奇跡的な美しさと懐の深さは、ブレイクの詩によるところが大きい。ブレイクの詩を媒介にした回復の物語。それが「新しい人よ眼ざめよ」である。
以来、ブレイクについては特別な関心を持ってきたが、きちんと読むこともないままに10年以上の時が経ってしまった。

そうして半ば自分の中で忘れ去られていたブレイクと、今度はロンドンで衝撃的な再会をすることになる。ロンドンのテート・ギャラリーにあるブレイクの部屋。そこで初めて画家としてのブレイクに出会ったのだ。

ブレイクのドローイングの持つ力強さ。その広がりと深みに包まれた時の感動をどう言葉にして良いのか未だにわからない。一つ一つはとても小さな絵なのに、とてつもなく壮大なスケールの魂が燦然と輝きを放っている。世界の全てを受け入れ、洗い流す無垢。圧倒的な包容力とビジョン。彼のドローイングを前に、目眩を感じながら呆然と立ちつくしたものだった。

その時に買ったのが、“Songs of Innocence”, “Songs of Experience”, “Marriage of Heaven and Hell”の代表作3篇が収録された英語版のブレイク詩画集。初めて知ってから10年以上たってようやく手に入れたブレイクの詩画集である。ただ、古い英語、しかも詩の英語はなかなかに難しいので、読み込んだというよりも、たまに開いては絵を眺めるだけという付き合いのまま本棚に収まってしまっているというのが現実であった。

先日、ひょんなことからこの同じ3篇が寿岳文章の訳によって角川文庫に収められていることを知った。文庫なのに全ての詩にオリジナルのカラー図版がついているので、とても得した気分で購入。早速、真剣に詩を読んでみた。しっかり読むのは実はこれが初めてである。詩を翻訳で読むと本当の良さはわからないし、「無垢の歌 経験の歌」ではなく「無心の歌 有心の歌」としてしまう寿岳の硬い日本語にも引っ掛かりはあるのだけど、ブレイクの詩本来の力強さは十分に伝わってくるので良しとする。何はともあれ、初めて真面目に通して読むことに意味があるのだ。

で、こうしてきちんと通して読んでみて、改めてブレイクの魂の深さと透徹した視線に驚いている。

ブレイクは生命を賛美する。その背後には全ての生命の根源は無垢であるという無窮の信頼がある。無垢が放つ力と幸福。そこにブレイクは人類の希望を見て、「無垢の歌(無心の歌)」を歌う。しかし、無垢は人生を経験する中で失われる。人生は無垢な生命が、経験という癒しようのない傷を負っていく過程であると「経験の歌(有心の歌)」で繰り返し訴える。

人類の希望と幸福に浸った後に、突然に不幸と悪意に満ちた世界の現実を見せ付けられ、読者は戸惑ってしまう。戸惑う読者にブレイクとしての解答を示すのが「天国と地獄の結婚」である。

だがしかし、この解答は毒に満ちている。社会のモラルを転倒し、ありったけの毒をまきちらし、天国と地獄という制度を築いた社会の根底にある偽善と虚弱を暴くブレイク。「無垢」を奪った「経験」が自らを正当化するための方便として生み出したのが、天国と地獄であり、それは即ち西洋の形而上学を形作ってきた二項対立の論理である。だが、生命の根源的状態からみれば天国も地獄もない。生命の真実を二項対立で分節してはいけない。生命の全的過程に信頼を置きつつ、いかに矛盾を内包して生きてゆくか。生命に対する賛美さえ忘れなければ、無垢と経験の矛盾は止揚されてゆくだろう。そこに人類の希望を見、あるべき社会を透視したのではなかろうか。

ブレイクの視線は計り知れないほど遠くをみている。ブレイクが見ようとしたもの。それを一生かけて追求するのが生きることの意義ではなかろうか。

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紙の本

紙の本サンタクロースの秘密

2002/12/01 21:51

クリスマスという幸福

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クリスマスは小売業界にとって一年で一番モノが売れる時期である。クリスマス商戦になるとどこのお店もクリスマス気分を盛り上げ、必死でお客にギフト提案をする。クリスマスのこの商業性が昔から嫌いである。煽られた消費というのに白々しさを感じてしまからだ。

ただ、アメリカでの生活経験が、そんなクリスマスに対する考え方に多少の変化を与えてくれたのも事実。一年で一番みんなが心優しくなれる時期。みんなが幸福を求める時期。そんな暖かさがアメリカのクリスマスにはあった。商業的であることに変わりはないのだけど、この時期のアメリカ人は皆一様に優しいのだ。

あの幸福感はどこから来るのだろう?と不思議に思っていたのだけど、たまたまこの本の中に収められているレヴィ=ストロースの「火あぶりにされたサンタクロース」と中沢新一によるその解題「幸福の贈与」という2本の論考を読んで、何となく納得できた感じがする。

レヴィ=ストロースによれば、僕らが通常思い描くようなクリスマスの形態というのはアメリカで始まったらしい。戦後、マーシャルプランと並行してこの文化がヨーロッパにもたらされたそうである。

で、このクリスマスだけど、キリスト教の文化と土着的な冬祭りの文化の融合に起源があるようだ。全ての生命活動が弱まる冬。それは死の世界と生の世界が最も近づく時期でもある。生者は死者の世界に贈り物を行い、その見返りとしてまた生命に溢れる春の到来を約束してもらう。クリスマスの晩餐はもともとは死者の霊に対する供儀だったのだ。

近代になって死が身近なものでなくなるのと並行して、アメリカの資本主義のもとで死者の霊への贈与の祭りは生者同士の贈与の交換の祭りに次第に変遷をとげることとなる。でも贈与の根本的主題は変わらない。

贈与は「贈与の霊」と呼ぶべき力を発生させる。贈与の霊が動くと人間は幸福を感じると信じられてきた。だとしたら、一年のうちで、人が最も幸福を感じるという主イエスの生まれたこの季節には、気前の良い、惜しみのない贈与の行為が行われなければならない。皆が幸福を信じたい、生きていることの有り難みを感じたいからこそ発生する贈与。現代のクリスマスというのは、サンタクロースというファンタジーを通じた幸福の贈与(交換)のシステムなのだ、というのがレヴィ=ストロースのクリスマス論である。

僕のようなクリスマス嫌いでも、クリスマスも捨てたもんじゃないなあと思えるようになる一冊であること間違いなし。まさに思想の贈与。さて、今年は妻に何をプレゼントするとしようか。

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