相如さんのレビュー一覧
投稿者:相如
紙の本働く女子の運命
2016/02/05 15:56
なぜ女性差別が続くのかを説得的に説明
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本書の著者は、近年広まりつつある「限定正社員」制度の火付け役として知られ、ネット上で質の高い(しばしば口調が攻撃的ではあるが)情報発信を行っている。日本社会は一昔前に比べれば女性差別の問題にはるかに敏感になっており、労働の現場で女性が差別されている現状のレポートと、国際比較における日本の男女格差の大きさをデータに基づいて告発する議論も、頻繁に目にするようになった。他方で、なぜそのような差別や格差が放置されているのかの原因については、日本社会における意識の「遅れ」「低さ」という以上に深められてこなかった印象がある。本書が、これまでの雇用・労働における女性差別の問題を扱った類書と根本的に異なるのは、女性差別が執拗に続いてしまう原因を、雇用システムという制度的な問題から論じている点にある。
日本以外の先進諸国は「ジョブ型」である。つまり、人を雇用する場合はその仕事ができるかどうかの能力で判断され、職務の範囲も明確である。だから、その仕事が担えるのであれば、女性であろうと男性であろうと本質的に重要ではない。さらに著者によれば、既存の男性労働者が女性の労働市場への進出に対して、女性が同じ仕事を低賃金で担ってしまい、自らの賃金水準を下げることを恐れたことが、結果として同一労働同一賃金の原則を推進していったという。これもジョブ型社会であることの派生的な効果である。ジョブ型社会でも男女格差の問題はあるが、それはあくまで就いている職種に男女の格差が存在していることである。
日本における雇用は「メンバーシップ型」である。厳しい就職戦線を勝ち抜いた後は、その企業に全人格を捧げる構成員となり、職務や勤務地の明確な定めもなく、膨大な残業や頻繁な配置転換、地方や海外への転勤に至るまで、あらゆる要求を柔軟に受け入れなければならない。これは、体力面に加えて、「出産」「育児」を抱えている女性にとって圧倒的に不利である。そのため日本では女性は「一般職」として、30歳までに退職することが暗黙裏の(そしてしばしば明示的な)慣例となってきた。本書ではこの時期の様々な、女性に対する待遇格差を正当化する言説が、メンバーシップ型雇用の傍証として引用されている。
1985年に男女雇用機会均等法が制定されたが、あくまで男性の「総合職」のキャリアコースに女性も参入させる、という文脈に読み替えられたため、結果的に大多数の女性は途中で脱落していき、根本的な男女格差の解消にはつながらなかった。そして1990年代以降の非正規雇用の急増と雇用流動化のなかでも、その中核にあるメンバーシップ型の雇用システムはむしろ強固に維持された。この時期には露骨な女性差別の言説は少なくなったものの、正社員総合職の過労問題が解消しないという以上により悪化していったことで、男女格差はますます広がっていった。現在喧伝されている「女性活躍」に対しては、著者はそこでは依然としてメンバーシップ型雇用が前提とされている以上、必然的に均等法の失敗の二の舞になる運命にあると批判し、むしろ「ジョブ型」の働き方を広めていくべきであると主張する。
正直なところを言えば、ジョブ型/メンバーシップ型という二分法で全てを解釈する著者の論理構成には、若干の違和感もないわけではない。しかし、なぜ法律的・制度的には世界水準の男女平等が整備されてきたにもかかわらず、現実には世界最低水準の不平等のままであるのか、という問いに対して「進んでいる/遅れている」という評価軸ではない形の説明を試みているものとして、まさに目から鱗の一冊である。
2015/03/24 11:13
租税の理念と原理を理解するための基本書
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日本で増税問題、特に消費税の増税の問題に対する関心は、一般的にかなり高いと言えるが、その議論の質については、関心の高さに見合ったものとはとても言えない状況にある。一方では、増税を回避すると財政破綻まで一直線であるかのような議論があるかと思えば、他方では増税で経済が瞬く間に崩壊するかのような議論がある。まさに時の人であるピケティが来日した時に、対談した日本の政治家やエコノミストたちが、格差や再分配の問題そっちのけで、消費増税問題に異常な執着を示していることに閉口していたことは記憶に新しい。
本書は、そうした日本の税をめぐる健全とは言い難い言論状況に抗する形で、なぜ国民は税を負担しなければならないのかという、根本的な問題に敢えて立ち戻ろうとするものである。本書の著者は税制を専門とする財政学者であるが、これまで財政学の本と言うと、経済統計や租税制度に関する細かな記述が続き、素人にとって読み進めるのが困難な本が多かった。しかし本書はそうした類書とは異なり、そもそも税を負担する理念や原理は何であるのかという誰もが理解可能な問題意識を出発点に、所得税を中心とする近代的な租税制度が成立していく歴史的プロセスに即して明らかにするものである。
所得税制度の発祥地であるイギリスは、ロックなどの社会契約論に由来する、国家に対して私有財産権などの資本主義的な合理性の保障を求める「権利」としての租税が、後発国家であるドイツでは、ヘーゲルの有機的国家観に代表される、国家の経済に対する規制的な役割を強調する「義務」としての租税が、アメリカでは共和党・民主党の二大政党の政策論争を背景に、社会政策を実現する手段として租税が位置付けられ、特に世界恐慌後にローズヴェルトは累進課税や法人税などを富の集中を解消する手段として採用していった。
そして最後に、1970年代以降の金融自由化とグローバル化によって、所得税のフラット化と逆進的な消費税への依存が高まるととともに、度重なる通貨危機を抑制する手段として、トービン税の可能性(および限界)について解説を行っている。その他にも、租税における財源調達手段と政策手段との間の矛盾や、課税における居住地原則と源泉地原則の違いなど、租税の基本的な原理の問題についてわかりやすく説明されている。
本書を読むと、いかに私たちが税に関する基本的な原理を何も知らないまま、目の前の増税の是非という視野の狭い問題ばかりに拘泥し、中途半端な知識で無責任な「政策提言」を弄んでいるのかを反省せざるを得ないだろう。例えば消費税の逆進性を批判する人は多いが、ではグローバル化という制約の中で、それに代わる社会保障の安定財源が何であるのかを、真剣かつ丁寧に考えている人がどれだけいるか、非常に疑わしい。
本書を通じて理解されるのは、税制は一握りの政治家や経済学者、財務官僚などの天才的発想あるいは陰謀などによってではなく、様々な政治的な文脈や社会的な制約を受ける中で作られていることことである。それゆえ、あるべき税制や税負担の配分のあり方については、あらかじめ正しい結論というものは有り得ず、その議論を常に民主的に開いていくことが必要になる。そういう当たり前の認識から、税の問題が語られていくようになることを望みたい。
2015/01/30 11:30
まさに増税問題の基本必読書
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日本で増税の問題というと、「財政再建」か「景気」かという両極の対立軸に二分されがちである。書店では「財政破綻」や「増税で大不況」といった扇情的なタイトルが並び、特に「アベノミクス」においてはそうした二分法がさらに強化され、増税の実現や回避そのものが自己目的化したかのような議論が横行している有様である。
そうした状況にあって、2000年代半ば頃から、国家に社会サービスを要求し、国民の間の社会統合や連帯感を構築していく手段として税という制度を評価していくべきではないかという問題意識の下に、神野直彦氏や井手英策氏などの財政学者が「財政社会学」を掲げ、実証的な研究が蓄積されるようになっている。注目度は低いが、増税問題がこれだけ関心を集めている日本において、是非とも読まれるべき研究領域である。
本書の二人の著者たちは、まさに神野氏と井手氏からこの財政社会学を学んだ若手の財政学者である。本書は独自の見解や発見があると言うよりは、これまでの財政社会学の知見をコンパクトにまとめたものと言うことができる。本書の軸となっている、日本は租税負担率が先進国最低水準にも関わらず「痛税感」が強く、そのことが貧弱な社会保障制度と生活保護バッシングのような現象を帰結させているというテーマは、井手氏の問題意識を完全に受け継いだものである。
本書は日本における財政危機の根本原因に、高度成長期の頃から特に90年代以降、国民の痛税感を解消するための手段として所得減税を繰り返してきたことに求めている。そして所得減税に加えて社会保障の受益者負担の論理の一貫した強化が、今に至る増税に対する世論の強い抵抗を生み出していることを、所得税を依然基幹税として維持している北欧との比較で明らかにしている。受益者負担が強化されてきた歴史的背景としては、負担と給付の水準が異なる分立した社会保険制度の間の公平性を維持しようとしてきた結果であることを指摘している。累進的な税負担で低所得世帯に福祉給付を限定しようとする方法よりも、程々の逆進的な負担による、高所得者層をも給付を対象にする普遍主義的な制度の方が、結果的に高い再分配の実現を可能にするという、「再分配のパラドックス」の議論も紹介されている。
消費税の評価については若干の混乱が見受けられた。著者たちの議論では、所得税に対する租税抵抗を回避するために消費税が選好されたかのように説明されているが、本書の冒頭でも示されているように、日本における租税抵抗は当然ながら消費税をめぐるものが中心である。そして「再分配のパラドックス」の議論に同意するなら、消費税はその観点からも肯定的に評価されてよいはずであるが、なぜかそういう評価になっていない。現在の社会保障改革を単純な削減と切り捨てるのも、あまりに雑な評価である。消費増税に反対する論者は、結論ありきで無理な議論を重ねていることが多い印象だが(これは賛成派にも言えるが)、本書もその難点がところどころ垣間見える。
財政社会学的な研究は今の日本では絶対に欠かせない研究となっているが、その学問の性質上、宿命的に「体制側の代弁者」として非難されがちでもある。直接景気回復や貧困問題の解決を訴える議論に比べると地味でわかりにくく、ネット上を中心とする若手論壇でもこうしたタイプの研究は完全に黙殺されている。二人の若い著者には、そうした逆風や困難に負けることなく、地道に研究を続けていくことを切に期待している。
紙の本ヘイト・スピーチとは何か
2014/09/30 20:52
怒りと正義感には共感しつつ
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最初に断っておくと、私は在特会のような差別的な煽動行為は表現の自由の名に値するものでは全くなく、ヘイトスピーチの法規制の導入という筆者の主張に全面的に賛成である。しかし本書に関しては、筆者の怒りと正義感には共感しつつも、ヘイトスピーチ問題を一般向けに解説する本としては、少し問題がある本だという印象を持った。既に一定の高い評価は定着していることもあり、ここでは以下に、敢えて問題点のみを列挙しておくことにしたい。
問題点の一つは、ヘイトスピーチの問題がしばしば、不用意に外交・軍事の問題と絡めて論じられている点である。外交問題における中国や韓国に対する強硬な態度と、ヘイトスピーチという差別的な煽動行為は、全く別次元の問題である。というよりも、そのように完全に別次元のものとして取り扱わなければ、「韓国の反日姿勢がひどいから、在特会のような運動も起こるのではないか」という、しばしば散見される態度が正当性を持ってしまうことになる。ヘイトスピーチは政治的な立ち位置やイデオロギーを超えた、普遍的な人権・人道の問題として取り扱わなければ、それに対する批判や対抗運動が国民的な広がりを持つことはないだろう。
問題点の二つ目は、規制が進んでいる諸外国と遅れた日本という単純な対比に基づく整理である。言うまでもなく、規制の有無は国民の意識の高低に帰せられるものではなく、政治家・官僚と世論・有権者との間の政治的な討議や合意を通じて決まる問題である。しばしば政府の不作為が糾弾されているが、そもそも政府は悪を懲らしめる正義の味方ではない。また諸外国の現実からも明らかなように、法規制がヘイトスピーチを効果的に抑制しているかどうかについても、議論の余地のある問題である。もし諸外国が「進んで」いて日本が「遅れている」として、なぜそうなっているのかの歴史的な経緯を説明することが必要になる。
最後の点として、なぜ今の日本でヘイトスピーチという現象が生まれているのかの背景や原因への説明が全くないことである。それどころか、本書の後書きに、ヘイトスピーチを行っているのはどういう人なのかという質問を受けたことに対して、まずはマイノリティ被害者の苦しみを受け止めるべきだと厳しい口調で批判しているように、そうした問題関心そのものに否定的である。もちろん、心情的に理解できる部分もあるが、やはりこれには強い違和感を覚えざるを得なかった。
そもそも残酷な現実として、依然として日本国民の大多数はヘイトスピーチに対して(例えば北朝鮮問題などと比べても)切迫した関心を全く持っていない。その意味で、「どういう人なのか」という問いは、それが自分自身とどこで関わっている問題なのかを理解したい、という切実な欲求でもある。そしてそれは、自分たちのいる社会の差別な構造を反省的に問い直していく、という姿勢にも繋がっていく可能性を持つものである。この点に関しては、例えばブラック企業問題が個々の悪質な企業を批判するにとどまらず、戦後日本の雇用システム全体を問い直す議論になっていることに学ぶべきかもしれない。
在特会によるデマや差別的言動を丁寧に批判していくという啓蒙的な活動や、対抗的な運動はこれからも盛り上げていく必要がある。しかしそれは、マジョリティの義侠心や同情心(著者は確かにこれらが強い人ではある)に期待するのではなく、まずは自分たちが理不尽な差別や暴力におびえることのない、より安心して生活できる社会にしたい、という人々の自然な欲求に根差したものでなければならないと考える。
紙の本国旗・国歌・国慶 ナショナリズムとシンボルの中国近代史
2011/11/27 05:27
久しぶりに登場したナショナリズム研究の傑作
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1990年代から2000年代初めにかけて流行したナショナリズム研究は、近年はかなり停滞している。その理由は様々なだが、学問内在的な理由について言えば、それが歴史や社会の中に隠されていたナショナリズムを「発見」し、その自明性を問い直すという問題関心のなかで研究が行われてきたことがある。福沢諭吉や孫文が啓蒙家や革命家であるという以前に「ナショナリスト」であったというのは、最初は新鮮な驚きを獲得したとしても、そうした暴露の作業がひと通り済んでしまえば急速に陳腐化せざるを得ない。中国史研究の分野においても、吉澤誠一郎『愛国主義の創成』(岩波書店、2003年)、坂元ひろ子『中国民族主義の神話』(岩波書店、2004年)などを区切りとして、ナショナリズムをテーマとした研究が激減している(少なくとも狭い「民族問題」に限定されるようになっている)印象があり、私自身もほとんど興味関心を失いかけていた。
本書は中国のナショナリズム研究に属するものであるが、それ以前のものと全く異なるのは、ナショナリズムを通じて中国近代史の枠組みを脱構築するというテーマが完全に後景に引き、徹底して国旗・国歌・暦法という具体的な事物に即して記述・分析が行われている点にある。国旗や国歌の研究というと、G・モッセに代表されるように、これまではそうしたナショナルなシンボルがいかに「国民」意識を形成する装置となったのかという点に関心が集中してきたが、本書では、国旗や国歌という具体的なモノそれ自体に焦点を絞り、それらが様々な政治的意図や対抗勢力とのせめぎあいの中でいかに構想され、変化していったのかの紆余曲折と数奇な運命の面白さが素直に描き出されている。堅い文体で書かれた学術書ではあるが、高校世界史程度の知識でも十分に理解可能な内容であり、読み始めると止まらない本である。
本書の内容を簡単に紹介しておくと、以下のようになる。国旗について言うと、最初清朝は皇帝のシンボルとしての黄龍の意匠を採用したが、「中国」を表象するものとしては広く定着しなかった。孫文は革命派のシンボルとして青天白日満地紅旗を用いたが、実際の辛亥革命の過程では様々な意匠の旗が用いられ、中華民国が成立すると「五族共和」を表象するものとして五色旗が採用されてしまい、1920年代の国民革命と「北伐」の時期には、五色旗と青天白日満地紅旗の二つの国旗が中国国内で併存している状態になった。国歌の運命は国旗以上に複雑怪奇で、政局の混乱などで辛亥革命の9年後である1920年まで定まった国歌が存在せず、ようやく制定された「卿雲歌」も活発さに欠けるとして批判されて定着することなかった。1937年にようやく国民党の党歌を国歌として正式に定めたが、直後に起こった日本との戦争のなかでは映画のテーマ曲だった「義勇軍行進曲」が広く歌われ、歴史のなかに埋没してしまった。さらに暦法の転換も困難を極めた。1911年の辛亥革命は、暦法における陰暦から陽暦への「革命」「文明化」でもあり、それに基づいて武昌蜂起の10月10日をはじめとして様々な国慶日が設けられたが、再三再四の政府の指導にも関わらず、中国の民俗・慣習と深く結びついた陰暦が廃れることはなく、最終的に共産党は農村を動員する過程で陰暦の慣習を容認する戦略をとることになった。以上のように、民国期以前の中国では複数の国旗や国歌そして暦法がせめぎ合う状態が長い間続いていたのであり、これは国旗は「日の丸」で国歌は「君が代」以外に想像のしようがなく、陰暦の慣習もほとんど廃れてしまった、われわれ日本人の経験とはまさに対極的なものと言えるだろう。
著者は1977年生まれということで、おそらく本書の研究テーマも、歴史学で「ナショナリズム」「国民国家」が流行した時代の空気の中で選択されたものに違いない。この流行を牽引した上の世代の研究者たちが、思想家の言説を中心とした知的相対化の作業で満足していたのに対して、本書の著者は彼らが着手しないまま残していた、国旗・国歌・暦法といったナショナルな価値観を体現する具体的な事物への探求への地道な作業を行っている。ナショナリズムの脱構築や相対化といったメッセージは一切ないものの、ナショナルなシンボルの形成とせめぎ合いのプロセスを丹念に追いかけることで、結果的にそうした視点が得られるものとなっている点も重要である。
不満な点を一つ挙げるとすれば、あるナショナルなシンボルが正統性をもつにいたる要因の分析が弱いことである。日本の「君が代」の歌詞が日本国民に十分理解されているとは言い難いように、国旗や国歌がナショナルなシンボルとして定着するためには、意匠や曲それ自体の魅力よりも、政治体制の強さや安定性、そうしたシンボルが背負っている国民的な経験や記憶の共有といった要素が重要になる。大衆映画のテーマ曲に過ぎなかった「義勇軍行進曲」が国歌として採用され定着していったのは、まさに抗日戦という国民的な経験が決定的であった。あるいは歴史学者として、こうした言わば社会学的な問題については敢えて深入りしなかったのかもしれないが、国旗や国歌を研究する場合には避けて通れない問題であると考える。
紙の本全体主義
2011/01/28 15:25
全体主義の「現在」
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本書は「全体主義」をめぐる、これまでの研究と概念の変遷を一冊の本にまとめたものである。その概要をまとめれば、以下のようなものになる。
(1)「全体主義」の概念は、第一次大戦の総力戦の経験を起源とするものであり、イタリア・ドイツにおける一部のファシストにはじまり、それからファシズムとボルシェヴィズムの勃興に危機感を抱いた西欧の自由主義知識人によって盛んに用いられるようになった。
(2)冷戦時代には、「全体主義」は反共主義者が敵対者を攻撃する際の決まり文句となった。そこで強調されたのは、ファシズムと社会主義体制との「全体主義」的な共通性であり、アカデミズムにおいても「全体主義」概念を通じてファシズムやスターリズムを分析する研究が流行するようになった。
(3)しかし、その後の研究の進展とともに「全体主義」の内実が必ずしも一枚岩ではないことが次第に明らかにされるようになり、さらにアメリカのベトナム戦争における迷走などによって、「全体主義」概念は自由主義陣営の政治的プロパンガンダの一種として、次第に敬遠されるようになっていく。
(4)その一方で1980年代以降、フランスを中心として、中国の文化大革命などの現実に幻滅した左翼知識人が、ミシェル・フーコーなどの権力論を背景に、「全体主義」の概念を用いて社会主義体制を批判的に分析するようになった。そして冷戦崩壊後は、「全体主義」は西側諸国の「勝利」を正当化する概念として用いられていくようになる。
本書の意義を一言で言えば、ナチスやスターリン体制などを「全体主義」として分析するのではなく、むしろ「全体主義」という概念の語られ方そのものを、歴史の文脈に埋め込んでいくという作業である。そうした作業を通じて、歴史的な実証性の観点から、ドイツ、ロシア、イタリアなどに見られた政治運動や政治体制を、「全体主義」の名の下に一括して論じることの不適切さが指摘されている。
個人的に「全体主義」の思想史・理論史に詳しいわけではなかったので、本書のレビューは大変勉強になったし、過去のファシズムや共産主義体制などを理解する際の、必読文献になることは間違いないと思われる。その上で言うと、「全体主義」の語られ方の歴史性に関する記述が、もっぱら学説史的なものにとどまっており、やや踏み込みがやや足りないという印象も残った。「全体主義」は、ある時期には大衆社会の病理として、またある時期からは管理社会における人間疎外として語られてきた。その背景には総力戦だけではなく、急速な経済成長や「福祉国家の危機」の歴史的経験があったはずだが、本書ではそうした背景は冷戦以外にはあまり触れられていない。また丸山眞男に象徴されるように、「全体主義」の理解と語られ方が各国の政治社会的な条件によって異なるという視点も、本書の立場からすれば重要になってくるだろう。
この点で注目されるのは、現在カール・シュミットが(特に日本の)人文系の知識人の間で、熱心に読まれるようになっていることである。それは、彼の独裁論や「全体国家」論が近代デモクラシーの臨界点を指し示すものとして再評価されるからであろうが、そうしたシュミットの再評価の機運は明らかに、現代社会に生きるわれわれが漠然と感じている、民主的な政治参加の有効感覚の低下や、それに基づく不安感や疎外感と、明らかに関係しているものと言えるだろう。実際、ごく一部ではあるものの、シュミットを手掛かりに議会制民主主義の有効性を否定するような議論が、真面目に語られたりもしている。そして、政権交替後の民主党政権の「迷走」を見ているわれわれにとって、こうした「極論」を一概に馬鹿にできない雰囲気があるのも確かである。
本書は最終的に、歴史実証主義的な正論に落ち着いてしまっているが、そういうことを愚直に言い続けることも大事だと思う一方で、個人的には、今なお「全体主義」の歴史と記憶をなお語ろうとする人たちの困難や不安が何であるのかを、「現在」の問題として引き受けていくことが重要になると考える。
紙の本丸山眞男セレクション
2010/04/24 10:14
丸山眞男の「庶民コンプレックス」
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今回、この『丸山眞男セレクション』を読んでいて、あらためて目に止まった一文がある。それは、「日本の思想」論文のなかの、理論は現実からの抽象であってそれを理論家は自らの責任において引き受けねばならない、という有名な下りのなかで、脚注のなかに書かれている、「私達知識人はいろいろな形で庶民コンプレックスを持っているから、「庶民の実感」に直面すると、弁慶の泣きどころのように参ってしまう傾向がある」(336頁)という一文である。丸山が自らの「庶民コンプレックス」をさりげなく告白している部分として、非常に興味深かった。
丸山眞男の読者で惹かれる部分は人それぞれであろうが、私自身についていえば、この日本における「庶民」なるもののドロドロとしたものを、何とかして理解して克服しようという執念である。それは、現在貧困活動家として有名となった湯浅誠が「日本社会の岩盤」と呼んでいるものに相当する。湯浅は日本で貧困者に対して執拗に続く「自己責任」言説について、それは「新自由主義」的なイデオロギーの影響というものでは決してなく、日本社会に生きる人々の人生経験や生活実感に深く根ざした偏見や固定観念に由来するものであるとして、それを「岩盤」と呼んでいるが、丸山が生涯をかけて格闘しようとしたのも、この日本社会の「岩盤」に他ならない。彼は同時代の左翼がそうしたように、日本社会の特質を「封建主義」「天皇制」の一言で済ませることでは満足できず、それを内側から徹底的に理解して自らの「庶民コンプレックス」を克服し、日本において「デモクラシー」の確立を阻んでいる「岩盤」の存在が何かを解き明かそうとしたのである。
かつて私は、日本人の精神構造の「病理性」を否定的に描き出そうとした丸山に対して、その日本人が共有している「病理」に、自分一人だけ無関係であるかのようなエリート臭を感じて反発していた。今でもそうした違和感がなくなったわけではないが、評価はかなり変っている。というのは、本当にエリート意識に凝り固まった人物であるなら、西欧の政治思想を研究・紹介して知的優越感を誇示するだけで満足し、そもそも日本の「庶民」がどのような「精神構造」を持っていようが、関心すら持たないはずだからである。だから私に言わせれば、丸山と対極に位置するのは彼を執拗に攻撃した保守主義者ではなく、むしろ表面的な主張はかなり近いはずの、イギリスの政治思想やフランス文学を学びながら、それと現実の日本社会との落差に葛藤しようともしない――ゆえに「庶民の実感」の前に易々と無条件降伏してしまう――知識人の存在であっただろう。
このように丸山は自らの「庶民コンプレックス」に真正面から向き合い、それを懸命に克服しようと、「庶民」のなかにあるドロドロとした部分をなんとか理解しようとしていた。それを説明するために、丸山が「抑圧移譲」「タコ壺文化」「古層」といった様々な概念を用いたことはよく知られている。正直なところ、その全てが説得的であるというわけではないし、既に多く批判されてきたように、ある種の本質主義を免れていないことも確かである。しかし、後に華やかに語られた「日本人論」が今から見ると古臭い印象が否めないのに対して、丸山のほうに依然として迫力・オーラのようなものを感じるのは、丸山が「庶民」の根源を何とか理解しようという葛藤および格闘の跡が、行間からにじみ出ているためである。
私は専門家でもコアな丸山読者でも全くないので、具体的な内容についての評価は控えたいが、今回の『セレクション』の解説に若干の不満があったとすれば、それが丸山の思想の内容の解説が中心で、なぜこのようなことを彼が語らなければならなかったのか、そして「デモクラシー」を日本で実践するに当たって彼がいかなる困難や壁に直面していたのか、という問題について全く触れていないことにある。かつて丸山は、一見混乱に満ちた孫文の思想について、「何を語ったか若くは何と書いたかではなくして・・・いかなる問題をもって現実に立ち向かったか」を理解するべきだと説いていたが(「高橋勇治『孫文』」)、当然それは丸山の思想にも適用されるべきはずであろう。
それにしても、この『セレクション』を読んで、つくづくやるせない気分になってきたのは、「万事お上がやってくれるという考え方と、なあにだれがやったって政治は同じものだ、どうせインチキなんだという考え方は、実は同じことのうらはら」(369頁)など、現在の日本における政治風景に依然としてそのまま当てはまる言葉が、あまりに多いことである。自らの投票で選んだはずの首相の「指導力不足」を嘆く声が全国に満ちている一方で、「参加して監視していく」という能動的な政治態度は、丸山の時代よりも明らかに後退しているように思われる。丸山が戦後日本で最も読まれてきた知識人であり、特にその熱心な読者だった世代が社会の指導層になっているはずであることを考えると、丸山が格闘してきた「岩盤」がいかに巨大なものであったのかを思わずにはいられない。
2010/03/27 23:19
「引き下げデモクラシー」を超えて
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本書のなかで丸山眞男の言葉を借りて表現しているように、現代日本の政治風景を一言で言い表せば「引き下げデモクラシー」ということになるだろう。
世論調査などに示されているように、50代以上の高齢層が中心となっている日本の世論は、全体として北欧的な「福祉国家」を望ましいと考えている。ところが、「子供手当て」のような分配政策に対しては「バラマキ」と批判的であり、むしろ「事業仕分け」のような歳出削減政策に強い支持を与えている。そして、旧来のような公共事業政治の受益者だけではなく、中央官僚から一般公務員、そしてしばしば大企業の労働組合や正社員層までが、「既得権益層」として批判されるようになっている。
このように、今や公共財の分配をいかに増やしていくかではなく、「既得権」を削減・解体する強力なリーダーシップを発揮できているか否かが、政党と政治家の評価や選挙結果に直結するようになっていると言ってもよい。本書の表現を借りれば、「ここに見られるのはバランスのとれた検証ではなく、やみくもに特権や保護を叩き、これを引き下げることで政治的支持を拡げようとする言説」であり(28頁)、それは結果的に、日本の世論が求めているはずの、福祉国家のための信頼や連帯の基盤をますます掘り崩すものになっている。
本書は、こうした袋小路を突破する道として、「アクティベーション」と「利用者民主主義」を提起している。アクティベーションというのは、雇用と社会保障をこれまで以上に連携させることで、労働を通じた社会参加を促進することであり、利用者民主主義とは、あるべき公共サービスについて、利用者が専門家の助けをかりながら主体的に決定していくことである。本書では、近年流行しつつある「ベーシックインカム」論には批判的であるが、それは著者の最終的な目標が単なる生存保障ではなく、「排除しない社会」の構築にあるからと理解することができる。
「排除しない社会」とは、労働環境や公共サービスの質をめぐる問題の決定に、労働者・利用者などの当事者が主体的に参加することで、人々の疎外感や社会的亀裂を解消していくことを意味する。そして、そうした社会参加の道筋を抜きにして、健全かつ持続的な社会保障制度の構築と、そのための財源に関する税負担の政治的合意など有り得ないという著者の問題意識には、大いに共感できるところがある。
労働を通じた社会参加という本書の提言は、ある意味で古典的とも言える福祉国家の理念の再確認であり、「既得権益層」へのルサンチマンを抱えるある種の人たちにとって、そして「ベーシックインカム」のような鮮やかな解決法を好む一部の「頭のいい」人たちにとっては、非常に退屈なものに映るかもしれない。実際、現在の日本の世論は、本書の愚直なまでの提言に真摯に耳を傾けるだけの心理的な余裕を失っているように見える。
しかし本書の最大のよさは、「引き下げデモクラシー」を求める世論に真摯に向き合いながら、そうした世論の背景にある不安や不信感を手当てすべく、慎重に社会保障のあるべき姿を手繰り寄せようとしている点にある。社会保障というものが、「ベーシックインカム」のような未知の世界からではなく、あくまで現実の日本社会に生きる人々の困難に寄り添いながら構想されるべきであるという、本書のスタンスがより多くの人に共有されることを願ってやまない。
2009/10/09 14:39
産業民主主義の再構築
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この数年のあいだ、1990年代には完全に下火であった労働・雇用の問題が、日本の政治の中心的なテーマの一つになっている。そのなかでは、終身雇用を回復して派遣労働を規制せよという声と、むしろ規制を緩和して正規と非正規の間の流動性を高めよという声との対立が、少なくともマスメデイアのレベルでは主流であったように思われる。
前者がこの10数年来の経済構造の変動を完全に無視した議論であるとすれば、後者は旧来の日本の雇用システムを単なる解体されるべき障壁としか見なしていなかった。そして両者が別々の関心と文脈から、「フリーター」などに対して「自己責任」言説を同時に投げかけるような不幸な現象も見られた。
これに対して、低賃金労働者の実情を明らかにする一般向けの本は、労働環境の悲惨さを訴えるルポルタージュでなければ、小泉政権下の「構造改革」に全ての問題が収斂していくような筋書きのものが多かった。もちろん問題意識に大きく共感はしたが、こうした本を目にすることが頻繁になるにつれて、日本の雇用システムに内在する構造的な問題を総体的に把握するような議論への欲求が高まるようになってきたのである。
その欲求に答えてくれたのが、一つは宮本太郎氏の『福祉政治』(有斐閣)であり、そしてもう一つの「決定版」と言えるものが本書である。著者の自らの主張をブログでも積極的に表明しており、私も読者の一人であるが、議論の全体像を目にするのは今回がはじめてである。
本書で最も面白いと思ったのは、経済団体が1960年代まで同一労働同一賃金に基づく職務給を提唱していたにもかかわらず、とくに1973年の石油ショック以降に、人材養成や労務管理などのメリットから、終身雇用・年功序列の職能給・生活給の制度が確立し、それと対応するように教育制度が職業訓練の役割を喪失していったという下りである。高原基彰氏も1973年を「現代日本の転機」としているが、この時期に20代前半までに企業の正社員としてメンバーシップを獲得していないと、もはや人生上の挽回が著しく困難になってしまうという日本に固有の雇用システムが確立したわけである。
この日本型雇用システムが現在、メンバーシップを獲得できなかった非正規社員の劣悪な待遇と、その状況に企業ごとに分断されている労働者代表組織に無関心であったことは、しばしば指摘されてきた。しかし、本書で共感できるのはこの日本型雇用の遺産をただ否定するのではなく、むしろそれを基盤として職場に基づく「産業民主主義」を提唱していることである。企業外のユニオンよりも、しばしば「既得権集団」と見られる企業内の労働組合の再構成を主張しているのは、経営者と労働者との緊張関係をもった利害対立のコミュニケーションが制度化されていなければ、経営者も納得する形での労働者の権利回復が実質的な形で実現されることはないからと理解することができる。
最近「フレクシキュリティ」の議論が盛んであり、本書でも言及されているが、目が鱗だったのはフレクシキュリティがコーポラティズムの伝統を背景に、全国規模の労働者の代表組織の発言力がきわめて強い国でこそ可能になっていることである。現在の日本では反労組的な規制緩和論者によってフレクシキュリティが称揚されることがあるが、労働者組織を基盤とした産業民主主義を大前提にしなければ、適切な姿で実現されることは不可能であると言えるだろう。
「一見、具体的な利害関係から超然とした空虚なポピュリズム」(208頁)ではなく「さまざまな利害関係者の代表が参加して、その利益と不利益を明示して堂々と交渉を行う、その政治的妥協として公共的な意思を決定する」(209頁)ような産業民主主義のシステムを制度化していくこと、そしてそのことが労働者の待遇改善(および増税などの不利益の再分配)や企業の業績向上による経済成長の実現を両立するような雇用政策を可能にしていくこと、このことが日本社会の共通認識になっていくことを切に望みたい。
紙の本ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る
2007/07/17 16:55
「想像の共同体」を超えて
13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
ベネディクト・アンダーソンの名前を少しでも耳にしたことのある人は、彼の議論を「国民(ネーション)は近代化の中でつくられた『想像の共同体』である」と理解しているかもしれない。
こうした理解が一概に間違っているわけではないが、『想像の共同体』が英語で出てから24年、そして日本語訳で出てから20年になるいま、そのような理解はもう完全に打ち止めにしなければならないだろう。アカデミズムで「想像の共同体」という言葉が当たり前に語れるようになって、この言葉が当初含んでいた衝撃力はすっかりなくなってしまい、『想像の共同体』においてアンダーソンが提出した論点はほとんど継承されないまま、次第にナショナリズム論自体が急速に飽きられてしまった。その一方で、国家や民族の歴史的な永続性を素朴に信じる人々が依然として圧倒的大多数で、ナショナリズムをめぐる問題は一層激化しているという、『想像の共同体』以前と何にも変わらない(アンダーソンも本書の中で指摘する)現実は完全に放置されたままである。
一部の専門家にとっては自明だが、アンダーソンはネーションには実体的な根拠がないなどとは全く言っていない。彼は確かにネーションを「文化的人造物」とは呼んだけれども、その関心はあくまでそれが人々に死を要求するほどの宿命的な力をいかにして持つようになるのか、その構造的な条件が何か(例えば出版資本主義)を説明することにあった。近代人である限りナショナリズムの外に出ることではできない。それは彼が本書の中でも、『想像の共同体』を「正真正銘の構造主義的、マルクス主義的テクスト」と明言し、ポスト構造主義やカルチュラルスタディーズとははっきりと距離をとっていることからも理解されなければならない。
その点で本書の不満は、解説において相変わらず「国民」や「日本人」の構築性を指摘し、その同一性とアイデンティティに動揺を与えるものとしてアンダーソンを紹介している点にある。読み方は各人の好みと言ってしまえばそれまでだが、そうした啓蒙主義的なスタンスで読んでしまうと、この認識が当たり前のものになった瞬間に、必然的に「つまらない」「古い」ものでしかなくなってしまうだろうし(実際既にそうなりつつあるように思われる)、また現在において啓蒙主義的なスタンスがかえって逆効果につながりやすいことはフェミニズムに対する「バックラッシュ」現象からも明らかである。
アンダーソンは『想像の共同体』の各国での読まれ方の違いを問題にしていたが、その意味での本書の解説も日本に特有の「読まれ方」の典型的な例と言える。実際、日本ではアンダーソンはまともに読まれる前に、ナショナリズムを論じる際の水戸黄門の印籠のように引用されてきたきらいがある。彼の議論の内容に踏み込んだ内在的な批判というものは、少なくとも日本の研究ではほとんど目にしたことがない。その象徴が本書の最後に章に掲げられている「14の対話」で、「アンダーソン先生の主張は本当なのですか」「私はこう考えるのですが」という抵抗感や自己主張を表明した質問が一つもなく、一様に「ご意見を拝聴したい」という感じだったのが残念だった。
本書は、アンダーソンがナショナリズム研究に取り組むようになった経緯を知ることができ、またグローバルな移動や通信がナショナリズムの発生にとって重要であることが提示されているなど興味深い論点が多く語られている。もはやインパクトを失った「想像の共同体」を超えた、ナショナリズム研究の新たな展開を期待したい。
2007/05/03 13:02
左派の復権か?
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
この10年ほど、社会的な「弱者」やマイノリティを代弁する左派的な主張は急速に勢力を失っていった。その理由はいろいろ指摘されているが、大きな点としては、左派の知識人や活動家たちは、もっぱら中国・韓国の戦争被害者、女性、定住移民などの日本社会の周辺に置かれている人々の救済と社会的な地位の向上を図ろうとしてきた一方で、日本社会の中核部分におけるフラストレーションの増大についてほとんど無視してきてしまったことにある。左派は余裕のある日本国民がマイノリティに手を差し伸べるべきだという前提に立っていたのだが、2000代の「小泉改革」以降こうした前提は全くリアリティを失い、左派の学者やジャーナリストは小難しい言葉を振り回しては「弱者の声に耳を傾けるべきだ」と説教する「強者」として、むしろ社会の底辺層で苦しんでいる人々の反発や憎悪の対象となっていったのである。
そうした左派の言説が少し変わりつつあることを象徴するのが本書である。どことなくエリート臭が漂わせながら「弱者」を代弁しようとしていた従来の左派と違い、これは著者のフリーター体験や実の弟の過労体験を交えながら、泥臭いまでに社会の最下層に密着して書かれており、そこでマグマのようにたまっているルサンチマンを生々しく表現している。それなりに安定した収入を得ている人が読んでも、実感として「確かにそうかもしれない」と、ピンと来る人は多いはずだ。従来の左派に欠けていたのは、こうした多くの日本国民に共有されるような不安感やルサンチマンの根源を、力強くわかりやすい言葉で描き出すことにあったと言えるだろう。特に本書は単なるインタビュー集なのではなく、労働・雇用に関する法律の知識をわかりやすく紹介し、現実に行なわれている具体的な対策を紹介している点でも非常に実効的である。
ただ、これは不満というより著者に考えて欲しいことが二点。
一つには、デモや運動の取り組みが好意的に紹介されていて、それ自体は構わないのだが、デモのような集団行動が苦手な人が底辺層に滞留しがちであるという事実にも目を配る必要があること。デモは下手をすると「単に騒ぎたいやつが騒いで楽しんでいる」と見られがちであり、正直なところ本書を読んでもそういう印象は否定できなかった。デモをするには単に「飯を食わせろ」という漠然としたスローガンだけではなくて、これを勝ち取るまでは絶対にデモをやめない、という具体的な成果を伴った目標がないと多くの人の支持を得られないだろう。
二つには、著者は「右翼」から労働・雇用の問題へと「左傾化」したと述べているが、実際は底辺層の生活の問題と右派的なナショナリズムが同時に語られる可能性が強いこと。実際、ヨーロッパにおける移民排斥においては、両者は密接不可分の関係である。日本ではどういう形をとる可能性があるのかはわからないが、右派のナショナリズムを単に「はけ口」に過ぎないかのように扱うべきではない。
星5つではないのは、あまりうまく言えないが、やはりどこか引っかかるところがあるので。しばらく暴れ回ってほしいという気持ちも強いが、なんかやばいのではないかというところも若干残っている。
紙の本右翼と左翼
2007/01/10 19:44
「右」「左」は終わってない
15人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
この10数年のあいだ、「現代の政治は右と左の対立図式ではもはや理解できない」という言葉を何度聞いたことだろう。私はこうした、一見もっともらしい物言いにずっと違和感を抱いてきた。実際、このような物言いをする人自身が、「右派」「左派」「保守」「進歩」といった概念を平然と使って、相手方を批判的に言及することがあるのである。
考えてみれば、今から思うほど冷戦時代は「右」と「左」は激しく対立していなかったと言うこともできる。「右」として分類される福田恒存や林健太郎にしても、「左」の知識人と盛んに論争を行なっていたし、林房雄の「大東亜戦争肯定論」のような「極右」的な議論でも、「左」派の知識人がそれを批判すべく応戦し、雑誌で座談会なども積極的に行なっていた。ところが今は、「右」と「左」がまともなコミュニケーションもなく、お互いを無視・軽蔑してばかりいる。本来なら、『国民の歴史』を書いた西尾幹二と『民主と愛国』を書いた小熊英二の間で、論争なり意見交換なりがなければならない。しかし私の記憶の限り、両者はお互いに見当違いとしか言いようのない批判を、相手に届かないような媒体に少し書いただけで終わってしまっている。他も同様で、教科書問題、靖国問題、ジェンダー・フリー問題などでも、どうしてここまでというくらい見事なまでに「右」「左」にわかれ、相手の声の届かないところでしか批判が行なわれていない。こうしてネット上で顕著なように、「ウヨク」「サヨク」呼ばわりのレッテルが、冷戦時代以上にかえって横行しているという皮肉な現象が起こっている。
このような不満が鬱積したところだったので、浅羽氏がこのような本を書いてくれたことは個人的に非常にタイムリーだった。ネット上で批判が出ているように、この本は「右翼」「左翼」という概念自体の歴史的な系譜が厳密かつ丁寧に分析されているわけでもなく、濃い内容を期待すると少々薄っぺらな印象は否めない。しかし繰り返すように、今までの学者たちは「右」「左」の分類図式を「もう意味がない」と言い放って、この問題に取り組むことを避け続けてきた。これに対して浅羽氏は、「それはまだ意義を失っていない」という(考えてみれば当たり前の)現実をなんとか手繰り始めたばかりなのであるから、分析の深さが足りないとしてもそれは当然であろう。
ただその上で二つの点を批判しておきたい。第一には、「右」「左」は説明される概念であるはずが、著者自身が「右」「左」という概念で既存の言説を分類してしまっているところがある点である。著者自身が「右」「左」を感覚的に使っているところがあり、もっと具体的に「右」「左」と名指される局面にこだわれば、より本の内容に厚みが増したのではないかと思う。
第二には、いわゆる「右傾化」と呼ばれる現象を気分的で現実依存的なものに過ぎないと解釈しているが、「右傾化」において「左」に向けられるルサンチマンの強さついても、やはり言及が必要である。しばしば指摘されるように、「右傾化」と呼ばれる現象には「良識的」な「自由」「平等」「平和」を主張する「大学教授」や大手マスコミといった「既成勢力」への嫌悪という側面があり、これが特に「小泉改革」以降強まっているからである。
浅羽氏も昨今の「平和主義」者たちを、「本当にこれでいいのかと叫びつつおろろするばり」で「自分たちの正義、理念を、とうに刷新しておくべき努力を怠け続けた」と批判している。「右傾化」への批判そのものは多く、また必要なことではあるが、「右」に真正面から向き合わず、それを忌むべき社会的な病理であるかのように遠巻きにしてグチグチと批判するだけであれば、「右傾化」を一層推し進めることになるだろう。
2006/01/21 16:35
悩む能力
7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
この本の冒頭では「悩む能力」について書いている。いいことを書いているなと思って期待して読んだのだが、この本を読み進めるにつれて「この人は本当に悩んでいるのだろうか?」という違和感が次第に高まっていった。
ここで言及されている魯迅、竹内好、丸山真男などは明らかに「悩み」抜いた人である。まさに中国史上最低と言っていい混迷の時代を生きた魯迅は、どうして我々中国人はかくも堕落し醜悪になのか、自分がその中国人であることが実に忌々しいがこれも宿命であり、この宿命にどう向かい合うべきか、ということを延々と自問自答した人物である。竹内や丸山は自らを免罪していたきらいはあるが、どうして日本はあんな馬鹿な戦争をしてアジアを侵略してしまったのか、これはわれわれ日本人の「近代」のあり方が根本的に間違っていたからではないか、ということを執拗に問いつづけた。彼らの言っていること自体は今読んでもとりたてて面白いものではないが、決して既存の思考様式で納得・満足することなく、自ら苦悩して独自のやり方で解決を導き出そうとした思考の跡は、依然として迫力を感じさせるところがある。
しかし、この本の著者は一体何に悩んでいるのだろうか。教科書的な歴史イメージや思想家の評価とは別の視覚をところどころ提示しているところはそれなりに面白いとしても、結局ところ著者の悩みというものが伝わってこない。「反日デモ」に対する論評で「デモの主張が正しいものかどうかという判断以前に、それが歴史の残響であることを、まず認めなければなりません」という文章が典型的だが、それは悩んだ末に導き出された文章と言うよりは、物事を見る際の知的倫理を説いたものと言うべきだろう。この本からなんとなくうかがわれる歴史観も、アジアに対する想像力から日本の近代を考えようという「薄められた竹内好」のようなもので、それはもちろん正しいけれど、既存の聞き慣れた歴史観をあらためて聞かされている感は否めない。本当に悩み抜いてこの本を書いたのであれば、もう少し著者にしか表現できないような独特の歴史観が提示されるはずだろう。
さらに、アジアに対して鈍感で単純な目でしか見られない日本を批判的な調子で(はっきりではないが)書いているのはいいとしても、日本がどうしてアジアに対してそのような態度しかとれないのか、というところでの根本的な「悩み」がこの本では語られていない。もちろん、日本人向けの本だから日本に反省を促す書き方になるのは当然だとしても、魯迅が中国人に向けたような、日本に対する憤りや愛惜、そして「日本そしてアジアが変わってほしい」という情熱のようなものを伝えていないのである。結局、近年の「反中」ムードの高まりの問題に対する「悩み」を(おそらく敢えて)スルーして、「歴史の残響」を真摯に見つめるべきだと言うそれ自体は真っ当すぎる知的倫理を説くものになってしまっている。だから読んでいても勉強になることはなるが、「良識的な見解」を延々聞かされている感じがして、読後の印象が今ひとつ残らないのである。
もちろん著者にとっては、あくまで「悩んでもらう」材料を提供することがこの本の目的だったのかもしれない。しかし読者に悩んでもらうには、悩むべきだと言う知的倫理だけではなくて、著者自身がいかに苦悩しているかをまず語る必要があるだろう。「嫌韓」「嫌中」本がどんなに内容がひどくても売れてしまう現実に少しでも抵抗してほしいと気持が個人的に強いが、しかし読者がこの本でそうした現実を反省して悩んでくれるようになるのかどうかは、正直なところ大いに疑問である。期待が高かったせいでいろいろ批判を書き連ねてしまったが、歴史学者が書いたのではない「日本と中国(および台湾)における近代」の概説的な本としてはお勧めできる本である。
2006/01/12 16:04
格差社会論のインフレ現象
14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
このごろ格差社会論がインフレーションを起こしているが、この本はまさしくそうしたインフレーション現象の一つである。ほとんど学術専門書に近い佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書)が出た5,6年ほど前は、こうした格差社会論は一部の知的な読書人だけに共有されていたに過ぎなかった。その頃はむしろ、「悪平等社会日本」の非効率性を不況の原因として非難する声のほうが依然として大きかった(そして現在ついに政府の公式見解にまでなった)。この短期間でここまで変わってしまうとは、一体どういうことなのだろうか。
この本は全く面白くもないというわけではない(ので星二つである)が、内容的にはほとんど「大学生の卒論」と言うべきものである。散々批判されているので改めて批判はしないが、問題はこんな薄っぺらな内容でも売れてしまうような、格差社会論のインフレーション現象である。テレビや新聞で「格差」の文字を見ない日はないくらい、格差社会論はメディア市場で「超売れっ子」である。明らかに著者はそうした時流を見込んでこの本を書いたとしか思えない。さらさらっと軽い文体でアンケート結果や俗耳に入りやすい解釈が並んでいるだけで、そこには格差社会の現実に対する憤りや苦悩、葛藤の跡がほとんど感じられないのである。
一つだけあげるとすれば、「自分らしさにこだわる人は下流」と言っているが、これはむしろ定職のない「下流」の人は今の自分の状態を「自分が好きだから」としか社会的に説明しようがないだけなのではないだろうか。定職があって結婚している人は「仕事だから」「家族のため」と答えるだろう。もちろんこの解釈が絶対的に正しいとは言わないが、こうした当たり前の想像力のようなものがこの本には決定的に欠けているのである。欠けているのは、格差社会に対する生の問題意識なしに、単なる流行現象として格差社会論を書いている証拠である。もちろん著者は問題意識を持って書いたつもりなのかもしれない。しかし、本当に問題意識があったら、Tシャツハンバーガーの男を見て「もしかしてこれが噂のニートか」といった、素人なら許せる感想文を専門家が真面目に書けるわけがないと思う。
格差社会論の先駆者である佐藤俊樹は、かつての日本は文字通り格差がなかったわけでは必ずしもなく、あくまで「中流社会」への憧れや上昇志向を社会全体で共有し、「昔よりも豊かになっていく」高度成長がそうした「中流社会」を演出可能にしてきた、という趣旨のことを確か論じていたように思う。そうだとすると「格差社会」も単なる現実と言うだけではなく、それ以上に人々の社会に対する一つのイメージであり、そのイメージが「格差」の現実を作り出していくという可能性を、少なくともベストセラーを書くような専門家たる者が忘れてはならないだろう。「やばいぞ、こんなにも格差が!」という類の本はこの辺りで打ち止めにし、格差社会における社会的な安心や秩序とがいかに可能かという方向に、議論をそろそろ持っていく必要があると考える。そうしないと、著者の意図いかんに関わらず、人々の間に「下流は嫌だ!」みたいな誤ったモチベーションを結果的に高めてしまうだけである。
2006/01/10 20:39
ユニークな社会学的丸山論
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
この10年丸山真男の再評価がなされてきた。それは国民国家の枠組みを自明にしてアジアの戦争責任には無関心だったという否定的なものから、戦後民主主義の〈始祖〉として評価する肯定的なものまで様々だったが、しかしいずれにしても、丸山真男の思想をどう現代的に意味付けるかという関心に支えられていたと言うことができる。
この本のユニークさはそうした思想上の評価にほとんど踏み込まず、東大法学部の教授だった丸山を徹底して戦後エリート知識人の象徴的存在という、社会学的な視点から描き出したことである。その陰画的な存在として蓑田胸喜や吉本隆明、全共闘運動の学生などの、丸山のようなエリート知識人になれないというコンプレックスを抱く「擬似インテリ」の存在を位置付け、丸山がこうした擬似インテリを徹底的に軽蔑していたことを明らかにしている。丸山が日本ファシズムの主導層をこうした擬似インテリに求め、「本来のインテリ」は消極的な抵抗を行ったと弁護さえしたのは、まさに彼の置かれていた社会的なステータスに関係しているという。丸山がジャーナリズムに距離を置き、批判もほとんど黙殺していたのも、こうした自分のポジションを自覚していたからであり、丸山の著作が全共闘の学生などを含めて若い学生などに熱狂的に読まれたのは、それがインテリ世界に近づくための「象徴資本」だったからである。
特にこの本で面白さは、一つにはこのように丸山が「正統派知識人」としてのポジションをいかに堅持しようとしたかという視点で描かれている点にある。だからある意味で丸山評価が辛辣で身も蓋もないと同時に、丸山の人間臭さが(本書の言葉を借りれば「下司びた心情」)が濃厚に漂っている叙述となっていて、ユニークな社会学的丸山論というだけなく、読み物としても魅力的なものとなっている。そして二つには、そうした「正統派知識人」を蓑田や吉本のような「在野知識人」を対比させていることである。そして、戦争や学生の急激な大衆化など知識人をとりまく社会的条件が大きく変動する時代には、しばしば「在野」が「正統」を(まさに「正統」の権威に安住しているという理由だけで)で激しく批判する動きが支持されていくという構図が描き出されている。
このことは、アカデミシャン丸山が好まなかったジャーナリズムという場の力が、今や「誰でもいつでも何の資格もなしに発言できる」インターネットの力によって凌駕されつつある中で、「人権」「平和主義」「アジア諸国との友好」などような、学校やマスコミにおける「正統」の言説を暴露趣味的に批判する論調が力をもつようになっている現在を考える上でも示唆的であると言えるだろう。その意味では、著者の手に余るかもしれないが、もはや知的世界の権威が完全に没落した、1990年代以降の「丸山以降」の知識人の場の変動の分析についても個人的には期待したいところである。
一つ違和感があるとすれば、丸山の「東大教授であろうがなかろうが、劣悪は劣悪」という「正論」について、自らの知識人としてのポジションを客観化する視点を欠いた「非社会学的な正論」とまできって捨てている点である。これは率直に言って、ブルデュー理論を援用した「社会学者的な暴論」だと思う。普通に考えれば、むしろ丸山は自分の「普遍的知識人」としてのポジションへの自覚を強く持っていたがゆえに、「あえて」自らの特権的地位に言及しないようにしたと言うべきだろう。