サイト内検索

詳細
検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、年齢認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. 電子書籍ストア hontoトップ
  2. レビュー
  3. 碧岡烏兎さんのレビュー一覧

碧岡烏兎さんのレビュー一覧

投稿者:碧岡烏兎

35 件中 1 件~ 15 件を表示

英語のたくらみ、フランス語のたわむれ

2004/10/31 17:51

日本語の……

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 気鋭の英文学者、仏文学者による語学、翻訳、文学をめぐる対談。機知に富んだ書名にあわせて書評の題名を考えてみようとしたけれども、内容がもりだくさんで一言で言い当てる言葉がなかなか思いつかない。
 第一章では、語学の驚異的な達人の逸話には舌をまく。ただし東大駒場を中心に話がすすむため、部外者にはわからない話もある。「駒場のよもやま」という感じ。
 第二章は、「語学のおくゆき」。二人は一致して、語学をコミュニケーションの道具とだけみる昨今の考えに反対する。言葉はもっと奥深く、幅広い。深さや広さを感じないあいさつ程度の語学ではいつまでたっても他者を理解するところまで至らない。この意見には共感できる。
 第三章以降は「翻訳のたのしみ、文学のよろこび」。ここではコミュニケーションのための言葉の奥にある、他者を理解するための言葉、すなわち文学へと話がすすむ。
 二人は完全なバイリンガルはほとんどいないという一方で、語学力を高めるためにはまず母語力を高めるべきだと口をそろえる。では、母語とは何か。日本語という英語やフランス語からすっきり分けられた日本語という言語があるのではない。完全なバイリンガルがいないように、完全なユニリンガルもいない。
 それを押さえておかないと、「まず『国語』を学ばなければ」という結論になる。日本語を学んでからでないとほかの言葉が学べないわけではない。日本語を学びながらでもほかの言葉を学ぶことはできる。いや、母語であっても言葉はずっと学び続けるもの。
 つまり、大切なことは日本語でもほかの言葉でも、言葉に対する感性を磨き続けること、感性を支える感受性を育むこと、そして他者の存在を感じようと努めること。なぜなら言葉は他者と交流するためにあるのだから。
 母語以外を学ぶのは他者を知るため、といっても自分と違う言葉を使うから他者なのではない。自分と同じような言葉を使っていても自分と同じ考えではないし、同じ表現をするわけでもない。同じ原典でも、人により時代により翻訳は変わる。翻訳と文学は、遠くの他者を知らせ、また身近な他者も教える。二人の対話は、そんな結論に近づいていく。
 元は対談ではあるけれども、雰囲気を残しながら大幅に加筆されているという。異なる興味を持つ他者と向き合う穏やかな対話は、英語とフランス語への招待であると同時に、よくできた日本語の会話表現、文章表現として読むこともできる。そこで私の読後感を一言にまとめれば、「英語のたくらみ、フランス語のたわむれ」は、「日本語のよりみち」「母語のまわりみち」となる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

魂の労働 ネオリベラリズムの権力論

2004/01/11 12:37

勝ち組/負け組を超えて、経済活動でも政治運動でもない「手に負えないスタイル」へ

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 渋谷が解説する現代、というより二十一世紀初頭の労働状況はかなり絶望的。それでも、説明が与えられ、絶望的な状況を把握するだけでも、ある程度すっきりした気持ちになるから不思議。
 かつて、フォーディズムと渋谷が括る時代には、労働が強制された。「働かざる者食うべからず」が標語となって、学校では勤勉な労働者が育成され、工場では勤勉な労働が監視された。対して現在のポスト・フォーディズムにあっては、労働はもはや強制されない。それは喜んでするものとして、人々の内面に埋め込まれている。労働は働きがい、生きがいを求めて率先してするもの。だから努力も報酬も労働の対価として全面的に肯定される。それどころか、報酬がなくても喜んで働くことさえ、奨励されている。サービス残業やボランティアがその例。
 そこでは「働かざる者生きるべからず」が標語となる。以前のように全員が労働することがもはや期待されていない。働かない者は切り捨てられる。スラムに追いやられ、生活保護は剥奪され、ただ死を待つだけの身に放置される。
 勝ち組、負け組という単純な分け方ではすまされない。今の状況が絶望的なのは、勝ち組が一方的に勝っている、つまり負け組の不幸を犠牲にして幸福になっているわけではないから。勝ち組は激しく労働し、激しく消費する。何かに強制されてしているのではない。それが幸福だと自分で思うように慣らされている。一方は機械のように労働と消費を繰り返し、他方は道端の草のように見捨てられている。どちらも人間的な暮らしではない。
 渋谷は、労働消費をくりかえす機械化人間でもなく、自然化された世捨て人でもない生き方を、スラム街で生まれたヒップホップを例にしながら考える。しかし、現在の労働事情を現代思想の最新用語を駆使して整理する前半の緻密な構成に比べると、今後の道筋を論じるために書き下ろされた終章はやや性急にみえる。というのは、「後にヒップホップは消費文化へ吸収される一方で、ブラック・ナショナリズムにも接合されていった」から。
 この一節は、ヒップホップが多様な文化を抱えたサブ・カルチャーだったことを説明する文章を導く譲歩として書かれているけれども、見逃せない重要性をもっている。なぜなら、ヒップホップだけでなく、あらゆるサブ・カルチャー、アンチ・カルチャーは、消費文化とナショナリズム、すなわち経済と政治と吸収される傾向があるから。
 そうした政治にも経済にも吸収されない生き方を、渋谷は「手に負えないスタイル」という言葉にこめている。

 誰にもマネできない「手に負えないスタイル」を有したマイノリティになること。固有性(シンギュラリティ、原文英語表記)を獲得し「サムバディ」になること——これは多数性の力を増殖させることでもある。(終章 <生>が労働になるとき)

 この結論に異論はない。こうした試みはこれまでもまったくなかったわけではなく、今もあちこちでされている。問題は、そうした個人個人の試みが、なぜ、どのようなメカニズムによって、アルバイトや副業を通じて再び労働機械に落ち込んでしまったり、ある種の政治行動や組織的な運動に吸い込まれてしまったり、要するに手に負えないどころか、手なずけられてしまうのか、という点にある。
 渋谷の論考が、状況整理が鮮やかである一方で、指針提示があいまいに終わっているのは、彼の立場が不明瞭であることを示すものではなく、むしろ、現状の不安定さを示している。それ以上に、人間存在そのものが本来矛盾を内包していながらも、その矛盾からつねに出発するほかないことを、明瞭に示しているのではないだろうか。

烏兎の庭

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

鉄道ひとつばなし 1

2003/11/08 14:14

思想史研究者の「思索の源泉」

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 目次に「思索の源泉としての鉄道」とある。この言葉は森有正「思索の源泉としての音楽」からの引用だろうか、と思ったところ、果たしてその通り。まえがきで森の一文が引用されている。
 「思索の源泉」というのは、けっして大げさな表現ではない。思想史、政治史、社会史の交差するところに立つ原にとって、近代国家の最重要交通網であった鉄道は、彼の研究の種袋のようでもある。私が注目して読んだのは、思想史や関西の鉄道に関するコラム。明治天皇と鉄道、大国魂神社、多摩御陵と京王電鉄の関係。東急、五島と阪急、小林の比較、私鉄の西高東低と帝都東京、民都大阪の類比、関西に特徴的な風変わりな駅名など。鉄道とジェンダーという問題も興味深い。
 思想史だけではない。外国人観光客に人気のある日光への特急をJRにすすめたり、観光特急を優先させ、日々乗車している沿線乗客をないがしろにする小田急に痛烈な批判をしたり、鉄道時評としても面白い。今では常識になりつつある女性専用車両についても、痴漢についての社会史的考察と合わせて、導入される以前から提案している。
 本書は、言ってみれば、思想史のフィールドワーク。身近なこと、興味のあることで気になることを調べ、調べたことをまた実地で確認する。謙遜か固辞か「真正マニア」ではないと言いながらも、楽しみながら調べ、考える態度が、本や資料を材料にした議論になりがちな思想史を、身近で活き活きした学問にみせている。
 愉快で、また卓抜と感じたのは、駅の立ち食いそばについての考察。かつて味わったさまざまな駅そばを紹介した上で、現在ではJR、私鉄系企業による味、サービスの画一化を嘆いている。こうした画一化が「日本文化の多様性」を抹殺するという見解に、共感できる一貫した主張を感じた。
 研究者、とりわけ若い年齢で本業以外の文章を発表することに、ためらいがあったこともあとがきで率直に述べられている。確かに、専門分野をないがしろにした趣味を披露しているだけのタレント学者も少なくない。本書はそうしたお気楽な「エッセイ」ではない。鉄道から思想史へ興味を深めるようになった個人的な動機なども書かれていて、思想史研究者の自己批評、つまり文字通りの思索の試みという意味での「エッセイ」として読むこともできる。

烏兎の庭

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

やまとゆきはら 白瀬南極探検隊

2003/07/02 23:00

絵本とは思えない情報量と深い洞察で、責任感あふれる探険家を描く

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 白瀬探検隊の一部始終を絵本に納めようという意欲的な作品。白瀬は、寒冷地訓練のため、けっして暖かいお茶を飲まなかったという逸話は聞いたことがある。探検のために借りた金を一生かかって返したという話は知らなかった。亡くなったのは昭和21年。江戸、明治、大正、昭和を生きた人の人生というと、まず時代背景だけでも思い浮かべるのが難しい。さらに冒険家への野心、アムンゼン、スコットとの競争、撤退の決意、無一文の晩年、アイヌ人との交流、南極の氷原に国旗を立てた気持ち、などなど、絵本に散りばめられた逸話は、どれもすぐに理解できるものではない。
 作品は穏やかな布版画で、そうした逸話を淡々と語っていく。読み終えて、もっと調べたいこと、もっと考えたいことがたくさん残る。巻末にあるあとがきは、言ってみればメイキングオブ絵本。構成、文章、絵の詳細まで、淡々とした絵本には、たくさんの配慮と決断があることがわかる。

烏兎の庭

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

「原罪」としてのナショナリズム 韓国・日本・カナダで見えてきたもの

2003/05/27 08:58

体験と学習と思索にもとづく、「ナショナリズムの克服」の実践

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 韓国で生まれ、日本で育ち、現在はカナダに住む男性。こうした境遇の人はけっして少なくない。こうした複合的なナショナル・アイデンティティをもつ人たちによる内部破壊的なナショナリズム論は登場すべくして登場したと言える。金は学者や作家ではない。企業の社員を長年してきた。ナショナリズムは理論や議論が先行しがちな分野である。その点、本書は、複合的な境遇を生きてきた一人の体験に基づいた議論が展開されている。
 体験に基づくといっても、三つの国家を渡り歩いてきて、不便な事ばかりだった、だからナショナリズムは悪だ、という短絡的な体験談ではない。著者は、自分の体験を振り返ると同時に、ナショナリズムの歴史を調べて学ぶ。そこでは、思想家の名前はほとんど出てこない。自分で学んだことを、自分の体験に照らし合わせ、自分の言葉で表現しようという著者の努力が感じられる。言葉をかえれば、ナショナリズムが学問的な問題ではなく、金にとっての生きるために切実な問題だからこそ、理論や思想家に頼らずに、自分の言葉で思索をしなければならなかったのだろう。
 本書の読みどころの一つは、著者が「神様のようなパワー」を与えられたとしたら、日本国国民とその政府、韓国国民とその政府に「いい加減に喧嘩はやめなさいと命令するだろう」と述べたうえで展開する、ご託宣である。ここには二つの国籍と文化の裏表を体験し、それをさらに別な場所で客観的にとらえなおした著者ならではの見識がある。
 神にならなくても、カナダから彼は日本と韓国に訴えている。過去の国家間関係に道徳的責任をもちだしてはならない。そうすることでかえって道徳的問題が政治的問題にすりかえられるからである。それより前に、何が起こったのか、なぜそうなったのか、それぞれの立場からで構わないから、誠実に研究すべきである。日本国国民も韓国国民も、国家の過去や現在に必要以上に感情移入する必要もなければ、してはいけない。政治の問題は、政治の問題として冷静に対処すべきだ、という主張は、神の声ではなく、一人の思索者の声として傾聴に値する。
 「原罪」という語感の強い言葉をあえて使う理由は、一人一人が意識するしないに関わらず、内在させていることを喚起するためである。現代人は、みな何らかの形でナショナリズムをもっている。それを柔軟に応用する人もいれば、頑固に自分の存在すべてにあてはめ、さらには他人に押し付け、あてはまらない人を蔑む人もいる。「原罪」からは誰も逃れることができない。自在に制御することもできない。できることは、せいぜい暴走させないことかもしれない。
 それができるのはコモン・センスしかない、と金は言う。潔いのは、コモン・センスの内実を定義しないでいることである。

 結局は、いろいろとすったもんだしながら失敗を繰りかえし、そこから小さな教訓を得てコモン・センスを磨き、こまごまと日常をこなしていく。そんな結論しかだせないのは情けないが、焦ってゼッタイテキカチキジュンなんかに飛びつくよりはましだろう(終章 愛国者の時代)。

 情けないことなどない。焦って価値基準やコモン・センスの内実まで語ってしまったり、自分だけはそれを備えていると言わんばかりに説教しはじめたりする人がいかに多いことか。
 本書は、金がすったもんだしながら思索した過程であり、彼自身がコモン・センスを磨いた場所である。そのような個人的で地道な方法でしか、「ナショナリズムの克服」はできないのではないだろうか。

烏兎の庭

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

じゅげむ

2003/05/19 21:07

テレビ「にほんごであそぼ」で人気上昇中。名前だけじゃない、話もやっぱり面白い。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

子どもがNHK教育テレビ『にほんごであそぼ』ですっかり「じゅげむ」を覚えてしまった。といっても、番組では街角でいろいろな人が長い名前をそらんじて見せるだけ。どんな意味があるのか、もともと落語であったことすら説明がない。それでも覚えてしまうのは、音やリズム自体に面白さがあるからなのだろう。それはそうとして、名前を覚えたのなら話を知るのも悪くない、いやいい機会だから話も知ったほうがいい。そう思っていたところ、手ごろな絵本を見つけた。

骨組みは落語の原作に沿いながらも、読み聞かせしやすいように繰り返しを減らしたり、原作にはない女の子を絵の中で登場させたり、現代の絵本として読ませるために細かく工夫されている。もちろん落語ならではの、語り口の面白さはそのまま。そこが読み聞かせでは難しいところ。「〜して、〜で、〜して」といつまでも文が終わらないところは、調子よく進む。そうかと思えば「あら、寝てる」の場面などは、落語ならば、仕草と間で笑いをとるところなので、単調に読み進んでいては可笑しさがでない。読み手にも一工夫いりそうだ。

決まり文句を覚えて、筋書きを知って、次は、ほんとの落語を見せたら面白がるかもしれない。

烏兎の庭

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

はるふぶき

2004/08/07 11:21

木の声が聴こえるか?絵本の声が聴こえるか?

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 現代社会では、困難を克服した者ばかりに賛辞が与えられる。困難を前に退却した者は、「弱虫」「負け犬」でしかない。でも、ほんとうは違う。
 「ちょっとむかし」の物語のなかでは、マサルを責める者はいない。村では誰でも木の声を知っているから。何がほんとうに勇気ある行動か、知っているから。
木の声が聴こえない都会では、そうはいかない。マサルは「弱虫」扱いされるだろう。自分はどうか。マサルを暖かく迎える村人のようになれるか。
 小さな子どもで、自然のなかに生きるマサルには木の声が聴こえた。都会に馴れた大人にはもう聴こえない。では、絵本から聴こえる声は誰の声だろう。作者の声、画家の声、それとも読み聞かせている自分の声。
 声が聴こえているのならば、それが誰の声でも、木の声でなくても、マサルと同じ行動をとるには、十分ではないか。いったい、いつまで「はるふぶき」のなかを積荷にしがみついているのか。
 これから大人になる人よりも、大人になった人が真剣に読む絵本。真剣に読んだ後の行動が問われる絵本。絵本から声が聴こえているならば。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ザ・ベリー・ベスト・オブ「ナンシー関の小耳にはさもう」100

2004/04/09 19:57

連載時には見えなかった思想が、まとめて読むと見えてくる

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 週刊朝日の連載から選ばれた作品を読んでみると、ナンシーの主張は思ったよりずっと一貫している。ナンシー関の一貫した主張とは、芸とは、実像ではなく虚像であるということ。

 きっと昔から、芸能人の素顔を垣間見ることを世間は喜んだのだと思う。そしてそれは今でもそうである。「素顔」とか「本音」に対する絶対的な信仰はだんだん強固になってもいる。私は、つまらない実像を垣間見ることなど、特に芸能界においてはハナクソより意味がないと思う。つまらない実像よりも心躍る虚像を、と思ってみても、すでに虚像すら消失しているような気もするが。(「水前寺清子」)

 「心躍る虚像」こそ、芸能。もうそんな虚像はない。従って、虚像をより美しくしようという切磋琢磨もない。あるのは、実像と実像がぶつかるバトルだけ。芸能人は、限られたキャラをひらすら奪い合う。視聴者は、そんなバトルを延々と見せられている。

 芸能界も音楽界も次々と新しい人材が入ってくるのである。でもそのぶん、だれかが「界」を去るというわけでもなく、その累積人数は膨れ上がる一方だ。急にポンと現れたり、急にいなくなったり、あるいはじわりじわりとフレームから外れていくかのような消え方をしたりという「様子」を見ていると、何かイス取りゲームをしているようでもある。取りたいイスがどれであるかはいろいろだろうが、衆人環視のなか、尻を割り込ませたり、逆にはじき飛ばされたり、というバトル真っ最中にいる人たちは、そのイス取りの様子を見せることも「芸能(最近は音楽もだが)活動」のひとつということになっているのだから、日々是決戦に精を出すわけである。(「西城秀樹」)

 テレビや音楽だけではない。映画、演劇、文芸、報道、広い意味での論壇までも、最近ではイス取りゲームに見える。
 何かの事件が起きる。何が起きても、誰もが我先にとコメントする。そこではコメントの中身よりも、どうコメントするか、それが他人とどう違うか、それだけが大事。
 論壇の世界も、「心躍る虚像」ではなく「つまらない実像」ばかり。誰もが論壇の中で何とか居場所を確保しようとイス取りバトルに狂奔している。そういえば、お笑い芸人が多人数のゲストと丁々発止に会話をこなす「百人組手的なトーク番組」は、弁のたつジャーナリストが政治家から左右の論客までに満遍なく発言の機会をあたえる討論番組によく似ている。
 ナンシーは、「降りてくる」という表現を使う。ドラマや歌のように限定された仕事だけをする芸能人が安直なトーク番組にでることや、自分が主役の番組にしか出なかった芸人が、格下の芸人が司会する番組にゲスト出演すること。こういうことは、論壇にもあてはまる。
 論文や小説しか書かなかった学者や作家が、週刊誌に書いたりテレビに出るようになる。いつの間にか、専門分野や得意とした分野以外のことにもコメントするようになる。しまいには政治芸能何でも語りだす。
 「語り」は、虚像ではなく実像の世界の言葉。研究もなければ準備もいらない。ところが、語っているほうは本音を吐き出すだけだから気持ちがいい。だからますます思いつきを語るようになる。

 そんな誰にも聞かれることも納得されることもなかった「語り」が行き着く終着の浜辺みたいなところがあったら恐ろしい。でも、そうゆう所はなくて、「語り」のゴミたちは語った本人に戻って蓄積するのである。だから、誰も聞いちゃいなくても、語らせてはいけないのである。語った本人にだけそれは事実として積み重なり、次はもっとすごいことを語るのだ。これが増長のメカニズムかもしれない。(「神田うの」)

 「増長」と聞いて思い当たる人が、芸能人以外にもたくさんいる。

烏兎の庭

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ちひろ美術館ものがたり

2004/03/26 07:27

家業絵本美術館

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者は、いわさきちひろの一人息子、松本猛の妻。正確には、妻だった人。まだ芸大の学生だった頃、まだ五十歳を過ぎたばかりで病に倒れたちひろの病室で、結婚式をあげる。しばらくして、ちひろは帰らぬ人となり、残された作品を展示する美術館を夫婦で始めることになる。
 家業が美術館という人はめったにいない。まして、夫の母親の作品を展示する美術館を経営する夫婦というのも、きわめて珍しい。今でこそ、文学館や画家、俳優の記念館なども華盛りだけれども、ちひろ美術館が開館した二十五年近く前には、個人の、しかも絵本画家の美術館など、まだ未知の施設だった。
 結婚、美術館開設と思い切った決断のあと、怒涛のように年月が過ぎていく。美術館の設立、発展には、多くの人々が関わった。そうした有名無名の人々の表情をまじえながら、本書は、家業美術館の二十年間をたどる。ちひろと美術館を一躍有名にした黒柳徹子との出会い、彼女が『窓際のトットちゃん』を美術館で執筆していたことや、松本らと挿画を選んだことなども、本書には書かれている。
 どんなに素晴らしい仕事をした人でも、いつかは亡くなる。人が亡くなっても、作品や多くの遺品が残る。とはいえ、時代の移り変わりが激しい現代にあっては、新しい作品を生み出さない故人は、あっという間に文字通りの過去の人になり、忘れられていく。そういう流れに逆らって、自分がいいものだと思ったものを残す仕事は、並大抵の困難ではないだろう。
 そうした仕事があって、ちひろは今も第一線の画家として、ある意味では生前以上に活躍している。それは、ちひろの作品に人々をひきつける魅力があることはもちろんのこと、それを広める仕事を続けた松本夫妻の仕事があったから。いいものだから残るわけではない。いいものだと信じた人が残す努力をしてはじめて、作品も人も記憶に残り、歴史に残る。
 松本は、もともといわさきちひろの絵画にも、美術館にもたいして興味はなかったという。ところが、美術館経営を通して、彼女は自分が秘めていた平和運動への思いに目ざめていく。その一方で、大きな責任を果たしているにも関わらず、美術館の内外でつねに「ちひろの息子の妻」としか見られないことへ苛立ちを隠しきれない。それは、なぜ、ちひろの絵を世界へ知らせる仕事をしているのか、彼女自身が自問自答しながら、答えきれずにいる苛立ちでもある。本書は、一人の女性が家業から事業に目覚め、そして自分自身の仕事を見出していく過程として読むこともできる。
 松本は、文字通り、家業と家庭の台所を切り盛りしながら、四人の子どもを育てあげる。本文でも文庫版あとがきにも書かれていないけれども、奥付には、一九九八年に猛とは協議離婚したと書かれている。それでも、彼女は現在もちひろ美術館・東京の副館長、財団法人いわさきちひろ記念事業団事務局長の職にある。
 詳しいいきさつはわからない。東京に加え、安曇野にも広がった美術館事業と、ところどころ本書の文章からも伺われる勝気な性格から想像すれば、今、彼女は、「いわさきちひろの息子の妻」としてではなく、一人の女性、松本由理子として、ちひろの絵を広める仕事をしているのだと思う。

烏兎の庭

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ナンシー関消しゴム版画

2004/01/03 08:07

消しゴムアーティストは、版画のなかでも辛口コピー・ライター

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ナンシー関が亡くなって一年以上が経つ。傑作コラムを集めた本も出版されている。文章も魅力的だけれど、彼女のコラムは速報性に最大の魅力があったことは否定できない。ワイドショー、ドラマ、バラエティ番組。見たばかりで自分もよく覚えている場面について、ナンシーは、気づいてもすぐ忘れてしまいそうな些細な点を、わざわざほじくりだしてツッコミを加える。
 ふつうの人なら酔った勢いでつぶやくようなことを、彼女はあえて大真面目に文章にする。確かに覚えている。でもあの些細な発言をそこまで拡大解釈するか。彼女の文章にはそんな驚きがある。そういう文章をいま、まとめて読んでみても、週刊誌や月刊誌で読んでいたときのような爽快感は得られないような気がする。
 文章も魅力的だけれど、ナンシー関といえば、やはり消しゴム版画。文章抜きで版画を眺めれば、文章を読む以上に量もこなせる。ただし、ここでも目が行くのは、版画じたいより、版画に添えられたひとこと。これを読んでいると、彼女が辛口コラムニストであると同時に、希代のコピー・ライター、見出し作家であったことがよくわかる。
 あるタレントに対して視聴者がもつイメージは、タレントが意図しているものと同じとは限らない。むしろ、少しずれたところに視聴者のイメージは落ち着く。
 そうしたずれは、キャラの似合わない番組や広告、迂闊なエピソード、そして予期せぬスキャンダルなどがつくる溝。あるいは、狙ったとおりのイメージを投影することができたとしても、そのイメージが、意図したとおりに受け止められるとも限らない。シリアスな演技が、大根役者を暴き出すこともあれば、素朴なコメントが庶民性を引き出すこともある。
 ナンシーの文章は、そうしたずれを徹底的にかきむしる。版画に添えられた一言は、一言でその人物のキャラを見事に表わす。ナンシー以外ではできない際どい表現も少なくない。その意味では一発芸であり、同時に必殺の一撃でもある。
 また、取り上げられる人物は、テレビタレントだけではなく、映画俳優、政治家、文化人から過去の文豪や哲学者まで幅広い。顔と名前が一致するか、一言で笑えるか、その出典を説明できるか、版画を見ながら考えてみると、いかに自分がムダな知識をもっているか、あるいはもっていないかがわかって、楽しかったり悔しかったりする。
 優れた芸術家はみなどこか偏執的である、と聞いたことがある。その言葉はナンシー関にもあてはまる。水野晴郎、森繁久弥、桂歌丸、タモリ。気に入ったタレントは、何回も繰り返し彫っている。本書では、版画だけではなく、高校時代に初めて彫ったゴダイゴのロゴをはじめ、版木ならぬ版ゴムの写真も集められている。桂歌丸が12個並ぶ姿は壮観。
 本書は、編集にも一工夫ある。別々なところで発表された矢追純一、立花隆、山本譲二、向井千秋を宇宙、UFOつながりで並べるなど、ナンシー作品の幅の広さ、ツッコミの面白さをあらためて体感できる。
 ナンシー関が陣取っていた場所はいまも空席のまま。テレビの世界を映像と文章、おまけに一言のコピーで斬るような人はいない。どの雑誌も争うように似たコラムを掲載しているけれど、どれも似て非なるもの。最大の違いは、自分にツッコミできるかという点。

カッターと生きる

この言葉の添えられた自画像で笑わせられるようでないと、ナンシー関を継ぐことはできない。

烏兎の庭

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

本に願いを アメリカ児童図書週間ポスターに見る75年史 1919−1994

2003/11/02 17:20

二十世紀、米国絵本の社会史

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 合衆国の児童図書週間の歴史をポスターでたどる本。詳細な序文や、画家の紹介文を読みながら、歴代のポスターを見ていると、絵本史はもちろん、二十世紀の米国社会史、商業芸術史、さらには広告コピー文の歴史の一面が見えてくる。
 例えば、三〇年代に見られる保守的な家庭の風景、戦中のプロパガンダ的な標語や図柄、終戦直後の希望を込めた理想主義的な意匠、六〇年代には『ゆきのひ』で初めて絵本で黒人少年を描いたエズラ・ジャック・キーツによって黒人の子どもたちがポスターに現れ、多言語絵本をつくったアントニオ・フラスコーニも起用される。
 七〇年代には、『ふたりはともだち』のアーノルド・ローベル、『ババール』シリーズのロラン・ド・ブリュノフが登場し、動物やそれらを基にしたいわゆるキャラクターが多数登場しはじめる。ユリ・シュルビッツも一九七六年にファンタジックな絵で採用されている。九〇年代は、コミック調あり、リアリズムあり、シュールレアリスムありと、年により、また画家によりまったく趣味が違っていて、一つの時代の雰囲気をつかむことが難しくなっていることを物語っている。
 著者マーカスは、「はじめに」のなかで絵本の世界は、公共図書館を重要な発信地としているために、時の政策によって簡単に隆盛したり、消沈したりすると指摘している。現在では、商業規模こそ増大しているが、質の面ではむしろ後退しているのではないかと、マーカスは疑念を呈する。

 75周年を記念する児童図書週間が近づいても、アメリカが読書家の国になりえていないのは、明らかなようである。公共図書館は、財政面でも志気の面でも混乱した恥ずべき状態のまま放置されている。民間のマスメディアは、この国の児童の読書能力の低さを、折さえあれば非難するばかりで、多くの人々が知りさえすれば、数限りない子どもを生涯本好きにするかも知れない本についてきちんと論ずる番組や紙面を、ほとんど提供してはいない。

 このような疑問や不安は、合衆国に限ったことではない。上のような事態は、日本国を含めて先進国ではどこも似たようなものだろう。合衆国における絵本の象徴ともいえるポスター史を眺めながら、絵本を「民主的な社会の最重要問題の一つ」として再考することを、マーカスは提案する。
 商業主義に覆われたという点では似通っていても、合衆国と日本国では、絵本をとりまく事情は微妙に違う。この点を踏まえて、訳者はさらに日本語絵本への批判をこめて書く。

 日本には、読み書きのできない子どもはとても少ないという意味では、恵まれているといえるのかもしれまんせん。けれど、それだけに子どもの本に願いをこめる熱意に、差があるようにも思われます。とにかく「実益」先行といった風潮の中で、忙しい日々を送る日本の子どもたちにも、今こそ、ゆとりある本の世界をと、願わずにはいられません。(訳者あとがき)

 「ゆとりある本の世界」とは、いい響き。最近は、「元気が出る」だの「友達の大切さを知る」だの、絵本の帯にまで「実益」が宣伝されている。「進め、本とともに」「本で未来を築こう」「本でひとつに」。読書が何か「実益」を生むと考えているのは、どれも戦中の標語。本に直接利益を求めるのは、むしろ社会が不健康な証拠ではないか。
 絵本は確かに有益に違いない。けれども、ご利益を生むような読書は、実は無益な楽しみからしか生まれない。標語に戦時色が出ていない時代の標語は、どれも本を読む楽しさだけを呼びかけている。

烏兎の庭

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

在日外国人と帰化制度

2003/10/29 21:31

「日本人」とは誰のことか?

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 年間16,000人近い人が外国籍から日本国籍へと変更、すなわち「帰化」しているという。この数字は、日本国の人口全体や諸外国の移民数と比較しても、けっして多い数字ではない。それでも実数としてこれだけいるということは、年々「日本人」の多様化は進んでいるといえる。
 浅川は、帰化制度の実情、帰化手続きの実際、帰化経験者の実感をまとめながら、国籍を「観念としての国籍」と「現実としての国籍」の二つの概念に分ける。そこから日系米国人のように、韓系日本人のような考え方ができないかと提案している。
 従来の使い方では「観念としての国籍」を「現実としての国籍」に重ね合わせる傾向が強かった。「日本人」とは、日本文化を身に付けた日本国籍保持者、いわば日系日本人、という考えである。この傾向からは、前者を後者の必要条件とする考えが生まれやすい。「これを知らなければ日本人でない」「日本人ならこうすべき」となり、個人の思想、良心の自由を侵す恐れがでてくる。
 浅川の提案する考え方は、国籍変更者がもつ複合的なアイデンティティに内面的な整合性をもたせることができるだけでなく、この国で、同じ国籍をもつ両親から生まれた、いわゆる生粋の「日本人」を無意識に抑圧する単一的なアイデンティティを解放する可能性をもっているし、また、そう機能しなければならない。

 もし、日本が政策として移民を受け入れるとすれば、それは単なる労働力であることは到底許されない。社会のフルメンバーとして受け入れる前提がなければ、単なる「二級市民」を生産するのみである。そうした意味で、受け入れる側の自己規定の変革が視野に入らなければ、それは単なる労働力移入に終始するであろう。そうした意味で、日本人概念の再構成は、日本の「あるべき姿」という視点を確立する作業の中で、長期的な視野をもって行われなければならない。(終章 提言:今後の日本国籍に向けて)

 浅川が分析し、また多くの体験者が語るとおり、日本国の国籍変更は、人数、手続き、精神的な配慮のいずれの点から見ても、まだまだ充分とはいえない。今はまず、政策上の改善と国籍概念の明確な区分が必要なのだろう。
 それには同意したうえで、やはり問いたい。「観念としての国籍」は必要なのだろうか。国家という行政機構が厳然とある現代社会にあって「現実としての国籍」なくして生きることはほとんどできない。だから多くの場合、人は「現実としての国籍」を一つだけ持つ。
 対して「観念としての国籍」はあくまでも観念であり、誰もが一つだけ持つとは限らない。むしろ一つと限定することは、「現実としての国籍」との齟齬を生んだり、過剰な密着感を生みかねない。日系といっても、キムチも食べれば、パスタも食べる。韓系といっても、初詣も行けば、ロックも聴くはず。その意味では、いまや誰もがクレオール系である。
 「日本人」概念の再構成は、「現実としての国籍」に多様性を認めていくことだけでなく、「観念としての国籍」を分解していくことでもなければならない、と思う。

烏兎の庭

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ぼくは弟とあるいた

2003/08/17 16:37

微笑ましい冒険譚から戦争のあとさきを考える

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 子どもは経験が少ないので、置かれた状況を苦しいと感じる前に、そこに楽しみを見出して順応しようとする。戦火を逃れて疎開することすら、この兄弟にとってはちょっとした冒険。苦しいのは、圧政のせいじゃない、おなかがすいているだけ。こわいのは戦争のせいじゃない、夜が暗いだけ。
 しかし、戦火は着実に近づいている。兄弟が祖父母の家に着いたとき、両親が住む町はすでに燃えているかもしれない。このまま、慣れ親しんだ家には帰れないかもしれない。
 そういう過酷な「その後」はこの絵本に描かれていない。この兄弟はなぜ旅をしているのか、この物語にどんなことが起こるかもしれないのか、そうしたことは誰かが話してやらなければいけない。
 話したところですぐにはわかるまい。それでも、小さなときにこの絵本を知れば、何度も繰り返し読んでもらい、また自分で読むうちに、想像するようになるだろう。この物語の前と後にどんなに苦しい、悲しい物語があるかを。
 本書は、対比をこらして明るい挿話で苦しみを、朗らかな表情で哀しみを映す。戦車も爆撃機もでてこない、「楽しい」戦争の物語は、想像力のなかに反戦の種を蒔く。

烏兎の庭

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ペローのろばの皮

2003/07/15 08:47

大人にとってはサスペンス、でも子どもにとっては、やっぱり童話

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「ほんとうは怖い童話」という名のついた本がベストセラーになったことがある。確かに原作に忠実な本作は衝撃的な展開。とはいえ、可愛らしい絵を見ながら読み進むと、子どもにとってはやはり童話である。
 子どもは無邪気に親と結婚したいという。素直な愛情表現。同じことを親が言い出したら大変なことになる。まして妃を失った王が言い出したとなれば、国中大騒ぎになる。お伽話らしい紆余曲折をへて、大団円に終わる。悲しみから壊れた王も、結末では理性を取り戻し、男親としてはほっとする。
 子どもが結婚というとき、それは法的な結婚を意味しているのではない。二人の人間が並んで写真に納まることを結婚だと思っている。結婚とは、仲良しのことに過ぎない。
 子どもは「戦い」がしたいという。でもそれはほんとうの戦いを意味しない。じゃれあうことを戦うといっているに過ぎない。彼らからすれば、ウルトラマンと怪獣は遊んでいるように見えるのかもしれない。
 子どもの言葉は、大人の言葉とは違う。語彙が少ないから、簡単な言葉で広い意味を表そうとする。それが親をどきりとさせることがある。結婚にしても、戦いにしても、親が思うほど、子どもは狭い意味で使っているのではないようにみえる。
 子どもにとっては童話でも、大人にとってはどきりとするサスペンス。面白いと思う絵本は、いつも多面的で重層的。「読んでもらいたい」と「読み聞かせたい」が交差するところにある。

烏兎の庭

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

小林秀雄のこと

2003/06/25 04:57

小林秀雄再評価のために、日本語の外側から小林秀雄を考える

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 二宮は、「近代の超克」と題された一九四二年の座談会での、小林の発言と沈黙を手がかりに小林の時代に抗う姿を浮き彫りにする。戦中の小林秀雄を理解するのは難しい。「無常といふ事」ですら厭戦的と警告された時局を想像することが、まず容易でない。まして、そうした状況で直接政治的な発言、行動によってではなく、文学のなかで文学の独立性を問うことによって時代に抗うという姿勢は、時局におもねたという平板な理解に陥りやすい。
 これに対して、二宮が明らかにするのは、戦争の政治的な是非だけを問いかけたり、近代の超克を単純に公式化したりしない、言わば疑い続ける批評家の姿である。戦争の拡大は知識人に政治的な態度表明を迫った。ある者は体制寄りへと転向し、ある者は抵抗を続けた。しかし政治化するという意味では、いずれも時局に溺れていることに違いはなかった。これに対して小林は、事態を政治に還元せず、自分の思想、文学の問題として引き受ける。二宮の論考に従えば、その苦しみから「無常といふ事」が生まれたと理解すべきなのだろう。
 知識人に求められるのは、政治的な態度表明ではなく、政治的になっている問題の虚像を暴露し、本質的な問題を明らかにすることであると、サイードは『知識人とは何か』で述べている。本書は、そうした不屈の知性を備えた稀有な知識人として小林秀雄を描く。サイードはまた、知識人は知的亡命者であらねばならないともいう。複数の文化を生きることによって、自己を相対化することができるからである。
 複数の文化という意味では、小林秀雄は日本の古典だけでなく、フランス文学とロシア文学を通じて、自己を疑い続ける術を学んだ。小林は漱石、鴎外など明治期の日本文学にほとんど関心を示さなかったという二宮の指摘は、日本文学にどっぷりつかったのではなく、異なる視点から日本文学、日本文化を見つめたということを示唆する。
 また、そうした小林秀雄の知的亡命を見出すことができたのは、二宮自身が日本語とフランス語という二つの世界を行き来しながら考えを深めている、すなわち彼自身が知的亡命を続けているからに違いない。「近代の超克」を主題とした第三章は、もともとフランス語で書かれたものだという。そこには予備知識がない人にも理解させるために、小林秀雄という一個人から、知識人のあり方という普遍的な問題をできるだけすくいだそうという姿勢が見られる。
 小林秀雄は決定版の全集発刊以来、再評価の兆しが見られるらしい。私自身、昨年の「小林秀雄展」をきっかけに新しい全集を読み始めた。懸念するのは、小林秀雄の再評価といった場合に、日本文化の複雑性、多様性を捨象し、自分勝手に選び出した文化財や風景だけを疑いもせず賞賛する勢力によって、日本文化礼賛者として小林秀雄が再び教祖にまつられてしまうことである。本書のように、客観性、普遍性をめざした研究が、そうした安易な読解に対する防波堤になるのではないか。
 二宮は、『森有正エッセー集』の編者でもある。本書でも、日本語を基点に、それを疑い、磨くことに専心する小林秀雄と、母語をいったん離れ、フランス語の理解、表現から日本語表現を追究した森有正がところどころで対比されている。同じ著者による「母国語は宿命か——森有正と小林秀雄」をあわせて読むと、日本語での表現にこだわり続けた小林秀雄の執念が、より客観的に浮かび上がってくる。

烏兎の庭

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

35 件中 1 件~ 15 件を表示

本の通販連携サービス

このページの先頭へ

×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。