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北祭さんのレビュー一覧

投稿者:北祭

114 件中 1 件~ 15 件を表示

延長、また延長

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 読書は楽しむもの。こう考えて本を読むのはとても気楽なことである。しかし読書も度が過ぎると娯楽の域をこえ、一つの疑問がわいてくる。

 夜、ラッキーストライクの箱と本が手もとにないと中毒の症状が出るという開高健もまた、読書人の抱くあの疑問に取りつかれていたようである。

「これまでの行路で生そのものに教えられたことと本から教えられたこととどちらが多いか。駅で電車を待つあいだにときどきそんなことを考える。
 読書そのものが生の体験の一つなのであるからこれはおのずと答えがきまっているようであり、愚問のようにも思える。たいていハッキリした答えがつかめないうちに電車が来てしまうので、この返答はいつも先へ延ばされる。延長、また延長をつづけて今日に至る難問である」

 今宵、この本の、この行を読んだとき、ページをめくる指が止まった。

「…延長、また延長…」

 貪欲に、生き、そして読む。

 さて。これからまた、存分に、終わりのない延長戦に挑むとしよう。

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「歴史に学ぶ」ありかた

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 渡辺氏の「あとがき」によれば、<とにかく現行(平成9年当時)の中学(歴史)教科書のすべてを通覧して、谷沢氏とともに肝が潰れるような思いがした。これがこの対談の起源である。P285>とある。
 それら教科書の特徴は、第一に、わが国の美点・日本史の特色なるものがいっさい書かれず、第二に、いつの時代においても圧制による庶民の弾圧が行われるとして日本史が暗黒に描かれ、第三に、アジアにおいて日本は悪い事ばかりを重ねていたということが強調されている点なのだという。著者は、その教科書から要所を抜粋して批判を重ねる。抜粋の前後の文が分からないので鵜呑みにするわけにはいかないが、確かに反日的歴史観であるのだという感じを受ける。
 本書を読むと、そもそも「歴史」とは何なのかということについて問わざるを得ない。「歴史」を学びそして語る上で重要なことは何か。谷沢氏が国文学の師から言われた言葉がある。
 <過去の常識に遡ることはどれほどむずかしいことか。それには粒粒辛苦勉強するしかない。しかし、過去の常識を掴んだ者だけが学者なんだよ。それ以外の者は評論家なんだ。谷沢くん、評論家になっちゃいけないよ、学者になりなさい。P134>
 この言葉が胸に残る。
 教科書の批判に限らず、学者に限ったことでもなく、「歴史」に触れるときは常にこの様な姿勢が必要なのだと感じた。日本人が「日本史」を学ぶとき、当時の日本人がもっていた常識・良識を理解し、真摯で理性的な態度によることが重要なのだと。そうして得た「歴史観」を土台として客観的な歴史的事実を学ぶなかで、反日的である他国からの見方もひとつの「歴史観」であることを理解する。そうしてこそ、まっとうな人としての生き方、国のあり方について「歴史に学ぶ」ことが出来るのではないだろうか。

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紙の本言わなければよかったのに日記

2005/05/29 00:58

ナンセンス文学のはじまり

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

・『楢山節考』の著者・深沢七郎の随筆集。表題の日記は、正宗白鳥、石坂洋次郎、武田泰淳、伊藤整、井伏鱒二らとの思い出ばなしで、一読すれば苦い笑いが止まない。<これはとほうもなく鋭い、ナンセンス文学のはじまりかも知れない>といったのは開高健であった。まったくおっしゃるとおりである。

<ボクは文壇事情を知らないから時々失敗してしまうのだ>、日記はこう始まる。まさか、第一回中央公論新人賞を受賞した作家が何も知らないわけがないよ。。。こう考えてしまうと、深沢七郎を甘く見ることになる。

・深沢七郎が正宗白鳥宅をはじめて訪れたときのこと。家のお庭に池がないことに「変だな?」と思いながら<白鳥の好きな人だとばかり思っていたのに>などとつぶやきつつ、あとを続ける。

<椅子に腰かけて話をして下さるのを聞いているうちに気がついたのは、銘酒で有名な菊正宗の本家の跡取り息子にでも生まれた人ではないかと思った。そんなふうな、大家の家柄の生れの人だと気がついた。そう思えば先生の生まれた家には白鳥が住んでいるような池があるような気がしてきた。念のために、
「先生は酒の・・・、菊正宗の・・・?」
と伺うと、
「ボクはそんな家とは何の関係もないよ」
とおっしゃった。今、考えても、まずいことを云っちゃって、と悔やんでいる>

・ああ、言わなければよかったのに。でも、確かに、正宗白鳥なんていう名前は変テコではある。ほんとうに、まっすぐ聞いてしまうところが深沢七郎の凄いところである。

・深沢七郎は或る変な雑誌にのっていた切りぬきを持ち歩いていた。「作家小唄」という歌である。どこへ行ってもポケットから出して見せるのだ。伊藤整宅を訪れたときのこと。

<伊藤先生にも「作家小唄」の切りぬきをご覧に入れた。

〜ハア・・・
いやだいやだよ ホンヤクものは
雨も降らんのに 傘を貸す
アラ ホラさのさ ゝ

目は通したらしいが読んだりはしないのだ。
「なんですか? これは?」
ときかれて、歌の意味を質問されたのだとボクは勘違いしてしまって、
「雨も降らんのに傘を貸すということは、濡れぎぬを着せられるという意味らしいですよ」
と説明してしまったのである。
「いや、この、切りぬきの歌は、なんの雑誌にあったのですか?」
と云われた。(まずかったなあ、こんなもの出してしまって)と思うと、恥ずかしくなって、クシャクシャにまるめてポケットの中へ押し込んでしまった>

・ああ、よりによって。。。言わなければよかったのに。

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紙の本辺境で診る辺境から見る

2003/08/19 00:49

アフガン人の心でみる

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アフガニスタンの空爆、タリバン政権の崩壊、その後の復興支援。日本でもテレビ画面や新聞紙面を賑わせたが、最近ではそのニュースも途絶えた。しかし、なにかすっきりしない疑問が残る。アフガニスタンという国についての情報が、あまりに偏向してはいまいか…このことである。

 本書の著者・中村哲は、ペシャワール会現地代表、PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長として、1984年からパキスタン北西部〜アフガニスタン北東部〜アフガニスタン首都カブールの地で、ハンセン病撲滅・診療所の設置・井戸掘削という日本最大級のNGO事業を率いてきた偉人である。
 本書は、自身キリスト教信者でありながら、現地の人間と深い信頼で結ばれている著者の視点から見たアフガニスタンの実情が綴られる時事評論・随想録である。細かい政治論はない。アフガニスタンの国柄を、アフガニスタンの大地に生きる民の心中に見る。

 全ページ、目の覚めるような話ばかりである。例えば、タリバンによるバーミヤン仏跡破壊が国際的非難を浴びたことは今も記憶に残る。あの事件の頃、ユーラシア大陸を未曾有の大旱魃が襲っていた。アフガニスタンでは、百万人が餓死寸前という鬼気迫る状況であった。元来、「天災は神の怒り」だとする東洋的思想を持つアフガン人の中の先鋭であるタリバンの一部が、「偶像破壊を実施して身を清め、神の許しを乞う」という、云わば「雨乞いの儀式」として仏跡破壊に臨んだのだという。国民の九割が、神に祈りを捧げ豊作を祈る昔ながらの農民なのだという事実を理解する必要があると説く。だから、仏跡破壊が正しいというのではなく、著者は、仏跡破壊のニュースの陰で、大旱魃により百万人が餓死寸前という事実を軽視する西欧諸国の態度に疑問を呈するのである。
 また、タリバン政権の実施した厳格かつ残忍な「イスラム法」とは、実はアフガン農村社会の伝統習慣なのだという。この習慣法なくして、村々の秩序は保てず、ほとんどの下層市民はタリバンの圧倒的な支持者であったとする。旧ソ連軍の精鋭10万人の大軍をもっても制圧できなかったアフガニスタンの広大な国土の九割が、兵力わずか二万人のタリバン政権で支配され続けたのはなぜか…それは、民衆の殆どがそれを歓迎したからだと著者は断言する。タリバン政権の崩壊後には、無秩序が解放されているのだと指摘する。

 おそらく、本書の情報はアフガニスタンに寄りすぎているのだろう。著者は医者である。現地の病人を労わるが故に、現地の色に深く染まってもいよう。しかし、旱魃や空爆で多くのアフガン人が死ぬという忌まわしき事態を、もうこれ以上起こさせないために、アフガン人の声を聞いて欲しいとの著者の思いは無視できるものではない。アフガン人の日本に対する好意は、もはや風前の灯だという。今こそ、敢えて深く染まったその声音を聞き、これまでの偏向した情報を正すべき時ではないだろうか。

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アンチロマンからの逸脱

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

阿久悠氏が日記を書く上で貫いていたのはアンチロマンという姿勢であった。
自画像や心情を書かないという姿勢である。
それには理由があった。
かつて阿久悠氏は、日記に自画像を書いていた。すると、日記がまるで鏡のように歪んだ顔を映し出してしまい、書けば書くほど沈んでいったのだという。それが嫌で、自分にしかないアンテナにふれたことをニュートラルに書き綴ることを信条としていた。

二〇〇一年の夏、阿久悠氏はガンの告知を受けた。
たまたま受けたCTスキャンによって発見されたのだという。
その次の年から、阿久悠氏の日記に変化が現れる。
無意識のうちに生命を優先し、遺言を意識しているように。

それは、アンチロマンからの逸脱であった。

阿久悠氏は本書を通じてアンチロマンとしての日記を語っている。
しかし、せっかく語った話を全部否定してしまうかもしれないのに、アンチロマンでは終らなかったことを告白したのであった。そこに阿久悠氏の真の姿をみる。

本書は、日記の書き方の一般論として読むことはできない。情の塊のような詩を創ってきた人であればこそ、アンチロマンの日記を活かすことができたのだという、そのことを抜きには語れない、阿久悠氏だけの日記論である。

阿久悠氏は、目にした訃報をすべて日記につけていたという。それは、故人の生き様や生きてきた時代を思い出させてくれる。阿久悠氏は、それをロマンといった。

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紙の本小説の秘密をめぐる十二章

2005/11/28 21:11

創作ことはじめ

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者自らの経験と文学小説への思いを軸に、芥川龍之介、谷崎潤一郎、佐藤春夫などの言葉を折々に引きつつ、これから書き始める若い人たちに向けて語られる小説作法。

 小説をどう書き始め、何を書き、いかに終るか、それらが全十二章にわたり順を追って綴られている。今流行の文章作法の類にみられる技巧論とはひと味ちがう。

 第一章は作家デビューについて。

 まず、マーク・トウェインの自伝の言葉が引用される。トウェインは、素人が原稿を売り込み評価されようとする態度をみて「訓練を受けていない一兵卒は准将の地位に自分から立候補するようなことはしない。ところが素人作家のすることといったらそういうこと」だといい「厚顔無恥」だといって嘆く。

 しかし、著者はいう。「創作についての私の認識はちがう」と。考えてみれば、「人が習慣的に母国語を学ぶ時間は膨大」で、何か書きたいという創作欲を覚えるころには、とうに日本人であれば日本語をマスターし終えているのであって、たとえば、それはオペラ歌手志願者の勉強の程度とは比較にならない。そして、小説の表現手段は「言葉・文章」である。母国語である。こと小説に関していえば、素人の第一作目の傑作はありえるのだ。

 第三章には、創作における冒頭の重要性について語ったこういう文章がある。

「仮りに、四百字詰原稿用紙100枚の小説を書こうとして、先ず最初の一枚を書いたとする。その場合の一枚は、100キロの道程のうちの一キロを歩いたのとは、全く性質が異なる。一枚書くと、作品全体の水位が一パーセントあがり、二枚目を書けば全体の水位が二パーセントあがったことになる」

 文学小説は生き物であり、まるで嬰児が次第に育つのごとくに、徐々に成長してゆくものであるというのである。未完であってもすぐれた小説とはこうして生まれる。

 かつて、開高健は小説の展開は書いてみなければ分からないといった。著者の喩えに、開高健が云わんとしたことにつながるものがあるような気がする。開高健の小説には、水がめに水を注せばじわりじわりと水かさの増してゆくように豊潤な言葉の蓄積と構成の膨張とがあった。

 本書には、実作家自身にしか表現できないような、ある種の優れた小説にしかない「感覚」を伝えたいという意気、ぜひ若い人たちにそういうものを書いて欲しいという願いに満ちている。

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紙の本新しい生物学の教科書

2005/02/15 23:41

生命は死すべき運命にはない

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 現代生物学の進歩は驚くほどはやい。高校生の「生物の教科書」はつねに修正されねばならない時代である。ところが、その教科書には間違いや説明不足が山ほどあるらしい。ましてや文科省の検定制度にそう教科書が面白いわけもなく、これを放ってはおけないとの思いで著者は筆をとった。
 
 本書は、生物学の基本知識をもつ読者に向けエッセイ調で自論(構造主義生物学による種の多様性や進化についての考察)を巧みに提示する。話題は生物学全般にわたる。免疫などの説明不足の章もあるが、「進化のしくみ」「生物多様性」「寿命と進化」あたりには心にのこる箇所があった。

 自然選択の実証例として有名な「オオシモフリエダシャク」という蛾の話がある。イギリスの工業地帯において、もともと白かった蛾が適応的に進化して黒っぽくなったというもの。これを工業暗化といい、教科書には煤煙で黒くなった木の幹に蛾がとまっている写真がむかしからあった。突然変異により黒っぽくなった蛾は、白っぽい蛾よりも鳥に狙われにくく、生き残りやすいというわけである。

 ところが、近年、これには疑問が呈されているという。蛾の写真は人為的なやらせの疑いありとのことである。じつは、オオシモフリエダジャクは自然状態では木の幹にとまる習性がないという。さらに、別種の蛾の幼虫に硝酸鉛やマンガン化合物をエサに混ぜて食べさせることにより、黒色型の変異を誘発することに成功した例があるというのだ。このことは、特定の物質が生物の表現型の変異にある方向性をもたせるきらいがあることを示唆する。自然選択の実証は想像以上にむずかしいもので、教科書の丸呑みでは済まされないようである。

 また、高校の「生物の教科書」には寿命や老化についての記述はまったくないのだという。驚きである。命の神秘、儚さ、かけがえのなさ、を伝えるには避けられない命題のはず。ここで著者は生物の死すべき運命について論考をすすめる冒頭でこう語る。

「ほとんどの人はおそらく、生命は死すべきものだと信じているに違いない。私がここで、死すべき生物は実は例外で、地球上の大半の生物は死すべき運命にはないのだ、と記しても、にわかには信じないだろう」

 地球上でもっとも成功し現存量の多い生物はバクテリア(原核生物)である。このバクテリアは遺伝的には死がプログラムされておらず偶発事故を除けば死ぬ運命にはないという。

 それに対してヒトの体細胞は二倍体で、その分裂回数の限度を決定する遺伝子が存在する。分裂が約50回(ヘイフリック限界)を超えると寿命が尽きてしまうのだ。しかし、ヒトの細胞は巧妙に保険をかけていた。生殖細胞である。この細胞は減数分裂により一倍体にもどり、遺伝子を修復して分裂回数を見事にリセットしてしまうらしいのだ。不死の細胞にもどるのである。

 人が人を傷つける、こういう時代であればこそ、「生命は死すべき運命にはない」という意外な言葉が、長く、尾をひく。

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紙の本文明の生態史観 改版

2004/07/08 22:54

梅棹忠夫の流儀

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 1955年、梅棹氏はアフガニスタン、パキスタン、およびインドを旅した。わが国における戦後最初の総合学術調査隊であったといわれる。本書には、その調査をもとにした初々しい論考やエッセイが十一篇収められている。

 「東と西のあいだ」というエッセイのはじめ、梅棹氏はインドから日本に帰ってきたときの印象を次のように書いた。

 「それにしても、日本はなんとさむいところなのだろう」

 梅棹氏自らがアジアの国々に身をおき、その温度差を肌身に感じたそのままの言葉である。ここに梅棹理論の骨法をみることができる。梅棹氏の比較文明論の要諦はフィールドワークを身上とした「実感」にある。
 このエッセイは、日本人から見たインド観と、インド人自身のインド観の違いを明確にする。インドの歴史、宗教、人種をみるなかで、インドという国の本質に踏み込んで行く。すなわち、インドとは「東洋」でも「西洋」でもない。そこは「中洋」であるのだという。「中洋」とはインドおよびイスラーム諸国を含む広大な面積をしめる。「とくにわれわれ日本人は(「中洋」諸国についての)知識が不足している」と梅棹氏は指摘する。それから50年経た今、はたして状況は変ったであろうか。それは否であろう。「中洋」諸国における混迷は今やいや増すばかりである。本書が長く読み継がれる理由はその卓見ぶりにあるといえよう。
 
 さらに続く本書の読みどころは「文明の生態史観」という一篇の論考である。先の「中洋」理論からも分かるとおり、梅棹氏は世界を「東洋と西洋とに類別する」のも、日本を「東洋」の国と指定するのもナンセンスだという。それではどう分類するのか。
 梅棹氏は旧世界をバッサリふたつの地域にわけた。(ちなみに、南北アメリカなどの新世界はひとまず措かれる。これは梅棹氏らしい。その時点で行ったことのない国については知ったかぶりをしない。)

「それぞれを第一地域、第二地域と名づけよう。旧世界を横長の長円にたとえると、第一地域は、その、東と西の端に、ちょっぴりくっついている。とくに、東の部分はちいさいようだ。第二地域は、長円の、あとのすべての部分をしめる」

 この分類は、人間の営みと環境との相互作用の結果、その生活様式が変化してゆく様を「生態学でいうところの遷移」と同質のものであると捉え、その法則をつかむ試論への第一歩となる。第一地域とは日本と西ヨーロッパのことであり、この両方面の歴史にある共通点が描き出される。また第二地域についても、その地域特有の歴史が語られる。梅棹氏は、この分類によって説明される文化の発展とその「歴史の見かた」を「生態史観」として世に問うたのである。


 本書には梅棹氏ならではの「ある特徴」が色濃くあらわれている。それは「ひらがな」の多用である。梅棹氏は自称ローマジストであった。ローマ字運動という「ローマ字を日本の国語にしよう」との志のもと、手紙からなにからすべてをローマ字タイプライターで打ち出していたほどの人であった。梅棹氏の場合はその国語実験を見事プラスにしたようである。その「ことばの選択」は洗練されていて、学者の文章としては群をぬいた分かり易さなのである。ただし、当時の歴史学者たちはそれが肌に合わなかったのかこの史観に対する反論を避けてしまったようである。

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魅力の日本民族論(なかなかの曲者なり)

14人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この列島に暮らす人々の起源、延いては「日本民族」について考えることには実に魅力がある。さればこそ、これまで多くの知識人により多様な言論が生まれてきた。それらの言論の中でも、特に、大日本帝国時代から戦後にかけての日本民族論の変遷を知るには、本書は格好の書である。時代を流れる如くに、その時々の知識人たちの言論を検証し、緊張の時代の民族論を語り切る。率直に読みやすく、知識人の言論を扱う面での著者の力量が感じられる。
 
 本書で深く印象に残ったのは、大日本帝国時代において時の知識人が掲げた「混合民族論」についての論考である。朝鮮、台湾、その他の諸島を日本に編入したとき、「日本人」を純血の日本民族のみに限定するという単一民族論的な考え方ではどうしても支障が出る。さて、当時の知識人はどう考えたか。
<異民族が併合されても、養子であると位置づければ、日本が家族国家であることと矛盾しない。P363>
「養子」とは奇異なり。されど、うってつけのレトリック、これこそ「国体を拡大」する論理であったのだと著者はいう。国体の拡大論はさて置くとして、血の繋がりのない異民族であろうとも、同じ家族として迎え入れるという姿勢は、当時の世界では画期的なことであったろう。

 本書で残念なのは、著者の寄って立つ立場である。結論の章において明確になるが、著者は大日本帝国の本質を、ナチスとは違っていても「別種の悪」と考えている。また、同化政策を「侵略」の手段であったと考え、さらには、
<日本は朝鮮・台湾において民族間結婚を推奨し、創始改名を強制し、強制連行や徴兵をおこなったのである。P367>という。加えて、南京大虐殺を史実の如くに扱っている。このような、「大日本帝国は悪である」というバイアスがかかっているということを念頭において本書を読まねばならないことが、実に惜しい。

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紙の本養老孟司のデジタル昆虫図鑑

2006/09/28 00:01

玉虫のその衣の美しさ

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<五月の空の青さは、染料のインデイゴをどれくらゐにうすめたものであつたらうかと、ぼんやり考へてゐると、ふとその青い空をかすめて、みどりの羽根をひろげた虫の、無数に飛んでゐる情景が浮かんできた。
みどりの羽根はジユラルミンのやうにぴかぴか光つて、虹のやうに、金や紅がかがやいてゐた。
玉虫が飛んでゐるのだと気がついたのは、よほど経つてからであつた>

 これは森田たまの随筆『玉虫』の冒頭にある一節である。

・日本の玉虫にはいくつかの種があるけれど、森田たまが見たそれは、あの「玉虫厨子」のヤマトタマムシであったろうか。この緑色の美麗な甲虫は、日本や台湾、インドシナ半島まで広域に生息し、高い木の上のほうを飛ぶ習性があるという。今では、都市化によってその数はぐっと減ってしまったようである。その玉虫がどれほど綺麗な虫なのか、この図鑑のおかげで、じっくり眺める機会に恵まれた。

 養老先生は大の虫好きで、専門に調べているヒゲボソゾウムシという小さな虫にいたっては、ばらばらに解剖して体のパーツごとに差異を検分するという念の入れようである。虫の標本数はなかなかのものであるらしい。

 虫の標本は虫屋のお宝。今回、養老さんはそのお宝の中から、玉虫やハナムグリ、コガネムシといった素朴で写真写りがピカイチの虫を選び出し、市販のスキャナで撮影して、そのデジタル画像を並べるという、いわば自家製図鑑をこしらえてしまった。その画像がまたすばらしく鮮明なのに驚いた。

 モデルとなった虫たちの手とか足とか触覚とかの微妙な曲がり具合も養老さんの手によるものだとすれば、これはもう究極の直筆署名入りである。

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紙の本新人生論ノート

2005/03/29 21:51

実感を込めて綴られた人生論

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者は本書のもとになった文章を書くにあたり、三木清の『人生論ノート』について「私にはこんな衒学癖はないし、それだけの学殖もない。こんな自信にあふれた断定的な文章も書けそうにない」といってこれをあっさり脇へよけ、飄々と自己流を宣言する。小説家ならば、きっときれいな嘘でまとめたであろう「愛」「嫉妬」「幸福」というお題について「なんでも書けるものじゃない」とばっさり落としてしまうのだ。「愛」など羞恥心が先に立つし、「嫉妬」はしなくなったし、「幸福」という言葉を使ったことはない、というわけである。正直なひとである。

 実感を込めて綴られたのは全十三章。その中に「読書について」という章がある。

 著者のみるところ、本を読むということは「最初の一行から最後の一行までキチンと読み通すこと」であるという。とても厳格な意見だが、それもそのはず、著者は哲学者。本を読むということは本業にがっちり絡むことで、あたら疎かに出来るものではない。

 「考える」ということはそう簡単なことではない。これが著者の実感であるという。キチンと筋の通った論文を書くにしても、ある程度の考える力がなければならない。そうした力を養うための方法とはなにか。

「それは、よく考えぬいて書かれた本を一行一行読んでいきながら著者の思考を追思考する、つまり著者の思考をなぞって考えていくというやり方だ。私自身の長い経験からして、よほど特殊な能力の持ち主でないかぎり、考える力を養うには、これ以外に方法はない」

 さらに著者は深く感じるすべを学ぶための読書について語る。

「近ごろ書店で「あらすじで読む○○」といったような題の本を見かけるが、小説のあらすじなんか知ってもなんにもなりはしない。
 詩や小説を読むということは、深く感じる力をもった人の書いた作品を読むことによって、その感じ方を追体験し、自分の感じる力を鍛えることではないかと、私は思っている。それには、やはり最初の一行から最後の一行まで読み通さなければならないのであって、あらすじではすまないのだ」

 もちろん、読書の形は様々で、雑読も良いし、摘み読みだって悪くない。著者のいう「最初の一行から最後の一行まで」というのは、ちょっと度が過ぎるかもしれない。けれども、そこは「心意気」として捉えなおしておきたい。

「私たちは日常の暮らしのなかでは、喜びであれ悲しみであれ、よくよく浅いところでしか感じていないものである。振幅のせまい感情生活しか送っていない」

 著者は、このヒヤリとする指摘のあとでさらに続ける。ドストエフスキーの「悪霊」に、坂口安吾の滑稽小説に、ボードレールの「旅へのいざない」に、斎藤茂吉の絶唱に、「私たちは日常では味わうことのできない深い感情を体験し、いわば魂を根底からゆさぶられるのである」と。 ひとはこのように偉大な芸術にふれるとき、大きな感情の振幅をえる。それが、「自分の感じる力を鍛えること」だと著者はいうのである。さすがに著者は骨の髄まで教育者である。

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紙の本魂の自由人

2003/07/20 09:23

責任のない自由に喝

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者は、闘う小説家である。日中国交間もない頃に中国に否定的な原稿を書いて新聞掲載間際に差し替えられたのを手始めに、以降、文句をいうメディアとは絶縁するという形で闘っている。

 本書は、ご多分に漏れず「家庭画報」への連載が早くも2回目で打ち切りとなるも、「小説宝石」が拾い上げ、4年3ヶ月に亘って連載されたいわくのエッセイ集である。してその内容はといえば、人が生きてゆく上で心にしっかり持ち続けねばならない「魂の在りよう」が曽野流に綴られる「道徳のエッセイ」であるといえる。連載が打ち切りになった理由は、恐らく「言葉の表現」がいろいろな人の神経に触ると判断されたに過ぎず、その内容はけっして否定されるべきものではない。

 最も印象深いのが、「自由と責任」についての論考である。中国製ダイエット食品による肝臓障害事件で、被害者の親族が「誰に責任を問えばいいか分からない」といった記事を載せた新聞報道を取り上げる。ここで著者は、「責任はひとえにこの薬を自分でオーダーし、自らの意志で飲んだ当人にある」とバッサリ言い切る。
<法に触れない限り、私たちは何でもできるのだ。だからその結果は、事故や犯罪に巻き込まれるか、国家の主権の範囲内での政治的制度の怠りや放置によって起きる被害、を受けたのでない限り、その人の責任だと言わざるを得ない。選択の自由は結果の責任を生む。…p.179> 国家を越えた方法で物を買えば、どこの国も安全を保障しないことを承認しなければならない、ともいう。手厳しい指摘だが、それが現実である。

 「自由」は、人の健全な魂にとって最も大切なものである。現在、この自由を取り違え、人は生まれながらにして自由、無限に行動が許される、とする「まやかしの自由人」が増えている。しかし無限の自由などありえない。自らの行動の選択において自由を要求するとき、結果の責任を他人や国家に押し付けてはならない、ということを肝に銘じるその一事が「魂の自由人」への第一歩となることを本書は鋭く指摘している。

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紙の本プロジェクトゼロ戦

2003/11/06 23:52

「零戦」の真実

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 自称「零戦」マニアの日下氏と、軍事の研究者である三野氏が「零戦」をあらゆる角度から語り尽くす。特に日下氏など「“零戦における通説の間違い”について真実を調べてこれを正す」と初めからやる気満々である。

 「零戦」は、昭和12年に試作が開始され、昭和15年7月20日に正式な海軍機として完成された。その優秀さはそれまでの海軍の主力機(九六式艦上戦闘機)と比較すればすぐにわかる。操縦席に風防(キャノピー)がつき、主脚は引込式、“七・七ミリ機関銃二門”に”二〇ミリ機関砲二門”を搭載。これすべて海軍機初。重量が軽く、長時間滞空に優れ、ドッグファイトに定評があった。そして、日中戦争で華々しいデビューを遂げる。なにより、フォルムの曲線美は世界一。
 のちに海軍は「雷電」や「紫電改」を造り出すが後継機とはなりえなかった。「零戦」は終戦までの間で実に一万機以上造られるという主力機であり続けたのである。
 
 「零戦」は純国産技術で世界に勝ったとよく言われる。ところが日下氏によれば「どこが純国産なのだろうと思うことが多い」のだという。

●機銃はスイスのエリコン社のライセンス生産
●照準器はアメリカのライセンス
●エンジンの“栄”もプロペラも、アメリカの指導を受けて特許を買って製造
●ほとんど真似だらけの寄せ集め
●おまけにエンジン用の部品を加工する工作機械はアメリカ製やスイス製

 驚きである。しかし、あの時代、軍艦の多くもまた外国から購入していたのであり、それが現実であったのだ。
 「零戦」が善戦したのは開戦後の僅か半年ほどであった。それからはアメリカが新技術をもって新鋭機F6Fを投入してくるのである。もし日本に純国産の実力があったなら「雷電」でF6Fに勝てたはずだが、そうはならなかった。

 技術を寄せ集めるだけで希代の名機が誕生したわけではない。そこには一人の天才がいた。堀越二郎である。零戦のみならず、九六鑑戦、雷電、烈風の設計主務者であった。
 堀越は零戦受注時、海軍からの“あれもこれも盛り込め”という無理難題に対し、その時代に手に入る技術をすべて駆使し、天才的ひらめきによって、先端的すぎるとまでいわれる名機を造り上げた。この設計者の存在をけっして忘れてはならない。

 問題は「上が馬鹿だった」ことにあるという。海軍は、この天才に「零戦」の“後継機を造れ”“命令だなんとかしろ”というのみで部下をあてがうことをしなかった。堀越からの提案に対しても軍は返事をしなかったのだという。「上が馬鹿なだけ」そんなつまらないことで何千人もの若く優秀なパイロットが死んだのだ。このこともまた忘れてはならない。

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理系人を掘り起こす

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 本書は、日本における理系人の実情を、統計のみに頼らず、印象的なインタビューに重きをおいて報告する一風変わった白書である。日本の科学研究者・技術者は報われておらず、これから日本が科学立国たるには見過ごせぬ問題があり、それらをすべて掘り起こしてみせるとの編集者の一貫した姿勢が伝わってくる。
 
 官界、政界、経済界における理系出身者の不遇や、女性研究者への偏見、少ない研究費などの実情を述べる傍ら、青色発光ダイオードの中村修二の主張、ノーベル化学賞の田中耕一の失敗などのトピックを効果的に織り込み、読み物としても飽きさせない工夫が光る。
 基本的に、白書の名に沿うよう実情報告がなされているため、現場から遠く、情報の真偽の確かめようのない文系出身の方々にも、安心して本書を手にすることをお奨めできる内容である。

 但し、一つ残念なのは、優秀な一部の科学研究者・技術者の立身出世や富の構築への言及が目立つ割りには、日本を支えるその他大勢の研究者・技術者の思いの内への切り込みに欠ける点が上げられる。
 例えば、中村修二の功績に対し、巨万の富を与えるしくみを作ろうとする流れがあるのは、外国への頭脳流出を阻止する上で重要である。しかし、企業における発明は特に、純粋たる個人の功績とは言い難い一面がある。実験設備は企業の研究材料費で賄われるし、その固定資産税も企業持ち。特許の出願、権利保持の費用、実利にならぬ膨大な特許関連の埋没コストも企業持ち。このようなリスクを背負わないにもかかわらず、中村修二に企業から支払われるお金は、結局のところ株主への配当や全従業員のボーナスともいえ、これは複雑である。
 理系人の仕事は、まず第一に、好きでなければ続けられるものではない。その他大勢の研究者・技術者は、立身出世や富の構築の前に、自らの技術を磨き、新しい知識の習得に真面目に地道に励んでいる。その上に、幸運な配属があり、幸運な発明がある。
 ニュートンは語っている。「わたしがここまで見わたすことが出来たのも、巨人の肩の上に立っているからにすぎない」。
 今の時代、その巨人とは表には出てこない大勢の研究者・技術者に他ならない。本白書は、毎日新聞で連載中だという。これから、本当の意味で日本を支える多くの研究者・技術者の思いの内を掘り下げる取材に期待したい。

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なぜ失敗したのか、その答えはどこに…

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 大東亜戦争で日本は負けた。その戦史上の失敗に示された日本軍の「組織的特性」を追求し、これを現代組織の教訓とするのが本書のねらいであるという。

 まず、ガダルカナル作戦やインパール作戦を含む有名な六つの失敗事例の分析、また各作戦に共通して見られる日本軍の組織的特性や欠陥の抽出について客観的に述べられている。今や語り尽くされたその悲惨さを、あえて感情的には記さない姿勢が一貫されており、それが本書の研究書としての価値を高めている。
 各作戦から見られる日本軍の特性として、兵站無視、情報力軽視、科学的思考方法軽視が指摘される。組織構造の面では、陸海軍の合理的な組織統合がなされず、また、満州・中国・香港・シンガポールで成功した白兵銃剣主義、ロシア艦隊を打ち破った大艦巨砲主義を、ついに変えることがなかった点をあげる。組織の管理システムは年功序列であり、能力主義による思い切った抜擢人事はなく、官僚制と情緒的人間的結合が奇妙に入り混じっていたとある。さらに、最大の失敗の本質は、
「特定の戦略原型に徹底的に適応しすぎて学習棄却ができず自己改革能力を失ってしまった、…p.395」
ことであったという。日本軍は、環境の変化に適応せず、淘汰されてしまったのであり、さればこそ、現代企業はこれを教訓とせよ、とのことで本書は締められている。
 発刊当初、ベストセラーとなったのは伊達ではなく、何処を読んでも戦史からの教訓を得る上で重要な指摘に溢れており良書であるといえる。しかし、疑問もある。本書では、なぜ日本は負けるべき大東亜戦争に訴えたのかを、あえて問わずにいるが、それと同時に、なぜ日本軍の組織的特性が指摘の如くにまったく非合理的かつ不条理であって自己改革をなし得なかったのか、その根本原因の理論的な分析が薄い。そこが知りたいのである。
 歴史を考えるときの掟に「当時の常識・良識に遡れ」というものがある。今の理屈で理想をいうのは易いが、例えば当時の日本陸軍において、長く猛訓練を受け命を捨てる覚悟の出来た白兵戦士を、即刻日本本土に呼び戻し、近代兵器の使用訓練を行うような費用・時間・物資があったであろうか。今更そのような組織改革・戦略変更をすべきだったと謳うだけでは、机上の空論に陥りはしないだろうか。この点について、本書に答えはない。

 かつて、戦艦大和は、沖縄に向け片道の燃料、護衛戦闘機なしの特攻にいった。その船内において「なぜ負けると分かっているのに戦いにいかねばならないのか」という議論が士官の間で巻き起こった。そこで出た結論は、「この特攻は間違っている、しかし将来、日本はこの誤りに気付き二度とこの誤りを繰り返さないためにこそ、この特攻には意義がある」というものであったときく。後世に生きる我々は、このことを考えぬき、答えを見つけねばならない。

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