シュンさんのレビュー一覧
投稿者:シュン
あなたに不利な証拠として
2006/04/22 00:08
透徹した表現が解体してゆく女性警察官たちの真実
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
MWA最優秀短編賞受賞作品。ポケミスで最近紹介されるものはほとんどが主要ミステリー賞の受賞作である。この作品にしても、普通であればさして話題にも上らないまま、単なるMWA最優秀短編賞で終わってしまうはずである。そう考えると、各所で声を大にして本書の価値を広めた書評家筋の功績は案外に大きい。
この作品のどこが、それほどまでに書評家らの心を捉えたのかとの興味は当然いつも以上に深い。まず読み出してすぐに気づくのが、強烈なオリジナリティを匂わせた斬新さという点だろう。ぼくの場合、すぐに作品以上に、作者に対して強烈な興味を覚えてしまったのだが、なるほど、巻末解説によれば、この作者は警察官としての履歴を持った極めて稀有な女性作家なのだった。警察官を辞職したのが30歳での交通事故による。その後ガンをペンに持ち代えて、大学で文学の教鞭を取る傍ら創作の世界に踏み込んできたという履歴が、ある意味独自である。
本書は、女性警察官たちを主役に据えた短編集だ。それぞれの短編が完全に独立したものではなく、むしろ連作短編集に近い構成となっている。ルイジアナ州バトンルージュ市警を舞台に、5人の女性警察官の物語を、すべて一人称によって描いたものである。
この作品集の魅力は、まずその揺るぎなき一人称表現の豊饒さ、硬質さであると言っていい。文学の香気漂うシャープな切り口により、実体験に基づく地に足の着いた犯罪体験を、単なる犯行現場としてではなく、作者の五感で描き切るゆえに、読者がもたらされる臨場感は、かつて経験した覚えがないレベルだ。
犯行現場は、警察官らにとって残酷を体験として彼女らの人生にまるで標のように与えられる。日常生活の混乱を携えながら、ヒロインらは翌日の仕事にふたたび取りかかろうとセルフコントロールを試みるが、それらは到底一筋縄では行かない。ときには精神に異変をきたし、ときには真夜中の犯罪現場に集まって、独自の儀式を執り行う。被害者の絶望を共有し、浄化しようと試みるのだ。救われない被害者の不条理を受け入れることができないままに、職業としての警察官を日々続けてゆくことの、これはダメージの記録でもある。
女性警察官ならではの特異な苦しみに追いやられた彼女たちの選択肢が、ここではいくつもの短編作品を生み出しているのだ。時には男性警察官との距離感に悩む彼女らの孤独が、美しい地球の営みの中で、研ぎ澄まされてゆくようだ。
本書の構成は、実はデリケート極まりない。女性警察官としての基本部分から、徐々にアウトラインを膨らませ、ストーリーは岐路に分け入り、逸脱、拡散してゆく。短編集は徐々に独自で孤独な世界を方々に拡げ、途方もない世界の果てにおいて、魂の再構築の物語が始まってゆくのだ。
弱い心を抱きしめ、小鳥をそっと手のひらでくるむように魂を包み込む。甘えに限界を感じつつも他者たちと悲劇を共有し、人間の持つ根源的な業と直面する、あまりにもタフでハードな光景の具象例の数々に、池上冬樹は「心が震えた」と独白している。
まさに心の琴線に響き合うごとき普遍的な音色が、ぴんと張りつめた透明な空気を伝わって、読者の心の芯の辺りを揺らめかせる。静かに、しかし容赦なく。
表現の極北に迫る警察小説の、ある脱皮のかたちが、紛れもなくここにある。
「彼女が書くものはこれから全部読む」とエルモア・レナードが言ったそうだ。さて、いったい何人の読者が同じことを考えるだろうか。
荒ぶる血
2006/04/30 16:38
暴力への抑止なき高揚を綴った血と硝煙の旅譜
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
どうやらこの作者の作品は、互いに同じ時代、同じ地平で繋がっているらしい。もちろん一作一作は別の物語だが、1920年代の禁酒法時代、メキシコ国境に近いアメリカ西部、延々と広がるタンブリグ・ウィードとメスキートの荒野、広大なまだ野生多き土地を舞台に、荒ぶる魂たちが、未だ硝煙の香り漂う銃を握り締め、乾いた砂に血を沁み込ませている光景こそが、ジェイムズ・カルロス・ブレイクの確固たる世界のようだ。
この作家の手になる血の叙事詩は、日常生活に紛れ込んだ、どこか人間の原点であり、本能であり、カルマであるところの何ものかを、確実にうずかせる。筆力というだけでは足りない、語り部の才能をふんだんに有したこの作者の世界は、見覚えのない原初的な荒野と、灼熱の野生が生む論理に統べられた世界へ、ぼくらを連れ出してくれる。
革命の火の粉の中から降り落ちた殺人者としての種子が、一つの殺しの才能、狙撃者の天分として、ジミーという青年に引き継がれる。ジミーは悪の手先であり、ガルベストンの秩序の執行者である。同時に、燃え上がる恋情を抑えきれず、仲間たちとは家族づきあいを欠かさず、酒を飲んでは心を通わせ合えるよき友として、あるべき青春を謳歌する純心をも抱え込んでいる。
稀代の悪党として命のやり取りを日常的にこなしながら、その非情にも関わらず読者の側の静かな共感を得てゆくこの小説の存在が、実は不思議である。どんな種類のサイコ殺人者をも憎んでゆくことができるのに、非情の殺し屋を大抵はどうして憎めないのか? 書き手次第で、人間は、異常な論理や稀有な感性に抵抗なく溶け込んでしまうことができるということなのだろうか。
エピソードの積み重ねで構築してゆく壮大な叙事詩的ストーリーは、重く、長く、そして丹念この上なく、生き生きと描写されてゆく。前作でも見られたけれど、われらがヒーローさえ知らない非情の追跡者による危険かつ暴力に塗れたシーンが時折挿入される。それは、読者を、やがて来る破綻の気配に震撼させる。壮絶な血のクライマックスの予感に。
想像される以上に激しい活劇を、作者は約束する。彼らの悲劇と、それに対する意外な楽観が、全体を通してちぐはぐに思える。かつてのウェスタン映画を見るときのように、ぼくらは不知の価値感に当惑しつつも、魅き込まれる。読者の理解を拒むほどに独自な世界観で生きる男たちの、違和感だらけの決断が、なぜか絵としては自分の中でフィットするのだろう。とても不思議な感覚だ。
日常から極めて遠いところにある時空間での壮絶な物語だからこそ、読者にとってのカタルシスの最たるものなのか。そう感じる方ならば、きっと思うのではないだろうか。こんな物語なら何冊でも読んでみたい、と。彼らの凄絶な生き様に。その密度濃く困難な運命の展開に、没頭してみたいと。
ゆりかごで眠れ
2006/05/07 21:54
愛を十倍にして返すことの難しさが……
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
垣根涼介の作品には、いつもロマンがある。切羽詰った逆境に目を凝らすとき、特に南米奥地、文化の往来の見込めない場所で、人間の逞しさを描いているときの彼のペンは、生き生きと跳ねて見える。
知略を凝らした犯罪の奥底にもまた、紳士的ルールがある。対して仁義を持たぬ者たちとの間で葛藤が渦巻き、そこには常に名誉の問題、人間としての矜持の問題が、高く大きくそそり立つ。
そうした意味で欧米の冒険小説が持つエッセンス、生き様、誇り、気位、沽券といった意識を強く持った物語の、この作家は数少ない書き手であると言っていいのかもしれない。
騎士道精神のアンチテーゼが常に世界に存在することを、彼の物語力学は決して忘れない。騎士道精神に端を発する西部劇では、大抵は問題には、クライマックスの決闘で片をつけて終わる。ウエスタンで起こるトラブルは、常にそうした二つの極の対峙構造生み出す軋轢の中で展開される。次第に溜まった内圧が爆発してゆく構造として世界がそこにあり、登場する人々は否応なくそこでぎりぎりの選択を迫られてゆく。
本書も、構造と食材は、良くも悪くもまさにその範疇を出ることがない。中でも、作者の筆が生き生きするのは、南米での過酷な生い立ちに関わる場面、そして最後には日本を舞台にしては考えにくいほどに圧倒的な火力満載の活劇シーンである。
この作者の作品世界に満ちた空気についてはいつも思うのだが、どんなに残酷な過去を持とうと、人間たちは暗くならず、むしろ乾いていることだ。どちらかと言えば、頭ではなく行動で解決しようという潔さが見られ、読書としてはかなり心地よいカタルシスを得ることができる世界なのである。
そこを狙って書いているというよりは、世界の辺境を旅して歩いた作者の、おそらく自然な気風なんだと思われる。旅は人を変える、などというけれども、旅こそ物語の具材であり、よい食材を集めた人ほど、豊かで振幅の大きな想像力を駆使し得るのかもしれない。
本書ではついにというか、この作者であれば自然な流れというべきなのだろうが、日系人のコロンビア・マフィアを主人公に据えた。いわゆるスカーフェイスみたいな、ビルディングス・ピカレスクの王道なのである。そしてスカーフェイスの持つ愚かさとは別の意味での、むしろプラスの愚かさに縛られた主人公は、まるで義賊・現代のねずみ小僧といったオプティミズムだ。
「愛は十倍に、憎悪は百倍にして返せ」とは、作中何度も出てくる言葉だが、ぼくは憎しみを百倍千倍にするよりもずっと、愛を十倍にすることの方が難しいことだと思う。だからこそ、本書のような途方もない無駄な冒険に命を賭けようとする物語が、例え寓話みたいだと揶揄されようとも、きっとささやかな価値はあるのだ。
本書は読み始めたら止まらない面白さを持っている。この作者特有のカタルシスも感じさせてくれる。楽しく、かつ満足の行く読書的時間がここにある。それにも関わらず、『ワイルド・ソウル』を超えることができないのは何故だろう。きっとあの作品は、あのときの衝撃であり、この作品は予想されたそのものだったからだろう。
たとえば船戸与一のように、扱う風土を変え、ストーリーや語り口にに若干の工夫を凝らすのも一つの手だろう。思い切って別ジャンルに挑戦するのも(『君たちに明日はない』みたいに)あるいは一つの道だろう。荒々しい作風、その中に独自な才気を迸らせているが故に、この手の作品を焼き増ししてゆくだけでは、到底持たないだろうと思われる作家。
そうした状況こそが、垣根涼介が自らに課した宿命なのかもしれない。そして、次々と期待される世界の望みに応えて、さらにタフな作品を出し続けてゆく意思こそが、作家にとっての「愛は十倍に」っていうことじゃないだろうか。
輓馬
2006/05/07 14:57
ばんえい競馬という斜陽の中で息づく骨太の人間ドラマ
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
『輓馬』とは、ある意味で、働く現場の映画である。輓馬の馬たちは、経済の産物であり、価値ある商品である。映画そのものも、また、輓馬という産業に関わる経済の話であり、都会で会社を潰し妻子と離縁してきた青年主人公の破綻は、まさに対照的に描かれるもう一つの経済風景でもある。中央と地方との経済格差を、リアルな労働、賃金という形で差し出してゆくのが小説『輓馬』である。映画『雪に願うこと』はその骨子をいささかも崩さずに、のっぴきならない現実を、観客に、CGの混じらないオールロケ、ホンモノの十勝の冬、ホンモノの馬たちの息の白さで叩きつけてくる。
小説『輓馬』と映画『雪に願うこと』の違いは、最後の小クライマックスとしてのレースの有無、そのレースに挑んでゆく女性旗手(映画では吹石一恵が体を張って熱演)などの存在、そして主人公らが揃って10歳ばかり若返ったところだろうか。他の多くの部分では、原作の味をいささかも殺すことなく、スムースなバトンタッチがされている秀逸な映画化作品であると言える。
もし映画化がなければ、この小説はさほど多くの人に読まれる機会を持てなかったのではないか。そう、案じてしまう。北海道では、ばんえい競馬そのものが衰退の一途を辿っている。入場者は年々高齢化してゆき、ばんえい競馬場には若い人が寄りつかない。毎年のように赤字を出す競馬は、文化である以上に、経済である。そして事業としては、負け戦を強いられているのが現在の状況である。来年にもこの世からなくなってしまうかもしれないのがばんえい競馬である。開拓時代から受け継がれた農耕馬レースの名残りであるばんえい競馬の物語だからこそ、全体のトーンが物悲しい。
帯広の冬、暗いうちから起き出し、馬の世話に人間が尽くし切る。そんな厩舎を営む調教師の兄の下に、家族を捨て都会で一旗挙げた筈の弟が、すべてを失った挙句、十数年ぶりに北海道に還ってきた。兄弟間の葛藤、生活の落差などの中から、徐々に周囲の人たちに溶け込んでゆき、厩舎生活の中で馬の世話をしながら、逃げてばかりいた自分と向き合い始める。
ラストシーンが実にそっけない。まさに映画そのものと共鳴し合うこのあたりのアンチ・クアイマックスこそが、この作品の評価の分かれ目となるではないだろうか。派手なクライマックスに仕上げることはいくらでもできたろう。しかし、そんな作品は作ろうとしていない、そんな作者の思いが見えてくるようだ。
逃げ出すことなく、困難な選択肢の方向へと足を向けてゆく主人公の最後の心情をこそ、この小説も、映画も、ともに存分に描きたかったに違いない。
たびを 花村文学の旅立ち
2006/04/22 00:20
孤独と出会いで綴られる旅と青春の物語
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
まるで弁当箱。1000ページの著者最大長編作品が登場した。執筆は中断を挟んで9年半、編集担当者は四人を数えるという小説作成としては相当のスケールを持つ作品である。
一言で言うならロード・ノベル。著者が小説デビューに前旅専門誌に紀行文を寄せるライターであり、かつバイク乗りであることはよく知られているが、その著者の生身の原点に迫った作品としての渾身の書きっぷりからすると、本書はある意味でこの作家の金字塔であり、なおかつ亜流でもあるのかと思われる。
著者はバイオレンスとセックスの描写でエキセントリックな人であり、それを展開する土壌としてミステリ畑やノワールな風土に、著者の本意ではなくても結果的に顔が知られた人である。そうした過激さが売りである著者が、自分の体験した旅をベースにして、19歳青年の日本一周旅行を書き上げたという意味では、小説化してゆく作業は、常に事実・体験という鏡があるせいで、かなり難度が高かったのではないか。
同時に小説としての逸脱ができないほどに取り決めてしまった大プロットがルールのように存在するというのも、萬月氏としては自らに課したさぞかし高いハードルだったろう。何せ「スーパーカブを駆って日本一周を旅するひと夏の体験」の「青春小説」なのだから。その旅程という枠組みを地道に逸脱なく終えてゆかねばならないのだから。
東京吉祥寺を出発して、静岡に向かう。紀伊半島からフェリーで徳島に渡り、さらに四国を横断して大分へ上陸。鹿児島周りで北九州に北上し、山陰をゆく。京都で一ヶ月を過ごし、その後、再び北上。北海道で全体の3割ほどのページを割いたのは、萬月氏の北海道への愛着もあってのことだろうか。その後三陸を南下し、房総半島から一路東京へ帰り着く。
そうした旅程の中で、実に多くの道連れを青年は得る。それぞれに必死に足掻き、青年と切り結んでゆく孤独な魂がある。様々な形での旅先での交情が、青年を成熟させ鍛え抜いてゆくが、青年は旅を始める前の東京の自分の日常をその中で見直し、徐々に再発見してゆくことになる。
こうシンプルに書くと、萬月らしからぬやたら健全な青春小説ではないか。しかし、実はその陰影の濃い筆致は、やはりこの著者でしか書けない材料で満たされる。孤独と向き合い生きるということができなかった少女の追憶がいつも夢枕に寄り添う。死と、性と、他者という緊迫。独りになったときの虚ろ。路上に走る殺意の群れ。恐ろしいまでの他人への無関心。旅の風景として点在する不思議な老人たちの表情。聴きなれぬ言葉。時代に取り残されたような、鄙び、荒れ果てた光景。そして心象風景と化してゆく追憶の果ての残像たち。
繰り返される思い出のフラッシュバック。思い出される出会いと別れ。人間的なあまりに多くの要素をこれでもかとばかりに表現し抜いて、改造スーパーカブが日本列島を走り抜ける。啜り泣き、呻き、傷跡を拭い、孤独を抱き締める狂おしいほどの青春の密度が、ここにある。
日本一周の達成感を1000ページの達成感と重複体験させてくれる力作。どうだと言わんばかりの物理的重さ。どこかに持ち出して読める本ではありません。じっくりと時間を用意して、この物語に向かい合ってみてください。
鉤
2003/06/05 00:15
風変わりな殺人者たちによる『斧』とのコントラストを二度楽しみたい
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
あの『斧』に、よく似ている。何となく強引に導かれてゆく殺人への逃れなき方向性。客観的にはずいぶんと無理な動機だと思えるのに、何故かリアルにその不自然さを剥離してゆくバックボーン。とにもかくにも迫りくる破滅状況。日常人が殺人者へと踏み越えてしまうショック度。そうしたものがすべて『斧』に共通しているのだ。なるほど、これは姉妹編なのであるなあ、とつくづく……。
しかし冷酷度で言えば、『斧』は、よりブラックで日常性との距離感があって、シンプルな構成でもあったと言える。『鉤』は二人の作家による代理殺人がテーマなので、主人公が二人、そして死体はたったの一つ。『斧』ほどには死体がごろごろ続出はしない。その分地味だが、逆に心理サスペンスとしては際だって怖いところがある。
いわゆる「より広く、より多く」殺すのが『斧』であったとするならば、「より深く、より濃く」殺すのが『鉤』であるとも言える。殺しのその後の影響度だけとっても、後者の方が遥かに激しく粘っこいわけだ。
作家が主人公であるだけに、小説作りの舞台裏、作家という職業の影にある見えざる苦悩、あるいは現代出版界の台所事情など、とりわけ面白い。作家志望の人にとっては、多くの教訓を引き出せる作品であるように思う。しかも頻出する主人公たちによる作品アイディアもそれぞれに興味深く、なかには、そのままウェストレイク(あるいはスターク)の手で小説にして欲しいと思われるものもあり、ストーリー以外の読みどころでもサービス感に溢れている。何とも楽しい限り。
『斧』の一人称文体が持つストレートな怖さは本書にはないのだが、逆に三人称文体でもここまでのけぞらせるかというスリリングな描写が、さすがに手練れを感じさせる。
ハイ・シエラ
2003/03/26 18:05
未訳映画部門ベスト1の原作ノヴェルがいま陽の目をみる
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
自分が生まれるよりずっとずっと前に書かれた作品が今頃になって邦訳される。そんな不思議な機会は滅多にあることではないだろう。
ハンフリー・ボガートが初主演をもらった記念すべき映画であったにも関わらず、1941年の大変古い映画に過ぎない。実際に『ハイ・シエラ』のタイトルで劇場公開されたのは1988年なんだそうだ。
そういう不遇な作品を今手に取ってみる。ハイ・シエラという地名。具体的にどのあたりかぼくはよくわからない。カリフォルニア州。ヨセミテを含む高山であることは間違いないところだろう。
ストーリーはシンプルかつクライムの王道と言える。ロイが出獄する条件は犯罪を請負うことだった。若い仲間たちとチームを組み、準備し、待機し、犯罪を実行する。予期せぬ運命の歯車が……まさに王道。
あまりにも重要な役割を果たす女性たち。犯罪チームにふとしたことから加わってゆくマリー。心を惹かれてゆく足の悪いヴェルマ。ロイの切なさが全編を覆う。
なぜ自分の稼業が、レイプ犯や悪徳警官と同じ「犯罪」という名で呼ばれ、一緒くたにされてしまうのかロイにはわからない。誇りを持ち、市民に救われた古き良き時代がゆっくりと終わりを告げてゆく。アウトローたちは姿を消し、より薄汚い悪が世界を席巻し始める。西部の挽歌を思わせる男たちの匂い。
流星に心震わせ、地震に脅え、高山の雪嶺にため息を吐く主人公。まるで自分は地球という犬にたかるノミのようだと感じる。檻の中では死にたくない。ハイ・シエラの方へ逃れてゆく。たまらなく切ないロイの心情が共感を呼ぶ。哀しく、美しい、生まれる前の失われた時間に思いが飛翔する、とてもとても古い傑作である。
百万遍青の時代 上巻
2004/01/07 21:35
身を委ねて快い……70年代にはじかれた青春!
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花村萬月のライフワークとも言うべき大作のスタート。四部からなる構成の予定であり、本書『青の時代』は『百万遍』シリーズの第一部に当たる。第二部は現在も『小説新潮』に連載中。大型連載を複数作続けているその旺盛なワーカホリックぶりは、現在作家自身による公式ホームページ『ブビヲの部屋』に詳しい。第一ここの日記は、相当に読み応えがあって面白い。
日記は作家自身の一人称だが、この小説は三人称で書かれる。主人公は現実の過去を生きた萬月自身をモデルとし、自伝的物語であると言っていい。これまでの作品も自伝的要素の強い花村ワールドではあるけれども、本作は私小説という意味合いにおいてとても時代性を帯びた個人史の部分を感じる。70年代初め、高校を退学した日に始まる物語。書き出しは「今日、三島が死んだ」。
時代の縫い目を潜り抜けるフーテンでヒッピーでデカダンで破滅的な青春。15歳の少年が、暗いアウトローたちと出会い、そして日々を暴力と性とドラッグに塗り込められてゆく。少年の異才を構築してきた父という名の放浪の血。母への焦がれに重ねられた背信の足跡。家族や愛情への餓え。渇いた理性と、滾りながらも奔出の場所を見出せない日々に重ねられてゆく季節。
『ゲルマニウムの夜』に続く『王国記』という中短編小説群こそ、萬月の自伝でありライフワークであると確信していたのだが、施設時代、少年時代を題材にしたこの小説群も原風景から少しずつスライドしつつある違和感を感じ始めていた。小説世界が独自に膨らみ続け、奇怪な成長を遂げ、主人公以上に、周辺の人物たちが個性を持って歩き始め、全体では群像小説のような気配を身に纏い始めている。だからこそ、原点である自分史に戻るべく書き始められたのが、本作なのではないかと思えてくる。
『鬱』『ぢん・ぢん・ぢん』『二進法の犬』『風転』と続いてきた花村大作群にひさびさに加わる新たな一ページであり、過去のすべての記録を塗り替える長大とスケールと気迫を持って流れゆく、裏社会のクロニクル。
何よりも流麗な筆致に作られる文章のリズムに身を任せる快感が嬉しい。今、日本で、最も文章の巧い作家とぼく自身は確信している花村ワールド、ひさびさのエンドレス大作に身を震わせる思いをした。
帰らざる荒野
2003/07/18 01:49
円熟期を迎えてきた佐々木版・北海道ウエスタン
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すっかりこの作家の書く一つのジャンルとして定着した観のある北海道開拓ウェスタン。五稜郭戦争に端を発して、敗走した侍のその後から始まり、昨年は怪傑黒頭巾伝説に新解釈を持ち込んでの、蝦夷を舞台にした時代劇ヒーローまで創り上げた。
本書は、より開拓史に根ざそうという意図があったものか、五稜郭戦争から明治大正にかけての三代に渡る牧場主一家の物語を、年代記風にではなく、連作短編活劇という形で編み合わせた一冊である。
馬を使った商売を生業として函館から徐々に蝦夷の奥地へと移動してゆく牧場主の次男。旅は当時馬によるものが多く、鉄道も一部開通する。砂金取りや、流れ者が、あまり機能しているとは言えない法のゆるみを狙って、蝦夷の地に到来し、牧場主親子も銃で防備する。
アメリカのフロンティア・スピリットをそのまま蝦夷という場所に持ち込み、馬と銃の文化を背景に、必ずクライマックスを銃撃戦にもってゆくという、往年の西部劇ファンには小気味良いストーリー。違うのは、アメリカの西部劇が征服者の側に立っており、佐々木ウエスタンはあくまで支配者や資本主義経済の亡者共に向けられるという視点だろう。
前作の黒頭巾伝説ほどには、征服者たちの暴力は目立たないけれども、市井の無法な治安や牧場経営に纏わる搾取、駅逓を中心にした道内移動とそこに集まる詐欺師や馬喰たちのなど、開拓時代の北海道文化を背景にして、あまりに身近な土地、身近な現代史として展開される、江戸時代とはまたがらりと変化した男たちの闘いの記録が、タフで、情感があって、そして儚い。
出てくる土地のほとんどに覚えがあるため、ロマンとリアルを重ねた物語に思いを馳せる楽しみが、実に味わい深いものである。北海道人・佐々木譲にしか書くことのできないこのジャンルを、ぼくはずっと追いかけてゆくだろう。
フォックス・ストーン
2003/07/18 01:35
海外アクションに比肩するスケールの大きなサスペンス・アクション
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年間一作というペースがいい。手抜きが一つも見られない。練りに練られた文章だけで構成された小説作りがもののみごとに作品の完成度として反映されている。実力を見せつけてやまない文体で鎧われたプロットはこれまた凝りに凝っている。ページあたりの密度が凡百の作品の追随を許さない。
ぐいぐいと深まる謎、転がる死体、続出する証拠。サービス過剰ぶりと、主人公のジャン・クロード・バンダム的強さは鼻につく。極彩色に飾られた商品ディスプレイを見せられてかえって抵抗を覚えてしまうような感覚は、前作『天空への回廊』に似た部分がある。出し惜しみの謙虚さと言うものがこの作家にはないのかとさえ思う。
しかし謎が明らかになるにつれ、そういう嫌みさえも薄らいでゆくのは、謎そのものの奥に膨らんでゆく巨大な欲望と恐怖のせいだろう。アフリカ奥地の黙示録的世界に王国の幻が浮かんでゆく。『闇の奥へ』に挑戦した剛胆な作家と言って構わないだろう。
あくまでも残酷な物語。惜しげもなく登場人物を使い捨ててゆくストーリー展開と、血腥さ。身が引き裂かれるほどの非情さを掻き分けてゆくストーリー。海外の名だたるアクション小説への傾倒が相当に感じとられる、言わば国産離れした作品。日本よりも海外での方が読者が集まりそうな作家として、前作以上に濃密で奥行きのある世界に注目したい一冊である。
有り金をぶちこめ
2003/06/01 15:20
明るくたくましくい悪党たちによる斬新なオージー・クライム!
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町の小悪党みたいなビリー。彼の一人称文体が何とも魅力的だ。軽快で、ユーモラスで、それでいてへこたれない。痛めつけられたり、脅されたり、命の危機にさらされても、泣き言なんか死んでも吐かない。冷静、クールで、なおかつハートウォーミングな語り口をヒズ・スタイルとして確立していて、愛すべき仲間たちに囲まれ、みんなでやりくりしながらともに生きているところが、まさに庶民的。たいへんに好感度抜群な小悪党とその日常空間。
基本的にはキャラクターの独創性で成り立っている作品である。どれもハイレベルな乗り乗り感とともにリズムを刻む。スリリングでビッグスケールな国際的謀略に対してだって、ビリーはまるで酒場の喧嘩に加勢するみたいに気軽に乗り込んでしまい、どこからでも上がりを掠めようとする。
先のことなんて考えても仕方がない、やばいかもしれないがどうにかなるだろう。刹那的、楽観的な生きざまがあまりに快い。それでいて結局誰かが誰かに銃弾をぶちこむような危険な状況がビリーの周りではてんこ盛りだ。死体なんて日常茶飯事という状況と、自分は銃なんて撃たないぜ、というまるで善人のようなモラルとが同居してしまう、奇妙な庶民的小悪党世界。
リトル・リチャードのとても楽観的な歌のタイトルがそのままこの本の原題。戦後、人種差別や赤狩りのさざ波が遠くアメリカの方から寄せてくるのだけれど、シドニーのこの連中は、リッチになるためにいつだって危険の渦中に飛び込んでゆくのだ。大きな海を欧米との間に挟んだオーストラリアという大きな島国。そこに生きる悪党たちによる、大らかでとっても人間臭い世界がここにある。ご機嫌なビートに乗った犯罪ブギウギの傑作!
ダークライン
2003/06/01 15:13
『ボトムズ』の地平に咲いたもう一つの南部少年サスペンスの傑作!
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『ボトムズ』が、大戦前、深南部の森のなかにある木造家屋での家族のドラマであったのに比して、本書『ダークライン』は、戦後という言葉が消えかけつつある1958年という時代、掘っ立て小屋みたいな田舎町から町に出てきてドライブイン・シアターの経営を始めたばかりの一家のドラマである。いわば、暮らしぶりはより現代の生活に近くなり、映画、ハンバーガー、フライドチキンといったアメリカ的日常が似つかわしくなりつつあった時代の物語なのである。
それでいて『ボトムズ』と共通するのが、森のなかに残ってゆく伝説と怪談であったり、天候、季節によって水嵩を変える川の流れであったり、闇の深さや豪雨の激しさであったり、黒人たちに対する未だ変わらぬ人種差別の不当さに対する少年たちの当惑であったりする。
『ボトムズ』ではプリミティブな日常生活を切り裂くように跳梁するシリアル・キラーの影がミステリーの核であったが、この作品では、言い伝えのなかに見られる過去の事件の真相がサスペンスの核を作ってゆく。
そのまた一方で、カルト、ドメスティック・バイオレンス、近親相姦、同性愛、SM等々。これら現代に繋がる病巣についても、ハックルベリー・フィンやトム・ソーヤーみたいな少年冒険小説のスタンダード・タッチ描いてしまうのがランズデール。職人技の小説。病みつきになりそうな魅力。
ノスタルジック、かつ非情な時間の儚さこそを、重く、意味深げに感じさせてくれた『ボトムズ』のエンディングは、本書のラストでも同様に味わうことができる。無情、冷酷、残虐な事件、奇怪な死体、醜悪な風景を扱いながら、全編に漲る叙情が最後に効いてくる。胸を抉るリリシズムは、誰にもあった少年時代への切ないほどの追憶を痛いほどに刺し貫いてくるはずである。
深夜のベルボーイ
2003/04/12 00:13
地味なボディブローの連打によるじわっとした狂気
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1953年と1954年。二年間で十作ものトンプスン作品が出版されている。この作品が出た当初というのはトンプスン作品がいわば「まあまあ売れた」時代だったのではないだろうか。
この作家の作品にしては狂気への疾走感は薄口の部類だろう。もちろんトンプスンの作品なのだから狂気は確実に存在する。だれもが大なり小なり狂っている。ただしそれは行き着くところまで行ってしまった極北の狂気というわけでもない。
トンプスン作品はどちらかと言えば、一人称文体で書かれた作品のほうがよりスリリングな不気味さを持つことが多い。しかしこの作品では、独特の三人称文体こそが、一人称とは別の意味での幻覚を見せてくれている。限りなく同情を寄せたくなるような薄幸な主人公のなかで次第に姿を現わしてゆく偽善との葛藤がそれである。
父の苦しみへの原罪意識、育ての母への抑圧された性欲、虚言、躁鬱。きわめてきちんとした人間であるかのように言い聞かせ、真実を被い隠し続けないと一瞬で滑り落ちてしまうかのような、青年の危うい日常。トンプスンの心理表現のお家芸が連続する。
いくつもの仕掛けが縦横に張られたトンプスンズ・アンダー・ワールド。迷宮の果ての最終章が例によって不気味でどぎつい。いつものトンプスン的断裂は本書ではさほど唐突ではないものの、むしろ少しずつストーリーをねじ曲げる形で現われる恐怖の奥行き。このねじれと奥行きとをじわじわと咀嚼しつつ味わうビター・テイストこそが、トンプスン以外に決して味わうことのできない隠し味なのだ。
ちなみにこの本には、1985年に寄せられたスティーヴン・キングの序文が掲載されている。ここでのトンプスンへの賛辞は秀逸だ。抑圧されたトンプスン・ファンであっても、この文章からは、比類なき痛快さを味わうことができるはずである。
青い家
2003/03/26 20:35
南部の田舎町、人種間の緊張が走る一週間の物語
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アメリカ南部。ジョージア州の田舎町362人の町民だけで成り立っているスタトラーズ・クロス。三人称での視点が次々と変わり、村を揺さぶる事件の波紋を多重的に描いたスタイル。作家がフォーカスする女性たちは、それぞれ考えも年齢も境遇もばらばらだが、誰もが非常に個性的で存在感があり、その描写の緻密さがミステリーということだけにとらわれない奔放さとブレンドされて独特の味を出している。
本当の家族と擬似家族。事件を構成する村、村を構成する家、家を構成する個人たち。事件がそうした村社会と一家にどういう影響を与え、動いてゆくか。テリ・ホルブルックはとてもゆっくりと物語のねじを巻いてゆく。ゆっくりしたねじだけに、非常に多くの箇所が一斉に動いてゆく。そのあたりが本書を味わう最大のポイントのように思われる。
視点をさまざまに変え、縦糸・横糸を張り巡らせることで、村とアメリカの根にある病んだ部分とが浮き上がってくる。
残念なのは、この作品がシリーズものの第四作に当たるらしいこと。本書の事件は南部の非常に狭い範囲での出来事なのだが、前作まででヒロインが移住した先のイギリスで事件に遭遇したり、結婚相手がテロ組織や殺人に関わって死別したらしきこと、現在ヒロインの作が作中で書いている作品はこのあたりの心の傷を縫い合わせるような回想記でもあるらしいこと、等々。
人種差別と銃。村の上を過ぎてゆく本書での一週間という限定された時間。そこで繰り返される暴力。だが、結果的には村以上に、一家の物語に収斂してゆくこの結末をどうとらえるべきなのか。このあたりが評価の分かれ目であるように思う。だからこそ前作までの経緯が不明なのがつくづく残念に思われるのだ。
火の粉
2003/07/18 01:56
日常から非日常へのめり込む隣人という名の恐怖
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隣人というのはある意味、最も近くにいる他人というだけで、ある種の警戒感を産み出す存在であるし、そこには家庭とそれ以外という括りがもたらす根源的な恐怖感のようなものが埋もれている気がする。本書はそういう恐怖に加えて、ウィリアム・ディールの『真実の行方』みたいな判決の向こうの真実という「疑わしさ」が引っ張ってゆくタイプの心理ドラマであり、なおかつ登場人物以上に読者側がどんどん情報を蓄えてしまう構成なので、先を読んでしまう類いの恐怖小説でもあるわけだ。
特に読者だけが多くの情報を読まされているために、登場人物の対応が遅すぎ、弱すぎ、油断のしすぎといういらだたしさを覚えさせる、アメリカ映画にはよくあるタイプの悲鳴スリラーでもあり、これは見方によっては作者め、またわかった風な仕掛けをしやがって、という言わば仕掛けの見えるいやらしさでもあったりする。
その意味でのめり込み度は浅いが、すいすいと恐怖を呷られつつ先に進んでゆきたいタイプの第一級の娯楽時空間であることには間違いないわけである。若い作家なのに感心させられたのが、主婦たちのリアルな日常描写。料理、子育て、介護、姑・小姑との葛藤、等々である。こういうディテールが実にスリリングに絡み生きてゆくところ、作者の力量を感じさせられる。
古臭いテーマを日本のよくある家庭という日常レベルまで引きずり込んできたところがこの作品のポイントであろうか。まさに一気読みしてしまった。
