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  3. 上野昂志さんのレビュー一覧

上野昂志さんのレビュー一覧

投稿者:上野昂志

54 件中 1 件~ 15 件を表示

容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別

2002/04/16 22:15

2001年9月11日以後のいまだからこそ、心して読まれるべき本

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本人の間では、もう忘れられかけていると思うが、昨年9月11日にニューヨークで同時多発テロが起きたとき、アメリカのメディアや政治家は、「パール・ハーバー」を口にした。つまり、目の前に起こっている事態を、60年前の日本の真珠湾攻撃に重ねたのである。
 日本人からすれば理不尽に思われても、一国の国民的な記憶というのは、おおむねそうしたものだろう。たとえば、これが東京で起こったとしたら、日本人の間で、それを昭和20年のアメリカによる空襲や、原爆投下と重ねる言説が現れるということも十分考えられる。その意味では、国民の一人一人が戦争をどう記憶しているかということを超えて、アメリカ人にとっての真珠湾は、国民の集合的無意識のなかに生き続けているし、それは、今回のような事件に際して一挙に噴出してくるのだ。だが問題はそればかりではない。
 9月11日以降、アメリカ人の「アラブ」や「イスラーム」に対するイメージが、文明を破壊する「野蛮人」というステレオタイプ一色になったということは新聞などで報じられているが、注意すべきは、それが戦中の日本人に対するものと、呆れるほどよく似ているという点である。そのことに改めて気づかせてくれたのが、ジョン・W・ダワーの『容赦なき戦争』である。
 本書は、日本の戦後を描いて評判になった同じ著者による『敗北を抱きしめて』の前に書かれた、太平洋戦争論であるが、9.11以後を考えるためには、いま読まれるべき本であろう。本書における、歴史家ジョン・W・ダワーのもっともユニークな点は、「人種戦争」という観点から日米双方がいかに憎悪をぶつけ合ったかを詳細に分析したことである。
 たとえば、戦争中、英米を初めとする連合国側は一貫して、日本人はドイツ人より野蛮でさげすむべき存在であると主張してきた(人間以下の「黄色い猿」)。そこには明らかに白色人種による有色人種に対する差別がある。そして当然ながら、日本側にも、その逆のアメリカに対する軽侮と差別があった。しかし、もっと重要なのは、戦争が苛烈になるに従って日本もアメリカも、相手を「猿」といい、「鬼」と非難するイメージを強化するようにみずからがなっていき、互いが鏡に映すように似ていったという点である。
 9.11以後においても同じような現象が見られる。すなわち、アメリカにおける「アラブ」や「イスラーム」のイメージが、「文明の破壊者」とか「野蛮」というようにステレオタイプ化されるのに見合って、アラブ世界の側のアメリカに対するイメージも同じようにステレオタイプなものになっていくということである。そしてその応酬のなかで、両者はますます互いに似てくるのだ。その意味で、われわれはまだ20世紀半ばの戦争を引きずっているのだ。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2002.04.17)

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女の謎 フロイトの女性論

2000/10/09 00:15

女の謎を解明しようとしたフロイトが陥った穴、あるいはフロイトという男の謎

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 フロイトは、フェミニストたちに嫌われていたらしい。

 まあ、それもわからなくはない。あまりもてそうもない顔をしているくせに、「女性の超自我」は男のそれと違うから、男女の立場も価値も完全に等しいはずはない、というようなことを主張する男が、フェミニストから嫌われるのは当然だろう。

 あるいは、婚約者に向かって、「家庭を取り仕切り、子どもを育てしつけることは、まるまる人間ひとりを必要とするから、どんな職業につくことも問題外だ。このことに関してはきみもぼくと同意見だろうと思う」なんて手紙を書き送る男は、いまだったら、それだけで相手の女性から婚約破棄を申し渡されるかもしれない。

 だから、フェミニズム運動の初期には、フロイトが創始した精神分析そのものが全面的に否定されたという。しかし、やがてその必要に目覚めたフェミニストたちは、「フロイトを再利用」するようになったが、その際にも、彼の「女性差別」に釘を刺すことを忘れなかった。そのあたりの学説史的なことについては、よくは知らないが、かなり乱暴な否定がなされたらしい。

 訳者によれば、本書の著者であるサラ・コフマンは、「広い意味でのフェミニズムに属している」ようだが、フロイトを一刀両断にするというのではなく、ドイツ語原文に寄り添いながら、それを内側から解体する姿勢をとっているといえよう。つまり、著者自身がいうように「フロイト自身がわれわれに教えてくれた解読方法に従って、彼の言説の中で彼が言っていること彼が実際に行っていることとを見分けながら彼のテクストを読む」という方法である。おそらく本質的な批判というものは、こういうかたちで成されたときにもっとも威力を発揮するだろうと思われるが、そのぶん読みこなすには、かなり骨が折れる。訳者がいうように、「フロイトの著作をかたわらにおいて読む」のが正しい読み方なのであろう。

 一介の評者としては、そこまでできないのだが、それでも、コフマンが、フロイトの夢分析の手法を使って、彼の言説を支える「欲動」を明らかにしている点など、なるほどと納得させられる。しかし、全編を通読しても、フロイトの女性論はこうだ! というような明快な結論が得られるわけではない。むしろ、逆に、フロイトは、なぜ、こんなふうに考えたのかということが、謎として浮上してくるという思いのほうが強い。とりわけ、彼の女性論の核心にあると思われる、女性の「ペニス羨望」というのがわからない。それは、コフマンの解読がわからないというのではなく、フロイト自身が、なぜ「ペニス羨望」ということを、あれほど重要視したのか、それがわからない、ということなのだ。それは、こちらがフロイトほど真剣に「女の謎」に取り組んでいないからでもあろうが、それにしても不思議である。そこに、フロイトという男自身の謎がある。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2000.10.09)

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徹底批判『国民の歴史』

2000/07/30 06:15

あのベストセラー、西尾幹二の『国民の歴史』は、トンデモ本ではないかと22人の歴史学者はいう・・

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 西尾幹二の『国民の歴史』は、組織的に買われたというような噂もあるものの、1999年のベストセラー5位であった。読者の間では、これを読んで元気が出たとか、日本人として自信が持てた、といった意見がある一方、戦前の皇国史観をいまふうに焼き直しただけの本といった批判もあった。とにかく問題の書なのである。そのような問題の書に対して、22人の歴史学者たちが、それぞれの角度から批判したのが本書である。では、『国民の歴史』のどういう点が問題なのか。

 たとえば、西尾幹二は、カール・ヤスパースを引用するところから書き始めているが、それについて、西尾はヤスパースの「実存的問い」の意味をほとんど理解していない、彼は、それをただ自分の歴史観の論拠にするために使っているにすぎない、と批判するのは、山科三郎である。山科によれば、西尾は、ヤスパースの「問い」を自分流にねじ曲げて、歴史研究を神話の物語へみちびく道具にしているということになる。

 また、西尾幹二は、日本の歴史を、これまでのような時代区分で区切るのではなく、大きく「古代」と「近代」に2分する。いわゆる原始、古代、中世が一括されて「古代」ということになるのだが、永原慶二によれば、西尾のその「古代」においては、中世についての言及がほとんどないという。永原は、その理由を、西尾が民衆という存在にほとんど目を向けず、「日本」というあいまいな主体でしか論を立てようとしない手法をとっているところからきていると批判する。

 『国民の歴史』の大きな特徴は、比較文明論的な枠組みで論を進めるところにあるが、その際に、常に日本と対照されるのが、中国である。だが、これも、宮地正人からは、中国を専制国家と利己的個人主義というイメージに固定しようとしていると批判される。まあ、たしかに、『国民の歴史』からは、絶えず日本はエライ、中国はダメだという声が聞こえてくるのではあるが。

 近代における戦争についての西尾の解釈も同様で、日清・日露の戦争は、どちらも自衛戦争、国威発揚戦争であり、太平洋戦争は、アメリカが日本を仮想敵国にして始めた「日米人種戦争」ということになる。笠原十九司は、そこに「負けても目覚めなかった皇国少年」西尾幹二を見るのだが、目覚めるか目覚めないかはともかく、彼に敗戦コンプレックスがあることはたしかだろう。

 というような批判はまだまだ続き、それはそれで納得させられる点が少なくはないのだが、『国民の歴史』のほうは、たぶんそれでも負けないのだと思う。というのは、西尾幹二のほうが攻撃的であり、それに対する批判のほうが防御的だからである。批判も、もう少し戦略的に行われないと、いまひとつ力にならない。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2000.07.29)

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読書欲・編集欲

2002/03/13 18:15

いまは希少になった「おせっかい」な編集者から、本に関わるすべての人に向けられた言葉。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 津野海太郎は、一九六〇年に晶文社に入り、ウェスカーの戯曲集を作ることから編集の道に入ったという。すると、彼の編集者歴は、すでに四〇年を超えているわけだ。むろん津野は一方で演劇運動に関わり、もの書きでもあるから、編集一筋というわけではないが、それでも彼の活動のベースに、編集があることは確かだろう。
 そんな彼が、編集者の属性の第一に挙げるのは何かというと、「おせっかい」なのである。「おせっかい」というのは、やや偽悪的な言い方だが、要するに、面倒見たがり。たとえば気に入った書き手がいると、なんとかその人の本を出そうとし、面白そうな考えの人がいると、何か書かせようとする。津野自身の美しい表現に従えば、「じぶん以外の人間がもつ力にひかれ、そこにじぶんの力を合流させたいという欲求」をもっている人ということになる。タイトルの「編集欲」とは、このような欲望のことだ。
 ところで筆者は文筆稼業三十ウン年のロートルだが、その経験に照らしても、最近は、そういう編集者にはめったにお目にかからなくなった。たいていは他で書いているのと同じようなことを注文してくる、それも相談抜きに、いきなり〆切まで指定して。下手に会って話でもしたら、お互いに時間のロスでしょう、といわんばかりの様子で。その人間に、いままで書いたことのないようなものを書かせようとか、新しい興味を焚きつけようなんてことは、つまり、そういう「おせっかい」な編集者は、ほとんど皆無に近いのだ。
 これを逆側からいうと「編集者が生きにくい時代」ということでもある。津野によれば、編集者が生きにくいのは、たんに本が売れないからではない。業界全体の空気が、とにかく「売れる本」を、それも「いますぐ売れる」本を、となっている点に、その原因がある。つまり少部数の本であっても、時間をかけてじっくり売り、版を重ねて循環させていくということができなくなっているというのである。これは、ほとんど出版界そのものの自殺行為といってもいいが、そういう空気を変えるには、編集者だけでなく、読者の力が必要だろう。
 そんな「おせっかい」な編集者が生きにくい時代にあって、津野海太郎は、ユーモアを失うことなく、現役編集者として、また読者として、いまを生きている、その現状報告が本書ということになるが、いろいろ教えられるなかで、とびきり興味深かったのが、『婦人之友』とその「友の会」について歴史的な考察を加えた「雑誌の読者が『同志』だった時代」と、東アジアにおける印刷という角度から印刷の問題を考察した「グーテンベルクから遠くはなれて」であった。
 たんに出版社に就職するのではなく、編集をやろうという人にぜひ読んで貰いたい一冊である。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2002.03.14)

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マンガと著作権 パロディと引用と同人誌と

2001/11/14 22:16

これからいろいろな問題が出てきそうな著作権とマンガの微妙な関係がわかる。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 文字や画像から音楽まで、あらゆるものがコピーできるようになり、個人で本を作ることも簡単になるにつれて、著作権の問題がクローズアップされるようになった。そこへもってきて、インターネットで画像を送ったり、音楽を配信するということになると、事態はますます複雑になる。マンガの場合は、それがマンガ表現の独自な問題と重なり、またコミックマーケットの発達による素人作家の登場で、著作権の問題はさらに微妙になる。

 本書は、そういった事態を踏まえ、昨年のコミックマーケット準備会で開かれた「マンガと著作権に関するシンポジウム」の記録と、マンガや同人誌に関わる著作権関連の資料を集めてまとめたものである。シンポジウムは、作家や評論家で行ったものと、弁護士や弁理士などの専門家と作家で行ったものとの2回があるが、どちらも話が具体的で面白い。

 たとえば、コミックマーケットに登場する同人誌には、既成のマンガやアニメやゲームのキャラクターを使って、ファンが勝手にサイドストーリーを展開しているものがかなりある。そういう場合、著作権と抵触してくることが少なくないのだが、それを一概に否定してすむかという問題はある。というのも、マンガにとって、またマンガ家が生まれてくる過程において、模写や模倣というのは、相当に大きな意味をもっているからだ。これがパロディということになると、マンガにはもともと現実を風刺したり戯画化したりすることを表現の本質としている面もあるから、著作権保護を金科玉条にするとマンガの生命を断つことにもなりかねない。また、リアルな画調のマンガなどで、背景を描くのに写真を参考にしたりする場合がある。それがどの程度まで許されるかとなると、これまたかなり微妙な問題になる。さらに、これは現代美術や音楽などとも共通するのだが、サンプリングやコラージュという手法が、著作権とどのように折り合いをつけるかという問題もある。

 というように、ひとたび表現の現場に踏み込んでいくと、あちこちに地雷が埋まっているような案配なのだ。しかし、これは弁護士がいっているように、表現する側の覚悟や信念に関わる部分がかなり重要だと思われる。つまり、ときには法に触れても、どうしてもそのように表現しなければすまないという信念があれば、そしてそれにふさわしい作品に磨き上げれば、そこで闘えるのである。なお、弁護士の牧野二郎氏は、これからの著作権問題のあり方として、著作人格権は守り、それに付随する著作経済権は捨ててしまうという研究を進めているようだが、これは未来の著作権のあり方としてはきわめて示唆に富む考え方だと思う。そうなると、芸術表現のあり方そのものも変わるが、複製技術がここまで進んだ状況では、これはかえってリアルである。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2001.11.15)

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歌の風景

2001/06/06 18:18

これらの歌を知るすべての人に、まだ見ぬ土地への憧れと子ども時代への郷愁をかきたてる。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「菩提樹」、「サンタルチア」、「スワニー河」、「ローレライ」、「アーニーローリー」、「埴生の宿」、「聖者の行進」、「故郷の空」、「帰れソレントへ」・・。どれもみんな、懐かしい歌ばかりだ。この本は、安野光雅さんが、そんな懐かしい歌にちなんだ街や村を訪れ、描いた風景とエッセイで出来ている。
 もともと安野さんの絵には、その場の光や空気を浮かび上がらせるような独特の透明感があるが、それがここでは歌と結びついて、見る者の心をその場へと誘っていく。たとえば、菩提樹のあるドイツのアレンドルフの町だとか、ローレライの岩があるといわれるライン川だとか、スコットランドのローモンド湖のほとりなどへ。だから絵を見て、エッセイを読んでいると、自分でもいつか一度そこへ行って、この風景の中に佇んでみたいと思うと同時に、その歌を口ずさんでいたりする。幸いなことに、巻末には、詞と楽譜が載っているから、忘れたところを思い出すこともできる。

 しかし、それにしても、この懐かしさはなんであろうか。
 一つには、ここに出てくる歌がどれも、小学生や中学生だった頃に覚えたものだということがあるだろう。いつの間にか歌わなくなったが、でも題名や、歌い出しの一節を聞くと即座に歌うことのできる歌。それが、よく歌った、あるいは歌わせられた子どもの頃の記憶をかきたてる。
 安野さんは、「さらば故郷(ふるさと)、さらば故郷、故郷さらば」というリフレインを持つ「故郷を離るる歌」に寄せて、ヘルマン・ヘッセの『青春はうるわし』という本を読むうちに、ヘッセの故郷であるドイツのカルプという町は、安野さんの故郷である津和野とそっくりだと思うようになり、のちにドイツに行った折りにそこを訪ねたと書いている。そして「もちろんそっくりというわけではないが、日本に帰って思い出すと、またそっくりな町になるから不思議である」というが、この心の動きに、懐かしさの秘密があるのではないだろうか。このエッセイの末尾を、安野さんは、「故郷とは子どもの時代のことなのである」という言葉で締めくくっているが、それは、安野さんのように具体的な形では故郷を持たないわたしなどにも、実に深く胸に落ちる。
 実際わたしは、ここに載せられた風景のほとんどを直接には知らない。にもかかわらず、それを見ていると、懐かしいという想いを喚び覚まされる。それは、一面では、歌にかきたてられた記憶を投影させて見ているからでもあるが、もう一面では、安野さんが、いろいろな場所に、「子ども時代」としての故郷を見いだして描いているからであろうと思う。その意味では、「歌の風景」とは、同時に心の故郷の風景でもあるのだ。

 これらの歌のほとんどは、ピアノかオルガンを伴奏に、合唱という形で歌い覚えたものだが、いまの小学校や中学校でも、これらは歌い継がれているのであろうか。そして、それは、カラオケで歌う流行歌などより強く子どもたちの記憶に残っていくのであろうか。そうでないとすれば、これらの歌を懐かしく思い出すということ自体が、ある時代までの歴史的な経験として忘れられていくしかないのであろう。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2001.06.07)

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怪しい日本語研究室

2001/04/25 15:16

大人は日本語の乱れを嘆くが、本当に怪しい日本語を使っているのは誰か?

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書の著者、イアン・アーシーは、子供の頃、ちょっとした文字オタクだったらしい。それも、博物館に行って、バビロニアの楔形文字だとか、エジプトのヒエログリフを書き写したりしていたというのだから、半端ではない。日本語に対する興味も、漢字カナ混じりの文字を書き、しかも、漢字には幾通りの読みがあるという、その文字表記の面白さに惹かれて勉強したようだから、日本語に対する造詣も、なまなかな日本人より深い。それが、へんな日本語を解剖すると同時に、そんな言葉に表れた日本社会のありようにも思いをめぐらしたのが本書だ。だから、読んでいて、随所に思い当たるところがあるし、思わず笑ってしまうところがある。

 たとえば、これは言葉の用法に関わることではないが、彼が母国のカナダで日本人相手のツアーガイドをやっていたときのこと。よその団体とすれ違って、日本語で言葉を交わした。と、相手が、別れ際に「変な外人!」といったというのだ。それに対して、イアンは、ここはカナダなんだから、「あなた達のほうが外人だよ!」と突っ込みを入れるのだが、同時に、そのやりとりから、日本人は、どこにいても日本語は自分たちのものと考える「属人」的なものではないかと考える。だから、「外人」というのは、自分たちと国籍や皮膚の色が違う人間に投げかける言葉であって、自分が「外人」である場合もあるというようには考えない。

 このあたり、言葉の問題であるだけでなく、日本人の意識の問題でもあるだろうが、そういわれれば、思い当たることが多々ある。
 それでおかしいのは、プロ野球で、あるときからごく普通に使われるようになった「新外国人」といういい方。イアンは、これに対して「形は似ているが『新成人』や『新社員』などとはかなり趣が違う。なにしろ新しく外国人になるわけじゃない」というのだが、まったく仰るとおり。彼はさらに、そういう選手は大リーグでかなりキャリアを積んでいるはずだから「中古外国人」ではなかろうか、というのだが、電車のなかで、ここを読んだときには、思わず吹き出しそうになって困った。でも、プロ野球中継なんか見ていると、いまも解説者が、マジメに「新外国人」を連発しているんだよね。

 だが、おかしな言葉に対するイアンの解剖が冴えわたるのが、日本の官僚の文章術を取り上げたところだ。彼は、役所言葉で人気ナンバーワンなのが、「整備」という言葉だとして、役人の文章を「整備文体」と呼ぶ。たとえば、「凡人」なら「パソコンを買ってくる」というところを、官界では「パソコンの整備」といい、同じく、道端に木を植えることを「街路樹の整備」、働き口を増やすのは、「就業機会の整備」・・といったように。その調子で、『徒然草』や『枕草子』などの冒頭部分を「整備文体」で書き直すとどうなるかというのをやっているのだが、これが最高におかしい。そこで、中身もないくせに、外見だけはエラそうで、おまけに誰が何をどうするかという肝腎な部分は、責任を取らなくてすむように曖昧にボカシている役人言葉のグロテスクさが、むき出しになるのである。

 こういう言葉に較べれば、日本語を歪めていると非難される若い子たちの言葉づかいなどは、可愛いものだという気になる。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2001.04.26)

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もっと知ろうよ!ハングル となりの国の言葉と文化 1 あいさつと文字

2001/01/29 15:15

日本語のアイウエオを、ハングルで書けば、暗号でも書いている気分になって、面白い。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 初めてソウルの街に行ったときは、まずハングルに圧倒された。漢字やローマ字なら、たとえ意味はわからなくても、文字として読むことができる。だが、ハングルでは、音として読むことすらできないのだ。角張った視覚的な記号だけが、こちらの目に襲いかかってくるのである。それで、持っていった韓国語の入門書を取り出し、読み方だけでも覚えようと、地下鉄に乗ると、駅名を告げるアナウンスに耳をそばだて、看板に眼を凝らした。

 発音の当否はともかく、曲がりなりにもハングルが読めるようになると、食堂のメニューなども、口にすることができる。それはそれで楽しいのだが、こちらは料理の名前を音として読んでいるだけで、中身はわからない。が、向こうは、そうしてたまたま読み上げた料理の名を、注文と思って持ってきたりする。これには参った。だって、まったく予想もしないような料理が出てきたりするのだから。それでも、読めるだけでも一歩韓国にちかづいた気持になる。

 来年は、サッカーのワールドカップが日韓共同主催で行われるが、そうであればなおさら、韓国語で簡単な挨拶ができたり、ハングルが読めたりするほうがいい。そのための入門書の類は、これからもいろいろ出ることだろうが、本書は、難しい理屈は抜きに、とにかく韓国語に触れてしまおうという趣旨で書かれているから、ローマ字を覚えたばかりの子どもでも、気楽にハングルに親しむことができる。発音などでも、厳密にいえば、かなり難しいはずだが、この本では、あまり細かいことをいわずに、日本語のカナ表記で表している。そうすると、日本語の50音などもハングルで書き表すことができるのだが、これもやってみると面白い。声に出して読めば、日本語なのだが、書いてあるのは、ハングルだから、知らない人には、暗号のように見える。妻に読まれないようにと、ローマ字で日記を書いた明治の歌人、石川啄木が現代に生きていたら、ハングルで日記を書いたかもしれない(笑)。

 とにかく本書を何度か読めば(ついでに、ノートに文字を書けば)、ハングルを覚えられるし、韓国語で簡単な挨拶ができるようになる。あるいは、韓国語の語順が日本語とよく似ているとか、漢字の熟語には、日本語と共通のものが多数あるということなども知って、韓国語に対する親しみが増すだろう。ただ、記憶力に自信がなくなって、言葉を覚えるのも体系的に把握しないと、なかなかイメージがつかめないという向きには、やや物足りないかもしれない。たとえば、ここには、「ありがとう」の意味で「カムサハムニダ」と「コマウォヨ」が出てくるが、その違いについての説明はないというように。ただ、本書は、『もっと知ろうよ!ハングル』の1で、このあとに2以降が続くはずだから、たぶん、そのなかで、いま挙げたような問題は解決されるのだろう。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2001.01.30)

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岡山女

2001/01/26 18:15

失われた片目に映るのは、死霊か生霊か、それとも何かに取り憑かれた人間の心か・・。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 明治も末に近い頃、岡山市の外れの川岸沿いに、粗末な家が互いに倒れかかるように支え合うように軒を連ねた一角があったという。そのうちの一軒の借家の、夕方のいっときにしか日が射さぬ六畳間に、顔の半分を紫の被布で隠すようにした女が一人、じっと座っている。女の名は、タミエ。もともと晴着を着ればその美しさが際立つ、「こしらえ映え」のする女で、菓子製造をしていた男の妾をしていたが、商売がうまくいかなくなった旦那が、一夜の狂気に取り憑かれたか、日本刀でタミエの顔を斬りつけた挙句、自分で喉を突いて死んでしまった。そのため、タミエは左目を失い、そのあとが醜くひきつれてしまった。
 その傷は、雨が降ると痛んだが、やがて明日起こることや、すでに死んだものの姿を映すようになった。残った右目に映るのではない。失われた左目に映るのだ。それが評判を呼んで、タミエのもとには、行方不明の人の所在を尋ねたり、その生死を確かめたいという人が訪れるようになった・・。

 『ぼっけえ、きょうてえ』で、日本ホラー小説大賞と山本周五郎賞をダブル受賞した岩井志麻子の、短編連作集である。すでに前作で明らかなように、岩井は、みずからの出身地である岡山にこだわる。とりわけ、岡山弁という言葉に。この作品もそうだ。会話のやりとりにそれが生かされていると同時に、「風だきゃあ、借りゅうせん(風だけは、借りをせん)」というような、この地方で使われてきた独特の言い回しなどが、効果的に使われているのだ。
 そのような岩井志麻子の、ローカリティー志向とも呼ぶべきものが何に由来するかは定かでないが、現在の日本の小説の言葉の多くが平板に均質化しているなかでは、異彩を放つという以上に、ある種の力を発揮する。いわば、そこでは、言葉とともに、物語を支える場所の空気のようなものが立ち上がってくるのだ。これは、怪奇幻想小説といわれるようなジャンルでは、ことのほか重要であろう。というのも、怪奇や幻想を呼び起こすには、独特な場所というものが不可欠だからである。
 しかし、それが岡山だというのは、その土地に住んだことのない人間から見ると、ちょっと不思議に思える。というのも、旅行者として訪れる岡山は、物産の豊かな明るい土地という印象があるからだ。つまり、外から見ただけでは、とても死霊や生霊が徘徊しているとは思えないのだ。だが、岩井志麻子の語る噺を聞くと、明らかに死霊や生霊が蠢いているのだ。それも決して夜中ではない。すでに背後には夏を控えた梅雨時の、午後の日射しのなかに、うっすらと霊たちが浮かび出るのである。するとあたりは、まだ日があるのに翳ったようになる。この感覚には憶えがあると思ったら、岩井と同郷の偉大な先達を思いだした。内田百間である。とすると、岡山という土地は、外見の印象とは別に、幻想や怪奇を育む土地なのかもしれない。

 もう一つ、この小説に関していっておかなければならないのは、その時代性であろう。冒頭に触れたように、これは、明治の末年、四十二、三年に物語の時間が設定されている。つまり、ハレー彗星が地球に近づき、人々を不安に陥れた頃だ。その頃、東京や大阪から遠く離れた岡山にも、コーヒーが入ったり、デパートができたり、列車の汽笛が聞こえてきたりと、ハイカラなものが入り込んだようだが、それと片目を失った霊媒師という組み合わせが、なかなかに味わい深い。そういえば、御船千鶴子の「千里眼」、すなわち透視が話題になり、その真偽を確かめる実験に東京帝国大学の教授たちが立ち合ったのも、明治四十三年のことであった。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2001.01.29)

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失われた日本の風景 故郷回想

2000/12/26 21:15

「失われた日本の風景」は、現在の日本人の暮らしから何が失われたかを静かに語りかけてくる。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本の社会は、昭和30年代を境に激変する。そのメルクマールは、東京オリンピックがあった1964(昭和39)年であろう。その前後で、日本人の暮らしが大きく変わるのだ。それをもたらしたのは、高度経済成長である。それが、日本人の、衣食住すべてにわたる生活のあり方を決定的に変化させた。決して大仰な話でなく、人々の顔つきまでも、それ以前と以後では変わってしまったのだ。それは、昭和30年代前半に撮られた写真を見ればわかる。

 本書に収められた薗部澄の写真で、もっとも多いのは、昭和30年のものである。撮られているのは、おもに農山漁村の家や人や仕事であるが、それらを見ていると、まさにタイトル通り、いまは「失われた日本の風景」という思いにうたれる。たとえば最上川をくだる四角い一枚帆の舟があるかと思えば、着ござを身にまとった子どもや女の人の姿があり、ねんねこで赤ん坊をおぶったお婆さんがいる。あるいは、田を耕す人がおり、山で炭を焼く人がいる。
 なんとも懐かしい風景である。だが、たんに懐かしいだけではない。ここには、いまの日本人の生活から失われてしまった、健康さがあるからだ。たとえば、それを神崎宣武は、こんなふうに書く。

「子どもの本分は、外で遊ぶことにあった。家で手伝いすることにあった。そして学校で学ぶことにあった。
 家の事情によって、その役割の配分がちがってくる。が、その三つをこなすのが子どもであった。かつての子どもであった、といい直すべきか。現在、子どもたちは学ぶことが中心。」

 「子どもの本分」の三つの並べ方に注意してほしい。確かに、昭和30年代までの子どもたちは、このような順序で、子どもの本分をまっとうしていたのだ。ところが、その一番目と二番目が、本分の位置を奪われてしまった。学校が、子どもの生活の中心になり、子どもの世界全体が「学校化」してしまったからである。

 むろん、いまでも子どもは遊んではいる。が、それは学校の同じ学年の、同じクラスの友だちとであって、かつてのように、近所の、年齢のまちまちな子どもたちとではない。昔は、学校とは別の、近所の友だちという集団があったのに、いまでは、すべてが学校に取り込まれてしまったのである。だから、クラスのなかでイジメを受けても逃げ場がない。また、家事が電化されたり、親の仕事が機械化された結果、子どもに手伝いをさせるということがなくなった。その結果、手伝うことによって「学ぶ」さまざまなことが失われてしまった。

 これは、一つの例に過ぎない。生活のさまざまな局面で、こういったことが、経済的に豊かになり、便利になるという反面において進行したのである。本書に収められた写真を見ているうちに、そのことに気づかせられる。つまり、「失われた」のは、たんなる「日本の風景」ではない。風景と同時に、それを生み出していた生活のかたちや、それを支えていた人間の健康さも失われたということなのである。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2000.12.27)

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髪の文化史

2000/12/19 21:15

髪が神に通ずという考えは世界中にあったようだが、いまそのような心をもっているのは、髪フェチの人だけ?

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 最近は電車の中で化粧をする女の人が目立つせいか、それとも茶髪が一般化したせいか、一時のように、うっとりしたような顔つきでムダ毛を抜いている人は見なくなった。人前で化粧をしているのもどうかと思うが(そういえば、最近『平然と車内で化粧する脳』という面白い本が出た。あれは、脳のモンダイなんだ!)、自分の髪をうっとりと撫でながら、ムダ毛を引き抜いては床に捨てている姿というのも、キモチ悪かった。

 昔の女性は、あんなことはしなかった。化粧前(鏡台)でちゃんと髪を始末し、抜けた毛は紙に包んで捨てたものだ。これは、むろん行儀の問題でもあるが、髪そのものが、もともと神聖なもの、あるいは霊力を帯びたものと考えられてきたからである。だから、うっかり自分の髪を捨てたりすると、恨みをもっている人に拾われ、呪いをかける道具に使われたりすることがあったという。

 たとえば、なぜ髪を「カミ」というか。日本では、天上に神がいると考えたので、上をあらわすカミという語を「神」の意に用い、人体に宿る神、つまり魂も、上にある毛髪に宿ると信じたと荒俣宏はいう。ただ、髪が神に等しいという考えは、日本だけでなく世界中で見られるという。そして髪の霊力は、長ければ長いほどその力を増すと信じられていた。

 そういえば平安朝の女の人なんか、みんな髪を長くしていた。あまり長いので、寝るときには箱に入れたり、小さな衣紋架けのようなものにかけるようにして寝たらしい。トイレのときなんか大変だ。桃山時代に日本に来た宣教師のルイス・フロイスは、日本女性が歳をとっても黒くて艶のある髪をしているのと、その長さに驚いたらしいが、同時にその悪臭にも閉口したらしい。悪臭の元は、髪を黒々と見せる油のためだった。まあ、ごま油を煎じた養毛料をつけたり、黒豆を煮詰めた汁をつけたりしていたというから、臭かったのだろう。でも、日本人の間では、とくに悪臭とは感じていなかっただろうから、このあたり、匂いに対する文化的な差異という問題もある。

 日本女性の髪といえば、江戸時代にその絢爛さを誇る日本髪ということになるが、あれは、出雲の阿国が、男のヘアスタイルを真似たことから始まったらしい。それまでは、男は髷を結っていたが、女はストレート・ヘアを垂らしていたり、うしろで結んでいたりした。阿国はそれを、元服前の少年のように、頭の上に束ねて持ち上げ髷にした。それも、少年髷では、上の部分を一つの丸い輪にするのを、阿国は、二つから四つの輪にしたので、目立つと同時に評判になり、あっという間に遊女たちの間に広まったという。それをやがて、みんなが真似るようになるというのは、衣服や髪型の流行の常であろう。

 というような話が満載されている本書だが、むろん、髪といっても上の髪の話だけでなく、アンダーヘアの話もあるし、男を怯えさせるハゲの話もある。茶髪も、そういう文化史のなかにおいてみれば、違った角度からも考えられるだろうし、ごく単純に話の種としても面白い。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2000.12.20)

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宮武外骨 民権へのこだわり

2000/07/18 09:15

いまのジャーナリズムの世界にも、宮武外骨のような人がほしい

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 作家の山田風太郎は、尾崎紅葉と幸田露伴と夏目漱石が、同じ慶応3年(1867)生まれであることに感嘆していたが、わたしは、これに、南方熊楠と宮武外骨を加えたいと思う。紅葉、露伴、漱石に較べて知名度は劣るが、在野の民俗学者で植物学者だった熊楠にしても、独立独歩のジャーナリストだった外骨にしても、その破天荒な活動ぶりは、彼ら三人に少しもひけを取らぬばかりか、どこまでいっても権威にならない点で、より刺激的な存在だからだ。

 この本は、その宮武外骨が昭和30年に亡くなるところを、甥である著者の目から見た記述で始まるが、外骨とは、どんな人だったのか。彼自身の著述が約940冊、他人の著作や復刻の出版物38点と、数量だけでも膨大だが、やはりジャーナリスト外骨の独特なスタイルを知るには、彼が最初に作った『頓知協会雑誌』の発行停止事件を見たほうがいいだろう。

 外骨が『頓知協会雑誌』を創刊したのは、明治20年の4月1日。彼が20歳のときだが、千部売れれば大成功といわれた時代に、創刊号を四千部売ったというから、商売のセンスもよかったのだろう。だが、創刊から二年後の明治22年、大日本帝国憲法が発布されて国中がにぎわっているさなかに出した『頓知協会雑誌』に、帝国憲法の条文をもじった「大日本頓知研法」と、口絵に、天皇ならぬ「骸骨」が、憲法ならぬ「研法」を下賜している図を載せたのである。言葉のうえでのパロディだけでなく、図版などにも常に工夫を凝らすという外骨スタイルは、このときすでに存分に発揮されたわけだが、これが、憲法の評判を気にしていた当局の神経を逆なでした。雑誌は発行停止、外骨と挿し絵画家は不敬罪で起訴されてしまった。結局、いまの最高裁にあたる大審院まで裁判で争ったが、外骨は有罪となり、三年間、石川島監獄に下獄する。ところが、「塀の中の懲りない面々」ではないが、外骨も、獄中での労役の場が印刷工場だったのを利用して、雑誌の発行を企て、それがバレて製本工場に回されたりしているのだ。

 著者の吉野孝雄は、明治政府によるこの処罰が、外骨を「反体制言論人」に育てたと見ているが、たしかに外骨にとっても、牢獄が「わたしの大学」であったのだろう。これ以後、何度となく発行停止処分を受けながらも、彼は、少しもめげずに挑発的な出版を続けるのである。しかも、それが硬直したメッセージにならずに、常に彼のいう「頓知」を生かしたユーモラスな表現と、いま見ても新鮮なデザイン感覚に溢れたグラフィズムになっているところが、ジャーナリスト外骨の素晴らしさである。

外骨に関する本は、これまでにも出ているし、吉野孝雄も書いている。それらに対して、この本は、『頓知協会雑誌』から始まり、『滑稽新聞』などを経て、晩年の、東大の嘱託として明治時代の新聞や雑誌収集に奔走する(明治新聞雑誌文庫)までの外骨の活動を、「民権へのこだわり」という角度からトータルに辿った点と、外骨と関わった多くの人たちの存在を明らかにした点(歴史の中の外骨人脈)が新鮮で、興味深い。 (bk1ナビゲーター:上野昂志/評論家 2000.07.17)

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食の堕落を救え! スローフードの挑戦者たち

2002/07/09 15:15

ここに本物の食品を作る人たちがいる。この人たちを見よ!

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 雪印食品の食肉ごまかし事件もひどかったが、協和香料化学とかいう香料会社の無認可香料事件もひどかった。とにかく主だった食品会社の多種多様な食品に、許可を受けていないさまざまの香料が使われていたというのだから。
 だが、問題は、それらの香料が人体に有害かどうかということだけでなく、スーパー・マーケットなどで売られている食品に、それほど多くの香料が使われているということのほうだろう。香料だけではない。発色剤とか防腐剤といったものを含めると、われわれは毎日毎日、何十種類、何百種類もの化学製品を口に入れているというわけだ。そして、いまではそんなふうに人工的に味付けられ、匂いづけられた食べ物に慣れて、何の不思議も感じなくなっている。まさに、われわれの食は、すでに十分堕落しているわけだが、そんな時代にあっても、本物の食品を作り続けている人たちがいるのである。本書は、醸造学・発酵学の権威として、また本物の味の探求者として知られる小泉武夫氏が、そういう人たちを訪ねて、それぞれの食品作りの現場を明かしたものだ。それが実に面白い。
 たとえば小泉氏が、最後の晩餐は何にするといわれたら、この白菜漬けに炊きたてのご飯をくるんで軍艦巻きのようにして食べるという針塚藤重さんの話。大量の農薬や大型の農機具を使わせることだけに精力を注いできた日本の農政は、健康な人に薬を押しつけるのと同じだと批判する針塚さんは、まず、小麦の隣に白菜やキャベツを植える共生栽培でミネラルや有機物を十分吸収した白菜を育てることから、その漬け物づくりをする。
 あるいは、イタリア人もビックリするような美味しいチーズを作っている吉田全作さんは、チーズは生乳で決まるといって、ホルスタイン種ではなく、十頭のブラウンスイス種と五頭のジャージー種の牛を自分の牧場で放牧している。また、琵琶湖ですしの源流といわれる鮒鮓を作っている北村眞一さんは、昔から家訓のようにしていわれてきた製法を守って、「飯漬け」だけでも一年をかけてニゴロブナをゆっくりと発酵させる。
 その他、加納長兵衛さんの醤油にしても、加藤孝明さんのみりんにしても、山本伊助さんの鰹節にしても、みんな素材選びから製品化のどの行程でも、昔ながらの手法に創意工夫を加味して実に丹念な食品作りをしているのには、改めて感嘆するし、物作りということの基本を教えられる思いがする。
 彼らの力だけで現在の食の堕落が救われるとは思わないが、消費者が、彼らの食品作りの姿勢を知って、自分の毎日の食のあり方を考えるようになれば、変わる可能性はあるだろう。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2002.07.10)

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海女の群像 千葉・御宿〈1931−1964〉 岩瀬禎之写真集 増補改訂版 新装

2002/07/08 18:15

太陽の下で、女たちは、かくも健康な肉体美を誇っていたのかと、改めて驚く

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 海に潜ってアワビやエビを獲る海女という仕事は、いま、どうなっているんだろう。細々ながらも、続けている人がいるのだろうか。海が汚染され、漁業の方法も大きく変わってしまった現在、かりにあったとしても、ほとんど絶滅寸前ではないかという気がするのだが。そうだとすると、この四海を海に囲まれた島国で、太古の昔から数千年、ひょっとすると一万年以上続いてきた仕事が、二〇世紀の後半のわずか数十年のうちになくなってしまったということになる。
 この写真集を見ていると、そんな思いに誘われて、しばし呆然となる。ここに収められた写真のうち、もっとも新しいのが一九六四年の夏だということは、上に述べたわたしの危惧を証明しているように思われるのだ。一九六四年というのは、東京でオリンピックが開かれた年だが、それはまた日本が高度経済成長に向かうトバ口でもあった。その頃から、川も海も急速に汚れていき、経済合理性が生活の第一の要件になっていったのである。自分の身体ひとつを頼りに海に潜り、魚介類を獲ってくる海女などという仕事は、環境からいっても経済合理性からいっても成り立たなくなったろう。
 しかし、写真に写っている海女たちは、銛で突いた石鯛を見せながら、あくまでも朗らかに健康に笑っている。それは片手泳ぎをしながら、捕まえた大きな伊勢エビを見せている海女にしても同じだ。誇らしげに自分の得物を見せている彼女の笑顔は、底抜けに明るい。
 写真は、一九三〇年代から始まっているが、その昭和初年代の海女たちの顔や体つきは、戦後の五〇年代や、六〇年代初めの海女たちのそれとあまり変わってない。裸でむき出しの胸は大きく張り、腰も豊かだ。夏でも冷たい海の底に、素モグリでいって、岩に張り付いたアワビなどを引き剥がして持ってくるには、人一倍丈夫で、健康な身体でないとつとまらないから、海女たちは、みんないい身体をしている。そのはちきれそうな健康美が、写真をきわめて力強いものにしている。
 著者の岩瀬禎之は、千葉の御宿で「岩の井」というお酒を造ってきた醸造元の家に生まれ、若いときから趣味で写真を撮ってきたアマチュア写真家ということだが、その人が、地元の海女たちを撮り続けたことで、ここに見事な写真集が生まれた。この本は、昭和五十八年に私家版として作られたものの、増補復刻版だが、貴重な仕事なので復刻されてよかった。モノクロの写真そのものが、実に力強く、作品として優れているというだけでなく、遠からぬ将来に消えていくであろう海女という存在の記録としても貴重である。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2002.07.09)

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全体主義 観念の(誤)使用について

2002/07/03 18:15

「ラカン派マルクス主義者」ジジェクが、全体主義を新たに定義し直して、良心的な知識人の盲点を突く

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 スラヴォイ・ジジェクの名前は、著作が出るたびに翻訳がなされる日本の出版界では、すでによく知られているだろう。ヒッチコックの諸作品をラカン理論で読み解くというか、あるいはラカンの理論をヒッチコックの映画を通して読み解くというか、いずれにせよ、ラカンとヒッチコックを結びつけたことで、一挙に難解なラカン理論を大衆化した『ヒッチコックによるラカン』や『斜めから見る』などによって、ジジェク自身も有名になったのである。
 本書は、その新著であるが、ここでは、「ラカン派マルクス主義者」といわれることもあるジジェクの「マルクス主義者」としての面目がよく出ているといってもいいだろう。いわば、ラカン理論によって現代のイデオロギーを批判的に解析しながら、そこにいまではあまり見ることのないマルクス主義的な立場性とでもいうべきものが、したたかに息づいているのである。
 一貫した主題は、タイトルが示しているように、「全体主義」という言葉で流布されている観念が、いかに誤って使用されているか、ということである。たとえば、いま「全体主義」といえば、それはナチズムやスターリン主義への連想と結びついて、ほぼ一義的に非難の意味を持つ。ジジェクは、それに待ったをかけるのだ。君はいま「全体主義」といったけれど、それは全体主義についての間違った観念ではないかね、と。そして説明する、ヒトラーのホロコーストについて、スターリン主義について。あるいは、つい最近、日本でも話題になったヨーロッパの新右翼の台頭について。
 たとえばフランスでは、ル・ペンが率いる国民戦線が伸びたことで、左翼が次善の選択としてシラクを選び、彼は大統領の再選を果たしたわけだが、それこそまさにジジェクがいう「新ポピュリスト〈右翼〉は、自由民主主義的で寛容で多文化主義的な新ヘゲモニーが正当化されるうえで重要な構造的役割を果たしている」ことの一つの例証であろう。そこでも、ル・ペンのような新ポピュリストを「全体主義」という単純な枠で括ることで、政治闘争の真の課題は脇へ押しやられ、シラクのような無能な保守主義者にヘゲモニーを譲り渡している、というわけだ。
 しかし、これはフランスやオーストリアだけの問題ではないことはいうまでもない。日本でも、新ポピュリストというべき政治家はいるし、彼らの存在をクリアに捉えることは、今後の重要な政治課題でもあるからだ。むろん、本書でジジェクが展開している議論は、このような政治的なテーマだけではないが、どんな問題でも、彼は、良心的な知識人たちの思考の盲点を的確に突いて、刺激的である。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2002.07.04)

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