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越川芳明さんのレビュー一覧

投稿者:越川芳明

24 件中 16 件~ 24 件を表示

書評前編:ある饒舌な映画監督の、饒舌なお話

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のっけから、ぼくはこの映画監督のいかさまっぽい「詐欺師」めいたやり方に歓声をさけんでいた。理由はこうだ。「ラース・フォン・トリアー」なる名前をめぐって、フォンというのは、ドイツ語では貴族の称号で、デンマーク人のかれは勝手にそれを自分の名前につけたのだ。自分の大好きな狂気の作家が手紙の最後に、必ず「王」とサインしていたのにヒントを得たという。「アメリカのミュージッシャンでもやってるじゃない。デュークとかカウントとか」

そもそもこの監督の作品としては、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)と『奇跡の海』(1996年)しか見たことないので、映画の批評などできないが、ただ、ふたつの作品を見ただけでも、ずいぶん饒舌な映画作家だなという印象はうけた。饒舌というのは、自分のスタイルを通してすべてを語り尽くさないと気がすまない、という意味である。
饒舌な映画を作るこの人は、映画の外でどんなことを考えているんだろうか? そんな興味があって、この本を手に取った。読んでみたら、やっぱりこの映画監督は映画の外でも饒舌だった。対話の相手ビョークマンの聞き上手もあり、次から次へと面白いエピソードがでてくるわ、でてくるわ。自分の出生にまつわる謎の話から、登校拒否の頃の逸話、映画製作上の決意と実行の話まで、この人は矛盾だらけの人生を歩んでいる。だから、この本は読んでいて飽きない。

まず、この監督の精神形成に大きな影響を与えたのは、当然のことながら両親のしつけ(というより、放任)だった。父は社民党支持者のやさしい人で、母は共産党員で自由教育の信奉者だった。「子どもは自分自身のことは自分の意思で決める権利がある」と、母は確信していた。
「ぼくは、強い無神論の家庭に育った。両親にとって、無神論は、ほとんど宗教に近かった。だから、宗教について話すこと自体、うちではタブーだったんだ。それでも、ぼくは宗教に興味があった。ぼくには、信仰がある。最初の結婚のとき、カトリックに改宗した」が、それでも、監督はカトリックの教えに反して、最初の奥サンと離婚してしまうのだった。

二作だけで何がいえるのか、といわれそうだけど、思い切って断言してしまうと、この監督の作品は「究極のマザコン映画」だ。監督の映画の中で、父より、宗教より、何よりも権威があるのが母親という存在、あるいはマリアに象徴される汚れなき女性像だから。監督自身もこの本の中で、映画のストーリーの中で一番重要なのはヒロインの設定だと述べているし、ヒロインをどの女優にやらせるか、というキャスティングにとてつもなく労力をかけるといっている。そのうえ、最終的な決断となると、母的な存在の影響を受けているというのが面白い。
「(『奇跡の海』でヒロインの)ベス役のためには、かなりの数の女優をテストした後、ぼくは、ベンテ(ラースの最愛の人)と一緒にビデオを見た。ベンテは、エミリー・ワトソンにしかあの役は演れないわよって言ったんだ。ぼくも彼女の演技はよかったと思ったけど、それより何より、ベンテの熱意が、ベス役決定の鍵になった。選考面接にたったひとりすっぴんで、しかも裸足で! やってきたエミリーのことは、ぼくもよく覚えていた。彼女のキリストみたいなところに、惹かれた」 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/翻訳家 2001.03.03)

  〜 書評後編へ続く 〜

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紙の本ダンサー・イン・ザ・ダーク

2001/02/28 18:15

書評前編:夢を見る人間は逞しい?

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ことしの正月に、デンマーク人のラース・フォン・トリアー監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を二度見た。感動のあまりというより、あまりに情けない理由からそうなったのである。

一度目は、めずらしく家族で映画館にいったのだが、一番前の席しか空いていなかった。もっとも、ぼくは結構一番前の席が好きで、他の席が空いていても一番前に行くのだが、それはともかく、映画がはじまって一時間もしないうちに気分がわるくなってしまった。いったん喫煙コーナーに出て休んでみたが、気分はすぐれずそのままあえなく帰途についたのだった。
この監督の多用するハンドカメラによるせわしない映像に酔ってしまったのか、それとも小さな映画館で一番前の席にだけ強烈に暖かい風がくる空調構造がわるかったのか、ともかく最初の一時間、映画のさわりの部分だけを見て、正直いって、こんな退屈な映画がほかにあるか、といった印象だった。
その日は、興奮して帰宅した家族からストーリーのあらましを聞き、涙でハンカチをびしょぬれにしたという娘から感動の伝染病を移された。その後、映画のパンフレット(阿部和重や中条省平の解説)も熟読してから、こんどは大きい映画館に行き、真ん中あたりにすわって見た。ストーリーを知った上で最後まで飽きずに見られたのだから、映画としては上出来の部類なのだろう。まだ見ていない人に秘密めかして教えないように警告している最後の処刑のシーンだって、『冷血』という前例があるではないか。それが分かったからといって、感動が薄まるわけではない。

 この映画を作った監督の対話集『ラース・フォン・トリアー』(水声社)を読む機会があった。なかでも、監督の出生にまつわるエピソードは、あまりにドラマティックでまるで小説のネタになりそうなものだった。あまりにできすぎていてウソっぽく感じられるほどだった。
監督によれば、母が臨終のときに、あなたの本当の父は別のところにいる、と告白したそうだ。無神論者で自由主義者の母は、息子を芸術家にするという見果てぬ夢を実現するするために、やさしく面倒見のいい役人の夫ではなく、芸術家の遺伝子を有していると彼女が狙いを定めた一族のある男(これも役人だったらしい)に狙いをつけて、計画を実行に移したらしい。この話を聞いてから、監督はアイデンティティの危機に陥り、カンセリングを受けたという。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/翻訳家 2001.03.01)

   〜 書評後編へ続く 〜

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紙の本おめでとう

2001/02/20 15:15

書評後編:ヒロミさん、口数が少ないね?

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  〜 書評前編より 〜

 また「冬一日」の「私」は家族持ちの女性だが、一週間に一度だけいつも同じ時刻に同じホテルでトキタさんという家族持ちの男性と「逢瀬」を重ねている。いわゆる「不倫関係」だが、そうしたありふれた言葉では括れないような情景がここには描かれている。たとえば、ふたりは「次の土曜は父親参観の日なの、トキタさんのところも、きっとそろそろね」などと、普通の夫婦が交すような、妙に家族的な会話を交すのである。
 おそらくヒロミさんが口数が少ないのは、ここら辺に原因がありそうだ。つまり、主人公たちは世間に向かって大声でいえない、ある後ろめたさ(ある社会に固有のタブーを破ったような)を抱えているのである。たとえば、「不倫」とか「レズビアン関係」とか。「いまだ覚めず」の「私」(女性)は、15年前には自分のことを「あいしてる」といってくれたが、いまは「押し出しの立派な人と結婚した」タマヨさんのところに出かけてゆく。「どうにもこうにも」の40歳になったばかりの「私」(女性)は、「不倫」相手と別れたばかりだが、10年前に同じ男と「不倫」関係にあって不遇の死を遂げた女性の亡霊にとり憑かれる。「春の虫」では、結婚詐欺に遭ったショウコさんと「私」(女性)が愛情関係に陥る経緯が書かれている。ワイドショウのレポーターとちがって、ヒロミさんは口数が少ないし声高でないだけに、かえって、世間で認められていないけどもたぶん現にいっぱい存在している愛のかたちを読者は実感でき、ときにそんな「イケナイ」ひとたちに共感さえ覚えてしまうのである。
 でも、ぼくはヒロミさんに、もう少し口数が多くなってほしい。そして、「蛇を踏む」のような、虚実の境界を行き来する小説を書いてほしい。新しいことに挑戦してほしい。だって、ここに収録されたような小説はヒロミさんしか書けないようなものばかりだけど、かといって、こうしたものばかり書いていると小説家もマンネリに陥るから。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/翻訳家 2001.02.21)

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紙の本彗星の住人

2001/01/10 18:15

書評前編:なぜ忘れられた死者をよみがえらせるのか?

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まず結論からいおう。この小説は、「買い!」だ。妄想のプロフェショナル島田雅彦が、恋人のいない歴2日以上の人たち全員に送るクリスマスプレゼント(この原稿の掲載がすでに2001年になっていたら、正月の「お年玉プレゼント」と読み替えてください)といってもいい。恋人のいる人たちは、「危険」ですから読まないでください。買ってもいいから。(その理由は最後に書きます)

恋愛には思い違いや妄想がつきもの、というより恋愛=思い違い+妄想(ハロルド・ブルーム博士はそれを「誤読のアレゴリー」と呼んでいます。ホントかっ!)といってもいいくらいだから、悲恋をテーマにしたこの「恋愛小説」は、妄想のプロ島田雅彦が書くべくして書いたものといえるかもしれない。

若い美人の編集者たちは、女装させたら並みの女性以上に妖しくばけるこの「変態」作家にナンパされるのを恐れ、近づこうとしなかった(たぶん)。したがって、モテない作家はせっせと自室で艶っぽい妄想に耽るしかなかった(たぶん)。この小説は、作家のすべての知性と情念をそうした妄想体験につぎ込んで仕上げたものだから、「買いだ!」といったのだ(ホント)。

「艶っぽい」妄想といっても、自身の実らぬ恋にせこく思いをはせるのでは、もちろんない。作家は、明治のはじめにオペラ『蝶々夫人』のモデルの女性とアメリカ人士官とのあいだに生まれた混血の男の放浪に思いを寄せ、さらにその混血の息子や孫の禁断の恋を妄想し、それを2015年の未来からやってきた謎の語り手に歌わせる。一方で、明治以降、「近代国家」の建設のためのイデオロギー装置として捏造された天皇家の万世一系のウソを裏声で歌う。これは一言でいうならば、壮大で、いつ終わるともしれぬ「合いの子」の物語、島田いわく放浪する「中立のこうもり」の物語だ。日本人アイデンティティの向かうべき可能性としての「クレオール主義」を提唱することによって、軍艦マーチを奏でる野蛮な民族純血主義や、「自由主義」という甘い言葉で偽装するネオ大和魂に対峙する。たったひとつの人種、たったひとつの宗教、たったひとつの階級、たったひとつのシステムにアイデンティティを還元してしまう「本質主義」的な生き方は、安っぽいフィクションであり、そこには未来はない、われわれはそもそも遺伝子学的にも文化論的にもハイブリッドなのだから、それに見合った生き方があるはずだ、と作家はいいたいのだ。

さて、この小説には、人生や恋愛にまつわる実に多くの警句やパラドックスがばらまかれている。たとえば、恋愛をめぐって、「恋は、恋人たちの死後に開花する」とか、そのバリエーションとしての「恋が花開くころには、相手はいない」とか。あるいは、死をめぐって、「墓場でくつろぐ者には永遠の平和がある」とか、「死者は夢の中の人と同じ成分でできている」とか。しかし、とりわけ印象的なのは、冒頭近くで、謎の語り手が次のようにいうことばだ。「足には二種類ある。根の生えた足と翼の生えた足だ……。その(翼の生えた)足を使えば、同じ時間に二つ以上の場所にいられるようになる」と。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/翻訳家 2001.01.11)

  〜 書評中編に続く 〜

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紙の本沖縄女性史

2000/12/26 12:15

書評後編:内部人でありながら、外部人でもあったノマドの学者

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  〜 書評前編より 〜

「15世紀の尚氏による統一王朝以降、なぜ琉球の女性が宗教行事に励むようになったのか?」という疑問。それに関連して、「琉球王国発足とともに、“国民最高の神官”聞得大君(きこえおおきみ)を頂点として、大あむしられ、のろくもい、根人(ねちゅ)、神人(かみんちゅ)と軍隊組織のようながっちりした縦系列の神道組織が作られたのはなぜか?」という疑問。「なぜ辻、仲瘍、渡地(わたんじ)の三遊郭が那覇で発達するようになったのか?」という疑問。「なぜ琉球の女性が巫女(ユタ)という医者兼予言者のような存在に依存してきたのか?」という疑問。「琉球古代、とりわけ八重山諸島では、なぜ女性の裸の踊りがあったのか?」という疑問。そうした沖縄の女性にまつわる疑問に対して書かれた伊波の論文やエッセイは、確かに沖縄の旧来の男女関係のひずみを背負った一学者の苦闘を出発点にし、それを発展させたものだけあって、読み応えがあります。しかし、それだけではありません。伊波の文章は内部の人でありながら、かつ外部の人であるということからくるダブル・パースペクティヴ(E・サイード)に貫かれています。たとえば、伊波はユタをはじめとする、沖縄に存在する特異な風習や制度を、その歴史的・汎世界的意義を解きおこし弁護しながらも、一方で「いかなる美しい制度もその使命を全うした暁には、新しい制度にその位置を譲ってなくなるのが、制度それ自身の理想であろう」と、シビアな意見を述べます。伊波はたんに沖縄の女性史を研究するのみならず、啓蒙家として、「なぜ女子に教育が必要なのか?」ということを男性にも女性にも熱く説きました。尊敬する母のかかわったユタを伊波が悪習と決めつけた、その背後には、「用が済んだ後まで、それが勢力を逞しうすると、動(やや)もすれば、その制度は牢獄と化して、人間を奴隷化するものである」という近代人としての信念がありました。

伊波は沖縄を捨てて東京に出ていきましたが、東京に出ていっても、伊波は学問としての沖縄を捨てたわけではありませんでした。むしろ、沖縄の外からアウトサイダーとして前近代の沖縄を研究した点に伊波の真骨頂がありました。その点では、伊波はノマドの学者だったのです。沖縄を外なる視点で見て、内部人として書くこと。そこにぼくは現代の沖縄の最良の書き手である、目取真俊(『魂込め』)や崎山多美(『ムイアニ由来記』)につながるものを見るのです。高良倉吉氏(『琉球王国』)によれば、伊波の弟子たちが浦添城跡の一角に墓を建てたといいますが、その墓庭には顕彰碑が建っていて、その碑にはこうした文句が刻まれているそうです。

  おもろと沖縄学の父、伊波普猷
   彼ほど沖縄を識(し)った人はいない
   彼ほど沖縄を愛した人はいない
   彼ほど沖縄を憂いた人はいない
   彼は識った為に愛し、愛した為に憂えた
   彼は学者であり愛郷者であり予言者であった
 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/翻訳家 2000.12.26)

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紙の本若い小説家に宛てた手紙

2000/12/19 21:15

書評後編:拝復、バルガス=リョサ様へ(小説家でない一オジンより)

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 〜 書評前編より 〜

さて、先生は、小説の技法を説明する際に必ずたくさんの作品を具体例として挙げていますが、作品を紹介する手並みが素晴らしいので、それを読んでいないことが恥ずかしいというより、人生の一大損失のように感じられてくるのです。平たくいえば、そんなに面白いものをオレはいままで見逃していたのか!
いいこと教えてもらったぜ、得しちゃったな!
といった感慨です。数多くある「オレ、得しちゃったな」の中で、ほんの一例だけを挙げれば、オネッティの長編『はかない人生』、D.M.トーマスの長編『ホワイト・ホテル』、ビオイ=カサーレスの短編「天空のたくらみ」、コルタサルのいくつかの短編などがあります。

では、なぜそれらを読んでいないことが人生の損失に感じられてしまうのか?
それは先生の紹介文に、大袈裟な言い方を許していただけるなら、「命」が通っているからだと思います。「天職」のためだったら、「幸せな奴隷」として一生涯を過ごしてもいいと「覚悟」を決めた人ならではの「命」が。次の文章を読んで、そんなことをつよく感じました。引用させていただきます。

「文学的才能の育成というこの話に興味がおありなら、フローベルの膨大な書簡集、とりわけ一八五〇年から一八五四年までの間に愛人のルイズ・コレに書き送った手紙を読まれるといいでしょう。(中略)創作をはじめたときに、私は彼の手紙に出会ったのですが、これは大いに役立ちました。フローベルはペシミストで、彼の手紙には人類に対する罵詈雑言が並べられていますが、文学に対しては限りない愛情を抱いていました。ですから、十字軍の戦士でもなったつもりで文学に取り組んだのです。ファナティックな信念を持って夜も昼も文学に身を捧げ、言語を絶するほど極端なものを自らに求めました。こうして自分の限界(初期の著作にはそれがはっきり現れています。当時流行していたロマン主義的な手本にならって修辞的で古色蒼然としたものを書いていたのです)を乗り越えて、最初の近代小説『ボヴァリー夫人』と『感情教育』の二作を書くことができたのです」

                                     敬 具


小説家でない一オジンより

追伸

さっそくコルタサルの短編集を手に入れて、読んでみました。子うさぎを口から吐き出す奇癖を持つ男を扱った「パリの女性に宛てた手紙」も、バイク事故を契機にアステカ族の生け贄になる悪夢を見る男の物語——いやその逆に、生け贄にされかけた男がバイク事故の悪夢を見る「夜、あおむけにされて」も、悪くなかったのですが、先生の紹介文のほうがずっとスリリングでした。なお、わたしの知人が、日本からも目取真俊の「水滴」や「魂込め」をオススメするよう申しておりましたので、センエツながら申し添えます。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/翻訳家  2000.12.20)

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紙の本明治文学遊学案内

2000/11/27 18:15

書評後編:例外的なアンソロジー——明治の日本を知るだけでなく、現代の日本を知るために

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  〜 書評前編より 〜
 このように、本書は明治文学に関して、主張も異なれば、時代もことなる多種のすぐれたエッセイを集めている。そのことで、明治文学への複層的なアプローチが可能になる。しかし、もっと重要なのは、明治に始まるといわれる口語文体の、現代での多様な可能性を幻視する機会もまた与えてくれるということだ。それがこの本の隠れた大きな魅力ではないか。

 さて、この本に収められたエッセイや対談や座談会の細部もまた捨てがたい。たとえば、第二部の冒頭に収められた伊藤整の「近代日本の作家の生活」と、巻末の座談会「明治時代の文豪とその生活を語る」(昭和七年の『新潮』より)を併読すると、職業人としての作家の成り立ちがわかって面白い。と同時に、平成のいまだって、事情は似たり寄ったりだな、と思わずにはいられない。

 伊藤整は正直に自分の稿料を暴露して、明治初期の作家の生活について、こう述べている。「私自身の今の小説稿料の中位の標準で言うと一枚が千円であるから、六十六枚の原稿に対して、私は六万六千円を期待する。魯文はそれに対して五千円しかもらえなかった。そういうような状態であったから、それを書き上げた日に米が無くって、その金で買った米を炊いたという生活であったのも当然である」と。

 伊藤整が奇しくも「……を期待する」という微妙な言葉を使っているように、若干の例外はあるが、締切りと枚数だけをいい、稿料のことは話さない原稿依頼のシステムは、いまもって日本の出版業界の悪しき習わしだ。一方、座談会では、夏目漱石の稿料のことが話題になって、にわかに色めき立つ。

久米(正雄) 丁度僕ら行ってた頃に『中央公論』の滝田樗陰氏が斯ういふことを言ってたがね、「夏目先生が書いて呉れヽば一枚十円位出すがね」といふんです。十円といふのは素晴らしい値段を出すと言ってるものだなと吾々評判して居たんですが、その時分には僕らは一枚一円の原稿料です。
長田(秀雄) 僕らも一円です。
久米 僕ら最初に『新潮』から貰ったのは五十銭だったと思ふね。
長田 しかしあの当時一円貰へるといふと、非常に高い原稿料のやうな気がしたね。

おそらくいま「昭和の作家の生活」という座談会をやっても、稿料のことはきっと話題になるだろう。逆にいえば、いまもって作家と出版社が値段の交渉するのはタブーであるということだ。日本のプロ野球(ようやく代理人制度を認めつつあるが、選手はまだ球団本位の契約を強いられている)と同じで、日本の出版業界も明治以来つづいていいる前近代的なシステムを改めるべきではないか。そうしないと、スティーヴン・キングのように、インターネットを使ってダイレクトに読者に作品を売るような作家がいっぱい出てくるぞ。(bk1ブックナビゲーター:越川芳明/明治大学教授)

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紙の本沖縄絵本

2000/09/19 21:15

ウチナーの心を持つヤマトンチューの絵かき

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 戸井さんはヤマトンチューの絵かきです。これは戸井さんの短い文章と白黒の絵からなる、オキナワ——というより、文化圏という意味をこめて「琉球」といったほうがいいかしら——についての素晴らしい本です。うれしいことに、嘉手苅林昌の「なーくに—」をはじめとする島唄のミニCDのおまけまでついています。

 戸井さんはオキナワ本島だけでなく、南の果ての島パティローマ(波照間)——『ナビイの恋』でヒットを飛ばした中江祐司監督の処女作、『パイパティローマ』を思い出しますね——をはじめとして、いくつもの離島を訪れて、心にひっかかった戸井さんなりのオキナワをスケッチしています。戸井さんのオキナワは必ずしも観光客が美しいと思ったり、訪れたりする場所とはかぎりません。沖縄の匂い、三線の音がする路地だったり、本島のうらびれた廃屋(これが廃屋でなくて、ちゃんと人が住んでいた、という失敗談もありますけど)だったり、元気印のおばあたちが活躍する市場だったり、観光スポットからちょっとだけわきにそれた御嶽(うたき)や拝所(うがんじょ)だったり、いまもなお戦争の傷痕を残す洞窟や戦争を忘れぬための墓碑だったりします。

 戸井さんはどちらかというと、暗い想像力の持ち主で、死者の世界からかれのオキナワを見つけ出そうとします。

 かつては、ご本人もウチナーのいうところの「天皇の軍隊」の一兵士でしたが、「もしあの犠牲がなくて、もう二、三ヵ月“終戦”が遅れていたら、間違いなく私は中国湖南省の名も知らぬ山の洞窟陣地の中でムクロとなっていたはずです」と、「あとがき」で書いています。自分がいま生き延びていられるのは「沖縄と原爆の犠牲」となった人たちのおかげだ、と思っています。この本の根底には、そうした犠牲者たちへ贖罪の念と、ご自身が体験した愚劣な戦争への反省と怨念が流れているような気がします。それが戸井さんのオキナワなのです。たとえば、こんなぐあいです。

 「はじめて那覇農連市場の朝市を見に行ったときでした。連れの観光レディたちは、見るもの聞くものすべてめずらしく、ひとつひとつ「これなに?どういう風にして食べるの?」とたずねてまわったものです。
 売る方としては、観光みやげ屋じゃあるまいし、迷惑なはなしで、ご所望のゴーヤ(にがうり)かなんかサッサと紙に包んで「ハイ、奥さま」と差しだしました。そのとき、そのおばさんの目がキラリと光ったのを私は見逃しませんでした。目の奥に沖縄の人の怨念が生きているように見えたのです。この目を描きたいと、そのと
き思いました」(「市場にて1 農連市場」)

 市場でさえ、戸井さんの絵かきとしての想像力はウチナーの怨念を幻視してしまうのですから、いまなお戦争の影が残る洞窟や、本島で幅をきかせているUSAの軍事基地を前にして、ウチナーの目にきらりと光る怒りを見逃すはずはありません。それどころか、たとえば皇太子(現天皇明仁)がたった一度だけ訪れたときに作られ、その後は無用の長物と化している伊江島の航空滑走路などにたいしてはウチナー以上の怒りようです。

 もちろん、この本にかかれているのは怒りばかりではありません。旅の途中の道ぞいに見つけたかわいいアイスクリン屋さんの話とか、スケッチをしているときに話しかけてきた女子中学生たちにおごってあげる話とか、そこから窺えるのは、戸井さんの本質的なやさしさなのです。ウチナーの心を持つこんなすてきなヤマトンチューの老人はそうざらにはいないよな、とぼくは思いながら、天国に召される前にこんなすてきなウチナーの本を作ってくれた戸井さんに素直に感謝しました。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/明治大学教授 2000.09.20)

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紙の本旅のエクリチュール

2000/09/06 21:15

書評前編:なぜ旅行文学は「うそ」をつくのか?

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〜前編〜

 先ごろ、わけあって16世紀のスペイン人で、コルテース率いるメキシコ征服に参加したベルナール・ディーアスの旅行記を読んだ。「真正の歴史」と銘うち、体験に基づく年代記を装っていながら、章だての仕方といい、叙述の仕方といい、冒険小説を彷彿とさせ読み物としてすこぶる面白い。無味乾燥な事実の羅列ばかりかと予想していたのに、みごとに予想を裏切られた。面白すぎて、歴史書としてどこまで真偽を問うてよいのか、わからないほどだ。しかし、面白かろうがなかろうが、また旅をめぐる文章であろうがなかろうが、そもそも個人の書いた文章にはすべて時代の、そして個人のイデオロギーが刻印されているというのは、いまや常識である。そうであってみれば、歴史書の真偽にばかり目を奪われていても仕方がない。むしろ、なぜ面白いのかを問うべきであり、その面白さに隠れているはずの、著者の書かれざる動機をさぐるべきだろう。

 さて、表面的にノンフィクション形式を取る紀行文や旅行記に著者の作為(フィクション)を読みとり、逆に、説話的な旅物語に時代への批評的な言及を読みとるのは、さほど難しいことではない。むしろ、そういう読みこそ、ごく自然におこなわれるのである。そういうことを本書『旅のエクリチュール』は教えてくれる。たとえば、著者の石川美子は13世紀のマルコ・ポーロによる実録『東方見聞録』と、『ガリバー旅行記』をはじめとして17世紀から18世紀にかけて流行した空想旅行物語とを例にひいて、「旅のエクリチュール」についての面白いパラドックスを指摘している。つまり、同時代の読者にとって、前者が「荒唐無稽な作り話だと受け止められていた」のにたいし、後者は「空想物語の名のもとに、堂々と、政治批判や宗教論議をくりひろげていた」ので、読者の現実や記憶により近いものだった、と。そのうえで、石川はこう示唆する。旅をめぐるエクリチュールにおいては、「記憶と虚構のあいだの確かな境界などありえない」と。それをもっと平たくいえばこうなるだろう。旅のエクリチュールほどウソにまみれているものはない——もっとも、そこにはそれぞれの文学的、非文学的理由があるのだが。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/明治大学教授 2000.09.07)

後編へ続く〜 

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