新田隆男さんのレビュー一覧
投稿者:新田隆男
怪奇大作戦大全
2001/10/10 18:15
「怪奇大作戦大全」
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今年四度目の映画化となった『エコエコアザラク』(加藤夏希主演)にはどうしても違和感があった。「黒井ミサが魔女だ」ということになり、現代の日本において魔女狩りが起こる、という設定に無理がありすぎる。何故、日本で何のメタファーもない、そのものズバリの魔女狩りが起きるのか? 『怪奇大作戦』を振り返って、最も感心するのはその点だ。
例えばハマーフィルム的な吸血鬼を出しながらも、違和感なく成立させてしまう(血を吸う設定はOKだが、コウモリに変身させたりはしない、微妙なルールの正確さ)、あるいは人を殺すフランス人形を描くかと思えば、落武者の怨霊も描くバランス感覚。高度経済成長期、日本が経済的な繁栄も含め、何もかも可能と思われた時代に、『怪奇大作戦』は「戦争」へ帰り、「戦後」を考え、そして同時に日本的なものとは何か、を真剣に考えていたように思う。
実際、このシリーズには、旧帝国軍の実験や極秘裏に開発された兵器の話題がしばしば繰り出されるし、「24年目の復讐」という、まさに戦後何年かをカウントダウンした作品まであるのだ。岸田森扮する主人公・牧の姉が第二時大戦中に米軍戦闘機の機銃掃射で死んだというエピソードも放り込まれている。昭和40年代の日本でしか生まれ得なかった快作テレビ・シリーズ、それが『怪奇大作戦』である。正義と科学、というテーマが明解に打ち出されているので、案外目立たないが、ここで試されている方法論は今でも応用可能なのだ。
このシリーズに影響されたという高橋洋氏は、『リング0〜バースデイ』の中で、日本の風土に合わせた魔女狩りを見事に展開していた(「魔女」という言葉を使わずに、である)。ありとあらゆる資料に、関係者インタビューまで収録した愛蔵版である本書。日本の特撮映画、怪奇映画、そしてホラー映画を作る鍵、未来への指針はすべてこの中にある。
(新田隆男・エンタメ探偵 2001.10.11)
硝子の塔
2001/08/27 21:43
刑事コロンボ/硝子の塔
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二見文庫から出ているいつもの「刑事コロンボ」ノベライズとは違って、本国の若手作家がオリジナルで執筆した小説を訳出したもの。つまり、これはいつまで待っても、テレビでオンエアされることはないわけで、ファンには本書を手にとることをお薦めする。
スタンリー・アレンという著者のプロフィールは詳しくはわからないが、どうやら初期「刑事コロンボ」の熱狂的なファンらしく、往年の味わいの再現に奮闘している。まず犯行が描かれ、それから刑事が登場し、完全犯罪と思われた犯行の陥穽を暴く、いわゆる倒叙スタイルで知られる「刑事コロンボ」だが、89年に新シリーズとして復活して以来、その基本スタイルを崩しがち。近年は特に、誘拐サスペンスあり、潜入捜査あり、何も「刑事コロンボ」でやらなくても、と思ってしまう内容も多かっただけに、書き下ろそうと思った意図はよく理解できる。
建築会社の設計企画部長が、出世を妨げようとする副支社長を殺害。ビデオを使ったアリバイを工作し、完全犯罪を目論む。登場したコロンボは当然、そのビデオに注目し、というのが物語。熱心なファンなら、往年の作品「アリバイのダイアル」(ロバート・カルプ犯人編)や「仮面の男」(パトリック・マクグーハン犯人編)に近いとピンとくるのではないだろうか。だが、ご安心、もうちょっとヒネリが加えてあって、なかなか楽しめるのだ。巻末には、「刑事コロンボ」初期のクリエーターであるウィリアム・リンクとリチャード・レビンソンが執筆したという回顧録「STAY TUNED」(未訳)からの情報も紹介されているので、そちらも読みのがしなく。
(新田隆男・エンタテインメント探偵)
トリュフォー、ある映画的人生 増補
2002/03/28 22:15
トリュフォーの生涯を綴った映画のような一冊
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1994年に平凡社から出版された『トリュフォー、ある映画的人生』が増補版として甦った。とにかく、映像と活字ではメディアとしての資質が違う。作品の意味を読み取れば映像としての映画の本質はどんどん逃げて行き、逆に映像の魅力を追おうとすれば、単に無意味な言葉の群れだけが並んで行きかねない。活字で映画そのものを掴むことはほとんど不可能なのだ、ある特殊な才能に恵まれた人間を除いては。そして、そうした才能に恵まれた一人が著者である。そして、そんな著者の代表的な作品のひとつが、フランソワ・トリュフォーの生涯を綴った本書なのだ。
ヌーヴェル・ヴァーグの作家の中でも多作に類し(59年の長編デビュー作『大人は判ってくれない』以来、24年間の監督人生で21本の長編を発表)、同時に個人的な作品からミステリー、サイエンス・フィクションに到るまで、実に幅広いジャンルを手がけたトリュフォー。一見、作品のテーマには一貫性がなく、にもかかわらずその全ての作品がトリュフォー的、としかいいようのない作品として成立している……
活字でその作品を語ろうとすることが最も難しいタイプの作家の生涯を、にもかかわらずきわめて映画的に描き出したものが本書である。冒頭はトリュフォーの葬儀から始まるが、これがまさにトリュフォー監督作品『恋愛日記』の冒頭を思わせる。そして紹介されるのが、トリュフォーの助監督であり、共同脚本家でもあったクロード・ド・ジブレーの弔辞「フランソワは冗長な台詞や重苦しいシーンが大嫌いでした」。
かくして、本書もまた鈍重な映画作家追悼本などになりようもなく、学校をサボッて映画を見まくった不良少年がいかにして長編を撮りあげたか、ジャン・リュック・ゴタールたちとの出会いを通していかに生きたか、を描き出す躍動感に溢れた一冊になっている。迷うことなく回りつづけるフィルムのように疾走感に満ちた一作だ。
(新田隆男/エンタメ探偵)
われ映画を発見せり
2001/10/10 18:16
「われ映画を発見せり」
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カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に2年連続エントリーする、という快挙をなしとげた日本映画界期待の俊英・青山真治が書き綴ってきた全評論・エッセイを一冊にまとめたもの。
95年の『教科書にないッ!』での監督デビューと併行し、あるいは先行し書きつづけられた言葉たち。映画を撮るように書き、見るように撮る。ヌーヴェルヴァーグが可能にした(ヌーヴェルヴァーグだけが可能に出来た)方法論を今、実現できているのは(そういった場が与えられている、という意味でも)、日本のみならず世界映画界広しといえども、ひょっとしたら青山真治と黒沢清の二人だけかも知れない。しばしば、繰り出されるゴダールへの言及、黒沢清への羨望と共感(青山の監督デビューは、黒沢の量産体制の始まりともリンクし、二人は常に微妙な距離感を保ちつつ走りつづけている)。
黒沢清が映画について語るとき、そこには何か、照れと紙一重の底意地の悪さが働いて、どうも核心を隠しているような印象を受けるが、青山はかなりストレートに映画を語る。とりわけ自作については、そこに隠されている「昭和の終り」といった時代性、あるいは地下鉄サリン事件への目配せ、なども解題し、続けて試そうとしていた物語の方法についても素直に語ってくれる。映画について自己言及するだけの映画は、その姿勢や身振り自体に限界が生まれるが、青山作品はその社会意識であまたのヌーヴェルヴァーグごっこ映画を越え、さらに語ることへの真摯な探求姿勢で、常に次の作品への期待を呼ぶ。今年のカンヌで賛否両論だった新作『月の砂漠』の擁護者となるためにも、読むべし。
(エンタテインメント探偵・新田隆男 2001.10.11)
2001年映画の旅 ぼくが選んだ20世紀洋画・邦画ベスト200
2001/02/07 17:01
「ぼくが選んだ20世紀洋画・邦画ベスト200」
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サブタイトルは「ぼくが選んだ20世紀洋画・邦画ベスト200」。「週刊文春」のコラムに掲載され、話題を呼んだ著者セレクトの洋邦各100本に、残念ながらそこからこぼれた作品を語ったコラムまでを収録した一冊。さらには、マルクス兄弟や、まだまだ日本で知られる前のウディ・アレン、「ギターを持った渡り鳥」=小林旭から、エルヴィス・プレスリー評まで、70年代に「話の特集」や「朝日ジャーナル」に掲載された原稿が集められている。
わずか一冊で著者が体験した60年に及ぶ「映画の旅」の記憶が圧縮されているわけだが、最終章は書き下ろしで、長文のクリント・イーストウッド論。表題「2001年映画の旅」と考え合わせれば、それら「幸福な映画の記憶」を引き継ぐ形で観客を21世紀に連れて行ってくれるのは、イーストウッドである(あるいは、イーストウッドしかいない)ということだろう。
平易な言葉で綴られているが、(いつもの著者の映画評同様に)中身は深く、辛辣でもある。「洋画100 」では「風と共に去りぬ」を無視したり、デビッド・リーン監督作中、「アラビアのロレンス」ではなく「ドクトル・ジバコ」を選んだり、独自の視点が面白い。マーティン・スコセッシ監督作から、「タクシー・ドライバー」や「レイジング・ブル」ではなく小品「アフター・アワーズ」をピックアップしているのも、著者らしい選択である。
「邦画100」の中に選んだ「仁義なき戦い」は、「笠原和夫が描く<ずっこけ人間喜劇>」と見事に数行で喝破して、含蓄あり!
スーパー・アヴァンギャルド映像術 個人映画からメディア・アートまで
2002/03/28 22:15
映画はついにフィルム不要の時代に突入
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なにしろ映画の概念が変わろうとしているのである。サイレントからトーキー、モノクロからカラーへ移り変わった時に勝るとも劣らぬ第三の映像革命、それが「映画のデジタル化」だ。映画はついにフィルム不要の時代に突入するのである。
「トイ・ストーリー」から始まった日本のデジタル上映は、作品の完成形態がネガフィルムではなくデータとして存在する「千と千尋の神隠し」を経て、今年の夏、「エピソードII」の上映で飛躍的に広がると思われる。超大作の代名詞と思われた「スター・ウォーズ」の最新作は、ソニーの開発したHD24P、すなわちデジタルカメラで撮影されている。劇場用映画は70mmや35mmフィルム、比べて自主映画はコストが安くてすむ16mmや8mmフィルム、そしてテレビはビデオ。これまで、メディアを厳然と隔てていたハードウェアの違いが、瓦解する時がやってきたのだ。「エピソードII」のような製作が進めば、理屈的には劇場公開される映画とテレビの違いはもちろん、映画とプライベートで撮影されたビデオの違いも無くなってしまうのだ。「世界は、パーソナル・メディアで変わる」とは、本書の帯に書かれたコピーだが、間違いなく映画が新しい地平に到達する時がやってきた。
ビデオカメラを手にすれば誰でも「映画の作り手」となることが出来るのだ。本書はそんな映像革命前夜を睨んで、まず変わって行くだろうアバンギャルドと呼ばれた実験映画の世界を総括するところから始まる。ジョナス・メカス、マヤ・デレンといった作家の紹介、そして実践へ。ビデオを使った実際の製作の仕方、各種映画祭やウェブサイトを使った作品の流通のさせ方の伝授まであり、盛り沢山。映画の概念が変わり、それにつられビデオも開かれたパーソナル・メディアとして生まれかわる。映画はどこへ向うのか、革命前夜のアクティブな動きにくらいつこうとする出色の映画本である。
(新田隆男/エンタメ探偵)
映画監督の未映像化プロジェクト
2002/02/20 22:15
映画監督の未映像化プロジェクト
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「私の最良の映画は、まさに私が作らなかった映画である」と言ったのは、かのジャン・リュック・ゴダールだが、それを映画ファンが言いかえれば、「私にとって最良の映画は、まだ見ていない映画である」ということになるだろう。
面白い映画はまあ、誰が見ても面白いはずである。が、まだ見てもいない映画を楽しめるのは映画ファンだけに違いない。あの監督が今度、あの原作を映画にすると聞けば、その監督の過去の作品を思い出して、どんな作品になるのか、イメージを膨らませてみる。見てしまえば映画はわずか2時間程度。ところが、映画ファンというものは、製作が発表されてから公開されるまでの間、時には2年や3年もそうして楽しんでいるものなのだ。映画監督の未映像化のプロジェクトばかりを集めた本書は、だから、映画ファンなら映画ファンであるほど、楽しめる一冊。
ティム・バートンの『スーパーマン』やデヴィッド・リンチが温めていたカフカの『変身』の映画化企画がどうして流れたのか、ジム・ジャームッシュが『パーマネント・バケーション』から『ストレンジャー・ザン・パラダイス』長編バージョンまでの間に手がけようとしていた『離婚の園』などは、そのシノプシスまでが訳出されて、ファンには堪らない(アタマの中で組みたててみよう!)。
だが、これら存命中の監督は再び、それらの企画に挑み、その作品を観客が見ることもあるかも知れない。だから、何よりも最高の御馳走は永遠に見ることのない映画となる。その「最良の映画」は、ヒッチコックがキャリアの最後に再びスパイ・スリラーに回帰しようとしていたという『短い夜』あたりだろうか。この映画は脚本があがっていたらしく、かなり長いシノプシスが掲載されている。キャスティングの希望はロバート・レッドフォードかショーン・コネリー。これだけ、手がかりが与えられれば、映画ファンならもう心の中で上映が始められるだろう。
(新田隆男/エンタメ探偵)
日常洋画劇場 Back to the TV feature,ride! 映画のことはぜんぶTVで学んだ!
2002/02/20 22:15
日常洋画劇場BacktotheTVfeature,ride!映画のことはぜんぶTVで学んだ!
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今のようにビデオやDVDが普及する前、映画は一期一会の存在だった(わずか15年くらい前まではそうだったのだ)。劇場で見逃したらアウト、次にはいつかテレビで放送されるのを首を長くして待つだけ。だから、たとえカットされていようが、吹き替えられていようが、映画に対して飢餓感を覚えていた少年たちは食い入るようにテレビを見守ったものだ。かくして、その少年たちが大人になり、その思いのたけを書き綴ったのが本書である。
人生で必要なことはすべてテレビで見た映画で学んだ、そう言ってはばからない映画ファン、もといテレビで映画を見たファンたちの情熱がひしひしと伝わってくる。映画は劇場で、しかも原語で見てナンボ、というオリジナル至上主義なんてクソくらえ、テレビでオンエアされた『ゾンビ』がどれだけカットされ、そんな吹き替えになって、それでもそれがどんなに面白かったか、2時間以上ある映画を正味70分の枠で放送する無謀と、結果現われるナンとも形容し難い代物の楽しみ方。
また往年のMGMミュージカルを正味70分で放送し、「キネマ旬報」など権威ある映画雑誌からは批判された「ゴールデン・ミュージカル劇場」への熱いエールも書き綴られる。劇場公開の話題作だけでなく、テレビ初放送(早い話しが劇場未公開作品)だった『血に飢えた白い砂浜』(文字通り、砂浜が人を食う!)やら『殺人ブルドーザー』(SF作家シオドア・スタージョン脚本)、『パニック・イン・テキサスタワー』(若き日のカート・ラッセル主演)など、今もビデオは出ておらず、あの時見逃してしまった人には今なお、そして今後も噂だけの名作、迷作の数々も紹介されて行く。
それにつけても、20年以上前に放送されたものをこれほど、ディティールまで鮮明に再現できるとは!カットされた映画を見ることは、ある意味、劇場で普通に見るより、トラウマ体験になりやすいのか?!
(新田隆男/エンタメ探偵)
『地獄の黙示録』撮影全記録
2002/02/19 22:15
『地獄の黙示録』撮影全記録(ノーツ)
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ジャーナリストが記したメイキング本の類は今までにもあったが、撮影に同行した妻が記した、というのは他に類がなく、しかも相手がフランシス・コッポラで作品が『地獄の黙示録』となれば、興味は尽きない。とにかくエレノア・コッポラによれば、『ゴッドファーザーPARTII』が、金、権力、家族というコッポラ自身が私生活で抱えていた問題をそのまま映画のテーマとして取り組んだ作品だったように、『地獄の黙示録』も脚本を書きあげて行く過程で、自分自身も発見しようとする過激な試みだったのだとか。
コッポラはすでに解決した問題を映画にすることは出来ず、一歩引いて客観的に考えられることはテーマに出来ないのだという。かくして、脇役に関してはそこそこ書き込めているものの、肝心の主人公たち、カーツとウィラードの対決部分は未完成なまま、大規模な撮影に突入したというのだから、恐れ入る。史上空前のプライベート・フィルムは天候不順、ロケ地の内戦、出演者のわがままや怪我や病気という凄まじいトラブルに見まわれ、撮影はいつ終るともわからない状況に。1500万ドルに及ぶ予算の超過にもかかわらずラストは見えず、コッポラ自身が狂気の淵に追い込まれて行く。その間、ささいなことから夫婦が離婚の危機にさらされた、などという話も赤裸々に登場してくる。
ちなみに、22年を経て再編集が施された「特別完全版」で初めて登場したフレンチ・プランテーション場面の撮影の苦労も語られているが、エレノアは当時からその場面のカットには反対だったことが本書を読むとよく分かる。肉体的、精神的な限界の中での編集、試写を行ってその評判から、また編集をやり直し、コッポラはさらに混乱、部屋中に場面表をばら撒いて、一から構成を練り直す、などということまで始めている。『地獄の黙示録』は編集完成まで実に22年を必要とした作品だったのだ。
(新田隆男/エンタメ探偵)
映画監督という仕事 ディレクターズ・クローズアップ
2002/01/24 15:13
映画監督という仕事
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アメリカ映画監督協会が主催する毎年の最優秀監督セミナーの中から、興味深い発言をピックアップし、さらにそれを映画製作の順番、「脚本を書く」、「製作準備を始める」、「製作に取り組む」、「ポスト・プロダクション作業」といった具合に並べた一冊。
スティーブン・スピルバーグからロバート・ゼメキス、オリバー・ストーンに、ロベルト・ベニーニら、第一線の監督がそれぞれの作業をどう思っているのか、その違いがわかるうえに、作業の極意もわかって実に面白い。脚本なんてものはとにかく、椅子に座って書くだけだ、というオリバー・ストーンがいるかと思えば、まず人物を重視し、場面の構成が変われば人物の反応も変わるはずだから、構成を動かしたら、以降は書き直すべきだ、と緻密な発言をする『レインマン』のバリー・レビンソンもいる。監督は軍隊の小隊長のようなもので、皆が熱意を持って丘に突撃するのを励ますのが仕事だ、と言うクリント・イーストウッドがいれば、毎朝、会ってもいいと思う仲間たちとしか仕事をしない、と言う『ミザリー』のロブ・ライナーもいる。
面白いのは発言を読むと、やはりその監督の作風とキチンと符合することで、例えばロバート・ゼメキスなどは、編集プロセスが映画作りの中で一番好きだ、と言い放つ。狂気とプレッシャーに追いたてられる撮影が終って、やっと頭を使う時が来た、という感じらしい。細かな伏線とカット割りが絶妙に組み合わさるゼメキスの世界は、編集室で生まれているのだ。「監督になるために必要なものは何か」というエリア・カザンの講演も収録。巻末には、言葉が引用された監督すべての詳細なバイオグラフィーがついているが、おそらくこれもアメリカ監督協会が作成したもの。本国アメリカではどの監督がどのように評価されているのか(例えばバーブラ・ストライサンドの評価が思いがけず非常に高い)、これもなかなか興味深い。
(新田隆男/エンタメ探偵)
ザ・ゴッドファーザー
2001/12/05 22:16
ザ・ゴッドファーザー
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ハリウッド映画史上屈指の大河ドラマ『ゴッドファーザー』の製作には、実はスクリーンに映し出されたドラマ以上の想像を絶するドラマがあった、という衝撃の一冊。
今までにもプロデューサーであるロバート・エヴァンズが自分の伝記本の中で、フランシス・フォード・コッポラは演出こそ素晴らしいが、編集の才能はない(で、俺が編集した、という自慢話が続く)と書いたり、あるいは最近発売されたDVDでは音声解説の中で、幾度も監督を降ろされかけた、とコッポラ自身が自ら撮影の大変さを告白したり、その苦労はちらほらと耳に入ってはいたが、あらためて、それだけをまとめて一冊の本として読むと、本当によく完成したと思えるほど。
映画史上最高のエポックは映画史上最大の難産だった、ということがわかって驚かされる。そもそも原作者マリオ・プーゾォが、マフィアについて特に詳しいわけでもないのに3年かけて取材を繰り返し書き上げた、というところからすでに伝説的な凄さだが、それまでヒットした監督作のなかったコッポラの登板、名優ではあるがトラブルメイカーでもあったマーロン・ブランドの起用、さらにライアン・オニールやロバート・レッドフォードなど当時のスター俳優を無視してのアル・パチーノの抜擢など、メジャー・スタジオが嫌がる問題山積みでの船出。完全主義者の撮影監督ゴードン・ウィリスとコッポラの確執はもちろん、凄まじいのは編集担当者がコッポラの悪口を言い自分が次期監督に納まろうと企んでいた、というエピソード。いやあ、よく名作になりました。それでも、ほとんど撮影が終了する頃になっても、まだ脚本を練っていた、というコッポラの情熱が凄い。
ちなみにノンクレジットで脚本の最後のブラッシュアップをしたのは『チャイナタウン』のロバート・タウン。パチーノとブランドのやりとりをどう書き替えたか、も紹介されて、興味深い。
(新田隆男/エンタメ探偵)
メメント
2001/12/05 22:16
メメント
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妻が殺され、自身もその時の衝撃から、わずか10分しか記憶することでができない前向性健忘という記憶障害に陥ってしまったレナード。忘れてはいけない情報はすべてメモに残すだけでなく、「妻が殺された」など最重要な情報はタトゥーとして体に刻んだ彼が、妻殺しの犯人を追う。
主人公の設定も凄いが、映画はまず犯人を射殺する場面に始まり、そこから10分間程度ずつ時間を遡って行く奇抜な構成。一瞬、何が起こっているのか観客はキツネにつままれるが、それこそが記憶を失った主人公を体感していることを意味している。とにかく、よく思い付いた、としかいいようのない発想をパズルのように組み合わせた秀作。一度見たら二度見たくなる作品なので、ノベライズを手にしてみたが、これがまた映画に負けず劣らず凝った作品だった。
最初に言っておかなければならないのは、これがごく普通のノベライズではないこと。よく見れば、映画の脚本・監督クリストファー・ノーランは「原案」となっており、作家、映画評論家でもある今野雄二が著者となっているのだ。映画では犯人を撃った主人公の弾丸が、再び主人公の握った拳銃に戻る、巻き戻し映像のインパクトが冒頭に用意されているが、さすがに映像の遊びでしか成立しないこの場面は削除。その部分なしに主人公の目覚めから始まるので、ますます迷宮感を深めている。しかも、映像では一瞬で通りすぎるタトゥーの数々がキチンと表のようにして紹介されているので、ページをめくる手を止め、自らレナードと共に推理を展開して行く楽しみもある。だが、真の凄さはラストにたどりついた時、訪れる。映画版のラストも、それまでの全てを引っ繰り返すヒネリが加えられていたが、小説にはさらに新たなオチが付け加えられているのだ。
映画の行間を読んだ著者の妄想か、それともこれが真実なのか。『メメント』がさらに楽しめるのは間違いない。
(新田隆男/エンタメ探偵)
ハリウッド・ビジネス
2001/12/05 22:16
ハリウッド・ビジネス
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ハリウッド・スターの誰と誰が付き合っているとか、そんなゴシップは結構日本にも流れてくるものの、著作権での訴訟といった情報が聞こえてくることはほとんどない。とはいえ、アメリカといえば訴訟大国なわけで、巨額の金が動くハリウッドでは、その華やかさの裏でやはり様々な裁判が行われていた、というのが本書。著者はロサンゼルスでエンターテインメント、映像ビジネス、著作権保護を専門とする弁護士である。それだけに、様々な事例を懇切丁寧に教えてくれて実に面白い。
オーストリアの作家が『バンビ』を出版した時、うっかり著作権表示をつけなかったことから始まる騒動、ヒッチコックの名作『裏窓』で著作権法の改訂が招いたリバイバルやテレビ放映時における混乱、といったところから、スピルバーグの『アミスタッド』が映画と同じ史実を扱った作家に訴えられたこと、『インサイダー』や『エリン・ブロコビッチ』など実在の人間をモデルにした映画の肖像権問題など、著作権に絡んだ訴訟だけでも多岐に渡る。
さらにクリント・イーストウッドと長年のパートナー=ソンドラ・ロックのワーナー・ブラザースを巻き込んだ裁判に発展した別れ話、『Xファイル』のデビッド・ドゥカブニーが20世紀フォックスを訴え、結局は番組を去ることになる顛末、オースティン・パワーズことマイク・マイヤーズがユニバーサルにわがままを訴えられ、逆に訴え返したなんて凄まじい話も登場する。一般的に契約社会と思われているアメリカで、大スターたちは作品の製作が完了するまで、きちんとした出演契約を結ばずにスタジオと駆け引きを続ける、という恐ろしい話も披露される。
近年、映画の製作費が高騰し、メジャースタジオでさえリスクを負うのを恐れるが、北米興行、海外興行まで見越してどんなことが行われているか。ハリウッドの収支決算、資金調達、運用の戦略などまで紹介され、中身は非常に濃い。
(新田隆男/エンタメ探偵)
ハリウッド大作映画の作り方
2001/10/10 18:15
「ハリウッド大作映画の作り方」
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今年の夏の映画興行は『A.I.』や『パールハーバー』、『猿の惑星』『ジュラシック・パークIII』、と空前のハリウッド超大作ラッシュに沸いた。ハリウッド映画といえば、当たり前のように超大作を想像するが、ではメジャー・スタジオは時に100億円を越えたりもする莫大な製作費をどのように捻出しているのか。「史上最高の製作費!」といった謳い文句はよく聞くが、その製作費がどうやって調達されているかは意外と知られていない話では?
本書は、そもそもハリウッドとはどうして誕生したのか、その言葉の由来といったところから、企画の成り立ち(どういった理由で企画が進み出すのか、決定権を持っているのは誰か?)、脚本の開発の仕方(何故、ハリウッド映画では何人もの脚本家の名前がクレジットされているのか?)、スターのギャランティ(現在、ハリウッドでもっとも興行力を持っているスターは誰か?)、さらにはカメラマンのピラミッド社会、スタッフの仕事内容の説明、撮影中に出される食事のことまで、ありとあらゆる雑学が一冊に詰まっている。
文庫本サイズで、値段も安いが、なかなかどうして中身はコッテリ。『タイタニック』や『スター・ウォーズ/エピソードI』など事例として引き合いに出されている作品が新しいのもわかりやすくてイイが、将来的に起こる(というより今すぐそこまで来ている)デジタル化の波によるフィルムからデータ配信への映画の変革のことまで説明されており、ただ娯楽として眺めていた映画が「産業」としても興味深く見られるようになることウケアイ。
(新田隆男・エンタテインメント探偵 2001.10.11)
宮崎駿の〈世界〉
2001/10/10 18:15
「宮崎駿の<世界>」
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今年の宮崎駿は、『千と千尋の神隠し』が『タイタニック』の持つ日本興行記録を破ったかどうかのみで語られるかも知れない。ヒットメーカーは数字でしか語られなくなる。だが、宮崎駿ほど作家性の高い監督は今や日本には存在しないし、子供も大人も老若男女が劇場に駈け付けるといっても、その映像はディズニー的なものとは一線を画しているのだ。しかも『ルパン三世/カリオストロの城』から『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』に至るまで、同じことを繰り返したがらず、絶えず変貌を続けている。作家性が高いにもかかわらず、評論家泣かせ、非常に語りにくい、というのが宮崎駿の特徴でもある。
本書は、圧倒的な好評で迎えられるか、あるいは無視されるしかなかった宮崎作品に直球勝負を挑む評論。まずはスタジオジブリ作品を詳細に検証し、そこから東映動画時代へと遡って、ルーツを探る。もちろん、それはバイオグラフィー的な紹介ではなく、そこに登場する少女の描写、そして物語の世界観を常に「縦の構図」で描き出す手法を探る旅でもある。ちなみに、近年の宮崎作品で凄いのは、アンチ・クライマックスへの志向ではないかと思うのだが、本書を読み進めるうちに、『千と千尋の神隠し』という作品が、宮崎駿のインナースペースではないか、という説にも納得できた。手すりのない急階段を一気に駆け下りたりする、久々に「らしい」場面があるにもかかわらず、なぜ原画の修整まで自分でやるという形態から自由になり、作画監督を若手に任せたのか、なぜ10歳の女の子が主人公なのか。今やっとおじいちゃんとして「己の中にある少女への思慕と向き合う距離が出来た」のではないか、という指摘は鋭い。
『千と千尋の神隠し』は「一時の戯れ」の映画なのだ。だから、物語の向かう先などいらない。通常240ページと言われる新書が333ページにもなった渾身の一冊だ。
(新田隆男・エンタメ探偵 2001.10.11)
