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佐々木俊尚さんのレビュー一覧

投稿者:佐々木俊尚

4 件中 1 件~ 4 件を表示

紙の本隣人

2001/03/14 18:37

かつてこれほどこころ優しいルポルタージュがあっただろうか?

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 かつてこれほどこころ優しいルポルタージュがあっただろうか? この本を読み終えて、僕は少し泣いてしまった。ノンフィクションを読んで泣いたのは、とても久しぶりだったような気がした。
 この本の「優しさ」は、重松清という作家のこころの優しさであり、そしてこの希有な作家がものごとを見つめるときの、視点の確かさでもある。

 重松清は『ビタミンF』で今年度の直木賞を受賞した新進気鋭の38歳。授賞式の様子をテレビで見て驚いた人もいるかもしれないが、茶髪でガタイの良い肉体労働者的な風貌を持った人だ。しかし2001年の今、郊外のニュータウンで暮らすごく普通の人々を書かせたら、この人の右に出る書き手はいない。

 まるで暗い闇の深淵に飲み込まれそうな、動機の理解できない凶悪な事件が相次いだ1990年代。89年の宮崎勤事件から始まった濁流はオウム真理教事件を経て、神戸の児童連続殺傷事件、バスジャック事件、新潟の長期監禁事件へと連なっている。
 
振り返ってみれば、こうした事件に対して私たちはただひたすら、「自己懺悔」をもって決着をつけようとしてきたのだった。「戦後民主教育のなれの果て」「豊かさの代償」「バブルに踊り、大事なものを忘れてきた私たち」
 でも本当に、本当にそれがただひとつの原因なのだろうか?

 重松清は誰もが知っている事件を数多く取り上げたこの本で、昔の小説を繰り返し、繰り返し引用している。新聞配達のアルバイト青年が起こした池袋の通り魔殺人では、中上賢次の『十九歳の地図』。新潟の監禁事件では坂口安吾の『桜の森の満開の下』。愛知県豊川市の主婦殺人やバスジャックなど17歳の少年が起こした一連の事件では、大江健三郎の『セブンティーン』と村上龍の『69』、そしてサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。

 執ようともいえる昔の小説の引用で重松清が言おうとしたのは、「十七歳の事件」を取り上げた章に書かれた言葉が端的に表わしている。それは、こんなふうに書かれている。
 
「過熱する“十七歳警報”にうんざりしているはずの十七歳クン、そんなに嘆かなくてもいい、きみが生まれたときから(そしてそのずっと以前から)十七歳という年齢は危険なものだと相場が決まっていたんだから…」

 とても確かな説得力をもって、こんな言葉をすらりと書けてしまう重松清という希有な作家。この人の心のゆるやかさに、読んでいた僕はとても癒やされ、そして勇気づけられる。ぼくたちが生きている時代は、決して「モンスターが跳梁跋扈する時代」でもなければ、「人のこころが無くなってしまった時代」でもない。いまも昔も同じように人々の生があり、こころの闇があり、そして最後の一歩を踏み出してしまう若者がいる。

 だってこの作家は、豊川事件とバスジャック事件の容疑者の少年二人に、こんなメッセージを投げかけてしまうのだ。
 「彼らには、片思いでもいい、好きな女の子がいたのだろうか。ぼくは、それがいま気になってしかたないのだ」
 泣けてくるではないですか。
(佐々木俊尚/月刊アスキー編集部デスク・元毎日新聞社会部記者 2001.03.14)

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紙の本白の闇

2001/05/30 16:51

人間の尊厳を問うパニック小説の金字塔

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ノーベル文学賞を受賞した1922年生まれのポルトガル人作家——。こう書いただけで、小難しそうな純文学のイメージが浮かんでしまう。だがこの小説『白の闇』は、とほうもなくスリリングで骨太な、驚くべきパニック小説の金字塔だ。断言するが、そこらのミステリー作家やSF作家が書くものよりは100倍は面白い。こんな物語を73歳で書き上げてしまうパワーには感嘆するしかない。今すぐ、書店に走れ!

 未知の病原菌が世界に蔓延するという発想は、SFの古典的名作『渚にて』やスティーブン・キングの『ザ・スタンド』、日本では小松左京の『復活の日』と枚挙に暇がない。こうしたプロットというのは、作家のインスピレーションをかき立てるものがあるのだろう。

 と考えると、書き古された感もある「病原菌もの」だが、サラマーゴはウルトラCな手法で新たな地平を作り出してしまう。物語のプロローグは、しかし典型的なパニック小説の展開である。ある平凡な昼のできごと。交差点の真ん中で、突然車が動かなくなる。なにごとか、と騒ぐ人々に対し、運転者は「眼が見えなくなった」と叫ぶ。心配した通りすがりの男性が彼を自宅に送り、そしてその男性もまもなく失明してしまう。被害が広がり、軍隊が出動するが、しかし事態は収まらず……。

 興味深いのは、人々が「死ぬ」のではなく、視界がミルクの海のような真っ白な闇に閉ざされるという設定。原因は何の説明もされないが、実のところそれは病原菌ですらない。まるでメデューサの蛇の頭のように、「見えなくなった人の眼を見ると失明する」のだ。

 しかしその奇怪な設定だけが、この小説のすべてを表しているわけではない。では、この小説の凄み、この小説が凡百のパニック小説と一線を画しているのは何だろうか。それは、執拗なほどの徹底的なリアリズムなのである。

 失明者の世界であふれていくゴミ、詰まったトイレからこぼれだす糞尿。それをぬぐい去ることさえできず、手足に糞尿をなすりつけたまま食物を探す人たち。わずかな食料を争い、スーパーの地下食料庫の入り口で糞尿で汚れたまま折り重なって死んでいく人たち。食料を管理し、女たちを陵辱し尽くす強欲な男たち。「汚れ」の描写は圧倒的だ。なぜこれほどまでに吐き気を催すような描写が延々と描かれるのか。これは地獄だろうか。

 サラマーゴの意図は明らかだ。作家は、こんな風に書くのである。「罪人が耐えるべき最悪のものは、焼けた石炭ばさみや、煮えたぎるタールの大釜や、鋳造所と調理場にある種々の道具ではなく、鼻が曲がるほどの強烈な腐臭と、吐き気をもよおす有害な異臭なのである」。……はっきり言って、この小説は食事中には読まない方がいい。

 この小説は、突出したパニック小説であるのと同時に、きわめて秀逸な純文学としても成立している。吐き気の出そうなリアリズムの向こう側、読み進めるうちに、決然とした人間性の問題が浮き彫りになってくるのだ。「このような状況の下で、人間の尊厳とはどのようにして存在しうるのか」。

 ヒロイックファンタジーの主人公のようにカッコよく生き、カッコよく死んでいくのは実のところそれほど難しくないのかもしれない。しかし、下半身をウンコまみれにし、それでも同じようにカッコよく生き死にするのは果たして可能なのだろうか? これまでの文学史の中で、あまり問われてこなかった——しかし根元的な人間性の問題がこの小説では問われている。
(月刊アスキー編集部デスク・元毎日新聞社会部記者/佐々木俊尚)

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紙の本わたしたちが孤児だったころ

2001/04/19 21:10

現実の荒波を乗り越えてこそ、哀惜の情は輝く

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 「失われて久しいもの」への哀惜。それはカズオ・イシグロの小説を貫く、ただひとすじのテーマだ。そしてこの新作『わたしたちが孤児だったころ』で、その哀惜はこれまでにないリリカルな輝きをもって語られている。そう、まるでノイズまみれのラジオの電波の向こうから、古くて懐かしい唄がかすかにきこえてくるように。

 カズオ・イシグロといえば、『日の名残り』。ブッカー賞を受賞したこの代表作は、旧家の執事を主人公にした何とも不思議な小説だった。静謐さが支配する、巨大な邸宅での貴族階級の生活。老いた主人公の哀感と郷愁。僕はこんなに上品で、しかもしみじみと美しい小説を読んだことがない。

 そしてこの新作。物語の前半はやはり、古き良き十九世紀の英国文学のような上品さに彩られている。
 裕福な上流家庭の男子がケンブリッジ大学を卒業し、社交界にデビューし、そしてさまざまな人に見守られながら人生を見つけていく——小説空間を漂うゆったりした時間の流れ。「消息を絶った両親を探す」という推理小説仕立ての設定は、何だかシャーロック・ホームズが出てくる小説のようでもある。

 だがその物語は、イギリスから魔都・上海へと舞台が移るに連れ、少しずつ位相をずらし始めるのだ。
 前半の物語で幸せだったはずの人たちは、後半部分でひどく傷つき、あるいは老残の身をさらし、そして裏切り、裏切られる。ローラーコースターのような意外な展開に驚き、その情念の激しさにとまどい、時間も忘れて読みふけっているうち、気がつけば読み手は荒波のような物語世界に放り出されていることに気づく。
 その異常な展開を、翻訳者はあとがきで「シュール」と表現していた。だが僕は、少し異なった印象を抱いた。その異常さは、まぼろしの世界の異常さではなく、この小説の舞台となっている世界大戦の谷間という時代状況の異常さなのではないか。恐ろしい「現実」に、登場人物たちは翻弄されていくのだ。静かで心地よいまぼろしのような世界を、現実が浸食しはじめるのだ。

 気がつけば、ぬくぬくと気持ちよかった午後のリビングルームのような世界は姿を消し、冷たく冷酷な世界が私たちを待ち受けている。そして、そんな世界を漂流していく主人公の向こうには、いったい何が待っているのだろうか?
 ——その結末は、読んでのお楽しみ。
 ただ、ひとつだけ言えること。この小説の終わりには、驚くほど豊饒な文学世界の地平が広がっている。現実の荒波を乗り越えてこそ、哀惜のこころはより美しく輝くのだ。

 かつて敬愛していた老新聞記者の、こんな言葉を僕は思い出した。
 「古い流行歌を聴くとき、こころを締めつけられるような気持ちがこみ上げてくる時があるだろう? それは郷愁、哀惜、あるいは途方もないさみしさ、リリシズム。書き手のひとつの目標は、そんな情感をことばで伝えることだ」
 そんな物語を作り上げてしまう表現者——カズオ・イシグロは、その貴重な作家のひとりだと思う。

(佐々木俊尚/月刊アスキー編集部デスク・元毎日新聞社会部記者)

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伝説のストリッパー絶望と救済の物語(書評後編)

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  〜 書評前編より 〜

 一条さゆりが語った架空の昔話は、いったい何を意味したのだろう? 加藤さんはこう書く。
 「普通の親が子どもに抱くような“揺るぎない愛情”を、おそらくほとんど受けたことがなかったであろう彼女は、ある意味、“大切にされた”経験というのがなかったのだと思う」「自分が産み捨てた子どもにさえ、大切にされたいと願っている悲しさが、そこにあるのだ」

 薄皮を一枚一枚はいでいくように、たんねんな取材を重ね、一条さゆりという伝説の女性の人生を白日のもとへとさらしていく。その過程は、あまりにも痛々しい。取材者と取材対象という枠を超えて最期をつきあったはずの著者が、一条さゆりという存在に切り込み、時に突き放し、時に哀惜を込めて語っていく。読んでいる僕は言葉を失うしかない。あまりにも壮絶なのである。

 暴かれた一条さゆりという存在は、かつてマスメディアで語られた神話とはかけ離れている。醜く、不格好で、とことんだらしなくて情けない。でもそんなボロボロの人生を送りながらも、彼女はこの長い物語の中ですっくと立っているようにも見える。結末は悲しくつらいけれども、どこかでさわやかな一陣の風が吹き抜けていくような読後感があるのだ。
 それは何なのだろう?
 僕には、それが加藤詩子さんというこの女性ライターが一条さゆりに向けた「揺るぎない愛」なのではないかと感じた。

 揺るぎない愛。
 そのテーマは、この長大な本の奥底に静かに流れているように見える。
 釜ケ崎のドヤ街で死ぬ間際、わがままな要求を続けた彼女を、加藤詩子さんは思い出す。「彼女は私を試したのかもしれない、ふとそう思った。彼女は確かな愛がほしいのだ。信じられる愛がほしいのだ。そしてそれを実感したい、確信したい。そのために私を試している。私はその“重さ”を感じて、愕然とした」
 かつて時代を駆け抜けた一条さゆり。その神話が今、ふたたび再生されようとしている。
(佐々木俊尚/月刊アスキー編集部デスク・元毎日新聞社会部記者)

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