土岐恒二さんのレビュー一覧
投稿者:土岐恒二
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2000/09/07 21:15
武蔵野の雑木林に育まれた幼少期以来、木々とことばとに出会うための長旅の途上にある言葉の達人の名随想集
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小塩節氏の筆が、人間と都市と自然を対象として、のびやかに、歌うように、快いリズムとテンポで運ばれることはすでによく知られたところであろう。ここ五年間に発表された散文を、3部に分けて巧みに配した本書でも、氏の文体に固有の「力」(著者みずから『菩提樹』の末尾で「かくれている品性、実質、美徳、力という語」であると力説されている「ヴァーチュー」)が、言葉による明晰な認識と表現とに触れる悦びを、読者に存分に味わわせてくれる。
第1部「森かげの径」22篇は、「信濃毎日」連載後に一昨年出版された『木々を渡る風』からの再録を中心とする、樹木をめぐる省察と滋味あふれる回想のエッセー。第2部「イタリアの道」14篇は、NHKイタリア語講座のテクストに連載された、イタリアの風土と植物と人間の観察録とも呼ぶべき楽しさいっぱいの旅日記。
第3部「旅人」5篇の中で最も早く1995年「新潮45」に書かれた『旅の人「寅さん」──純日本人は「車寅次郎」と発します──』を、じつは私は本書で初めて読み、小塩氏の文章家としての真価を改めて実感することができた。間然するところがない名文である。長期の海外赴任からバブル現象まっ只中の日本に帰国するや、拝金主義の横行に愕然とし、本来の日本人像を真剣にわが胸に求めて思い当たったのが「寅さん」だった。氏はここで余計な思惑を捨て、ひたすら「寅さん」の人間像の本質的な部分を的確な措辞で造形することだけに傾注しており、情緒的形容や曖昧な賛辞や美文とは無縁の、必要にして充分なその発言は、まさに名文に凝縮した。
ドイツ文学者であり、駐独日本大使館公使、ケルン日本文化会館館長、ゲーテ・メダル受賞者、フェリス女学院院長といったまぶしい経歴や現職の肩書きがつらなる中にまじって、ひこばえ幼稚園園長という現職名をみつけるとき、思わず頬がゆるみ、著者の温顔が脳裏に浮かぶのは私だけではあるまい。小塩氏は、本当に木の花がお好きだ。「まるで植物図鑑の生き字引のように草や木や花を熟知して」おられた母堂から(氏の言葉とは裏腹に)その知識と愛情とを受け継がれていることは、文章のすみずみにまで滲み出ている。早春の武蔵野の雑木林や信州・塩尻の北の鉢伏山の山すそで幼いころから見慣れていて大好きだったという「ボケの花」を、氏は日本固有種とばかり思いこんでいたが、ワイマル宮殿での「ゲーテ・メダル」受賞式に臨んだとき、宮殿の入口近くの木立の茂みに夕陽を浴びてこぼれるように咲いているボケの小さな赤い花を見つけると、カメラの放列も大統領や首相や市長が待つことも忘れて、今はメダルよりも大事な花の方へ、思わず歩み寄ったという。
表題は「フィレンツェの宿」(99頁)の中の一句だが、もとの典拠は青年リルケの詩句「アルノ川の上に夜が花のように開くのを私は見た」(103頁)。 (bk1ブックナビゲーター:土岐恒二/文化女子大学教授 2000.09.08)
紙の本中国遊仙文化
2000/09/18 21:15
現世的欲望の永続を求めず、無為自然な人生の価値を高めて此岸に仙境を実現する道教の遊仙で解く中国文化論
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遊仙という言葉に意識的に接したのは、フェノロサが森槐南のもとで有賀長雄の協力をえて訳し溜めた中国詩の英訳遺稿をエズラ・パウンドが整理出版した『キャセイ』という英訳中国詩集を読んだ大学院生のときだった。そこに郭璞の「遊仙詩」が1篇取られていたのである。西欧のユートピア思想、楽園・庭園のイメージと一脈通じるところをもつこの遊仙という観念と、それと絡み合って中国史のさまざまな段階で多面的な現れ方をする道教(タオイズム)とを極めずして中国理解は深まらないと覚悟したことを思い出す。著者たちと訳者の言い分にならって私も「読書(執筆、翻訳)の過程が実際には学習の過程にほかならなかった」ことをまず告白しよう。1冊の書物からこれほど多くの知識が得られる例はそう滅多にあるものではない。じつに充実した読書体験をさせてもらった。
全六章の内訳は第一章「遊仙観念の歴史的形成」、第二章「遊仙活動の宗教形態」、第三章「帝王の夢想──遊仙ブーム(一)」、第四章「士人の帰着点──遊仙ブーム(二)」、第五章「道教徒の耿溺──遊仙ブーム(三)」、第六章「遊仙文化の意義」。目次からは堅い印象を受けるかもしれないが、各章題のあとの節題に目をやると、思わずこれは何だろうと膝を乗り出したくなるような文字が並んでいる。神仙、長生久視、仙道融合、道術、羽化登仙、逍遥、林泉隠棲、養気錬丹、修仙法術、習符念呪・・・。とにかく面白い。
古来、中国では長生不死への願望が、神仙説を生み出したとされる。神仙とは、不死の絶対的神と、修練によって超人的能力と長生を獲得した仙人とを一体視した観念である。もと黄老の学に端を発した道教もやがてこの神仙説を加味して、不死を求める方術や金丹の錬成術を心得たと白称する方士を輩出し、自身の長生と帝国の万寿を願った泰の始皇帝以後の歴代帝王の宮廷に勢力を拡大していった。帝王たちは君主の統治術を説く老黄の学に従いつつ、方士の口車に乗って求仙狂いの行状の果てに自滅していったのである。
遊仙とは神仙が天上で周遊遊覧することだというが、遊仙の願望は、所詮神仙にはなれない人間帝王たちが方士のいかがわしい術と野心に翻弄されて自滅する負の歴史を残した反面、『楚辞』以来の遊仙詩という重要な文字ジャンルを生み出した。いまこの人生を、道に叶った真に価値あるものとしてそこに遊ぶをよしとする、道徳的人生肯定派の系譜である。自然を崇拝し「道遥」するこれら自由人たちの遊仙には帝王たちのなりふりかまわぬ求仙にはない品位があり、たとえば「山水の遊、弋釣〔捕鳥と釣魚〕の楽しみ」を尽くした音聖王義之の言動には意外にも英国ロマン派詩人ワーズワスとの類似を指摘できる。最終章「遊仙文化の意義」では、儒教、仏教との比較、さらには世界の宗教における道教の位置をめぐって傾聴すべき意見が述べられている。 (bk1ブックナビゲーター:土岐恒二/文化女子大学 2000.09.19)
2000/09/18 21:15
ヨーロッパ各国の名園を美しく克明な写真と簡潔な説明文との息の合った二重奏で織りなす庭園めぐりの旅日誌
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ふつう庭好きといわれる人は、私流に分けると、常緑樹の手入れや樹形を整えるための刈り込みに悦びをおぼえる「剪定ばさみ」派と、花卉植物の施肥や剪定や開花期に敏感な花好きの「移植ごて」派に二分される。前者は盆栽や特定品種の花(菊、蘭など)に凝るご隠居の姿を、後者は草花やハーブに夢中の女性を連想させる。
しかし、庭好きであることと、寺院や旧邸宅の庭園をよく鑑賞することとは、矛盾こそしないが必ずしも同じ性向とは言い難い。庭園には、たしかに個人的な趣味から築営されたものが多いかもしれないが、なんといっても個人の趣味や美意識を越えて、それを生んだ地方、国、民族の文化の粋が宿っている。したがって、文章であれ絵画であれ写真であれ庭園を対象とする書物の読者は、趣味の域にとどまるわけにはいかない。作庭に関する適度の歴史と地誌の知識、造形に関する感覚が求められる。おしなべて庭園は、楽園あるいは理想郷の視覚化された造形であり、庭を観ることは、庭の造形を通して文化の極致に想いを馳せること、造形の向こうに自然・人間・社会のユートピア像を描き出すことにほかならない。
『ヨーロッパ庭園紀行』はA4判の大判にイタリア、フランス、イギリス、ドイツ、オーストリアその他の国のきわめつけの名園を、勝井規和氏、勝井悦子氏の文で構成した美しく楽しいムック風の書物であり、庭好きの人も文化の型に関心を寄せる人もヨーロッパ庭園鑑賞の旅に誘う格好のコーヒーテーブル・ブックである。
イタリアはティヴォリのヴィラ・テステ、ハドリアヌス帝の別荘ウィラ・アドリアーナの古代庭園、マッジョーレ湖中のポロメオ宮庭園。ヴェルサイユ、フォンテーヌブロー、シャノンソーなどのフランスの名園。イギリスではハンプトン・コート、キュー・ガーデン(正しくはキュー・ガーデンズ)、ストアーヘッド、シシングハースト、英国庭園の様式変遷をそのままに伝えるストウ庭園。ドイツでは、古都ヴュルツブルクのレジデンツとミュンヘンのニュンフェンブルク城。オーストリアはシェーンブルン、ベルヴェデーレ宮ほか。さらにスウェーデン、デンマーク、オランダ、スペインの庭もそれぞれいくつか収められ、まことに錚々たる名園揃いである。
写真頁の解説文は概して短く、巻末の「宮殿・城・庭園 ロマン紀行」という文章も充分系統立ったものではないが、てらいのない、自然な流れをもつ簡明な記述で読み易い。写真集としては、ヨーロッパの多くの名園の俯瞰図と細部のたたずまい、添景や建物を含めた景観美が、ここという視点から、構図もみごとにスナップされていて、見る者の想像裡に庭園の実景を原寸大に刻印してくれる。ヨーロッパ庭園鑑賞をすでに始めた人も、まだの人も、本書を契機としてそれぞれの触手をのばし、比較庭園文化論へとアプローチしてみてはどうだろう。 (bk1ブックナビゲーター:土岐恒二/文化女子大学 2000.09.19)
紙の本アーネスト・F・フェノロサ文書集成 翻刻・翻訳と研究 上
2000/08/25 09:15
日本美術界近代化の恩人フェノロサの重要な未発表遺稿を解読転記した原資料の翻訳研究
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フェノロサが日本美術に対してどのような関係にあったのかは、事典的な情報のレベルでなら比較的よく知られている。しかし実際には、フェノロサは多くの講演原稿や研究ノートを草稿のまま残し、没後その大量の遺稿がボストンのハーヴァード大学図書館に寄託されたために、滞日期の講演などの原稿の多くは全文が活字化されないままに、遺稿として長い間ハーヴァードに眠っていたのである。いきおいフェノロサの文業の多くは接近困難となり、これまでフェノロサの全業績に対して適切な判断を下すことはおろか、美術批評家としてのその全体像の輪郭を描くことも、専門家にとってさえ容易なことではなかったというのが実状である。
村形明子氏は、1964年、アメリカに留学し、ボストン出身の日本美術コレクターとして知られるビゲロウの伝記的研究を学位論文のテーマに選んだ学者だが、1971年にハーヴァード大学図書館で発見されて長い眠りを覚まされたフェノロサ遺稿に注目し、それらを逐一解読・転記、編集整理した上で、『ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵フェノロサ資料』3巻(I:1982年、II:1984年、III:1987年)としてミュージアム出版から翻刻公刊した。今度の著書はそれ以後各所に発表した、前記フェノロサ遺稿の部分的翻訳と、新出資料の紹介、研究論考等を集成したもので、一般読者にとってフェノロサの著述に接するのが困難な現状を補ってくれる、出るべくして出た重い内容の、待望の書物である。
『アーネスト・F・フェノロサ文書集成──翻刻・翻訳と研究(上)』は、「I 来日以前」、「II 第一次来日期」のフェノロサの著述を個別的に翻刻・翻訳または略述したもので、資料的価値がきわめて高い。「III 帰米後」、「IV 再来日期」、「V 晩年と没後、補遺」の三章からなる下巻の早い続刊が待たれる。
今度の本では、フェノロサ直筆のスケッチ・ブックから多数のスケッチをも載録した第2章「日光避暑・スケッチ日記(明治12年[1879]7月14〜24日)」という翻訳章と、多くの写真図版をまじえた第19章「W・S・ビゲロウとボストン美術館日本部の創設」と題する論考にとりわけ興味を引かれた。前者の、淡々とした外面的記録に終始するいかにも日録ふうの記述の背後には、目に入るものはなにひとつ見落とすまいとする文化人類学者的観察の眼光の鋭さが感じられ、挿入されたスケッチには異文化の〈かたち〉を瞬時に切りとってみせるフェノロサの手練の確かさを見ることができる。そうした特性は第1章「アメリカ建国百周年記念フィラデルフィア万国博覧会見学手記」の転記部分にすでに明瞭に現れているものだ。ビゲロウに関する章は、ともすればフェノロサの名声の陰に隠れがちなこの要人への敬愛の念に貫かれた、読みごたえのある論文となっている。 (bk1ブックナビゲーター:土岐恒二/文化女子大学教授 2000.08.25)
紙の本東洋美術史綱 Epochs of Chinese and Japanese art
2000/07/10 20:50
中国の原始美術から江戸の浮世絵まで、東アジア美術史の壮大な眺望図。美術を越えた、東亜文明史の金字塔。
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1878年(明治11年)、25歳の米国人アーネスト・フェノロサは東京帝国大学外国人招聘教授として哲学と経済学を講義するために初来日した。彼は幼少時から音楽や美術の才に恵まれたスペイン系移民の子だったが、芸術の根本に哲学を求め、人間活動の全域を究めようとハーヴァードの哲学科に進んだ俊英であった。
来日したフェノロサは、専門分野の講義もさることながら、黒田侯爵家の名宝などに接して日本美術に開眼し、文部省と契約更改をくりかえしながら、当時西洋文明に圧倒されて不当にないがしろにされていた日本美術の優秀さを力説し、美術協会を組織し、鑑画会を起こして狩野芳崖や橋本雅邦を推賞し、はては美術の領域を越えて日本文化の本質を会得するために、梅若実に師事して能楽の研究にも踏み込んでゆく。日本美術に寄せるその眼識に注目した宮内省は、フェノロサを帝室博物館美術部理事に任じて、京都奈良の古社寺所蔵の文化材調査や欧米美術事情の調査を依頼した。こうして日本美術の正当な評価がフェノロサによって始められ、法隆寺夢殿の秘仏救世観音が公開されるようになったのも彼のおかげなのである。
明治29年、欧州美術事情視察のあと日本を再訪したフェノロサは、大津の三井寺法明院で、仏教の研究に専念し、やがて日本永住の意を固めて一時帰米したあと、明治30年から東京に居を定めて、宗教や社会学を本格的に研究し、能を平田禿木、漢詩を森槐南の協力を得て英訳しながら『東亜美術史綱』の想を練り上げていった。
その鉛筆草稿が一応の完成にこぎつけたたのは、1906年(明治39年)夏のニューヨークでのことであったが、その2年後、フェノロサは突然旅行先のロンドンで客死し、草稿は、確認を要する箇所を多数かかえたまま残されることになった。この草稿の計り知れない価値をよく知っていた賢明なメアリ夫人は、それから2年後、寝食を忘れてタイプした清書原稿をもって来日し、フェノロサのよき協力者であった有賀長雄と狩野友信の助力をえて未確認事項や欠字を補った。『東亜美術史綱』の原本は、1912年(大正元年)、ロンドンのハイネマン社から出版された。日本語版は、フェノロサの13回忌に合わせて、有賀長雄訳が出た。今回のICG Muse, Inc.版は現行流布本(ニューヨーク、ドーヴァー社版)と同じくペトルッチ教授による注の加わった改訂第2版(1913年)の翻刻で、図版も全部収録されている。
時代と地域を設定しつつ、具体的な美術品をして民族の美意識の精髄を語らせ、しかも個々の作の内奥に宿る深い英知と思惟の脈絡を文明交流の歴史の中で解き明かしてゆくフェノロサの透徹した眼識は、かつて自信を喪失していた日本美術界の崩壊を支える原動力となった。それはいまでも慈愛の眼差しに包まれて、日本とその源流である中国、朝鮮半島に住む東亜の民族の美意識に注がれている。 (bk1ブックナビゲーター:土岐恒二/文化女子大学嘱託教授 2000.7.11)
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