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赤塚若樹さんのレビュー一覧

投稿者:赤塚若樹

74 件中 16 件~ 30 件を表示

ブラックユーモアに与太話、おおいに笑わせてくれる愉快な短編集

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 だれだれは1日に何枚書いたとか、だれだれはあの分厚い本を何日で書き上げたとか……作家のなかにはこのような執筆にまつわる「神話」をもつ者もいて、わたしたちはそんなエピソードをなかば疑わしくも思いながら、いっぽうでは楽しんでいる。『兵士シュヴェイクの冒険』で知られるチェコの小説家ヤロスラフ・ハシェクもそんな作家のひとりで、友人宅を転々としながら、プラハの酒場でビール片手に膨大な量の原稿を書き散らしていた。訳者の飯島周氏が紹介しているところによれば、

「ハシェクは生活のために書きに書き、売りに売った。(……)競合関係にある各紙誌に買ってもらうために、筆名・偽名をやたらに用いた。その数は百を越えており、「子犬」「子猫」「ガシェク」「ベンジャミン・フランクリン」等々、思いつくままで、妻ヤルミラの名まで借用している」。

「ある時期は特定の店を根城にして、正午過ぎになるとそこへ出かけ、しばらく遊んだ後、4時頃になるとそこで原稿を書きはじめた。(……)毎回2時間ほどで一定の枚数を書きあげると、新聞や雑誌の締切時間の6時に間に合うように出かけ、原稿と引換えに現金を受取った。(……)文章を書く能力は抜群で、まさに語ると同じ速さで原稿を仕上げ、書き直すことはほとんどなかった。ある記述によれば、『ファンタジー、機知、ユーモアの点でハシェクの右に出る者はなく、神業のような即興能力があった』」。

 正直なところ、本当に毎日こんなふうに作品を書いていたのだろうか、と思わないわけではないが、「神話」がある以上、誇張はあっても、多かれ少なかれこういった状況があったのは事実なのだろう。とするなら、どんな作品がそこで生まれたのか、それはどの程度のものなのか、「神業のような即興能力」とはいかなるものなのか、と思わずにはいられない。『シュヴェイク』の個々のエピソードを読めば、短編もきっとおもしろいのだろう、くらいは予想できるとはいえ、やはりなんといってもあれは大長編なのだし……。

 ところがそんな心配は無用だった、なんてここで書いたら興ざめだ。だって、そんなのあたりまえでしょ? 本が売れないとかいわれているこの時代にわざわざ翻訳・刊行されるくらいの本なのだから。斜に構えて物事をとらえている、とはいっても、必ずしも冷笑的ではなく、ユーモアをもって語るハシェク。『シュヴェイク』同様、本書所収の25の短編もとても楽しく読み進めることができるし、書き散らされたにしては、というか、かりにそうであってもまったくそんなことを感じさせない、よくできた作品ばかり。

 流行しているアニメの影響もあってか、最近チェコについてしばしば話題にされるブラックユーモアという点から、たとえば物語をみてみると——
 スラヴ正教の宣教師がいちばん美味しかったため、串焼きにするまえに、ほかの宗派の宣教師に改宗をうながすようになった人食い人種の話、
 ソファーに棲み付いたハムスターを追い出すためにケナガイタチにモルモット、さらにはハリネズミを利用するも意味がなく、家の管理人の斧でようやく問題が解決する、だけかと思ったら、この動物たちを娘の結婚披露宴の食事のメニューにしてしまうホンザートコ家の人びとの話、
 快からぬ事件を中心に自分の死亡記事を書いた人物を墓地に連れ出し、ねちねちといたぶる「わたし」の話
——と、なかなかいい味を出してくれている。そのほか、たくさんの与太話でもおおいに笑わせてくれる、そんな愉快な短編集がこれだ。というわけで、むずかしいことは抜きに、ともかく楽しんでいただきたい。つけくわえておけば、『シュヴェイク』のイラストを描いたあのラダとの「最強のコンビ」は、もちろんここでも健在。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・芸術批評 2002.02.23)

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紙の本ファルサロスの戦い 新装

2001/11/05 22:16

どれほど大きな文学の可能性がシモンによって切り開かれていることか

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 ちょうどこの本を読んでいるときに2001年のノーベル文学賞がV・S・ナイポール(1932−)に授与されることが発表された。ノーベル賞受賞者の作品だから文学的価値が高い、という見方はやや短絡的で権威主義的なものかもしれないが、そうはいっても全世界から注目されている賞だけに、世界的レヴェルの文学的才能のなかでも何かしらぬきんでたところのある者でなければ受賞はないと考えても決してまちがいではないだろう。もっとも読者の側からすれば、賞によって保証される芸術性よりもむしろ、授賞という出来事によって読書の「きっかけ」が生まれることのほうがありがたく、たとえば今年ならナイポールの作品を読もうとし、そのさらなる翻訳を期待するのだと思う。

 クロード・シモンもノーベル文学賞受賞者。その受賞は1985年のことだから、すでに16年もの時間が流れているが、一般的にはあまり読まれてきたとはいいがたい。一部ではそれこそ絶大な評価を得ているにもかかわらず、いくつかある翻訳書もほとんどが絶版状態にあり、手に取ることすらむずかしい。やはり少々近づきにくいテクストを書く作家だから、というのがそのもっとも大きな理由だろう。あらかじめはっきりさせておいたほうがいいと思うので書いておくが、このたび復刊された『ファルサロスの戦い』も、ふつうの感覚からすればかなり読みにくいものだ。一節だけ引いておくことにしよう——

《ときおり灰色の小さな鳥が石のあいだからふいに現われ短いあいだ宙を飛んではまるで石のように一本の直線を描き出していたがそれと同時にその鳥たちのこれまた直線状の鳴声が立ちのぼり長く伸び甲高くきしみ油をよく塗っていない非常に早く回る滑車の音に似た音になりそれから鳥たちは姿を消した〈またしても〉不揃いな細々とした喊声がコノヨウニシテ敵ヲ脅ヤカシ部下ノ兵士タチヲ奮起サセタノダトイウ想念ヲコメテとどいてきてレフェリーは万人ニ降リカカル罰懲デアルトコロノ死デハナクシテ汝ノ不可避ノ宿命ノアトニクル汝自ラノ死ノ意識を告げるホイッスルを鳴らし彼ハ口ノ中ニマコトニ強烈ナ剣の一撃ヲ受ケタノデ〈丘〉の高みからいまや戦いのひろがりを全部すっかり見渡すことができた》(〈…〉は本来は傍線)

 ノーベル財団のホームページでナイポール受賞を確認したついでに、シモンについてもしらべてみると、当時のプレスリリースにこんな件りがあった——[シモンの小説にあっては]「言葉がそれ自体の生を生きはじめる。ひとつひとつの単語や描写がつぎの単語や描写へとつながっていく。説明、敷衍、思考と記憶とイメージの展開、微妙な差異、代案や可能性の挿入をともなう修正などによってテクストが成長するさまは、まるで言葉が、蕾を付け、蔓を出し、自分自身で種をまく独立した生物となり、作者はその創造力のための道具ないし手段となっているかのようだ」。シモンのテクストについて時折つかわれるこのような「樹木」の比喩が本書にも当てはまっていることは、引用した一節からもわかるだろう。

 話者をふくむ三角関係、ラテン語のテクストを読んだ幼少期の思い出、第二次世界大戦での敗走の記憶、そしてプルーストからの引用など、そこに描かれている物語や題材ももちろんなおざりにすることはできないが、いまはそれを取り込むこうした言葉のあり方、言葉自体が生きる「生」に注目して、シモンのテクストをゆっくりと読もうではないか(それは同時に翻訳の可能性の探究に立ち会うことにもなるはずだ)。そうすれば、だれもがそこで切り開かれる文学の可能性の大きさを思い知るにちがいない。とくにこれまでその機会がもてなかった読者には、今回の復刊を「きっかけ」に是非ともシモンの文学にふれていただきたいと思う。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2001.11.06)

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紙の本イギリス植物民俗事典

2001/08/10 18:15

植物もイギリスもますます好きになる、楽しい読み物がぎっしり詰まった事典

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 人びとによって信じられてきた「植物の力」にはじつにさまざまなものがある。未来を予言するものもあれば、夢をかなえてくれるものもあるし、病気を治してくれるものもあれば、邪悪な力から身を守ってくれるものある。そうした力をもつ植物は、ごくありふれた草花や野菜の場合もあれば、特定の場所でしか育たない樹木の場合もあるだろう。本書は「イギリス諸島」の植物にまつわるそうした民間伝承をまとめた事典。取り上げられている植物は多岐にわたっており、昔からの言い伝えや習わし、料理や治療法、祝祭日とのかかわりや象徴的な意味あいなどの情報が満載されている。

 植物名のほか、関連する動物や偉人・聖人の名前、祭事、病名、さらには「妖精」、「悪魔」、「占い」といった項目がもうけられているが、見出し語は原著のとおり英語で記されており、その並び方はアルファベット順。いくらイギリスの植物にかんする事典だとはいえ、これでは少々使いにくそうにも思えるが、巻末の索引が充実しているために日本語からの検索にも充分対応しており、その点は心配いらないだろう。植物の名前(和名)からも、ことがら(一般項目)からも引けるように配慮されているので、むしろ使いやすいといってよい。

 たとえば「紅白の花」という項目を引いてみることにしよう。日本で何か「紅白」の色をみかけたら、祝い事や目出たい事のしるしだと考えてまずまちがいない。紅白の段幕、水引、餅、花……。「場」を晴れやかにしてくれる「紅白」の色は、祝福や歓待のムードの演出には欠かせない。

 それなのに、たどりついたページで出くわしたのはこんな文章だった——「赤い色と白い花を一緒に花瓶に挿すと、不幸や死を招く」。しかも、これはイギリスでは広く知られている俗信らしい。赤は赤、白は白とべつの花瓶に生けるなら問題ないが、たとえば病室のなかで紅白の花がひとつの花瓶に生けてあると、とても不安に思う患者が出て、「誰かが死ぬのよ」とつぶやく者さえあらわれるという。こうしたエピソードは1980年代に集められた情報(編集方針として、新しい情報を優先的に採用しているのだという)だが、イギリスでは、このように紅白の花が死や災いを暗示する不吉な取り合わせとみなされることがあるようだ。赤い花は血を、白い花は包帯を象徴するからというのが疎まれる理由らしい。紅白の花が「不幸をもたらす」というのはわたしたちからすると意外だが、アジサイやサボテンなども同様に、家のなかに持ち込むと不幸をもたらすと考えられているそうだ。

 それにしても、植物の民間伝承がイギリスの人びとの暮らしにどれほど密着していることか。本書に収められた数多くのエピソードからは、いまなお植物の力を信じる人びとがいるという事実がありありと、そしてまた具体的に伝わってくる。そのエピソードのひとつひとつはたんなる資料としてではなく、おもしろい読み物として読むこともできるので、ややそっけなくもみえる外見(植物に関連するイラストや写真など図版がない)とはちがって、内容そのものは、とてもとっつきやすいといえるだろう。活写されているイギリスの「民俗」から植物への愛着も増すだろうし、「植物」の話題をとおしてイギリス文化への造詣も深められることだろう。

 ところで、この事典によれば、「妻が夫を尻に敷いている」家庭でよく育つ植物があるらしい。この書評をお読みのみなさん、もしお宅の家庭菜園で「パセリ」か「セージ」か「ローズマリー」がよく繁っていたら、ちょっと考えてみてください。イギリスの俗信だとはいえ、意外に当たっているのではないでしょうか。なにしろ、うちのベランダの鉢植えには……(恐くて書けません)。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2001.08.11)

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紙の本あらゆる名前

2001/07/09 15:15

「あらゆる名前」とは、誰でもない者の名前、つまりは無名ということなのだろうか

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 本を手に持ち、ページをめくるという読書の一連の「動作」のなかで、カバーや帯の歪みやズレほど気に障るものはない。だから、本を読みはじめるときはいつも、本体からカバーと帯を外して、パソコンのモニタのうえにおくようにしている(そこが雑然とした部屋のなかで唯一安全な場所だからだ)。今回もその決まり事をいつもどおりにこなしたが、いつになくカバーの絵(写真?)が気になってしまった。
 描かれて(写って)いるのは、青い空のもと、木々がまばらに立つ草原で、何頭もの羊が草を食んでいる場面。内容を知らないのだから、完全に無根拠な印象でしかないのだが、そこに記されている表題と著者名とは、どこかそぐわないようにみえたのだ。その印象を漠然と心に留め置きながら、実際に作品を読みはじめると、それはかならずしも“無根拠”なものではないのではないかという気が徐々にしてきた。

 エキセントリックな蒐集家の物語とひとまず呼んでおくことにしよう。物語のなかではその蒐集家だけに固有名詞があたえられている。ジョゼ、それが彼の名前だ。
 ジョゼは、規則と慣習、そして「掟」が何よりも尊重される戸籍管理局で、25年以上も忠実に職務を遂行してきた補佐官。局に隣接する官舎に住み、独身のまま52歳になろうとしている。ジョゼには、有名人の記事や写真の収集という、誰にも知られていない趣味があった。

 ある夜、自宅で司祭の書類に追加事項を書き込んでいるとき、ジョゼは自分のコレクションに「根本的な欠陥」があることを理解する。有名人の出生や家系にかんする「客観的にみて本物の公式の証明書、またはその忠実な複写」が欠如していたのだ(印刷物の情報などどこまで信用できるのか)。こうしてジョゼは通行禁止の連絡口をとおって戸籍管理局に忍び込み、有名人の公式情報を集めては書き写すという、違法な作業に手を染める。2週間ほどで有名人100人のコレクションは完璧なものとなったが、そのつぎに有名な40人にも「市民権」をあたえようと考えてしまう。物語の本編はここからだが、この時点でも、羊が登場してきそうな気配はまったく感じられないだろう。

 局に侵入したジョゼは「第二分類」の5人の有名人の帳票を持ち帰ったつもりでいた。だが、手許には1枚余分にある。どうやら手前の帳票にくっついてきたものらしい。みると、それは「現在36歳の離婚歴のある女性」の帳票だった。この「無名の女性」の人生に思いを致したとき、ジョゼには突然この「ひとり」の人物が、「無名だから」こそ、ほかの誰よりも、コレクションの100人よりも重要であるように思えてきた。その2日後、ジョゼは書き写した帳票をもとに「見知らぬ彼女の人生の調査」を開始する。

 このあたりから、ジョゼの想像や妄想、彼がもうひとりの自分——それは「問いかけ」「あちら側」「常識」「恐れ」「良識」などと呼ばれるだろう——と交わす対話が小説に入り込んできて、物語世界の現実が微妙に揺らぎはじめることに注意しておこう。ジョゼは公務を偽り、書類を偽造し、その女性が通った学校に不法侵入してまでも「調査」を進めていく。だが、やがて彼が知るのは、彼女が死亡しているという事実、彼女が母校で教師をしていたという事実、自分がそこに侵入した2日後に彼女が自殺したという事実だった。もちろんジョゼは「良識」にさからって、彼女の墓地を訪れるが、しかしそこには……

 いまはただ、そこにぱっと拡がる風景にカバーの場面が見事に重なってくるとだけいっておくことにしよう。サラマーゴが紡ぎ出す奇妙な緊張をはらんだ物語はこのあともつづいていく。しかしこれについても、いまはただ、ジョゼの、そしてわたしたちの不意を突くような「論理的結末」を迎えるとだけいっておこう。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2001.07.10)

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紙の本私の一世紀

2001/06/27 22:19

20世紀の歴史を1年ごとにたどっていく100の「私」の物語

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 この作品のことをはじめて知ったのは、自作の翻訳にうるさいとある作家について、アメリカの研究者とメールでやりとりをしているときだった。送ってもらった(べつの書き手による)雑誌記事に、この研究者のコメントが引用されており、そこに通りすがりながら「ギュンター・グラスの Mein Jahrhundert を翻訳中」と書いてあったのだ。この程度のことならふつう忘れてしまうものだが、このときはちょっとした出来事が重なったためにいまでもよく覚えている。じつは、その記事を読み終えたちょうどその日に、グラスのノーベル文学賞受賞のニュースが報じられたのだ。

 この偶然の一致をおもしろがってわたしが連絡すると、返事がすぐにかえってきて、作品にまつわるなかなか興味深いエピソードを教えてもらった。なんでも、グラスは自分の出版社に、1作品につき3日間、翻訳者と討論できる場をもうけてもらっているらしい。アメリカの研究者(すなわち英訳者)が参加したこの作品をめぐる会議には、グラス夫妻と編集者とともに15ヵ国語ほどの翻訳者が集まり、翻訳にさいして生じうる問題について話し合いがもたれたそうだ。英訳者によれば、その席でグラスは、ドイツで出版されるまえに、翻訳者という明敏な読者の意見を聞き、それをテクストに活かしたいと述べ、実際にその期間中に、『私の一世紀』についてもそのアプローチがなされたというのだ。翻訳に関連する問題を事前に解決しながら、作品を完成させるという方法は、まちがいなく「世界的」な作家ならではのものだろう。

 さて、そのメールには、残念ながら日本の翻訳者は会議に出席していなかったと書かれていたので、当分のあいだこれは読めないものと思っていた。だから、こちらの不意をつくようになされた今回の刊行は、本当にうれしいおどろき以外のなにものでもなかった(「訳者あとがき」によれば、日本には会議への招待状が来なかったのだという)。
 そして、もうひとつ意外だったのはこの作品の構成だ。アメリカの研究者は、内容についてはまったく言及していなかったが、この作品のことを「長編小説(novel)」と呼んでいたので、実際に手に取るまでは、ふつうそう考えられるような長編小説か、それに類するものを想像していた。なにしろヨーロッパの言葉では「長編小説」と「短編小説」がきちんと区別されるのだから。ところが、この作品においては、「私の一世紀」つまりは20世紀にまつわる物語が、1900年から1999年まで1年につき1つずつ、それぞれべつの語り手によって語られており、その面持ちはどれも「短編小説」と呼びうるものなのだ。

 「私、私の分身といえるような私は、来る年も来る年も事件の現場にかかわりあうことになった」。——「1900年」の(つまりは最初の)物語の冒頭におかれたこの一文ほど、本書の内容をうまく表現している言葉はないだろう。志願兵、サッカーチームのトレーナー、坑夫、レコード会社販売員、鉄道員の息子、皇帝、主婦、靴屋の女店員、レマルクとユンガーの対話を実現した研究者……そして「グラス」自身がかわるがわる語り手となって、独白、手紙、演説などさまざまな形式で語っていく「私」の物語。その100の物語によって描かれる20世紀の歴史が、この『私の一世紀』という作品なのだ(ここで「20世紀」とは1901年から2000年までのことだ、などと野暮なことをいってはいけない)。

 「1999年」の(つまりは最後の)物語の語り手はすでに亡くなっているグラスの母親。その「語り」のなかに「やんちゃ坊主も今じゃもう70を越したけど」というフレーズが出てくるので考えてみたら、グラスは1927年生まれだからもう70代半ばではないか。またしてもうれしいおどろきだが、その筆力と想像力はまったく衰えを知らないようだ。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2001.06.28)

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紙の本春の祭典

2001/06/22 12:17

きわめて「政治的」小説が身にまとう見事な「文化的」装い

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 革命によって祖国ロシアを追われたバレリーナ、ベラはやがて夫となるエンリケとともに彼の祖国キューバにわたり、いま舞踏教室を開く準備を進めている。そんな折り友人のトランペッター、ガスパルに連れられて、とある黒人ミュージシャンの家へ行き、黒人たちの「宗教的な」踊り、その驚異的な飛翔、その「奇跡の一瞬、信じ難い瞬間」を目の当たりにする。

「ここでなら、さっき見たような人たちとだったら『春の祭典』を上演できるかもしれないわ。彼らの才能やリズム感があれば、ちょっと教えるだけでいいわ。すぐにストラヴィンスキーのリズム体系を理解してくれると思うの。本当に根源的で原初の衝動に従った踊りを観ることができるでしょうね。これまで私たちが観てきたつまらない振り付けとはまったく違ったものになるでしょう。」

 こうしてベラは『春の祭典』を新しい仕方で上演する計画を実現しようとしていく。小説のタイトルがここ、この楽曲、この計画に由来しているのはたしかだろうが、これをめぐる物語は小説を構成するいくつかの主要なラインのひとつにすぎない。むしろ作品のポイントは、舞台として設定されている、革命に向かうキューバの状況、さらにいえば、20世紀前半から半ばにかけての時代(あるいは〈歴史〉)の大きなうねりをとらえることにあるといえるのではないだろうか。ロシア革命、ナチスの抬頭、スペイン内戦、第二次世界大戦、そしてキューバ革命——すくなくとも、そこで取り上げられる題材の「政治的」な色彩が際立っていることはたしかだ。

 エンリケも加担する革命の試みが失敗した結果、キューバはきわめて不安定な社会情勢となり、彼はベネズエラに逃亡し、また『春の祭典』の上演計画も挫折を余儀なくされる。そのとき同時に夫の浮気までも知ることになったベラは、「すべてを諦め」、最果ての地バラコアに身を寄せるが、しかし、やがてキューバで革命が勝利を収めると、エンリケとともにまさにその革命に「安定」をみいだすことになる……。物語を終着点までたどれば、とりあえずこのように説明することができるだろう。だが、この「小説」の場合はとくに、こうした作業にどれほどの意味があるといえるのか。

 カルペンティエールの特徴のひとつが、ヨーロッパとは異質ないわば土着の魔術的な何か(「現実の驚異的なもの」というべきか)を取り込みながらも、作品全体にわたって、すぐれて「知的」な(ヨーロッパ的な意味で)モチーフをちりばめ、そうすることによって厚みのあるテクストをこれまたきわめて「知的」に構成していく点にあるのはまちがいない。本書『春の祭典』にあって何よりも目を引くのは、テクストに織り込まれたそういった作者の知識や教養が、たんなるペダントリーとしてではなく、「小説」の文章に不可欠の要素として、「小説」の文章にいわば臨場感を添えるものとしてあらわれている点であり、それによって作品が手にする見事な「文化的」装いに接することができるという点だけでも、一読の価値があるといえるかもしれない。
 たとえば、ベラと出逢ってまもなく、エンリケがふたりに共通する「パリ」という場所の名前から語りはじめる空想と思い出のなかに(第6章)、ダリ、ピカソ、コクトー、あるいはブランクーシ、モンドリアン、マレーヴィチ、ル・コルビュジェ、そしてさらに……といった無数の芸術家の名前が登場してくるのをみるだけで、20世紀のヨーロッパ文化を愛する者なら軽いめまいを覚えることだろう。

 小説を読む醍醐味を存分に味わわせてくれる『春の祭典』。このすばらしい作品がいまようやく刊行されたことをいっしょに祝おうではないか。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2001.06.23)

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右は天国、左は地獄——イメージの読み解き方、教えます

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 東大出版会の「リベラル・アーツ」というシリーズの一冊。書いているのは東大の先生か、そこで教えた先生のいずれからしい。なかには、つい説教臭いコメントをしてしまう書き手もいるようだが、全体としてみれば、それぞれの著者が思い思いのテーマを、自由に、好きなようにあつかっているように感じられる、とてもおもしろいシリーズだと思う。
 今回、そこに「西洋伝統絵画」の見方を教えてくれる「講義」がくわわった。つまらなければ無視すればいいだけのこと、とりあえず受講してみよう。

 すると、この先生、まず最初につぎのようなことを主張している。
 絵の見方に「規則」はないが、しかし、そうはいっていも、絵というものは、ある特定の歴史的・社会的・文化的状況から生まれてくるのだから、それなりに知識をもっていれば、見え方もちがってくる。しかもそれが、私たちとは異なる背景をもった西洋絵画であればなおのこと、それ相応の「こつ」や「技術」を心得ていれば、より深く理解することはもちろん、ずっと楽しく、そしておもしろくみることができる。

 このような考え方にもとづいて、適切な「型」や「モデル」を学び、そうすることによって、(14世紀から19世紀はじめまでの)「西洋の伝統的な絵画」の「イメージの読み解き方」を——たとえごく一部であっても——マスターしようというのが、この講義の目的だという。

 出発点となるのは、近代以前の西洋絵画史において「高貴なジャンル」とみなされていたという「歴史画」。これは、神話、宗教、歴史、寓話などを主題とした「物語」の場面を描く絵画の総称であって、そのなかでもっとも有名で、重要な典拠がギリシア神話(「神話画」)と聖書(「宗教画」)であるのはいうまでもない。では、そこで何が問われるというのか。

 たとえば、ルーベンスの「パリスの審判」。まず、ギリシア神話のこの主題を知らないことにははじまらないが、そうした「物語」の知識があっても、画面の左側に立っている3人の女神——アテナ、ヴィーナス、ヘラ——がすぐに見分けられるわけでもない。なにしろ、3人とも裸体だし、見た目もあまりちがわないのだから。だが、そんなときは、近くに描かれているモチーフに着目するといいらしい。それが人物を特定する目印ないし指標となり、その知識さえあれば、右から順に、「孔雀」をしたがえているからヘラ、「キューピッド」が後ろにいるからヴィーナス、「武具」と「梟」がかたわらにみえるからアテナということがわかるのだという。

 それから、たとえばイエス・キリストの十字架磔刑の図。聖書の場面を描いた絵なら、その主題が何か知っていたほうがいいに決まっているが、十字架に磔にされたイエスとともに登場する善人と悪人はどうやって見分ければいいのだろうか。両者の区別が必要なときは、キリストからみて右が良い側、左が悪い側という伝統が定着していたという。その後の運命が天国と地獄に分かれるのだから、この区分はまさに決定的だというべきだろう。

 こういった約束事、あるいはイメージ読解のためのコードやポイントは、「歴史画(物語画)」だけでなく、そこから派生し、「付随的なジャンル」とみなされていたという「肖像画」、「風景画」、「風俗画」、「静物画」にも当然のことながらみいだされる。それらを順を追って紹介し解説していくのがこの「実践的美術書」であり、そこでは、個々のジャンルの成立事情や歴史的背景など絵画を理解するうえで役立つさまざまな情報もまた提示されていく。なるほど、こうした予備知識があるのとないのでは、同じ絵がこうもちがってみえるとは! そのことに気づくだけでも、本書を読む価値はあるだろう。19、20世紀の作品をあつかうという続編も楽しみだ。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2001.06.01)

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紙の本ロシア文化ノート

2001/05/29 22:18

「ロシア文化」にたいする視野をぐっと広げてくれる豊富な引き出し

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 いまの時代、「文学」なんて、もう特別な場所以外ではなかなか口にするのもはばかられるようなおカタい言葉になりはてているし、「芸術」というのも事情は同じで、これについては、たとえば軽薄に「アート」などといいかえておくのがいいらしい。たしかに、文学にしても芸術にしても、真顔でいわれたらちょっと近寄りがたく、そればかりか、なにをいまさら、と思わせるものになっていることは事実だ。こちらとしても「いまさら」それを持ち上げるつもりはないし、それどころか、そういう見方や考え方をどこかで共有していることも率直に認めてよいと思う。

 しかし、もちろんそれには留保も必要だ。これについては、とても単純な問いのかたちで表現できるだろう。つまり、わたしたちはすべてを知っているのだろうか、ということだ。たとえば、ここで「ロシア文化」と呼ばれているものについて、いったいどれだけのことを知っているのだろうか。

 だいぶまえ、よせばいいのに、文学や芸術について、途方もない時間をかけて、びっくりするくらいまじめに考えようとしていたころのこと、とくに20世紀のヨーロッパ文化のいわば先端的な部分(こんな表現もどうかと思うが)にかんするかぎり、理論的な側面にせよ、実際的な創作行為の側面にせよ、まさにその「ロシア文化」にかかわることがらを無視しては到底あつかうことができないことがわかり、あわてて関連書籍に眼をとおしていったことがある。具体的にいうと、たとえばロシア・フォルマリズムやロシア・アヴァンギャルドにかかわるものだ。

 当然のことながら、まず最初にあたったのは邦訳書。そのとき、いくつもの関連書籍の執筆や翻訳が、同じ研究者によって手がけられているのを知って、とてもおどろいたのを憶えている。これは、いいかえれば、ロシア文化のある重要な部分の紹介において、その人物が先駆者的な役割を果たしていたということだ。何を隠そう、それが本書の著者だったのだ。今回もまたちがったかたちで、とても多くのことを教えてもらったような気がしている。

 ここでいわれる「ロシア文化」には、文学や芸術はもとより、映画、音楽、演劇、建築とじつに幅広い領域がふくまれていて、ひととおり読むだけでも、こちらの視野がかなり広がったように思えてくる(タルコフスキイ、ブルガーコフ、ムソルグスキイ、パステルナーク、マンデリシュターム、シクロフスキイ、メイエルホリド、バフチン……と固有名詞をあげていってもいいのだが、それだけでまちがいなく書評のスペースがいっぱいになってしまうだろう)。収められているのは、著者が1980年代の終わりから十数年にわたってさまざまな媒体に発表してきた文章。おそらくそのために表題には「ノート」という言葉が選ばれているのだろうが、けっして、たんなる「覚え書」や、とおりいっぺんの情報提示ばかりが並んでいるわけではない。

 たとえばショスタコーヴィチについて語りがなら、その歴史的・社会的背景や伝記的エピソードにふれるのはもちろんのこと、コンサートやレコードやCDの内容を紹介したり、指揮者、演奏家、オペラの演出家の解釈を取り上げたり、さらにはロシアでの受容のされ方を検討したりと、豊富な引き出しから興味深い話題を取り出して、自由に話を展開していくが、その文章は、いつでもちゃんとした批判的な意識によって裏打ちされており、それがもたらす緊張感は読んでいてじつに心地よい。

 もちろん、これは本書全体にあてはまることだ。批判的な意識とそれがもたらす心地よい緊張感。これがあるからこそ、あつかわれている作家や芸術家、そしてその作品の魅力がよりいっそう引き立ってくるのだと思う。この本をきっかけにして、今度は自分なりに「ノート」をつくってみてはどうだろう。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2001.05.30)

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「天才」とはどのようなものかを知るに格好の一冊

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 ある分野で「人並みはずれた」業績をあげた人物の生涯が、いい意味でも悪い意味でも「ふつうでない」のは、おそらく「常識的に」考えれば考えるほど正しいだろう。そして、そういった人びとの伝記がおもしろいのは、まさにその「常識外れ」の点に——その人物がどのくらい「常識」から遊離しているかという点に——あるといってよいはずだ。

 とはいえ、「ふつうの」人びとには、その人物が専門分野で残した仕事については、せいぜい「人並みはずれた」ところがあるという事実がわかるにすぎない。だから、「常識的な」人びとが伝記文学をとおしてその人物の「常識外れ」の点を知るのは、よくいうところの「ひととなり」についてということにならざるをえず、そこで自分とくらべられるからこそ、その伝記は興味深いものとなるのだろう。では、この本で取り上げられている牧野富太郎はどうか? 

 牧野富太郎(1862年生まれ)は、ときに「日本の植物学の父」とも呼ばれる著名な植物学者で、生まれ育った高知にはその名を冠した植物園までもがつくられているほどだ。1951年には吉田茂首相が発案した「文化功労者」に選ばれており、1957年に亡くなると、すぐに文化勲章も授与されている。植物学において具体的にどのような業績をあげたのかはわからずとも、こういった事実を知るだけで、この人物が相当偉い植物学者だということは理解できるだろう。

 とすれば、もしかしたら「常識外れ」の人物ではないか、と想像するのはそれほどむずかしいことではない。東大からちゃんと学位を授与されている立派な「博士」だが、最終学歴はなんと「小学校中退」。酒造業を営む商家に生まれ、社会的にも経済的にも恵まれた環境にいた牧野富太郎は、寺子屋や塾で学問を学んでいたために、新設された小学校での生活や学習内容に耐えられず、辞めてしまったのだという。それ以後ずっと独学をつづけていく。

 そのうちに植物への関心が高じると、生家の財力にまかせて書物を買いあさり、植物学者になることを志す。上京して、東大に出入りが許されるようになると、まもなく頭角をあらわしはじめるが、目立てば目立つほどお偉方からは疎まれていき、しかも上下関係をあまり尊重しないものだから、とうとう研究室から追放されてしまう。やがて理解者を得て、また大学にかかわるようにはなるが、そこにいるあいだ待遇は決してよくはならなかった……。

 しかし植物への情熱は半端ではない。金持ちのぼんぼん気質が抜けきらなかったのか、もともとそういう性格なのか、大学からの給料をはるかに上回るお金をつぎ込んでいき、あるときは月給30円の身分なのに借金が3万円。裕福な理解者によって救われ、そのうえ援助までしてもらえるようになるものの、しばらくすると不義理からそれも打ち切られてしまう。万事がこの調子なのだが、牧野富太郎はやはり常識を越えたオプティミストで、すべてを自分のいいように解釈して植物研究にはげんでいくのだ。すさまじいとはこういうことをいうのかもしれない。そのすさまじさは、たとえは蔵書が4万5千点もあったことや、所有していた40万点ともいわれる標本を専門家がひととおり整理するのに20年もかかったという事実からもわかるだろう。

 本書はまさに「天才」とはどのような人間かを知るに格好の一冊だと思う。そしてまた、これを読めば、牧野富太郎へのさらなる興味が湧いてくることはもちろん(そのさい、手近なところでは、俵浩三『牧野植物図鑑の謎』[平凡社新書]がとても興味深い)、植物そのものへの純粋な関心も芽生えてくることだろう。なお、ここまでくればもやは予想どおりかもしれないが、本書の「解説」が荒俣宏によって書かれていることをつけくわえておこう。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2001.03.30)

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紙の本東欧を知る事典 新訂増補

2001/03/28 18:15

もしこの方面に明るくないのなら、かならず一度はこれでしらべてみるべきだ

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 フランスの詩にかんする文章を読んでいて、もし「1857年に『悪の華』を発表したチャールズ・ボードレールは……」という文が出てきたとしたら、どうだろう? あるいは、映画にかんする本のなかで、『黄金狂時代』や『モダン・タイムス』を生み出した喜劇俳優の名前が「シャルル・チャップリン」と書かれているとしたら。

 たしかにボードレールがイギリスに行けば「チャールズ」になり、チャップリンがフランスに行けば「シャルル」になる——だからこそ、「シャルロ」なる愛称も生まれてくる——のだろうとは思う(両者はともに横文字では「Charles」だ)。しかし、そうはいっても、いわゆる原音表記(フランス人はフランス語風に、イギリス人は英語風に表記すること)が原則となっている日本語の環境においては、これはあやまりだとみなさざるをえない。上記のようにフランス語と英語の読み方を混在させることができないのはもとより、たとえばチャップリンを全面的に「シャルル・シャプラン」とフランス語読みすることもできないのだ。

 それゆえに、もしボードレールの名前が「チャールズ」と、チャップリンの名前が「シャルル」となっていたら、その仕事全体が疑わしく思えてしまうだろうし、ときにはその著者ないし翻訳者が批判にさらされることもあるだろう。当たり前といえば、これほど当たり前のこともないが、じつは、これが通用するのはごく少数のかぎられた言語だけだといってよい。というのも、たとえば本書がターゲットとしている東欧の固有名詞の表記となると、世間では平気でデタラメがまかり通っているからだ。

 たとえば、とあるチェコの画家の展覧会のカタログ。批評家シャルダが「サルダ」になっているのは眼をつぶるとしても、「プラハのチャールス大学」はどうだろう? これは『ボヴァリー夫人』の作者がときには「フローベール」、ときには「フロベール」となるような、表記上の揺れとはわけがちがう。たしかに英語やフランス語ではボードレールやチャップリンと同じ Charles となるが、これはボヘミアの王様(そして神聖ローマ皇帝)の名前なのだ。それを冠した中央ヨーロッパ最古の大学なのだから、やはりどうあっても「カレル大学」としなければならないだろう。

 「イギリスのシャルル皇太子」とは誰もいわないだろうが、チェコの大統領ハヴェルの名前ヴァーツラフは「ヴァツラフ」とも「ヴァクラフ」とも書かれることがあるし、こういった例はそれこそ枚挙にいとまがない。もちろん人間誰しもミスはあるし、それをあげつらうつもりはさらさらない。しかし、5つ並んだ人名のうち4つの表記があやまっていたら、それはもうミスとは呼べないのではないか。翻訳ものの東欧がらみの部分をみていると、そうした不誠実な仕事がざらにあるのは紛れもない事実なのだ(そういう仕事をしている者にかぎって、「凡例」あたりに「原語に近い表記をしたことを断わっておく」などと書いているから眼もあてられない)。

 それにしても、どうして専門家にたずねないのだろう? 東欧研究だってちゃんと行なわれているのだ。近くにいないから? 知り合いにいないから? だったらこの『東欧を知る事典』をしらべればいいではないか。というか、一般に公開される文章を書いたり、翻訳したりするさい、もしその方面に明るくないのなら、最低でも一度はこの資料にはあたるべきだと思う。すこしばかり話が偏ってしまったが、要するに、わたしたちには、きちんとした情報を得る手段がまちがいなく存在しているということだ。今回新訂増補版が出たこの事典には東欧研究者の知識や研究の成果が反映されており、これを開きさえすれば、じつに多くのことが学べるし、たいていの問題は解決できることだろう。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2001.03.29)

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書物をとおして「世界を考える」きっかけ

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 多木浩二の新書判の本を読むのはこれで何冊目だろう、と思いながらページをめくりはじめた『20世紀の精神』。この著者ならこういう大きなテーマもありだろう、とすんなり納得するのには、「書物の伝えるもの」というサブタイトルをみたこともそれなりに影響があったかもしれない。正直なところ、はじめは、それこそ「書物」なるものが20世紀に果たした役割か何かが検討されているものと思っていた。

 ところが、まず目次をみて、少々不意をつかれたような気がした。本編にあたる部分には、つぎのように書かれているだけなのだから。

  無意識——フロイト『精神分析入門』
  言語——ソシュール『一般言語学講義』
  文明——T・S・エリオット『荒地』
  国家——カール・シュミット『政治的なものの概念』
  想像力——ベケット『ゴドーを待ちがなら』
  人間——プリモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』

 そして、「はじめに」の冒頭には、「私のやろうとしていることは書物論ではない。また歴史家のあいだで盛んになった読書論でもない」とある。この時点で本書の性格がほぼみえてくるのではないだろうか。要するに、これは「多木浩二」を読むための本——これらの書物をとおして、それぞれのテーマについてみずからの考えを語っていく多木浩二を読むための本——なのだ。

 だから、もろもろの制約からたまたま取り上げられるのが6冊になったことはいうにおよばず、上記のような書籍の選択にも異議を唱えることはできないだろう(実際、著者自身も、これらの本が「20世紀の思想や文学を象徴するとは言えない」と述べている)。私たちにとって問題となるのは、つまりこの事実を受け入れるかどうかだけなのだ。

 では、この本のすべてがかかっているともいえる著者の関心のあり方はどのようなものなのだろう? たとえばベケットにかんする件。多木浩二は、自分がひとりの観客であるという立場を崩さないと断わったうえで、観客はベケットの芝居の奇妙さを楽しみながら、その一方で自分自身の生きている条件を認識しようとするのだという。「芝居の感動から芝居そのものだけでなく世界を考えること、それが観客の仕事である」。

 もちろん、これはほんの一例にすぎないし、これによってすべてを判断するわけにもいかないが、しかし、こうした見方をどうとらえるかによって、この本にたいする構えが大きくちがってくることはまちがいないだろうと思う。ただし、これについては、著者の主義主張の押しつけがあるわけではないという点、そしてなにより、ここでいわれる「世界」なるものが、たんに観念的なものではないという点は考慮に入れておく必要がある。

 たとえば、『ゴドーを待ちながら』はボスニア=ヘルツェゴヴィナの内戦のさなかにサラエボでスーザン・ソンタグによって上演されているが、そのときこれをみた観客は涙したという。「サラエボ市民たちは自分たちをそこに見た」と多木浩二はいうのだ。

 巻末には、それぞれの書物にかんする参考文献がそれぞれ10冊前後ずつあがっており、そのあとにはさらに「多木浩二の著作一覧」もつづいている。やはりこれは「多木浩二」を読むための本であるようだ。著者は「ブックガイドを作るつもりはない」というが、この本は、個々の読者が「世界を考える」ための契機になりうるという意味においては、一種のガイドブックのはたらきすらすることもあるだろうと思う。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2001.03.18)

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これでようやくフォトモンタージュについてきちんとした知識を得ることができる

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 ともするとシュルレアリスムの前段階としてのアヴァンギャルド運動とみなされてしまいがちのダダ。たしかにシュルレアリスムに批判的に継承されていくことによって、ダダイスムは消滅していったという見方もできなくはないだろうし、それはそれで正しいのかもしれない。しかしながら、ダダがダダなりにひとつの自立した芸術の動きであったことはまちがいなく、そのうえ、パリというひとつの歴然とした中心地があったシュルレアリスムとはちがって、欧米のいくつかの都市でそれぞれ独自の展開をみせたすぐれて国際的な運動であったという事実もまた否定することができないはずだ。

 このことをたしかめるには、本書が光を当てている「フォトモンタージュ」のことを思い浮かべれば充分だろう。というのも、フォトモンタージュは、もともとダダイストたち、それも、チューリヒでもニューヨークでもパリでもなくて、ドイツはベルリンに集うダダイストたちによって生み出され、確立された芸術形式だからだ。その後この形式が世界各地のアヴァンギャルドを経由して発展していく点に着目すれば、ベルリン・ダダがダダイスムのなかでもとくに際立った位置を占めていたと考えることができるかもしれない。

 さて、そのフォトモンタージュだが、実践者の理念や手法、あるいは理論家の解釈などにちがいはあっても、さしあたって、写真をおもな素材とするコラージュないしコラージュ風の合成写真というふうに理解しておいてよいだろう。現実との直接的な結びつきを提示しうる写真、現実の断片として観る者を納得させることのできる写真、この写真という素材を組み合わせることによって、独自のイメージをつくりあげる技法がフォトモンタージュにほかならない。わたしたちは今日しばしば広告のなかでこの技法にもとづく作品をみかけているはずだ。

 本書においては、そのフォトモンタージュの歴史と特質が、ダダイスム、シュルレアリスム、そして構成主義といった20世紀前半のアヴァンギャルドとの関係をとおして検討されている。いいかえれば、この形式がどのように「芸術」に受け入れられていったかという問題が、「メッセージ」を重視するベルリン・ダダ(典型的なのはナチスを諷刺するハートフィールドの作品)やロシアの構成主義から、より詩的なイメージをもとめるシュルレアリスムまでのさまざまな事例をとおして、いわば横断的にあつかわれている。だから、場合によっては、フォトモンタージュという横を貫く線にそって、こうしたアヴァンギャルドの性格をひとつひとつ確認していくこともできるだろう(この視点は、一般にあまりなじみがない国の芸術家、たとえば本書でも言及されているチェコのコラージュ作家カレル・タイゲなどを理解しようとするさいに、とくに有効だろうと思う)。

 その論述はとてもわかりやすく、決して過度に専門的になることはない。しかもうれしいことに、そこには200を越える豊富な図版が添えられているではないか。これまでフォトモンタージュについてきちんと教えてくれる本がなかったことを思えば、このように近づきやすい研究書が刊行されたことは、じつによろこぶべき出来事だといってよい。(bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2001.01.10)

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紙の本セルバンテス

2000/11/09 21:15

いまあきらかになる「近代小説の父」の真の姿

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 表題の「セルバンテス」とは、いうまでもなく、あの『ドン・キホーテ』の作者として知られるミゲル・デ・セルバンテスのこと。その生涯を描いた本書によって、著者カナヴァジオは<ゴンクール賞(伝記文学部門)>を受賞したという。

 フランスの大きな文学賞のひとつの部門が「伝記」にあてられているのも、ちょっとしたおどろきだが、それにしても、ときに「近代小説の父」と呼ばれる大作家セルバンテスだ。これまでにかなりの量の紙とインクが費やされてきたことくらい容易に想像できるではないか(ちなみに、本書の「参考文献」の注記によれば、1970年のビブリオグラフィには3700のタイトルがあるという)。そのうえでの受賞。ということは、伝記としてよほどすぐれた作品なのだろう。文学賞という「お墨付き」には、一般的にいって疑問の余地がないではないが、さしあたっていまはその「評価」を信頼しておくことにしよう。

 すると、この本については、やはり、セルバンテスにかんする伝記的事実とともに、その提示の仕方にも注目しなければならないはずだ。

「レパントの海戦」といえば、思わず、「世界史」で習う、と表現したくなるような歴史上の出来事だが、その海戦で左手を負傷しているセルバンテス。つまりは、いまから400年もまえの時代──正確にいえば、1547年から1616年まで──を生きたセルバンテスの生涯を再構成していくのだ(ちなみに、歿年はシェイクスピアと同じ)。それにかんする書物がいくらたくさんあっても、というか、逆にそうだからこそ、「事実」を突き止めるのは容易なことではないだろう。そこには推測や憶測が入り交じり、伝説や神話が生まれているにちがいない。

 カナヴァジオはまず、それらをできるだけ排除しようとしている。当然のことながら、わたしたち読者には、何が「事実」かを知るすべはないが、すくなくとも本書の文章を読むかぎり、著者がきわめて慎重な態度でそれを見極めようとしていることはまちがいない。そのことは、たとえば、カナヴァジオがしばしば「いずれにせよ」という接続詞をもちいたり、「Aなのであろうか。Bなのであろうか。あるいは、Cなのであろうか。ひとつだけ確実なことがある。それはDである。」といったかたちで論述を進めたりすることによって、さまざまな説からいわば核心だけを抽出しようとしている点にはっきりとあらわれている。
 そのなかで浮かび上がってくるセルバンテスは、たいへん興味深いことに、そしていくぶん意外なことに、とてもまじめで誠実な人物なのだ。その姿はときには感動的ですらあるだろう。

 本書は、そのいっぽうで、この作家の小説美学をあつかうことも忘れてはいない。「批評と創作」を結びつけ、「鏡の遊戯」を最大限に利用するセルバンテスの手法が、その「伝記的事実」(たとえば偽作者への報復)と密接なつながりがある点なども、カナヴァジオはきちんと裏づけを取りながらあきらかにしている。もしかしたら本書は今後、セルバンテスのみならず、小説の歴史を考えるさいにも、かならず読んでおかなければならない本のひとつになるかもしれない。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/翻訳・著述業 2000.11.10)

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「ついでに申し上げておけば、教会の教義や儀礼にも訳の判らぬものがけっこうある」らしい

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 数年前、痛みと恐怖のあいだを揺れ動くこと数日、意を決して歯医者に直行した。左奥上の親不知である。白衣の天使に治療室に招き入れられたが、まもなくそれが悪魔の化身だったことに気づく。にっこり笑って麻酔の入った最終兵器を医者に手渡すではないか。激痛が走り……ペンチかやっとこか……(以下、自粛。)これです、と医者にいわれて我に返り、差し出された手をみると、そこには、米粒くらいの歯があるだけだった。それまでの大げさな怖がりようを我ながら恥ずかしく思いはじめたその矢先に、どうしますか、と問われた。何とはなしに、縁の下にでも投げましょうか、と答えたところ、医者は大笑い。いわく、今度は立派なのが生えてきますよ。

 本書を読んでいたら、どういうわけか、このときのことを思い出した。俗信にもとづく呪術行為か、とひとりうなずきながら、「類感呪術」(行為がしかるべき変化をともなって再現される呪術)、「積極的呪術」、「有契の呪術」(いわれのわかっている呪術)、「実利的呪術」など、この事例があてはまりそうな分類をさがしてみたが、いずれにしても、その「意味」ないし「望みの結果」が何なのかを忘れてしまっていてはどうしようもない。

 『呪術・儀礼・俗信』をごく簡単に説明すれば、こうした「呪術」の形態などの観点から「ロシア・カルパチア地方のフォークロア」を分析した著作とでもいえるだろうか。あつかわれているのは、祝祭日、子供の誕生と洗礼、結婚、葬式のさいにその地方で行なわれる儀式や呪術的儀礼、ならびに霊異や妖怪にまつわる体験談や俗信などで、著者ボガトゥイリョーフは、これらを共時的・静態的研究の立場から記述し考察し、農民がそれをどのようにとらえているかをあきらかにしようとしている。

 いまとなっては、いくぶん時代がかった感じのする「共時的」なる言葉だが、原著の刊行が1929年という事実を考慮すれば、そのような方法の意義が強調されている点は、むしろ積極的な意味をもつにちがいない。本の帯にあるように、これはまさに「文化記号論の先駆的著作」であり、これが属するシリーズ名(「岩波モダンクラシックス」)が端的にしめしているように、すでに「古典」となっているのだから(ちなみに、邦訳の初版は1988年)。

 それゆえに、この本は、「古典」としての歴史的価値に関心を寄せながら読んでもいいだろうし、文化記号論と呼ばれる領域への入口をもとめながら読んでもいいだろうし、言語学に着想を得たボガトゥイリョーフの民族誌学の分析の方法を学ぶために読んでもいいだろう。さらにいうなら、こうした学問的な立場からははなれて、その都度あげられている数多くの「呪術・儀礼・俗信」の例だけをみていっても悪くないかもしれない。たぶんそれでも妖怪がらみの章を筆頭に、とても興味深く読むことができるだろう。
 「古典」だからといって、なにもありがたがってばかりいる必要はない。じつにいろいろな読み方ができる本なのだから、好きなように楽しんでしまえばいいではないか。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/現代小説・詩学・表象文化論 2000.10.11)

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「告白」によって提示される中・東欧のまぎれもない生の記録

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 「本を読み、ブロツキーを訳し、少し書いているよ」。

 1989年夏、ガンに冒されたダニロ・キシュは本書の著者プレドラグ・マトヴェイェーヴィチにこういったという。キシュの作品(短編集の『死者の百科事典』と『若き日の哀しみ』なら日本語でも読める)を愛する者なら、たんに日常を報告するだけのこの何気ない言葉にきっと胸が詰まるような思いがすることだろう。その秋、キシュは死に、東/中央ヨーロッパには革命の風が吹き荒れた。

 キシュとマトヴェイェーヴィチは属する民族こそことなれ、ユーゴスラヴィア出身という点では同じだった。ところが「東欧革命」のあと、その国では民族どうしが対立して、まさに血で血を洗う戦いをくりひろげることになる。
 キシュを「兄弟のように」愛したマトヴェイェーヴィチは、ユーゴスラヴィア人の関係が文学の世界でさえ冷え切っているなかで、クロアチア人として喉をつまらせながらも訴える。──クロアチアの町ザグレブはセルビアの作家キシュに恩がある、と。「それを忘れてはならない」。

 ここでもとめられているのは過去へのまなざしにほかならず、そのまなざしによってもたらされる省察こそが『旧東欧世界』を貫くテーマだといってよい。だから、この本のなかでは、まず何よりも「旧」という呼び名に注意が向けられ、その「旧」が総括をする言葉でありながら、それを肩書きとして背負う者には一種の「刻印」や「傷痕」を感じさせるという事実が指摘される。
 マトヴェイェーヴィチが問題にしているのは、もちろん本書のタイトルにある「東欧世界」の「傷痕」だが、そのなかでも、とくに彼の(そしてキシュの)祖国、<「旧」ユーゴスラヴィア>がクローズアップされてくることはいうまでもない。

 そのさい『旧東欧世界』の著者は、高みから個々の主題について論じ、判断していくようなやりかたではなく、むしろそれとは反対の方法を採っている。それが副題にもある「告白」なのだ。「告白」というかたちを借りて、「旧東欧世界」の「傷痕」を証言すること。これが本書の目的なのだという。

 それゆえに、本書はきわめて「私的な」ものなのかもしれない。しかし「旧東欧世界」を実際に生きた者にとって、その「傷痕」とはとりもなおさず自分自身の「傷痕」でもあるのだから、その切実さは「告白」によってこそ伝わるのだともいえるだろう。事実、キシュとの関係とそれにまつわる出来事の感動的な報告などはその形式以外では考えられない。
 これについてはまた、マトヴェイェーヴィチが、ロシア人を父に、クロアチア人を母に、いわば生まれながらにしてコスモポリタンだったために、<「旧」世界>と独自の関係を結ばなければならなかったという事情もあることも思い出しておいてよいだろう。

 いずれにしても、この「告白」に東/中央ヨーロッパを知るための大きな手がかりがあることはたしかなようだ。わたしたちは本書をとおして「旧東欧世界」のまぎれもない生の記録をみいだすことになる。 (bk1ブックナビゲーター:赤塚若樹/現代小説・詩学・表象文化論 2000.09.20)

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