矢内 裕幸さんのレビュー一覧
投稿者:矢内 裕幸
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会社人間、社会に生きる
2001/04/17 18:17
企業と文化の価値を追求する文人経営者が自らを「会社人間」と定義した,一筋縄ではいかない一代記
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挑戦的な本のタイトルだ。会社人間という響きから受けるイメージからもっとも遠くにいる人,それが福原義春氏だからだ。資生堂中興の祖として強力な経営手腕を発揮して今日の繁栄をなし,同時に,堤清二氏と並んで企業と文化の問題を深く掘り下げた発言を繰り返してきた実績はつとに知られている。そんな現代日本を代表する「文人経営者」が,自己の表現手段に,ややさげすみと憐れみの感情の入り混じった,「会社人間」という言葉を用いるのは,誠に奇異の感を覚えさせる。
むろん,会社人間という言葉は積極的に,しかも肯定的に使うこともできる。シャイな男の自己肯定の表現として,福原氏がこの言葉を使っている可能性も否定はできない。だが,自己を否定するにしろ肯定するにしろ,自己表現の言葉として,なぜ彼はこの言葉を用いることにしたのだろうか。
まず,これまで社会やマスコミが自分に張ってきた,通俗的なレッテル(文人経営者とか芸術文化のパトロンなど)を引きはがしたいという望みがある。次に,福原義春という人間の70年間の来し方を省みる試みである。文人経営者という生き方だけではなく,より本質的な問題として,会社と自己と,両方の人生を,全力で疾走するという意味で,会社人間という生き方を断固として選択してきたという自覚のなせる業である。だから,著者のいう会社人間は一筋縄ではくくれない。本書はこの通俗的なレッテルに,高貴な価値を付加する試みでもある。
本書の序章は「ものごとの本質」と題され,日本アスペン研究所の設立から物語っている。小林陽太郎富士ゼロックス会長とともに,その熱心な推進者となった著者の情熱が垣間みられるページで,その後の彼に衝撃を与えた藤沢令夫京都大学名誉教授(当時)の言葉が引用されている。「理想のない現実と,理想に支えられた現実と,その違いがどれだけ大きいことか」。読者は,福原氏が仮託した会社人間の中に彼の理想を見い出し,堂々とした一代記を味わうことができるだろう。
(C) ブックレビュー社 2000-2001
マネジメントの世紀 1901〜2000
2001/02/23 00:16
ドラッカーを導きの糸に,20世紀をマネジメントの時代と位置づけ検証する世界経営思想史読本
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19世紀が産業化の時代であったとするならば,20世紀はマネジメントの時代といってよい。そのマネジメントは企業経営にかぎらず,行政サービスや国家防衛にとって必須の機能である。——本書はこのような30年以上前のフォーチュン誌の引用から出発する。
マネジメントは現代を読み解くキーのひとつである。にもかかわらず,これまで案外と狭い意味で捉えられてきたことも事実である。それは,経営者=マネジャー,すなわち企業経営者であり,マネジメントとは株式会社などの営利法人企業を運営管理することであるとの誤解によるものだろう。だが最近の規制緩和や少子化傾向にともなって,病院や学校にとってもマネジメントがいかに重要であるか,少なくとも倒産リスクの最小化技術として認知されるようになってきた。
マネジメントとはピーター・ドラッカーが指摘するように「小売チェーンのマネジメントとローマ・カトリックの教会区のマネジメントには,小売チェーンの役員や主教が感じているほど違いはないのである。……違うのは仕事のうちのたった10%程度である。この10%は組織特有のミッション,特有の組織文化,歴史,言語によって決まる。残り(90%)の部分は,十分に交換がきく」ものである。彼はマネジメントの本質に普遍性を見ているのであり,本書を貫く歴史観は「マネジメントの普遍性」への意志である。
マネジメントの普遍性はしかし,この国ではいまだに市民権を得ていない。今日,経営の効率性と透明性を高めるために取締役会を改革しようという動きがある。コーポレート・ガバナンス改革の一環であり,執行役員制の導入や社外取締役の選任はその手段のひとつである。ところがいざ社外取締役を導入しようとすると,「業界やわが社のことを何も知らない社外取締役に,適切な意思決定を下せるはずがない」と反対論がきまって噴出する。「マネジメントに普遍性はない。仮にあったとしても10%に過ぎない」と考える企業経営者がいかに多いかを物語っていよう。
企業の特殊性,業界の特殊性,国の特殊性という避難所に逃げ込みたい気持ちはわからないでもないが,それは競争の否定につながる。ひいてはマネジメントとその担い手である経営者自身の否定につながらないだろうか。仮に,ドラッカーの指摘が間違いでマネジメントに普遍性がないとしたら,ガバナンスにも普遍性はないだろう。ガバナンスはマネジメントの指導原理だからである。しかし,この問いの答えは本書のなかにではなく,われわれの実践のなかにしかみつからないものだ。
ところで,本書に登場する経営者や思想家は企業関係者にかぎられている。この点が本書への唯一の不満である。ウィンストン・チャーチルらの政治家やジル・ドゥルーズやジャック・デリダなどの思想家の業績と思想をマネジメントの視点から再評価し歴史のなかに位置づける——本書の続編としたら,なんとスリリングな作業になることか。
(C) ブッククレビュー社 2000
企業とフェアネス 公正と競争の原理
2001/01/16 18:15
独禁法の精神をめぐる,学際的な議論からの多面的アプローチ
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最近の雪印乳業や三菱自動車をはじめとする企業不祥事や企業犯罪のニュースを前にすると,だれしもが少し前の証券不祥事や金融腐敗の記憶を呼びさまし,いっとき企業倫理や経営者のモラルを論じ,やがて忘れていく。これはなにも日本人が健忘症にかかっているからではない。ビジネス・エシックスの訳語である企業倫理という概念で考えるから,誰が誰に対してどういう責任をとればいいのか,感覚的に同調できずに判然としないのだ。むしろ「商売の掟(おきて)」とでも訳したほうが商人国家の住民にとってはわかりやすい。
西洋ではビジネス・エシックスの前提として,キリスト教道徳とは別に,アリストテレスの昔から近年では『正義論』で有名なジョン・ロールズまで,フェアネスとジャスティスをめぐる根本問題が議論されてきた。公正と正義はどう違うのか。自由と平等は両立するのか。権利と既得権は別物のようだが,さて違いを説明しろといわれてもなかなかに難しい。
<権利は力と利に還元できない正義の論理によって正当化された要求である。“rights”“Recht”“droit”“jus”などの権利を意味する欧米語はいずれも「正」をも意味し,…日本語の「権利」という言葉は語源的には力を意味する「権」と利益の「利」からなるといわれ…「力で保守された利益」のイメージを喚起する>(本書22p)という不幸も災いして,日本では既得権も立派な権利と思われてきた。本書はこんな身近な問題から解きほぐして,公正概念に迫っていく。
本書は,独禁法の精神である公正と競争の原理,言葉を換えると,自由と平等の存立可能性を,経済法,法哲学,民法,行政法,経済学などの各分野の専門家が記述した論文集である。編者であるフェアネス研究会は1993年から東京海上研究所が主宰する勉強会で,そこでの議論や報告の成果を1冊の本にまとめたものである。フェアネスとジャスティスをめぐるこの難問を整理するための資料として有用であろう。
(C) ブッククレビュー社 2000
戦略の原理 独創的なポジショニングが競争優位を生む
2000/12/28 12:15
比較的未開拓だった戦略の立案とそのプロセスに焦点を絞り,実務的思考法を伝授
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戦略とは何か。経営学の分野で中心的なテーマではあるけれども,哲学が人間とは何かについて明確に定義できていないように,この問題をめぐって経営学者の間に共通認識は生まれていない。曰く「戦略とはポジショニング」であり,曰く「戦略はビジョン」である。戦略の立案もまたしかりである。戦略立案のプロセスは,合理的思考により能動的に選ばれるものなのか,直観や試行錯誤の結果おのずと生成されてくるものなのか。
ロンドン・ビジネススクールで戦略論と国際経営を講じる著者は,戦略立案プロセスは「サイエンス」というよりも「アート」であるとの立場をとる。本書の日本語表題は『戦略の原理』となっているが,内容は戦略論の体系的な記述ではなく,経営学の分野で比較的未開拓だった戦略発想法や戦略観の立て方についてのガイドブックになっている。発想法などの実務書が原理を説く理論書よりも“低級な”代物でないことを本書は証明している。
著者はブレークスルー戦略を練り上げる(原著の副題)ために,ターゲット顧客,提供する製品,戦術の新たな組み合わせを提唱する。これだけだったら新味はないが,独自の戦略的ポジジョンを確立した後のフォローアップに力点を置いているのは好ましい。評価,試行錯誤,学習,軌道修正をケースを用いて懇切ていねいに指導しながら,独自性を持続させる方法を説く。さらに,前提として,事業領域の定義を行う上で,事業領域を企業最大のメンタル・モデルと位置付ける視点は冴えている。
メンタル・モデルとは「信念」のことであり,アカデミックな文献だけでも41種類もの表現が発見されている。経営観,マインドセット,パラダイム,認知地図,仮説,定見,暗黙の了解,聖牛,色メガネなど,これらがすべて同じ意味に用いられているという。メンタル・モデルを克服する方法は本書に譲りたいが,色メガネをはずす時期や作法について本書は的確なアドバイスをしてくれるだろう。
(C) ブッククレビュー社 2000
限りなき魂の成長 人間・松下幸之助の研究
2000/10/26 00:15
日経ビジネス1998/12/7
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終身雇用や年功賃金などの日本的経営を体現する経営者──。本書はそんな手あかにまみれた松下幸之助像を払拭ふっしょくし、幸之助に日本的経営の模範を求める人々に対して反省と再考を迫る。
日本でも幸之助を知らない世代が増えてきたが、海外ではもともと無名に近い。本書の著者である米ハーバード・ビジネス・スクールのコッター教授でさえ、同校の「松下幸之助講座」の職を最初は嫌々ながら引き受けたくらいである。ところが幸之助の足跡をつぶさにたどるうちに、彼に魅了されていく。そんな軌跡が米国経営論の泰斗の目を通して綴られている。
著者が注目するのは幸之助の先見性と指導力だ。
1921年、米ゼネラル・モーターズ(GM)の伝説的な名経営者、スローンが開発した「事業部制」を、幸之助は33年に創設した。同年、「安価な製品と収益の重要性」などの近代的経営理念を原則化した世界初の「遵奉じゅんぽうすべき精神」を発表。これは米ジョンソン・エンド・ジョンソンの有名な「信条(Credo)」より10年先行している。
著者によれば、幸之助は戦後も「5年間で売上高を4倍に」「週労働を5日に」「従業員報酬を米国の大企業並みに」という目標を掲げ、技術革新、コスト削減、生産性向上、利益率の改善などによって実現した。
実際、幸之助の先見性と指導力は、時代を超えた普遍性を持っている。29年に始まった世界大恐慌のさなかのことだ。多くの日本企業が従業員の解雇に踏み切ったのに対して、幸之助は、従業員を解雇せず工場労働者を販売部門へ転換することで苦境を乗り切った。当時、従業員の解雇は日本企業にとって常識的な雇用調整手段だったが、幸之助は誰も真似のできなかった配置転換という前代未聞のリストラ策を講じたのである。
幸之助にとって、配置転換による雇用の維持は企業を守るために苦心惨憺さんたん編み出した手法だった。それがいつの間にか「従業員の雇用は聖域」という通念が定着し、幸之助はその守護者に祭り上げられてしまった。むろん、幸之助は株主価値の極大化を企業の目的に置く英米流の経営者ではない。しかし、日本的経営の破壊者だった一面も持っていたのである。
本書へ不満は、“起業家・幸之助”の軌跡——特に幼年時代の描写と指導力の分析のユニークなのにに比べて、“人間・幸之助”が「成長に成長を重ねて」たどり着いた境地、PHP、松下政経塾時代の記述に精彩を欠き、表面的であることだ。続編には社会思想家としての幸之助への批評を期待したい。
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ウォーバーグ ユダヤ財閥の興亡 上
2000/10/26 00:15
日経ビジネス1999/2/1
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ウォーバーグ家は、独フランクフルトのロスチャイルド家ほど有名ではないが、ドイツ系ユダヤ財閥の雄として、19世紀から今世紀にかけて世界の金融界をリードしてきた。本書は、ハンブルクのM・M・ウォーバーグ、ニューヨークのクーン・ロウブ、ロンドンのS・G・ウォーバーグといういずれも一流のプライベートバンクを率いた一家に関する、日本語訳にして1000ページにおよぶ年代記である。
物語は北部ドイツの美しい港町、アルスター湖畔のハンブルクに始まり、ドイツの詩人ハインリッヒ・ハイネが「若者、ある処女を愛す」と題した詩を捧げたという女性ザーラ・ウォーバーグ、彼女の2人の息子、ジークムントとモーリッツや、弟モーリッツの5人の子供たちの物語がつづられていく。
とりわけ、モーリッツの5人の子供たちの経歴はそのまま、経済発展と戦乱に彩られた今世紀前半の欧米史と重なり合う。第1次大戦後のベルサイユ条約締結時に、ドイツ側を代表して国益のために尽力したマックス、ニューヨークにわたって一家と盟友関係にあったクーン・ロウブで活躍し、米国の中央銀行に相当する連邦準備理事会(FRB)の創設に深くかかわったポール、イスラエル建国に奔走したフィーリクス、変わったところでは、20世紀の美術研究に独創的な方法論(図像学)を創始し、パノフスキー、ケネス・クラークなどの美術史家や哲学者に大きな影響を与えたアビーがいる。
著者のロン・チャーナウ氏は、執筆の意図をこう語る。
ドイツ人社会に受け入れられていると確信していたドイツ系ユダヤ人が、ナチの登場と共にそれがかりそめの幻想だったことを思い知らされ、「かくも賢明にしてかくも勤勉な民族が、なぜ自分たちの存在を脅かす死の脅威にかくも盲目だったのか」という謎を、ウォーバーグ家4代にわたって明らかにすることである、と。
しかし、その点については十分に成功したと言い難いのではないか。ドイツ系ユダヤ人とナチの関係について、独自の分析がなされていないからだ。著者の意図を実現するには、歴史をどうみるかという哲学が必要だが、著者には年代記作者としてのすばらしい技術はあっても、歴史家としての哲学にはそれほどの深みを感じられないように思えた。
とはいえ、それを除外すれば、この本は理屈抜きにおもしろい。教養ある欧米人が仏ニースの海岸やアルスター湖畔で寝そべりながら、ぜいたくな時間を堪能する——そんな読み物に仕上がっていることは間違いない。
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