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  3. 藤崎康さんのレビュー一覧

藤崎康さんのレビュー一覧

投稿者:藤崎康

82 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本悲しき熱帯 1

2001/06/14 15:17

世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『悲しき熱帯』は、いまさら紹介したり書評したりするのが気後れするくらい、もはや押しも押されぬ「古典」となった名著である。だが今回、「古典復興!」のキャッチ・フレーズとともに「中公クラシックス」の一冊としてラインナップされた本書を再読してみると、まったく未知の興奮に誘いこまれてしまった。これはやはり尋常一様なことではない。
 人類学者レヴィ=ストロース初期の内省的民族誌である本書は、いうまでもなく、体系的な構造人類学の書ではなく、しなやか且つパセチックな、芳醇且つ戦慄的な記録文学の傑作でもある。

 訳者・川田順造氏は本書の内容を以下のごとく的確に要約している。…「1930年代のブラジル奥地での豊かな経験のかずかず、ユダヤ人としての第二次世界大戦中のアメリカへの脱出の思い出、少青年期の回顧、インド、パキスタン、現在のバングラディッシュを訪れた時の印象などが、著者の強靭な筆によって、個別の体験や感想から、人類史の一断面を見る思いさえする一連のタブローにまで高められている。十五年の醸成のあと一気に書かれたこの本は、上等な木の樽の中でたっぷりと時間をかけて濃(こく)と香りを身につけた酒のように、辛口でありながら豊かなひろがりをもった大人の読み物だ。」

 …まったくもってレヴィ=ストロースは「辛口」且つ「濃厚」である。たとえば、おおかたの旅行者や探検家が抱く異国情緒=エキゾチズム的心理や感性に、彼はしばしば冷水を浴びせる。すなわち、アマゾン地方やチベットやアフリカは、旅行記、探検報告、写真集などの形で都会の書店に氾濫しているが、それらの本では、読者にいかに強い印象をあたえるかという効果が最優先されるので、読者は持ち帰られた見聞の価値を吟味することができない。批評精神が目覚めるどころか、読者はその口あたりのいい食物のお代りを求め続け、その膨大な量を呑みくだしてしまうのである。要するに現代では、「旅行屋」や「探検屋」によって報告される「異国の珍奇な習俗」は、旅行記というかたちで虚しく大量消費される、紋切り型のイメージにすぎないのだ。レヴィ=ストロースは言う。「旅行譚は、もはや存在していないが、しかしまだ存在していて欲しいものの幻影をもたらすのである」と…。

 こうしたレヴィ=ストロースのペシミスティックな思いは、次の一節に痛切な叫びとして、また西欧中心主義への呪詛として、結晶する。
 「…文明社会はそれらのもの(熱帯の原住民たち)が真の敵対者であった時には、恐怖と嫌悪しか抱かなかったにもかかわらず、それらのものを文明社会が制圧し終えた瞬間から、今度は尊ぶべきものとして祭りあげるという喜劇を、独り芝居で演じているのだ。アマゾンの森の野蛮人よ、機械文明の罠にかかった哀れな獲物よ、柔和でしかも無力な犠牲者たちよ、私は君たちを滅ぼしつつある運命を理解することには耐えていこう。しかし、貪欲な公衆を前にして、うち砕かれた君たちの表情の代りにコダクロームの写真帳を振り回すというこの妖術、君たちの妖術よりもっと見すぼらしいこの妖術に欺かれる者には決してなるまい。」なんという素晴らしい文章だろう!…。

 ちなみに、このようなレヴィ=ストロースの文章は、フランス文学の伝統であるモンテーニュやラ・ロシュフーコーらモラリスト(人間観察家)的な筆致を継承していると思われる。本書の末尾近くに書きつけられたアフォリスム(箴言)的な、そして黙示録的な次の一句にも、それは如実にみてとれる…。「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。」 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2001.06.15)

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ユダヤ教からキリスト教への流れを、一神教の原理によって解明する

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ユダヤ教とキリスト教という二大宗教の関係は、私たち日本人にとってはなかなか理解しにくい問題だが、本書はこの二つの一神教の複雑な関わりを、新書とは思えないほど克明に論じている。
 まず肝心なのは、ユダヤ人にとってユダヤ教とは、そもそも「非ユダヤ人」よりも優れている「ユダヤ人」の宗教であり、ヤーヴェという神は「選民」「神の民」であるユダヤ人の神である。つまりユダヤ教にあっては、ユダヤ人は救われるが、非ユダヤ人──とりわけ「異邦人」=ローマ帝国──は救われない(ユダヤ民族の民族中心主義)。それに対してキリスト教は、ユダヤ教を母胎として発生したにもかかわらず、ユダヤ人だけでなく全人類が救われる、普遍主義的な立場を主張した。ユダヤ人イエスが処せられた十字架刑は、ユダヤ教の律法で神に呪われた者に科せられる刑であることが示すように、イエスは(「宗教的」には)ユダヤ教的律法を根こそぎ否定する革命者でもあった。むろん「政治的」には、イエスはローマ帝国への反逆の首謀者として処刑されたのだが……。
 また、ユダヤ教以前の古代ユダヤ人の王国について。……古代民族の王国はおおむね、民族の神との繋がりを柱にして成立している。その際に、神と民との繋がりを具体的に保証しているのは、土地(領土)・王・神殿である。古代ユダヤ人にとっても、王は「神の子」であり、神殿は「神の家」であり、神殿の活動の中心は犠牲祭であった。犠牲の中心は、「焼き尽くすささげ物」=ホロコーストであった。家畜を文字どおり全部焼いてしまって、その煙が天に昇る。これが「神の食物」とされたのだ。こうした神殿や犠牲祭はユダヤ教が確立されても存続したが、それは著者が言うように複雑な紆余曲折をへてのことだった。そして、ユダヤ教が生まれてからおよそ五百年後に、さまざまな文書集が「聖書」として成立し始める。つまり聖書は、「時の初めから」存在していたわけでは、毛頭ない。
 さらに「罪」とは、神と人間との関係がそれに相応しいものではない状態、「契約」がきちんと履行されていない状態であるという、ユダヤ教の「厳格な神」のコンセプトについても、本書はていねいに解説している。
 あるいは、聖書を絶対化し、キリストを神格化し、「伝道という奇妙な活動をする」キリスト教の教会は、神との直接的な関係をもつ者(指導者たち)とそうでない者(信者たち)との決定的な違い──分け隔て──を認めたうえで成立している、という著者の批判も鋭い。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.06.27)

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紙の本人類最古の哲学

2002/04/24 22:15

宗教的熱狂とは似て非なる神話的思考の魅惑

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 中沢新一の強みは、彼が「超越的なもの」に魅入られた「使徒」であるにもかかわらず、いわゆるニューエイジかぶれの「神秘主義者」やオカルト・マニアとは一線を画す、しなやかな現実感覚と幅ひろい宗教学・思想・文学の知見をバランス良く身につけている点だ。こうした中沢の武器は、このたび刊行された「神話学入門」というべき本書でも、おおいにその「通力」を発揮している。
 中央大学の講義をもとにしているという本書は、旧石器人類の思考から一神教の成り立ちまで、「超越的なもの」について、およそ人類の考え得たことの全領域を踏破することをめざしたシリーズの第1巻だという。そして、とりわけ、中心テーマのひとつである「シンデレラ物語」のさまざまな異文(異なるヴァージョン)を比較検討していく部分は、著者の手堅い資料調査と奔放なイマジネーションとが相乗効果を上げていて、ひじょうに読みごたえがある。
 中沢によれば、民話には現実の世界では解決できない矛盾を、はなやかなしつらえを通して解決してみせようとする、さまざまな機構が発達している。「シンデレラ」でいうなら、シャルル・ペロー版よりグリム版のほうが、よりナマのかたちで神話的思考が露出しているが、それは後者では、恵まれない境遇といった負の要素をその反対物である幸福や調和へと結びつける「仲介機能」が総動員されているからだという。さらにポルトガル版では、水界を介して死者の領域とのあいだに通路が開かれ、シンデレラ物語の最古層が見え隠れするという刺激的な分析がつづく。そしてさらに、中国や北米インディアンのミクマク族のシンデレラの異文が、あざやかに分析されていく。また、終章「神話と現実」では、現在の日本のゲームソフトにみられる形骸化した神話的思考が、現実の世界とのつながりを失い、バーチャルな宗教的思考に取り込まれる危険をはらんでいる、という中沢の指摘には、オウム事件をくぐり抜けた宗教学者の言葉ならではのリアルさがある。中沢はまた、神話は現実に熱狂(オージー)を求める宗教とちがって、つねに理知の制約を受けていて、非合理の水際に限りなく接近しながら、そこに溺れてしまうことはない、という。もっとも、チベット密教の修行を積んだ中沢にしては、この発言はやや腰が引けているように思うのは、こちらの邪推だろうか。ともあれ、続編が鶴首して待たれるシリーズ第1弾である。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.04.25)

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紙の本事典哲学の木

2002/05/27 22:15

絶対おススメのすばらしい事典!

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ちょっと類を見ないような、すばらしい1冊である! 編集委員の一人、永井均がいうように、本書には項目として採用されていない語もたくさん載っており、その多くは索引から引けるようになっている。また、執筆者名からも項目が検索できるし、項目じたいも、「殺す」「疑う/信じる」「泣く」「気」「恋(乞い)」「神の存在証明」など、独自のものが多く、まさに「読む事典」の傑作だといえる。そして何といっても、各項目の記述内容の充実ぶりが尋常ではない。
 たとえば、坂口ふみは「キリスト教」の項でこう書く。……4福音書がすでに多くの手を経て編纂された間接資料であり、そもそも新約聖書が創造・律法・契約等イスラエル民族の伝統宗教の基本教義をひきつぎ、それに新しい解釈を加えて成立したものである(つまり、キリスト教も「普遍的(カトリック)」などではなく、一種の混合宗教<シンクレティズム>なのだ)。そして、イエスの十字架での死という現実の挫折をいわば逆手にとり、神の独り子の死と復活という宇宙救済のドラマを描き上げたのは、使徒パウロであった。ここからヘーゲル弁証法までは、ほんの一歩だろう。高橋純の「オカルト」の項も冴えている。……科学もオカルト思想も、キリスト教イデオロギーのヴェールを取り払って自然を新しい眼差しで見ようとした点では、一体のものだった。宇宙を神の感覚器官と見なしたニュートンにとっては、万有引力などの科学法則の延長上に、神の摂理を証明する神秘学があった。また、無機物質を同化して植物(有機物質)が生育し、次いで植物を餌として動物が繁殖して、その頂点に精神(非物質的意識)をもつ人間が生まれるという自然の生成過程の意味や目的は、科学によってはけっして導き出されない。そこでは、錬金術=オカルトの哲理が比喩以上のものとなる。そして、こうした文脈で、「霊魂」は科学的ツールによっては感知しえず、霊媒(チャネラー)によってのみ感知されるという命題も導き出されるわけだ(梅原伸太郎「霊性」の項)。ちなみに、こうした厄介なテーマに関連して思い出されるのは、大澤真幸のつぎのような意味の言葉だ。「科学の合理性が健康に機能しうるのは、科学によって記述しえない領域を、科学の外部に、──たとえば「神」や「自由意志」といった形式で──残存させている限りにおいてである。」
 また、渡辺政隆の「進化」の項も明快だ。……「自然淘汰説」とは、個体変異に自然環境がふるいをかけ、生存繁殖率の差をもたらすという理論である。換言すれば、個体変異そのものに方向性はなく偶然(ランダム)であるということ、進化に方向性をもたせるのは環境変化すなわち自然だということである。つまりそれは、スペンサー流の「適者生存(優勝劣敗)説」とはまったく別物である──。さらに丹生谷貴志による「光」の項では、J・G・バラードの傑作SF『夢幻会社』が言及されていたりで、うならされる。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.05.28)

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「青春」という切り口で文学的名作を横断する

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

古屋健三氏の仏文学の授業は、私が大学在学中に熱心に出たほとんど唯一の講義だったが、マイクに顔を寄せたまま学生の方をろくに見もせずに、スタンダールやゾラの作品をノートなしに読み破っていく氏の授業はひどくスリリングだった。しかも訳読せずにすぐにイメージ分析や人物描写へとなだれ込んでいく氏の一見ぶっきらぼうな講義は、語学的にはまったくついていけなかったのに(つまり予習せずにただ聴いているだけで)、非常に興奮させられた。
本書『青春という亡霊』は、副題「近代文学の中の青年」が示すように、氏の専門であるスタンダールの『赤と黒』『パルムの僧院』に描かれた青年像を原点におきつつ、漱石、バルザック、ドストエフスキー、カミュ、ゲーテ、村上春樹、三島由紀夫、大江健三郎などの作品を縦横無尽に読み解いた目ざましい「青春論」である。このアナ—キーなまでの縦横無尽ぶりを生んでいるのは、氏がアカデミズムの実証主義の瑣末さからも、細部に拘泥しすぎるテクスト主義の瑣末さからも逃れているからだろう。では、氏の方法とは何かといえば、あくまで氏自身が作品から受けた「印象」を論理化していく、柔軟かつキメ細かい印象批評である。そしてその根本には、人性批評家(モラリスト)としての氏の倫理的な潔癖さ、高貴さがあるように思われる。「自殺」や「殺人」といった人間の暗部に接近しながらも、あやうくその深淵から氏の文学的実存が生還するのは、かような倫理的健康さのためだろう。
またその健康さゆえに、氏は世紀末デカダンスの唯美主義や悪魔主義に傾くこともない。もっとも、フローベール『感情教育』とドストエフスキー『悪霊』を比較しつつ、前者では「政治」(二月革命)が主人公の外側に明確に存在するのに対し、後者では政治が、内とも外ともつかぬ亡霊(陰謀)として主人公を呪縛する点を分析する一節などには、氏のデモーニッシュな領域への傾斜が透けてみえる。「(『悪霊』では)主人公の内か外かも判然としない闇のなかで、わけのわからない動きがあり、なんともいえないどよめきがあり、漠然とした不安がある。政治は各人の体のなかでそれぞれ独自に疼いているだけであり、現実にはっきりした形を取って現れない」(102頁)
いずれにせよ、「青春」「青年」という切り口で数多の名作を横断することに成功している本書は、「文学原理主義」の輝かしい成果でもある。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2001.12.14)

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10人の論者がTVスポーツ中継をメッタ斬り!サッカー主義とテニス主義の激突もすごい!

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いまや、巨大な権力と化したテレビというメディアの目玉商品のひとつがスポーツ中継であるが、高視聴率を稼ぐプロ野球、サッカーといったメジャースポーツだけでなく、プロレス、ラグビー、F1、テニス、駅伝などのテレビ中継が、私たちの生活に深く浸透している。
 本書は、そうしたスポーツのテレビ中継のありようを、各分野の筋金入りのライター10人が、スポーツを愛するがゆえのシビアな批判もまじえて、縦横に論じつくした必読の異色本である。当然ながら、それぞれの書き手は、スポーツ中継に対する視点も、考え方も、嗜好も異なっているが、彼らに共通しているのは、お目当ての試合が放送される日には、仕事もデートも結婚式も迷わず放り投げて(?!)テレビにかじりつくだろうスポーツ狂であることだ。もっとも、スリリングな「サッカー中継哲学」を書いている現役アナウンサー・倉敷保雄は、当然、スポーツを観ることが仕事であるという幸福なポジションにあるのだが…。
 たとえば、「ベガルタ仙台の魔術師・蓮見選手が放つミドルシュートのファン」であると公言する山本史華の「バカの心得」は、だれが何と言おうと熱烈なJ2サポーターであるという確信犯的な姿勢によって、読み手をぐいぐいと引っぱっていく傑作評論だ。と同時に山本の筆は、ファンに徹すること、つまりバカであること、そしてサッカー中継とは何かということを冷静な視線によって吟味する批評性を獲得していて、みごとである。
 山本はサッカーファンの若者について、こう書く。「若者は、サッカー場へ忙しさを求めに行っているのではないか。全体主義を求めていると言い換えてもいい。サッカー場以外の場が、あまりにも安穏として退屈で、個々のつながりが希薄な現代だからこそ、若者はスタジアムにわざと忙殺されに行く。」この指摘は、サッカー論をこえて、ひとつの鋭い現代文化論として読むことができる。ちなみに、ここでの「サッカー」を「オウム」に置き換えれば、宮台真司が意図的に謎めいた話法で論じているような、疑似共同体がかいま見せる「非日常的なすごいもの=サイファ」に若者が吸引される、アノミー(無目的)状態にある成熟社会についての論へと発展していくのではないか(期待する)。
 熱狂的なサポーターであることと批評者であることの微妙なバランスのうえに成立している山本の評論に対して、「テニス原理主義」を掲げる藤崎康(ちなみに私です)は、テニスという競技においては、プレー中の大歓声やウェーブなどの過剰な応援はいらないと、かたくなに主張する。両者の意見の対立(?)は、サッカーとテニスというスポーツの根本的な違いに由(よ)っているので、一概にどちらが正しいとは言いにくいだろう。
 また藤崎は、テニス中継における饒舌すぎるアナウンサーのおしゃべりを糾弾しているが、これはどの論者にも大なり小なり共通する視点である。ただし、「F1中継と物語と冥界と数と」の藤井雅実がいみじくも指摘するように、タイム、得点、評価点、その他の数値などの言語的メッセージは近代スポーツの構成条件であり、競技の強度や物語性を際立たせるゆえ、視聴者の競技への集中をそがない限りでは、重要なファクターである。このことは、マラソン中継などの経過タイムの表示を考えれば明らかだろう。
 本書の他の評論、「元選手に解説を頼むという不幸な構図について」(高橋秀樹)、「「実況」という名のプロレス─古館伊知郎考」(岡村正史)、「箱根駅伝における「ドラマ」の求め方」(貴地久好)、「ラグビー中継をめぐって」(佐々木典夫)なども、それぞれの競技中継に対する書き手の愛と叱咤が炸裂していて、読みだしたらやめられない面白さだ。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2001.01.27)

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紙の本悪魔の系譜 新装版

2002/07/11 18:15

ヨーロッパ文化における悪魔像の変遷をたどる

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 悪魔とは、一言でいえば、「悪」の形象化であり擬人化であり、受肉化である。その点で、神性が受肉され人間化された「神人」であるイエス=キリストと、表裏をなす存在だといえる。そして新約聖書によれば、悪魔は神の被造物、随天使であるが、一番の得意わざは「憑依」であった。また、悪魔の呼称のひとつである「ルシフェル」は、もともと「光を掲げる者」の意味だったが、それはキリストをも意味する言葉だったので、くだんの意味では使われなくなった、という経緯があるそうだ。
 さて、本書は帯の惹句にあるように、「ヨーロッパ精神の地下水脈」をかたちづくる悪魔学の決定版、すなわち、デヴィル・サタン・ルシフェルなどと呼ばれた、古代から現代にいたるさまざまな悪魔像の変遷を、神話・宗教・文学・図像や、社会的背景などから精細にあとづけたロング・セラーの新装版である。
 悪魔学系の本を手にしたら、まずは「ファウスト」の項目を引いてみるのがいい。その記述の如何によって、それがどの程度の本なのかが分かるからだ。本書の「ファウスト」の項目はひじょうに充実している。──十八世紀後半には、いったん廃れていたサタンに対する文学的興味は、ファウスト伝説の復活によって再燃した。錬金術師であり魔術師であるファウスト博士が、個人による理想・欲望・権力の追求を象徴するものとなったのだ。そしてゲーテは、そうした流れの中で、メフィストフェレスという画期的な悪魔像を創造した。啓蒙主義の皮肉なキリスト教観を受けて、ゲーテは教会を蔑みながらも、キリスト教神話を活用した。が、メフィストの性格は、詐欺師、好色漢、誘惑者、雄弁家というふうに、あまりに多様であり漠然としているため、彼はキリスト教の悪魔像とは合致していない。
 ファウストはといえば、隠された神秘的な力を得ようとして、メフィストと契約をする。メフィストのもくろみは、ファウストをたぶらかして若いグレートヒェンに対する欲望をかきたて、官能の世界に引き込み、神との賭けに勝つことだ。ちなみにこの悪魔は、現代社会が悪の象徴となじまず、悪魔が愛想のよい紳士のふりをして、隠れた畸形をほのめかすだけだ、などとシニカルな科白を口にする──。
 なお、本書と姉妹編をなす『悪魔の事典』(F・ゲティングズ)も好調に版を重ねているという。テロや凶悪犯罪が頻発する現代とは、人々のあいだで、邪悪なものへの関心が、聖なるものへの希求とあいまって高まっている時代なのだろうか。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.07.12)

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紙の本熊から王へ

2002/07/04 22:15

人間を超越した「人食い」の権力が、王と国家を発生させる

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 旧石器人類の思考から一神教の成り立ちまで、「超越的なもの」について、およそ人類の考え得たことの全領域を踏破する試みである、中沢新一の「カイエ・ソバージュ」シリーズ。その第二弾が本書である。
 中沢は冒頭近くで、9・11事件が、本書の内容とのっぴきならない関係にあることを書きしるす。すなわち、あの大惨事があった夜、中沢がまっさきに思い浮かべたのは、宮沢賢治のことであり、賢治が『氷河鼠の毛皮』や『注文の多い料理店』で描いたように、圧倒的な非対称の関係が築き上げられた世界──そこでは対話や富の公正な配分が阻まれている──では、しばしばテロが誘発されると言う。じっさい、本書におけるキーワードのひとつは「対称性の社会」──「神話的思考」があまねく行き渡った社会──である。
 中沢によれば、動物と人間が交流する万物照応的(ボードレール!)な「対称性の社会」にとって、富の一極集中や階層化やディスコミュニケーションといった「非対称」は悪であり、そういった状況をつくりだした諸悪の根源は、「王」が君臨する「クニ=国家」にほかならない。こうした文脈において、第八章「『人食い』としての王──クニの発生」は、とりわけ興味ぶかい。すなわち、現生人類である後期旧石器時代の人間は、熊の発揮する威力を、自然の奥にひそんだ、人間の力をはるかに凌駕する力能=権力の象徴として畏怖していた。熊は多くの神話の中で、人間の友人であると同時に、人間を超越した「人食い」(自然権力、カンニバル)の概念として表現されていたのだ。この力能は、祭りや戦争の期間中の芸術的・宗教的昂奮の範囲内でのみ──戦士やシャーマンをとおして──解放される、というようにストッパーがかけられ、厳しく管理されていた。ところがある時から、みずから「人食い」を体現すると主張する王(神人?)が出現し、その超越的な権力を社会に波及させてしまい、クニを発生させるのだ。
 その一例は日本神話における、スサノオノミコトによる八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の物語である。この大蛇は自然の恐ろしい力をあらわしており、毎年の祭りに人間(生け贄)を食べにやってくる「人食い」だ。大蛇と親和性のあるスサノオは、大蛇を退治し、自然権力(大蛇の体内から出てきた草薙の剣に象徴される)を手にし、出雲の王となるのである。また一般的に言って、「王」の権力が盛大な宗教的儀式によって演出されるのは、そのように、王権というものが理性とは別種の力に触れているからだ、と中沢は言う。そうしなければ、「王」の恐るべき力能は、国家権力の中枢にみなぎり、血なまぐさい「野蛮」として暴走してしまうからだ。──直感と論証にささえられた見事な分析である。が、神話のネガティブな面──たとえばバルトの分析した神話作用──について、中沢はどう考えているのだろう。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.07.05)

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紙の本恋の映画誌

2002/07/01 22:15

読む者の官能を悩ましく刺激する恋愛映画誌!

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 映画を語る山田宏一の言葉は、まるで媚薬のように読み手の心をとろけさせる。銀幕を彩る美女たちの魔力が乗り移ったかのような氏の言葉は、それを読む者の官能を悩ましく刺激し、しびれさせるのである。「恋で死ぬのは映画だけ」という素敵な惹句が帯に書かれた本書も、そんな氏の女優愛に染めあげられた、甘く切なく、ときにビターな言葉でつづられる、映画ファン必読の恋愛映画誌である。
 本書はまた、映画・ビデオ案内としてもフルに活用できる一冊だが、最近のハリウッドの、デーンと大柄で、筋肉ばかり発達したような大味(不細工)な女優しか知らない若い人たちは、ぜひ本書を読んで、映画の黄金時代の女優たちがどんなにエロ──いい意味で!?──かったかを、知ってほしい。
 たとえば、『恐怖の逢いびき』のルチア・ボゼーについて、氏はこう書く。──「ソフィア・ローレン型のたくましく大きなイタリア女のイメージからは程遠く、細身で──だが弱々しくなく、美しい強壮的骨格だ──細く長い首、細く長い腕(とくに腕の付け根の細くひきしまったデリケートな美しさ!)、そして肩甲骨の突き出た背中の美しさときたら、さわやかなエロチシズムと言いたいくらい魅力的だ。」
 あるいは、『怪物団(フリークス)』を撮ったトッド・ブラウニング監督の怪作『知られぬ人』のヒロインを演ずる、十九歳のジョーン・クロフォードについて──「ナイフ投げでほとんど全裸にされて誇らしく恥らうように立つジョーン・クロフォードはあられもなく淫らにぬれたポルノ女優のようだ。」
 女優の肉体の細部までを執拗に舐めまわすように描写する氏の筆致は──以前にも触れたことがあるが──、まさに谷崎潤一郎のそれを思わせずにおかない。「現代思想」の難解な用語を消化不良のまま振りかざす貧血症的映画批評や、おバカな業界映画批評とは似ても似つかぬ、映画的エロティシズムがなまなましく脈うつ山田宏一の文章の魅惑を、ひとりでも多くの人に堪能してもらいたい。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.07.02)

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紙の本サヨナラ、学校化社会

2002/06/21 18:15

読んでスッキリ、これぞ癒しのバイブル!

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 いやースッキリした。いわば、知的オーガズムを何度も何度も味わった気分だ。こんなに爽快な読後感はめったにあるものではない。人生論としても、学問論としても、また教育論としても、絶対おすすめの一冊だが、何はともあれ、引用しよう。
「研究者をしている自分のことを、私は僧院生活者だと思うことがあります。大学、アカデミアの役割は、昔はもっぱら修道院が担っていました。僧院生活者は俗世とは無縁であり、世のため人のためではなく、自分の「解脱(げだつ)」のために生きています。それは自分がスッキリしたい、ということにほかなりません。/研究者とは、なにかが腑に落ちなくなった人がそれをひたすら腑に落ちるように修業しているようなものであり、研究室とは、腑に落ちなくなったことに憑かれた人たちの巣窟です。」「頭のてっぺんで天井がスポーンと抜けるようなものすごい快感」、それが得られるからこそ、人は低賃金で「研究」を続けるのだ(上野氏が、あたかも自分の性的オーガズム体験になぞらえるように学問を語るその語り口は、ぞくぞくするほどエロティックだ)。まあ、現実の大学の研究室には、そうした「解脱」や「エクスタシー」とは無縁な、たんなる組織の道具と化したゾンビのような連中がうようよしているのだが……。
「…どんなアイディアもモノローグの世界からはぜったいに拡がらない、対話のなかからしかアイディアは育たない…。自分のアイディアを聞いてくれる質の高い聴衆をもつということは、仕事をする人や研究者には──ほんとうはどんな仕事をする人にとっても、ぜったい不可欠なことです。」
「第三者から評価され市場でヒットするものは、百のうちの一つか二つもありません。…しかし、自分が好きなことだけをやった結果を第三者が評価しようがしまいが、自分が好きなことだけをやってこられたなら、それでOKではありませんか。人に言われたことばかりやって人に頭をなでてもらう生き方と、人に言われないことを勝手にやって、自分で『あーおもしろかった』と言える生き方と、どちらがいいかです。」
 こうした引用のブリコラージュだけでも、本書の痛快さの一端は伝わるにちがいない。ともかく、万国の学生、読書人、ライター、研究者諸氏を勇気づけてくれる特効薬といえる一冊だ。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.06.22)

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紙の本宗教世界地図 最新版

2002/05/07 22:15

世界各地の宗教ムーブメントをわかりやすく解説する

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 政治経済や民族問題とからみあいながら、世界のさまざまな地域で複雑化し深刻化する宗教ムーブメント。それについての本は、とりわけ9・11事件以降、おびただしく目につくようになった。もちろん玉石混交であるが、そんな出版ラッシュのなかで、立山良司氏のこの一冊はとても明快できめ細かく、かつ視野が広いので、世界の宗教状況のあらましを知るには役に立つ。本書の読みやすさ、面白さはおそらく、立山氏が宗教の研究家ではなく、中東の国際関係の専門家であることに由っている。氏は、特定の宗教に過度に思い入れることなく、あくまで国家や民族のパワーバランスのなかで、宗教問題を相対的に吟味しうる視点をもっているのだ。
 そして、近代における宗教の「世俗化」に対する、1970年代以降の「原理主義」の台頭という切り口で、氏は世界の宗教の動静を分析する。たとえば89年秋、パリ近郊の中学校で、ベールを被ったまま授業を受けようとしたイスラム教徒の女生徒三人が通学を禁止された事件。氏はこの事件を、モロッコやアルジェリアなど北アフリカから来た移民の第二世代が、「イスラムへの回帰」を積極的に主張しはじめ、フランスの国家原則「ライシテ(世俗主義)」に挑戦状を突きつけた事件として解説する。「ライシテ」はむろん、フランス革命以来の、政治、行政、教育など公的な分野はすべて宗教と厳格に分離されるべきだ、との国家原則である。
 また氏によれば、中国の法輪功の急成長の背後にあるのも、貧富の差の拡大や競争社会の出現、腐敗といった改革・開放路線の「陰」の部分であり、ようするに、近代化によって拠りどころを失った国民の、伝統的な共同体への回帰を求める心情のあらわれである。そして法輪功問題は、「宗教は民衆の阿片である」とする、中国共産党の「科学的社会主義」のひずみの一つでもある。
 さらに、インドにおけるヒンドゥー・ナショナリズムの不穏な動き。インド建国の理念は「世俗主義」であるにもかかわらず、「母なるインド」への回帰を呼びかけ、イスラム教やキリスト教を「敵」として強調する過激なヒンドゥー・ナショナリズム。この勢力はじつは、バジバイ首相率いるインド人民党が支持基盤の拡大に利用してきたグループだという。ここでも、宗教とナショナリズムと政治のからみあいを、立山氏はわかりやすく解説している。その他、チベット「活仏」、バチカン外交、北アイルランド紛争、イスラム金融世界などについても、基本的なアウトラインが簡潔に示されていて、興味をそそられる。なお、本書は「フォーサイト」の通常号や特別号に二年間にわたって掲載された記事を、一部加筆修正して取りまとめたものである。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.05.08)

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紙の本M2われらの時代に

2002/04/26 22:15

気鋭の評論家ふたりが社会や政治や文化の深層をするどく抉り出す

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 同時代は同時代を判定できない、と言ったのは確か文芸評論家の中村光夫だ。が、このM2(宮台真司と宮崎哲弥)対談を読むかぎり、やはり批評家たるもの、リスクを冒してさえ「現在」に対して積極的に発言すべきだと、思わざるをえない。ともかく本書は、どこから読み出しても、ヤバイほどのホンネや、大胆な仮説にぶちあたり、興奮してしまう一冊だ。
 私がこの二人に注目しはじめたのは、ご多分にもれず、オウム真理教事件以後だが、彼らの強味は、大きな文脈の歴史認識や社会学の知見をふまえて、新宗教現象やテロや少年犯罪や性を論じうる視点をもっている点だ。ところで、数年前は宗教や超越的・神秘主義的なものを、もっぱらネガティブに評価していた宮台が、最近、特定の教義に制約されない限りでの非日常的な強度(サイファ)を、積極的に肯定している点は、じつに興味ぶかい。たとえば本書でも、宮台はカリスマの霊気(オーラ)や人知をこえた超越的な力を、「縦の力」とよびつつ、この聖なる力は、人形や奇形動物や頭が変な人に降りてくる、と言う。すると宮崎はすかさず、そういった「垂直の力」がカテゴリーの重合部、たとえば旅芸人、遊行者、「憑き物」筋の家、晴れと雨の重合などに宿る、というのは人類学者エドモンド・リーチの説だと、的確にリアクトする。じつにスリリングな光景だ。そして話題は、討幕のために「悪党」から邪教の真言立川流まで動員した後醍醐天皇から、バタイユの「呪われた部分」やファシズム的トランス状態へと、また、原始天皇制にもとづく「縦の力」のリベラリズム的肯定(宮台)へと、飛び火していく。(112−117頁)私はこのくだりを読みながら、中沢新一の次の言葉を思い出した──「聖性の発現のみいだされるところ、強度(インテシティ)の高い露頭がおこってくる。痙攣するトランス状態の巫女やカトリックの聖女のからだをつらぬいて、強度がはげしく波打っている。」(「エデンの園の大衆文学」)それにしても、宮台と中沢がこうも接近してしまうとは、オウム事件直後は想像できなかったことだ。
 もっとも宮台は、脳機能学者で脱マインドコントロールの専門家・苫米地英人との対談では、「なぜ皆がこうも変性意識(アルタード・ステーツ)に無防備になったのか」と問いつつ、それは世界全体が世俗化し、非日常的なものを排除したからではないか、と言っている。
 また、9・11テロについて宮台は、米国とイスラエル以外に「イスラム原理主義」の標的になる国はない、9・11の中核にあるのは歴史的に形成された政治的動機だと主張する。まったくその通りだと思う。あるいは、恋愛や性愛はどんなに工夫をこらして非日常化・演劇化──コスプレ、サドマゾ、スカトロ、スワッピング等々によって──しても、どんより、まったりしてしまうものなので、それを覚醒した気持ちで単に見つめようというのが、仏教の四法印の一つ「諸行無常」だとする、ブッディスト・宮崎の言葉は重味をもって響く。さすがである。ちなみに宮崎は、実際のセックスを体験したずっとのちにマスターベーションを覚えたそうな。やはり仏教徒はちがう。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.04.27)

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映画ファンなら狂喜する、革命的なDVD総目録!すさまじい情報量、鋭い作品解説にも仰天する!

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じつはこのカタログ、本サイトで中条省平氏が絶賛しているのでさっそく入手したのだが、氏の言葉どおり、とんでもなく充実した内容の、革命的な1冊である。中条氏が感服しているように、本書には、DVD登場以来2001年12月までに発売された全作品20000タイトルについての、廃盤を含めたすべてのバージョンが収録されているばかりか、各作品に付された解説が、これまた実に簡潔かつ要領を得ていて、なんとも有りがたいかぎりだ。
 DVDといえば、最近は都心の大きなレンタルビデオ店などでも急速にソフト数が増え、近い将来、従来のVHSを完全に駆逐するような勢いさえ感じられる。なにより、VHSにくらべて画質が格段にいいし、大きさもコンパクトなので場所を取らず、収納にも持ってこいだ。しかも、デッキが2万円弱で高性能のものが手に入るのである。今後、DVDの需要はますます高まるにちがいない。ただし、どんなソフトが発売されているのかについては、なかなか実状がつかめないという恨みがあったので、その点でも本書の登場はタイムリーである。
 それにしても、本書の作品解説はどんな人が書いているのだろうか。たとえば、フリッツ・ラング『死刑執行人もまた死す』〈完全版〉の項目は、以下のごとくだ。「…ナチスに対するレジスタンスの息詰まる戦いを描く、F・ラング監督のアメリカ時代の反ナチス映画の傑作。ベルトルト・ブレヒトが共同脚本。陰影のある鋭角的な画面がサスペンスを盛り上げる。日本では87年に公開。DVD版は87年公開版より13分長い完全版。」というふうに、そこらの映画史の本など全然カナワナイ、貴重な情報がさりげなく書きこまれていて、うならされるのだ。掛け値なしに、映画ファン必携の1冊である。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.03.08)

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サブカルチャーとして「言論のプロレス」を繰りひろげる

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本書は、それぞれ「保守派(右翼?)」と「戦後民主主義者」をもって自認する、福田和也と大塚英志というイキのいい二人の論客が、テロや憲法や天皇やナショナリズムについて語り合った本であるが、何より印象的なのは、彼らが共に、自分たちの言説が読者にどう受けとめられ、消費されるかについて、神経症的なほど敏感である、ということだ。彼らはけっしてウソを言っているわけではないが、今の世の中で何を発言しようが、それはしょせん「言論のプロレス」をサブカルチャー的に演じることである、というクールな認識と戦略意識(パフォーマンス意識)が、彼らを深くとらえているのである。この醒めた認識は、たとえば大塚が「あとがき」で、福田が「ナショナリズム」を過剰に背負い、自分が「戦後民主主義」を過剰に背負ってきたという「役割分担」こそ、55年体制が終り、左翼が衰退し、保守論壇が奇妙にサブカル化していく現在にふさわしい言論戦略だ、と言っている点にも端的にしめされている。まあこれは、一歩まちがえば、彼らの言説そのものが、フェイクないしはキッチュ(まがいもの)に堕してしまう、という危うさをはらんでいるということだが……。
とはいえ、もともと文芸・歴史・軍事の好事家である福田の発言は、少なくとも「偽悪的な芸」(大塚)があり、おもしろい。いわく、南北戦争は、『風と共に去りぬ』でアトランタが焼かれるシーンに象徴されるように、敵の戦闘能力を失わせるために、社会ごと殲滅しようとする最初の苛烈な近代戦争であった……、ブルックス・ブラザースやポール・スチュアートなどのアイビー・ルックは、アメリカでは上流の大学生が着用する、いわば階層性を刻印された服装ブランドであったのに対し、日本では下町のあんちゃん、姉ちゃんたちの着るキッチュなアメリカの記号として「日本化」された……、湾岸戦争中にもアメリカの石油会社はイラクに入って石油を買っている、そういうリアリスティックな戦略性が今の日本にはない……、日本の不景気の原因の一つは、日本の元気のいい企業がどんどん日本の雇用を減らして、人件費が日本の数十分の一という中国に工場をつくっている点にある、等々……。
他方、福田がサブカル雑誌に書きとばしている「保守的」なエッセーは、もはや「摩擦係数」を失った無意味な消費財と化しているのでは、という大塚の容赦ないツッコミにも、なかなか芸がある。が、それにしても、かつて小田実や大江健三郎が北朝鮮に理想を投影していた時代は、遠い遠い過去となってしまった。今昔の感に堪えない。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.02.26)

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サブカルチャーをめぐる江藤淳の相反感情を解剖する

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 サブカルチャー評論家にしてマンガ原作者である大塚英志は、本書の「あとがき」でこういう。……江藤淳とは、人がサブカルチャーとしてしか生き得ない時代にあって、「サブカルチャーであること」とはいかなることなのかについて(メインカルチャーの側から)屈託を持ち続けた批評家である、と。そして大塚は第1章で、「母子分離」というすぐれて江藤淳的なモチーフを、「ぬいぐるみ」や「汚れた毛布」などの、幼児のお気に入りのもの、すなわちD・W・ウィニコットの提示した「移行対象」という概念を援用して分析する。「移行対象」とは、「現実を認識し受け容れる能力がない状態(母親と融合している状態)」から、外的世界を受け容れられる状態へと移行していく際の「中間領域」として両者を媒介するものである。大塚は、母からいかに子は分離して単独の個人になれるかという問いを(倫理的に)くりかえした江藤が、こうした「移行対象=ぬいぐるみ」と「国民国家、ないしは強力な家長・治者・適者(という<大きな物語>)」に引き裂かれた批評家であったと述べ、その点で江藤を、おたくとナショナリズムに分裂した大塚と同世代の批評家と比較する。しかし大塚は、江藤は彼らとは異なる、第三の形を選択しようとしたのであり、つまり彼は、「大きな物語」の不在から出発しつつ、「日本」や「国家」や「天皇」を、他者を欠いた仮想現実(文芸などの)としてのみ欲したのだと述べ、また彼の悲劇とは、いわばサブカル的グッズである「ぬいぐるみ」を抱いて「成熟」という命題をやり過ごすことをせずに、自らを「社会化」しようと欲し、にもかかわらず「私」を「世界」に全面的に委ねることをできなかった点にある、とする。

 さらに第2章で、「三島由紀夫のサブカルチャ—性」を論じる大塚の手つきも鮮やかだ。たとえば大塚は、キッチュな「洋館」である三島邸のあたえる感じを、ディズニーランドの建造物が奥に行くにしたがって寸法を小さくしていくことで遠近の感覚を過剰に演出してみせることからくる感覚に似ている、という。また、その断片としての調度や意匠が、歴史的脈絡もなく引用される、まさにポストモダン的な趣向は、増築を無秩序に重ねて肥大していったオウム真理教のサティアンを思わせるという。そして、三島は天皇制に、コピー(今上天皇)が同時にオリジナルでもあるシステムをみていたが、それはつまり、三島が、サブカルチャー(コピー)でしかない自分がオリジナルたりうることへの可能性をみていたことを、また「廃墟へのノスタルジア」に突き動かされて、江藤同様(?)「任意の絶対者」を欲していたことを示している、と指摘する。なかなか刺激的な考察である。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2002.01.25)

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