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  3. 安原顕さんのレビュー一覧

安原顕さんのレビュー一覧

投稿者:安原顕

398 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本鈴木宗男研究

2002/07/16 18:16

自民党議員はすべて鈴木宗男と知り、思わず吐いた

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書を読んで痛感するのは、辞職した加藤元幹事長、山崎現幹事長をはじめ、自民党代議士の全員が「鈴木宗男」とほとんど同種の人間ということだ。さらに絶望が深まるのは、結果としてこうした人間のクズらに血税と国政を委ねていることである。そして、日本の民度の低さは、血税の「おこぼれ」に預かろうと、彼ら自民党代議士に擦り寄るクズ国民や、それを暴かぬマスコミの存在である。また「右翼」とは、何となく「憂国の士」といったイメージを持つ人も多かろうが、鈴木宗男が中川一郎の秘書をしていた昭和四八年、中川一郎、渡辺美智雄、石原慎太郎らが右翼的な「青嵐会」を結成した(いまや、こ奴らの息子が世襲議員をしている)。ところが彼らは「憂国の士」どころか、あろうことか旧ソ連や韓国から政治資金をタカる「売国奴」だったのである(第二章〈ロシア・コネクション〉、第三章〈日韓利権コネクション〉に詳しい)。しかし、このことを知る国民、ぼくも含め、ほとんどいない。
 まあそれにしてもだ。本書を読み、鈴木宗男はクズ中のクズ、単なるヤクザということがよく分かる。他の自民党代議士同様、権力を濫用して私腹を肥やし、遂には国まで売った男だからだ。むろん外務省も同罪だが、この両者、いまなおパクられもせず、血税でのうのうと食っている。なぜ、このような信じられぬことが罷り通るのか。権力の番犬=マスコミは激しく告発せず、馬鹿国民も知ろうともせぬからだ。また野党も、この手のヤクザ議員を懲戒免職、永久追放する法律すら提出しない。同じ穴のムジナだからである。
 中川一郎は昭和五八年に変死、この死に鈴木宗男が大きく関与していた。しかし警察は例によって「首吊り自殺」と断定、何の取り調べもしていない(第八章〈中川一郎の「怪死」事件〉に詳しい)。
 この他、女、不動産、中川一郎の資金着服等々、凄まじい話の連続で、読み出したら止まらない。全国民は本書を読み、自民党に投票することだけは止めるべきだろう。むろん野党など不在だが、とにかく一度、全員落選させた方がいい。まあしかし、そんな奇跡はあり得ないだろう。国民が大馬鹿だからだ。

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紙の本リチャード・ブローティガン

2002/07/16 18:15

リチャードの秘話が少なく、ちょっと期待外れだった

4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 一九七〇年代の中期だろうか、ぼくはブローティガンに何度か会っている。
 場所は六本木の「ザ・クレードル」だった。
 ぼくが連れて行ったのか、彼が先に来ていたのか、初対面の時、村上龍もいた。ぼくはブローティガンのファンだったので、店のオーナー椎名たか子さんに紹介してもらい、少しだけ話をした。その時、「好きな作家は?」みたいなことを訊くと、「そういう質問はジャーナリストには答えない」と、妙なことを言った。自己紹介の折、「文芸ジャーナリストだ」と言ったかららしい。ぼくは「何とセコイ奴だ。作品とはまるで違うじゃねえか」と怒りかつ軽蔑もし、以来、何度か顔を合わせたが、口をきいたことはない。
 そんなある日、ブローティガンのファン、当時CBSソニーに勤務していた吉村さん(人妻)に、「新宿京王プラザに行けば、彼に会えるぜ」と教えた。
 すると、それからしばらくして彼女は夫と離婚、アメリカに渡ってブローティガンと結婚した(と本人が言っていた)。
 それから一年後だったろうか、彼女から電話があり、赤坂の寿司屋で会った。すでにブローティガンには注文が少なかったらしく、未発表の詩を文芸誌「海」に載せてくれないかと頼まれたが、「小説なら載せるが、詩はいらない」と断った。
 さらに何年後だったろう、一九八四年、ブローティガンは自殺する。旧友の椎名たか子さんに感想を訊ねたところ、「彼は泥酔すると、ルシアン・ルーレットの真似事をよくしていたから、間違って暴発したんじゃないの」と言っていた。いまでもぼくは、この椎名たか子説を信じている。
 本書は一九七五年、ひょんなことからブローティガンの処女作『アメリカの鱒釣り』(晶文社)を翻訳、その後・『西瓜糖の日々』(75年、河出書房新社)・『ホークライン家の怪物』(同年、晶文社)・『芝生の復讐』(76年、晶文社)・『ソンブレロ落下す』(同年、同)・『ビッグ・サーの南軍将軍』(同年、河出書房新社)・『バビロンを夢みて』(78年、新潮社)・『鳥の神殿』(同年、晶文社)・『東京モンタナ急行』(82年、同)など、彼の大半の小説を翻訳することになる藤本和子書き下ろしの伝記である。
 という訳だから、ぼくは訳者と著者はごく親しい関係、おそらく本書には、ブローティガンの知られざる秘話が満載されているだろうと、大いに覗き見趣味を刺激されもしたが、実際読んでみると、彼女と彼は、ほとんど付き合いはなく、第一章「生と死」は新聞雑誌、ブローティガンの一人娘への取材などから成り、二章から四章までは、主に作品解説、五章には「椎名たか子さんの回想」等々の文があり、ちょっと期待外れだった。
 椎名たか子の回想によれば、彼は京王プラザホテルの宿泊代三ヶ月分を彼女に立て替えさせていたので自殺はあり得ないと書いている。また、「ザ・クレードル」の支払いはむろんのこと、東京での飲み食いのすべては彼女が支払っていたようだ。また、当初は男女の仲としての付き合いを求めたらしいが、彼女が拒否し、姉弟の関係だったようだ。
 作家としての才能は認めるとしても、ぼくに言わせればリチャードは男としては最低だと思う。銭がないなら上野や浅草の安い木賃宿に泊まればいいし、彼にはその方がよく似合った。にもかかわらずガールフレンドにタカリ、揚げ句は京王プラザホテルの代金まで踏み倒すとは実にイヤな奴、乞食根性のスノッブではないか。俺の最も嫌いなタイプだ。
 近々、未発表の小説『不運な女』が、藤本和子訳で新潮社から出る予定らしいが、文は読むつもりでいる。

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紙の本定本木村伊兵衛

2002/04/16 22:15

未発表作を含む二六五点の秀作・傑作集

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 表の腰帯には「傑作、埋もれた名作、未発表作の厳選二六五点[定価で割ると、一枚わずかに五二円強!]を集成した決定写真集! 蘇る昭和の人と街」とあり、帯裏には「六大特徴」として、以下の惹句がある。
一、戦前・戦後の名作、傑作をすべて収録。
二、雑誌発表のまま眠っていた作品を発掘し、木村伊兵衛自身による写真選びを再現。
三、パリなど三度のヨーロッパ取材のカラー作品を収録。
四、戦前・戦後の未発表作品を収録。
五、ダブルトーン(二色刷り)による最新印刷で柔らかな「伊兵衛調」を再現。
六、新発見の事実多数を含む詳細な年譜とデータ。
 略歴についても、ごく簡単に紹介しておくと、 木村伊兵衛(一九〇一〜七四)は明治三四年、東京・下谷生まれ。子供の頃より玩具のカメラを手にし、成人してからは写真クラブに入って頭角を現す。
 一九三〇(昭和五)年、ライカを入手、花王石鹸の広告写真を撮ることでプロ・デビュー。以来、スナップ、ポートレート、ドキュメントなど多彩な分野で活躍。中でも「ライカによる文芸家肖像写真展」は話題を呼ぶ。戦後は「N夫人[中山正子]」「マダムS[佐藤美子]」など、女性の肖像写真でも数多くの名作を残し、「名人」とも言われた。
 彼はまた終生、東京のスナップショットを撮り続けた写真家でもあるが、それらの写真は貴重な「記録」にもなっている。生前、纏めらることのなかった「秋田」も、本写真集の見どころの一つだろう。
 本書には、一九三二年から七三年までの作品が載っているが、一九三六年の沖縄那覇市。一九三七〜四〇年当時の幸田露伴、志賀直哉、泉鏡花と里見〓(弓偏に享)、横山大観、鏑木清方、一九五〇年の谷崎潤一郎、五四年の永井荷風らのポートレート。
 一九五五年のモノクロームによるパリの写真。そして一六九ページから一九〇ページまで、パリ他の「カラー写真」も挿入され、われわれはほっと心なごんだりする。
 そして、これらの写真を見ての結論は、またしても日本と欧州との文化の差だった。
 木村伊兵衛は一九四五年の東京大空襲で日暮里の自宅が全焼、ネガもプリントもすべて焼失する。一九五〇年代の湯島や西片町、浅草など下町の写真を見ていると、まだまだ日本独特の雰囲気が伺えるので、戦前の東京の写真が焼失したのは、惜しまれてならない。
 それにしてもパリと日本の差はどうだろう。巷に溢れる色彩感覚、人々服装の多彩さ、何よりも表情が違う。
 すでに敗戦から六〇年もの時が流れ、欧米に出かける日本人の数も年々増え続けているが、日本人の色彩感覚は上がるどころか下がる一方である。
 東南アジアには行ったことはないが、東京をはじめ、首都圏に林立する膨大な数のネオン群、また電車やタクシーなど、すべての空間にも薄汚い広告が氾濫、さらにはパチンコ店をはじめ、街に氾濫する騒音を誰一人として「汚い! うるさい!」と感じないのはなぜなのか。
 ぼくは欧米崇拝者ではないが、パリには日本のようなネオンも広告も皆無、音楽も流れてはいない。むろん、そのフランスとて核を保有、米国の湾岸戦争やアフガンへの報復戦争については日本同様「yes」である。それでもだ、まだまだ良いところは山のようにある。
 日本は政官業ともに腐り切り、経済は破綻したが変革の兆すら見えず、日本人はいまなお、政府が何とかするだろうと高を括っているのだ。

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紙の本ペニスの文化史

2001/10/02 22:17

ここでは「話のネタ」になりそうな逸話を幾つか紹介しておこう

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 作品社とは実に不思議な出版社だ。長谷川宏新訳/ヘーゲル『精神現象学』(11刷)、『法哲学講義』(3刷)、アドルノ『否定弁証法』(4刷)などを出す一方で、ヴィガレロ『強姦の歴史』、フェクサス『うんち大全』、ロミ他『おなら大全』、ロミ『悪食大全』といった本も盛んに出すからだ。本書は、その作品社の新刊である。その前の石川弘義『マスターベーションの歴史』があまりの愚書だったので一抹の不安はあったが、こちらはそこそこ楽しめた。内容は「その働きの、すこやかなる時」「すこやかならざる時」「サイズにまつわる歴史」「その装飾品と形態」「人為的変形の歴史」「精液の文化史」「奇妙なあるいは異様なる習慣」などだが、ここでは「話のネタ」になりそうな逸話を幾つか紹介しておこう。「マスターベーション masturbation」の語源には定説がなくマヌスmanus (手)とスタペアsturpare(穢す)から、あるいはマスmas (男性生殖器)とトゥルバティオturbatio(興奮)からきたとの説があるようだ。そしてある学者は、「マスターベーション」を最初に仏語に採り入れたのはモンテーニュ『随想集』(1576)だと書いている。言うまでもなくキリスト教は生殖以外の性行為、つまり快楽のためのセックスは厳禁ゆえ、精液を外に撒き散らすなど、もってのほかだが、淫らな夢を見ない「夢精」は許容しているらしい。また「コンドーム」の歴史は古く、紀元前14世紀エジプトに記録があり、魚の膀胱が使われていた。古代ローマ人は山羊の膀胱、盲腸、豚の腸などを使用していた。フランスでは、中世以前は避妊具は自由に売られていたが、中世以後「悪魔の袋」として売買禁止となり、違反した者は火炙りのケースもあった。コンドームが性病防止として使われ始めたのは16世紀、イタリア人医師が原案を考えた。梅毒を防ぐためである。煎じた薬草液に浸した麻布を細い紐でペニスの根元に結びつけ、潤滑油として上からオリーブ油を塗り、使用後は洗って再利用した。梅毒はイタリアではフランス病、フランスではナポリ病と呼ばれていた。梅毒防止の保護具を密かにフランスに持ち込ませたのはアンリ二世の妃、カトリーヌ・メディシスだった。かくして保護具は、18世紀までにヨーロッパ全域に広がる。「コンドーム」とはラテン語で「隠す・保護する」のコンデレcondere 、動物の腸で出来た麦の保護用に使った容器、ペルシャ語の「ケンドゥ」kenduまたは「コンドゥ」konduが語源と二説ある。生ゴムに硫黄を加え、より弾力性を高める製法を発明したのはアメリカ人、チャールズ・グッドイヤーで、1841年のことだった。

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紙の本西洋美術の歴史

2001/10/02 22:16

世界12か国以上で翻訳され、ベストセラーとの話、大いに頷けた

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、1982年に没したNY大学美術史学科、同大学院美術研究所教授ジャンソンの代表作を、令息が増補した4版(92年)の翻訳である。ざっと通読して、世界12か国以上で翻訳され、ベストセラーとの話、大いに頷けた。目次は「古代世界」「中世」「ルネサンス・マニエリスム・バロック」「近代世界」である。例えばぼくが好きな「北方ルネサンス」のブリューゲル(父。1525/30〜69)の項目を開くと、以下のような解説がある。端折って引くと、「ネーデルランドの画家の中で唯一の天才。風景と農民生活及び道徳的寓意の世界を探求した。生涯をアントウェルペンとブリュッセルで送ったが、生地はスヘルトーヘンボスの近くだったとの説もある。ヒエロムニス・ボスの作品から多大な影響を受けたが、両者の画家、謎めいた部分も多い。ブリューゲルの宗教的信条や政治的姿勢も不明である。彼は高い教養の持主で、ハプスブルグ家の援助も受けていた。彼は不思議なことに教会のための仕事はせず、宗教的主題も奇妙で曖昧な方法で処理している。一例を挙げれば、彼の最後の作品の一つ『盲人を導く盲人』(カラーの図版あり)などがそれで、彼がいかに宗教的、政治的狂信から遠い画家だったかがよく分かる。この作品の典拠は福音書(マタイ伝15章12-19 節)で、キリストはパリサイ人について語り、「もし盲人が盲人を導くならば、二人とも穴に落ちるだろう」と述べている。人間の愚かさについてのこの比喩、人文主義者の著作にもしばしば現われもする。また、イタリア美術に関するブリューゲルの態度もはっきりとはしない。彼は1552年〜53年にかけて南ヨーロッパを旅し、ローマ、ナポリ、メッシーナ海峡を訪れたが、他の北方人らが称賛した古代の著名な建造物には興味を示さず、もっぱら風景描写、中でもアルプスの景観をデッサンしている。おそらく彼はヴェネツィア派の風景画、とりわけその人物と風景のアンサンブル、前景から後景への配置に影響を受けたのではないか[例として著者はジョルジョーネ『嵐 テンペスタ』(1505年頃)と、ティツィアーノ『酒神祭 バッカーナーリア』(1518年頃)を挙げている]。ブリューゲルの画材にしばしば描かれる「季節に応じた人間の営みは、宇宙の鼓動を刻む年々歳々の生と再生の荘厳な循環の中にあっては付随的なものでしかない」。こんな風な紹介だと、何やら「こ難しそうな美術史」との印象を与えかねぬが、カラーの図版が豊富で、それらの絵を見ているだけでも実に楽しい1冊なのだ。3800円も廉価。一家に一冊はむろんだが、全図書館も、是非購入して欲しい。最後にイチャモンを一言付け加えると、文章を引き写していて分かったのだが、訳文が逐語訳で生硬に過ぎる。ぼくは、リーダブルに書き直しながら引用したが、ちょっと残念だ。編集者は、きちんとチェックして欲しかった。

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紙の本日本思想史辞典

2001/08/31 22:15

参考資料も古い文献のみというのはいささか残念

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 右翼小泉は8月13日、靖国神社を参拝した。靖国神社については何度も書いたので、ここでは触れぬが、本辞典を借りて「神道」について簡単に紹介しておこう。冒頭に「日本固有の神々を崇拝する信仰名。神社神道、皇室神道、教派神道(明治政府の宗教政策により、天理教、金光教など13派が別派独立を許された)などの総称。時にはそれら諸神道の発生基盤、神社神道のみ、神社神道と皇室神道の範囲を指す場合もあり、さらには、上記諸神道に民俗的な信仰を加え、広く捉えることもある」とあった。元々は稲作文化の伝来・普及とともに神々の多様化と集約化が起こり、神々にまつわる神話の形成及び発展、さらには相互間の神話の接触、影響、淘汰等々の結果、新穀感謝の祭りとしての「新嘗祭(にいなめのまつり)」、その年の豊作を祈念する「祈年祭(としごいのまつり)」を中心とする農耕祭祀として一応の成立をみた。但し、長野県諏訪大社の「御頭祭(ごとうさい)」では鹿の首から上だけ、宮崎県の銀鏡(しろみ)神社の「米良(めら)神楽」では、串刺しにして焼いた豬の肉が供せられたりと、狩猟生活時代の「神」への供物の一端が伝えられてもいる。神道の教義は、自然と神々と人間は同じハラ(同胞)から生まれた一体のもの、従って山川草木同様、人間も神々から生まれたとの観念から発し、それが万物自然は神々であるとの八百万神(やおよろずのかみ)信仰へと発展、人間は八百万神によって生かされてきたと考え、そうした神々への感謝を捧げて生きるべきと解されるようになる。その後、大陸より儒教、道教、仏教などが伝来、それらの宗教的特質の影響を受けつつ今日の神道が形成されたが、他の宗教との大きな違いは「教典」がないことだ。ここまでは、ごく一般的な復習だが、取り上げたいのは靖国神社とも関わりのある「神道国教化」である。明治維新の薩長のイモ侍らによる明治新政府は、まず近世までの神仏混淆の宗教秩序を排し、天皇や皇室と深く関わる日本の神々への崇拝を中心とした「新しい宗教秩序」を国策として推進、1868年(明治元年)3月13日、「祭政一致の制度」を掲げて神祇官を復興、同28日には太政官から神仏判然令が発布され、「廃仏毀釈」との蛮行までした。仏教の禁止及び仏像の破壊である。つい最近も、宗教の違いから古い石像を破壊した土人らが世界中の顰蹙を買ったが、それと同様のことを、日本も1871年頃まで盛んにやっていたのだ。さらにその上で大日本帝国憲法上、天皇は「万世一系」との神話の根拠と位置づけ、1890年10月30日の『教育勅語』では、天壌無窮の神勅による正統性が記されることにもなった。明治天皇の命により、戊辰戦争(官軍)の戦死者を祀るべく創設された靖国神社=神道への参拝とは、こうした問題をも含まれることに、国民の代表たる小泉は熟考すべきなのだ。この『辞典』『日本の神仏の辞典』と比べると食い足りぬこと、参考資料も古い文献のみというのはいささか残念だった。

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最も有名なフレーズ「美代子、石を投げなさい」うーん、カッコいい!

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 ぼくの好きな現代詩人は、年齢順に田村隆一、飯島耕一、谷川俊太郎。同世代では吉増剛造。中堅では荒川洋治。若手では片岡直子である。その一人、荒川洋治の『全詩集』が出た。彼は1971年(22歳の時)、第一詩集『娼婦論』でデビュー。潮流社で働きながら、自宅で個人出版、紫陽社も始め、新人の第一詩集を中心に、現在まで260 点も刊行しているというから偉い。詩集『水駅』(75年)で第26回H氏賞を受賞。以来、詩集だけでも12冊、エッセイ集も数多い人気詩人である。いつからだったか、「現代詩作家」と名乗り始めてもいる。中でもぼくは、これまでの集大成、新しい試みも大胆に取り入れた二冊の詩集『渡世』(97年、筑摩書房。高見順賞)、『空中の茱萸』(99年、思潮社。読売文学賞)の二冊を愛読している。本『全集』の「あとがき」で荒川洋治は、「二〇代の終わりごろに思った。せっかく詩を書くのだ。これまでに見たことも聞いたこともない詩をつくってみようと。そのためにはまず自分の詩が変わることだ。詩集を出すたび、一冊ごとに、詩のすがた・かたちを変えた。その計画だけでぼくの朝夕の心はみたされてきたといってよい。/はっきりと見える詩が、書きたかったのだ。でも急激に変わるときだけではなく、ゆるやかに変わる時も言葉というものが見えて楽しかった」と書いている。彼にはまた、数多くの「ヒット・フレーズ」もある。「口語の時代はさむい」、<戦後詩が残したものは技術だけである>と書いて物議をかもした「技術の威嚇」、<荒川洋治の詩はすごいと言われているが、すごい部分を傍線で示すことにした>と断り書きし、詩集『ヒロイン』(86年、花神社)の中で、実際に「傍線」付きの詩を発表、後に「ボーセンカもの」と呼ばれたものなどである。最も有名なフレーズは92年、雑誌『新潮』に発表した詩で、当時の宮沢賢治ブームを痛烈に批判した「美代子、石を投げなさい」(『坑夫トッチルは電気をつけた』所収)だ。懐かしいので数節、引いておきたい。<宮沢賢治論が/ばかに多い 腐るほど多い/研究には都合がいい それだけのことだ/その研究も/子供と母親をあつめる学会も 名前にもたれ 完結した 人の威をもって/自分を誇り 固めることの習性は/日本各地で/傷と痛みのない美学をうんでいる/詩人とは/現実であり美学ではない/宮沢賢治は世界を作り世間を作れなかった/いまとは反対の人である……」「詩人を語るならネクタイをはずせ 美学をはずせ 椅子から落ちよ/(……)詩を語るには詩を現実の自分の手で 示すしかない/そのてきびしい照合にしか詩の鬼面は現われないのだ/かの詩人には/この世の夜空はるかに遠く/滿天の星がかがやく水薬のように美しく/だがそこにいま/あるはずの/石がない/「美代子、あれは詩人だ。/石を投げなさい」>。うーん、カッコいい! 若い詩人と思っていたら、荒川洋治もすでに52歳とは驚きだ。第二期荒川洋治の、さらなる発展を期待したい。

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『埴谷雄高全集』が完結

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 『埴谷雄高全集』が完結した。ぼくは彼のファンゆえ、雑誌や単行本で、その大半は読んでおり、中にはサイン本まであるが、彼に限らず、置き場所がないため、悔しいが、みな売り払らい、手元には1冊もない。ということもあって『全集』を買い揃えた訳だが、もう一つには、本の売れぬこの時期、こうした『全集』を出す講談社に敬意を表したのだ。白痴文盲国家日本では、埴谷雄高を知る人は少なく、今後は、完璧に忘れ去られるだろう。それでもいっこうに構わぬし、埴谷雄高自身、残ることなど望んではいなかったろうが、いずれにしても講談社は偉い! 何度か書いたことだが、ぼくが初めて真善美社版『死霊』を読んだのは1960年代初頭のこと。大学の友人中川道弘(現・上野文庫店主)が早稲田の古本屋文献堂書店で買い、1日だけ貸してくれたからだ。ぼくの住む三畳一間の家賃が三千円時代、この『死霊』、三千八百円もした。という訳で、一週間以内に持ってくれば、三千円で引き取ると言われ、二人とも大急ぎで読んだのである。コピーなどない時代、またあっても、大きく広げると壊れそうな造りの本だった。その後、誤植だらけの近代生活社版を買ったが、これまた銭がなく、メシ代に化けた。『虚空』(60年)、『不合理ゆえに吾信ず』(再刊・61年、いずれも現代思潮社)、未来社から刊行の始まった一連のエッセイ・評論・対談シリーズの第一巻目『壕渠(ほりわり)と風車』(57年)などは、すべて万引きして読んだ。いつだったか埴谷雄高自身に訊ねたところ、この『壕渠と風車』(380 円)、1000部売り切るのに6年もかかったのだそうだ。次に読んだのは、何十年ぶりかで連載が再開されたことを記念に5章までを纏めた『死霊』(76年)が「日本文学大賞受賞」を受賞した時である。この時は、江戸川乱歩ブームとあいまったかたちで、『死霊』ブームまで起こり、馬鹿姐ちゃんまでが黒くてぶ厚い『死霊』を小脇に抱えたりと、ベストセラー入りまでした。その後は1章〜3章までと、章ごとに括った『死霊』(81年、全9章まで)も出版され、他にも『埴谷雄高作品集』(全15巻、河出書房新社)も出た。私小説の伝統が根強い日本文壇では、彼のような観念哲学小説は毛嫌いされ、また本人も生前はむろんのこと、「死後の文庫化もならぬ」と遺言したこともあり、結局は、一部の読者にしか読まれぬままである。残念でならない。彼の優れた文体について言及する者も皆無に近いが、第一次戦後派作家、野間宏、梅崎春生、大岡昇平、武田泰淳、中村真一郎、椎名麟三らの中に置いても、埴谷雄高は文体の点でもダントツ一位と思うが、そんな指摘、聞いたことがない。それどころか蓮實重彦、金井美恵子、三浦雅士などは、「『死霊』はクズ小説だ。あんなもん、俺にも書ける」と、読んでもいない癖に、吐き捨てるように言っていたが、まあこれが埴谷雄高評の最大公約数と思う。ぼくが『海』でロング・インタヴューを企画した折(76年、単行本『思索的渇望の世界』)、馬鹿編者長は「作品が少ないから」との理由で企画に難色を示しもした。『死霊』は言うまでもなく、昭和24年の『近代文学』に4章まで連載されたが、本書別巻には、その『近代文学』4章の復刻まで付いている。古臭さい感じを出すため2色刷というのも心憎い。まだ未購入の図書館があったら、ただちに全巻買って欲しい。売り切れたら二度と手には入らぬからだ。

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紙の本妄想老人日記

2001/02/28 15:15

1970年代の野坂昭如の「天才作家」ぶりに感嘆したが、昨今の脳軟化爺野坂には何の興味もない

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 『野坂昭如コレクション』(全3巻・国書刊行会)が完結した。すべてではないが再読し、改めて1970年代の野坂昭如の「天才作家」ぶりに感嘆したが、昨今の脳軟化爺野坂には何の興味もない。とはいえ本書は、書名にある「妄想」の二文字に釣られ、読んでみたが、やっぱりクソつまらなかった。ここで言う「妄想」とは、以下のようなレヴェルのものだからだ。3月12日の文に、こんな記述がある。<特殊個室風呂は二ケ月ぶりか、かつては何はともあれ風呂へ入ったものだが、当節、部屋へ籠るとたちまちお互い全裸、うつぶせにさせられ、女、背中に舌を這いずらせる。五体不潔、カイカイもある。睾丸周辺インキンの薬、サルチル酸は毒じゃないだろうが気がひけて、入浴所望。この店のシステムは時間百十分、何度抱いてもいい、飲み物フリー。来るとそのまま一発ヤッテ、その後泡踊り、フェラチオ、二度目の仕儀が定法らしい。酔っていたせいもあるが、終始ままならず、女が「ごめんなさい、もう時間があんまり」というから、つて自分の手でしごくと、あっさり半立ちのまま射精、性的右手依存症>。
 野坂は1930年生まれだから、69歳、9歳年下のぼくは還暦になった年だ。この年になってくると、肉体精神ともに個人差が激しいが、ぼく自身、雑誌『ステレオ』に「乱聴日記」を連載している関係上、日記を付け始めたので、ワープロのハードディスクから、「3月12日」ではないが、同年「3月16日」の「日記」を呼び出してみると、下記のような日だったようだ。「午前9時前、『ステレオ』誌の田中モトヒロ、「サエク」のオーディオ・ケーブルを送ってくれる。早速、プリアンプと繋げる。試しに以前繋げていたケーブルをパワーアンプに繋げると、クリアーさがまるで違う。これは凄い! FAXで礼を。モトヒロより電話来る。マガジンハウスより『決定版「編集者」の仕事』の見本、8冊届く。お礼のFAX。みすず書房にFAXして『グレン・グールド書簡』『レイモン・アロン回想録』をタカりたいと頼む。尾方氏よりokとの電話。同じく朝日新聞の黒須氏に言って『エリア・カザン自伝』をタカる。『東京新聞』より電話、自著について4枚書けとのこと。『FMfan』の小林俊彦編集長より電話、連載の打ち合わせのため会うことに。徳間ジャパンの福井さんよライナー・ノートのゲラ、FAX。午後、渋谷のディスク・ユニオンでCDを6枚、タワー・レコードで4枚買って、NHK「ラジオ深夜便」の慰労会へ。これは妄想ではない。

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「本文」より「あとがき」の方が面白い本。「あとがき」を読み、あとは個々人が考える本のような気がする

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 世の中には時折、「本文」より「あとがき」の方が面白い本がある。この本も、数少ないそうした一冊である。訳者旦敬介の「あとがき」、実に要領よく纏められているからだ。人はなぜ「悪」を行なうのか。旦敬介はその理由に付き、本書は生物学的観点から解明したワトソンの野心作と書く。人は「悪」を行なうが、自然界に「悪」はないのか。ワトソンは、さまざまな動物の生態を挙げつつ、そんなことはないと例証する。人間世界は、あまりに暗澹たる出来事が多いため、自然界には「悪意」などなく、ハートウォーミングな理想世界と考えがちだが、実際には動物界も人間界同様、「強姦、輪姦、セクハラ、苛め、殺戮、嘘、欺瞞、詐欺、情報操作、謀略、権力闘争、自殺、子殺し、兄弟殺し、嬰児殺し、責任逃れ、富と資源の独占、化学兵器、便乗主義、日和見主義」等々、何でもあるようだ。そして幾つかの症例、とても興味深く読んだ。それでは動物(=人間)の何が、こうした「悪」を行なわせるのか。「個体の利害を超えたもの、個体よりさらに貪欲かつ悪辣な遺伝子のなせるわざ」」、つまり「遺伝子は徹頭徹尾、利己的なもの」とするドーキンスの『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店)に拠った考えを展開する。「遺伝子」とは、?「部外者はやっつけろ」、?「身内には親切にしろ」、?「己の利益のためならどんな手段を取ってもかまわない」に則って機能するものなのだ。そしてワトソンは、「この三つの遺伝子的原理が野放しに実践される場所が自然界であり、遺伝子とはわれわれの敵、われわれは遺伝子に逆らうことを学ばねばならぬ」と明言する。人口は無限に増え続けるが資源は有限である。その地球上にあって、もし遺伝子の命令にこのまま従い続ければ、今後も人間は果てしない殺戮を繰り返し、近年の民族紛争(例えばアフリカ、ルワンダでの50万人の虐殺など)も、その予兆の一つだと指摘もする。「遺伝子」とは「みずからの生き残りの可能性を極大化することを目指して指示を出すもの」だが、すでに「言葉=伝達手段」を手にて久しい人類は、「遺伝子」の進化よりはるかに高速度で自己変革をし得る存在であり、生活環境を変えられるもするため、もはや「遺伝子」の三原理などナンセンスとも言う。最後に訳者旦敬介は、偏狭な遺伝子原理と戦うための指針が本書の「第六章」にあると指摘しているが、ぼくにはこの「六章」もピンとこなかった。この本は「あとがき」を読み、あとは個々人が考える本のような気がする。

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紙の本ルイ・ジュヴェとその時代

2000/11/07 00:15

「すさまじい労作!」で感心

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 A版・700 頁の『評伝』、やっと出た。まずは目出度い! なぜこんなことを書くかと言えば、ぼくが学研の契約編集プロデューサーをしていた1990年代中期、あるパーティで久し振りに著書に会った。その折、「いまルイ・ジュヴェの評伝を書いているんだけど、河出書房新社の担当者が辞めちゃって、企画が宙に浮いちゃったの。興味ある?」と訊く。ぼくは「ある、ある」と答え、それから間もなくお茶の水、山の上ホテルで会って打ち合わせをし、すでに書き上がっていた100 枚ほどの原稿を読み、正式に原稿依頼もした。そんなある日、「ジュヴェのヴィデオで、どうしても見たいものがあるんだけど、フランスのテープだから写らないんだよ」との電話。ぼくは会社に交渉、世界中のヴィデオを自動変換して見ることのできる「デッキ」を買って、贈呈した。たしか8万円くらいした筈だ。そうこうしている内、ぼくは学研をクビになりフリーになった。3年も昔の話である。しかし、3年経ってもなお、『ルイ・ジュヴェ』、出る気配がない(「あとがき」によれば執筆に10年!かかったらしい)。ぼくは「まったくグズなんだから」と多少怒りもしていたら、突然、作品社から刊行された。「あとがき」に、ぼくの名まであるが、なぜか本は贈られなかった。ルイ・ジュヴェ(1887〜1951)はフランスの著名な役者だが、誰も知らないだろうから「略年譜」を書いておこう。ルイは若い頃、ヴュー・コロンビエ座に出演、ジャック・コポーとも知り合い、長年一緒に仕事をしていたが1922年頃、コポーに冷遇されたことで怒り、仲たがいして劇団を辞め、2年後、自身の劇団を結成する。1930年代からは映画出演も多くなり、『舞踏会の手帖』(37年)、『北ホテル』『旅路の果て』(38年)等々、いまなお名画と言われる作品に出演。41年、カナダから公演依頼の折、アメリカ政府がヴィザ発給を拒否したため不能に。それから10年後の51年、カナダやアメリカ巡業中、狭心症で倒れる。「ジュヴェは時代の激動のなかで、いつも困難な道を選び、ときに挫折し、ときには失意にめげず、ひたすら誠実に生きようとした芸術家だ。私はそういう人間の姿を描きたかった」と「著者あとがき」にあるが、「すさまじい労作!」で感心した。 

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紙の本アトラス 迷宮のボルヘス

2000/11/07 00:15

ボルヘスも入った風景写真もふんだんに入った楽しい1冊

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  「ボルヘス・コレクション」(全7巻。その内6巻が本邦初訳)が出ると知り、いまからワクワクしているが、その「おまけ」と言っては悪いが、ひょこっと『アトラス』まで出た。本書は1984年に刊行された、一種の旅行記で、ボルヘスも入った風景写真もふんだんに入った楽しい1冊である。ボルヘスは1955年以来、半世紀以上にわたって次第に視力を失ったが、その彼を支えたのは母レオノルだった。そして母の死後は、秘書であり、最晩年は伴侶にもなったマリア・コダーマが補佐した。これらの写真も彼女が撮影したもののようだ。本書の最後に、日本滞在中の文章「作品による救済について」も載っている。「ある秋に、時と老いる季節の一つに、それが初めてではないけれども、神道の神々が出雲に集まった。その数は八百万に上ったそうだが、わたしは非常に内気な男なので、そんなに多くの神様に囲まれたら途方に暮れてしまいそうだ。(……)悲しみに暮れていたにもかかわらず、神々はそれを表に出さなかった。神々の顔が解き明かされることのない<漢字>であったからだ。神々はある丘の緑豊かな頂上に車座になった。天空や岩、あるいは一片の雲から、神々は人間たちを見守ってきた。(……)その神が十七音節を唱えた。それは未知の言語で、わたしたちには理解できなかった。最年長の神様が宣告した。『人間たちを生き長らえさせよう』/こうして<俳句>のおかげで人類は救われた」(1984年4月24日、出雲にて)。理解しにくい部分もあるが、他の文章はいかにもボルヘスらしいもので大いに楽しめた。現代思潮社は、1960年代に学生だった人間にとって強烈なインパクトのある出版社だった。新刊書の大半がフランスの最先端の文学書や哲学書、他に、『シュールレアリスム宣言集』をはじめシュルレアリスム関連書、さらには埴谷雄高『虚空』『不合理ゆえに吾信ず』、吉本隆明、谷川雁、黒田寛一、唐十郎『腰巻お仙』らの本もガシガシ出してくれたからだ。その後の「現代思潮社」は久保覚(故人)、せりか書房を立ち上げた佐伯治の名編集者が辞めたことで、長い間開店休業会社だったが、1999年1月、鈴木創士をブレインとし、「エートル叢書」を立ち上げ、『シュトックハウゼン音楽論集』を手はじめに、3か月に一度のペースで、新刊を出し始めた。大いに頑張って欲しい。

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「癒し」と「超能力」の世界だが、作者の「善意」に打たれてしまう

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「よしもとばなな」に改名した第一弾。
 本書は五部作の予定らしいが、「その一」だけでも、とりあえずは完結している。テーマは、『キッチン』から一貫しており、「最高のものを探し続けなさい。そして謙虚でいなさい。憎しみはあなたの細胞まで傷つけてしまうから」である。つまり魂の問題、若者らが生き方を模索する小説なのだ。楓がフィレンツェに行くことになり、主人公の「私」(雫石)は彼と半年間、あるいはそれ以上離れることを思い、悄然としている。雫石とは、祖父がサボテンの名から取ったものである。「私」はつい最近まで、麓から歩いて二時間、車の通れる道などない田舎の小さな山小屋で、祖母と二人で暮らし、彼女の仕事を手伝っていた。「私」には両親はなく、また若くて美人の祖母の過去についても、ほとんど何も知らない。祖母は薬草茶を作る名手、「私」はその助手をしていた。祖母の薬草に抜群の効能があることを知った病人たちが、全国から薬草茶を買いに訪れた。祖母は、どんなに手間ひまかけたお茶でも一律二千円しか取らなかった。音楽好きの祖母は、山小屋にステレオ、テレビやビデオも置き、インターネットも繋がっていた。二年前(18歳の時)、山の開発で自然が破壊され、二人は山を降りることに。祖母はメル友で知り合った男(マルタ島在住、62歳の日本人。五年前に妻を亡くし、英会話学校を経営している)と一緒に住むと言い、「私」は東京のアパートで一人暮らしを始め、町はずれに住む若い占い師のアシスタントになる。その占い師が楓だったのだ。彼には一種の超能力があり、その人の所持品を持つだけで、言い当てることができた。ここから二人を中心にした物語が始まる。楓にはパトロンの片岡がおり、彼は半年はフィレンツェに住み、日本とイタリアで占い師の代理店をしていた。ある時、「私」は彼らがゲイと知る。「私」は「私」で、「世でいうところの不倫をしていた」……。
 ぼくは「癒し」や「超能力」をモチーフにした小説、基本的には好きではない。『王国』をはじめ、ばななの他の作品も概ねそうだ。こうして粗筋を紹介していると荒唐無稽、他愛のない話にも思えてくる。しかしなぜか読んでしまうのだ。おそらくそれは作者自身の、「人の善意」を信じよう/信じたいと願うパワーに魅かれるからなのかもしれない。

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紙の本言葉の力を贈りたい

2002/10/31 22:15

洞察力に富んだ著者ならではの詩人論・詩論

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 この本の第一部「言葉の力、詩の力」と、第二部「詩の現在」はNHKTV『人間講座』同『未来潮流』である。第一部の「目次」を端折って記せば、井伏鱒二と辻征夫、山之口獏と金子光晴、藤井貞和と吉岡実などだが、ここでは谷川俊太郎論について紹介しておこう。谷川俊太郎は詩だけで生活する稀有なる現代詩人である。その理由は、彼が〈現代詩も世間に受けなければダメ〉との考えから詩を書いているからだ。それも、世間のオーダーに応えたい! オーダー以上のものを出して世間を驚かせたいとも考える欲張りな詩人なのだ。とはいえ、谷川俊太郎の「受けたい」気持は、「受ければいい」とは違う。世知辛い世間のオーダーに応えつつ、〈詩としての気品やコトバの緊張感、実験性をきっちり出して〉もいるからだ。また谷川俊太郎は、現実感やリアリティで詩を書かない。現実を感情で受けとめるのではなく「概念」で受けとめる詩人だからだ。「物事を概念として捉えるとは、昆虫採集のように物事をピンで押さえ込むこと、物事をストップさせることである。谷川俊太郎の詩は難解ではないが、さりとて庶民にすぐ分かるような詩でもない。彼の詩の言葉はやさしいので、何となく分かった気になるが、実はその先がある」とし、著者は「ゆうぐれ」(『よしなしうた』91年、所収)を引く。「ゆうがた うちへかえると/とぐちで おやじがしんでいた/めずらしいこともあるものだ とおもって/おやじをまたいで なかへはいると/だいどころで おふくろがしんでいた/ガスレンジのひが つけっぱなしだったから/ひをけして シチューのあじみをした/このちょうしでは/あにきもしんでいるに ちがいない/あんのじょう ふろばであにきはしんでいた/となりのこどもが/うそなきをしいている/そばやのバイクの ブレーキがきしむ/いつもとかわらぬ ゆうぐれである/あしたが なんのやくにもたたぬような」。
 人が殺されていても日常は淡々と過ぎていく。人が殺されても時間は特別速く回ることはなく、いつもと同じ。人が殺されていてもガスの火は止めなくてはならず、隣の子は、昨日と同じように嘘泣きをし、外を通るソバ屋のバイクは相変わらずブレーキが軋む。
 平易な文で綴られてはいるが、洞察力に富んだ詩人論・詩論で感心した。

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紙の本贋日記

2002/10/31 22:15

幼少期から祖父梢風の死までを綴った半生期

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「三田文學」に連載した自伝である。ぼくは文芸誌「海」(中央公論社)で、彼と同僚だったので、本書に出てくる幾つかのエピソード、何度か聞いたことがある。また、名著『鎌倉のおばさん』でも教えられた。しかし本書で、「祖父村松梢風の死」までの通史を読むと、また異なった感慨がある。
 中央公論時代の彼は、「育ちのいいお坊っちゃん」との印象が濃く、「おめえは苦労を知らねえ、お坊っちゃんだからなあ」と批判めいたことを言うと、彼はムッとして「苦労すりゃあ、いいってもんでもないだろう」と答えていた。
 ところが『贋日記』を読むと、いわゆる苦労とは多少ニュアンスは違うが、順風満帆な少年期ではなかった。父友吾が上海で病没(腸チフス。27歳)。友視は母(20歳)の腹の中にいた。友吾を上海に行かせた祖父は責任を感じ、友視が生まれるとすぐ、母を再婚させ、友視を戸籍上、祖父の末っ子とした。祖父は著名な作家だが女たらし、妾(絹江=鎌倉のおばさん)と一緒に鎌倉に住み(叔父たちもここで暮らしたり、しばしば出入りもしていた)、友視は静岡県清水の梢風の本妻(祖母)宅で生活していた。その上、15歳の時、母親は生きており、友視の知人だと教えられる。大学からは東京での下宿生活を始め、夏休みに帰省すると、「ここはお前の帰ってくるところではない」と祖母に言われたりもする。
 ぼく自身、六歳の時、父が病没(38歳)、母はぼくと妹を連れて実家に出戻った。その家には、母の兄(次兄)の嫁と孫(内孫)も同居しており、われわれ兄妹は、何かと言えば「外孫」として差別的扱いを受けた。そういうこともあってか、ぼくは気の弱い子だったが、高校の頃からだろうか、このままでは生きていけぬと本能的に感じ、強気に転じ、今日に至っている。敗戦後に幼少期を過ごしたわれわれ世代(昭和14年、15年生まれ)はみな、何らかの意味で苦労を強いられて育っている者が多い。
 ぼく知る限り、編集者時代の村松友視は「CF」に出るなど信じられぬシャイな男だったが、その後、性格改善をしたのか、今日のようなキャラクターになった。二人とも還暦を過ぎてしまったが、彼は病知らず、超丈夫なので驚いている。

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