佐々木力さんのレビュー一覧
投稿者:佐々木力
オイラーの無限解析
2001/07/12 18:15
熟読されるべき18世紀の「数学者の王者」による名著の邦訳
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
オイラーといえば、18世紀の「数学者の王者」と呼ばれる近代数学の巨匠である。彼の数学書の傑作は、見方によって2種存在すると考えられる。ひとつは専門家向きの『極大ないし極小の性質をもつ曲線を見いだす方法』(1744年)であり、もうひとつは『無限解析序論』全2巻(1748年)であろう。前者は、通常の微分積分学で扱う極大・極小問題に関する書ではなく、曲線の極大・極小を扱う、今日の関数解析学の一分野となる変分法の画期的な里程標になった名著である。後者は、ライプニッツ式の微分積分学への高級な入門書にほかならない。
本書は、前述の『無限解析序論』第1巻の邦訳である。原著はラテン語で書かれており、日本人にはなかなか取り組みにくい著書であったが、その名著を邦訳してわが国の読書界に送った訳者の功績はきわめて大きい。数学の教育・研究にいそしむ者にはありがたい贈り物となろう。
オイラーは、16世紀末からヴィエトとデカルトによって本格的な上昇気流に乗り始め、さらにニュートンとライプニッツによって飛躍的な一大体系へと高められた代数解析を整頓し、19世紀のガウスへと繋げた枢要な数学者である。ちょうど近代的啓蒙主義の頂点の時代に生きた数学者であったこともあって、きわめて幸福な数学者であったと特徴づけることができるに相違ない。ある意味では、近代西欧数学の頂点をきわめた大数学者と見ることができるかもしれない。
オイラーの直接の先駆者としては、ライプニッツ的数学の継承者の最大の人、ヨーハン・ベルヌーイ、その弟子格のロピタルがいる。ベルヌーイの教授に基づいて微分学の最初の教科書を刊行したのが、このロピタルである。フランス語の著作で1696年のことであった。そのタイトルが『無限小解析』なのである。オイラーの本書が、ベルヌーイとロピタルが遺した『無限小解析』を拡充し、体系化したといった歴史的注記があれば、本邦訳の価値はもっと高まったかもしれない。
オイラーは、晩年、盲目になっても数学の計算をやめることなく、旺盛な創作力を持続させた。近代数学の中枢をなした代数解析を縦横無尽に駆使した力業の数学者であった。そのひとつの指標が、今日「オイラーの公式」と呼ばれている、指数関数と三角関数を虚数で繋ぐ有名な公式にほかならないが、それは本書の120頁に現れている。
数学の学習は、巨匠の名著を読むに限る。そのような代表的な名著が本書なのである。数学に自信のある者も、数学に挫折した経験をもつ者も本書をぜひひもとかれたい。鑑賞されるべきは芸術だけではない。数学の傑作もそうであることに気づかれるに相違ない。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2001.07.13)
マルクスの遺産 アルチュセールから複雑系まで
2002/05/23 22:15
マルクス主義の負の遺産を真摯に総括しようとする経済学者の論文集
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
衝撃のソ連邦の崩壊から約10年が経過した。現代日本は、その時の「右」振れから立ち直ってはいない。その証拠に今日の有事立法の動きには目立った反対はない。当のポスト・ソヴェトのロシアでは、少数の特権者は私有化によって裕福にはなったものの、ほとんど大多数はソ連邦時代よりははるかに絶望的な経済状態のもとでの生活を強いられている。現代ロシアはある種の中世社会的状況にあるという観察は決して誇張ではない。
本書は数学徒から経済学者に転じ、マルクス経済学にも相当程度の共感を寄せた論客(著者自身の言葉では、マルクス主義の「伴走者」)による、マルクス主義思想を総括しようとする論集である。その総括の姿勢は掛け値なく真剣である。著者は、マルクス主義ということで、まず、そのアルチュセール的形態に魅力を感じたらしい。今日では、「社会主義計画経済」を否定的に総括し、そうかといって現在猖獗を極めている市場原理主義に両手を挙げて賛成するというのではなく、複雑系の数理モデルに救いを求めて、新しい経済学の方向を模索している。
その思索の真摯さを私は無条件以上に評価する。だが、著者のマルクス主義思想の理解の水準は決して高くはない。そのことは、最初に収録された藤田省三氏との対談に最も顕著に現れている。思想水準は対談相手の藤田氏の方が一枚も二枚も上だ。著者の社会的常識は凡庸な常識人としてのそれであり、学者らしくない。著者は、マルクス主義経済を「社会主義計画経済」とほとんど同一視する。が、ソ連邦でレーニンとトロツキイが1921年採用した新経済政策は、計画と市場の双方を民主主義的に統制しようとするモデルであった。「社会主義計画経済」とは、すなわち1928年以降のスターリン主義経済のことなのである。それゆえ、著者がマルクス主義としてスターリン主義を念頭に置き、もっぱら否定的に総括しているのも理由のないことではない。そして、スターリンの不倶戴天の敵トロツキイの思想の特徴づけも戯画以下である。著者のようなマルクス主義から、そしてマルクス主義理解からは潔く決別すべきである。本書のもつ意味は、日本の戦後マルクス主義の貧困さの一例としてであろう。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2002.05.24)
ハーバート・ノーマン人と業績
2002/04/19 22:15
偏狭な反共主義の犠牲として自死した悲劇の日本史家への現代的オマージュ
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
ハーバート・ノーマンといっても、その名を知る人は少ないのではないだろうか? 彼の日本語著作集の増訂版が出版されたのは1989年だから、すでに10年を過ぎている。私が彼の著作に親しんだのはアメリカ留学中で、ダワーの長編の序論付の1975年刊の英文著作集によってであった。『敗北を抱きしめて』で話題になった、あのダワーがノーマンの復権をアメリカで図っていたわけである。
ノーマンは、カナダ人宣教師の子どもとして軽井沢で1909年に生まれ、エジプトのカイロで1957年に自殺した。学生時代の左翼としての活動歴を問責されて、自ら死を選んだのであった。戦争中から日本で外交官として活躍し、日本史に関する知識を深めた。戦後は再来日して多くの知識人と実りある交流をし、そして戦前・戦中の日本の全体主義の起源を追究するとともに、安藤昌益に関する著書などで、意気消沈していた日本人を励ましもした。職業的には外交官であったが、学問的には日本史家として大きな業績を遺したのである。
本書は、以上のような経歴をもつノーマンを知る日本人、そして現代的研究家によるエッセイ集である。その中のいくつか、たとえば、丸山眞男、渡辺一夫の追悼文は、すでによく知られていた文章である。このように、改めて追悼文章のような書物が出版されるのは、ノーマンの稀有の人間性によるものであろう。もっと本格的に彼の人物像を一新させるような論文も期待しないでもなかったが、残念ながら、そういった研究者は現在存在していないようである。
しかし、本書のメッセージは明確である。ノーマンの、柔軟でありながらも、抵抗の意志に満ちた歴史観を復権させたいということであろう。彼が日本で最も注目されたのは、敗戦直後のことであった。その時代は、日本人が新生の意気に燃えていただけではなく、来日して日本人を鼓舞しようとした外国人も偉大であった。この際、ぜひ新編の著作集を復刊していただきたい。そして、欧米でも日本でも彼の著作を新たにひもとく読者が出てきて欲しい。それほども、しっかりした歴史を見る目をもつ人が少なくなっている昨今なのである。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2002.04.20)
オイラーの贈物
2002/02/22 22:15
18世紀の「数学者の王者」オイラーの美しい数学の世界を平易に描く
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
レーオンハルト・オイラーと言えば、数学に志したことのある者なら誰でも、ある種の憧憬を抱く数学者である。私自身、彼が変分法のいわゆる「オイラーの偏微分方程式」を導き出した原著書をひもといた時の感動は忘れられない。代数解析が未だに緒についたばかりの時代であったとはいえ、よくぞこういった見事な数学を創造しえたものだという思いがしたものであった。本書は、オイラーの作った世界を高等学校の数学を学んだことにある人なら理解できるように、実に平易に解説してくれた名著の文庫版である。「数学離れ」、「理科離れ」が叫ばれる時代にあって、極めて分かり易く数学の面白さを納得させてくれる労作である。著者の労にまずは感謝したい。
本書の分かり易さは、どうやら著者が数学科出身の数学者ではなく、工学系の出身であることと関係しているようだ。数学科出身の研究者は、教育的な配慮をそれほどすることなく、自分の数学的実力をひけらかして、他人を遠ざけてしまう憾みなしとしない。彼らとは対照的に、工学系の人はそうではなく、一歩一歩、素人にも分かる数学の解説をすべく努力してくれる。そういった点を数学教育者すべてが見習うべきであろう。
本書の一応の目標は、exp(iπ)=−1という公式の導出である。指数関数と虚数と円周率の組み合わせが、かくも見事で単純明快な数学公式を生み出させることができるわけである。オイラーは目が不自由になっても、そして全盲になってからも、その数学的才能を衰えさせなかった数学者としての著名である。その人間的努力を引き出した秘密にぜひ迫って欲しい。
著者は、「文庫版あとがき」の末尾で、「駅の売店で数学書が買える。これは“小さな事件”である」、と漏らしている。あまり手軽な売れ行きばかりを狙った書物だけではなく、このように読み甲斐のある本をどんどんと出版して欲しい。そうすれば、学力低下などはどこかよその国のことになってしまうこと請け合いであろう。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2002.02.23)
イデーン 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 2−1 第2巻構成についての現象学的諸研究 1
2001/12/10 22:17
現象学的哲学の最も重要な著作の「構成」について考察を深める第二巻
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
フッサールは現象学的哲学の創始者として知られる。英米の分析哲学と比肩され、20世紀ヨーロッパ大陸の哲学運動の主潮流とも見なされるようになった独創的学問の試みにほかならない。フッサールがゲッティンゲン大学時代に胚胎した中期の思想は、とりわけ1913年に公刊された『イデーン』すなわち『純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』第一巻、に盛り込まれている。この著作では、意味構成の機構を解明したノエシス‐ノエマの対概念、現象学的還元など現象学の枢要な概念についての詳細な解説がなされている。
『イデーン』で生前公刊されたのは第一巻のみであったが、しかし、第二、三巻の構想もが立てられていた。その中で、草稿の形で遺され、戦後刊行されたのは、構想の第二巻に相当する部分であった。それらは今日、普通『イデーン』II・IIIとして言及される。換言すれば、『イデーン』第一巻は『イデーン』Iとして、第二巻は『イデーンII・IIIと分岐する形で書き下ろされ、第三巻の構想は、ついに書き下ろされることなく、『第一哲学』と表題を変えて、遺稿の形でわれわれに残されることになった。それらはフッサールの円熟期の思索の軌跡を知らしめる著作としてまことに重要である。
本訳書は『イデーン』IIの前半部分の訳である。「構成についての現象学的諸研究」というのが、その副題である。フッサールは、ここで近代物理科学の対象とする自然が特異であり、生の自然というよりも、近代科学者が機械技芸的な操作の対象とする自然であることを示したかったものと推測される。が、本訳書では、「物質的自然」「有心的自然」の「構成」についてのごく思弁的な考察が披瀝されているにとどまる。中期のフッサールの著述は一般に「砂を噛むように」難解であると評される。けれども、彼の独創性の秘密は、そういった執拗な、徹底的思索にこそある。本格的思索の糧を求める学徒をこそ本書は待ち構えているのである。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2001.12.11)
福沢諭吉の哲学 他六篇
2001/08/14 15:15
敗戦直後の日本に甦った明治初期啓蒙思想の精華
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
一万円札の肖像に使用されている人物に「哲学」などあったのか、といぶかる人もいるかもしれない。さにあらず、幕末明治初期の人物の書いた物には読ませる文章が少なくない。その代表的人物が福沢諭吉であり、彼の最も輝いている著作が『学問のすゝめ』であり、『文明論之概略』なのである。そして、敗戦直後の日本にあって、啓蒙主義期の福沢の思想に光をあてて、蘇生せしめたのが丸山眞男なのであった。
本書に収められている論文は、「福沢諭吉の儒教批判」が発表された戦中の1942年から、中国語論集の「『福沢諭吉と日本の近代化』序」が公刊された1991年まで、ほぼ半世紀にわたって書かれたものである。しかしながら、その中枢部分をなしているのは、日本が戦争で敗北を喫した直後の時期に出された「福沢に於ける「実学」の転回」および「福沢諭吉の哲学」であると言ってよいだろう。これらの論文執筆の意図を、「国破れて山河あり」といった時代相にあっても、日本人が最も輝いていた明治初期の思想に光をあてて、その精華を蘇生させようとしたのだと見て、それほど間違ってはいないだろう。
本書中の論文の最高傑作は、おそらく1947年の「福沢に於ける「実学」の転回」であろう。丸山はそこで、福沢における「実学」は単なる「実用の学」ではなかったと説く。数学という言語で武装され、批判的な精神で捉え直された近代自然科学こそが、「実学」の本意であったと言う。儒教という伝統思想を意図的に棄却し、近代西欧科学を学ぼうとした福沢の精神の根本は近代的な批判的精神であった、と丸山は言いたいのである。
まさしく福沢諭吉は日本のみならず、東アジアで最初の西欧的精神の観点からの儒教批判者であった。同じことだが、「惑溺」を排し、懐疑的精神=批判的精神を謳い上げた、最初の近代思想家であった。その意味での開明思想家であった。
このような丸山の提示する福沢像に対して、二つの方向から批判が投げかけられている。ひとつは、いま流行の「ポストモダン的」な科学批判の方向からで、近代科学技術を称揚するような論者は許容できないという意見である。そして、もうひとつは、福沢の思想が、アジア近隣の諸国侵略を正当化するのに役立ったという指弾である。いずれもが根拠がないわけではない。しかしながら、福沢の啓蒙主義時代のラディカルな批判的精神を軽視する点で、両者とも間違っている。福沢の思想が全面的に誤謬を免れていた、と言いたいのではない。福沢思想の開明性をも葬り去ってはならない、と主張したいのである。
現代日本はシニカルな気分で満ちている。この気分は払拭されねばならない。確かに、丸山の「福沢惚れ」は尋常ではない。が、福沢と丸山の開明性に免じて、この行き過ぎは許してあげようではないか。そんな気持ちにさせてしまうほどの迫力が本書にはある。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2001.08.08)
道元断章 『正法眼蔵』と現代
2000/07/30 06:15
道元の珠玉の日本語を現代に甦らせる試み
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
私たちは現在、欧米の本からの翻訳書に囲まれて生きている。日本人が書く本のオリジナルも、ほとんど翻訳書の文体と変わらない。本当に日本人の文章として誇れるものはないのだろうか? こんな問いに肯定的に答えうる書物が実は存在する。鎌倉時代、西暦13世紀に禅僧道元によって書かれた『正法眼蔵』の日本語は力強く、あたかもボディブロウのように体にこたえ、そして心に残る。『正法眼蔵』があまりに浩瀚で、読むのに骨が折れると考える方はせめて『正法眼蔵随聞記』をひもとくことを薦める。
本書は道元の名著『正法眼蔵』を文学的に読み——ということは仏教の特定の宗派の立場から自由な観点から読み——その現代的復権をはかる試みである。道元に深く沈潜した経験のある読者は、あるいは物足りなく思うかもしれないが、道元に初めて親しむための本としては佳作と言ってよいできに仕上がっている。
現代人はことのほか死を恐れる。ともかく物理的に長い生命をと願う。それでは、いまここでの生を本当に大事にして生きているであろうか? 道元は、生も死もある存在の位置なのであるから、生が死に転化するというように考えてはならない、と教える。春は春で意味をもち、冬は冬で意味をもつのであるから、その季節を真剣に生きなければならないように、人間は与えられた生を懸命に生きなければならず、そして死をも懸命に死ななければならない。本書の著者は、このような道元の教えを心に受けとめ、現代人は生をも死をも大事にしなくなってしまっていると警告する。
現代人はまた作法を軽視する。中身さえしっかりしていれば、とのたまったりする。しかし『正法眼蔵』では洗面から爪を切ることにいたるまで、仏道に精進する者が心がけるべき礼儀作法について詳細に注意を与えている。著者は、こういった「型」こそが心の中身のありようをも表現していると主張する。道元が開いた永平寺を訪れると、礼儀正しく、厳格な作法に従った若い僧たちが、寺の周辺を清浄にと作務している姿を目にすることができる。そういった姿から、私たちは修業僧たちの清新な心のありようを知ることができるのである。
著者は『正法眼蔵』の「即心是仏」の巻から、「あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり」を引いている。ところで、私たちはよく環境汚染について話題にする。けれど、道元の言葉に照らして観れば、環境汚染とは、結局、私たちの心の汚染にほかならないのである。著者は、道元の言葉を現代に生きているという。私は短絡的な教訓を道元から導き出すことには賛成できないが、現代を通常とは異なった目で見、生き様を問い直す契機として道元の読書を薦める。本書は、そのための格好の入門書なのである。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2000.07.29)
エルネスト・マンデル 世界資本主義と二十世紀社会主義
2000/07/10 20:49
20世紀後半の最大のマルクス主義者の一人の業績を批判的に概観
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
1991年暮れのソ連邦の解体以降、マルクス主義とか、社会主義とかの声がほとんど聞かれなくなった。大新聞にマルクス主義の観点から現代資本主義を論ずる論客の論文が掲載されることはめったにないし、テレビとなるともっと絶望的に稀である。反面、それほど程度が高くないことが一目瞭然の反マルクス主義の物書きの言説は大手を振ってまかり通っている。こういった現象は、たしかに少なからず世界的に見られる。しかし、近年よく世界の主要諸国を経巡っている私の個人的経験によれば、日本ほど極端ではない。今日の日本の異常な閉塞感は、こういった思想の画一的あり方と無縁ではない。
本書が扱っている主人公であるエルネスト・マンデルの名前を知っている者は、わが国では40代以上の人には少なからずいるかもしれない。が、40歳以下の人はほとんど知らないに違いない。ところが、欧米世界ではきわめて有名なマルクス主義者として知らない知識人はほとんどない。まず、戦後資本主義論の1、2の名著『後期資本主義』(1972年刊)を世に問うた経済学者として、さらにトロツキイ派の国際組織=第四インターナショナルの第一の指導者として。
本書は、おそらく戦後最大のマルクス主義者の少なくとも一人と規定できるマンデルの人物像と業績を批判的に議論して成った論文集である。この種の書物にありがちな、「教祖」をただただ崇拝するといった趣も、あるいはたんに党派的に罵倒するといった雰囲気もまったくない。この人物の等身大の生き様や、思想的業績を批判的に開かれた目で検討しようというのが共通に見られる姿勢であり、きわめて好ましい。
マンデルは1923年4月4日、フランクフルトのユダヤ人家庭に生まれた。だが、両親がすぐベルギーのアントワープに居を移したので、そこで成長した。13歳の時に、スターリンがロシア革命の指導者たちを裁こうとしたモスクワ裁判を批判し、被告を救済しようとする運動に父親がかかわっていたことからトロツキズムの意義に目覚め、15歳の時には創設まもない第四インターナショナルの隊列に正式メンバーとして参加する。ただちに反ナチ・レジスタンス運動に挺身、終戦まで3度逮捕され、3度ともともかく命を奪われることなく、監獄から逃れている。しかし彼が兄事したアブラム・レオンは、アウシュヴィッツの強制収容所のガス室に消えてゆかざるをえなかった。戦後は、専門的に経済学を学ぶかたわら、第四インターナショナルの活動を続けた。多くの著作を介して青年たちに大きな影響力を及ぼし、1995年7月20日に心臓病のために亡くなった。
編者のアシュカルは、マンデルをエンゲルスと比較し、類似性を指摘している。ヨーロッパの主要語すべてを自由に話し、深い学識をもち、政治的判断にすぐれ、探偵小説史までをも書いたマンデル。こういった人物は日本人にはいないだろう。少なくともマルクス主義者にはいなかったことは間違いない。
ほかに、マンデルの世界資本主義論の特徴、トロツキイのソ連論との相違点、ナチズムの理解などについての多様な論考が収録されている。中でも、カトリーヌ・サマリの「マンデルと社会主義への過渡期論」は、ソ連論として出色の出来映えで示唆に富んでいる。
マルクス主義とは結局、資本主義への批判の思想的武器にほかならない。現代の日本でマルクス主義が不振であるとは、すなわち、資本主義の担い手を緊張させる批判的思考が存在していないのと同義である。これでは、資本主義のあり方を安易な低い水準にとどまらせることにしかならない。現代思想の閉塞を突破し、21世紀に生きる思想を模索する手段として、本書はかけがえのない知的道具となりそうである。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2000.7.11)
実在論と科学の目的 W・W・バートリー三世編『科学的発見の論理へのポストスクリプト』より 上
2002/06/11 22:15
ポパー科学哲学の最終的発展形態を告げる重要な書物
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
20世紀の科学哲学といえば、フレーゲの論理主義を継承したルードルフ・カルナップの論理実証主義と、科学史研究を基礎に組み立てられたトーマス・S・クーンの「歴史的科学哲学」によって代表させられる。本書の著者のポパーは、論理実証主義者でもなく、またクーンの立場にも与しない第3の立場の科学哲学者として特徴づけられる。
ポパーの出世作『探求の論理』は1934年にドイツ語で発表されたが、大きな影響力を持ち出したのは、1959年に刊行された、その英語版『科学的発見の論理』によってであった。本書が綴られたのは英語版準備中の1950年代半ばのことで、本来は『科学的発見の論理』の「ポストスクリプト」としてであった。欧米の研究者には珍しいことではないが、じっくりとなされた深い思索の結果が本書なのである。
以上のような成立事情が示しているように、本書が取り組んでいる問題は、『科学的発見の論理』で披瀝した科学にとってどのようなことが要件として満たされねばならないか、ということである。そして、改めて帰納主義が批判され、批判的実在論を基準とした反証主義の立場が、さらに確率論的判断規準を援用して彫琢されている。実在論については面白い議論が展開されているが、標題の後半部分が謳っている「科学の目的」について本書はそれほど立ち入って論じてはいない、というのが私の印象だ。
私の師は実はポパーの論敵の主要なひとりであるクーンである。クーンは「科学哲学入門」というプリンストン大学での講義において、ポパーをカルナップらと同類の「形式主義者」に数え、自分の陣営を「プラグマティズム」と呼んでいた。ポパーはこの分類論に不満かもしれないが、主要に科学の規定にこだわり、科学の歴史的前提は不問に付しがちなポパーについてのクーンによる特徴づけはやはり当たっていたように私には思われる。他方、同じ土俵で、クーンは自分とそれほど変わりはないのだと率直に認めるポパーに好感を持つこともできた。論敵の著作と対照させて、じっくりと読まれるべき書だ。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2002.06.12)
朝鮮戦争全史
2002/05/20 22:15
東西冷戦以前の「熱戦」の歴史過程を世界史の中に位置づける
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
人は、第二次世界大戦終了後、語るに値する戦争はなかったものと勘違いしている。だが、1950年夏から53年夏の停戦条約まで、ひとつの国、それも日本の最近隣国の帰趨をめぐる戦争があった。本書が記述の対象としている朝鮮戦争である。その戦争で、朝鮮人民は南北合わせて、300万から400万人ほどの命が奪われたと言われる。第二次大戦の一部としてアジア太平洋戦争で死んだ日本人は約300万人と言われているから、それ以上の犠牲者ということになる。とくに、アメリカ軍の空爆によって北朝鮮の国土は荒廃し、その国家の困難は今日に及んでいるという。朝鮮戦争の構図はある意味でヴェトナムの地に引き継がれ、1975年にヴェトナム側の勝利に終わったことは周知の事実である。東アジアの激動が今日に及んでいることは、沖縄や日本本土の米軍基地の存在、そして現在国会で審議が進んでいる有事法案を見れば一目瞭然である。現代日本のアメリカへの従属、そしてアメリカの傘の下での「繁栄」は、実にこの戦争の上に立った「繁栄」であると言っても過言ではないのである。
本書は、朝鮮戦争の全過程を克明に再構成して成った労作である。その特徴は、南北朝鮮の歴史文書だけではなく、中国側、ロシア側の文献まで調査し、東アジアを取り巻く国際関係史として詳細に記述していることである。本来はロシア史家である著者によって本書が書かれたのは、ソ連邦の崩壊によってロシア側史料が大量に公開されたためであるという。アメリカ側、韓国側の史料にももっと綿密にあたって欲しかったと思わないでもないが、それは無い物ねだりというものであろう。ともかく、本書によって明らかにされたのは、朝鮮戦争が金日成、毛沢東、スターリンの戦争であったことである。
大戦後アメリカの帝国主義的野心をも強調して欲しかった憾みが残るが、それは今日の著者に要求しても無理というものであろう。戦争に関連した年表が付されていれば、本書の価値はさらに高まったであろうことは疑いない。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2002.05.21)
中国思想文化事典
2001/11/20 22:16
西欧世界とは別の中国伝統思想文化の総合的宇宙の全容を示そうとする得難い事典
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
世界の文化的伝統はギリシャと中国を二極とし、それ以外はこれら2つの亜流である、と喝破した人がいる。たしかに、数学についてはこの所見があてはまるように思われる。また、医学についてもかなりの程度、この観察は正しい。西欧文化は古代ギリシャの末裔としての意味をもっている。中国文化は、現代でも旧来の伝統文化の形態を依然として維持している。近代日本文化の意義は、両者を融合させて独自の発展を促した点にある。
本書は、中国の伝統思想の基本概念を、I「宇宙・人倫」、II「政治・社会」、III「宗教・民俗」、IV「学問」、V「芸術」、VI「科学」の大綱によって分類し、さらにそれぞれの分野で重要と思われる項目を大きく括り、その思想的流れを解説した、きわめて読みがいのある事典である。異文化というと西欧文化を表象しがちであるが、ここには私たち日本人にとってある意味で親しく、ある意味で縁遠くなってしまった中国文化の中心的概念が現代的観点から興味深く解説されている。科学史家のクーンに「通約不可能性」という概念がある。二者を比較する際、優劣が絶対的にはつけられず、割り切れない部分が残ることをいう。西欧文化と中国文化が互いに「通約不可能」で、それぞれが優劣がつけられない創造的な文化であることが理解されることになろう。たとえば、「術数」や「医薬」といった項目を読んでみればよい。いかにギリシャを源流とする数学や医学とは異なる思想的伝統が中国には存在していたか納得されるはずである。今度は「知」の項目を引けば、中国における知識がいかに人倫の学を中心にして成立し、いかに近代中国が西欧科学を受容するのに苦労したかが分かる。ただし、この項目で「科学」が西周の考案した言葉であったかのように記述してある(326頁)のは誤りである。いずれにせよ、中国の思想的「宇宙」への格好の案内書が本事典なのである。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2001.11.21)
文化と帝国主義 1
2001/10/24 22:16
帝国主義の根源としての「文化」に焦点を当てた、文化帝国主義研究の「聖書」
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
9月11日の同時多発テロは世界に大きな衝撃を与えた。パックス・アメリカーナのもとでの経済の象徴である世界貿易センターはもろくも瓦解し、ペンタゴンにもハイジャック機が突入した。威信が丸つぶれのアメリカは報復戦争に沸き立っている。イスラーム原理主義が「聖戦」の遂行をうたえば、その論理をまったく裏返したかのように、アメリカも「聖戦」で応えようというわけだ。ジョン・レノンの国際的友愛の歌である「イマジン」は放送自粛曲に指定されているという。小泉首相は早速、ブッシュ大統領の戦争政策への支持を打ち出し、日本は戦後最大の転換期を迎えようとしている。
が、こんな時こそ、時流に流されず、数百年の歴史を省み、事件発生の原因解明の根源へと探究を進めるべきではなかろうか? 巷間では、S・ハンチントンの『文明の衝突』がひもとかれているらしい。けれども、この書すら事態の根源を穿った本とは言えない。アメリカ的正義を絶対視する価値観が濃厚だからだ。もっと学問的で、じっくりとひもとくべき書物が、この度、全2巻の邦訳書が完結したサイードの『文化と帝国主義』であることに疑問の余地はない。
サイードはアラブ・パレスチナ人にして、アメリカ国籍をもつ、稀有の批判的精神の持ち主である。彼が欧米帝国主義の支配の道具として、とくに焦点を当てるのは、文化、とりわけ文学である。帝国主義は軍事や経済でのみ成立しているのではない。根源には人間の精神の根底にある文化がある、とサイードは言いたいのである。西欧の優位は、この数百年の現象である。その優位を当然のように説く文学の成立から、優位に抵抗する黒人たち、たとえばジェイムズやフォノン、の文学へと、筆はごく自然に進行する。このような冷静な歴史認識からこそ、未来が生まれることを私たちは知るべきだ。サイードの文学を中心とした議論は、今日では科学史的探究へも進められている。
ニューヨークにあるコロンビア大学の教授であるサイードの講義は、イスラームへの呪詛のため、妨害にあっているらしい。日本人はもっと冷静に東西文化双方に顔を向け、おぞましいテロリズムの真の根絶へと踏み出すべきだろう。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2001.10.25)
西洋書体の歴史 古典時代からルネサンスへ
2001/06/06 18:18
印刷術普及以前の西洋書体の美がかいま見られる
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
印刷術は、西洋文化を大きく変えた。ルネサンスをもたらした最大の要因は、グーテンベルクらによる活字印刷術の発明だと言っても過言ではないかもしれない。とはいえ、印刷術を発明したのは中国人で、グーテンベルクは、鉛合金活字を発明することによって、印刷術に大きな改良を加えたにすぎないのだが。
印刷術が西洋文化に比類のないインパクトを与えたと言っても、印刷に使われた文字自体は、それまでの手書き文字を模倣したものにすぎなかった。ギリシャ語の書体がそうだったし、またラテン語の書体でも、現在私たちがアルファベットの活字で見ることのできる普通の大文字や小文字、そしてイタリック体もが、古代からルネサンスにかけて使用された手書き文字に由来するものであった。今日では見る機会は少なくなったが、ドイツ語の角張った、いわゆる「亀の甲文字」の起源も中世盛期であるゴシック時代の書体にある。
本書は、古代のギリシャ語やラテン語の碑文の書体から、ルネサンスのイタリック書体まで、西洋の書体のかなり重要なものの写真を集成したものである。ラスティック・キャピタル、ラテン・アンシャルといったかなり古い書体から、荘重なゴシック書体のかずかずを経て、ルネサンスの人文主義者たちが愛用した流麗なカーシブ書体にいたるまで、2000年もの間に、西洋文明がいかに多様な書体が使用されたかが本書を通して鳥瞰できる。
こういった西洋書体に、明朝体、清朝体を始めとする漢字書体の歴史を比較してみるのも一興かもしれない。また、西洋書体をまねて欧文を綴ってみるのも面白いかもしれない。実際、私のプリンストン大学の師は、西欧数学史の専門家だが、美しいカリグラフィーを趣味とする。本書を参照してみると、その書体はどうやら、「ヒューマニスト・カーシブ」に似ている。
このように西洋書体の歴史は面白く、大変奥が深い。18世紀初頭のイタリアの思想家ジャンバッティスタ・ヴィーコは『われらの時代の学問方法について』(ラテン語から邦訳されて『学問の方法』の題で岩波文庫に入っている。私も訳者の一人である)の中で、印刷術がいかに書物の価値を下落させたか、説いている。人は、写本時代のほうが書物を大事にした、というのである。その伝でいうと、現代のIT時代に、私たちははるかにもっと書物(そして人の思想)を大事にしなくなっている。本書に印刷されている書体は、印刷術が手書き文字の価値を下落せしめる以前の貴重なものである。そのように、人の書いた文字と思想がいかに大切にされたかを偲ぶよすがとして本書を眺めて見るのも面白いかもしれない。ともかく、美術書として価値がある。一度、手にとって見られることをお勧めする。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2001.06.07)
竹内好「日本のアジア主義」精読
2000/07/22 12:15
「アジア主義」の現在を竹内好の古典的名著を座標軸に占う
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
幕末・明治初期の西洋化=近代化の動きがめまぐるしく展開された時代に、アジア人としての主体性をもって対抗しようとした知識人たちがいた。西郷隆盛や横井小楠ら高い儒教的倫理観を掲げながら、かつ開明的な姿勢を崩さなかった人々がそうであった。そして、東洋美術の価値を世界に向けて呼びかけた岡倉天心もそうであった。彼らの奉じた思想を「アジア主義」という。
「アジア主義」は日本を第二次世界大戦に駆り立てた「大東亜共栄圏」思想の根底をなすとの解釈が、戦後日本の思想界を被った。こういった考えに抗して、1963年夏に提出されたのが、中国文学者竹内好の「日本のアジア主義」であった。竹内は、当時の通説とは違って、「大東亜共栄圏」思想は、欧米帝国主義への抵抗の思想であった「アジア主義」を歪曲し、逸脱させたと喝破したのである。
本書の前半部は、竹内の「日本のアジア主義」の採録である。それは、もともとは筑摩書房から刊行された『現代日本思想大系』の一巻『アジア主義』に収められたのアンソロジーの解説論文として書かれた。竹内は魯迅の良質の邦訳を遺そうと半生を捧げた文学者であるが、その魯迅魂を同時代の日本に復興させようと奮闘しており、いまでも人の心を打たずにはおかない。
松本健一は本書の後半部「アジア主義は終焉したか?」で、竹内の「日本のアジア主義」を解説しながら、21世紀に向かって「アジア主義」が生き残れるどうか自問する。松本によると、現代のアジアは、竹内や魯迅がとらえた「屈辱のアジア」ではなく、「繁栄のアジア」であり、そういったアジアは、東京オリンピックが開催された1964年ころに離陸したとする。そして、さらに反問する、「アジア主義は終焉したか?」と。答えは、ここでは伏すが、岡倉天心の『東洋の理想』に謳われているある概念は生き延びうるとする。
松本の答えは、ある程度は「なるほど」とうなずかせる。しかし、全面的にではないようである。私には、松本は、竹内のアジア主義にあった魯迅的本質を継承しようとはしていないように思われる。帝国主義に抵抗するアジアの思想をあまりに清算的にとらえるからである。帝国主義は終焉していない。南北朝鮮の対話が劇的に進んでいるにもかかわらず、韓国に居座り続けようとする米軍を見よ。そして、それと関連して沖縄の現実を見よ。
資本のグローバリゼーションの中で、アジアは主体性をそれほど発揮しえていない。金大中韓国大統領などは立派なものである。一番主体性を喪失しているのは、アメリカの新自由主義に追随するばかりの日本である。こういったことを考えると、松本の所見はいかにも甘い。竹内や魯迅のアジア的主体性は、いまも生きている。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2000.07.22)
天才の栄光と挫折 数学者列伝
2002/06/12 18:15
ニュートン・関孝和からワイルズまで天才数学者たちの人間味に迫る好著
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
数学者は余人が近づきにくい印象を与える存在らしい。数学の才能においては出来不出来がはっきりしており、数学の出来る人は人間離れしていると考えられるからであろう。が、いくら人間離れをしているように見えても、数学者も人間であることに変わりはない。本書は、数学者の人間的側面に光をあてている。数学者であり、優れたエッセイストでもある著者の好みや、念入りの取材の味がよく出た好著に仕上がった。本書の中身はすでにNHKの教育テレビで昨年放映されている。放映された8人の数学者の部分を増訂し、さらにヘルマン・ワイルについての章を増補してなったのが本書なのである。
ニュートンや関、さらにガロワについての章には不満がないわけではないが、それは著者が数学者であり、私が数学史を専門とする歴史家であるという観点の違いによるものであろう。ハミルトン、コワレフスカヤ、ラマヌジャン、チューリング、ワイルズについての章からは多くを学ぶことができた。数学を専門とする者にしか見えない側面が書かれており、また著者の豊かな人間的感受性が表出しているからであろう。ワイルの子息のマイケルの近況を伝えたワイルに関する章も味わい深かった。本書の魅力は、実際に研究対象になっている数学者にゆかりの深い土地や人物や書物にあたっている点であるが、その魅力が最も浮かび出た章である。
「数学離れ」、「理科離れ」が叫ばれる昨今であるが、そういった離反現象を食い止めるには、まず、学問対象を掛け値なく面白いものに変えること、そして、数学者や自然科学者の人間的側面の魅力を学徒に伝えることが重要であろう。本書のような好著は何冊でも世に問われるべきである。数学的天才の持ち主にも悲劇的側面があり、所詮、数学も人間の創造であることがよく理解できるだろうからだ。 (bk1ブックナビゲーター:佐々木力/東京大学教授 2002.06.13)
