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  3. 宇波彰さんのレビュー一覧

宇波彰さんのレビュー一覧

投稿者:宇波彰

49 件中 1 件~ 15 件を表示

身体化された心 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ

2001/11/07 18:16

現代の認知科学の第一人者が、西欧の知の根拠の欠如を自覚し、仏教に救いを求める

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は『オートポイエーシス』などの著作でわが国にもよく知られているフランシスコ・ヴァレラ(チリ人であるが、軍事クーデターの後フランスに亡命して活躍していたが、残念ながら今年の5月になくなったという)の主著である。本書の中心的なテーマは、「20世紀後半の強力かつ専門的な科学が発見した自己がない心がもたらした深刻な問題」の処理である。その深刻な問題とは、「現代の西洋的な考え方」では、「自己や世界の基盤が欠如」しているという問題である。著者はハイデガーから大きな影響を受けているが、ハイデガーの哲学の中心的な概念である「現存在」には、最初から「落ちつきのなさ」「不気味なもの」が内包されていた。そのことをヴァレラは「自己や世界の基盤の欠如」と表現する。
 ヴァレラは、「科学と仏教が真に一体化すれば、何が起きても不思議ではない」と書いている。西洋の科学の限界を感知したヴァレラの結論は、仏教のなかに、今までとは異なったものを発見したように思われる。そして、「仏教の西方への旅」を求めることになる。
 本書の根底にあるのは、現代の西欧科学の無根拠なことに対する危機意識である。認知科学がどれほど発展しても、またそこに現代のもろもろの理論が集約されて展開されるとしても、その科学自身とわれわれ自身に「根拠」がなくては、われわれの存在それ自体が危機になる。著者はそのことを十分に認識していたように思われる。
 その問題の解決に当たって、著者は仏教に依存しようとした。それは「新しい統合の知」を求める試みであった。西洋の科学の限界、その根拠の欠如が「危機」として自覚され、その危機から現代の人間を救うために、東洋の「知恵」が求められているというべきであろう。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2001.11.08)

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記号主義 哲学の新たな構想

2001/12/19 22:16

記号という概念を駆使しつつ、哲学的思考そのものの再構築を追求するアメリカ現代哲学的な著作。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書の序文で著者たちは「記号に関する一般理論を主要部門とする哲学」を背景にして、哲学の再構築を提案すると述べている。そして実際に「記号」という概念を文字通り駆使して論じているのであり、訳者が邦訳のタイトルを「記号主義」としたのは正しい判断である。
 著者たちの記号中心の哲学の立場は、最終章「哲学の新たな構想」を参照するならば、およそ次のようになる。学問や芸術のみならず、日常生活の知覚においても、記号の使用はつねにその中核に含まれている。そして、「記号が指示するものの構成そのものに従事している」ことを認めなければならない。つまり、記号が指示している対象があるとすると、対象が記号によって表現されるのではなく、記号が対象を構成すると考えるべきである。そのように考えるならば、現代の哲学には「救いがたい欠陥」があることになる。記号が対象を構成するのであるから、記号と対象の一致が真であるとする従来の真理論は意味をなさなくなる。
 このように、著者たちが本書で「記号」といっているものは、人間活動のすべての領域で機能している。訳者あとがきのことばを借りるならば、人間を「ホモ・シグニフィカンス」(記号機能を営むヒト)として捉えることが重要なテーマになる。この作業を通して、哲学の再構築の可能性が見えてくる。
 著者たちの説くところは、現代の記号論・言語論の枠の中にある。しかし本書は、単に記号という概念を使って同時代の建築や美術の新しい解釈を試みたものではない。あくまでも哲学の再構築が目標である。著者たちはいたるところで伝統的な哲学の誤りを指摘し、それに代わる新しいテーマを提出する。「記号」という概念は思考の道具として徹底的に使われている。ここには、著者たちの哲学の再構築に賭けた並々ならぬ情熱のようなものを感じ取ることができる。この情熱が本書を支えているというべきであろう。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2001.12.20)

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フロイト フリースへの手紙 1887−1904

2001/11/09 18:16

フロイトの親しい友人宛の書簡集。精神分析の形成過程と人間フロイトの実像が見えてくる

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ウィーンにいた頃のフロイトは、昼のあいだは分析治療に専念し、夜になるとその経験を材料にして、研究と思索にふけったという。フロイトの思想は、このような経験と思索の完全な融合によって作られた。本書には、この融合のプロセスが、まさにリアルタイムで再現されている。
 本書に収められている300通弱の手紙は、親しい友人のヴィルヘルム・フリースにあてたもので、書かれた時期は1887年から1904年までである。それはフロイトの『夢判断』が刊行された1900年を含む時期であり、ヒステリーについて独自の理論を構築しつつあった時期である。
 本書では、フロイトの日常生活が鮮やかに描かれていて、いつも鼻の故障で悩んでいたり、相手から返事が来なくていらいらしたりする「人間フロイト」の姿をかいま見ることができる。しかしそれ以上に、本書はフロイトの思想形成を知るための最良の材料である。たとえば、「現実—願望充足、この対立からわれわれの精神生活は芽を出します」というところには、そのころのフロイトの思想の核心が示されている。また、「僕はエディプスの伝説を読んで調べなければなリません」ということばは、フロイトがそのころエディプス・コンプレックスの概念を考えつつあったことを推測させる。
 「訳者あとがき」で紹介されている資料によると、フロイトが診療の合間の時間を使って書いた手紙は、およそ2万通にのぼるという。現在そのうち約半数が残っているとされるが、本書で訳出されたのはそのうちのほんのわずかにすぎない。しかしそれでも、フロイトにとって、手紙を書くという行為が、自分の思想を作り上げていくための重要な手段でもあったことは、本書によってはっきりと理解されるであろう。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2001.11.10)

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暴力と音 その政治的思考へ

2001/05/25 18:17

政治・思想・音楽をすべて「事件」として捉えるというユニークな発想に支えられた、刺激的な<政治・芸術論

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『暴力と音』というタイトルの本書には、「その政治的思考へ」というサブタイトルが付されていて、それが著者の立場をはっきりと示している。また著者は「あとがき」のなかで、政治も思想も法や制度であるよりもむしろ「事件」であるという考え方を提示する。そして、音楽も論文も、「作品」ではなく、「事件」として捉えるべきだとしている。その原理によるならば、たとえばベンヤミンが1921年に発表した「暴力批判論」も、ひとつの重要な事件であり、それが書かれた時代と状況とを十分に理解しなければ、つまり、それを「歴史的コンテクスト」のなかに置いて見なければ、この論文の意義を解明できないことになる。ベンヤミンを「思惟において豪胆なひと」と規定する著者は、「なぜ今日の優雅なベンヤミン・スペシャリストたちは、具体的な歴史的コンテクストから彼の思想の足跡を遠ざけようとするのか」と問いかける。

 このように、あらゆる事象を「事件」として捉えようとする著者の方法が遺憾なく発揮されているのは、「構成的ホームレス」の章である。そこでは著者自身によるホームレスのひととの関わりが具体的に描かれていて、読む者の興味をそそる。また、新宿西口の地下街にかつて存在したダンボールハウス群(宮本隆司による写真が想起される)に描かれた「武盾一郎」の絵画についての考察も注目に値する。著者は、武盾一郎(「数名の絵描きたちの集合名詞」ということであるが)のダンボール絵画がシュルレアリスムや、リベラ、シケイロスたちのメキシコ壁画運動とつながっていることを指摘する。

 また著者は、現代の「フリーター」たちによって示されているイデオロギーが、従来のイデオロギー論では規定できないものであることを感じ取っている。評者はそこで展開されている著者のイデオロギー論が、きわめて興味深いものであると考える。著者はマルクスや戸板潤が考えていた、国家単位のイデオロギー論に代わるものを求める。マルクスのイデオロギー論の系譜にあり、グラムシの思想とも関連する、アルチュセールの「イデオロギー的国家装置」の概念も再検討されなければならない。「イデオロギー装置を国家が独占している時代は終わった」のである。著者はそれに代わるものとして、「新宿イデオロギー」とか「中央線イデオロギー」といった、ミクロな単位のイデオロギーを想定する。このような発想は、著者の現場体験に根ざしたものであり、新鮮であると同時に説得力がある。著者は「音楽と社会の新しい連帯関係」を求めるサイードの考え方にも共感を示しているが、それは音楽を事件として考える著者の立場と共通のものがあるからであろう。

 本書は、読む者に思いがけない発見を与えてくれる、刺激に満ちた論集である。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2001.05.26)

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パースの思想 記号論と認知言語学

2001/05/14 15:16

いままで十分に評価されていなかったアメリカの哲学者パースについての本格的な研究。パースを多角的に考察

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アメリカのプラグマティズムの代表的な哲学者チャールズ・サンダース・パース(1839〜1914)の仕事が、最近にわかに再評価されつつある。アメリカでは、全30巻になる予定の年代順の全著作集が第6巻まで刊行され、パースについての研究書、伝記の刊行があいついでいる。しかし、伝統的にヨーロッパ中心であったわが国の哲学研究の世界では、ウィリアム・ジェームズと並ぶアメリカ哲学の代表的存在としてのパースについての研究が遅れていたことは否めない事実である。

 このような状況のなかで、早くからアメリカの言語学、記号学についての論考を発表してきた有馬道子による本格的なパース研究が刊行されたことは、長年パースに関心を持ってきた評者にとってもたいへん喜ばしいことである。本書には、「記号論と認知言語学」というサブタイトルが付されていて、著者の関心が、サピアとウォーフに代表されるアメリカの言語学研究を基礎にしてパースを見ようとしていることは明らかである。パースの記号学は同時に論理学であり、また存在論であって、パースのいう「記号」が実際には存在と同じ意味であることはいうまでもない。パースの記号学は、パースの哲学にほかならない。

 著者は、「対象と記号をつなぐ解釈項があり、記号の意味をになう解釈項はそれ自体が新しい記号となって、それと対象をつなぐもう一つの解釈項を生み、それはまた新しい記号となって更に次の解釈項を生んで、無限の意味作用としてのセミオシスを可能」にすると書いている。このような無限の展開は、「無限記号連鎖」と呼ばれるものである。

 イタリアの記号学者で、また『薔薇の名前』『フーコーの振り子』など小説作品の著者としてもよく知られているウンベルト・エーコも、パースの記号学を高く評価する。そのエーコが特に注目しているのが、この「無限記号連鎖」の概念である。エーコは、テクストの解釈において、ひとつの意味を求めてそれで終りにする辞書的解釈と、無限に解釈を追い求める百科事典的解釈とを対立させる。無限記号連鎖という考え方は、まさに百科事典的解釈に対応するものにほかならない。エーコがパースの思想について論じた論文のなかに、「無限記号連鎖と漂流」というタイトルのものがある。無限記号連鎖によって記号の意味をたどるのは、漂流に似た行動になる。

 本書においても、著者はパースについての考察をパースの内側に限定してはいない。すでに言及したサピア、ウォーフの言語学、ソシュールの言語理論などとパースの理論を比較し、考察する。
 そして本書を支えているのは、パースに対する著者の愛情のようなものである。著者はパースの著作を読んで、「確信にみちた興奮とも言える感覚」を味わったという。著者に本書を書かせたのは、この感覚に違いない。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2001.05.14)

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史的唯物論の再構成

2000/12/19 21:15

現代ドイツの思想界を代表するハーバーマスの70年代の論文集。今日の諸問題を先取りして論じている。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ハーバーマスは、アドルノ、ホルクハイマーに代表されるフランクフルト学派の「第二世代」の思想家であるとされている。しかし、この「第二世代」には、ハーバーマスに比肩できるほど目立つ活躍をしている人がほかに見あたらず、1929年生まれのハーバーマスは現代ドイツの代表的な思想家と見なされている。本書は、ハーバーマスの1970年代前半の論文を集めたものであるが、この時期の彼の思考には、現代の最先端にある問題のいくつかを先取りして論じているものがある。たとえば、本書に収められている「複合的な社会は理性的自己同一性を形成しうるか」というタイトルの論文は、多文化主義の現代において、アイデンティティがどのように形成され、維持されるかという現代的な問題を先駆的に考察したものである。

 「複合的な社会」とは、多様な要素が重層的・相互浸透的に絡み合っている社会であり、そこでの集団的・個人的なアイデンティティがどうなっているかということは、今日いたるところで論じられている問題である。この論文において、ハーバーマスは国家の存在が個人のアイデンティティの根拠であるとする、いわば民族主義的・国家主義的なヘーゲルの見解を「時代遅れ」であるとして否定する。国家の存在と個人のアイデンティティとを安易に結びつける時代はすでに過ぎ去ったのである。現代は民族が移動し、多様な民族が相互に浸透しつつある時代である。それがハーバーマスの言う「複合的な社会」にほかならない。このような社会においては、従来のアイデンティティ論は無効にならざるをえない。

 ハーバーマスは次のように書いている。「集団的自己同一性が基礎づけられるのは、コミュニケーション過程──この過程のなかでこそ継続的な学習過程の結果として、自己同一性の形式がありうるのだが──へ参加するのに、普遍的な平等なチャンスが与えられていると意識できる場合だけだ。」

 つまりハーバーマスは、国籍という概念に代表されるような「帰属性」というアイデンティティ構成の要件を否定し、他者とのコミュニケーションのプロセスのなかで形成されるアイデンティティを考えているのである。このような問題設定は、カルチュラル・スタディーズにおけるアイデンティティの考え方とほとんど直接につながっている。たとえば、スチュアート・ホールが編集した『カルチュラル・アイデンティティの諸問題』(大村書店刊)所収のいくつかの論文の論点は、すでにこの「複合社会は理性的自己同一性を形成しうるか」のなかで考えられているのである。

 そのほかに、本書のタイトルでもある「史的唯物論の再構成」など、70年代のハーバーマスの論文を集めた本書は、彼の思考のエッセンスの結晶であるように思われる。 (bk1ブックナビゲーター宇波彰/明治学院大学教授 2000.12.20)

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グラムシ思想の再検討 市民社会・政治文化・弁証法

2000/11/14 18:15

イタリアの偉大な思想家グラムシの「生活と業績」を、著名な政治哲学者が描き出す。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 最近、しばしば話題にされるカルチュラル・スタディーズの源流を探ってみると、その一つがアントニオ・グラムシであることがわかる。グラムシの考え方の中に、アルチュセールの「イデオロギー的国家装置」と共通なものがあることはすでに指摘されていることであり、カルチュラル・スタディーズの代表的な存在であるスチュアート・ホールがグラムシ論を書いていることもよく知られた事実である。本書はこのように再検討されつつあるグラムシの思想について、「イタリアを代表する政治哲学者」〔訳者あとがきによる〕であるノルベルト・ボッビオが論じた論文集である。

 本書の第一章は、「グラムシと弁証法」というサブタイトルになっている。弁証法とは、あることに対立する別のものがあり、その対立から新しいものが生まれてくるプロセスであると考えられている。ボッビオは、エンゲルスによる弁証法の規定の中に、「対立物の相互浸透」「否定の否定」「量から質へ、質から量への変換」という三つの法則があるとし、グラムシにはその三つがすべて存在していると説く。たとえば、グラムシが「知識人と大衆の弁証法」というときは、両者の相互浸透を意味していると指摘する。「相互浸透」がグラムシとほぼ同時代のイタリア未来派のキーワードであったことが想起されよう。

 また、弁証法における「否定」の力を重視するグラムシの政治学は、一般的な統治の形態を対象とする静的なものではなく、一つの政治システムが別のシステムへと移行する「危機」をテーマにするものであった。その「転換」を見極めることが重要である。グラムシがマキャヴェリを評価するのも、マキャヴェリが「いかにして権力が獲得されるかという問題を考えた人」、つまりすでに存在している権力をどのようにして否定し、新しい権力をどのように獲得するのかという問題を考えた人だからである。グラムシはあくまでも「変革」の思想家であり、それは彼の政治学にも現れているのである。

 さらに本書の特徴をあげるならば、グラムシをイタリアの文化的風土の中に置き直して考えていることである。「グラムシはマルクス主義者でありレーニン主義者であったが、イタリア思想との実り豊かで、独創性豊かな接続を追求しながらその思想を練り上げ直した」のである。クローチェを始めとする同世代の哲学者とグラムシはどこが違っているのかも詳しく論じられている、ボッビオはイタリアの思想で、「輸出」できるもの、つまり外国で評価されうるものは、グラムシの思想だけだとしている。グラムシの思想が、カルチュラル・スタディーズを媒介にして再検討されつつあるいま、本書の刊行はきわめて意義深いものであるというべきである。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/明治学院大学教授 2000.11.15)

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フランクフルト学派の展開 20世紀思想の断層

2002/07/08 18:15

最近になって再評価の動きが急なフランクフルト学派についての注目すべき論考の集成

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者はベンヤミンがしばしば「決断」をためらったことについて、「決断」がベンヤミンにとっては「主体による未来への介入、未来に対する主体の暴力」だったからだと考える。それはベンヤミンの思想を、近代との対決と見る著者の思考の表現である。著者によれば、ベンヤミンは「主体性、理念、観念によって歪められ、覆われていない<具体的なもの>との出会い」を求めていたのである。それは、人間と物との直接的・呪術的なつながりの回復を求める思考であった。ベンヤミンが「模倣の能力について」のなかで、子供の遊びのなかにその残滓を発見しようとしたこのような呪術的なつながりはいまや徐々に消滅しつつあるからである。主体は未来に介入すべきではないという思想を、ベンヤミンの「ためらい」のなかに認めようとする著者の視線は鋭い。
 本書には「20世紀思想の断層」というサブタイトルが付されている。この「断層」はきわめて重要な断層である。著者はこの断層を多様な視点から見直そうとしている。フランクフルト学派のキーワードのひとつである「文化産業」は、アルチュセールの「イデオロギー的国家装置」とともに、現代人のアイデンティティ形成の問題を考えるときには不可欠の概念である。フランクフルト学派についての論考を公にしてもいるアメリカの社会学者ダグラス・ケルナーの「メディア・カルチャー」の概念も、直接にフランクフルト学派の考え方に起源があると考えられる。つまり、フランクフルト学派の仕事は、けっして過去の遺物ではなく、現在に生きている理論なのである。本書は、そのフランクフルト学派について長年、熱情を傾けて研究されてきた著者の考察のエッセンスであり、現代の諸問題を理解するためにきわめて重要な役割を演ずるであろう。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2002.07.09)

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磔のロシア スターリンと芸術家たち

2002/07/03 18:15

スターリン時代の芸術家たちが権力とどのようにかかわったかを、実証的・ルポルタージュ的に描いた力作

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 スターリン時代に多くの知識人・芸術家が悲劇的な運命をたどったことはよく知られている。本書は彼らがスターリンという独裁者とどのようにかかわり、作品を作っていったかを、徹底的な調査と考察で説いた力作である。
 詩人のマンデリシタームは、日頃からスターリンを「エジプトで奴隷たちを働かせる組長」だと罵倒していたが(マンデリシタームはユダヤ人である)、1933年にスターリンを「クレムリンの山男」であるとし、「野太いその指は芋虫のごとく脂ぎっている」と詩に書いた。マンデリシタームはこの一篇の詩によって逮捕され、流刑になる。その4年後、マンデリシタームはスターリンを褒め称える詩を書く。「スターリンの目によって山は動かされ、平原はまぶしげに目を細めて双方を見やった」のである。しかし、マンデリシタームは許されることなく、1938年にウラジオストック近郊のラーゲリ(収容所)で病死する。
 ソ連時代の芸術家・知識人は、スターリンとつねに対決しなくてはならなかった。著者が本書で使うキーワードは「二枚舌」である。芸術家たちがスターリンという権力者の圧力に対して「二枚舌」を使いながら、どのようにして自分の芸術作品を作っていくか。その二枚舌をスターリンはどのように読みとるのか。スターリンという20世紀の独裁者の肖像も自ずから見えてくる。
 たとえば、スターリンの忌避に触れて殺されたらしいゴーリキーについても、著者は1935年にモスクワ近郊で起きた「豪華旅客機マクシム・ゴーリキー号空中衝突事件」から描き始める。スターリンは、ゴーリキーの名のついた旅客機を墜落させることによって、ゴーリキー自身の殺害を象徴的・演劇的に予告したという見解である。
 本書はアカデミックな著作でありながら、高度なルポルタージュ的手法によっても書かれていて、読む者は手に汗を握り、文字通り「読み始めたら止まらない」という状態になるであろう。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2002.07.04)

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映画の領分 映像と音響のポイエーシス

2002/06/12 18:15

「神は細部に宿る」をキーワードにして、東西の映画の特質を考察した鋭い論集

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 本書には、「映像と音響のポイエーシス」というサブタイトルが付けられている。そこには、何となく近寄りがたい映画理論の存在を予測させるものがある。しかし、内容はきわめて緻密な映画の分析であり、愛を込めた映画作家論である。
 著者の考察の対象は洋の東西を問わないが、五所平之助、溝口健二、伊藤大輔などが日本映画論の部分で論じられる。その五所平之助論である「映画はミディアム・クールである」の章で、著者は自らの映画論が「細部」にこだわるものだと説く。それは、「神は細部に宿る」からである。
「神は細部に宿る」は、アビ・ヴァールブルクのキーワードであり、ベンヤミンの思考の文字通りの鍵であった。本書の著者は、このキーワードを武器にして、女優論を展開し、タルコフスキーを論じていく。ジョーン・フォンティンが、「すべてを理解しているつもりだった夫の異常な行状に震えおののく妻」を演じている瞬間を著者は見逃さない。
 評者が本書のなかで特に注目したのは、日本の時代劇映画(著者はそれを「ちゃんばら映画」とも呼ぶ)を論じた「殺陣の構造と歴史」である。著者は、いままで「荒唐無稽なテロと人殺しの正当化にすぎない」とされてきた時代劇を「世界映画史全体の文脈のなかに位置づけてみる」ことを主張する。そうすると時代劇が「じつは世界でもっともすぐれた活劇ジャンルのひとつである」ことがわかってくる。そして、1925年に作られた、阪東妻三郎の『雄呂血』から、1973年の中村敦夫の『木枯し紋次郎』にいたる時代劇映画の系譜をたどるのだが、そこでもまた嵐寛寿郎の「眉の動き」という細部に、「幕末の混迷を乗りきらんとする鞍馬天狗の意志」を読み取るのである。
 本書によって読者は映画を新しい眼で見ることが可能になるだろう。日本の映画論のレベルを引き上げた力作である。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2002.06.13)

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戦争とプロパガンダ 1

2002/03/25 18:15

パレスチナ人でアメリカで活躍するサイードが、「2001年9月11日」以後を解読する待望の論集

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 2001年9月11日の事件について、またその後の状況についてエドワード・サイードがどのような発言をするのかを、多くの人が待っていた。本書はその期待に応える論集である。あの事件のあと、アメリカはテロリストに対する「報復」のためにアフガニスタンに軍事介入を行った。それに「便乗」するかたちで、パレスチナ人による反イスラエルの行動は「テロリズム」の枠に入れられてしまった。
 「過去数ヶ月のあいだイスラエルが世界に対してうまく証明しようとしてきたのは、イスラエルこそが、パレスチナ人の暴力とテロによる無実の犠牲者」であるということであった。イスラエルのこのような主張は、アメリカのマスメディアが繰り返して発信してきたことであり、多くのアメリカ人もそのように考えているのである。これは、アメリカとイスラエルの「プロパガンダ」の勝利であるとサイードは指摘する。
 アメリカ、イスラエルのプロパガンダは、たえず強力になされてきたのであり、その結果アメリカ人は、「パレスチナ人にも苦しみや追放の物語があることに微塵も気づくことがなくなった」のである。イスラエルが「情報戦」に巨額の資金を使っているのに対して、アラブ世界は、それに対抗するような情報活動をしてこなかったのであり、サイードはそうした状況の打破を求める。
 サイードがパレスチナ人に対するイスラエルの不当な弾圧をきびしく批判するのは当然のことである。しかし、サイードはそれと同時に、パレスチナとアラブ世界の指導者たちに力が不足していることにも批判的である。本書を読むと、歴史と現実をよく見定め、多くの情報を集め、的確な判断をしていくサイードの姿が見えてくる。固い内容の書物でありながら、評者は一種の感動をもって本書を読んだ。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2002.03.26)

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マキャヴェリの孤独

2001/12/11 22:16

「哲学者」マキャヴェリは、なぜ孤独だったのか。アルチュセールの思考のエッセンスを示す論文集。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、1955年から1978年までに書かれたアルチュセールの論文を集めたものである。ここにはアルチュセールの思想が凝縮されている感じがする。1963年に発表された「哲学と人間科学」のなかで、アルチュセールは、マルクスが「ホモ・エコノミクス」(経済人)の神話を破壊して、その理論を作ったように、フロイトは「ホモ・プシコロギクス」(心理人)の神話を破壊したのであり、「フロイトのなした解放するための断絶」をラカンがその目で見、理解したとする。そしてアルチュセールはこの論文のなかで、ラカンの「理論的価値」に人々がまもなく気づくであろうと予測する。それは、ラカンの理論がいままでの理論と「断絶」していることをアルチュセールがよく理解していたからである。

 過去と「断絶」しない限り、新しい理論は生まれることがない。そして、そのような「断絶」によって自分の理論を作る思想家は「孤独」にならざるをえない。そのような孤独な「哲学者」の典型が、マキャヴェリである。分断されていた当時のイタリアに国民国家を作るという「成し遂げられるべき事実」を追い求めたマキャヴェリの思考は、過去のあらゆる政治理論とは無関係になされたが、また、「彼以後の思考の置かれた思考の枠組み」にも入らないものであった。そこにマキャヴェリの「孤独」がある。

 過去の理論と「断絶」することによって自らの思想を作り上げていく者にとって、そのような「孤独」は必然的である。その孤独は、マキャヴェリ、フロイト、ラカンだけのものではなかった。それは、アルチュセール自身の孤独であったに違いない。アルチュセールは、「マキャヴェリの孤独」について論じながら、同時に自分自身の思想の孤独を感じていたはずである。

 福井和美氏による翻訳はわかりやすく、訳注もていねいに作られている。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2001.12.12)

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ボルヘスの北アメリカ文学講義

2001/12/03 22:15

アルゼンチンの代表的作家ボルヘスによるアメリカ文学の簡潔で、そのうえ包括的でユニークな案内書。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『ボルヘスの北アメリカ文学講義』は、いままでまがりなりにもアメリカ文学を読んできたと思っている読者には、自分の読みの浅さを知らされる機会を与えるであろうし、アメリカ文学を敬遠している人たちには、それがたいへんな損失であることを思い知らせるであろう。本書を一読すれば、ボルヘスがどれほどアメリカ文学を愛してきたか、アメリカ文学についての批評をどれほどきちんと読んできたかが理解されよう。

 たとえばボルヘスは、メルヴィルの『白鯨』には、カーライルとシェークスピアの文体の影響があると書いている。そういう見解は、カーライル、シェークスピア、メルヴィルを深く読んだひとでなければ、けっして示すことのできないものである。『白鯨』に関して、ボルヘスが1912年版の『ブリタニカ百科事典』では「単なる冒険小説として片付けている」と書くのは、『ブリタニカ』に当たっているからである。つまりボルヘスは、自分の豊富な読書体験と、過去のさまざまな文学批評や資料を綿密に調べ、それらを重層的に積み重ねて考察する。これはすでに邦訳が刊行された『ボルヘスの「神曲」講義』、『ボルヘスのイギリス文学講義』と同じ方法によるものである。

 ボルヘスによると、アメリカは「詩人によって祝福されるべき新しい事件」だという、ホイットマンに代表される見方と、「ヨーロッパの延長」とするポーに代表される意見とがあって、「アメリカ文学の歴史は、この二つの考え方のたえまない葛藤」を反映しているという。これは、ボルヘス自身の葛藤でもあるといえよう。

 このように、本書はきわめてコンパクトなかたちでありながら、アメリカ文学を徹底的に読んできたボルヘスの体験の記録であり、ありきたりのアメリカ文学案内ではない。ボルヘス独自の読み方がいたるところに見いだされ、ボルヘスのファンにとっては、真に魅惑的な書物である。柴田元幸による翻訳が、まさしく信頼に値するものであることはいうまでもない。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2001.12.04)

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フロイトとラカン 精神分析論集

2001/08/23 03:15

現代の代表的哲学者アルチュセールによるフロイト、ラカン論。彼自身の思想形成の過程も示される。

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 アルチュセール思想のキーワードのひとつである「重層決定」は、フロイトから借りてきた概念である。また最近しばしば言及される「イデオロギー的国家装置」の概念は、グラムシ、マルクスの思考を展開したものであるが、それと同時にラカンの鏡像段階理論とも深く関わっている。本書はアルチュセールの思想形成にとって、このようにきわめて重要な役割を演じていたフロイトとラカンについての論考を集めたものである。アルチュセールとフロイト、ラカンの関係に関心を持つ者にとって、本書は限りない刺激と満足を与える論集である。

 本書に収められた「フロイト博士の発見」のなかで、アルチュセールは次のように述べている。「無意識の表れは人間主体、つまり意識を持った個人にしか起こりえないことをフロイトは示し、主張した。」この見解は直接にラカンの理論とつながっているのだが、無意識が意識以前にあるという考え方を否定しているところに注目しなければならない。アルチュセールは、このような無意識の発見がフロイトの画期的な仕事であったことを認める。しかし、アルチュセールの見解では、「フロイトは努力したにもかかわらず無意識の理論を樹立するにはいたらなかった」のである。
 そして、フロイトがしなかった、あるいはむしろできなかった無意識の科学的理論化の仕事をラカンがなしとげたとする。アルチュセールによるラカン解釈は、ラカンの思想を明確に理解した非常に鋭いものであり、本書を読むと、いままでの多くのラカン論が色あせて見えてくる。

 アルチュセールのラカン解釈でもっとも注目すべき論点は、「無意識は言語のように構造化されている」というラカンの有名なテーゼについての考察である。アルチュセールは、「無意識の言説において語っているのは、イデオロギー的言説そのものではないだろうか」と書いている。無意識の言語構造が「イデオロギー的国家装置」と結びつけて論じられている。無意識は意識を持った人間においてのみ起こるのであるが、その無意識を決定するものは、イデオロギー的言説、もっと明確にいえば、「イデオロギー的国家装置」である。エンジンがガソリンによって機能するように、無意識は「イデオロギー的なもの」によって機能する。この見解が重要なのは、アルチュセールがここで単に自分のラカン解釈を示しているだけではなく、自らの「イデオロギー的国家装置」論を提示しているということである。ここにラカンとアルチュセールの思想的縫合がある。

 また本書には、アルチュセールが「フロイト博士の発見」の22ページのタイプ原稿を何人かの友人に送り、コメントを求めたというエピソードが添えられている。この要請に対して、ナシフは、45ページに及ぶ手書きの注釈を、エリザベート・ルディネスコ(有名な『ラカン伝』の著者でもある)は16ページのタイプ原稿をアルチュセールに送ったという。印象に強く残る話である。なお、石田靖夫、小倉孝誠、菅野賢司の三氏による翻訳は、正確かつ丁寧で読みやすい。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2001.08.23)

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音楽家プルースト 『失われた時を求めて』に音楽を聴く

2001/06/29 15:17

「カナダで活躍中のフランスの音楽記号学者が『失われた時を求めて』を音楽と関連させて読む。

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 音楽を記号論の立場で考えようとし、また、デリダをはじめとするポスト構造主義の思考をも十分に消化してきたナティエは、本書において『失われた時を求めて』を音楽とのかかわりの中で考察しようとする。プルーストのこの作品には、音楽家のヴァントゥイユ、画家のエルスチールといった「芸術家」が登場する。また、フェルメールという名前をプルーストのこの作品を媒介にして知った人もいるであろう。とにかく、『失われた時を求めて』は、絵画・音楽と深いつながりのある作品である。

 ナティエは、『失われた時を求めて』の第4編にあたる「ソドムとゴモラ」以降は、「絵画への言及が減少していく」と見る。それにかわって、音楽に言及することが多くなっていく。『失われた時を求めて』では、ワーグナーがもっともしばしば言及される音楽家である。このことはすでにプルースト研究者によってデータとしては示されていたことである。ナティエの見解によると、プルーストは『失われた時を求めて』の「基本的主題のモデル」をワーグナーの中に見いだしていたのである。「パルジファル」は、『失われた時を求めて』と同じように、「探求について語った作品」であり、ワーグナーとプルーストは、作品の主題そのものが類似しているのである。

 また、ナティエは、プルーストとドイツの哲学者ショーペンハウアーとの関係についてもユニークな考察をしている。ショーペンハウアーは、われわれにとってはほとんど忘れられたか、知られることのない哲学者であり、本書で言及されているその大著『意志と表象としての世界』を読んだひとは、まずいないであろう。しかしプルーストはこの哲学者の仕事を高く評価していたのであり、そしてナティエも、『意志と表象としての世界』が、「小説における音楽の機能にかかわる物語の骨子をプルーストに提供している」と説く。「ショーペンハウアーのおかげで音楽の富は、個別の記号学的な力であるだけではなく、形而上学的な真実となった」とナティエは主張する。哲学と音楽と文学の意外な結びつきが発見されているのである。「プルースト的体系の見事な一貫性」は、プルーストがショーペンハウアーの哲学に依拠することによって可能になったというのがナティエの見解である。

 最近、鈴木道彦による『失われた時を求めて』の新しい訳が完成した。それによって、プルーストに接近することがさらに可能になったと言うべきであろう。この『音楽家プルースト』の刊行は時宜を得たものであり、『失われた時を求めて』へのユニークな案内になるだろう。翻訳はプルーストを長年にわたって研究してきた訳者の手になるものであり、信頼に値する。 (bk1ブックナビゲーター:宇波彰/札幌大学教授 2001.06.30)

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