井出彰さんのレビュー一覧
投稿者:井出彰
文化と両義性
2000/07/10 20:49
今、最も刺激的な発言者で、最も旺盛な読書家の山口昌男の原点が蘇る
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
わが国の文化人類学は、山口昌男によってその学問的地歩が固められたといってもいいが、昨今の氏の発言は一層多岐に亘り、一層刺激的・魅力的になっている。近著『「敗者学」のすすめ』(平凡社)でも、従来鎖国や制度にしがみつき、とるに足りない旧守派と歴史上から無視されてきた徳川幕臣たちの数々を掬い出し、彼らが持っていた教養や倫理・文化意識や生活システムに注目し、返す刀で薩長によって主導されてきた今日までの近代日本の足跡へと批判の矢を向けている。例えば、山本覚馬なぞといった名前を聞いた人は何人いるか。山本は戊辰戦争のとき会津藩士として官軍と闘い、薩摩藩の捕虜となり幽閉された。拷問されたのか、目が不自由、下半身不髄となった。が、彼の知見は人を動かし、維新後、近代化・都市化を進めようとした京都を文化都市造りへと変えさせていった。彼の存在がなければ今日の京都はなかただろう、といった具合である。
山口にはアフリカやインドネシア諸島をめぐるフィールドワークの報告を兼ねた著書が沢山ある。が、何といっても95年に刊行された『「敗者」の精神史』と『「挫折」の昭和史』の二冊の大著によって一躍、彼の博覧強記ともいえる知の宝庫が、現実に突き刺さった。舞台は満州。明治、大正、昭和の戦前期、野心に燃える一旗組が新天地を求めてわれもわれもと海を渡った。そこでは実業はもちろん映画、絵画、スポーツ、音楽。ありとあらゆるジャンルで狭い国土の中で閉じ込められていたエネルギーが解き放たれ飛び舞った。人間と人間が絡み合い、謀り事も含めた人間臭さが漂う上に、フランス文化やイギリスの文化が成立した。アヴァンギャルドの芸術が語られモダン芸術が花開いていった。山口は驚くべき読書量と膨大な資料の検証によって、それらを跡づける。
この昭和の記念碑的ともいうべき二つの大著を読み終わったとき、それが単なる物語や歴史の記述だけではなく、彼の長年積み上げてきた文化人類学的手法によっていることが分る。外地・満州での増成されたダイナミズムは、閉塞された内地に環流された。軍部主導によって窒息死寸前であった内地、日本に風穴を開け、酸素を送り続けた、と表現してよいのか。
山口の多義的視点が、純粋主義とでもいうのか、平板で単線的だった、わが国の思考回路を変えた。歴史学、民俗学、地理学など文化人類学と隣接する学問だけでなく哲学、社会科学など全ゆる分野に変容を迫った。
中心と周縁、聖と俗、秩序と混沌、内と外、日常言語と詩的言語。一方を選び他方を排除する従来の思考を越えて、すべてを呑み込んだ。75年刊行された『文化と両義性』は、その山口の思考の原点である。山口の思考が歩いてゆくと、平板だった風景が山あり谷ありのおもしろい風景に変貌し、モノクロームで描かれた世界が、あざやかな天然色に染め上げられた、と中沢新一はふり返っている。その古典ともいうべき『文化と両義性』が装いを新らたに、「岩波現代文庫」として蘇った。読むべし! (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2000.7.11)
仏弟子ものがたり
2001/04/26 15:16
お釈迦様の教えや直弟子たちの考えがすごくやさしく解釈されている。けど、それも読む人の心次第!
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
お釈迦様が死んでから2500年、釈迦自身が死や生に苦しみ悩み、大変な修行をして到達した考えは深く素晴らしい。そして後生の多くの人たちは、この釈迦の到達した考えのお裾(すそ)分けをもらおうと一生懸命努力してきた。
『春雷』『光匂い満ちてよ』など、今で思えば人間の煩悩を描いてきた小説家、立松和平もまた、そんな入口の端に立ったようだ。中村元訳『仏弟子の告白——テーラガーター』を何度も読み返し、釈迦の生前、弟子となった者たちの群像が紹介されている。そして「仏弟子となったものたちは、衆生であり、凡夫であり、つまりもともと私たちと同じ平凡な人間なのであり、お釈迦さまに示された道を歩むことによって、濁悪(じょくあく)の世の苦しみから解脱することができた。仏弟子たちの言葉に接すると晴ればれとした気分にもなってくるのは、私たち自身もその言葉によって救われてくるからである」と、この本の意図について語っている。
で、ここではほぼ20人のいわば直弟子たちのプロフィールが紹介されている。二つ三つ挙げれば日本では羅ゴ(目へんに候という字)羅(らごら)と呼ばれているラーフラは釈迦の一人息子である。まだ釈迦がゴータマ・シッダッタと呼ばれカピラ城の後継ぎになるかどうか悩んでいて16歳でヤショーダラーと結婚し、27歳のときに生まれた。すぐに出家して何年もの修行を完成させたのち里帰りし、初めて会った9歳の息子を父や母、妻の猛反対をよそに出家させてしまった。カピラ城の王家の血筋は途絶えた。ラーフラとは束縛という意味である。嘆き悲しんだ妻もまた晩年出家する。
アジャータサットゥは日本では阿闍世と呼ばれている。彼は父を憎んでいて殺そうと考えていた。父のビンサーラ王は釈迦のよき後援者であり敬けんな信者であった。そこで彼は同じ釈迦の弟子でありながら釈迦を憎み別の教団をつくろうとしていたデーヴァダーと謀って父を幽閉し父を庇う母を繋いだ。その内、彼の息子がひどい皮膚病になり彼は何度も何度も血膿を口で吸い吐き出してはまた吸い、息子をいとおしんだ。やがて父もまたあなたをそんなふうにして育てたんだと教えられ父に謝ろうとしたが、父はその前にこの世を儚んで死んでいた。父は毘沙門天の世に生まれ変わったという。
教団が大きくなり訪ねてくる人も多くなって、その事務やときには代理をして常に寄り添っていた者にアーナンダ(阿難)がいた。しかし、お釈迦さまに可愛がられることを妬む者の沢山の陰謀もあった。いずれにしろ、小さな国家が林立し権力がぶつかり合い、身分制度が厳しく他宗派とのせめぎ合いが背景にあったことを伺わせる。だからこその極楽浄土の思想だとも思い知らされる。
我々に最も親しいのは阿修羅と呼ばれるアスラである。奈良興福寺の国宝館の阿修羅像は一つの頭に三つの顔がある。見る人の心によっては怒りとも、全く正反対の慈しみの表情にもなる。奈良彫刻の、というより世界の彫刻の白眉である。仏弟子たちのものがたりは、読む人の心のあり様によって種々な教えを与えてくれる。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2001.04.27)
破天荒伝 ある叛乱世代の遍歴
2001/03/01 18:15
「叛乱の時代を真っ向から生き抜いた男。どこまでも倫理的であろうと。」
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
人はどこからきて、どこへ行くのか。そんな古典的で誰もが永久に答えられない問いが、時おり荒岱介の脳裡をよぎる。が、当然解らない。そのかわりに終戦直後の日本によくあった家族の風景が浮かぶ。福島県相馬で、そのむかし刀鍛冶をしていた一族から一人の秀才が生まれる。一高から東大に進むと一族は田畑を売り払って勉学の資金に当てた。次男から生まれた男はそれでも裸一貫で上京し、離婚、再婚、失業。昼間から酒びたりになっては暴力を繰り返す。長男の子は文芸評論家の荒正人、次男の子は著者の父親であり、少年はただ野球に明け暮れる。
が、彼をして吹き荒れる風雨に真っ向から挑んで立ちはだかり一歩も退くことをしない男にしたのは、そんな幼少期の記憶だけではない。彼が大学に入学した1960年は敗戦から立ち上がった国家が、その権力の構図を再編、確立しようとする時期だった。
それに抗した60年安保闘争で敗北した学生・労働者の組織は四分五裂していた。が、どの党派に入るかどうかなぞ高校を出たばかりの大学生に選択する力はない。時代に対する怒りがあるだけである〈入った大学や学部の党派性にも規定される。集団や組織に帰属する動機は、出会った人の人間的な魅力に惹かれる〉。
彼の出発点は、関西ブンドの塩見孝也との出会い。のちに赤軍派を仕切る塩見の執拗なオルグ。以後、荒は東京における関西ブンドの中心的存在、更に日向派(彼のペンネームは日向翔)の主導者として70年代最強の軍団の一つを造り上げる。彼を過激へ、過激へとエスカレートさせていったのは、東大安田講堂、三里塚、沖縄等の闘いである、同時に各派の思惑の入り乱れ、果てはリンチ殺人を繰り返すゲバルト合戦である。ふりかかる火の粉を振り払おう、振り払おうと足掻けば足掻くほど本人の意とは逆方向に結果してしまう現実である。
宮崎学の『突破者』が刊行されてから、三上治の『1960年代論』など、この時代を駆け抜けた者たちの自伝ともいうべき本が少しずつ刊行されはじめている。世界革命を夢みてアラブに翔んだ重信房子が帰国・逮捕され、よど号に乗って北朝鮮へ行った田宮高麿が死亡、他のメンバーも帰国の途を探っているという。ひとつの時代の終焉が告げられたのか。あるいはそれぞれの人生がけじめをつける年齢にさしかかりはじめたのか。
が、本書は自伝にしては感傷は極力抑えられ、淡々と入り乱れた各派の様相や構図が綴られている。当時のその荒波を時には避けようとし、時には仕方なく正面から泳ぎきろうとして、ふと後を振り向いたら、身体も大きく逞しい荒の後に何人もの若者がいた、ということか。
朝日新聞に乗り込んで自爆した野村秋介や連続殺人の永山則夫との獄中での偶然の出会い。テロられて瀕死の状態になったこと。千葉や府中、小菅での獄中生活。さりげなく人生の一頁のように書かれているのがいい。絶対に逃げないで、どこまでも倫理的であろうとする不器用な男の半生である。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2001.03.02)
仰臥と青空 〈老・病・死〉を超えて
2001/01/12 18:15
「死はぼんぼりのような温みと光度のある場所で恐くはないが、やっぱり水上勉も病苦は恐いんだ」
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
本書は五つの章に分かれている。冒頭は、水上勉の現状報告といったもので、若い時の肺炎を除いては、病というものにあまり縁のなかった氏も、八十歳に近づくといろいろ不調が出てきた。心筋梗塞とか、眼病とか、脳梗塞とか七十歳を過ぎると病の連続だが、どちらかというと、それは隣に跨ぐ塀が低くなった気持ちもきざしている。隣の芝生(死の場所)へいつでも行けるのである。そこを跨いで行かないと行けないところのようだけれども、低いと、大丈夫いつでも行けるな、という気持ちになる。隣というのは死国である。
冥途へ行く道は、そう穴も暗闇でないし、ぼんぼりのような温かみと光度のある場所だし、何かいいことがありはせんかという気持ちもある、という。
そう述懐している氏は、半身麻痺の状態で、右半身は動くけれど左半身が不自由。そこで信州北佐久の北御牧の自宅から三十分ほどの山間にある鹿教湯(かけゆ)の病院で治療を行っているのである。氏の死への予感、病への脅えには数年前に一過性の脳梗塞になり、クモ膜下出血を併発し、言葉を失っている今年七十六歳になる弟の存在が貼りついている。その水上老もいま幅九〇センチのベッドに窮屈がらずに寝ることを余儀なくされている。正岡子規の「病状六尺」のほうがはるかに広いし、敷居がないから周囲の畳を使えて、硯で墨を摺れたであろう、と。
氏は入院の準備に正岡子規『墨汁一滴』『仰臥漫録』『歌よみに与ふる書』『病状六尺』の四冊を持ってきて枕もとにならべてある。病苦と激しく戦いながら華やかな文学を創り上げた子規を通して、その活力を懸命にもらおうとしている。仏教に精通した氏は死そのものよりも言葉を失い、病苦に苛まれ、なお身一つ動けなくなる病を恐れているのだ。病苦を逃れる道探し、は人間、誰にでも避けて通れない道なのである。
悟りの世界は、道元の『正法眼蔵』をめぐり、自ら寺を出てから野良犬のように自由を求めてさまよった過去の光景をも浮かび上がらせる。
枯野をかけめぐる夢ほどではないが、若き頃の焼け野の光景がへめぐる。防空壕を利用した焼トタン屋根のバラックだとか、当時流行したヘギのような木の皮屋根の平屋建て。板一枚きりの椅子の屋台での梅酒をカストリで割ったほろ甘い酒。その屋台ですいとんが売られる日は行列が出来る。妻と別れて三歳の娘と暮らしていた。正宗白鳥や宇野浩二の口述筆記で何がしかの生活費を稼いでいた日々。
順序は逆になるが常宿にしていた奥湯河原の加満田旅館の小林秀雄と、その周辺に集まった中村光雄、今日出海、林房雄、白州正子、福田恒存、江藤淳らとの交友。最後の文人の最後に近い隠し味の効いたエッセイである。
最後に、小林秀雄の父は鋼でダイヤモンドを切る職人だったという。〈まさに小林秀雄の文学そのものだ。硬質なもの、紛いのないもの、不変のもの、古美術のような重みを抱えて生きつづけているもの、そういうものに耳をすます感性は、お父さんの職人としての感性につながると思う〉と、出色の洞察。ここだけでも記憶しておくべし。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2001.01.15)
プリオキュペイションズ 散文選集1968〜1978
2000/07/10 20:49
詩人ヒーニーが突き当たらざるを得ないアイルランドの長い歴史と宿命を掘り返す
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
シェイマス・ヒーニーと言えば二十世紀のアイルランドばかりでなく、世界を代表する詩人の一人だ。1939年に北アイルランドで貧しい農家の長男として生れた彼は、故郷の片田舎の情景や子ども時代の思い出、そこで暮らす人々を扱った処女詩集『ナチュラリストの死』以来、第ニ、第三詩集へと進むにつれて個人の原的体験への沈潜の度合を深めてゆくが、それはやがて人間の普遍の問題へ至ると同時に紀元前のケルトの侵入以降周縁地域として常に侵略に晒され続けてきたアイルランドの長い歴史と宿命の問題に突き当たらざるを得ない。
詩人であることが不可能とさえ思える現代に、その不可能性を救済する手立てとしてかえって個人や発言を奪われてきた人々、そしてアイルランドの歴史が繰り返し掘り返されることともなる。
本書はそんなヒーニーの1968年から78年にかけての講演、評論、書評を集めた散文集である。原著は1980年にFaber社から出版されており題名に『プリオキュペイションズ』とある通り、彼の(急を要する)関心事が綴られる。詩とは何か、詩人であるとはどういうことかを巡って自らの経験が語られ、ワーズワス、イエイツ、ホプキンズ、パトリック・カヴァナ等々といった詩人たちの仕事が取り上げられる。
彼は言う。詩における手法とは「人生に対する詩人の確固たる姿勢や現実認識を含むものです。手法は通常の認識範囲を越え、言葉にならないものに襲いかかる方法を発見しないと手にすることはできません。それは記憶や経験に発するもろもろの情緒の源泉と芸術作品の間に立ち、怠りなく両者を警戒しつづける仲介者なのです」と(本書第二部「言葉の手探り」より)。また技能だけで手法を欠いた詩人の方がずっと多い、とも。
彼が飽くまで手法にこだわるのは、知名度においてイエイツらよりもはるかに低いパトリック・カヴァナに対して強い思い入れをのぞかせているところからも見てとれる。カヴァナが「手法は本物だが、技能は不安定」な詩人だからである。
本書の翻訳者のうち一人はかねてからヒーニーを敬愛していたという作家の室井光広。室井により巻末に付された解説は「ナチュラリストの死」と「フィールドワーク」の二つの言葉がキーワードとなった、翻訳原理を巡る断章群である。前者はヒーニー処女詩集の題名のみならず自然讃歌を歌い得た時代の終焉といった意味合いが込められ、二十世紀の芸術全般が置かれた状況を指し示す。そしてそこをくぐり抜け、再生の道を探るための方法としてヒーニー詩集の題名でもある「フィールドワーク」という概念が用いられる。
言葉では表されていない世界を掘り返し、詩という新しい言葉に移植し創造してゆくヒーニーの仕事(これが「フィールドワーク」という概念にも通じる)をひとつの「翻訳」作業と言えることに重ね合わせて室井もまた万葉の古代や縄文の世界を掘り返してみせることで我々日本人の日常に新たな世界としてのヒーニーを「翻訳」しようと試みているようだ。こちらも一つの独立した読み物として楽しめる。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2000.7.11)
奈良の散歩みち
2001/07/18 22:15
古都・奈良の風景の裏側へと連れてってくれる。
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
住めば都と昔から言われてきた。が、とりわけ都会の勤め暮しの人にとって、自分の住んでいる町については、ほとんど知らないことだらけである。そんなとき旅に出てみる。気分がリフレッシュされ、今まで無関心だった自分や自分をとりまく周囲の風景や環境が比較され、はっきりと輪郭が浮き上がり、姿形が現われてくる。
更に少しばかり贅沢だが、一年に一回とはいわないまでも三年に一回、五年に一回というふうに同じ一つの都市や場所に出かけてみるのはどうか。その都市の表面上の風景が、三年間に、あるいは五年間に少しずつ変化していることが解る。その上、単にぼんやりと見ていた風景の底には思いがけない歴史や生活、風習などが詰まっていて、風景は一層深みを増して、我々にいろいろなことを教えてくれる。いわば風景の裏側、裏の風景というやつだ。それが古都だということになれば、その風景の裏側の厚みに驚かされる。奈良とはそんな定点的な観測、遊行に格好の場所である。
先日鎌倉へ行ってきた。三方を険しい山で囲まれ一方が荒波の海の地形は小じんまりとしていて敵の攻撃に対抗するには最適の都市となっている。武士たちが造った寺社もまた豪奢だ。そして、山の斜面に建てられたそれらには岩肌が露出し苔生していて武者震いするほどの冷気が漂っている。鎌倉武士の心丈夫がそこここに滲み出ている。それに比べて奈良は公家や貴族たちの造った都市だ。奥深く四方を取り巻く山々も優美だ。同じ古都とはいえ、京都は幹線が通り人家の波や新興企業の高いビルが建ち並び、古代の風景は圧殺されかかっている。しかし、奈良は少しばかり幹線からはずれていることが幸いしてきた。隠国(こもりく)と呼ばれる神々や仏たちの世界の面影があちこちに残っている。
もちろん今は21世紀、近代の企業の進出や大阪、京都のベッドタウン化は免れない。が、それでも古さと新しさが共生しようという試みがなされている。それをゆっくり観察しながら歩くことも一つの旅のコツである。
本書は、そんなコースの十六を示して案内してくれている。一昔前なら和辻哲郎の『古寺巡礼』や亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』を読みながら散歩を楽しみ仏像を見学した。今でも和辻哲郎の本は新刊として手に入る。亀井勝一郎のものはなかなかむずかしい。しかし、それにかわる本は沢山ある。直木孝次郎をはじめとした歴史家や文学者のもの、榊莫山のエッセイでもいい。行く前でもよし、帰ってからでもよし、それらの本を読めば、風景の裏側、裏側の風景というやつが垣間見えてくる。そのことによって旅=非日常から、自分が住んでいる町=日常が違った視点から見えてくるのではないか。
旗を立て団体で宴会三昧やゴルフ漬けの旅行から、そんな形の旅へと変化していってもいい時代になってきているのではないか。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2001.07.19)
聖徳太子と日本人
2001/06/27 22:19
聖徳太子は歴史上いなかったんだって。じゃ日本の歴史はどうなるの?
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
十年前、十五年前のバブル期には二枚や三枚の聖徳太子が入っていた財布も、いまや一枚も入っていない情けないことになっているサラリーマンも多い。しかも、その主人公もいつの間にか姿を消して福沢諭吉になっている。ふっと溜息をつきながら、わが財布の中に、あの自信に充ちた聖徳太子が存在したことさえ疑わしくなる。その聖徳太子が、わが財布の中だけでなく、何と実際にわが歴史の上でも存在したことはなかったのだと主張する人が現われた。この本の著者・大山誠一氏である。
ちなみに、ン十年前のとき、教科書で教わった聖徳太子なる人物の略歴を復習をしとこう。五七四年に生まれ六二二年に死亡。用明天皇の皇子で、本名は厩戸王(うまやどおう)。おばにあたる推古天皇の皇太子として摂政、つまり天皇に代わって国政を担当した。冠位十二階、憲法十七条の制定などによって国内を整備し、遣隋使を派遣して大陸文化の導入につとめた。深く仏教に帰依(きえ)して、住居である斑鳩宮(いかるがのみや)に斑鳩寺を、難波(なにわ・大阪)に四天王寺を建立し、経典の注釈書の『三経義疏(さんぎょうのぎしょ)』などに著した。中大兄皇子や中臣鎌足らに引き継がれた、大化の改新の基礎をつくった。いわば、その後の日本の基礎をつくった一、二に偉い人として教えられてきた。もう一度言えば、日本という国の骨格をつくった人である。そして、何と、その人の略歴の一つ二つに嘘があったというのではなく、その人が実在しなかったと主張しているのである。しかも、おもしろおかしい推理小説や読み物ではなく、奇を衒った発言でもない。長い間の研究を積み重ねてきた上での実証的な論文である。もっとも学術論文としては、すでに歴史書の専門出版社の吉川弘文館から『<聖徳太子>の誕生』として刊行されており、本書は説得的に、分かり易く一般向けに書かれたものだ。
では、なぜそんな虚像をつくらなければならなかったのか。端的に言えば文字も碌になかった文化的には遅れをとっていた当時の日本が先進国である中国(唐)や朝鮮(新羅)に対抗するために、当時の権力の中枢にあった藤原不比等と長屋王が、中国帰りの僧・道慈を加えて、中国の中心的存在であった聖天子を真似てつくり上げたものだという。更に歴史のうねりは二人の権力者の亀裂を呼び起す。不比等が大衆的に人気もあり政治的力もある長屋王を謀殺する。
世間はこの理不尽を祟りとか御霊の出現だと騒ぎたてる。また相次ぐ藤原一族の不幸が、実質的に権力を掌握していた息子の武智麻呂や娘である聖武天皇の后である光明子を恐怖に駆り立てる。彼らは不安をかき消すために一層完璧な統治者像・聖徳太子をつくり上げる。そのことによって混乱した世相を鎮めようとしたのだ。法隆寺や夢殿、止利作といわれる釈迦像や薬師像、四天王寺の建立。『日本書紀』や『古事記』のトリック。厩戸王の命名や、実際には存在しなかった后の多至波奈大女朗(たちばなのおおいらつめ)。くいちがう死んだ日。まだまだ沢山ある。それをすべて学術的に提出している。
もっとも、このことは江戸時代にも言われ、戦前でも森鴎外、津田左右吉、久米邦武ら、近くは梅原猛ら錚々たる歴史学者や作家が主張してきたが、発禁処分や時代の波に呑み込まれてしまってきたのだが。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2001.06.28)
怨霊の宴 新装版
2001/06/05 18:17
古寺、仏像が並ぶ奈良、京都、鎌倉は、歴史から抹殺された者たちの怨霊の都だ。
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
奈良、京都、鎌倉の古都は、四方を(海または)山並みに囲まれ、深い寺域林に包まれた古刹が点在し、美術史上屈指の仏像たちが居並んで多くの人々を魅了する。しかし、それは地表の風景だ。あるいは長い年月を経てもなお残った、貴族や公家、権力を握った者たちの贅沢、豪壮さ、優雅な生活のほんの一部分の面影である。
当時、血で血を洗う争いは日常茶飯事。その敗れ去った者たちの無念さ、怒り、重税、労働による貧困や飢餓、疫病による何万という死者は河原に重なり合って腐臭を放っていたとさえいわれる。これらの魂は地下にいて静かに眠れず、ときには地表に出て、自分たちをこんな世界に追いやった者たち、君臨する為政者や権力者に対して怨霊として現われる。生き残った者たちも心安からず、これらの霊を鎮めようと大きな寺を建て仏像を造り、加持祀祷に明け暮れた。その様子は『古事記』『日本書紀』をはじめ、『枕草子』『源氏物語』『方丈記』など、ごく一般に知られた作品はもちろん、当時の文学作品、歴史書、日記などほとんどの書物が、いかに御霊の出没に悩まされ、噂が巷間に流布し、鎮魂のための儀式や行事が頻繁に行われていたかが記されていることからも知ることが出来る。
まず怨霊が歴史の舞台にはっきり登場してきた早い例は天平十二(七四〇)年、九州大宰府で反乱を起し敗死した藤原式家の宇合(うまかい)の長子、藤原広嗣。藤原不比等の四子病没後、政権を掌握していたのは、光明皇后の異父兄にあたる橘諸兄(もろえ)であり、この諸兄政権下で重用されていたのが吉備真備と僧玄ボウ(日偏に方という字)。この内、憤死した広嗣のとくに標的となった玄ボウは、「腰輿にのって供養していると、にわかにその身を空中に捕捉され、忽然と消えた。後日、その首が興福寺唐院に落ちた」という。
橘奈良麻呂とその一派を一掃した藤原仲麻呂は名実ともに政界に君臨した。しかし女帝孝謙との蜜月関係は、女帝の心変わりによって急変した。僧道鏡は河内国弓削郷の出身。葛城山にこもり呪法を会得。占星術にたけた道鏡はたちまち上皇を虜にした。亀裂は対立となり、仲麻呂は近江に逃れたが斬首された。孝謙上皇は仏門に入ったが実子がない。これに対し天智、天武の血をひく王たちが数多く残った。その後の皇位継承をめぐる疑獄、陰謀、密告、暗殺が繰り返される。まさに地獄図が展開される。
こんなのは一例に過ぎない。天神様となった菅原道真、長尾王、鬼界ヶ島の俊寛、平将門など物語、能や歌舞伎等でお馴染みだが、まだまだ知られざる御霊がいっぱいいる。いわば奈良、平安、鎌倉時代は御霊がばっこした時代である。そして、これら憤死した魂を鎮めるために大きな寺社が建てられ仏像が送られた。
争い、陰謀、密告、殺戮は今でも形を変えながら続いている。人が古都に惹かれ、仏の前で手を合わせている姿に、自分の内に、そんな古代から続く人間の性に思い当るところがあるからかもしれない。本書はロマンから離れて史実を積み合わた学問の書だが、ロマンより迫力があって面白い。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2001.06.04)
日本人と民俗信仰
2001/05/21 15:16
変容し土着した〈日本仏教〉の魅力と秘密がやさしく語られている。
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
ここで語られているのは「日本仏教」である。〈四文字に括弧をつけましたのは、日本という土壌の上に育った仏教という意味合いからであります。日本という地域で、日本人によって受容された仏教ということで、日本に流伝したインド仏教という意味ではありません〉と著者自身が語っている。
本書の中でも、例えば立山信仰と阿弥陀信仰の重なりが述べられている個所がある。立山は、昔から神がいる神々しい山であった。春上旬のころ越中守の佐伯有若が鷹狩りに行き熊と出会った。熊を弓で射った。熊は傷つきながら高処へ、高処へと逃げ、ついに洞穴へと逃げ込んだ。追っかけて行って洞の中に入ってみると中から熊が金色の阿弥陀さんになって現われた。有若は霊感を感じて、ただちに髪を剃って沙弥になり、慈興と名乗って立山を開いたという。(『伊呂波字類抄』より)
熊や蛇は、古来わが国では神または神の使いである。その熊が仏となって慈悲を示す。
こんな言い伝えは、場所や名を変えて全国あちこちに見られる。ちょうど読んでいた西郷信綱の名著『古代人と夢』にも更級日記や蜻蛉日記の作者が、盛んに長谷観音を祀ってある初瀬の長谷寺に夢解きを頼んでいる。ここに詣でたのはむろん貴族だけでなく、庶民、しかも遠方からも盛んであったという。大和の初瀬地方は隠国(コモリク)。多武峰つづきの山と三輪・穴師の連山に囲まれた幽谷、つまり昔から神々の棲む国だった。ここに神々と観音信仰が同居しはじめた証を見ている。
伊藤唯真氏は冒頭で引用したように、日本仏教について語っている。とりわけ日常の年中行事の正月やお盆について説得力ある分析を述べている。お盆は正式には盂蘭盆会という。先祖が一年に一度帰ってくる日となっている。しかし、本家本元のインドではそんなことはない。『盂蘭盆経』に基づいたものだが、それによれば、目連尊者が霊力によって母親の亡きあとをみたところ、地獄で逆さ吊りの苦しみに遭っている。何とか救いたいとお釈迦さまに尋ねると、僧侶たちが修行し反省し合う日に、僧侶たちに食べ物を供養すれば、その功徳によって母親は救われると教えられる。印度ではここまでである。それが中国では食べ物を持ってお寺に行き僧を供養する、となり、わが国では祖先が家に帰ってきて飲食を共にするということになった。
このように仏教が神々の国へと伝来し、様々な風土、習慣に適応し変容してきた証しとしての伝承や説話を探し出すことが数限りなく出来る。言い換えれば征服してきた過程を垣間見ることが出来る。しかし、そこには計り知れない暗闘があったに違いない。敗れ去った古代の神々の無念さは説話、伝承からは見えにくい。
それにしても仏教は勁い。仏陀が生まれた国では、ほとんど追放されたのに、周囲の国々で様々に変容しながら、今日尚さん然と世界宗教として生き残っている仏教の魅力と秘密とは何か。伊藤氏には著作集四巻をはじめ沢山の著書がある。まだまだその辺の魅力と秘密を知るためにも、それらの本を読みたくなった。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2001.05.22)
薩摩のかくれ念仏 その光りと影
2001/04/16 12:15
いくら弾圧しても人間の心の中まで殺すことは出来ない、とかくれ念仏が教えてくれる
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
かくれキリシタンという言葉は聞いたことはあっても、かくれ念仏という語句は聞いたことがなかった。それもそのはずで実際にはほぼ江戸時代を中心とした薩摩藩でしか見られなかった現象である。ちなみに、この語句は1956(昭和31)年発行の『日本の歴史大辞典』(河出書房)で故桃園恵真がはじめて命名し使ったものだという。
平安時代末から鎌倉時代はじめにかけて貴族社会の矛盾や源平合戦などの混乱から無常観や厭世観が社会を支配するようになった。いわゆる末法思想である。そんな中で法然(浄土宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)、一遍(時宗)など次々と仏教再生を願った高僧が出現した。中でも法然の、南無阿弥陀仏と唱えるだけで人々はわざわざ出家したり修行しなくても救われるという教えを更に深めた親鸞の教えは庶民の間で圧倒的な人気を得、全国に拡がった。浄土真宗であり一向宗とも呼ばれる。一向とは、一心に、ただそれだけを、ひたすらに祈る、という意味らしい。
しかし、全国の中で薩摩藩だけがなぜ一向宗を禁止したのか。豊臣秀吉が薩摩への出陣のとき、本願寺宗主および獅子島の門徒が近道を教えて島津氏の怒りを買ったという説、島津藩の政治にとって四民平等観に立脚した一向宗の教義は邪魔であった。財政に苦しんでいたのに藩の金銭や大量の物資がお布施という形で本願寺に流れてしまっていたため等々、様々な説が挙げられているが、はっきりしたことは分からない。
しかし、はっきりしていることは門徒たちは弾圧が強まれば強まるほど、種々工夫しながら阿弥陀仏をより強く崇拝し南無阿弥陀仏と唱え続けたことだ。カヤカベといって漢字で書くと茅壁と書くのだが茅と土で造った土壁や屋根に仏像を隠して秘かに信仰する。境界を越えて隣の藩の天草、水俣、串間など一向宗が許された地域へと向かう。船や関所を避けて裏街道や山越えなど決死の覚悟だったろう。弾圧によって逃散してきた人々を受け入れる藩外の真宗門徒も多かったらしい。また講というグループを組んで洞や穴に深夜集まって念仏を唱える人々もいた。その洞跡が今も鹿児島県各地には残っている。より下層の人々へと浸透していった一向宗は地理的にも最南端の琉球にまでも及んでいた。信者の多くは往生極楽と願うしかなかった苦海生活者、遊女たちであったという。船乗りや浦と呼ばれた漁師が媒介したのであろうか。
1597年(慶長二)年禁制になったため当然真宗の寺は一つも県内にはなかった。しかしその32年後の大正十一年の調査では他の宗派総て合わせて24寺であったのに対し真宗の寺は142であった。なぜそんな驚くべき増加現象を示したのか、かくれ念仏の存在を抜きにして考えることは出来ない。力でねじ伏せても精神の世界、心の世界は圧え潰すことは出来ないことを教えてくれている。本書は石牟礼道子、原口泉、佐々木智憲らを招いて研究成果、シンポジウムの報告によって成り立っていて、読む者もその参加者の一人にいつの間にかなった気がする。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2001.04.15)
お笑い老人大国 オレたちが日本を喰い潰すぞ!
2001/03/26 12:15
戦争を知らない老人はどうやって生きたらいいのか、死ぬまで笑っていればいい。
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
1949年生まれのテリー伊藤が1948年生まれの泉谷しげるに対談というよりは、インタビューをし、各章ごとにまとめを書きしるすという形になっている。ともに戦争を知らない子供達と呼ばれた団塊の世代に属する。もう何年かで六十歳である。六十歳といえば一昔前までは立派な老人であった。「論語」にあるように、孔子は「三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う、七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず」と説き、古くから日本人は、この言葉を理想とすべき人間の年の取り方、ないしは自らを高める精神修養の一助として受け入れてきた。
が、テリー自身、この言葉に、わが身を重ねてみても実感がわかない。五十になってもどこが五十なのかわからない。七十になっても相変わらず女の子のお尻を追っかけているのではないか、と述懐している。おそらく、こんな感慨を持っているのはテリーだけではなく、多くの日本人が持っている感慨ではないのだろうか。平均寿命が四十、五十歳だといわれた時代はわずか百余年前である。今や七十歳、八十歳は当たり前なのである。一生懸命働いて気がついたら定年、しかしあと二十年、三十年あり余る時間をどうしたらよいか、がテーマのようだ。昔のように人生の経験の豊かさや知恵が尊重されない時代である。新しいテクノロジーに適応できない老人に役割はなく粗大ゴミとして捨てられるしかない。
で、柄にもなくテリーはこんなふうに憂いてみせる。いまや日本に対して全員が思い入れがないから、コギャルの元祖、サッチーこと野村沙知代的に、他人には迷惑かけてない援助交際はいいんじゃないの、っていうのと同じように、日本がどうなっても別にいいんじゃないの、私は将来ハワイに住むから、いっそ日本もアメリカに売って五十一番目の州になったら、その方がパスポートもいらないしってことになりかねない。あるいは老人のセックス対策としてAV嬢や元ホステスとか風俗嬢、四十、五十歳ぐらいでも結構男にだまされてヘロヘロになっている二回ぐらい離婚を経験しているような女性、これからどんどん増えてくるし、そんな人達に手伝ってもらったら、なんて、半分冗談ながら絡んでみせている。
しかし、今や孫も二人いて八人の大家族の長となっている泉谷は、そんな挑発にはさすがに乗らない。年とともに、なんか自然に対する敬愛とか楽しみ、庭いじりとかすごい好きになっちゃって、人に裏で、おお、丸くなりやがって、と言われても構わねえと思うようになってきた。
時代が変わったんだから、そんなの通用しないというように思われていることが多い。けど、古いことでもいいと思ったことを言い続けなきゃダメだと思うんだな。言い続ければ結構人に伝わってゆくんだよ、などと貫禄というか自信というか、さらりとかわして、人生の覚悟の差をみせつけている。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2001.03.26)
ぶらり東海道五十三次芸能ばなし
2001/03/14 18:15
「昔、宿場々々には数えきれないほどのドラマがあった。それを能と歌舞伎を中心に」
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
東海道五十三次の伝馬制が定められてからちょうど四〇〇年になるという。当時の人々は、今われわれが考えているよりもはるかに活発に街道を往き来していたのではないかと思われる。遊行僧、乞食、薬売、鋳物師、番匠、塗師、石切、車夫等々。数え切れない職の人たちが村から村へ、街から街へ、生活を求めて移動していたし、遊女がいて楽人、舞人、博労らも宿場々々に屯していた。
その中でも東海道は、江戸を中心とした文化圏と大阪を中心とした文化圏とを結ぶ最重要の街道だったから、その騒ぎも大変なものだったろうし、その宿場々々では数えきれないほどのドラマが生まれ、消えていったものもあれば変容しながら今日まで伝え残っているものもある。
能はこれまで二千曲は作られただろうと推定されている。その中で、今日上演可能とされる演目は二百五十曲ほどで、これを現行曲という、と著者は書いている。ならば歌舞伎や浄瑠璃は一体いくつくらいの作品が作られたのだろう。本書は江戸→川崎からはじまって草津→大津→京都を経て大阪までの五十三の宿場を舞台にした主として能と歌舞伎の作品、時には田楽や浪曲を交えながら浮き彫りにしてゆく。
例えば、保土ヶ谷を経て、武蔵、相模の国境である境木の立場から平塚へ下る坂を信濃(品野)坂といった。信濃坂の色模様に引かれるわけではないが、戸塚を思い出す芝居といえばまず、勘平・お軽の道行きである。歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の三段目、高師直の仕打ちに堪えかねて、直義を迎える関八州管領館の松の廊下でおこる、塩治判官の刀傷の場云々。
また大磯は、父の河津祐泰を工藤祐経に討たれ曽我に預けられた十郎祐成、五郎兄弟。まだ五歳と三歳だった二人が雌伏十八年の末、富士の裾野で頼朝が催した巻狩の折に仇を討った…『曽我物語』はさまざまな伝説が付され流布、幸若舞・能・歌舞伎などに盛んに取り入れられた。そこに大磯の遊女虎御前と十郎の愛の行くても…絡まる、といった具合に、主に能作品と歌舞伎作品を豊富な知識を駆使して紹介することによって、その当時の騒ぎや土地の特性を知らしめてくれる。そして、五十三次を描いた安藤広重の浮世絵が添えられていて目でも楽しむことが出来るようになっている。加えて『膝栗毛』の弥次さん喜多さんのエピソード、著者の愛着か、芭蕉の句がところどころに現われてきて、ほっとさせる。梅若葉鞠子の宿のとろろ汁、などとわずが十七文字で昔の丸子の町の様子が表わされている。
ちょっと、この分野には疎く、読みはじめはとっ付きにくかったのに大阪に近づくにつれ、一歩手前の大津・京都では能・歌舞伎・浄瑠璃にはお馴染みの小野小町と共に歩いたような気がしたし、大阪では、あの出雲の阿国と足をさすりさすり茶屋で休みながら身の上話を聞かされたような気になった。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2001.03.15)
新☆老人生きる 生きがいの創造、長寿の健康法
2001/02/15 18:15
「老いをよく生きるとは、目標をもちそれに向って一生努力すること、それが長生きの秘訣。」
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
日本はあと15年もすれば、4人に一人は65歳以上の高齢者によって占められるという。一体どうなるんだという不安がつのってくるが、ともかく覚悟と準備はしなければいけない。ということなのかどうなのか分らないが、昨今では「老人力」とか「シルバーライフ」とか「ゴールデンプラン」などという言葉が盛んにいわれるようになってきた。
この本は、後期高齢者というのだそうだが75歳以上の、いわば老人中の老人。けど今なお元気いっぱいで活躍している15人の人に登場してもらって、その生活ぶりを紹介している。しかし、15人は朝早起きし、食事には何と何を食べ、こんな健康法をしていて、こんな薬を飲んでいる、といった共通の事柄があるというわけではない。千差万別、みんなバラバラだ。あるいは個性的だと言いかえた方がいいのかもしれない。
例えば、89歳になる聖路加国際病院の元院長で、今なお現役のお医者さんを続けている日野原重明さんは、二日間で神戸・大阪・小倉・出雲に移動しそれぞれの都市で講演し、夜の9時に東京に戻るといったような強行日程は日常茶飯事。普段の日も、早朝5時まで勤務に追われることも珍しくなく、二時間ほど仮眠して7時に出勤することもザラにある。1週間のうちに最低1回は徹夜するし、土日も休みなし、という。
84歳になる特許王の伴五紀さんにいたってはタバコは一日80本は吸うというヘビースモーカー。大好きなコーヒーは砂糖を五杯も六杯もいれて何杯も飲む。タバコが身体に悪いのは当たり前だが、東京の空気のほうがなお悪い、と笑う。もちろん不摂生がいいというわけではない。82歳で医学博士の幡井勉さんもいうように、好きなものを無理に止めない方がいい、ということらしい。何が何でも肉や酒は駄目、菜食だけに徹するというような意固地になる必要はないという。
しかし、こんな豪快な人ばかりではない。あの「赤い夕〜陽が、テラスを染めて♪」の舟木一夫の「高校三年生」の作詞家の丘灯至夫さんは、むしろ子供のときから身体が弱かった。虚弱体質で遠足や修学旅行、運動会に参加したことがない、という。だからこそ身体には気をつける。弱さが武器になる。そういえば、この世代の人たちは、戦争をくぐり抜け様々な逆境に出会ってきた。そんな体験がバネになっている。あらゆる知識をしぼり出し工夫をしながら生き抜いてきた。それを後の世代の人たちに伝えようとしている。
だから、それは画一的なものではない。身の丈にあった、自分で自分に合う方法があり量がある。人生、どうしなければいけないかというよりも、何を目標にいっしょ懸命に生きるかということらしい。そのことが、結局自分のためと、他人のためと、世の中のためとが一体となって充実感を生むということか。好きなことに夢中で生きるところにストレスはない。老いをよく生きるとは形より内容、量より質ということらしい。張りのある人生、それが第一。目標をもって、それに向って一生努力する、どうやらそれが長生きの秘訣らしい。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表002001.02.16)
仏画の見かた 描かれた仏たち
2001/02/06 18:15
「仏画(仏像)を見てみよう!分からないなりに睨んでいれば、あなただって浄土が見えてくる」
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
仏教に関して、それも入門書のような本だが、これが三冊目である。さっぱり解らない。
けど映画監督の新藤兼人の最近著『老人読書日記』の中の一文「本というものは求める心があれば何でも楽しい」を頼りに、まるで訳の解らない坊主の念仏を聴いているようにして読む。それもこれも、まだ20年、30年は生かされてしまうかもしれぬ21世紀の老後の長さに備えての修練の一歩、つまり頭の体操だと思いはじめているからだ。
栗田勇著『一遍上人』は、上人絵巻を読み解いていった結果がもたらした名作だが、かつてこれを読んだとき、面白かったが、自分なぞには仏画を読み解くなんてとても不可能だし将来もないだろうと思った記憶がある。仏画には仏、菩薩、明王、天たちが登場する。
仏は悟りを得た存在、菩薩は目下修行中の存在、明王は力でもって衆生を悟りに導く存在、天は仏教世界を守護する。他には羅漢や祖神も登場する。まるで人間の心の中を取り出して結晶化した、劇画の中の主人公たちのようなスゴイ顔をしている。美しい顔もしている。
本書は現存する仏画を具体的に論じている。まずは福岡市の蓮池にある本岳寺の釈迦誕生の場面を描いた画幅についての論考からはじまる。李氏朝鮮時代のものだという。同様のものは鹿児島の野上家所蔵のもの、壱岐・華光寺の仏伝図など数例あり、朝鮮仏画受容史の解明への重要な手がかりになる作品であると、今後の研究課題を投げかけている。
次にシルクロードと呼ばれる古代交易路のうちの西域北道は、現在中国ウイグル自治区のタクラマカン砂漠の北縁にあるオアシス都市をつなぐルートだ。そこにはアクス、クチャ、カラシャール、トルファンなどの街がある。その近辺にはいくつかの石窟寺院が残っている。そこには日本に辿りついて、図像的には別人のように変貌してしまった仏たちの、原型的な姿が混在する宝庫だ。インドやイランなどの西方美術、この地域独自の様式で出来たもの、遠くギリシャや他の宗教の影響を受けたもの、種々様々である。
更に日本に戻って法隆寺の金堂壁画を中心にした、わが国の仏の世界。ちなみに、この金堂壁画は1949(昭和24)年1月26日早朝の火災により残念ながら20面の供養飛天図を除いて焼損してしまっている。復元されたが、オリジナルの壁画は色を失ってしまった。それでも法隆寺修理の際、1935年便利堂が撮った原色写真があり、今はそれが研究の助けになっているのだが。そこに示された浄土国、つまり阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、十二神将、金剛力士……。その分析や経典との関連は一度くらい読んでもはっきりと分らないが、それでもぼんやり輪郭くらいは掴めた。二度目を読めばもっとはっきりするだろうし、三度目に読めばより深く理解出来そうな気がする。何の本でもそうだが、一つの本を二度、三度読む、そういう読み方も偶には必要だ。仏教に関しての書は、就中そんな読み方が必要ではないだろうか。
そのあとには京都・光明寺に蔵されている二河白道(にがびゃくどう)図の解説。これは馴染みの深い物語だから面白くて、面白くて……。菩薩図についての説明も楽しい。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2001.02.07)
古代インドの神 バラモン教、原始仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教
2001/01/25 15:15
「インドは神々が生まれた国。日本では想像できない神々の姿が壁画や仏像として残っている。」
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
20世紀は戦争と革命の時代だったという。しかし、主に後半を生きた我々には経済と消費の戦争、つまり物と金だけが露わになってきたことだけが記憶された世紀だった。そこで21世紀は心の時代だという。そうあって欲しいと思って、今まで全く無関心だった私には最適の宗教の入門書として「神の再発見」双書の3の『古代インドの神』を年頭に読むことにした。わずか一四〇頁だがカラーによる寺院、壁画、神や仏の像が各頁に入っていて、それを眺めるだけで実に楽しい。
日本では「宗」と「教」という漢字を並べて当てているが、これは17世紀に中国にキリスト教が入ってきたとき、キリスト教で(心を)「つなぐ」という動詞に由来する「レリゲール」という言葉を「祖先」を意味する「宗」と「教え」という漢字を組み合わせて表現したものを、そのままを移入したものだ。この概念はギリシア語では「治療」を意味する「テラぺイア」を使っていたし、英・仏・伊語では「ためらい」を意味する「レリジオ」を語源とし、聖なるものに対する尊敬や畏敬の気持ちを表わしている。このように宗教という概念一つとっても、その土地、国によって落差をもって発生した上に、更に風土や歴史、政治状況によって改革され変形され、時には血で血を洗う戦いになったり、妥協や反撥が繰り返されてきたから、ちょっとやそっとの勉強では、その重なり合った構図を理解するのは難しい、と思った。
特にインドは20世紀に人口が激増し約13億人が住む国である。そのうち約8億人がヒンドゥ教徒だといわれている。ヒンドゥ教は数からいえばキリスト教、イスラム教に続く世界第三番目の宗教であり、その宗徒の約90%がほぼ一つの国に住んでいる。しかも、ここは仏教やジャイナ教の開祖、ブッダとマハーヴィラの二人が生まれた国でもある。イスラム教徒もいればシク教徒、ゾロアスター教も存在する。まさにインドを象徴する言葉、混沌の国である。
もともとカーストと呼ばれる階級差の強い国だった。最高位バラモン(聖職者階級)のための宗教が存在し、他の階級は汚れた者として蔑すまれていた。そこで紀元前5世紀頃、ほぼ時期を同じにしてクシャトリア(戦闘者階級)から二人の反抗者が登場した。前者が仏教、後者がジャイナ教の開祖となる。仏教は主として大乗、小乗となって国外で勢力を伸ばすことになるが、ジャイナ教は国内にとどまる。しかしバラモン教はこの二つに刺激され改革にのり出し、名もヒンドゥ教と変えて今日に至っている、と大まかに言えばそういうことになる。しかし、モンスーンに乗った船乗りやアフガニスタンの山越えによって紀元前4世紀にやってきたアレクサンドロス大王をはじめとして征服者たちがもたらした文明は、本来、姿を持っていない神や仏にギリシア・ローマなどの彫像を借りて仮の姿を持つことになる。二〇〇に近いカラー写真は、このように分化されていなかったインドの宗教が分化され次第に体系を整えていって神、仏の図像となって表わしてきた歴史の面白さを示してくれている。心の入門書としても面白いが、インドを教わるうえでの観光知識としても読み応えがある。 (bk1ブックナビゲーター:井出彰/『図書新聞』代表 2001.01.26)
