野口 均さんのレビュー一覧
投稿者:野口 均
6 件中 1 件~ 6 件を表示 |
2000/10/26 00:21
日経ビジネス2000/2/28
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普段何気なく戦前、戦後と言っているが、戦前の「大日本帝国」と戦後の「日本」は国家としては別の国家であることを、われわれはあまり意識していない。もっとも国家が違っても、領土、民族、文化などで核になる部分は重なっているし、昭和の元号も変わらなかったので、意識しないのも当然かもしれない。
ところでこんなふうに、筆者の頭脳には不向きなことをとりとめもなく考えているのは、ハンチントンの近著『文明の衝突と21世紀の日本』を読んだからである。
本書は新書版で手軽だが、内容的には大変なことが書いてある。構成は大きく3つに分かれていて、最初のパートのテーマは、冷戦時代とガラリと変わってしまった世界構造のなかで日本はどういう選択をするか、である。日本は過去、常に一番強いと思われる国に追随する戦略をとってきた。そして近い将来、中国が経済的にも軍事的にも強大になってきた時に、日本は、アメリカか中国か、追随すべき国の選択を迫られるという。
2番目のパートでは、唯一の超大国となったアメリカのとるべき戦略をテーマとしている。ハンチントンは、アメリカがパワーを保ち続けるためには、唯一の超大国であることをあからさまに押し出すべきではないとする。それをやると反アメリカ包囲網が形成されるという。
そして第3のパートでは、文明の衝突理論を簡明に説明している。1993年に発表されて世界的なベストセラーとなった『文明の衝突』を読んだ人も、もう一度本書のこの部分を読むと、今世界各地で起きている複雑な紛争の意味が理解しやすくなるだろう。
米ソ冷戦時代が終わって、世界各地で噴き出した紛争は、かつての国家間の紛争とは様相を異にした。いわゆる内戦とも違って、民族と宗教と文化が複雑に絡み合った国家横断的な戦争が始まっていた。『文明の衝突』はそういう時代の到来を鮮やかに予測していた。本書では、今起きている紛争を例に挙げて文明の衝突理論を解説しているのでよりわかりやすい。
国家とは別の枠組みで戦争が始まった。それは国家を超えて影響力のある文明間の対立だという。これからは、国家よりも文明の差異が世界の政治・経済構造では重要になるのだそうだ。ハンチントンは、日本を中華文明から独立した1つの文明としているが、それなら、あえて国家概念を明確にするより、曖昧は曖昧でそれを日本文明の特質とし、他文明との差異に敏感になった方がいいかもしれない。
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2000/10/26 00:22
日経ビジネス2000/4/24
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6年前、評論家の内橋克人氏が、「文芸春秋」誌上で敢然と規制緩和反対論をぶった時は、正直言って驚いた。当時は今以上に規制緩和が、不況打開策として、東京マーケットの再生策として、グローバル経済への対応策として、さらに官僚支配の打開策としても、期待されていた。
そんな時期に、内橋氏は規制緩和をした米国の航空業界の例を挙げて、倒産が増え、寡占化が進み、賃金は下がって大多数の従業員はひどい目に遭うから、規制緩和はやめた方がよい、と主張したのである。
確かに米国では航空業界、陸運業界、小売業界、金融業界などは寡占化が進んだ。また合理化で事務系のホワイトカラーは低賃金の職種に移らざるを得ず、収入を大幅に減らした。しかし、米国の経済そのものは空前の好景気が続いて失業率も記録的な低さで推移している。米国の規制緩和についての評価は、本当のところはまだ下せないだろう。
だが、規制緩和礼賛一辺倒の時期に、あえてその負の部分に光を当てた内橋氏の勇気は、尊敬に値する。
氏はその後も、規制緩和反対で孤軍奮闘し、市場原理至上主義批判へと駒を進め、さらに新古典派的経済政策からの脱却をめざして、「理念型経済」への移行を説くに至っている。
本書は、氏の年来の主張をわかりやすくコンパクトにまとめたものだ。といっても、以前の議論をそのまま繰り返しているのではない。規制緩和について言えば、日本の規制緩和が進むに従って明らかになっていくその実態を、より具体的に「大企業のための規制緩和だ」「バブルの負の遺産を家計に転嫁している」と指摘している。
誰のための「改革」「規制緩和か」と問う氏の舌鋒はまことに鋭く、これは結局、「リスク社会へのおびき出し」だという。おびき出し…。表現のうまさには脱帽する。
だがそれ以上に感心したのは、理念型経済というモデルの提示だ。これは「市場の成り行きにただまかせて競争だけに明け暮れるのではなく、掲げた理念(ゴールの姿)めざして的確なルートを築いていく」経済だという。そして100年住宅を生んだ旧西ドイツの住宅政策やデンマークの電力政策などを紹介している。
しかし、日本でそれをやろうとすると膨大な役所が必要になるだろう。内橋氏は本書の「はじめに」で「規制緩和に全面反対しているのではない」と断っている。とすると、どの規制を残し、どれを緩和するのか、内橋氏の考えがさらに知りたくなる。
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紙の本二十一世紀の資本主義論
2000/10/26 00:22
日経ビジネス2000/6/5
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貨幣は実在するか?と問いかけたら、本書の著者、岩井克人氏は、にやりと笑うかも知れない。
氏は、「神の見えざる手」をねじりあげるという大胆不敵な学説で、学会に躍り出たようだが、一般社会でも恐れられるようになったのは、『貨幣論』(1993年)で貨幣の無根拠性を暴いてからだろう。
本書はそれから7年もたって、ようやく出版されたわけだが、テイストとしては、その前の『ヴェニスの商人の資本論』(85年)に似て、『貨幣論』よりは遙かに読みやすく、また面白い。あまりにも面白いので、つい興奮してねじりあげるだの暴くだの大げさな言葉を使ってしまうくらいである。が、誤解しないように断っておいた方がよいだろう。本書の面白さは、決して大げさな言葉遣いや、当てこすり、あるいは某国立大学総長のようなウグイスの谷渡り的文章(結局ウグイスは見えない)といったケレンにあるのではなく、むしろ誰にでもわかる言葉と論理で、抽象的な思考を取り出して見せてくれるところにある。
本書の構成は、書名と同じタイトルの書き下ろしの論文と、あとは新聞や雑誌に掲載したエッセイやコラムの再録である。岩井氏の学説をざっと知りたい人は、まず書き下ろし論文「二十一世紀の資本主義論」を読むとよい。氏の“神の手殺しの理論”も“貨幣無限連鎖論”も“差異価値説”もおよそのところは理解できる。なお、上記の3つの理論が学術的には何と呼ばれているかは知らない。“ ”内は評者が勝手に名付けたここだけの名称だ。
あとがきに、「本書には(中略)比較的多くの読者に開かれていると思われるものを集めてみた」とあるのは有り難い。どだい学会用の論文なんか、まるで歯が立たないのだから、氏の開かれた文才がなければ、“神の手殺し理論”など評者には匂いさえ嗅げない世界であったろう。
で、21世紀の資本主義がどうなるかだが、読めば誤解のしようもなく明確に書いてあるので、ここでは言わないでおく。そのほかのエッセイはどれも面白い。強いて挙げれば「美しきヘレネーの話」「ボッグス氏の犯罪」「ヒト、モノ、法人」「憲法九条および皇室典範改正私案」だろうか。
ところで、貨幣は実在するのだろうか。評者は、実在するという立場をとる。ただし、人間世界の内側でという条件を一応付けるけれども。でも人間が人間として生きられるのは世界の内側だけ。それが人間的実在じゃないだろうか。貨幣は人間的実在の最たるもんだろう。だから、バブルも人間の本質。これが、本書の読後感だ。
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紙の本誰のせいで改革を失うのか
2000/10/26 00:21
日経ビジネス2000/2/14
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秘書は喋らないものである。特に政治家の秘書は。ところが、喋らないはずの秘書、それも前総理大臣秘書官が在任中の職務をテーマに本を出した。早速一読。面白い。
著者の江田憲司・前橋本龍太郎総理大臣政務秘書官は「橋本総理の寵愛を一身に受けて、官邸を取り仕切っている」などと取りざたされた。
しかし本書を読めば、著者が秘書としてというより、橋本前総理と一心同体、わがこととして橋本内閣が打ち出した6大改革の実現に取り組んでいたことがわかる。だから、本書は秘書として知り得たことを書いたのではなく、自分のこととして取り組み、十分に出来なかった悔しさで書いたのだ。
官邸および内閣の機能がどのように官僚にスポイルされ、機能不全にされているか、これほど明確に書いた本はいまだかつてなかった。
例えば、内閣官房には、内政審議室、外政審議室、安全保障・危機管理室、内閣広報官室、内閣情報調査室などがあり、頭数だけは相当な人数が揃っているのだが、これが全く機能しないという。官邸とは別棟の総理府にいて、しかも各省庁からの出向者の占めるポジションが決まっていて、彼らの顔は出身母体の省庁を向きっぱなしで、お互いに協力しないからだ。
著者自身も元通産官僚で、官僚の生態も限界も官僚制度の構造的欠陥も熟知した上で、更に総理秘書官としての自分の体験を書いている。日本の国家中枢に重大な機能不全があるのは、誰も否定できないだろう。
著者は官邸・内閣機能の強化や霞が関改革の具体的な対策も提示していて、これもおおむね首肯できる。
しかし、たとえこの通り官邸・内閣機能が強化され、霞が関改革が進んでバージョンアップしたとしても、「仏作って魂入れず」の感がするのは何故だろうか。
もちろん著者も、魂を入れようと努力はしている。「選択と責任を基軸とした社会、国家の構築」と打ち出している。訴求力は全然ないが、これはこれで文句はつけにくい。
まあしかし、国家百年の大計だのグランドデザインだのと言ったところで、まず天皇制について見解を明らかにした上でなければ、今のような大変動の時代においては、何も言ったことにならないのではなかろうか。外では国家元首、内では象徴。そういう使い分けがいつまでも通用するとは思えない。憲法にしてもしかりだ。それでも、著者は「世は正論の時代である」と言っているようにいいセンスをしているので、期待はしてみたくなる。
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紙の本金融行政の敗因
2000/10/26 00:20
日経ビジネス1999/11/29
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「こんなことは、大蔵省に石を投げれば、アッという間に片づいちゃうんだけどね」
住専(住宅金融専門会社)問題で連日国会が紛糾していた頃、ある編集者と雑談していて、私はつい口を滑らせた。相手は怪訝な顔をし、以後相手にしてくれなくなった。
本書の著者は、まさに住専問題を担当した銀行局長である。しかし、最初に断っておくが、私はこの著者に石を投げようとは思っていない。私が石をぶつけたかったのは、おぞましい天下りシステムである。住専各社は大蔵省や日本銀行などからの天下りの巣窟だった。天下りが絡んでいなければ、住専問題はもっと迅速に処理できたろうし、そもそもあそこまで無責任な経営にはならない。不良債権もあれほどの額になるまで放置されない。
著者は、退官後早稲田大学の教授となり、天下りコースをとらなかった。そうでなければ、本書は書けなかっただろう。天下りしている官僚OBは、基本的人権が制限されているかのように言葉を失っているが、著者は随分自由に発言している。だいたい『金融行政の敗因』というタイトルからして、かなり凄い。官僚とは反省をしないものなのである。こういうタイトルは大蔵省を敵に回す覚悟としか思えない。
しかし、そういう覚悟をとぼけたユーモアでくるむのが、著者の持ち味だ。破綻した東京協和・安全2信用組合の処理に奔走していたときには、高橋治則・東京協和信用組合理事長の大蔵官僚接待スキャンダルについてまるで気づかなかったとし、知っていたら処理を逡巡し、もっと苦悩したであろうなどと書いている。つい苦笑させられてしまった。要するにそんなことは全く考慮せず処理したと言っているのである。
大和銀行事件と住専問題についても、著者は目配りの利いた独特の言い回しで“反省”する。しかし、大和銀行事件の処理と大騒動については著者の論におおむね納得したが、住専問題については、前任者や天下りOBに気兼ねしたのか、文章力を発揮するまでにいたっていないと思う。そのあたりに不満が残るが、後半の「世界の三大金融市場」や「BIS規制」などを論じた部分では、著者の見識が示されている。自分でひっくり返ったのにアングロサクソンに狙われただの、マネー敗戦だのと感情に訴える論が横行しているなかで、現実を客観的に認識しそれを表明する著者は、貴重な存在だ。こういう人には石は無論、紙礫もぶつけたくないので、今後、気が変わって天下りポストに座ったりしないでほしい。
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紙の本市民科学者として生きる
2000/10/26 00:19
日経ビジネス1999/10/11
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著者の高木仁三郎氏については、かねて関心を持っていた。チェルノブイリの事故で原発の安全性について関心が高まったころ、氏はテレビの討論番組に反原発の立場でよく出ていた。肩書は原子力資料情報室代表(現理事)とあるだけで、原子力発電という巨大な国家プロジェクトに対して、どんな政党にも機関にも頼らず、在野の一科学者ということだった。
一体どういう人だろうと長らく疑問を抱いていた。氏は東大で核化学を専攻した後、日本の原子力開発の創成期に日本原子力事業(後に東芝に吸収された)で原子炉で生成される放射性物質の研究に取り組み、その後東大原子核研究所に転じて宇宙核化学の研究で成果を出し、1969年30歳で都立大の助教授にスカウトされた人物だった。俗な言い方をすれば、この時点で学会での将来は保証されていたと言っていいだろう。
だが、高木氏はドイツに留学してやりかけた研究の決着をつけると、慰留を振り切って73年に都立大を退職してしまう。なぜか。それが、本書に書いてあるわけだが、一口で言うと科学者の責任ということだろう。責任と言っても、家族に対する責任、給料をくれる会社や組織に対する責任、 社会人としての責任といろいろあるが、この場合は専門知識を持った者の責任と言ったらいいだろうか。
もし医者が、売り上げが上がるからと必要もない手術をし、必要もないクスリを投与したとすると、病院経営者としては責任を果たしているが、本来の医者としての責任を果たしているとは言えない。同じことが企業内で、研究機関でさまざまな研究開発、巨大プロジェクトを遂行している専門家たちにも言えるのではないか。会計士、法律家 、経営者、エコノミスト、ジャーナリストなどにも言えることだが、原子力や遺伝子などの地球規模でしかも何世代にもわたって深刻な影響を及ぼす分野の研究者の責任は、重さが違う。
本書には、高木氏が自分の道を突き進もうとして、壁にブチ当たっては煩悶したさまが赤裸々に語られている。暗澹たる気持ちにさせる組織的な嫌がらせや、昨年夏発病したガンとの闘い、そこから得た新たな心境についても語られている。しかし全編を通じて、群馬県の前橋で過ごした少年時代のちょっと反抗的でやんちゃな高木少年の面影がこだましている感じで、けっして暗い印象はない。こんな時代にこういう人物がいるのが、不思議である。いや、こんな時代だからこそ、出てきたのだろう。
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