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アルテミスさんのレビュー一覧

投稿者:アルテミス

66 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本ザ・ファミリー

2004/03/03 15:40

あのボルジア家を、あの『ゴッドファーザー』の著者が書くと?

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 読んでいて違和感たっぷり。
 ルネサンス期のローマ法王庁が、シカゴかニューヨークの裏社会のようである。

 マリオ・プーヅォ氏は、イタリア系とはいえ、イタリア人ではなくアメリカ人だったのねえと、当たり前のことを納得してしまった。

 ただし、ルネサンス期イタリアに思い入れのない人が読めば、たぶん面白いのではないかとは思う。
 厚さが2センチ強もある上、違和感に引っかかってしばしば他の本に逃避したのにもかかわらず、数日で読み終わってしまったくらいだから。

 しかし。
 ルネサンス期イタリアの知識がまったくない人が、あとがきに、本書が20年以上にもわたる構想の末に書かれたとあるのを読めば。
 きっと史実の隅々まで熟知した上で書かれたものだと思うだろうし、とすれば、うっかりした人ならこの本だけで当時のイタリアをわかってしまった気になりはしないだろうかと、よけいな心配が頭をもたげてくる。
 
 老婆心ながら言っておくと、この本は、史実どおりではない。
 説明しやすい所をひとつだけ挙げよう。カテリーナ・スフォルツァのエピソードだが、城壁の上でカテリーナの言った台詞は、チェーザレに攻められたときのものではない。それよりずっと前の、最初の夫を殺した反乱者たちに包囲されたときのものだ。

 おそらく、著者はそんなことは百も承知で、故意に間違えているのだと思う。
 このカテリーナの台詞は有名なもので、彼女の並外れた度胸と駆け引きを端的に表すものとして、カテリーナを書く作家は必ず引用するものだ。20年もの間資料を読み構想を練ったとあれば、史実を知らずにはすまないからである。

 私は、それを否定することはしない。歴史書ならともかく小説として書かれたものなら、その評価は小説としての完成度をもって語られるべきであって、史実との違いを云々するのは筋違いだ。上記の指摘に「老婆心ながら」と断りを入れたのは、そういう意味である。

 これから城を取り囲んで攻防戦を開始しようというシーンで、彼女は過去にこれこれこういうエピソードがあって、という説明をしていては話の勢いがそげる。ならば史実は横に置いて、今始めようという戦いに組み込んでしまったほうがいい。
 著者はそう判断したのだろう。

 その判断の当否は、私には言及できない。史実は史実、小説は別ものといういつもの価値観が、ルネサンス期イタリアの歴史に対する思い入れに邪魔されるからだ。

 ボルジア家なんてこの本を読むまで全然知らなかったという人で、本書を読んだ人、どなたか書評を書いてもらえないだろうか。

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1年8ヶ月。短くはないが長くもない。

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 文庫に書いた書評と対でお読みいただきたい。文庫の方では、「訳者の作品」としての本書の構成にのみ主眼を置いた。こちらでは本来の内容に焦点を当てよう。


 最近の私の読書傾向は韓国づいているので、韓国人から日本がどう見えるのかは、おおよそのところはわかってきた。さて、韓国人以外のアジア人にはどうなのだろうと思い始めたときに、本書(文庫の方だが)が目についた。

 著者が日本で感じるカルチャーギャップの数々が興味深いのは、今までに読んだ韓国人や欧米人のものと同様である。が、そこにはお国柄が出る。
 韓国人の呉善花さんは日本に来て日が浅い頃に友人を招いて鍋料理を振舞ったとき、とんすい(取り鉢)がないことに戸惑った日本人が、鍋からとった具をいったん御飯茶碗の上においたことに傷ついている。鍋から直接口へ持っていくのが韓国流だからで、そこにワンクッションおかれたことに、拒絶を感じたからだ。日本人のとった行動は単なる習慣で、韓国人だからという理由ではなかったと思うのだが。
 インド人のシャルマ氏は、逆である。とんすいを使うといっても鍋からとんすいへ具を運ぶ箸が、それぞれの口に一度運ばれたものであることに驚愕し、思わず目の前の日本人のカーストは何であろうと想像してしまうのである。

 カーストというのはインド人には身に染み付いているもののようで、日本で見聞きするもののあれこれに著者はカーストという見方で判断をつける。
 肉の種類や部位による値段の差をカーストとは、日本人には笑止な説である。
 価格差は純粋に需要と供給のバランスによって決まるもので、調理目的や好みに応じて使い分けるだけのものだ。ヒレカツはおいしいが、長時間煮込むシチューにはバラの方がいいというのは、日常的に調理をする人には常識だろう。

 カラオケがインドに普及しないだろう理由もまたカーストによるとする。
 人前で歌を歌うのは乞食のカーストのすること。ミュージシャンすなわち乞食の意味なのだそうだ。ならばバラモン階級はカラオケで歌うなどもってのほかだし、乞食のカーストにカラオケ機器が買えよう筈もない。


 著者は、日本に来て、日本人にたいする親しみを抱いて帰って行った。
 しかし、著者の滞在期間が、バブル崩壊で価値観に揺れていた時期であったために、「何かをなくした」国だという印象をも持つこととなった。
 それは正しい部分もあるのだろう。同意する日本人が少なくとも二人(訳者と文庫版の解説者)いるのだから。

 しかし、1年8ヶ月は、短くはないが長くもない。
 当の日本人でさえ肯定してしまうのだから、その先まで理解してくれというのは酷な話だが、著者の日本人理解はまだ浅い。
 楽観的に過ぎるとお思いの方もいるかもしれないが、何かをなくしているのが事実としても、それは見失っているだけに過ぎない。日本人が絶対的価値観を持つことはほとんど不可能なのだから。

 著者は「彼ら(日本人)の自意識は常に「世間」にあり、われわれのように決して神の前に立つことはない」と記述している。ここまでわかっているのなら、人との関係に最大の価値を見出す日本人は、常にバランスを探っているという点で、目の前の人より神に自己確認をする人に優るということもわかって欲しかった。
 文庫版解説者のように、日本人の恥意識がぺらぺらであると卑下する必要は全くない。

 相対的価値観をもつ文化とは価値観の多様性を本質的に容認する文化である。
 「何かをなくした国」に、なくしたままでいいのかと、他者の言葉を借りてであれ、日本人に訴えているのは日本の出版社であり訳者であり解説者だ。

 絶対的価値観を持たない日本人は時として大揺れする。しかし、絶対的価値観を持たないがゆえに、日本人はあるべき姿へかえってゆく習性を持っている。

 本書で、私は却って安心したのである。

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「訳者の作品」

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 訳者の存在の大きな本である。
 翻訳書というのは、訳者の誠意や能力、文体に大なり小なり影響を受けないでは済まないものだ。明らかな誤訳は論外だが、使われる言葉遣いのわずかな差異によって、原書と翻訳とに、ニュアンスに決定的な違いが現れてしまうことがある。
 しかし、本書の場合はそういうレベルの話ではない。「訳者の序」と「訳者による解説」が前後に付くことによって、新たな枠組みが造られているのだ。

 ニューデリーの本屋で訳者が出逢ったデーヴァナガーリー文字の本。『日本の思い出』というタイトルしか読めなかったが、そこから何百キロも離れた地で偶然に著者と出会い、著者自身が英語訳をしてくれることになった。そのさい、この著者が日本に来る前は、貧しいがバラモン階級に生まれ、大学を出てエリート中のエリートであったこと、帰国後にエリートとしての人生を捨て、日本相手の小さな貿易商を営んでいることを知るのだが、その転機が日本滞在中にあったらしい。
 
 こうした序に続いてようやく本文に入るのだが、訳者は『喪失の国、日本』という邦題とあいまって、読者に心の準備をさせている。悪く言えば、予断を持って読むことを読者に仕向けているわけだ。

 著者が見てきた日本は、バブルが崩壊した直後。日本人が自信も旧来の価値観も、どんどん失っていっている時期だ。その時期に、1年8ヶ月という、長くはないが短かすぎもしない期間滞在したことによって、著者は「発展」の果てに日本が喪失してしまったものを見つけてしまった。それはエリートであった彼に、「百年も古い世界へ行こう」と決意させるのである。

 枠組みなくして読む本編は、カルチャーショックの面白さの部分を抜きにすれば、日本人にはつらい内容である。しかし、訳者による枠組みのおかげで、著者がそれでも日本人に対し親しみを感じ続けていることに安堵を覚える。同時に、著者のその後の人生の選択に、日本人にも新しい地平の開きうることを示してもいる。

 専業の翻訳家であれば、しなかったことであろう。本書は、「序」と「解説」の、合計わずか23ページによって、「訳者の作品」となっている。カバーのあらすじもその観点から書かれている。
 確かに、「枠組みつき」の方が作品として完成度が高いような気はする。
 しかし、訳者は純粋に「インド人は日本に来て何を思うのか」を知りたくて、原書を手に取ったはずである。同じく純粋な興味を持つ読者には、日本人向けにアレンジされたインド料理のように、なにか本物でないものを味わわされた気がしてしまうのである。

 本物のインド料理は、異文化人にとっては受け付けない味なのだそうだから、どちらがよいのかは、一概に言えないのだけれど。

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これは書評ではない。告発である。

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私が日露戦争における海戦に関心を持つようになったのは、2004年6月。
ちょうど日露戦争開戦100周年ということで関連本が山のように刊行されていたが、その中で菊田氏の肩書きは目を引いた。
防衛大学校卒。元・防衛研究所戦史部主任研究官。現(刊行当時)・防衛研究所調査員。
こういう著者であれば、当然その内容は信用できると誰でも思うだろう。私も思った。
推測というよりは憶測まで用いて秋山真之を貶める文章の連続に正直なところ嫌悪感さえ覚えたが、それでも、史料に基づく事実として書いている部分だけは、事実なのだろうと思っていたのである。
 
しかし、こちらに知識がついてから読み返してみれば、著者は前著『坂の上の雲の真実』で『黒船の世紀』を参考文献に挙げながら水野広徳の『次の一戦』を佐藤鉄太郎の著作として一段落を書くという信じられない見当違いを犯しており、また、有名な『三笠艦橋の図』の絵は焼失後に描きなおされたものだが、オリジナルに秋山は描かれていない、などという間違いも書いていた。
(私の所蔵する明治44年刊行の水野広徳の『此一戦』にはオリジナルの写真が載っている。秋山は現存するものとまったく同じポーズで描かれている。)
 
それでも、前著での誤りは枝葉の部分であり、根幹部分だけはちゃんと史料に基づいて書いているのだろうと思っていた。
 
著者は本書で、「ロジェストウェンスキー提督の弁明」を根拠に、日本の主力艦隊とバルチック艦隊が会敵したとき、バルチック艦隊は単縦陣であったと書いている。
 
「弁明」の公表の日付がないのだが、明治39年3月の論評に対する反論であるから、まあ同年の4月頃と見ていいだろう。すなわち、日本海海戦の十ヶ月後頃である。
 
ところが、ロシア海軍の公式戦史『千九百四、五年露日海戦史』に掲載のロ提督の一年後の陳述には、「アリヨールハ(略)オスラビアノ右舷外ニアリタリトノ事実ハ今日ニ至リテ殆疑イナキモノノ」とあるのである。
ロ提督はなおも、それはアリョールまたは三番艦の過失と言い張っているが、ロシア海軍軍令部はロ提督以外の証言の一致をもって「ロ中将ノ企画シタル陣形変更ガ戦闘開始ノ瞬間ニ於テハ未完了セサリシニ因ルモノナリ」と結論づけている。
 
著者は戦史研究室にいたのであるから、『千九百四、五年露日海戦史』は当然読めたし、読んだはずである。2作目はロシア側の記述が中心となるのだから。しかし、巻末の参考文献一覧に、同書の書名は無い。自説の著述に不都合だからわざと載せなかったのだとすれば、あまりにも陋劣である。(ちなみに、次作『東郷平八郎』の巻末には載っている。)
 
また著者は「捕虜の証言を勘案した第四戦隊司令官瓜生外吉中将から、会敵時ロシア艦隊は単縦陣形だったと報告されたが、なぜか秋山参謀はこれを黙殺した。」とも書いているが、私は上記やアリョール乗組の造船技師の手記『捕われた鷲』などによりバルチック艦隊は単縦陣ではなかったと結論付け、瓜生提督の所からはそう見えただけだろうと思っていた。
 
昨年、『極秘 明治三十七八年海戦史』がネットで公開されていると知って以来、時間を見つけてはそれを閲覧しているのだが、その備考文書として各戦隊、各艦の戦闘詳報が収録されていた。
第一戦隊の六艦の敵の陣形に関する記述は以下のとおりである。
 
<旗艦三笠>「……先頭ノ二列主力ニシテ其ノ右翼列ハ「ボロジノ」型四隻ヲ以テ成リ左翼列ハ「オスラービヤ」、「シソイ・ウエリーキー」……」
<ニ番艦敷島>「……(二時)十分(略)敵ノ左翼列嚮導艦……同二十分頃敵ノ左右両列共ニ少シク右転シ従テ其ノ左翼列大ニ後レ不規則ナル単縦陣ヲ形成シ……」
<三番艦富士>「左ノ如シ」と右翼列がやや前に出た二列縦陣の図を示したあと、2時19分に「此ノ時「オスラービヤ」隊ハ「ボロジノ」型隊の後尾ニ入リタルモノノ如シ」
<四番艦朝日>「敵ノ陣形ハ二列縦陣ニテ……」
<五番艦春日>「敵ハ二列縦陣ニシテ……」
<六番艦日進>「敵艦隊ハ戦闘艦四隻ヲ先頭トシ其ノ少シク後方ニ「オスラービヤ」ヲ先頭トシテ左翼列ヲ作リ……」
 
これで秋山が連合艦隊の戦闘詳報に単縦陣と書いたら、艦長たちから猛抗議を受けるだろう。
 
しつこく、それでも、と書くが。
瓜生提督だけは単縦陣と書いているのだろうと読み進めて、愕然とした。
第四戦隊の詳報には、
「我ガ触接隊ノ通報及ヒ捕虜「ドンスコイ」副長ノ言ト我カ目撃セル所ニヨレハ概略左ノ如キ隊形ヲ以テ航行シ来リ」
との文の後に陣形図が載っているのだが、どう見ても敵艦主力は二列縦陣であって単縦陣ではない。
単縦陣ではないのである。
 
いやしくも戦史研究者を名乗るものの書いた文章なら、最後の最後ぐらいは事実が書いてあるだろうと期待していたおのれのナイーヴさを笑いたくなった。
史料をあたるまでもなく、本書162ページや176ページの陣形図と、この著者の次作の142ページ、161ページのそれとを見比べるだけで、本書がいかにでたらめであるかくらい、わかりそうなものなのに。
 
前作に書評を書いた後、この著者のものにはもう書くまいと思った。
批評ではなく批判になるのが目に見えていたからである。
 
だから、これは書評ではない。史料と異なって記述しながら「真実」とうたっていることの告発である。

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残念である。

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

16〜17巻あたりから作品に物語性が失せて、変に著者の主張ばかりが目立つようになってしまった。
日清戦争では主人公の秋山真之が活躍しないので、物語の核が定まらなくなったのだろう。日清戦争は基本的な経緯がわかる程度に留めておくべきであった。

 どうしても日清戦争を省略したくないのだったら、真之を再登場させられる局面となるまで、陸と海にそれぞれ一人ずつ仮の主人公を立ててその人の視点を中心に描くなどの工夫をしたり、細部を割愛する断を下したりするべきだったのだ。
 ところが、とにかく何でもかんでも描こうとし、著者の主張を加えようとした結果、ストーリーが拡散してしまった。

 漫画に著者の主張が入ってはいけないというのではない。
 ただ、主張するのならば、魅力的で説得力のある物語を構築し、それへ読者を惹きこむことによってするべきなのだ。
 仮に著者の見解と読者のそれとが合致しなくても、物語として面白ければ読み続けることはできる。
 そして、それは本作の途中までは、ある程度はできていたと思う。だからこそ、12巻に書いた書評では絶賛したのである。

 ところが、巻が進むにつれて著者はそれを怠った。
 多数のキャラクターがみな中途半端に描かれた挙句、ナレーションの総括で著者の見解を滔々と述べられても、読者はついて行けないし、行かない。

 漫画という表現形態は本来エンターテインメントであるはずなのに、著者はそれを忘れてしまったのだ。

 しかも、ただでさえ上手くない絵に手抜きが目立ち、コマ割りは単調となり、キャラクターデザインもどんどん崩れていく。山県有朋の顔なんて、ほとんどバケモノである。

 19巻あたりからは読むのがしんどくなってきたのを、とにかく主人公が戻ってくればとの忍の一字でいたのだが、雑誌連載の方が「第一部 完」と「休止」してしまった。
 おそらく、本当のところは「打ち切り」なのだろう。

 残念である。

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先に投稿なさっているお二方の触れていない、収録の「日本海海戦はイギリス海軍の観戦武官が指揮していた」一編に限定して評価する。なぜなら、これを読んだら他の文章を読む気が失せたからである。

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者の須藤喜直氏は、本書を編著している副島隆彦氏の主宰する民間シンクタンクの、ウェブ管理と事務の担当者。
 この文は副島氏が以前に書いたものを下敷きにしているのだが、両氏がもしこれに書いたことをこれに書いてある論拠だけで本気で信じているのなら、今すぐシンクタンクなど閉鎖してしまった方がいい。こんな薄弱な状況証拠と推測だけでこれが真実だと言い切れるなら、世界に歴史は無数のバリエーションが存在してしまう。
 
 以前から観戦武官について書いたものがないかと探していたので、掲載書籍の書名に危惧を覚えながらも読んでみたが(私には「~の真実」という書名の本に説得力のある本は少ない、という持論がある)、冒頭に東郷や秋山の後ろにはイギリスの観戦武官がいて指揮をしていたと断言する副島氏の文章を掲げながら、日本海海戦当時三笠に観戦武官がいたという事実を示す資料をあげることすらできなければ、もちろんその観戦武官の名を記すことも出来ない。
 仮にこれに書いてあるように「T字戦法」や最新の砲術がイギリス海軍により伝授されたものであり、また東郷たちの背後に観戦武官がいたというのは比喩的表現であったとしても、表題は「指揮していた」ではなく「指導していた」でなければ不適当だろう。
 
 なにしろ、「指揮していた」論拠を挙げることができているのは、第一戦隊の殿艦(一番うしろの艦)日進のマヌエル・ドメック・ガルシアだけなのである。
 その論拠というのが、彼の孫が「日進の艦長たちが負傷した後に指揮をとった、国際法違反だから黙っていた」という彼の言を伝えていることなのだが、さて、孫がそれを聞いたのはガルシアの「ひざの上」である。
 いかに頑健な軍人で体力的にそれが出来たとしても、成人した孫をひざにのせて話をするという状況は通常ありえない。話を聞いたときの孫は明らかに「子供」と呼ばれる年齢だったろう。
 おじいちゃんというのは、幼い孫には見栄を張りたいものである。抱っこしている孫から「すごい海戦だったんだね。それで、おじいちゃんは何をしてたの?」と聞かれて、つい悪意のない冗談を言ったら孫がそれを真に受けてしまった、というのはありそうな話ではないか?
 すくなくとも私は、この証言以外に、公式な文書なりガルシアの指揮の現場に居合わせたものの証言なりがひとつでもない限り、これを可能性のひとつとして留保することはしても、これが真実だと断定する気にはなれない。
 
 またこれが事実であったとしても、指揮官が負傷してしまったので指揮をしたのであれば、それはあくまでその場限りの暫定的なものであり、日露戦争はイギリス人の主導の元で戦われたという著者の主張とは意味合いが異なる。そもそもガルシアはイギリス人でなくアルゼンチン人である。
 
 また「丁字戦法・乙字戦法」は「T字戦法・L字戦法」の表記を改めただけだという文章を菊田氏の『坂の上の雲の真実』(この本もまたいくつかの間違いを指摘できるのだが)から引用しているが、秋山真之による改称は、戦法の出所を隠すためではなく、日本人は日本語を使うべきだという彼の持論によるものだろう。「ブリッジ」を「艦橋」に、「ボート」を「端艇」にあらためたように。
 さらにL字戦法に限って言えば、この場合のL字形というのは筆記体大文字のLの形なので、漢字の「乙」の方が陣形をよく表しているのである。

 副島氏は陰謀史観がお好きなようだが、日露戦争はロシアを叩きたいが自分ではやりたくないイギリスが日本をそそのかしたのだ、という見方はそれこそ日露戦争当時からある。戦っていた兵士達自身が、それを風刺した芝居を自分達で演じて戦闘の合間の娯楽にした、という資料さえある。
 何を今さら、というものだ。

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紙の本坂の上の雲の真実

2007/04/19 00:39

これでは評論とはいえない。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者は、海上自衛隊で護衛艦に乗務していた若き日に『坂の上の雲』をわくわくして読み、秋山真之にわが身をダブらせていたが、戦史研究の結果、日露海戦の実像が小説のそれとは異なることに気づき、本書を著すことにしたのだという。
 崇拝した対象が自分の思っていたものと違っていたと感じると、一転して激しく攻撃する人がいる。著者はまさしくそのタイプのようだ。

 しかも、この著者の場合、文章が戦史研究者のものというよりも、小説家のそれである。それも描写が秀逸だとかいう話ではなく、「講釈師、見てきたようにものを言い」の文章なのである。しかも、いちいちねちっこく秋山を貶めるような書き方になっている。
 「坂の上の雲」のファンならずとも、この文章には辟易するのではなかろうか。

 それでも、本書を最初に読んだ当時は、菊田氏の説の大筋そのものは、そういうこともありうるかもしれないと思っていた。
 著者は職業上、一次資料を好きなだけ閲覧できるはずであり、また、文中にしばしば参照した資料を示す注があるからである。著者の判断にバイアスがかかっていたとしても、拠って立つ資料が多ければ、導き出されるものは自ずと真実に近づくだろうと考えたのだ。

 ところが、著者は資料をきちんと読むことすら怠っていた。そう思わざるを得ない間違いがあるのである。
 199ページに「北原鉄雄氏があらわした『次の一戦』(金尾文淵堂、大正三年刊)」とあり、次ページに「文章表現の特徴などから、北原鉄雄なる著者は、佐藤鉄太郎であると信じられる。」とある。二重に間違いである。

 私の手元に大正3年刊の『次の一戦』の現物がある。
 函にも本文冒頭にも「一海軍中佐著」と記されており、「北原鉄雄」は著者でなく編集者である。
 また、「一海軍中佐」の正体だが、これは『此一戦』の著者、水野広徳である。日露海戦を研究していて『此一戦』を読んでいないことなどなかろうに、こんなによく似た題名を連想しなかったのだろうか。1982年に「水野広徳著」で再刊されているのだが。

 それでも、大正版の『次の一戦』しか読んでいないのであれば著者がわからなくても仕方ないかもしれない。
 だが、同じ章の注に、猪瀬直樹氏の『黒船の世紀』が挙げられている。『黒船の世紀』は戦前に刊行された日米戦予想の本を包括的に紹介した著作で、『次の一戦』の著者である水野が記述の中心となっている。
 これをたとえ斜め読みでも一通り読んでいれば、『次の一戦』の著者を佐藤鉄太郎と思い込むなどは、絶対に、100パーセント「ありえない」のである。

 評論とは、資料を精読して、客観的かつ冷静に書くべきものである。
 これでは評論とはいえない。

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玉の輿願望の女性にとってはうらやましい限り、しかし、自立した女性にとっては不愉快な限り。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 読了後、不愉快になった。
 時代の違いもあるとは思うのだが、私は男の経済力にぶら下がって生きるタイプの女性は嫌いである。専業主婦が、というのではない。大多数の専業主婦は、家事を請負い子育てを行い家計をやりくりするという形で、家庭をともに築くことに貢献している。

 が、この著者はほとんど初対面のときから、後に夫となるレンツォ氏からの高額のプレゼントを受け取り、幸運が舞い込んだと喜んでいる。その後も、いくら贈る側にとってはたいした金額ではないにしても、遠慮なくプレゼントを受け取り続け、また、ねだり続ける。
 これが、著者がイタリアに行ったそもそもの目的である、ハープ演奏者としてのパトロンへの援助要請なら文句はない。芸術という金銭には換算し得ないもので返すことになるのだから。しかしこの場合は、レンツォ氏はハーピストとしての著者には関心を示していないのだから、単なる金食い虫の愛人ではないか。

 男女の仲は当人たち以外には本当のところを知るすべはない。しかし、レンツォ氏の没後、数少ない血縁である甥が、氏の資産がすべて著者に行ってしまうことに憤りを感じたとしても仕方ないと思う。
 甥の側からみれば、おじいちゃんが一生懸命働いて築いた財産の半分を放蕩者の叔父が使いつぶすだけでも腹だたしいのに、ほんの5年間結婚していただけの愛人あがりが残りをさらっていくなんて許しがたい、ということだろう。(あくまでも甥の側からを想像して、である。念為。)
 無論、子供のないレンツォ氏が親から相続した資産を妻に遺しただけのことで、相続に関して著者に非はない。遺言状の偽造疑惑などを持ち出した甥のやり方こそ非難に値する。

 しかしそれでも、不愉快さはぬぐえない。
 人と人との関係は基本的にフィフティ・フィフティでなければならないと考える私にとって、交際相手がいかに破格な大金持ちであろうと、自分の生活は自分で何とかするという気概があるべきではないかと思うのだ。まして著者は、ハーピストとして立とうという努力をかなりの期間、続けていたのだから。まあ、芸術で生計を立ててゆくのは容易ではなかろうから、一時的に援助を受けるのは仕方ない場合もあろうけれど。
 いっそ、商売として愛人をやっている女性の方が、それはそれで嫌いなのだが、いさぎよいような気さえしてしまうのである。

 著者が、残された遺産を自分の遊興費に浪費するのでなく、世界中の音楽家たちへの援助に使っているのがまだしもの救いである。

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知恵伊豆礼讚ばかりでげんなり

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著者中村彰彦氏の仕事場は玉川上水の近くなのだという。
そして、著者は、三田村鳶魚の説を全面採用して玉川上水の開削の功労者を松平信綱と安松金右衛門とし、知恵伊豆こと信綱にことのほか親しみを持っているようだ。

公平を期すために、私の家は、江戸時代の前半に関東郡代として数々の業績を残した伊奈氏の赤山陣屋からほど遠からぬ所にあり、陣屋を築いたのは関東郡代の実質2代目、伊奈忠治であることを始めに明かした上で、以下の文を書く。

本書だけを読むと、金右衛門は土木のプロで、伊奈忠治や玉川兄弟はそうでなかったように読めるが、とんでもない。
私は玉川兄弟には詳しくないが、忠治は、利根川東遷、荒川西遷という巨大プロジェクトを筆頭に、関東一円で数々の土木事業を手がけた、金右衛門など足下にも及ばぬスペシャリストである。
(余談ながら、先日、各地で大水害をもたらした台風19号の際、埼玉県東部や東京の江戸川区を始めとする江東5区は、明治・昭和・平成を通じて繰り返された治水事業をもってしても洪水一歩手前の危機的状況であった。もし利根川や荒川が元の流路であったなら、間違いなく水没していたであろう。)

玉川上水の開削の功労者が松平信綱と安松金右衛門であるというのは必ずしも定説ではない。
現に昨年のNHKスペシャル「大江戸」でも、忠治と、後を継いだ息子忠克としている。

そもそも当初の失敗の原因は、信綱がのちに野火止用水を引くことを念頭に、すなわち自分の領地に水を引くために、不適な流路をとらせたからという説もある。
この説の当不当の判断は私の手には余るので、提示するにとどめるが。

よしんば、玉川上水に限って忠治は失敗したのだとしても、である。

忠治が亡くなったのは承応2年。つまり、玉川上水開削の最中である。
私は、その死因を過労死であると思っている。いわゆる過労死ではなく病を得てのことにしても、過労がそれを亢進させたのは間違いなかろう。
原因は松平信綱である。

伊奈氏は土木の業績で有名だが、関東郡代はその名のとおり関東全域の幕府直轄地の行政を担っており、業務は多岐にわたる。
ただでさえ激務である上に、玉川上水開削の命が下ったときは利根川東遷の大事業のさなかであった。
しかも信綱は、開削を一年で成せと命を下したのである。
疲労困憊しようというものだ。

上水が至急必要だったのはわかる。
そこで、土木に強い伊奈が指名されたのもわからぬではない。
しかし玉川上水を完成させたのが信綱が新たに命じた別人だというなら、信綱は開削の功労者であると同時に、他にも人材があるにもかかわらず一人にしょいこませて部下を死に追いやった、ろくでもない上司ということになる。

本書は信綱の業績と「知恵」のエピソードの数々を延々と述べ、人道主義の推進者として描き、数少ない失敗談も、上司との隔てのない人間関係の例としている。

本書を読み始めた動機は、わが地元の殿様の敵とはいえ、関係のない所では功績もあるのだろう、一方的に悪人認定するのはよくないと思ったことである。

だから始めから点が辛くなる可能性はあったにせよ、信綱の元で苦しんだ人間を完全スルーし、ひたすら礼賛ばかりであるのには、正直げんなりしてしまった。

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紙の本黎明の背教者 イスキリア物語

2003/08/30 14:03

著者に転職をお勧めする。

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 著者は、異世界歴史物であるこの本に、「以前から興味のあったルネサンス期のイタリアによく似た世界」を用意したとあとがきで書いている。イタリアもの(歴史の研究書でも旅行記でも小説でも)に目がない私は,本文をまったく読まずにこのあとがきの一文だけでこの本を購入し、読了した。
 言えることは、この著者はイタリアに関する本を数冊、通りいっぺんに読んだことがあるだけで、イタリア語の知識となると、ゼロと言っていいということだ。
 登場人物の名前にしても、たとえば、ガヴリエリ・ガヴリエーレだが、イタリア人の名前は「単数形のファーストネーム+複数形のファミリーネーム」は珍しくないが「複数形のファーストネーム+単数形のファミリーネーム」はほぼありえないし、だいたい「GABRIELE」は「ガブリエーレ」である。
 上記はほんの一例で、他にもお姫様の名前がスペイン語だったり、ヴェネツィアを想定していると思われる国の名前が「ドガーナ共和国」だったり(訳すと税関共和国となる。こんな国名は普通はないでしょう)、固有名詞だけでも間違いがごろごろしている。イタリアっぽさを演出するために日本語にイタリア語のルビをふってあるところも、実に間違いだらけだ。
 いや、この世界は架空のものなのだからイタリア語に忠実である必要はない、という意見もあるかもしれないが、それならそれで問題点は山とある。
 キリスト教のシンボルが十字架なのはキリストが十字架にかけられたからだというのはイタリアに関心のない人でも誰でも知っていると思うが、本書で、首を切られて死んだ人が教祖の宗教のシンボルが十字架なのは明らかに設定ミスである。もっと卑近な例では、べったり塗った舞台化粧が水洗いで落ちるかどうかぐらい、高校生の女の子だって知っていそうなものだろう。
 本来私は時代考証が正確だが面白くないストーリーの小説を読まされるくらいなら、細かいところが少しくらいいい加減でも話が面白い作品を作家に求める方である。この手の間違いをあげつらっても仕方ないと思う。が、本書の場合、いい加減さが細部だけでなくストーリーにまで及んでいるのが大問題なのだ。
 出だしからして、メインの登場人物五人がなぜ友人なのか理解できない。同じ大学だから、というだけでは根拠が薄弱に過ぎる。みな学んでいる専攻が違うし、趣味が同じわけでも同郷というわけでもない。早稲田でも東大でもいいが、大学のキャンパスを歩いているひとを別々に五人連れてきて、同じ大学なんだから友人だろうと決め付けるようなものだ。せめて、たとえばかつて酒場でケンカになって、酔いがさめてみたら妙に馬が合った、ぐらいの記述は入れて欲しい。
 他にも、策略に長けた人物として記述している(つもり)らしい人物が実に不用意に野心をあらわにしたり、貴族とはいえ嫡男でもなくまだ国会の議席しめたこともなく、長く母国を離れている人物が、母国の最新鋭艦の航海予定を正確に知っていたり。
 著者がまだ十代で、精一杯背伸びして書いたというならまあいい。が、ここまでいい加減な話を三十代半ばでデビュー作として書いたというなら、この著者は作家に向いていないと思う。

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紙の本ミラージュの罠

2007/08/12 11:24

「目指せ一般市民」はそろそろあきらめたらどうだろう。

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『デルフィニアの姫将軍』以来、「王女グリンダ」「デルフィニア戦記」「スカーレット・ウィザード」「暁の天使たち」そして現在の「クラッシュ・ブレイズ」とシリーズ名を変えながら続いてきた一連のシリーズ。
 40冊以上に渡って続いてきたのは、作品にそれだけのパワーがあり、また、それが読者に支持されてきたからだろう。
 だが、15年も読み続けてきたファンとしては、「クラッシュ・ブレイズ」となって以降の作品の停滞に残念でならない。
 
 それ以前のシリーズには、大団円に向かうべき流れがあった。
 「デルフィニア」では大華三国平定。
 「スカーレット」はクーア財閥の掌握。
 「暁の」ではキャラクター全員の復活。
 しかし、「ブレイズ」にはそれがない。
 
 最大の原因は、リィと、そして著者が「目指せ一般市民」にこだわっていることにある。
 キャラクターのパワーが命のキャラクター小説で、主人公が一般市民となって埋没していく大団円などありえないだろう。
 人の情緒の変転を深く描き出す純文学作品ならありえてもだ。
 
 結果、悪人たちが主人公たちにちょっかいを出しては撃退されるというパターンの繰り返しとなる。
 私が今のところ「ブレイズ」でもっとも面白いと思っているのは『ヴェロニカの嵐』なのだが、これが面白いのは、リィが誘拐犯と対決する話ではなく、無人惑星に置きざりにされた学生達の中でリィが久々にリーダーシップを発揮する話であることにある。
 
 「目指せ一般市民」はそろそろあきらめたらどうだろう。

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読んでいる間の楽しさなら星3つ。読後に評価すると星1つ。しょうがないので星2つ。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 困ったものだ。

 茅田作品をずっと読んできた人なら、読んでいる間はたのしいし、事実私は数箇所で笑った。
 しかし、同人誌でもあるまいに、舞台裏というか内輪ネタというか、前巻で書き落としたこぼれ話だけで1冊書いてしまうというのはいかがなものか。しかも1冊では書き足りなくて、まだ出すつもりであるらしい。

 著者が空想の中でキャラクターと遊ぶのはいくらでもやって欲しい。著者自身が遊べないようなキャラクター小説は、読者にとっても楽しくはないだろうから。

 しかし、それを垂れ流すのは、プロの作家のすることとは思われない。
 本編のストーリーと離れたところでの登場人物の物語という、「ちゃんとした外伝」ならばいくらでも書いていいと思う。が、本書は別のストーリーが展開するわけでもないし、既出のキャラクターの意外な側面が現れるわけでもない。

 読んでいる間の楽しさも、既刊とくらべてレベルが低い。
 当然である。茅田作品の面白さはキャラクターの暴走の爽快さにあるのに、本書は暴走の後始末のみで構成されているからだ。

 たちが悪いのは、こぼれ話だけでもそこそこ楽しいことである(既刊よりは落ちるにしても)。
 「楽屋ネタはいい加減にしろよなー」と文句を言いつつ、また読んでしまうであろう自分が想像できるからだ。

 まったく、困ったものである。

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紙の本ハリー・ポッターと賢者の石

2004/03/20 13:32

この作品の大成功は、ファンタジー界にはマイナスだった。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 流行り過ぎてると読む気をなくすという性分のせいで、この本を読むのが遅くなった。
 で、遅ればせながら読んでみて。

 しまった、もっと早く読むんだったとは、残念ながら思わなかった。
 いや、流行っているだけのことはある、とは思う。読書嫌いな友人の息子がこれだけは一生懸命読んだ、というのもわからないではない。少なくともページを繰らせるだけの力はある。
 子供を夢中にさせる筆力というのも、才能の一種であるとは思うし、その意味での才能は、著者に備わっているとも思う。
 本作は、魔法など現実には存在しないが読んでいる間だけは存在するのだと子供をだますことができる、非常に上手い「子供だまし」だ。(この場合の「子供だまし」は、ほめ言葉として使っている。)

 でも。
 この本に、何か新しいものがあるだろうか?
 先人達の創造した数々のファンタジーの名作の、ヴィジュアルなわかりやすい部分だけを抽出して、子供向けに提示しなおしただけのしろものではないか。

 子供ならともかく大人でこの本を傑作だと思っている人は、たぶんファンタジーになじみがなかった人なのだろう。
 そして、そういう人たちはこの本によって、ファンタジーとは子供向けの本であるという認識を新たにするのだろうな、と思うとがっくりくる。

 たいていのファンタジー好きの人は、子供だましな本が好きなんだな、と思われることにうんざりしているのではないだろうか。(この場合の「子供だまし」は、当然ながらけなし言葉である。)

 大人も楽しめるファンタジー、という言い方には心底腹が立つ。ファンタジーが子供のものであるという前提に立ってのものであるからだ。
 そのせいで、ある程度の年齢に達しないと味わい得ない大人向けのファンタジーの市場が不当に小さくなり、日本人の創作の出版も海外作品の翻訳もされにくくなっているような気がしてならない。

 この作品の大成功は、日本のファンタジー界にはマイナスだったと思う。

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紙の本日本海海戦かく勝てり

2012/05/21 05:31

お二方とは逆の結論に傾いている私だが、本書を読まなければ、日露海戦への興味がこれほど深まることはなかった。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本を初めて読んだのは日露戦争に興味を持ち始めて間もない頃。定説自体が私の中ではまだ定説になっておらず、といって本書にも納得しきれず、丁字戦法の有無の判断は私には出来なかった。
 
 しかし3年ものあいだ史料を読みあさってくれば、多少は自分なりの意見も出て来る。
 現在のところそれは、丁字戦法はあった、である。

 最初にそのヒントとなったのが吉田惠吾氏の『創出の航跡』であった。吉田氏は、優速を活かした並航戦が敵の嚮導艦を圧迫するのに有効であることをこの著書で証明している。
 以来、丁字戦法の有無は、丁字戦法という言葉の定義を、丁字の陣形を描くことと、敵の頭を押さえることのどちらに比重を置くかによって判断することと考えるようになった。
 戸高氏と半藤氏は前者を採っているので「丁字戦法はなかった」と言っているわけだが、問題は当事者達がどう考えていたかである。
 
 それは、後者であった。
 三笠艦長の伊地知彦次郎が旗艦の戦闘詳報に、「敵ノ前面ヲ圧ス」「更ニ敵ノ前面ヲ圧ス」と繰り返した後に、2時47分「敵艦隊ニ対シテ丁字形ヲ描キ」と明瞭に書いているのである。
 この詳報は極秘戦史にも収録されているのだが、戸高氏と半藤氏は何ゆえこれを無視しているのだろう。
 
 また、お二方が重視している奇襲作戦だが、これは当日の天候を見るまでもなく実質廃案であったとする論考も出た。(これを述べた木村勲氏の『日本海海戦とメディア』は、奇襲作戦のほか開戦劈頭の仁川沖海戦でも浅間を派遣するなど、厚い信頼関係があったとしか思えない秋山と八代に不和があったように書くから評価を下げたが、戦策の変化についての論考は検討に値する。)
 
 お二方とは逆の結論に傾いている私だが、本書を読まなければ、日露海戦への興味がこれほど深まることはなかった。読んでよかったと思っている。
 
 付記。
 現在、極秘戦史は国立公文書館アジア歴史資料センターのHPで閲覧できる。
 また、P97の『朝日の艦橋から見た日本海海戦』は国会図書館のHPの近代デジタルライブラリーで閲覧可能。ただし、正確な書名は『朝日艦より見たる日本海海戦』である。

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目新しい論点はないが、ひとつだけ納得

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書名の「問題な日本語」とは、「問題があるとして既にあちこちで議論されているような日本語」の略であるようだ。そう思ってしまうくらい、目新しい論点がない。 
 本書の目的は誤用を指摘することにあるのではなく、なぜその誤用をするようになったかという「誤用の論理」の究明にあるということだが、それも、問題があることに気づくことができる程度の国語力がある人なら、国語学者ならずともしばらく考えれば分かりそうなことばかりである。

 本書に意味があるとすれば、議論され尽くしているにもかかわらず、一向に改善の方向に向かう気配のない誤用のうちの代表例を挙げ、原因を整理してわかりやすく提示しなおした、という点にあるだろう。
 言い換えれば、本書で挙げられている「問題な日本語」を使っている人々は「え! これ、変だったの?」と驚くかもしれないぐらい頻繁に耳にするようになってしまっている言い方ばかりが並んでいる。
 本書の普及で、これらに問題があることが、少しでも認知されればいいのだが。


 ただしひとつだけ、本書で「あ、なるほど」と思ったことがある。
 「全然」の用法についてである。
 「全然」のあとに否定を伴わない言い方に引っかかりを感じる人はまだ多いと思う。数年前まで私もその一人であったが、かつて「全然」は「全く」や「完全に」と同じ使い方をされていたと知ってからは気にしないようになった。
 が、ここ半年ばかり明治の文章を集中的に読んでみて、明治時代の「全然」と現代の「全然」とは使い方が微妙に違うと感じはじめていたところだったのである。
 それが、本書で解決した。
 現代の「全然」は、二通りの用法があり、ひとつは「あなたの思っていることとは違って」という限定で使われるのであり、「全く問題なく」という意味を表す。そしてもうひとつは比較の際に「断然」との誤用で使われる、ということである。

 さて、このまま定着するのであろうか、それとも、明治時代の使い方にまで回帰するのであろうか。

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