サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. すなねずみさんのレビュー一覧

すなねずみさんのレビュー一覧

投稿者:すなねずみ

119 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本葉隠入門

2004/11/15 02:59

ファナティック(狂信的)ということ。

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

>

 三島由紀夫(1925〜70)が自らにとってのただ一冊の「座右の書」であると語る「葉隠」は、佐賀藩士田代陣基が元藩士山本常朝の草庵を訪れて、宝永七年(1710年)から七年あまりの歳月をかけて、その語るところを聞書・編纂したものである。
 山本常朝は、主君鍋島光茂の死に際して殉死(切腹)を望むも受け入れられず、元禄十三年(1700年)出家し、隠遁生活に入る。生前の鍋島光茂が「天下に先んじて殉死を禁止」していたため、殉死の覚悟を固めながら、それを遂げられなかったということらしい。

>(「プロローグ 『葉隠』とわたし」より)

 三島由紀夫(1925-70)の自衛隊市ヶ谷駐屯地での割腹自殺。そんなデータゆえに、この『葉隠入門』自体が今ファナティックなイメージで捉えられがちなのかもしれないと思いながら上の一節を読むと、なんとも皮肉な感じがする。
 無責任に断言してしまおう。(僕は三島由紀夫をほとんど読んでいない……)
「葉隠」も『葉隠入門』も決してファナティックなものではなくて、これをファナティックだと思うならば、そのことのほうが余程ファナティックなのだ。そういう泥仕合……今の世の中にはすごくたくさんあるように思う。そういうのは昔からあったのかもしれないけれど、その矛盾がすごく目につくようになってきて、あたりに淀んだ空気が流れている。そんな時代だからこそ、この『葉隠入門』みたいな本がすごく生きてくる。輝いてくる。
 不思議と僕は三島由紀夫好きな女性たちと縁があって、そんな縁のひとつが広がって『近代能楽集』に入っている「葵上」という芝居に出させてもらったことがある。看護婦役(というか僕は男なので看護士だが)である。そのなかにこんな台詞がある。

「ごらんなさいまし。灯のついている家はもうほとんどありません。街燈の列がくっきり二筋に並んで見えるだけですわ。今は愛の時刻ですわね。愛し合って、戦い合って、憎み合って。昼間の戦争がすむと、夜の戦争がはじまります。もっと血みどろな、もっと我を忘れる戦いですわ。開戦を告げ知らせる夜の喇叭が鳴りひびく。女は血を流し、死に、また何度も生きかえる。そこではいつも、生きる前に、一度死ななければならないんです」

『ノルウェイの森』のなかに、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という有名なフレーズがあるけれど、ある程度の年齢になると人は「死」を身近に感じるようになる。天寿を全うするようなかたちで訪れる「死」もあれば、自殺や病死や事故死というかたちで不意打ちのようにやってくる「死」もある。友人の身に、あるいは自分の身に。
「死」を弄ぶようにして語るのは良くない。でも、気づかぬふりをしてほったらかしておけばいいわけでもない。「文藝」の2004年春号(行定勲特集)で行定さんは「僕は映画を撮る、死んだ八人の友のぶんだけ」と語っている。「カッコつけやがって」なんて、これっぽっちも思わない。そういう思いは、絶対に必要なものなのだから。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本フランダースの犬

2004/01/15 00:04

永遠というもの

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

岩波少年文庫には、本当にいい本がたくさん入っている。My Favoriteを挙げれば……エンデの「はてしない物語」、バリの「ピーター・パン」、セルバンテスの「ドン・キホーテ」、それにEブロンテの「嵐が丘」(も確か入ってたと思うけど…)、そして、とっておきがこの「フランダースの犬」。

いま、いわゆる「個別指導塾」ってトコで小学生相手に国語を教えたりしていることもあって、きっとそんなことでもなければ読まなかったであろうような本を、手にすることが少なくない。で、授業で一緒に読んだりすると、子どもたちは驚くべきほどに繊細な読み方をしてくれて、大いに刺激を受ける(もちろん、というか、「残念ながら」皆が皆じゃないけれど……たぶん僕の修業が足りないのだ)。世の大人たちは、もっと子どもの声に耳を澄ましてみたらいいんじゃないかな、と思う。

子ども向けの物語は、ちょっと身も蓋もない言い方をすれば、友だちを作るのがあまりうまくないような子どもたちに対して、とても素敵な空想の世界を示してくれる。「ほら、ここにだって、こんなに楽しくて、あったかい世界があるんだよ。つまらなそうな顔してないで、一緒に遊ぼうよ。ほら、恥ずかしがってないでさ」

も少しだけ、ストライクゾーンを広げて言えば、子ども向けの物語は「子どもたちが、とても純粋なかたちで(それだけ残酷なかたちで)感じ取っている<(大人たちの)社会>への違和感に<物語>という形を与えることで、ささやかな解放感をもたらしてくれるもの」なのかなあ、と思ったりする今日この頃である。

で、その「解放感」の源っていうのは、「永遠」(「フランダースの犬」の最後にも「永遠」っていう言葉が出てくる)っていうものなんじゃないかなあ、と思っている。

「フランダースの犬」のなかから、世の大人たちにも響きそうな言葉をいくつか……

「たとえ不可能であっても美しく無邪気な夢、自分のことはあとまわしの、英雄へのあこがれでいっぱいの夢が、歩いているうちにすぐそこにあるように思えて、ネロはしあわせでした」
(ただひとりの友人、金持の娘アロワとの関わりを禁止されたネロが心の底から信じている甘やかな未来。)


「下描きのしかたや遠近法、解剖学や明暗法のことを教えてくれる人はいませんでしたが、それでもネロは、その人の年をとってくたびれきった姿や、静かにたえるようす、悲しみにやつれたところをのこらず表現しました。そうすることで、深まる夜のやみを背に、朽ちた木のうえにすわり、ひとり物思いにふける老人の姿を、ひとつの詩にしたのでした」
(心を占めるさまざまな空想のひとつを絵にする。たおれた木にすわっているひとりの老人、樵のミッシェルをモデルにして。コンクールの優勝を夢見て。)


「いっしょに横になって、死のう。だれも、ぼくたちを必要としていないんだ。ぼくたち、ふたりっきりなんだ。」
 パトラッシュは、こたえるようにさらに体をすりよせ、少年の胸に頭をのせました。大つぶの涙が、悲しみをたたえた茶色い目にうかんでいました。自分のために泣いたわけではありません----パトラッシュ自身は、しあわせだったのですから。
(永遠の友情。)


いま手元の本を引っくり返してみると、対象年齢は<小学4・5年以上>って書いてあるから、まあ、<小学4・5年以上>の僕が読んで感動したとしても誰も文句は言うまい。来週の授業で使ってみようかな。どんな感想が飛び出すか、非常に楽しみである。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

Vulnerability

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

僕は大学のころ、金子郁容先生に「統計学」を教わったことがある。「ヨージ・ヤマモトを颯爽と着こなし、夜毎アルファロメオを乗り回す」みたいなキャッチフレーズのついた「アメリカ帰りの軟派なインテリゲンチャ(?)」に憧れていた時代があったのだ、こんな僕にも。

もう絶版になってるのかもしれないけど、彼の書いた「空飛ぶフランスパン」という本(彼はフランスパン作りが趣味なのだ、それにアメフトも)を、それこそ憧れの先輩を遠目に見るように、ぽけーっと読み耽っていたりしたのだ(ん、日本語が変かな)。

そんなわけで若き日の僕の憧れの的であった金子先生なのであるが、最近は慶応の学校改革(幼稚舎だったかな?)を積極的に推進しておられるらしい。テレビ(ワイドショーっぽいニュース番組とか)でもときどきお見かけする。

「お元気でなによりです」
(って、そんな歳じゃないって、すいません)

で、この本である。ボランティアについての本といえば、たとえば「生の技法」なんていう本もいい本だなあと思ったけれど、やっぱり僕にとってはこの「ボランティア もうひとつの情報社会」が基本である。

<では、ボランティアはどうして、あえて自分をバルネラブルにするのか。それは、問題を自分から切り離さないことで「窓」が開かれ、頬に風が感じられ、第一章でお話ししたような意外な展開や、不思議な魅力のある関係性がプレゼントされることを、ボランティアは経験的に知っているからだ。>(p112)

僕はこの本で「Vulnerable」(「ひ弱い」「他からの攻撃を受けやすい」ないしは「傷つきやすい」状態を表す言葉で、名詞形は「Vulnerability」)という言葉と出会った。それは彼の本を通して知った松岡正剛さんの「Fragile」という言葉とともに、僕にとってとても大切な言葉、辛い日々を支えてくれる言葉になっている。

そして何よりこの本のすごいところは、こんな僕が身障者の介助をやってみようと思い、そして実際に行動に移してしまったりしたことである。「そんな個人的なことを」とか言わないでほしい。本当にすごいことだったんだから、僕にとっては。一人の人間を「行動」へと誘(いざな)ってくれる本なんて、そうそうあるもんじゃない。だから文句なく五つ星である。

彼はネットワーク論が専門で、そういう文脈で「ボランティア」を語り始めた最初の人(日本では)だと思う。昨今の<ボランティア=ネットワーク>みたいな言説って、内容空疎なことも多いように思うけれど、この本はゼッタイに違う。だから、是非、たくさんの人に読んでもらいたいと思う。

改めて読み返してみても、<勇気と希望が湧いてくる本>である。うん。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本キリストの誕生

2004/12/01 23:55

「逃げる」

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「宗教」っていうのは、あんまり格好いいものではない。というか、とても格好悪い。おまけに危険な臭いさえする。それは、たぶんある意味では正しい。「宗教」には人間の弱さを煮詰めたような醜悪さがあるし、空想的な狂気と危険性が充満している。
 そして、だからこそ、「宗教」というものを敬遠し、あるいはそれを一種の「逃げ」に過ぎないものとして斬って捨てるのは間違っている。

 小説家・遠藤周作がキリスト者・遠藤周作を対象化し、自らの信仰告白として書いたのが、『イエスの生涯』(国際ダグ・ハマーショルド賞受賞)と『キリストの誕生』(読売文学賞受賞)である。『イエスの生涯』は徹底的に無力な「生活」無能力者としてのイエスの「人生」を、さまざまな研究や先達のイエス伝(たとえばモーリヤックの『イエスの生涯』)を踏まえ、小説家的な想像力を駆使しながら描き出した本である。
 そして『キリストの誕生』は、イエスを裏切った弟子たち(裏切ったのはユダだけではなく、ペテロもヨハネも含めてすべての弟子たちが裏切ったのだ、というのが遠藤さんの考え方)の側から、そんな情けなくも弱すぎる人間がいかにして「キリスト教」を作り上げたかを描き出している。とくに「教会」の基礎を作ったペテロと「神学」の基礎を作ったポーロ(パウロ)このあまりに対照的なふたりを中心にすえながら。(『沈黙』のなかでロドリゴが踏み絵を踏むとき鶏が鳴く。ペテロが自らの命を守るために「イエスなんて知らねぇ」と言ったときに鶏が鳴いたように。そして遠藤さんの『沈黙』は当時、いくつかの教会で禁書扱いされた。で、遠藤さんの洗礼名はパウロである)。
 この二冊の本を読んで、クリスチャンの僕(ほとんど完全に「転んで」しまっている現状だが)が受け取ったメッセージを言葉にしてみる。

「宗教」を持っている人間は、「宗教」を持っていない人間の多くが「逃げ」として侮蔑する「宗教」から逃げようとするときに「信仰」に捉えられ、それを意識するのであって、彼らは決して「現実」から逃げようとしているのではない。「宗教」を持っている人間はむしろ「宗教」から、「神」から逃げようとしているのである。
 自らの意志とは無関係に「宗教」を持って生きることになった人間が、そのバカバカしさから逃げようとする。遠藤周作の作品(小説、エッセイ、戯曲)が、「宗教」を持たない多くの人間の心を捉え、その琴線をかき鳴らすのは、彼が一貫して「逃げようとする人間」を描き、それによって「人間の可能性」を伝えることに意を尽したからである。

 ニーチェが(あるいはヘーゲルが)言ったように「神は死んだ」かもしれない。でも、だからこそ、この二冊の本を読んでみてほしいと思う(どちらか一冊というなら『キリストの誕生』を)。一人の「人間」の「死」を出発点として作り上げられてきたものについて学ぶことは、「宗教」とか何とかを超えて心に響いてくるものだと思うから。

>(ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』)

>(同書の訳者解説「ドゥルーズとニーチェ」湯浅博雄)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

青空

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

坂田三吉という人はどこか、青空の下にぽつんと立っているようなところがある。真夏の涼やかな高原。青空。白く輝く大きな雲。でっかいでっかい白雲がでん! とましますのにも拘らず、青空はとてもとても広く、深刻さの欠片も感じられないほど深くて、清々しい。機上から眼下に広がる輝く雲海を目にしてエロール・ガーナーの内にMistyが流れ出したように、坂田の内に「銀が泣いている」という言葉が、「栓抜き瓢箪」という理想が、そして「後手・9四歩」が生れる。

巻末に収められた坂田の棋譜(「泣き銀の局」「夢角の局」「南禅寺・端歩の局」etc)を盤上に再現してみる。坂田の言に従って、決して駒音を響かせぬように気遣いながら。静かに、出来うるかぎり静かに。すると、「青空」がある。

「青空」はときに優しく、ときに寂しく、ときに暖かく、そしていつも清々しい。

(あの頃僕たちはアメ横にを買いに走ったものである→嘘!)という稀有な人物に生を与えた漫画家・能篠純一。『月下の棋士』において、氷室将介は初手に必ず端歩を突く。

「人には華っていうか、目に見えない光を宿している人がいて、ぼくにとっては、それが坂田三吉なんです。……あの端歩をどう見るかは、芸術性の問題だと思うんです。……将棋盤も画用紙も宇宙なんです。あのカンバスに何を描くか、あるものを目標に手をつけ始めたら、描く人間には無限なんです」(26〜7頁)

終盤に驚異的な強さを誇る「天才棋士」、小説家・保坂和志も翻訳家・柳瀬尚紀も大注目の羽生善治は言う。

「あの対局(南禅寺・端歩の局)は、木村先生も負ければ自分は引退するつもりだったとおっしゃってるくらいの大一番ですから、普通の対局とは雰囲気とか、その場に対する思いが全然違ったと思うんです。私もプロをやってて思うんですけど、大きな勝負であればあるほど、こう、なんていうか、平凡に普通の将棋を進めていこうって気がしないことがあるんです。大きな勝負の時に、決まった型通りの将棋を指すのは、なんかこう、自分の力で指していないような気がして。……せっかくの大きな一番だからこそ、自分は自分でありたいという思い、そういうところがあったのかな、とも思います」(20頁)
(この勝負師ぶりに、「伝説の雀鬼」桜井章一さんを思い出し、さらには片山まさゆきさんの傑作麻雀漫画『ぎゅわんぶらあ自己中心派』で「後手、8三カマボコ」かなんかやらされてた坂田氏を思い出す。「青空だなあ、これもまた…」)

「いろいろと私も二手目(後手の初手)をまじめに考えたことがあ」るという羽生は、端歩を突くのは早くても「六手目(後手の三手目)」だと言う。

そして、打倒羽生の一番手・島朗は初手に端歩を突く可能性について、こう言う。「ある高みに達して、そういう立場になったら、ありうるでしょうね。もし端歩をつければ、そのころは恬淡とした気持ちで悠然と将棋を指せるんじゃないでしょうか」。そして……

「羽生君も初手に6四歩とか、最近昔っぽい手を指すんですよ。やっぱり彼なりに将棋の可能性を追求しているんじゃないでしょうかね」(251頁)

本書の著者・岡本嗣郎氏(新聞社に勤めていただけあって、幅広い目配りの利いた素晴らしい評伝である!)が坂田三吉に興味を持つきっかけとなったのは、織田作之助の『聴雨』であり、『勝負師』であるという。

『可能性の文学』の著者・織田作(おださく)は、書く。

「私は九四歩つきという一手のもつ青春に、むしろ恍惚としてしまったのだ。
 私のこの時の幸福感は、かつて暗澹たる孤独感を味わったことのない人には恐らく分るまい。私はその夜一晩中、この九四歩と二人でいた。もう私は孤独ではなかった」(『聴雨』)

(*追伸:文庫本→『孤高の棋士 坂田三吉伝』集英社文庫)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本カラマーゾフの兄弟 改版 上巻

2004/04/27 02:33

MATRIX

6人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

マトリックスって、まんま『カラマーゾフの兄弟』の世界やんか、ついでに言えば、マトリックスの元になったらしい(?)AKIRAもそうなのかもしれないし、さらに言っちゃえば、第二次大戦中の日本とアメリカのあり方っていうのが、そのまま裏返しになって表現されているような感じがしてしまうのは、自分が日本人であるということを差し引いても、たぶん、ある種の人々はそういう部分というのを感じ取っていて、それを表現しようという衝動に突き動かされているっていうことなのではなかろうか。「大審問官」の、あの解決不可能に思える絶望という「死に至る病」を、なんとか解決してしまおうという、壮大な映像叙事詩であるのではないのか、これは。99年の映画だけど。

「大審問官」というのが、たとえばオーウェルの『1984』みたいなディストピア小説の系譜の親玉である、ということは、何かで読みかじって知識としては持っていたりするけれど、で、そんなことを言い出せばSF作品っていうのは、ブラッドベリの『華氏451℃』(だったかな、確か本が燃えちゃう温度だったと記憶しているが)にしろディック『アンドロ羊』にしろ、多かれ少なかれ「大審問官・解決編(の試み)」しちゃってるのかもしれない。(やっぱり、「こども」だけで解決しようとしても……)

「大審問官」の根っこには、聖書(福音書、つまり新約のほう)に出てくる「荒野における悪魔によるキリストの誘惑」があるわけだけれど、パンと奇跡と権力、この三つの誘惑を断ち切ることで、キリストは「(人間の)自由」を守ろうとしたのだ、というのが一般的解釈である(と思う……たしか教会学校とかでそんなふうに習った覚えがある)。「こういうのって日本人にはわかりにくいんだよね」という思いは、かなり痛い記憶とない交ぜになって僕の中に残っていたりするけれど(宗教を持ってない人って宗教を持ってる人間をどこかバカにしてる所があって、これってどっちもどっちな所もあるし、もちろん皆が皆そうではないんだけど、宗教持ってるってのも結構辛いんよ)、やっぱり聖書に限らず宗教的な経典は「信じる」っていうことを巡って捉えないと、ときに猛毒をもってしまうものだし、「信じる」っていうことは、ものすごく個人的なところがあるから、というか「自由」でなくてはいけないものだから、それを表現にまで高めて(?)しまったドストエフスキイは、とてつもなく強い人間なのである。小説家として。

心して読んで欲しい。たとえば、「人生のピンチやなあ、今の自分」って、言葉にすることもできずにいるような、そんなときに。

僕は何度も道を踏み誤っている。やっと、生半可な、自己憐憫的状況から、頭一つ分だけ抜け出られたような気がする。たとえ錯覚にせよ、である。

カラマーゾフとマトリックスと半藤さんの『昭和史』に感謝。

さて、ナポレオンとヒトラー、この二人と取り組んでみるかな。

(勝手にしろ! はい……ごめんなさい……Smile / by Chaplin)


◇『カラマーゾフの兄弟 中巻』
◇『カラマーゾフの兄弟 下巻』

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本白い人・黄色い人 改版

2004/12/05 04:54

「道」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「あまりに図式的でリアリティのない世界……善と悪、光と影、霊と肉、そんな二元論的思考?」

遠藤周作の小説は図式的だ、という批判がある。思想的なものが前面に押し出されすぎて小説としては完全に失敗しているケースが少なくない、というふうに。

でも、『白い人・黄色い人』(1955)『海と毒薬』(1958)『沈黙』(1966)『死海のほとり』(1973)『侍』(1980)『深い河』(1993)と七つの小説を続けざまに読んでみて思うのは、少なくとも『侍』や『深い河』のあまりに図式的な小説のつくりは、これは遠藤先生、わざとやってるな。

旧約聖書の「神」と新約聖書の「神」の違い。

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹)の一角獣と『沈黙博物館』(小川洋子)のシロイワバイソン、聖性を帯びた動物(生贄)の死と引き換えに保たれる静けさ。生贄(犠牲)に支えられた旧約聖書的な世界には救いがないように見えるが、それゆえにこそ「神」とのつながりを感じることもできる。「律法」(きまりごと)を通してのつながり。

>(『キリストの誕生』1979)

人は誰も多かれ少なかれ図式的な形で世界を認識している。そしてそのことがさまざまな悲劇を生み出す。では、どうすればいいのか。遠藤周作はそれを「小説」という実践を通して探究する。

遠藤周作が母の死の翌年に書いた「白い人」(芥川賞受賞)という小説の図式。

放蕩的なフランス人の父と宗教的に厳格なドイツ人の母の間に生まれ、サディステッィクな性向とジャンセニスム思想(「人間はいかに、もがいても悪の深淵に落ちていく」)に囚われた「私」(斜視)は、ナチス占領下のリヨンでゲシュタポへの協力者となる。そして、戒律を厳格すぎるほどに守るカトリック司祭として、対独レジスタンスのメンバーを助けていたジャック・モンジュ(醜い男)を「自殺」へと追い込む。かつて大学時代にジャックを悪の味を知らしめるためだけに誘惑したその従妹マリー・テレーズを、ふたたび人質にして、彼女の貞潔と引き換えにレジスタンスのメンバーを密告するよう迫ることによって。

その図式は非常に明確である。単純である。見え透いている、と言ってもいい。私=悪魔(蛇)、ジャック・モンジュ=基督(アダム)、マリー・テレーズ=ユダ(イヴ)。

>

「白い人」のラスト近く、ジャックの自殺後に発せられる「私」のその言葉は、母の死後に聖ベルナール教会を訪れ、祭壇の上の十字架像を前に発せられる「私」の言葉に、あまりにあからさまに対応している。

>

死に囚われた「私」に、救いが訪れることはない。しかし、25年の歳月をかけて、『侍』という、これまた非常に図式的なつくりの小説のなかで、処刑を前にして、自らの信仰を貫いたがゆえにふたりの「侍」を死に追いやった「宣教師」は、こんな最期の言葉を発する。

>

その道のりの長さを思うと、気が遠くなるように、胸が熱くなる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本死海のほとり

2004/12/03 02:48

「光」

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

>(Last Tango in Paris)

その涜神的な(性)表現ゆえに物議を醸した映画「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972)のなかで、映画「地獄の黙示録」(1979)ではカーツ(→クルツ)を演じたマーロン・ブランドが演じる男(ポール→パウロ)は、「名前」を持たないままの関係に拘る、旧約聖書のなかの「神」のように。

『死海のほとり』を読みながら、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と似ていると思った。ちょっと古臭い言葉でいえば「ハレ」と「ケ」とか「日常」と「非日常」とかそんな感じの二つの世界を交互に置いている、そんな小説の構造。「解説」の井上洋治さんの言葉を借りれば、二つの別々の物語が「ちょうどフーガのように対位法的に展開」され、最後には「鮮やかに一つにとけあっていく」。そして、とても深いところで何かをシェアしているように感じる。

唐突だけれど、なんかこの二つの小説には「サーカス」とか「見せ物小屋」的な感じがすごくある。遠藤周作は生前「樹座(きざ)」という素人劇団を主宰していて、村上春樹は作家になる前ジャズ喫茶(バー)を経営していたらしいけれど、そういう場所に共通のアングラな空気が、サーカスふうな空気になって、流れてくる。そして彼らの描き出す「奇蹟物語」は一種のサーカスで、それは「ケ」とか「非日常」の側にあるのではなくて、ハレとケの、日常と非日常の「間」にあって、点と点をつなぐ「ロープ」のようなものなのではないか。『死海のほとり』を書いた遠藤周作、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書いた村上春樹は、サーカス団長なのではないか。

>

これは、林海象の映画『二十世紀少年読本』(十年以上前に見た)とコラボレートする形で書かれた川西蘭の『サーカス・ドリーム』(最近読んだ)の一節なのだけれど、『死海のほとり』と『世界の終り〜』を読み終わったときに僕が感じていたことにすごく近い、というより、そのもののような気さえする。(川西さんの書いたこのフレーズが心に響いてくる人には、ふたつの小説の「サーカス」っぷりを味わってみてほしいと思う。)

ついでに、ふたりの作家はどこが似ているのだろうと考えてみるに、ふたりとも関西人ふうのやわらかさがある。村上春樹はたしか神戸のあたりの出身だったと思うし、遠藤周作は東京生まれみたいだけど、幼年時代を旧満州の大連で過ごしたあと十一歳で神戸に戻ってきたらしい。阪神淡路大震災や少年Aの連続児童殺傷事件があったりしてあまりいい印象がないかもしれないけれど、神戸というのはいい街だと思う。海と山がすぐ近くにあるというところがいい。六甲山には羊がいるし。

もう一つの共通点は「ユング」かもしれない。遠藤周作は日本を代表するユング学者の河合隼雄さんの『影の現象学』(文庫本)のあとがきで絶賛評を書いているし、村上春樹は河合隼雄に会いにいったし、どっかで赤坂真理(彼女の「響き線」という短篇はすごくいい)に「村上さんはユングの読みすぎなんじゃないかなって感じがする」と批判されていた(たしか斎藤環と赤坂真理の対談記事で)。でもオカルトではない。

>(「Deep River」)

宇多田ヒカルが遠藤周作の『深い河』にインスパイアされて作ったという歌を聴きながら。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本海と毒薬

2004/11/30 05:51

「可能性」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

何人かの人物のそれぞれの「生」がひとつの「事件」に向けて収束していくさまを、複数の視点からの回想を交えながら描く。映画「羅生門」のように。

『深い河』では五人の登場人物がガンジス河へやってくるに至る事情が、すべて三人称で語られる。(「一章 磯部の場合」「三章 美津子の場合」「四章 沼田の場合」「五章 木口の場合」「十章 大津の場合」)

『海と毒薬』では「第二章 裁かれる人々」として看護婦・上田、医学生・戸田、医学生・勝呂(すぐろ)の三人が米軍捕虜の生体解剖という事件へと転がり落ちてゆくまでの経緯が、上田、戸田については一人称で、勝呂については三人称で語られている。

看護婦・上田には遠藤周作の母のイメージが、そして医学生・戸田には太宰治(『人間失格』)や三島由紀夫(『仮面の告白』)のイメージが、つまりは、おそらく日本人にとっての『罪と罰』を描き出そうとした人々の系譜に連なる作家・遠藤周作自身のイメージが色濃く投影されている。

>(戸田)

ベルリン映画祭で銀熊賞(1987)を獲得した映画『海と毒薬』の監督・熊井啓は、生体解剖に参加することに同意しながらも結局はその場でだらしなく崩折れて遠巻きに見ているだけであった勝呂に、この作品の登場人物のなかで唯一「希望」あるいは「救い」につながりうる、ささやかな可能性を見出している。

この勝呂という登場人物は、のちに『沈黙』のキチジロー、『死海のほとり』のコバルスキ、そして最終的には『深い河』の大津へと結晶してゆく、遠藤周作にとっての「イエス」像の原型である。

>(『深い河』)

遠藤周作はさまざまな場所で、「イエス伝を書くこと」が自らの文学的使命のようなものだと語っている。そしてその「イエス」像は、『死海のほとり』と『イエスの生涯』やその続編『キリストの誕生』のような作品を通して、「同伴者イエス」という言葉に結実した。

医学生・勝呂にとって、それは自分がはじめて担当した患者(「おばはん」)の生と死を通して、心に刻み付けられたものであったのかもしれない。しかしそれでもなお、あるいはそうであればこそ、彼は生体解剖に参加したのである。

>

人間の弱さ、汚らしさを凝視したとき、極限の疲れのなかで、たしかに何かが見えてくるのだと思う。それを「神」とか「キリスト」とか名付けるのは嘘くさいし、「愛」だとか「真実」だとか呼ぶことにも抵抗があるけれど、そんな嘘くささや抵抗を感じることを誤魔化して腐らせてしまわないために何かをすることが、つまりは生きることなのではないか。そんなことを考えた。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本きょうのできごと

2004/10/29 01:56

よしなしごと。トム・ウェイツとか聴きながらの。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『迷走王 ボーダー』という漫画に「捕鯨・発祥の地」という胡散臭い名所が出てきて、その海辺にあるハリボテの鯨のなかに「もうひとつの知られざる三億円事件」の犯人たちが阿漕な大金持ちから失敬した札束を隠して、ほとぼりが冷めるまで十年だか十五年だか待ってから取りに行くというエピソードが描かれている。で、たまたまそれを小耳に挟んだ主人公たち三人(社会のボーダーライン上を生きている男たち=「ボーダー」)がそれを横取りしようとするという展開になるのだけれど、「もうひとつの知られざる三億円事件」の犯人(女一人、男二人)はいわゆる「シネフィル(映画気狂い)」で、ジム・ジャームッシュ監督の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のような空気感をもった作品を『ストレンジャー〜』以前に既に習作として撮っており、もっと本格的な映画を撮ろうとして大金を盗んだという設定になっている。

僕は『ストレンジャー〜』に鯨が出てくるのかどうか知らないのだけれど(たぶん出てこないと踏んでいるのだが)、行定勲監督が撮った映画『きょうのできごと』には柴崎友香さんの原作にはまったく出てこないエピソードとして、どっかの浜辺に鯨が打ち上げられるというお話が挿入されていて、これはもしかして行定さんは『ボーダー』(と『ストレンジャー・ザン・パラダイス』)にささやかなリスペクトを捧げてみたりしたのではないかなと思うと、なんだか嬉しいような気分になって顔がにやけてしまう。

『きょうのできごと』(柴崎友香)には保坂和志さんの保坂さんらしい解説がついていて(「ジャームッシュ以降の作家」というタイトル)、いい意味でとても勉強になる。久しぶりに『書きあぐねている人のための小説入門』を引っ張りだしてきて電車のなかとかで読んでみたら、さらに勉強になる。保坂さんが「風景」を書くことの大切さを強調していることについてあれこれ考えていると、保坂さんは批判的らしい『日本近代文学の起源』(柄谷行人)のことを思い出して、「風景の発見」という章を読み返してみたりすると、さらにあれこれあれこれ考えている。

柴崎さんの小説『きょうのできごと』の肌触りというか空気感は、保坂さんの『プレーンソング』に似ているように思う。はじめて保坂さんの小説を読んだときに、なんだか村上春樹に似てて好きだなぁと感じた人間の言い草なので、あんまり信用はできないけれど、あの頃にくらべて僕は僕なりに成長しているはずなので、それほど大きくは外していないんじゃないかな。

「きょうのできごとのつづきのできごと」(柴崎さんが行定さんの映画撮影を見ながら感じたことを綴ったエッセイふうの文章)のなかに書かれている柴崎さんのふたつの文章が、心に残っている。

>

>

どうにもまた本とは関係ないことを書いてしまったけれど、とにかく僕は『きょうのできごと』という小説がとても好きで、その「好き」はこういうことを書くことを、さらりと許してくれるような空気感にあるんじゃないかな、と思う。

あと、映画『きょうのできごと』のなかで「かわちくん」と「ちよ」が喧嘩しながら歩くシーン(酔っ払いのおっさんがかわちくんにチョッカイを出すとこ)、「あ、これ、あそこやんか」(いま、ここから歩いて一分)という驚くべき発見があったりして、なんだか似たようなシーンを自分も過去に演じたことがあったなぁ(僕は昔ちょっとかわちくん風なところがあった)と回想モードに入ったり……そういう、ある意味よけいなものが、ちっとも邪魔にならない。行定さんの映画も柴崎さんの小説も、そういう「すきま」がすごく気持いい。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ガンジー自伝 改版

2004/09/29 00:57

「真実をわたしの実験の対象として」という副題をもつ、マハトマ・ガンジーの自叙伝です。

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ガンジーといえば、「非暴力・非服従」というキーワードで知られるインド建国の父である。リチャード・アッテンボロー監督の映画「ガンジー」はとても感動的で、ガンジーの一生をドラマティックに描き出している。ガンジーのことを知るための入り口としては、この映画が一番だと思う。(アッテンボローといえば、映画「大脱走」での役者っぷりも忘れがたい。ちなみに、あの映画で僕はマックイーンに惚れた……)で、アッテンボローの映画を見て感動したりしたならば、次はこの本に進んでみたらどうだろう。ガンジーはいかにしてあの「ガンジー」になったか、それがわかると思うから。

(ちなみに、この本の解説を書いているのは博覧強記の松岡正剛さんである。)

          *****

「明日死んでしまうかのように生きる。永遠に生きつづけるかのように学ぶ。」
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.
マハトマ・ガンジー(1869-1948)

「永遠に生きるが如く夢を見ろ。今日死んでしまうが如く生きろ。」
Dream as if you'll live forever. Live as if you'll die today.
ジェームス・ディーン(1931-55)

塾の授業でお遊び的に使おうと思って、あれこれと英語の名言を探していたら、ガンジーとジェームス・ディーンが同じような言葉を残しているのを知って、驚いた。まったく対照的な生き方をしたかに思える二人なのに。(一人の生徒は、「おれ、ジェームス・ディーンとかのほうがいいな」というような感想を口にした。)

で、このふたつの名言が僕にとても響いてきたのは、パスカルの『パンセ』のなかにも同じような言葉が書かれていて、その言葉に僕がとても勇気づけられたからだ。何に苦しみ、何に絶望を感じるかは人それぞれ違うけれど、この二人(パスカルも入れれば三人)がその苦しみや絶望的状況のなかで、他者に向けて発した言葉は、けっして他者に対して自らの苦い思いをそのままぶつけるような、そういう類の言葉ではなかった。そして、その言葉が口先だけのもの、口当たりのいい名文句にすぎないようなものでなかったことは、彼らの生きざまや作品が今に至るも多くの人を惹きつけつづけ勇気づけつづけていることに示されている。(ところで不思議な暗号がもうひとつあって、大空を自由に羽ばたく鳥の如きアルトサックスの吹きっぷりゆえに「バード」と呼ばれたチャーリー・パーカーがこの世を去ったのが、ジェームス・ディーンと同じ1955年だったりする。)

苦しみを感じ、絶望(あるいは絶望まがい)を感じてしまった人間に求められていることは、その状況(今)から学ぶことを決して諦めず、自らの発する言葉を含めた行動のなかで、自分という狭い檻を超え出るような力強い夢(永遠)を描き出してみせることなのだと思う。具体的に何をやるかは人それぞれであるにせよ、その大枠だけは確かなものであると、僕はそう思っている。なんだか、かなり人生論くさいけれども。

          *****

アッテンボローの映画では、何かっていうと駄々っ子のように断食生活に入ってしまう頑固な男という印象のガンジーだったけれど、この自伝によれば、彼はとても引っ込み思案な人間だったようである。

>

あまり読みやすい本ではないかもしれない(宗教的な言葉とか、生活信条的な言葉とか……)。でも人それぞれ、心に響く言葉が詰まった本であることは、間違いない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本地下街の人びと

2004/09/14 03:39

チャーリー・パーカーを聴きながら。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「昔、あんたみたいな女がいた。だれも、その女を助けようとしなかった」
(『荒野の用心棒』1964)

クリント・イーストウッドはチャーリー・パーカー(1920〜55)の生涯を描いた映画『バード』(1988)を作り、ジャック・ケルアックは、バードを中心人物とする音楽的革命「バップ」(bap)を散文的形式の中に取り込むことで、『地下街の人びと』(1958)を書き上げた。

ケルアックといえば『路上』(1957)だ。その自伝的で記念碑的な小説はこう始まる。「はじめてディーンに会ったのは、ぼくが妻と別れて間もないころのことだ。そのころ、ぼくはある重病から回復したばかりであった」(ケルアックはかつて「偏執狂的精神分裂病」というレッテルを貼られていた)。サル・パラダイスとディーン・モリアーティの旅が終わりに近づくころ、『路上』にはロマンティックなフレーズが見え隠れしはじめる。「宵の明星がかがやくのは、大地を祝福し、あらゆる川を闇で包み、峰々を覆うて最後に海岸を覆う完全な夜の到来のちょっと前なのだ」

耳を澄ませて、自分を捉えるフレーズを探してみる。もし見つかったらしっかり掴まえる。けっして離さない、離したら死ぬ、そんな覚悟で。あとは一気に駆け抜けて、読後の余韻を楽しむ。

ジャズエイジの桂冠詩人スコット・フィッツジェラルドは『グレート・ギャツビー』(1925)の結末近く、「ニューヨークのかなたに茫漠とひろがるあの広大な謎の世界のどこか、共和国の原野が夜空の下に黒々と起伏しているあのあたりにこそ、彼の夢はあったのだ」と書いた。晩年、失意のうちに書かれた『崩壊』(1936)は「いうまでもなく人生はすべて崩壊の過程である」と書き起こされ、その少し先には「魂の暗闇の中では、来る日も来る日も、時刻は午前三時なのだ」という有名な文章が置かれている。

『路上』の成功で一躍ビート・ジェネレーションの主役に躍り出たケルアックは、翌58年、わずか三日間で『地下街の人びと』を書き上げた。この伝説的な早書きを可能にしたもの、それは本書に散りばめられたレオ・パースパイドの文学論(「もしおまえがそのときのはずみで突然に書いたものなら、素晴らしいものだと言ってもいい」等々)に端的に示されているような、シュルレアリスムふうな「意識の検閲を徹底的に排除する」執筆手法と、ケルアックが濫用し、チャーリー・パーカーの身体をも蝕んだ「ドラッグ」であるとされている。決して褒められたことではない、確かに。

『グレート・ギャツビー』(「ぼくがまだ年若く〜」)を真似るように「以前はぼくも若かったし」と書き出され、「ぼくが午前三時に家へ帰らなかった理由----と、例。」という『崩壊』をバップふうに崩したフレーズで閉じられる第一章。そんな『地下街の人びと』の大半は、アルコール&ドラッグまみれのイカれた世界だ。のたくる蛇のような文章に飲み込まれることの気持ちよさ。それは過度なアルコールやドラッグへの逃避と、たぶん良く似ている。でも、こんなフレーズが散りばめられている。きらり。

>

「ごらん、ぼくのこの笑顔。歌でも歌って、世界中に伝えておくれ。ぼくは本当に自由なのだということを。ぼくのために、泣くことはない。ぼくは、カンザス・シティに行くのだから」(キング・プレジャーが「パーカーズ・ムード」に付けた詩)

ドストエフスキー(『地下室の手記』)、ジョイス、プルースト、そしてバード。敬愛する先人たちへの思いの詰まった、ピュアな恋愛小説。それが『地下街の人びと』、結語が素敵だ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本失楽園 上

2004/09/08 00:37

ミルトンの失楽園

5人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『失楽園』を読みながら、堕天使たちが神への復讐についてひどく人間的に喧々諤々の議論を戦わせる場面(→その結果、彼らは人間どもを誘惑することに決めたわけだ)に妙に力強さを感じ、魔王サターン(=堕天使ルシファー)の潔い言葉の数々にとても格好いいなぁと感じ入ってしまって、これは困ったもんだなぁ……と思わず悪魔な微笑が洩れる。坂口安吾が「堕ちよ」と書くとき、彼はこういう堕ち方のことを言ったのではあるまいか、みたいな。

盲目の詩人たちが書いたもの……といったところで、ミルトンとホメロスしか読んだことはないし、ヘレン・ケラーの『わたしの生涯』(訳者の岩橋武夫氏も盲目の人……ちなみにミルトンとかホメロスが盲目であったことを、僕は『わたしの生涯』を通読するまで知らなかった。バカかもしれない)を含めて数えてみても、わずか三冊しか読んでいない(ホメロスは『オデュッセイア』しか読んでいない)。

と書いてきて、この前テレビの深夜放送で見た木下航志(きした・こうし)くんという、15歳の盲目のジャズマン(中学3年生)の、これはもうとんでもなく清らかでまるで天使そのもののような歌声を思い出して、そのとき、スティーヴィー・ワンダーとかハーマン・フォスターとか僕の知っている盲目の天才的な音楽家たち(ブルーズ系の音楽家には盲目の人が少なくないけど、本場のブルーズはどうも苦手だ。かつてマディーウォーター=泥水?とか聴いたときには、音楽自体がとっても苦くて耐えられない感じがして、まったく楽しめなかった覚えがある。いろいろなものが無茶苦茶に混ざり合って屈折しまくって、なんとも複雑で強烈な苦味がある、たとえは悪いが裏道のポリバケツに捨てられた残飯のごとき苦さ……でも、今ならもしかすると自分なりに味わえるのかもしれない……閑話休題。)が作る音楽の揺らぐことのない力強い光について、とりとめもなく考えたりしたことを思い出す。(そういえば、ジャック・デリダの『盲者の記憶』という本もオススメ)

「盲目」という言葉で括ってしまうことが、たとえ悪意などこれっぽっちもなくたって「差別」を生み出すのかもしれないとしても、僕が木下くんのこんな言葉に、彼らの力の源にあるものが詰まっているように感じて、光が見えた気がしたのは確かだから、引用しておこう。

(「もしもこの世に音楽がなかったら?」と聞かれて…)
「創れば良いでしょ」

歌うことの歓び。なんだか道徳的な、あるいは教訓的な「喜び」みたいなものではなく、どちらかといえば、もっと身体的な感じの、どちらかと言えば哄笑とかいう言葉で表されるようなものに近いような「歓び」。

>(優雅で洗練された振舞いの持主ベリアルの言葉。彼は話術巧みで、「悪徳にかけては勤勉そのものだが、善行にかけては怠惰で臆病」な堕天使である。で、闘いたくないのである。面倒だから。)

テレビのなかの木下航志くんの、いかにも「やんちゃ」(←この言葉で表されるようなものって、今まさに死に絶えようとしているような気がする)な振舞いを思い出しながら、『失楽園』っていうのは、どっちかっていうと、あまりに人間的な悪魔たちの「やんちゃ」な振舞いに呵呵大笑しつつ読むのが本筋なのかもしれないと思ったりする。

「私たちは言葉という光を持っている。私たちは誰も闇の中には住んでいない」(『奇跡の人』より)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本わたしの生涯

2004/07/27 04:22

真夏の強烈な日差しが地上のあらゆる物の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

大切なこと。
そんな言葉を書きつけて、我ながら気恥ずかしくなる。
大切なこと、それはぜんぜん大切そうじゃない場所に、ひっそりと息を潜めて、僕を(君を)待っている。
鳥肌が立ちそうだけど、堪える。

「愛とは、今、太陽が出る前まで、空にあった雲のようなものですよ」とサリバン先生は言う。そして説明する。「あなたは手で雲に触れることはできませんが、雨には触れることができます。そして花や渇いた土地が暑い一日のあとで、どんなに雨を喜ぶかを知っています。あなたは愛には触れることができませんが、それがあらゆる物に注ぎかける優しさを感ずることはできます。愛がなければあなたは幸福であることもできず、その人と遊ぶことも望まないでしょう」

物言うことの歓びに目覚めたヘレン・ケラーは「フロスト・キング」という物語を書き上げ、愛するアナグノス氏にその物語をプレゼントする。そして盗作騒ぎが起こる。彼女がまだ言葉の意味を知らなかった頃に読み聞かせてもらった「フロスト・フェアリーズ」というお話に、あまりに似ていたからである。ヘレンは書いている。「いったいそのころ、私には物語そのものはほとんどなんの意味もありませんでしたが、珍しい言葉をつづってみるだけでも、ほかに遊ぶすべのない子供にとっては十分な慰みでありましたので、この物語を読んでいただいたことについては何一つ記憶がなくても、先生が帰って来られた時説明していただくつもりで、その中の言葉を覚えるために私が非常な努力をしたことは、けっして考えられないでもありません。このゆえに一つだけ確かなことは、長い間だれも知らず、特に私自身がいちばん気づかないで、この物語中の言葉が私の脳髄に、消すことのできぬ深い印象を残していたことであります」
彼女はスティーブンスンの「若い作家は驚くべきものを見れば、ただもうこれを本能的に模倣しようとし、しかもふしぎなほどその驚嘆をさまざまに変化させるものである」という言葉を引いて、借り物の(受け売りの)思想ではなく、自分自身の思想を表現することの困難な過程について述べている。
「私たちはあらかじめ心の中に模様を考えていて、それを言葉で描こうとしますが、言葉の大きさがうまく合わなかったり、はまっても模様と色とが一致しなかったりしがちであります。けれども私たちは他の人々がなしとげたことを知っているし、また自分が負けたことを認めるのはだれしもくやしいので、根気よく努力を続けるのでした」

こうして、ヘレン・ケラーは『わたしの生涯』を書き上げた。その言葉と物語は、まさに闇の中に現われた一筋の光(その言葉は、日本語の翻訳で読んでさえ、とてもくっきりとした光である)のように、人々を照らしつづけている。
後年、ヘレン・ケラーは実ることのなかった悲恋のなか、こんなふうに書いている。「人は自らの不平不満を活字にはしないものです。自分の傷をさらけ出して、無遠慮な連中の目に晒すようなことはしないものです。素晴らしい思想や笑顔の裏に、自分の無様さや無力さをできるだけ隠そうとするものなのです。活字にしたものから私の実生活を知ることなどできません」(ドロシー・ハーマンという人が書いた伝記より)
この言葉が彼女生来の癇性と恋の苦しみから生じた一種の強がりなのか、それともこれこそが本音であるのか(つまり『わたしの生涯』は綺麗事に過ぎないのか)はわからない。確かなことは、ヘレンの言葉の眩いばかりの光はけっして褪せることなく、今なお読む者の心にくっきりとした生の輪郭を描き出してくれる、ということである。

人生に「イエス(Ja)」というための究極の一冊である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本死と生きる 獄中哲学対話

2004/05/09 17:59

Love’snottime’sfool(byWilliamShakespeare)

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

<生きること。それは日々を告白してゆくことだろう。 Y.Ozaki>

本書は、コンクリート詰め殺人で死刑判決を受けた元風俗店経営者・陸田真志によって(池田晶子との往復書簡という形で)この世に向けて発せられた「白鳥の歌」(Swan Song)である。
自らの「正義」漢ぶりを、「強さ」を顕示せんとして、この「白鳥の歌」を斬って捨てる人も少なくなかろう。曰く、「バーチャルな世界に嵌まり込んだ病的な言説!」「野放しにしておくのは危険すぎる気狂い沙汰!」
しかし、陸田真志という独りの男は「獄中哲学対話」を通して確実な一歩一歩の歩みを示し、自らを内側へと突き抜けて(池田の言葉を借りれば「底が抜ける」という経験を通して)「普遍」へと近づくことが可能であることを示してくれている。「ええかっこしい」で「理知の勝った」人間がさらけ出す「死と生きる」ことの姿、それは哲学者・三木清の言う「語られざる哲学」によく似ている。

「対話」というものが、「孤立」をも「一対一」をも超えて存在し得ることを示そうとする奮闘努力の跡が、あらゆる頁に揺れ動き、蠢き、語りかけてくる。
池田晶子はその「対話」のうねりのなかで、自己顕示乃至はルサンチマンへの危険な傾斜を見せ始めた陸田の言葉に対して、軌道修正の言葉を発する。

「とか、わかった、悟った、解脱した、と瞬間は、じつはそんなに珍しいことではないのです。そうではなく、そのこと、絶対としてのその質を、この相対界、この人生において生きること、生き通すことの、いかに困難であることか。が大事です。という、古臭いような言葉で私が言おうとしているのも、そのことです」

そして陸田真志は最後の書簡において、自らの「殺人」への踏み越えについて、『罪と罰』におけるラスコーリニコフの在り方を補助線として用いつつ、こんなふうに語る。

「……私の経験からすると……実は元々とは一体であり、つまり動物一般がそうであり、ヒトとしての動物がそうだったものであり、つまりが生まれた事でその自然的統一としてのの内にが生まれ、ここで初めて観念と行為(現実)が(膜一枚で単細胞のように)分裂したといった感じがするのです。その膜(理性)は発生時は弱いものではあるが、成長しうるという特性を備えているという感じでもあります。
 又、同時に、自然的統一者としての全的(一的)存在からを理性によって自我として誕生させる、もう一つのも起きたという事ではないでしょうか。そして個々の理性のその時点での強弱によって、ある観念が生まれたり生まれなかったり、それに続く行為が起こるか起きないかという差異が生まれるように思います」

本書出版の五年後、『新・考えるヒント』において表現されるに至った池田晶子の言葉(ロゴス)のなかにも、本書において生きられた「対話」が息づいている。「生きること=考えること=表現すること」であることの証左……
>(「ヒューマニズム」より)

*最後にまた尾崎豊の言葉を引いておく。彼の遺作Confession for Existより。

瞳を閉じてみる 全てはきっと優しいはずだと
何も悲しまないと 暮らしを彩れば
きっといつか 答えは育むものだと気付く
                      (「優しい陽射し(In Your Heart)」)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

119 件中 1 件~ 15 件を表示