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  3. すなねずみさんのレビュー一覧

すなねずみさんのレビュー一覧

投稿者:すなねずみ

119 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本普通の愛

2003/12/19 01:50

Tears

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

もうどれくらい、僕は目を閉じていたんだろう
何もかもが、僕の観念によって歪められてゆく
そして、それだけが、僕の真実だ

いつ始まり、いつ終わるというのだろう
夕陽は、ビルの陰に、すっかり隠れてしまった

さあ、もう目を開けて
取り囲むすべての物事のなかで
真実をつかむんだ
(「ドーナツ・ショップ」:アルバム「壊れた扉から」より)


どん底に、這い蹲って生きるべく、運命づけられた人間がいる。

その場所で、自らの使命を確信してしまった人間がいる。

すべては誤解であったり、思い込みであったり、妄想であったり、糞の足しにもならない戯言であるのかもしれない。

でも、

もしできるならば、そんなヤツを見かけたときには、「慈愛」のやわらかな微笑みを、そっと投げかけてあげてほしい。さりげなく。心を通さずに現れる「慈愛」。

彼(女)は、きっと「憐み」を拒絶する人だから。


尾崎の小説は、たぶん、ぜんぜんなっていない。尾崎っぽいクリシェがただ連ねられているばかりで、読むに耐えないかもしれない。

でも、もし君が尾崎の歌に、その存在に慰められたことがあるのなら、読んでみてほしい。彼の不器用な戸惑いが、衒いが、格好つけが、すべてのページに溢れているから。


「シェリー、見知らぬところで、人に出会ったら、どうすりゃいいかい? 俺ははぐれ者だから、お前みたいにうまく笑えやしない」(「シェリー」)


*注:僕がそんなヤツだと言いたいわけではない、念のために断っておくと。う〜ん、なんだか言訳じみてる。でも、違うんだってば。本当に。たぶん。

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紙の本

紙の本堕天使達のレクイエム

2004/03/25 22:55

BLUE(ATributetoYutakaOzaki)

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『尾崎豊 夢のかたち』(文春文庫PLUS)の著者・柴田曜子さんは書いている。

>

                ***

須藤晃さんがプロデュースした尾崎豊のトリビュート・アルバム<Blue>を聴きながら書いている。

<全てのものが置き換えられた幻想の中で>(Love Way)というフレーズに、ついさっきまで読んでいたボードリヤールの『パワー・インフェルノ』という、9.11について書かれた文章を響かせながら、大森洋平さんという名前すら聞いたことのなかったアーティストの歌を聴いた。

宇多田ヒカル(さん)が17歳のときに歌ったI Love Youの、切なげに強く揺らいでいる声に、体の奥の奥を抜けて宇宙的な広がりのなかで響き合う「ふたりの」歌が聴こえてくるようで、震えと鳥肌と涙の匂いが、僕の体のなかで出口を求めていた。

175R(ひゃくななじゅうごあーるではなく、いなごらいだーと読むということぐらいは、僕も知っている。……たしか、そうだったよね、ちがったかな、もしかして? ときどきとんでもない間違いをしてしまうから、僕は…)の歌うSeventeen’s Mapは、僕がふつうの会社に就職して、その歓迎会で歌って良識派(?)の上司やらセンパイのひんしゅくを買ったような記憶のある曲だ。

<何ひとつ語れずに うずくまる人々の 命が今日もまたひとつ 街に奪われた 憎しみの中の愛に 育まれながら 目覚めると やがて人は大人と呼ばれる 微笑みも 戸惑いも意味を失くしてゆく 心の中の言葉など 光りさえ奪われる ただ一人 握りしめた引き金を引く 明日へと 全てを撃ち抜く ただ一人 答えを撃ち抜く>(Exist In The Dark 闇の告白)

『自殺へ向かう世界』という、やはり9.11について書かれた本のなかで、ポール・ヴィリリオは書いている。

「テクノサイエンスの発展は、それが多くを負っているイリュージョニズムと同じく、>に奉仕する>となった。それは外観の操作、ペテンの連なりであり、まったく馬鹿げたものばかりで成り立っていることさえある」

Crouching BoysのThe Night(15の夜)。

I---with my eyes burning much more strongly than Robert De Niro's
“The Taxi Driver”, my heart not more restless than a soldier boy
facing death on battle-line---started the engine of the bike I stole.

最大限のRespectが詰まった(尾崎の)音楽たちを聴きながら、彼の残した言葉に耳を澄ませて、目を凝らして、全身で感じることは、ひとときの至福である。つかの間、「孤独」すら、どこかに置き忘れたような気分のなかで。

(で、追伸。Coccoさんの歌うDance Hallは、すごくいい。既に、名前と顔が一致しない人ではあるけれど、ミスチルの桜井さんと同い年の僕にとっては。)

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紙の本

神原則夫さんは現代の太宰治なのかもしれない

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

太宰治といえば相原コージさんなのかもしれない、一般的には。

でも、この人、神原則夫さんって、なんだかすごく太宰な感じがするのだ。(それにくらべると、相原さんは「太宰が好きなんだろうな、すごく」に格落ちする感じ)

このマンガ、相田みつをの<うた>をやたらにうまくパスティーシュするんだよなあ、という印象も強いんだけど……

例:「死んだっていいじゃない 人間だもの」……やくざに追い込みをかけられて命を賭けた麻雀をすることになってしまったおっさん(父親の友人)に、かほりがかける言葉。

でもやっぱり、全体から漂ってくる匂いが、何だかとっても太宰なのだ。
(例は挙げない。買って読んでほしいから。)

きっと「女生徒」(たしか、新潮文庫の「走れメロス」所収)なんか、すごく好きなんじゃないかな、神原さんって。

で、第一巻の<あとがき>は、なんだかとても感動もので、ちょっとばかり涙が出てきた。ただバカ笑いしようと思って買った本で、感動までしてしまうとは思わなかった。


すごくへこんじゃってる人には、麻雀なんか知らなくても、オススメじゃないかなと思う。

(でも二巻は、正直言って、ちょっと落ちたかな。自己模倣みたいな感じが少し出てきてるように思う。頑張ってほしい)

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紙の本

なんだか「天使」の存在を感じたいような気分になることがきっと誰にでもあるはずで、そして気がつくと天使はそこにいる。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

映画についての本なんて、とは思ったけれど、「ベルリン・天使の詩」はやはり僕にとって特別な映画だし、「パリ、テキサス」を初めて見たときにはナスターシャ・キンスキーの美しさに鳥肌が立って仕方なかったほどだから、仕事帰りに本屋で見かけたこの本を思わず買ってしまった。

「ベルリン・天使の詩」(この邦題については当時いろいろ議論があったけど、まあいいんじゃないかな、と思う。「ベルリンの上の天空」というのもちょっとねえ、という感じだし……)を見て、僕がまず第一に痺れたのは、何回か映像に挟み込まれるように朗読されるペーター・ハントケの詩だった。


子どもは子どもだったとき
不思議だった
どうして僕は僕で
きみでない
どうして僕はここにいて
そこにいない


あの日、有楽町駅から少し入ったところの小さな映画館を出て、ふらふらと街を歩いていた僕は、なんだかすごく不思議な気分になっていて、「あ、天使がいる」(うーん、言葉にするととんでもなく馬鹿馬鹿しくなってしまうんだけど)と感じたのである。(もう十年以上も前だけど)

本書冒頭のインタビューで、「結局天使たちは、苦悩する人間に対して大したことをすることができない。どうして彼らにもっと能力を与えなかったんだい?」という問いかけに対して、ヴェンダースはこう答えている。

「すごくそうしたかったんだ。でもそうすると何だかごまかしているみたいだった。彼らが主に聴くためにそこにいるという事実だけで、われわれには充分だと思えた。つまりわれわれが自分たち自身に、そして自分たちの意識に耳を傾けることができれば、天使たちの声が聞こえるし、天使たちはわれわれに話しかけることができると言いたかったんだ」。

そして彼は言う。「彼ら(天使たち)は<ベルリン・天使の詩>以後の私の映画には毎回登場しているんだ。ただ見えないままでいるだけさ。しばらくモノクロで映画を撮っていなかったから、そのせいで見えなかったに違いないよ」。


この本をパラパラと捲りながら、僕は「耳を澄ましてみよう」と思った。べつに意識的にそうしようとか何とか、そういうのではなくて、自然とそういうふうになっていた感じ。

「星の王子さま」ではないが「大切なものは目に見えない」ということ……が言いたいわけでもないんだけれど、何なんだろう、この感じは?

映像表現の方法論に対してとても自覚的な映画作家の本だから、刺激に満ち溢れている、とでも言えばいいのかもしれないけれど、なんだかあまり「断定的」な物言いをしたくない、そんな気分にさせてくれる本なのである。それはつまり、この本にはヴェンダースの匂いが詰まっている、ということなのかもしれなくて、いつも手元に置いておくってほどじゃないにしても、折に触れてパラパラ捲ってみたいなあと思わせてくれる本という感じ。


たまには、映画の本っていうのも、悪くはないのかな。

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紙の本

紙の本ドストエフスキーの詩学

2003/12/21 20:45

ドストエフスキーは究極の小説を書いたのか

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 本書のなかでバフチンが用いるふたつの重要な用語(「ポリフォニー」「カーニバル」)についての引用から始めよう。

「ドストエフスキーのポリフォニー小説において重要なのは、単一の具象的世界の確固たる背景において対象をモノローグ的に認識し、その枠内で展開してみせるという意味での、ありきたりの対話形式ではない。問題は究極の対話性、すなわち究極的な全体にわたる対話性である。劇の全体はその意味では、すでに述べたごとくモノローグ的であり、一方ドストエフスキーの小説は対話的である。彼の小説は、複数の他者の意識を客観的に自らに受け入れる単一な意識の全体像として構築されているのではなく、いくつかの意識の相互作用の全体としてあるのであり、その際複数の意識のどれ一つとして、すっかり別の意識の客体となってしまうことはないのである」(p37)

「カーニバルとはフットライトもなければ役者と観客の区別もない見せ物である。カーニバルでは全員が主役であり、全員がカーニバルという劇の登場人物である。カーニバルは観賞するものでもないし、厳密に言って演ずるものでさえなく、生きられるものである。カーニバルの法則が効力を持つ間、人々はそれに従って生きる、つまりカーニバル的生を生きるのである。カーニバル的生とは通常の軌道を逸脱した生であり、何らかの意味で<裏返しにされた生><あべこべの世界>(monde a l'envers)である」(p248)

 たとえば「カラマーゾフの兄弟」を読みながら、僕(たち)はちょっと背伸びをしてイワンに肩入れしてみたり、ピュアなふりをしてアリョーシャに擦り寄ってみたり、偽悪家ぶって大審問官の苦悩に同情してみたり、偽善家ふうにゾシマ長老の「お話」に胸を打たれてみたりする。でも、そんな読み方をしていたのでは、ドストエフスキーの小説を読んだことにはならない。あえて乱暴な言い方をすれば、そんな読み方をするぐらいならドストエフスキーなんて読まないほうがいい。彼の小説には猛烈な毒が含まれているから。
 ドストエフスキーが絶えず仕掛ける「感情移入」という罠を回避し、その「誘惑」に耐えながら読まなければ「ポリフォニー」は聴こえてこない。
(残念ながら、まだ僕には「ポリフォニー」が聴こえていない。かすかな予感があるだけである、なんとも無責任な言い草だけど。)

 本書の解説で、訳者の望月哲男さんは書いている。「作者は……主人公と<我>-<汝>の関係にあって、小説という<大きな対話>を現在形で展開してゆく、一つの声の主体である」。
 最近(でもないけど)埴谷雄高さんの「死霊」が文庫化されて、それなりに話題になったりした。埴谷さんはドストエフスキーの決定的な影響のもとに独自の小説世界を作り上げた人で、ついこの間電車に乗っていたら、隣に坐ったちょっとくたびれた感じのおじさん(五十過ぎぐらいの感じ)が「死霊」の文庫本を読んでいて、なんだか頬が緩んでしまった。

「カーニバル」について書こうと思ったら、なんだかまとまりがつかなくなってきた。そこらへんは、あなたに任せることにしよう。で、もし「小説」を書こうと思っているのなら、読んでみて損はしない本である。最後にちょっとした希望の言葉を……

「世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるであろう」(p333)

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紙の本

紙の本グレート・ギャツビー 改版

2003/12/09 04:03

恋をするたびに読み返したくなる本

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

恋をするたびに読み返したくなる本がある。ロラン・バルトの「恋愛のディスクール」、そしてスコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」。

「Great Gatsby」は、こんなふうに始まる。

In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice that I've been turning over in my mind ever since.
‘Whenever you feel criticizing anyone,’he told me,‘just remember that all the people in this world haven't had the advantages that you've had.’

僕がまだ年若く今より弱い人間だったころに父親が与えてくれたアドヴァイスがあるのだけれど、僕はその言葉を以来幾度となく思い返してきている。
「誰かを批判したくなったときには」と父は言った。「ちょっとばかり思い出してみるんだ。この世界のすべての人間がお前のように恵まれているわけではないということをな」(拙訳)


この文章を見つけたことで、フィッツジェラルドは「新しい(小説)世界」が目の前に大きく開けてきたことを実感したはずだ。それは、たとえば(不正確を承知で)「自己を対象化する視点を見出した」というふうに言うこともできるかもしれない。

表現者であるためには、おそらく「自己を切り離すこと」あるいは「自己を切り裂くこと」が、どうしても必要なのだ。そして、それは少しだけ「恋愛」に似ている。

歌手ジャニス・ジョプリンが敬愛してやまなかったという、フィッツジェラルドの妻ゼルダは、彼が主人公ジェイ・ギャツビーのキャラクターをしっかりと掴むことができるようにと、自らの手が痛くて動かなくなってしまうほどに一生懸命にギャツビーのデッサンを描きつづけたという。

やがて悲劇的な結末を迎えることになる二人の生を暗示するかのような、この「グレート・ギャツビー」という小説には、スコットとゼルダ、あまりに純粋すぎた男と女が作り上げた「愛」の形が結晶している。

それは「希望」という名の、ささやかな贈り物である。

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紙の本

紙の本排除の現象学

2004/03/14 03:22

桜の樹の下には屍体が埋まっている。(by梶井基次郎)

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

>(本書197〜8ページ)

 この一見正論らしく見える文章。某ニュータウンに「自閉症患者の施設」を建設することに反対した住民(?)が、自治会の会報に匿名で書いた文章であるという。その事実を考え合わせて上の文章を再度読むとき、「震え」(という言葉では弱すぎるような何か…)が、どこか身体の奥のほう(?)に、ある種の鈍痛を伴って、走らないだろうか。(*罪悪感云々の話をしているのではないつもりだ。)
 均質な空間のなかで。ささやかな差異を見つけ出し、増幅し、<外>へと排除する(=殺す)ことで、自らのアイデンティティを確立しようとする社会ないしは共同体というシステム。人々は匿名性のなかに。

 寅さんにはじまり、学校〜いじめ・自殺、浮浪者〜ドッペルゲンガー殺し、家族という物語〜イエスの方舟、ニュータウン〜均質空間、分裂病〜犯罪者……というような現象が、さまざまなテクスト・事例を織り交ぜながら、構造主義的な構えのなか、分析されていく。白眉の「異人論」として。そんな本である。(……ちなみに、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』から丹生谷さんの本、その次に本書を読んでみた僕であるが、なんだかすごく響き渡っている感じがある。オリジナルは十年以上前の本であるが、古臭さなど殆んど感じない。Reality)

 たとえば、こんな文章が微かな光を与えてくれたように感じている。

>(本書212ページ)

(たとえば、レモン爆弾のようなものとして……)

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紙の本

シェイクスピアを(もっと)楽しみたい人のために。

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フランス象徴派詩人ステファヌ・マラルメは書いている。「ハムレットのような尋常ならざる人のまわりをさまようものは、ハムレットそのものだ」

一方「荒地」によって第一次大戦後の荒廃した世界を見事に映し出したTSエリオットは言う。「ハムレットは、表現することのできない感情に支配されている---その感情は、示される事実をうわまわっている」。だから「ハムレット」は芸術的には失敗作であると。

本書の第2章「ハムレットは優柔不断な哲学青年か?」に示されている、さまざまな作家・哲学者(ドストエフスキー、チェーホフ、ジョイス、ニーチェ、小林秀雄、太宰治などなど)のハムレット像は、すこぶる面白い。著者の河合祥一郎さんは「表象文化論」を専門とするだけあって、その分析はとても現代風(いい意味で)だし、語り口も非常に軽やかである。彼の分析のスタンスは、たとえばこんな箇所に端的に示されている。

<真実を生み出す虚構の力は、演劇をはじめとする芸術一般を支えるものである。(中略)あらゆる言説には物語創造の要素、つまり虚構が含まれる。現実を知覚する際には、必ず想像力を通して現実をファンタズム(=ファンタジー)として捉え直す作業が必要になるということは先に述べたが、それを言い換えれば、当時(=シェイクスピアの時代=エリザベス朝時代)の知覚のメカニズムでは“実際”とか“現実”は常につかみどころのないものとして軽視され、想像力が作り出したファンタズムこそ、その人にとっての現実となる。現実それ自体を認識することなど不可能、いや、そもそも現実など見る者によっていかようにも変りうるファンタズムの総体でしかありえない>(p115)

<見せかけではない真実を見抜くこと----そのためには心の眼で見なければならない。「ハムレット」という作品は、最初から最後まで、見せかけによらず「心の眼で見る」ということの大切さを執拗に強調している>(p117)

どうもこうして部分的に抜き出してしまうと、なんだか読み返してみて、「あまりに真っ当すぎる」というか、「おめでたい」というか、とにかくすごく気恥ずかしいような気分になってしまう。でもそれは河合さんがどうとか言うことではなくて、たぶん僕の引用が下手だからでもなくて(多少はそれもあるかもしれないが)、「ハムレット」というのはそういう作品なのだ、たぶん。

ひとことで言うなら、「ハムレット」は(そしてシェイクスピアの作品)は「想像力」に対する賛美の歌なのだ(書いていて、やっぱりどうしようもなく恥ずかしくなるけど)。

で、僕が感じたこの本の唯一の欠点は、なんだか結論部分が弱い感じなのである。第1章から第6章までの「豊かさ」を、第7章でまとめそこねている感じがすごくするのである。でも、とにかく文句なく楽しめる本だと思う。「シェイクスピアって読んでみたいんだけど、ちょっと……」とか思っている人には是非読んでもらいたい。

そんなあなたに、「ハムレット」から今の僕が一番気に入ってる台詞を。


やめろ、前兆など気にして何になる。雀一羽落ちるにも天の摂理が働いている。いま来るなら、あとには来ない。あとで来ないなら、いま来るだろう。いま来なくとも、いずれは来るのだ。覚悟がすべてだ。生き残した人生のことなど誰にもわからぬなら、少しばかり早く死んだとて、それが何だというのか。放っておけ!(Hamlet)

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紙の本

紙の本眠る盃

2003/12/18 23:31

子どもたちとは、こんなふうに接したい

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向田邦子さんは、とても素敵な人である。このエッセイ集のなかの「あ」というタイトルのごくごく短いエッセイを読んでも、それがよくわかる。

小学六年生になったつもりで、ほんの少しだけ背伸びをした感じで、感想文を書いてみた。


 <向田邦子さんの「あ」を読んで      六年二組  すなねずみ>

「あ」、なんとも奇妙なタイトルのエッセイである。タイトルに即して内容をまとめるとこんな感じだ。

 ある冬の朝、通勤客でごった返すバスの車中、筆者は週刊誌を読んでいる。
 ページをめくろうとすると、「あ」という声がする。なにごとかと声の主をさがすと、すぐそばに立っている小学校低学年と思しき男の子が、筆者の週刊誌に載っている漫画を読んでいたのだとわかる。
 その少年にさりげなく漫画を読ませてあげる筆者のやさしい心遣い。「これ、読みたいの?」などと余計な言葉をかけても、おそらく少年を恥ずかしがらせるだけだったはずである。そこで無言のまま、ただ見せてあげる。なんとも女性らしい細やかな心遣いである。
 少年も少年で、さっきはただ「あ」としか言わなかったくせに、いざ読ませてくれることがわかると、漫画のセリフの部分を声に出して読む。そして読み終わると、また無言のまま目を上げて筆者を見る。微笑ましい限りである。
 しばらくして少年を見ると、なにやらポケットを探りながら、やはり無言のまま困っている。どうやらお金か、それとも定期かを忘れたらしい。さっきはささやかな無言の交流を楽しんだ筆者も、今度はさすがに無言というわけにもいかず、それでもきわめて短い言葉で「忘れたの?」と声をかける。
 やはり無言のまま、しかも怒ったような顔をしてうなずく少年に、筆者は無言のままバス代を渡す。そして、少年が降りる停留所にバスがつく。降りぎわに無言のまま少年は胸ポケットから赤鉛筆を抜き出して、筆者に渡して去ってゆく。精一杯の、やはり無言のお礼というわけである。

 このエッセイには後日談のような形で、もうひとつのエピソードが書かれているが、こちらは簡単にまとめると「大好きな子犬を失った少年が、やはり無言のまま(「ベエ!」というのは言葉ではないと思う)、筆者のもとから去ってゆく」という話である。

 いずれのエピソードも、自分の言いたいことを上手く言うことができずにいる、でも精一杯それを自分なりに伝えようとしている少年と、筆者とのささやかな交流の話である。そんなエッセイに「あ」というタイトル(もちろん、あのバスのなかの少年が発した「あ」という言葉でもあるのだが、それはまた日本語の五十音で一番最初にくる言葉でもある)をつけるなんて、とても洒落ていると思う。(了)

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紙の本

紙の本カンバセイション・ピース

2003/11/24 16:33

ベケット、チェーホフ、鈴木忠志……どこか演劇人の匂いがする

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「書きあぐねている人のための小説入門」につづけて、「カンバセイション・ピース」を読んでみて、部屋の掃除をしたら気分がいい。

いま保坂和志病に罹ってしまっている状態で、文章の上っ面は保坂さん風であるのだけれど、彼のひとつの文章に出来る限りの多様な方向性を持たせようとしている感じはとても開かれていて自由なところがあるというのはたぶん間違ってはいなくて、ひとつの文章を句点で止めるということは、とても勇気のいることで、ある種の決意というか思い切りが必要であり、こうやって文章をどこまでも止めずに続けてゆくかぎり何も終ることはないのだと思えばこそ生きつづけることができるのだ、と大袈裟なことを考えてしまうことが生きることの助けになるときがあるのだ、少なくとも僕にとっては。

「少なくとも僕にとっては」という止めかたには「逃げている」感じ、「甘えている」感じがある。それは毎日の生活のなかで「生きつづける」ことの辛さから逃げて、甘えてしまおうとすることとどこか似ている。

「生きつづける」ということは、ひとつの文章を終えて、次の文章へとつなげてゆくことに似ている。(何だか「似ている」ばかりで見苦しい感じだが、)とにかくひとつの文章を終えるというのは、本来とても厳しく自己を律することを必要とする行為であって、ときに他者の助け(ないしは外部)をどうしようもなく必要とするから、そこに「会話」なり「対話」なりが生まれてくるのだと思う。

久しぶりに、高橋源一郎さんの小説を読んでみたいような気持になっている。保坂さんの「開かれかた」と高橋さんの「壊れかた」はどこか似ているような(補い合うような?)気がする。

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紙の本

紙の本アフターダーク

2004/10/13 23:52

ささやかな胎動へ

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浅井マリと姉エリの関係がふと『ノルウェイの森』のなかの直子と姉の関係とパラレルなものに思えてしまって(77頁あたりから)、気がつくと読み始めの頃の違和感もほとんど気にならなくなっていて、しっとりと身体にしみ透ってきた感じ。

>(『ノルウェイの森』)

そして直子はある日、部屋で首を吊っている姉を見つける。『ノルウェイの森』ではそうなる。でも『アフターダーク』ではそうはならない。

>

(『ノルウェイの森』では、直子は姉ではなくワタナベのベッドにそっと入ってくる。姉はすでに死んでしまっているから。)

失ってしまったもの、取り返しのつかないもの。乗り越えたつもりでいても、それは、よりによってこんな時にって思うような場所で人を狂わせたりするものだったりする。そういう個人的なものを、クールに突き放しながら(ベタつかない感じで)やさしく掬い取ってくれるのがこれまでの村上春樹の小説だったように思う。『アンダーグラウンド』でオウム信者へのインタビューをしたあとに書かれた小説もその点ではあまり印象は変わらなくて、あくまでも個人的で潔い優しさを僕は受け取ってきた。(そして、確かに何かが足りないような気がしていた。)
でも『アフターダーク』は違うように感じた。たとえば、ラブホテルで働きながら怖い人たちから逃げ回っているコオロギというあだ名の女性の台詞。彼女はある意味とても村上春樹っぽい登場人物で、たぶん「鼠」とか「羊男」系列のトリックスター(はぐれもん)的なキャラクターにあたるんだろうなと思う。が、大阪弁である。女性である。村上春樹らしくない。(と僕は感じた。)

>

こういうことは小説自体とはあまり関係ないことかもしれないけれど、村上春樹自身は小説家として、自らの切実な喪失体験のようなものを『ノルウェイの森』までのいくつかの小説を書くことで乗り越えて、「自己療養へのささやかな試み」(『風の歌を聴け』)というプロセスを終えて、(『アンダーグラウンド』を境にして)社会へのコミットメントという方向へ新しい一歩を踏み出した。そして『海辺のカフカ』までの小説を書くことで「(社会への)コミットメント」というプロセスに一区切りをつけて、もう一度自分が小説家としてスタートした場所に戻ってきてくれたのではないかと思う。あえて初期の小説と同じような道具立てを使って新たなスタイルを実践しながら。

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紙の本

とってもクール。

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(イラストつきで説明も簡潔、章ごとに付されている「練習問題」もぜんぜん暑苦しくないし、さらにはそれぞれのテクニックが使われている映画をさりげなく教えてくれたりもします。べつに映像作家なんか目指してなくても、ふんわりと風に舞うように楽しめたりする感じの、とってもクールな本です)

映画の技法と小説の技法を、ひとつかふたつぐらい、なんとなく並べてみて、それを眺めていると、いろいろとりとめもなく考えたりもして、リフレッシュ法としてなかなか悪くない。

ステップ5「視野に変化をつけるテクニック」より、ふたつのテクニック。(前置きの抜粋→「映画に関してだけいえば、見る者は自らの観点を捩じ曲げられることを、むしろ歓迎してくれるのだ」→思うに、小説だってそうだし、そもそも現実と虚構のどっちが捻じ曲がっているかなんて誰にもわからない……たぶん、そんなふうな現実が捻じ曲がって見えてしまうことへの違和感を起点ないしは推進力にして、人は沈黙を破り、表現に向かうのだ。作り手としてであれ、受け手としてであれ……とか考えるのは暑苦しい)

反射→
>

ポータル→
>

異化→
>

こちらはデイヴィッド・ロッジ著『小説の技巧』(柴田元幸&斎藤兆史・訳)からの引用。ついでに本書に引用されているシクロフスキーによる「異化」の定義を孫引き。

>
(「仕事を、衣服を、家具を、妻を、そして戦争の恐怖を……」、妻を?……なるほど「妻を」か……こういうのをユーモアという)

メタフィクション→
>
(「ちょっと振り向いてみただけの異邦人♪」)

方法にまつわる本は、デカルトの『方法序説』にせよ、ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』にせよ、『小説の技巧』にせよ、この本にせよ、いかにも他人事のような風通しのよさを感じながら読めることが少なくない。だから、暑い夏にはうってつけだ。

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紙の本

紙の本内省と遡行

2004/06/26 23:30

映画「ベルリン・天使の詩」に、やさしさをもらった人たちへ。

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『内省と遡行』について、柄谷さんは「あとがき」でこう書いている。

>

つまり『内省と遡行』は、『ヒューモアとしての唯物論』が「日本のことも私のこともよく知らない読者を想定して」書かれていることと、正反対の態度で考えられ書かれている本であると言ってよいと思う。

『内省と遡行』の解説を浅田彰さんが、『ヒューモアとしての唯物論』の解説を東浩紀さんが、それぞれ書いていることも、非常に象徴的な感じである。(いずれの解説も非常に明快)

(そういえば、僕は浅田さんの『構造と力』をいつも『構造としての力』と言い間違えてしまう……で、この本は僕のなかでゴダールの『気狂いピエロ』という映画とイメージが重なっている。人を苛立たせるセンチメンタリズム(?)……でも、大切な何かがそこに置き忘れられているような気がする。なんていうか、愛すべき馬鹿さ加減、のようなもの。あるいは、「方法的」なもの)

この二冊の本はコインの裏表のようにして「人間の生におけるとの問題(?)」を徹底的・究極的に思考していて、その思考の襞に触れているかのような心地よさが僕はとても好きだ。

柄谷さんは『内省と遡行』において、「積極的に自らを>に閉じこめ」ることで「不在としての>に出ようと」試みている(←「内省を徹底化することによって、内省そのものの反転としての遡行……にいたる」by浅田彰)。その際、彼は二つのことを自らに禁ずる。「外部をなにかポジティヴに実体的にあるものとして前提してしまうこと」、そして「詩的に語ること」。そしてその「遡行」の果てに「交通空間」を見出す、『ヒューモアとしての唯物論』において表現されているように。

この二つの本をつなぐ糸は、僕にとって「私はなぜここにいて、そこにいないのか」というパスカルの『パンセ』のなかの言葉である。「宇宙の無限の空間」への畏怖を表現したパスカルのその言葉を、柄谷さんは「近代物理学の空間(=均質な、交換可能な空間)」を前提としたものであると言う(「批判」する)。

ヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』に触発して書かれたらしい「学術文庫版へのあとがき」に、こんな言葉がある。非常にカラフルな文章である。(なんというか、柄谷さんらしくない。なんだか、素敵である)

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          子供は子供だった頃
          いつも不思議だった
          なぜ僕は僕で君でない?
          なぜ僕はここにいて
          そこにいない?

          時の始まりは いつ?
          宇宙の果ては どこ?
   (『ベルリン・天使の詩』より、ペーター・ハントケの詩。抜粋)


久しぶりにピーター・フォーク(刑事コロンボ)に会いたくなった。

もと「天使」たちの、心を通さずふっと現われる「慈愛(のほほえみ)」(by荒川洋治)に触れたなら、人はもっと、やさしくなれる。

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紙の本

QuentinTarantino(→ReservoirDogsのエピソード満載です。古い、かな?)

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 Reservoir Dogsに痺れた人は必読。この映画にどれほど熱い思い(たち)が詰まっているのか、痛痒いほどに伝わってくる。で、映画Resevoir DogsについてのTarantinoの言葉……
「こっちが重要な人間でこっちがどうでもいい人間だから、こっちはもうあんまり気にしなくていい、そんなふうな映画にはしたくなかった。……俺は俺たち全員が自分をビッグだと思えるような、いつでもかっこよくドアから現われることができるような感じにしたかった」
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 TARANTINO BY TARANTINO。自伝ではない。本人のインタビューを中心に作った本でもない。彼の周りにいた(る)人たち、とくに母親コニー・ザストゥピル、Video Archives(Tarantinoも働いていた「映画気狂い」の集うビデオ・ショップ。今はもう無い)のメンバー、Tarantino映画の出演者・関係者の言葉を中心に構成された本である。本人の言葉もそれなりに入っているが、あまり印象に残らない。少なくとも彼の映画に迸るあの強烈なインパクトはない。じゃあ欲求不満かと言えばそんなことはない。さらにTarantinoが好きになってしまっている。
「なんでかな?」と思いながらパラパラ読み返してみると、Tarantino自身がReservoir Dogsというタイトルの由来を訊かれて、こんなふうに答えてる。

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 平凡な言葉……でも、本気で信じてる。彼は出たがりのようでいて、実はそうではない(たぶん)。この本は、そんな彼の在り方にとても良く似ている。彼自身の言葉の影が薄いからこそ逆にQuentin Tarantinoが浮かび上がってくる、そういう仕掛け。
 で、この本を読み終わった僕がTrantinoを観たことのない人に薦めたいのは、やはり彼の監督デビュー作Reservoir Dogs。Pulp Fictionが「フォレスト・ガンプ」とオスカーを争ったとき、授賞式の会場に彼は唯ひとりReservoir Dogs Tie(映画で六人のDogsが付けていた細い黒のタイ)をして行ったぐらいなんだから。

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*Reservoir Dogsといえば、Mr.ブロンド(M.マドセン)による「耳切り」なのかな……本書でもそれについてかなりのページが割かれている。ああいう類のヴァイオレンスに眉を顰める人は未だに多いのかもしれない。でも、あのシーンで「その瞬間」がカメラには捉えられていないのは何故なのか(別のショットに切り替わるのではなく、カメラが上にパンして汚い天井が映る)、そこから何を感じ、何を考えるのか。観る側に要求されてるものってのが、そこにあるんじゃない?(このシーンは笑っちゃダメ)
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 先刻まで見ていたFrom Dusk Till Dawn……「命がけで闘わなけりゃ、この世はTitty Twister!」(私見)。で、この映画のなかで(とってもモラリストな)僕に響いてきたのはハーヴェイ・カイテルの二つの台詞。冒頭の「Am I a fool?」、それを受けるように吸血鬼との戦闘シーンに出てくる「闇を歩く者は光を見よ」(英語は聞き取れませんでした、ハイ)。Pulp Fictionが一番典型的かもしれないけど、Tarantino映画の大きなテーマは「信じること」。Quentinってのは、とっても純粋な奴なのさ。

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紙の本

病に囚われたことを知る人は、たとえばこのような形で「解放」されることを、「解放」することを試みるのではないだろうか。

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(念のために書いておけば、この本に尾崎豊のことなど出てこない。)
 尾崎豊への、もう一つのトリビュート・アルバムGREENを聴きながら、とてもピュアな気持ちに満たされている。若い、これからのアーティストたちが歌う(尾崎の)歌は、とても新鮮で、誠実で、ときにどこかトンガッていたりもするのが心地よくて、クレイジーに、クールに、不器用に、そんなふうに、それぞれの色に今まさに変わっていこうとしている歌たち、歌い人たち。個人的には早稲田の学生バンドだというYOUNG SSのAlternative(失くした1/2)がすごく気に入った。「アンニュイ」という聊か死語っぽい言葉を使いたくなる世界が、どうやら大好きなのである、よくない傾向かもしれないと思いつつ……。
 BLUEのほうのライナーにプロデューサーの須藤晃さんが書いていたことだけれど、「この歌を繋いでいきたいなと思った。それは歌を解放させることだと思ってきた」という言葉、これって『文学の墓場』の「責任転嫁のためのまえがき」に書かれている言葉、「傑作というのは、崇め奉られるのを嫌う。それよりも生きることを望んでいる。要するに読まれ、咀嚼され、異議を申し立てられ、酷評されることを望んでいる----結局のところ、賭けてもいいが、傑作というのは優越感に苦しんでいる(今こそ、ヘミングウェイの言葉「傑作はみんなの話題になるが、誰にも読まれることはない」に逆らう時だ)」と、響き合っているじゃないか。(やっと本題につながったらしい。)
 フレデリック・ベグベデは言う。「文学というものを知れば知るほど、僕にはそれが病のようなもの、奇態なウイルスのようなものに思えてくる。それは人を他人から引き離し、人に常軌を逸したことをやらせる(柔肌を持った人間と愛し合うかわりに、何時間も紙の世界に閉じこもるといったようなこと)。謎はそこなんだ。僕には一生解けそうにもない」
 池田晶子さんの『新・考えるヒント』のなかの言葉を思い出す。「批評家はすぐに医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きている」
 『カラマーゾフの兄弟』のなかで、アリョーシャは不良少年コーリャに向かって言う。「滑稽がどうだと言うんですか? 人間なんて、いったい何度滑稽になったり、滑稽に見えたりするか、わからないんですよ。それなのに、この節では才能をそなえたほとんどすべての人が、滑稽な存在になることをひどく恐れて、そのために不幸でいるんです」
 尾崎は、Casual Snatchは歌う。「おかしな奴だと マトモな振りした奴らに 笑われ続けていても いいのさ 何がこの世で一番大切なのかを 知っているのは この俺の方だぜ だって 自然の醜さを知りながら 心をこめて歌っているんだぜ」(FIRE)

(また、こんな関係ないこと書いてどうするつもりだ?)

 『文学の墓場』という本の精神みたいなものは、ヘミングウェイを引きながらベグベデが書いていることに集約されていると思う。そして、ここに取り上げられてる本の、まあ大雑把にいって半分ぐらいを自分が読んでいることが(今月が終わった頃には)、なんだか嬉しいのである。(もちろん自慢ではない。どっちかと言えば病気なのだから。)
 で、丹生谷貴志さんは大嫌いだというサン=テグジュペリの『星の王子さま』について、ベグベデさんはこう書いている。
「さしずめサン=テグジュペリは控えめなマルロー、星の王子さまは金髪のE.T.か、男の子版の不思議の国のアリス(子供のパラダイスでは同じくらい怪しげな魅力を放っている)だろう。今まで出てきたたくさんの大文豪と同様に、サン=テグジュペリも歳を取ることを拒んだ。そもそも『星の王子さま』はその前兆だ」

 うん、どうやら重症である。ベグベデさんも、そして僕も。(きっと誰もが。)それぞれに、違った意味で。ま、ええやない。で、最後のメッセージはこうである。原典に当たれ!

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