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仙道秀雄さんのレビュー一覧

投稿者:仙道秀雄

47 件中 1 件~ 15 件を表示

賢人アダム・スミス

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本年はじめてのFull star gradeの超級本。本当に良い本だった。阪大で教えている方なのでぜひ会ってできるものならスミスの講義を受けたいものだ。

マルクスが「経済学批判」においてたしかこんなことを言っていた。

「諸個人はいくら主観的には自分の入りこんでいる諸関係から超越したつもりになっていてもそれは戯言であって、実践的には所詮諸関係の担い手でしかない」

この観点だと行為者それぞれのの動機を問うても結局はそれぞれの超越的主観性間のせめぎあいに終わる。個人の主観性の価値を問うのは無意味であって、諸個人から成る関係性全体のメカニズムの解明のみが主要な問題となってくる。つまり、諸個人の行動は、いろいろある部品のひとつとしての恣意的な価値をもつだけである。意味を知りたければ全体のメカニカルな設計図を見よ、となる。

これに対してスミスの理論だと、科学的なメカニズム以外に行為者において公平な観察者と幸福の概念を導入することで、人それぞれが自分の置かれた環境でどんな選択をするなかで生きるべきかという倫理的課題への回答が可能な一方、全体のメカニズムの提示によって自分の行動が全体のなかでどんな意味を持ちうるかが見えるという構図になっている。

また、国富の概念が価値(交換価値または貨幣価値)重視ではなく使用価値重視であることは現代のアメリカグローバリズム批判となりうるし、ストア派を批判的に継承した幸福論はスローライフ、メープル的暮らしにも繋がる。マルクス批判でさえある。

また道徳感情論の第六版につけ加えた次の文章―スミスが死の前年に書いたとされる文章―は大変感動的であった。

人間本性の仕組みからいって、苦悩は決して永遠のものではありえない。・・・木の義足をつけ(ることになっ)た人は、疑いなく(そうなった自分の運命、これから自分のハンディキャップに)苦しむし、自分が生涯、非常に大きな不便を被り続けなければならないことを予見する。

しかしながら、彼はまもなく、・・・普通の喜び、そして仲間といるときに得られる普通の喜びを、ともに享受できると考えるようになる。・・・公平な観察者の見方が完全に習慣的なものとなるため、・・・自分の悲運を、公平な観察者以外のの見方で見ようとはしないのである。・・・・・ひとつの永続的境遇と他の永続的境遇との間には、真の幸福にとっては本質的な違いは何もない。

・・・・幸福は平静と享楽にある。・・・人間生活の不幸と混乱の大きな原因は、ひとつの永続的境遇と他の永続的境遇の違いを過大評価することから生じる・・・。

貪欲は貧困と富裕の違いを、野心は私的な地位と公的な地位の違いを、虚栄は無名と広範な名声の違いを過大評価する。・・・・虚栄と優越感というつまらぬ快楽を除けば、最も高い地位が提供するあらゆる快楽は、最もつつましい地位においてさえ、人身の自由さえあれば、見つけることができるものである。
(引用終わり)

わたしたちは、日頃こんなことでうじうじ悩んでいる。

自分の今の職業的選択は正しかったのか、
別の選択があり得たのではないか、
自分の今のこの境遇以上のものは望めないのか、
収入はより大であるべきなのか、
より大の売上・より多い社員数の方が良いのか等々

スミスはそんなわたしたちに有益なアドバイスをしてくれた。こんなことを言ってくれる賢人はめったにいない。

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スピノザを敬愛する脳科学者によるスピノザ入門書でもある

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 神経科学者ダマシオが言う情動と感情は、「生命調節」という有機体のもっとも重要な、基本的なプロセスの中で因果的につながっているもので、情動は身体という劇場で、感情は心という劇場で演じられる。たとえば、「恐れ」る場合、身体が硬直する、心臓がドキドキするが、これが情動である。
 一方、脳には、いま身体がどういう状態にあるかが刻一刻詳細に報告され、脳のしかるべき部分に、対応する身体マップが形成されている。その身体マップをもとに、ある限度を越えて身体的変化が生じたことを感じるとき、われわれは恐れの感情を経験する。その順番は、怖いものをみて特有の身体的変化が生じるから、そのあとに怖さを感じるというものである。進化的に見れば、生物が最初にみにつけたのは情動であって、感情ではない。
 有機体にとってもっとも大事なことは命(生ける身体)の維持である。その命の維持のために進化が生み出したのがさまざまなホメオスタシス調節だが、ダマシオはそのうちもっとも高いレベルのものが感情であり、そのすぐ下にあるのが情動であると考えている。どちらも有機体の生存と深く関わっている。
 情動と感情が具体的にどのように生存と関わっているのか。この答えがダマシオを有名にしたソマティック・マーカー仮説である。実生活において妥当な選択が比較的短時間でなされるのは、特定のオプションを頭に浮かべると、たとえかすかにではあっても身体が反応し、その結果、たとえば、不快な感情が生じ、その
ためそのオプションを選択するのをやめ、多数のオプションがあっという間に二つ、三つのオプションにまで絞り込まれる。合理的思考が働くのはそのあとである。
 過去にわれわれがオプションXを選択して悪い結果Yがもたらされ、そのために不快な身体状態が引き起こされたとすると、この経験的な結びつきは前頭前皮質に記憶されているので、後日、われわれがオプションXに再度身をさらすとか結果Yについて考えると、その不快な身体状態が自動的に再現される。これがソマティック・マーカー仮説である。
 本書ではこのようなスピノザの諸概念が、最近の脳科学についての知見をもとに検討される。情動、感情の他、コナトゥス、喜び、悲しみ、心身平行論、観念の観念、アフェクトゥス、永久等々について解説されている。非常にエキサイティングに。スピノザを敬愛する脳科学者によるスピノザ入門書でもある。

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紙の本生物から見た世界

2007/08/13 21:57

久しぶりの五つ星でした

12人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ユクスキュルはスピノザ主義者だと聞いたことがあり、スピノザを敬愛する者には本書は重要であるが、尊敬する日高敏隆さんの生物学に決定的な影響を与えた一書であると後書きで知って以後、わたしの興味は倍化した。しかしながら、重大問題発生。わたしは生物学にまったく疎く、適切な書評者たりえないのだ。例によって引用に次ぐ引用で本書の驚くべきコンセプトの一部を紹介するしかない。

 ある事象を観察する者がいて、その世界内に起こっていることとしてある事象が理解され、事象の構成要素xもyも観察者の世界内においてあり、事象と観察者を含んだ世界の完全な一致と唯一性が信じられている。ところが本書の環世界はこのような見方を真っ向否定している。

上は機械論か、主体論かという対立でもある。機械論者である生理学者は、「ダニの場合、すべての行為は反射だけに基づいている。反射弓がそれぞれの動物機械の基盤である。それは受容器、すなわち酪酸や温度など特定の外部刺激だけを受け入れ、他はすべて遮断する装置ではじまり、歩行装置や穿孔装置といった実行器を動かす筋肉で終わる。」と言う
p14

主体論者である生物学者は、「事態はまるで反対だ。ダニのどこにも機械の性格はない。いたるところで機械操作係が働いている。反射弓の細胞は運動の伝達ではなく、刺激の伝達によって働いている。刺激は(ダニ)主体によって感じられるものであって、客体に生じるものではない。」と言う。p15

ダニが哺乳類を、血を吸う対象物をどう発見し、どう血にありつけるかを、主体論の言葉遣いで追ってみるとこうなる。哺乳類の皮膚腺が酪酸を発生させる。ダニは酪酸という刺激を知覚器官で特異的な知覚記号に置き換え、それが嗅覚標識に転換される。知覚器官でのこの出来事が作用器官に相応のインパルスを発生させ、ダニは真下の哺乳類に落下すべく肢を枝から外す。ダニはぶつかった哺乳類の毛に衝撃という作用標識を与え、これがダニに触覚という知覚標識を解発し、それによって酪酸という嗅覚標識が消去される。この新しい標識はダニに歩き回る行動を解発しやがて毛のない皮膚に到達すると、温かさという標識によって、歩き回るという行動は終わり、次に哺乳類の皮膚に食い込むという行動がはじまる。p21

ダニにとって知覚標識となるのは酪酸、触覚、温度みっつだけである。これとみっつの作用標識(落下、歩行、食込)だけがダニの環世界をつくっている。これは貧弱で単純な世界であるが、確実に血を吸える可能性を高めている。だが哺乳類がダニのいる枝先の下を通過しなければ酪酸も出ず、落下もせず、毛のない皮膚にも行き着かない。するとダニは餓死するのだろうか。餓死するはずである。しかし本書には18年間絶食しているダニが生きたまま保存されていたと書かれている。ここで驚くべきことが言われている。

人間の時間は、瞬間、つまり、その間に世界が何の変化も示さない最短の時間の断片のつらなりである。一瞬が過ぎ行く間世界は停止している。人間の一瞬は十八分の一秒である。瞬間の長さは動物の種類によって異なるが、ダニにどんな数値を当てようと、全く変化のない世界に18年間耐える能力はダニにはないだろう。ならば、ダニはその待機期間中は一種の睡眠に似た状態だと仮定できる。この状態では人間も何時間か時間が中断される。つまり、十八分の一秒の瞬間の連鎖ではなくなる。この認識から何が得られるか。時間は、あらゆる出来事を枠内に入れるので、出来事の内容がさまざまに変わるのに対し、時間こそは客観的に固定したものであるかのように見える。だが、いまや我々は、主体がその環世界の時間を支配していることを見るのである。生きた主体なしには時間はありえない。p24

空間にも同じことがいえるとユクスキュルはのちの章で語る。どうであろうか、諸兄、精読の要ありとせざるを得ないではないか。

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紙の本私の男

2007/12/27 17:24

わたしにはさっぱり分からない。

16人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書の主人公の男女に特徴的なことは、反省する心が欠如し、同じことだが、精神の働きが皆無で、欲望と情動(怒りや悲しみ)だけで、つまり人の顔をした動物として生きていることである。精神の働きのないひとの欲望充足行動には当然のことながら反省がない。迷いもない。情動がいくら激しくても底が浅く、本人自身ですらすぐに忘れる。

もしも身近にこうした人たちがいると、たぶん印象が薄い人だなぁ、挨拶だけの関係だなぁ、という会話の進まない関係となるだろう。そういう人が異常な性行動をとり、ごく普通になんということもなく人を殺す。

もしもこうした人物を描くとしたら、このような人物が現れざるをえない現代日本の社会の構造的な退廃が描かれなければならないはずだ。そうであれば、酷薄な人物像が社会批判に先鋭さを生むことになったかもしれない。しかし、本書にそのような視点は皆無である。

登場人物が魅力的でない、作者に批評性もない、なのに、どうして多くの人が「本書の迫力に圧倒された」、「何度も読み返した」、など、あたかも本作品が優れたものであるかのような書評を書き、日経新聞では北上次郎という文芸批評家が「禁じられた恋がかくて鮮やかに、我々の前に現出する。(作者)桜庭一樹が大きく見える一冊だ。装画も造本も帯の惹句も、すべてが素晴らしい。」とほざき最高評価五ツ星(これを読まなくて損をする)の献上する。

 わたしにはさっぱり分からない。

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オトンが効いている

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 妻にすすめられて読みはじめた。某女流作家の東京タワーは村上春樹の焼き直しみたいな感じでもうひとつふたつ みつ よつ いつ かいやになったが、このタワーは面白い。
 オトンが意外と効いていて、
「アホなことでもかめへん。5年やれ。なんにもしたくない。働きたくない。ええやろ。だらだらしたい。OKじゃ。それを5年やれ。それもでけんと、1−2年ぼけーとして、やっぱり働こ、とゆーて働きはじめるのがサイテーや。5年それがでけんかったらお前はプータローもでけん人間以下の屑や。」
正確に引用すると
「バイトはするけど、とりあえずまだ、なんにもしたくない」と言う1年留年して大学を卒業したが就職する気になれない主人公。
これにたいしてオトンは言う。
「そうか。それで決めたならええやないか。オマエが決めたようにせえ。そやけどのぉ。絵を描くにしても、なんにもせんにしても、どんなことも最低5年はかかるんや。いったん始めたら5年はやめたらいかんのや。なんにもせんならそれでもええけど、5年はなんもせんようにしてみぃ。その間にいろんなことを考えてみぃ。それも大変なことよ。途中からやっぱりあん時、就職しとったらよかったねぇとか思うようやったら、オマエはプータローの才能さえないっちゅうことやからな。」
 という言葉を息子になげかけるのだが、なかなか言えるものではない。人生の真実というか。衝いている。ところが世の中にはこういうオトンの発言がまったく理解できないアホがごろごろしている。学歴の高いのに限ってそういうのが多い。そういう人たちは自分の地の言葉(リリーさんの場合は九州弁、わたしなら
大阪弁)を適切に使えない。
 オトンの言っていることを言い換えれば、自分の感じていることが本当に切実だと思うならその切実さを徹底的に生ききってみよ。それをしきれば自分が分かる。なんとなくそう思う(例えば就職したくない、働きたくない)けど、お金がないとやっぱし困るから就職しとこかというのが中途半端の典型だということだ。こういう人たちには永遠に「自分の人生を生きる」瞬間は訪れないだろう。
 話しは変わるが、この作品で、東京が巨大な掃除機で、若者を吸い込んで若者はこのトンネルの先に自由があると勝手に思い込んでいるが、そのうちに不自由しかないと分かって、結局はゴミの山のなかにほり出されるという比喩があったが、的を得ていると思った。立派な東京文明批判だ。
 この辺のこともさっぱり分かってないアホが世の中にはいっぱいおる。しかしリリーさんは分かっているし、オカンもオトンも分かっていた。それは素晴らしいことだ。
 ところが、この本の帯のところを見て情けなくなった。アホの言葉のオンパレード。扶桑社のブラックジョークなのか、それとも真剣にこうした評で人の財布の紐をゆるめようとしているのだろうか。少し紹介する。
「泣いてしまった。涙が止まらなかった。」、「新作にして不朽の名作」、「すごく泣ける」、「涙ポロポロ」、そんなに「泣く」ことが大事だとは恐れ入った。福田和也までが「現在の日本文化の、もっとも高い達成というべきです。」と。褒めすぎじゃ。そんな福田をみて江藤淳ならどう思うだろうかと他人事ながら心配になってきた。

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紙の本詩経 中国の古代歌謡

2007/03/06 17:50

野心的で知的興奮のある本

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 詩経といえば、四書五経という言葉を思い出す。儒教で尊重される五種の経典。まさかそんな儒教の経典の解説書を自分が読むことが驚きだが、それにもましての驚きは、本書では儒教の詩経の解釈は間違っていると断定することだ。その根拠は白川静のうちたてた白川漢字学体系にある。さらに白川はほぼ一千年の時差があるにもかかわらず日本の万葉集との類似性と非類似性を語る。そのことを200以上の漢詩ひとつひとつを解説し味わう中で論証していく。このような野心的で知的な興奮のある本の面白くないはずがない。
 わたしに本書の評価能力のないのは明白であるにしても、わたしの興奮ぶりからして白川静の世界をご存じない方にお奨めしたくなるのもご理解いただけるであろう。

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紙の本啓蒙の弁証法 哲学的断想

2007/06/26 16:25

切って斬って斬りまくる

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 荒川 紘 著 紀伊国屋書店「東と西の宇宙観 西洋篇」を読んだときこう思った。「この地域(西洋)に住む人たちの思考は、われわれ日本語によって思考するものとはずいぶん違うことをいやおうなく感じてしまう・・・。彼らは執拗に、とことん理屈をこねくりまわす、そのヒツコサにはほんとうに呆れてしまう。」本書もこの系統である。
 1940年代のはじめファシズムが西洋理性(啓蒙)の不可避的到達物であるという自覚のもとに、徹底的な著者たちの属する西洋理性への自己批判と、ナチズム批判を行っている。それは読み手をかなり息苦くさせる。驚くべき博識のもとにナチズムの歪みを暴露し、それと相即する西洋理性の歪みをも断罪する。だが、それはどこに行こうとするのか、それが余り見えない分、切って斬って切りまくり、自分をも斬ってしまうように見える。
 「市民社会の全歴史を通じて、芸術家の自律には、たんに容認された自律という非真理の要素がまつわりついており、それが結局は芸術の社会的権威喪失へと展開していった・・・。死の床にあったベートーヴェンは、『こいつは金のために書いている』と叫んで、ウォルター・スコットの小説を投げつけながら、それでいて同時に、市場への絶縁状ともいうべき最後のクァルテットを換金するにあたっては、なおしたたかで頑固な商売人という面を見せたという。・・・・完全に需要に適応することによって、芸術作品はそれが果たすべき有用性の原理からの解放を前もって人々からだましとっているのだ。」p321
 怒り心頭に発し、怒りが自分にも向かうにしても、自家中毒になってしまっては何のための批判か分からない。この本からはこの批判のあとどう再出発するのかが見えにくいが、痕跡はある。
 「ファシズムのスローガンは、判定の規準となるいかなる真理をも許さない。しかしその一方で、真理は、判断を知らない者には、もっぱら思考の完全な欠落のためにいつまでも隔てられたままだとしても、ファシズムの言いたてる数限りないたわ言の中で、否定的な意味で、身近に近寄ってくる。(そうだとすれば)自己自身を支配し、暴力ともなる啓蒙がそれ自身、啓蒙の限界を打破する力となりうるのだが。」p423
 あるいは、「アドルノは、一方でたんなる抽象的否定を斥けると同時に、他方では、早まった肯定(矛盾の止揚、総合)を斥け、あくまで矛盾の中に踏みとどまり、内在的にその克服をはかろうとする。そういう内在的批判の具体的作業が、ヘーゲルのタームを借りて、「限定された否定」と呼ばれている。それは非真理としての現実と、非現実としての真理との緊張関係の唯中で具体的な批判作業に課題を見出すというアドルノの方法的原理であり、アドルノの全哲学は、この「限定された否定」と、絶対者を描いてならないという「図像化禁止要求」との照応関係の中を動いていると言っていいであろう。」p97
 最後の問題はこの本の一節を読んだ社員が「社長にそっくりやん」と看破したことであった。
「俺ここまでゴリゴリちゃうで」
「いやそっくりさんや」
「そうか」

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あとひと頑張りしましょう

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

作者は1950年生まれで都内の外資系の証券会社に勤めているという。わたしは1951年生まれで、大阪市中央区で貿易会社を経営している。ひとごとではない。共感できる素地があると思って買ったが予想に反しなかった。
●半身を食いちぎられて平然と緑に輝き漂うコウイカ
まるで自分たちの姿ではないか。平然としている分烏賊はエライ。しかも緑に輝いている。思わず見とれてしまう。
●また今朝も革靴をはく 残されし黄金(こがね)の時がすり減ってゆく
たぶん今度の月曜の朝靴をはくときにこの歌がリフレインされるであろう。
●倦むほどに一挙に増えしスターバックスの珈琲 これが旬の味なり
スターバックスの関係者はどう読むだろうか。今が旬だと。次の一手が要る。
●高くたかく上がりしボール爪先立ちスマッシュ一閃 空を切る音
たまたまわたしもテニスをするのだが、このような真面目と大笑いの連続である。
●秘めごとのひとつ生(あ)れたりパソコンに君の名前の綴り打つとき
作者には奥さんがおられる。なのにエライ。
●微熱もつ腕Yシャツに通しゆくかすかに闘志の湧く思いして
そういうシーン確かにある。
●週末もメールチェックに出社するひとりのオフィス響くわが咳
あなたも行きますか。スーツ着ないで行くと、何故か仕事ワールドに入るのにヒマがかかるんよ。
●札束が札束を呼ぶ日なりきそも懐かしく思い起こせり
商売という世界にはこういう下品で身勝手なところと同時にパワー全開のスポーツっぽい単純な面白さがある。
●レッスンにベルリンへ発つ娘(こ)に渡す大き譜面の縮小コピー
なんにもしたやられへん。かえって嫌われているかもしれんと恐れている。なんでや
●一画面びっしりと埋むるアルファベット呪文のごとく我を縛すも
あんまり量が多すぎるとほってしまいます。
●つじつまの合わぬ夢なれこの半生 東京湾ははるかに霧らう
まぁそう言ってしまうとミもフタもないけど、、、。
あとしばらく頑張りましょう。

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紙の本東と西の宇宙観 西洋篇

2006/02/07 00:17

東洋篇も読みたくなった

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、ヨーロッパ、中東、アフリカ大陸の地中海岸を地理的な対象として紀元前3000年頃から20世紀中葉までのその地域で考えられてきた宇宙観の変遷を述べたものである。これまでの西洋史を思い出し、古代ローマとキリスト教、スコラ哲学、ギリシア自然哲学とイスラム圏、ルネサンスと17世紀以降の西洋科学など、自分の知っていることを改めて整理するのは好都合の本である。
しかしもっと重要なことがある。それはこの地域に住む人たちの思考が、われわれ日本語によって思考するものとはずいぶん違うことをいやおうなく感じさせられるという経験にある。彼らは執拗に、とことん理屈をこねまわす、そのヒツコサには呆れる。うんざりする。繰り返し繰り返し、彼らはアリストテレスの世界にもどる。アウグスティヌスがキリスト教の(人格)神とアリストテレスの宇宙観の調停を試み、地動説と天動説のあいだを揺れ動く。その一方でアリストテレスに反発した別の自然哲学が発生する。それぞれが原理原則をたててくどくどくどくどと自説を言いつのる。彼らはそんなことを2000年以上もずーっと続けてきた。それが17世紀あたりからいろいろな流れがいっきに近代科学という湖に流れ込み、そのまま現代になだれこんだのだ。そのエネルギーの塊にものすごさに呆れてしまう。
それにくらべて日本人の祖先たちの思考のなんと淡白なことか。古代日本では言挙げはよくないこととされたと言うが、言挙げが禁止されたり、なんとなくしてはならないことだとみんなが思う世の中では彼らと違ってしまうのも当たり前だと思ってしまう。それが普通の感じ方だろうと思う。そんな理屈より役立つかどうか、便利かどうかみたいな思考。役立てば黙って使用する。それでいいではないか、と思ってきたのが普通の日本人。
しかしそれでは本書のような脂っこい人種の議論はお茶漬け派にとっては何の価値もないものかといえばそうではない。わたしは輸入会社をずっとやってきたのだが、アメリカ人やドイツ人とやりとりすることが日常茶飯事であり、やりとりとはすなわちロジカルな言挙げであるから、ある程度そういう脂っこい奴らに伍して生きてき、これからもしばらく生き延びる必要上、彼らの本性を見抜く上で本書は格好の素材であるといえる。
今年は近くにスピノザを教えてくれそうな先生を見つけたのですこしばかり凝ってみようと思うのだが、本書の末尾でスピノザとアインシュタインについて次のような文章がある、スピノザ山にいよいよ登ろうかと言うものにはちょっと勇気付けられる一文だったので引用しておきたい。
「1929年ころ、あなた(アインシュタイン)は神を信ずるかと質問されたときには、『私はスピノザの神を信じています。それは、存在するものの合法則的な調和の中に自己を顕現する神であり、人間の運命や行為にかかずらう神は信じません。』と答えている。宇宙を創造したという聖書の人格神は信じないが、スピノザの神は認める。デカルトの理神論をも克服した「神即自然」の神である。神はすべての事物に存在し、事物はすべて神のなかに存在する。翌年に(アインシュタインが)雑誌に寄せた論文の「宗教と科学」では、スピノザの神を「宇宙的宗教性」というよびかたをしていた。スピノザは宇宙の創造者であった神を宇宙=自然と同一視したとみていたのだ。アインシュタインは、この「宇宙的宗教性」をスピノザのほか、アシジのフランシス、デモクリトスの思想のなかにも見ていた。」p295
なお本書の姉妹編が東洋篇。東洋での宇宙観の変遷が語られている。次はこの本をよむつもりだ。

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紙の本保田与重郎文芸論集

2007/11/30 17:45

文芸批評の基準について考えさせられた

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 保田與重郎の「文芸論集」講談社文芸文庫を読んでいる間じゅう批評とは何だろうか、と考えさせられた。かつて批評の神様が言ったように、自分の美意識を古人や現在の文学者の文章に託して己を語ることなのだろうか。

 だがそれが批評のすべてであれば、いかに周到精密であっても自分の価値観を他人をダシにして権威付けないし強調したものでしかなく、他の価値観と争うことになる。それでも小林秀雄が批評文をはじめて芸術に高めたといわれるのは、その文章が未来の日本人にとっても傾聴に値する文芸上の価値があるという判断の故なのか。

文芸世界に親しむことは良いことだ、これをまず第一の原則として、文芸に心から親しめるヒトを増やすような評論であることが文芸批評の第一の存在理由ではないか、そのうえでの各種の好みの進化、深化、拡大が第二の価値ではないか。

その批評は文芸に親しむ人を増やすことに貢献しているか。いくら高級なセンスを語っていても、難解すぎたり、論理が飛躍しすぎていたり、心情が一人よがりであればそれは読み手を増やし、文芸業界の物心両面の発展を通じて日本語を使う人々の教養を深め、心を練りこむという大目的から離反することになる。

その批評文を読んだ人の多くをして、「そんなに素晴らしいのならわたしもその作品を読んでみよう」と思わせ、多くのひとがその作品に触れることを通じて、作品の情緒や感慨やものの見かた、世界の味わい方を広く知らしめるものでないといけない。ただそのような啓蒙色一色のみでは文章自体がつまらなくなるのも事実だろう。美味い!には、臭みや辛味も必要である如く、すぐれた批評には淫靡でディレッタントな楽しみやときには荒れ狂う反骨も必要である。これは当然である。言い換えれば第一原則は大事だが固守しすぎてはいけない。

以上のような批評規準からすると本書は、作者に固有の価値観の言挙げ・宣伝に急であり、必然的に他なる価値観の排斥を伴う。ある特定の思潮の宣伝文と読まれてもいたし方がない。新たな文芸愛好家の育成に貢献しているとも言いがたい。その文章に飛躍がおおく独断に満ちており理解しがたいからである。だが、ときにはその独断が魅力でもあった。

例えば、
てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ぢんほりをきん助と申、十八になりたる子をたたせてより、又ふためともみざるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける成、ははの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此のかきつけを見る人は、念仏申給へや、三十三年のくやう也

(天正18年2月18日、小田原の御陣堀尾金助と申す、18になりたる子をたたせてより、又二目とも見ざる悲しさの余りに、今この橋を架ける也、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給へ、逸岩世俊(戒名)と、後の世の又後まで、此の書付を見る人は、念仏申給へや、三十三年の供養也)

という銘文が名古屋の熱田、精進川に架けられた裁断橋に見えるそうだが、この銘文への次のような批評は素晴らしい。

「教育や教養をことさら人の手からうけた女性でもあるまいが、世の教養とはかかる他を慮らない美しい女性の純粋の声を私らの蕉れた精神に移し、あるいは魂の一つの窓ひらくためにする営みに他ならぬ。・・・」p48

わたしは、いつか機会があれば現地を訪れ実際にこの銘文を読み、字面を指でなぞってみたいと思っていたのだった。

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紙の本こどもたちに語るポストモダン

2007/07/25 00:27

子供向けではなかった

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「こどもたちに語るポストモダン」とあるのでてっきり子供にも分かるように比喩とか、イラストでポストモダンの現象を説明するのだと思っていた。残念ながらそうではなかった。1924年生れのリオタールにとっての子供世代にあたる若い哲学者たちに宛てた書簡集だった。遺言のような趣もある。

手紙の当事者たちにしか分からない事情や、わたしが西欧哲学業界に疎いこともあって、わたしには分かりやすい本とは言えないが、ところどころで言葉が光っていた。

「19世紀および20世紀は、われわれに嫌というほどのテロルを与えてきた。全体と一に対する、概念と知覚可能なものに対する、透明で伝達可能な経験に対する、ノスタルジアの代価を、われわれはすでに充分に支払ってきた。弛緩と鎮静への要請が広がる中で、テロルを再開し、リアリティの支配という幻想を達成しようという欲望がつぶやくのを、われわれは耳にしているところだ。それに対する答えはこれだ。全体性に対する戦争だ、提示しえないものをしめしてやろう、さまざまな抗争を活性化しよう。名前の名誉を救出しよう。」(36ページ)

世は、交換価値万能である。交換価値は幻想だが、数字化され、足され、引かれ、掛け算され・・・されるとリアリティーが発生し、モノの具体物よりも上のように思われる。実際貨幣は現在米ドルとしてこの数世紀を通じて富の至上の抽象形態として世界じゅうを闊歩しているではないか。あらゆる具体性は貶められている。わたしの、あなたの、彼の、彼女の、我々の名前がそうであるように。

「『時間を稼ぐこと』こそが成功であるような世界において、『考える』ことは、ただひとつの、しかし矯正することのできない欠点をもっている。『時間を食う』ということだ。」(67ページ)

その挙句世界はM&Aまっさかりとなった。かのS氏も上場目的はM&Aのためだと言っている。考えていたのでは暇がかかりすぎるということだ。これほど思考が忌避されるとは。

 小林秀雄はこう言っていた。考えるという言葉は、<かむかふ>であって、これは身を交ふ、つまり相手の身になりきって見るということ。こんな大事な<考える>ことが時間の下に、効率優位の思潮に呑みこまれている。

「あらゆる物とあらゆるふるまいは、それらが経済的交換にくみこまれうるかぎり受け入れられる(許される)という原理は、政治的意味において全体主義的ではないが、言語的関係においては全体主義的なものだ。というのは、それは経済というジャンルの言説に完全な主導権を許すから。このジャンルの単純な規範的定式は、『ぼくはきみにこれを譲ろう。もしきみがその代わりにあれを譲ってくれるのなら』というものだ。そしてこのジャンルが特性としているもっとも重要なことは、つねに新しい『これ』を交換の中へと招き入れ、そして支払いによって、それらがもつ事件としての潜勢力を中和してしまうということだ。」(100ページ)

仮に世の中のカテゴリーとして経済、政治、文化のみっつがあったとして、今の世は経済のカテゴリーが圧倒的で、政治も文化も押しつぶされている状態だ。経済は貨幣的に合理的で等価交換されているので言説がイメージが販売され、立ち居振る舞いがマニュアル化されて販売されてもそれは経済的に正当なこととされる。その結果、言説もイメージも立ち居振る舞いも比較考量の可能な世界にはいり、かけがえのなさは失われる。

訳者の菅啓次郎さんのあとがきがよく出来ていると思った。

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紙の本神器 軍艦「橿原」殺人事件 上

2010/05/13 16:05

戦前と戦後の日本人の組織感覚

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 この小説のテーマのひとつは、戦前と戦後の日本人の組織感覚を問うことだと思った。

 戦前戦後の共通点は言挙げしないことにある。異なるものは以下の通り。

 戦前 臣民は、国家が各人に求める行動の原因・理由・目的を問おうとせず、国家が命令する行動を忠実に全力をもってやり抜くのがもののふの美学であり、最終的には天皇のために個々の命を差し出す覚悟を求められ、その決意は美しく語られた。

 戦後 天皇はGHQによって無化された。これに代わって会社が言挙げ機能をもち、ある程度だが、会社が天皇の位置を得た。かくて国民は、社員として会社がその個人に求める行動の原因・理由・目的を問おうとせず、会社が求める行動を忠実に全力をもってやり抜かねばならないとされており、最終的に社員たる国民は会社のために自分の人生や家庭を差し出さざるを得ない状況に追い込まれている。当然それは美しく語りうるものではない。

 会社はある程度は天皇の位置を占めていると言ったが、天皇の地位を得ているわけではない。戦前の天皇には日本国家の過去現在未来への見通しを民族の全体を体現して理念的に浪漫的に語ろうとする意志と文体があったが、今の会社にそのような言挙げ能力も意志も文体もない。せいぜい来期の会社の決算を利己的短期的金銭的に数字で語るのにとどまる。

 ついでに言うと、1970年代後半まで会社は社員の人生や家庭を多少顧み、本人はもちろん家庭も会社に貢献をしようと努めていたが、80年代以降、会社は社員を個人として捉え、個人と家庭をプライバシーに属する世界だとし、距離をとりはじめた。他方個人も家庭も会社を美しくないもの、胡散臭いものとして徐々に離反の道を選んだ。現在ではそれぞれが互いに縁遠い状態としあってそれなりに安定している。当然職業生活、暮らし、個人としての生き方は、バラバラに切り離され、全体性があるはずもなく、語るにふさわしい理念や浪漫はない。この窮状を救えるのは戦前戦後中心から外されてきたもの、例えば女性、地方、農業、小企業などであろう。

 この小説に触発されてこんなことを一読者に考えさせるほどに本書は戦前の日本人と今の日本人の組織感覚の歪みを際だたせている。ただし、この小説の扱っているテーマは、これだけにとどまらない。それについては下巻の読後語ることにしよう。

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紙の本高校生のための哲学入門

2007/12/14 14:45

学習塾経営のかたわら哲学世界と日常世界との回廊を建設してきた人ならではの洞察がここに

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 題名が目にとまり、高校生の長男のためになるかも、と思って読み始めたが、なんのなんの。

 今年読んだなかで最高の書物のひとつであった。芸術論、死生論、老年論、宗教論などどれをとってもさすがに市井で哲学に打ち込んできた人は言うことが違う。

 よく練れている。

 翻訳哲学では断じてない。学習塾を経営しながら哲学の世界と日常世界との回廊を建設してきた人ならではの洞察にあふれている。言葉に力がある。

 もちろん形而上学表現のできる一流のプロでもあり、ご存じヘーゲルの精神現象学はこの人の新訳で蘇ったと言われている。

 来年は長谷川さんの新訳で精神現象学を再読し、できれば長谷川さんにお目にかかりたい。その前に本書のノートを作っておかねば。

 今度の正月のテーマはこれだ。

 ぜひとも皆さんお読みください。

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紙の本サバイバル登山家

2006/08/15 15:06

登山が文明批評になった

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面白く読んだ。本書は現代文明をはこう断定する。

都会に生きる人々の大多数は一方的に消費するだけの人間という意味でお客さんである。買い物客、乗客、もしかしたら患者まで、自分で解決する機会を奪われたか、あきらめるようにし向けられてきた人々だ。食料の調達をあきらめてスーパーに買いにいき、自分で移動することをあきらめて電車に乗り、自分で治すことをあきらめて病院に行く。
 僕は街にいると、自分がお金を払って生かされているお客さんのような気がして、ときどきむしょうに恥ずかしくなる。(p250)

 できるだけ(なんでも)自分でやりたいと僕はつねに思っている。山に向かうのも、消費者である日常から期間限定であっても逃げ出したいからなのかもしれない。・・・僕は山では極力お客さんにならないように努めている。(p250)
 スーパーで肉を買い、自分の手を汚さないで食べるほうが、ケモノを殺す狩猟者よりよほど野蛮である、という意見を最近よく聞く。正論だ・・・。(p252)
 自分の食べるものは自分で殺したいという思いから、僕は狩猟の世界に入っていった。・・「生きること=殺すこと」という、都市生活に覆い隠されている大原則から目をそらしたくないからである。(P252)
 都市型生活をする人々は地球環境にとってどこまでもゲストである。自分がこの星のお客さんだおと知るのは悲しいことだ。(p255)
 (1969年生れの著者は)僕らの時代はただ生きているだけでは、何の経験も積み重ねることができない時代なのだと信じていた・・。・・・昔の人間なら生きるだけで深い経験ができたような気がするのだ。
(p248)
 生きるということに関してなにひとつ足りないものがない時代に生まれ育ってきた。それが僕らの世代共通の漠然とした不安である。・・・なにひとつ欠けていないという欠落感を人権だ個性だという自意識教育が煽り立てる。(p28)
 著者はサバイバル登山という概念を提示し、それを実行する。
サバイバル登山とは、(登山のための)道具をひとつひとつ身体から外していくことだった。自分の肉体と山との間に挟まっている物を取り除いていくことで、登らされている部分を排除し、人はもう一度、登るという行為に近づいていった。(p35)
 著者にとって登山とは「生きようとする自分を経験すること。僕の登山のオリジナルは今でもそこにある。僕は自分の内側から出てくる意志や感情を求めていた。」(p30)
 そこで著者は登山によって目的を達成できたのだろうか。
 僕のやっていることは遊びなのだろうか。サバイバルといったところで、あえて自分に課した課題でしかなく、ヘビやカエルを食べているのも、必要に迫られたというより、そんな気分に浸りたいだけなのかもしれない。だが、いま僕を包んでいる暗闇は本物だった。知床の雪床だって本物だった。K2のアタックで見た満天の星空も、インダス川を埋め尽くした蛍の瞬きも本物だった。目の前で岩魚を照らしている焚き火をおこしたのも僕だ。岩魚は僕が殺したのだ。素直、自然、ありのまま、それらの言葉が意味するものは、真実ということに近い。(p64)
「野生動物のようにひっそり生まれて、ひっそり死んでいく。死んだことすらも誰も確認されない。」それは僕が山登りで究極に求めているものの一つだった。・・・誰も助けてくれない。死んでも骨さえ拾ってもらえない。それは思っていたより怖い感覚だった。しかし、そんな状況がほんの少しだけ、自然の掟のなかに入り込めたような気持ちを僕に与えていた。僕は社会的に消えてなくなり、そこで何をしているのか誰も知らない。それでも、二本の足でちゃんと大地に立っていた。世界が広く大きくなったような気がした。
今年のお盆は本書といい、西鶴の感情といい良書に巡り会えわたしは幸せであった。

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古典の威力いまなお有効

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 組織、それなしには現代の人間は生きていけない。家庭も、会社も、同窓会も、オーケストラも、みな組織である。
 バーナードは言った。組織とは目的があり、二人以上のメンバーがいて、役割が定義され、メンバー間のコミュニケーションがあるもの。
 では会社組織は現代社会にどんなポジションをもっているのか。ドラッカーが1946年に本書ではじめてそのことを語った。会社組織はごく最近の現象なのだ。
 分権制、パートーナーとの連携、個人と組織全体との調和、人と仕事、企業利益と社会の利益、雇用と社会などが各章のタイトル。どんな種類のことが述べられているかが分かると思う。

 以下本書で共感したことを列挙しておきたい。()はわたしのコメント。
 マネジメント的視点をもつ責任ある従業員という考えこそ、もっとも重要な考えであって、社会に対する(本書の)最大の貢献であった。

 マネジメントは医学と同じように、基本的に実務であり、科学はその道具にすぎない。
 (科学を道具として使う。どう使うかは個々人の智慧に依存する。智慧は科学ではない。)
 利益とは公益に反するどころか、社会の福祉と存続に不可欠のものである。利益は経済的リスクに対する保険料である。さらには、あらゆる経済発展の基盤となるべき資本形成の唯一の原資である。

 (我々の祖先は利益に偏見をもっていた。我々もそれを受け継いでいる。偏見ならば、我々は偏見から自由にならねばならぬ。)
 企業の存続が社会の利益であるという理解は最近のものである。企業の存続などは社会のあずかり知らぬことであって、企業の存続に意を用いることは国民経済全体にとって害とされていた。この見方は、自由市場における個人営業の商人(会社組織以前の段階)、リカードの仲買人のモデルとする産業化前の古典派経済学のものである。
(古典経済学のみならず、科学は対象領域確定を要する。マルクスは無意識のうちに当時の金本位制を前提に価値形態論を語った。自然科学であれ社会科学であれ、領域設定をよく意識しておく必要がある。)
組織が長期にわたって繁栄を続けるには、組織内の人間が、知的レベルにおいても、自らの能力を超えて成長できなければならない。
(個々の成長が組織の延命に不可欠である。今此処で20年先の彼処を想像できるか、今の時空を越えた構想力を持ち、実際に日々時間を使っているか、という問題。)
 中央のリーダーシップが強くなければ組織は機能しない。同時に現場のリーダーシップが十分に強く、かつ十分に自立して責任を負うことがなければ組織は機能しない。したがってあらゆる組織にとって権力の配分が大きな問題となる。
(権力は組織に不可避的に発生する。分権制でも最終決定者は存在する。それゆえ最終決定者が分権レベルでの決定に従うこともある。我々のリーダー概念はかく開かれているだろうか。)
 そもそも自由経済と市場社会の嫡子としての企業には、社会における個人の位置づけと役割の必要性を考慮に入れていないという弱みがある。市場社会には経済的な報酬以外の基準は用意されていない。・・・・われわれが今日直面する最大の課題は、・・・機会の平等を諦めることなく、無数の人たちに位置づけと役割をあたえることである。
 (企業は個人の利己心の肯定に傾く。くどいほど社会性、公共性、利他心を語って丁度ということか。否、問題は、どんな実践をなしうるかである。)
 ドラッカー先生もわたしらと同じように格闘し、いや、わたしら以上に格闘し、「まぁそんなもんやろー」みたいにして湧き上がる思考停止への誘いを拒否して、考え抜いてきた人だ。
 わたしの事業もドラッカー先生の言われる「企業の最大の課題」に答えるべく努力し続けたい。京セラの創業者稲盛和夫氏の議論とほとんど重なることに驚く。

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