ツキ カオリさんのレビュー一覧
投稿者:ツキ カオリ
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カフカ短篇集
2005/05/30 00:35
マックス・ブロート氏に多大なる感謝を!
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
訳者の池内紀氏の「解説」の冒頭部には、こう記されている。
カフカ(一八八三--一九二四)は生前、『観察』や『変身』や『田舎医者』など、薄っぺらな短篇集を公にしただけたった。死に際して友人マックス・ブロートに、草稿、メモ、書簡類をも含めて自作のいっさいを焼きすてるように頼んだ。もしブロートが友人の「遺言」を守っていたら、世界文学はフランツ・カフカを知らなかったはずである。幸いにもブロートは友人の頼みを無視した。この「誠実な裏切り」がフランツ・カフカという二十世紀の代表的な作家を生み出した。
この短篇集には、比較的長いものから、全くもって短いものまで、20の短篇が収められている。
そのうちの比較的長い2つを、ご紹介したい。
『流刑地にて』は、このような話だ。
ある流刑地に、旅行家は、学術調査のために赴く。丁度、ある囚人が、上官侮辱の罪で処刑されるところだという。囚人は、首、手首、足首に、鎖を付けられ、その鎖は、兵士が握っている。処刑を実行するのは、将校の役目だ。処刑には、特殊な機械を使うのだ。将校は旅行家に対して熱心に、機械のしくみ、処刑のしくみを説明する。機械はずいぶんと古くなっているようだ。果たして処刑は、滞りなく、なされるのか?
『中年のひとり者ブルームフェルト』は、このような話だ。
ある夜、中年の独身男、ブルームフェルトが帰宅すると、部屋の中では、白いセルロイドのボールが二つ、交互に上下して、カチカチと、床を叩いている。ブルームフェルトは、ボールをつかまえようとするが、うまくいかず、不快ではあるが、その状況を受け入れる。翌朝、ボールを洋服箪笥の中に閉じ込め、ブルームフェルトは会社に出掛ける。ブルームフェルトは高級下着の製造工場に勤めている。会社は年々忙しくなる一方なので、工場主に直談判して、部下、すなわち助手を付けてもらった。この助手がちっとも役に立たないのだ。
何度か読んでいるはずのこの短篇集だが、一部はかなり忘れてしまっていた。今回は、タイトルを見ただけで、内容が即座に思い浮かぶくらいの回数を、各々読み返した。特に、『喩えについて』の後半部は、何度も何度も読み返さざるを得なかった(笑)。
この、小さな、沢山の「世にも不思議な物語」を葬りさることなく、我々に提供してくれた、カフカにも、もちろんだが、彼の友人であったマックスブロート氏にも、強い強い感謝を捧げねばなるまい。
脳みそが、まるでぞうきんのように、捻(ねじ)られて、絞られてしまうような錯覚を起こすかもしれない、名作集である。
むずかしい愛
2005/07/15 23:32
日常生活に潜む冒険の数々
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
この本が、カルヴィーノの本の中で一番好きである。
なのに現在は、一時的なことだろうけれども、品切れ中のようである。寂しい限りだ。
本日は、復刊(増刷)を強く願って、この本をご紹介することとしよう。
この本には、『ある〇〇の冒険』と題した、13の短編が収められている。〇〇には、「会社員」とか「夫婦」とか、一般的な名詞が入るのだ。
13ある「冒険」のうち、2つをご紹介しよう。
冒頭は、『ある兵士の冒険』という話だ。
汽車に乗っていたトマーグラ歩兵の隣に、背の高い豊満な女性が座った。車室には、空いている席が他にもあるというのに、なぜかその女性は、トマーグラ歩兵の隣に腰を下ろしたのである。身なりから判断して彼女は、地方の未亡人のようだ。彼女が極端に自分と離れて座らなかったことで、トマーグラ歩兵は気を良くし、筋肉がほぐれるのを感じる。と同時に、トマーグラ歩兵の脚と、彼女の脚とは、ぴったりとくっついたのだ。汽車が揺れる度に、彼女の膝頭の感覚が、トマーグラ歩兵に伝わってくる。
7番目は、『ある読者の冒険』という話だ。
海水パンツ姿のアメデーオ・オリーヴァは、海に面した階段状の岸壁のところで、立ち止まった。なだらかな場所を確保し、ゴムのクッションを膨らませ、タオルを敷き、仰向けに寝転び、アメデーオは本を広げた。途中、泳いだりしながら、本を読みふけりつつ、普段暮している都会の生活で、気に留めていた、あれこれについて、思いをめぐらすのである。ふと気が付くと、砂浜に、日に焼けた女が一人、横たわっていた。彼女が視界に入ってきて、アメデーオは、本に集中できなくなってしまう。
久々に読み返してみて、3番目の『ある海水浴客の冒険』の主人公、イゾッタ・バルバリーノ夫人の目に映った、浜辺の景色が、改めて強く印象に残った。そこには、色や動き、匂いがあるのだ。あえてその部分は記載しないので、ぜひ、その温かな描写を味わってほしい。
13の「冒険」のうち、あなたは、どれに一番ドキドキするのだろうか?
暗いブティック通り
2005/08/31 23:08
訳者「魂」
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
この本の翻訳者である、早稲田大学名誉教授、かつ、文芸評論家の平岡篤頼氏が急逝したのは、ついこの間のような気がしたが、念のため調べてみると、5月18日、ということだった。既に約3ヶ月半が経過している。月日の過ぎるのは早い、ことを改めて実感すると同時に、平岡氏のご冥福を心よりお祈りしたい。
さて、この本の奥付を見ると、5月20日に印刷、6月10日に発行、となっている。
そして「訳者あとがき」は4月に書かれているのだ。
一部引用してみよう。
本書は、最初一九七九年に講談社から刊行され、以上の>もその際添付したものに現在の時点に立って手を入れたものである。この機会に本文も大幅に改訂した。
本書があらためて日の目を見るに至るには、次のような特殊な事情があった。
現在のいわゆる韓流ブームのきっかけとなったのが、>ことペ・ヨンジュンとチェ・ジウ主演の連続テレビドラマ『冬のソナタ』であることは、周知の通りだが、複数の読者から次のような指摘を受けた----このドラマのシナリオを担当した二人の若い女性作家(キム・ウニとユン・ウンギョン)が、その共著『もうひとつの冬のソナタ』の中で、共通して影響を受けたのは『暗いブティック通り』だと曹「ているのである。
とのことである。
「私」こと、ギー・ロランは10年分の記憶を無くしていた。私立探偵業を営んでいたユットは「私」に同情し、様々な援助をしてくれた上に、自分の仕事まで手伝わせてくれたのだ。ユットが引退するのとほぼ同時期に、「私」は、なくした記憶を取り戻す手がかりを得る。「私」は次々に、手がかりを与えてくれる人々に、会っていく。果たして「私」は何者なのだろうか。
今回は、以前講談社から出ている本も入手し、読み比べてみた。旧訳のほうで目に留まったのは「エスプレッソ」や「ボルシチ」という言葉にまで注釈が付いていたことだ。新訳では、この作者の、映画化までされた『イヴォンヌの香り』(パトリス・ルコント監督)についても「あとがき」で触れられているが、同書は、かつて『憂鬱のヴィラ』と題されていたことが、旧訳によって、わかる。それらも含めて、様々な箇所から時代の流れが感じられて、興味深い。新訳のほうは、行間が広がり、字も大きくなって、さらに読みやすくなっている。
本書には、時代の動きに即した、そのような訳者の細やかな配慮、すなわち、文字通り、生と死との狭間の、訳者「魂」が込められているのである。
奥付の頁をさらに捲ると、アラン・ロブ・グリエ、クロード・シモン、ナタリー・サロート等、平岡氏が普及に尽力してきたヌーヴォー・ロマンの旗手たちの書名も並んでいるので、ぜひ併せて、ご覧いただきたい。
ナラタージュ
2005/07/25 23:57
初々しさと、瑞々しさと
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
新刊の小説を読む場合、基本的には、まず図書館で借りることにしている。この作品は、あちこちで絶賛されていたせいか、予約がずいぶんと多く、私のところに回ってきたのはごく最近のことだった。
読み始めてまず気になったのは、鍵括弧が多かったことだ。すなわち、会話が多いのだ。どの頁を見ても、圧倒的に会話が多い。会話が始まるとそれがしばらく続き、途切れると、「私」こと、主人公の工藤泉の心情が挟まる。もちろん会話以外のスペースには、他の登場人物たち(と工藤泉と)の位置関係、状況の説明、描写なども加わるのだが、それらはかなり少ない。
かつ、裏表紙の部分には、「ナラタージュ」という語句の意味が記載されており、「映画などで、主人公が回想の形で、過去の出来事を物語ること」とある。
すなわち、この小説は、主人公たちの会話を中心に、過去を回想した形の、実にシンプルな作法の小説だと言えよう。
結婚を控えた「私」工藤泉は、大学生の頃を思い出す。高校時代、演劇部に所属していた「私」は、当時から演劇部の顧問だった葉山先生の依頼により、他の卒業生たちと共に、母校の芝居の発表に協力することになる。大学1年の「私」は、今でも、葉山先生のことが気になっていたのだ。
正直私は、会話が多い小説は苦手である。会話が多いと、読みやすくはあるが、物足りなさも募ってしまうのだ。なので、この小説も、滑り出しは、物足りなさ感が、かなり高かった。ところが、読み進めていくうちに、この感覚はどんどん減っていって、ついには、なくなってしまったのだ。
なぜだろう、と考えてみると、学生の頃こそが一番会話を交わしていた時期なのではないか、と思い当った。
社会人になって、年齢を重ねていけばいくほど、心の中では沢山の言葉が蠢(うごめ)いても、それを口に出していく度合いは、個人差こそあれ、減っていくのではないか。
作者は、高校生から大学生までの、極めて限定された年齢の登場人物たちの会話を、押さえた筆致で、写し取ることに成功している。よって、彼等の、初々しさ、瑞々しさが、際立ってくるのだ。
そのことが、このシンプルな物語を、ありがちなもので終わらせずに、記憶に留(とど)めさせるのではないか。
初々しさ、瑞々しさを踏まえた今後への期待により、切り上げで四つ星とした。
不思議な読後感をもたらした小説だった。
逃亡くそたわけ
2005/07/17 23:15
何かがぐるぐる回る時
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
高校生の頃、大好きだったイタリアン・レストランがあり、そこの「ミートソース・スパゲッティ」は一味違っていた。大ぶりの短冊切りにした、玉ねぎ、ピーマン、にんじん、スライス・マッシュルーム、ベーコンが、これでもか、という量で麺に絡んでおり、それだけでも、塩味のスパゲッティとして充分成立するのに、ひき肉と、みじん切りにした野菜がたっぷりと入った、熱々のミートソースが、これまた惜し気もなく、麺を埋め尽くす程、掛けられていたのである。そのスパゲッティの、味と姿と匂いが、当時、何度も授業中に、脳裏を駆巡った。振り払っても、振り払っても、その幻影は、頭の周りをぐるぐると回るのだった。
ぐるぐる回るのが、食べ物だったり、気に入ったメロディだったら、ご愛嬌というものだが、この物語の主人公、21歳の「あたし」こと、花田(花ちゃん)は、幻聴に悩まされている。特異な文句が、何度も何度も、揺さぶりをかけてくるのだ。そのせいで「あたし」は、福岡の精神病院に入院していたのだが、ある夏の日、同じく、そこに入院していた「なごやん」こと、蓬田という男を巻き込み、逃亡を決行するのである。
「あたし」と「なごやん」は、ともに複雑な事情を抱えてはいるが、その道中には、悲愴感はあまり感じられない。むしろ、二人のやり取りには、いい意味での滑稽さ、さえ漂う。それは、現実から逃避していたとしても二人は、「生」そのものを、断ち切ろうとはしていないし、決して諦めていないからなのではないか。
あなたは、主人公のような、特殊な幻聴を抱えていたら、一体どうするだろう? 主人公と同じように、とりあえず逃げてみるのか? 逃げるとしたら、何から逃げるのか? かつ、どこへ逃げるのだろうか?
阿蘇の「いきなり団子」とは、どういうお団子なのだろう。
最終地・指宿の、砂を歩いて渡れる島、知林ヶ島も、印象的だった。ここの海は、ラベンダーの香りがしたと書かれている。まるで、ガルシア・マルケスの、薔薇の香りのする海、のようではないか。
文字のみで書かれている、九州の観光案内として読んでも、実に楽しめる本書だった。
停電の夜に
2005/06/25 00:14
日本らしさって、一体何?
6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
日本ほど、各国の文化に気軽に接することのできる国はないだろう。例えば、「食」という文化について、考えてみる。東京なら特にその傾向が顕著だと思うが、どの街でも、メインストリートを歩くだけで、様々な国の食事を、いとも簡単に味わうことができる。私の職場の街でも、それこそ、インド料理だけでも、大、中、小、合わせて、5つも6つも思い付くくらいある。他の国の料理を思い浮かべても、店の数の差こそあれ、同様の結果となるだろう。
外国に行くと、ここまで簡単にはいかないのではないか。行った国以外の料理を味わうというよりも、むしろ、その国の料理を食べることがメインになるはずだ。
さて、この短編集には9つの短編が含まれているが、設定の違いこそあるものの、そこはかとなく、インドの香りが漂ってくる。チャツネやタンドリーチキン、サモサなどのインド系料理が放つスパイスの香りと共に、サリー、既婚者の女性(?)が髪の分け目に着ける朱色の粉、おでこに押す赤丸、など、ファッションというよりは民族衣装と言ったほうが的確だろう、と思われる記述も、多く見られる。
それら一つ一つが、インドの象徴なので、この短編集には、独特の彩りが加わるのである。
インドの貧しさも目を引いた。
四作目の『本物の門番』の主人公、ブーリー=マーは、あるアパートの、階段の掃除人をやっている。郵便受けの下で雨露をしのがせてもらえるのと引き替えなのだ。
八作目の『ビビ・ハルダーの治療』の主人公、ビビ・ハルダーは、ペンキも塗っていない四階建てのアパートの屋上にある物置にいつも座って、いとこ夫婦がやっている雑貨店の、在庫品の記録を、賃金も貰えないのに、つけている。彼女の見返りは、食事のみなのである。
この短編集を読んで思ったのは、同じように、日本的なものを順に並べれば、日本らしい短編集ができるのだろうか、ということだった。
例えば、食に関しては「和食」を列挙したとして、とはいうものの、そもそも日本では、和食だけを食べている訳ではないのだ。同様に、民族衣装ともいえる着物でさえ、式典など特別な場合にしか今では着なくなっているのだから、その描写をしたところで、かえって、かなり特別なことになってしまうのではないか。
極端な貧しさ、もしくは、豊かさ、などは、日本には、もはやない。
すなわち、日本的なものを拾い上げていくことが、即、日本らしさには繋がらないのではないのか。
三作目の『病気の通訳』に出てくる、ピーナツとトウガラシをまぜあわせたライススナックの味を想像しつつ、そんなことに思いを馳せることになった1册だった。
蛇を踏む
2005/06/23 21:37
蛇の感触は「かさかさ」なのだ!
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
皆さんは「蛇」に触ったことがあるだろうか?
「ある」と答えられる方のほうが、少ないのかもしれない。
「蛇」を研究している施設に行くことがあれば、必ず「蛇」に触る機会(チャンス?)は、やってくる。触った感触は、意外にも「かさかさ」している。爬虫類系のハンドバッグや靴を、触った時に得られる感触と、ほぼ同じだ。あれは、どうやら「ぬめり」を取って加工している、という訳ではなさそうだ。
にもかかわらず、なぜか一般的に、「蛇」は「ぬるぬる」していると思われている。なぜだろう。
実は、割と最近、ある男性作家2人の作品の中に、「蛇(爬虫類)がぬるぬるしているような」という比喩を発見したことがあり、密かに(それは違うぞ)と、ほくそ笑んだことがあった。
などと、えらそうに思ってはみるものの、私も実際に触ってみるまでは、「蛇は濡れているもの」と思っていた。
さて実際は「かさかさ」している「蛇」なのだが、この作品に出てくる蛇には、どうにも湿っぽさが拭えない感じが付きまとう。しかも、相当に太い「蛇」という感じもしてしまう。どうしてなのかと考えてみると、作中の次の文章に目が留まった。
「秋の蛇なので動きが遅かったのか。普通の蛇ならば踏まれまい」
「蛇は柔らかく、踏んでも踏んでもきりがない感じだった」
まるで夏のように暑い、ある秋の日に、落ち葉を掻き分けながら、「ざざざざざ」という大きな音を立てて、悠然と土にもぐっていく「蛇」を見たことがあったが、あの時のことが思い出されたからなのかもしれない。
餌をたらふく食べていたのか、その時の蛇は、お世辞にもスマートとは言えなかった。かつ、その蛇は、もし「踏んだ」としたならば、一切、皮や体が、壊れたり、やぶれたりはせずに、粘土のように「踏まれた」圧力を、吸収しそうな感さえあった。
この作品の、外見上も、性格上も、粘性の高そうな「蛇」は、50歳くらいの女に姿を変え、主人公のヒワ子に迫ってくる。
肉迫してくる「蛇」に、ヒワ子は、どう対処したのだろうか。
皆さんも機会があったら、「蛇」を触るだけでなく、肩や首に掛けてみてほしい。「蛇」が、身体中を蛇行しながら、絡み付いてくる感触は、なかなか(???)のものだ。彼(彼女?)は、拠り所にするための、窪みや出っ張りが大好きなのだ。
この短編集には、そんな「蛇」にまつわるあれこれが、思い出されて止まない、芥川賞受賞の、表題作の他、カフカの強い影響が感じられる『消える』や、漱石の『夢十夜』を彷佛とさせる『惜夜記(あたらよき)』が、含まれている。
ケータイ・ストーリーズ
2005/07/09 00:46
スーツが似合うユアグローさんの最新作
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
著者と訳者を初めて見たのは3年前、2002年の秋、確か11月だったと記憶する。
某書店で行われた、著者であるバリー=ユアグロー氏の朗読会に、私は幸運にも居合わせることができた。この偶然には感謝したい。なぜならば、ユアグローさんはこの時が初来日だったのだそうだ。
朗読会とはよく言ったもので、ユアグローさんの声は、高すぎず、低すぎず、とてもよく通る声で、それこそ「朗々と」していた。とても聴き取りやすい英語だった。とはいうものの、全てが聴き取れた訳ではなく(笑)、この時ほど私は、日本語が聞き取れるくらい英語も聴き取れたらいいのに、と思ったことはない。
訳者である柴田元幸氏が通訳をしながら、朗読会は、実に、なごやかに、進められたのだった。
さて本書は、2004年1月から7月まで、「新潮ケータイ文庫」で配信された、ユアグローさんの超短編をまとめたものである。柴田さんのあとがきによると、親日家で、日本のことには、かなり詳しいユアグローさんが、前述の来日時に、一つだけ驚いた光景があったのだそうだ。それは、日本の若者たちが、目にも止まらぬ速さで親指を駆使し、携帯メールを書いたり読んだりする姿だった、とのことである。その姿に刺戟されて、ユアグローさんは、携帯メール配信による小説を書こう、と思い立ったらしいのだ。
それまでのユアグローさんの作品集よろしく、本書も、ユアグローさんの、楽しくて、かつ、奇妙な、超短編のオンパレードである。
1作目の「さわり」だけご紹介しよう。この本が生まれた背景にふさわしく、『メロディ』と題されたそれは、携帯電話を、過って飲み込んでしまった男の話である。携帯電話を飲み込んだまま、男はオフィスで働かねばならない。さて彼には、何が起きたのだろうか。
最後に、最近、柴田さんのトークショーに行き、新しい情報を得たことをお伝えしたい。ユアグローさんは、何ともうれしいことに、再来日を熱望されているというのだ。この本を含め、ユアグローさんのご本を、何度も読み返しながら(最近友人から、ユアグローさん本の、新鮮な読み方を聞いた。1日に3作品読むというのである。彼女は毎日3つ、ユアグローさんの作品を読むのが、とても楽しみなのだそうだ)、その朗報が早くに実現されるのを、心から願わずにはいられない。
快楽急行
2005/08/23 22:54
うれしい発見が幾つも!
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
不在を周囲に知らせないため、かつ、ゴミの処理に困り、そして何よりも、不況のせいで、決していいことだとは思わないが、新聞購読をストップしてしまった。このように、理由を挙げてみると、何事にも、必ずメリットとデメリットがあるものだと気付く。もちろん、なるべく情報不足にならないように、新聞が置いてある場所があれば、むさぼるように読むし、ネットで情報を補強したりなど、努力は怠っていないつもりだが、毎日漏れないように、とはいかないのが、なかなか辛いところだ。
だから、という訳でもないが、著者の『朝日新聞』土曜版「be」連載エッセイ等が単行本化されたと聞いて、読み切れていなかった分が通しで読めるのだ、と喜んだのである。
どのトピックスも楽しかったが、その中で2つ、特に目に留まった箇所がある。タイトルに各々番号がふってあるのだが、その番号でいくと、75番の「計算は彼に任せろ」と、80番の「峰不二子」だ。
「計算は彼に任せろ」は、このような話だ。
著者が、アイオワ大学の、インターナショナル・ライティング・プログラムに参加した折、世界各国の詩人、作家たちと、ほぼ毎日、食事を共にしていたそうだ。その際、いかに彼等が計算ができないかを痛感したと同時に、苦手で、できなかったはずの計算を、いつの間にか、著者が一手に引き受けていた、というのだ。
確かに、日本人は、計算、特に、引き算が得意だと思う。1000円で、365円の品物を買った場合、おつりは635円だと、我々は瞬時にわかるが、例えばアメリカ人は、そうはいかないみたいだ。彼等の対応は、365ドルの品物を買ったから、それに、35ドル、100ドル、500ドルを足して、1000ドルになる、のだから、おつりは635ドル、というような、お金の出し方をしているように、見える。引き算せずに、いちいち足しているのだから、即答できないのだろう。
そう言えば、仕事の際、先方の計算違いがわかってもらえず、その件に関するメールのやり取りが数通にも及び、それでも解決しないため、結果的に、まるで幼稚園児に説明するように図表化までして理解を求めたことがあった、などということを思い出した。
「峰不二子」は、このような話だ。
著者にとって、峰不二子は理想の女性、らしい。「どれくらい彼女を愛しているかというと、おのが畢生の長編小説三部作のヒロインに不二子の名前を借りるほどである」とのことである。
やはりそうだったか、と思い当たった。
実は、現在のニックネームで書評を書く前に、一度だけ、別名で書評を書いたことがあるのだが、その時に取り上げたのが、著者の書いた『美しい魂』で、その時にも、不二子の名前には注目していたのだった。
男性はもちろん、女性なら尚のこと、峰不二子、に憧れない人間はいないだろう。私もあのような女性に生まれていたら、もっと露出度が高い服装を好んでいたのではないだろうか。いや、逆にわざと隠しておくのかもしれない。いざという時(どういう時だ?)のために。
などというように、読者の誰もが、著者の提示したトピックスを身近に感じ、様々な記憶を呼び起こされて、楽しめるに違いない。
肩の力が抜けて楽になれた1册だった。
僕は模造人間
2005/06/17 23:37
はずれ玉の亜久間一人が模造人間になるまで
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
作者は、「あとがき」に当たる(?)「付録」で、こう述べている。
「どうか、皆さん、私の作品以外のくだらない作品は読まないで下さい。世界の名作と私の作品があれば充分じゃないですか。私は電車の中で漫画や週刊誌、ファッション小説などを読んでいる人を見かけると、私の作品と取り換えてあげたくなります。そういう私は天使ではないでしょう」と。
そのような意味合いからいっても、私はこの作者の、あまりいい読者とは言えないかもしれない。というのは、私は、彼の全作品を読破していないし、きれぎれにしか読んでいないからだ。
だが、このところ、努めて、読むようにしている。
その中でも、この作品は格別に面白かった。
目次を見てみよう。
第一楽章「はずれ玉」
第二楽章「間男」
第三楽章「賭博者」
第四楽章「成熟」
第五楽章「ブロッケン山の模造人間」
付録
となっている。
小学生にして自らを「はずれ玉」として認識した、亜久間一人(あくまかずひと)は、成長過程で、次々と奇妙なことをやらかしていく。
本人の弁によると、
「つまり……福引きのはずれ玉が当りの赤玉や青玉に変わるためには無茶なことをせっせと行わなければならないということなのだ。当然、僕の趣味は自分の体を痛めつけたり、変質させたり、また、性格という粘土をこねくりまわして、変形させたり、二つに割ったりする倒錯へと走ることを義務づけられた」(第一楽章、17頁より)とのことである。
どれだけの、はちゃめちゃぶりだったのかは、本作を読んで、ぜひ確認してみてほしい。
ちなみにこの作品では、切れ味の鋭い、比喩に注目して読んだ。
幾つか例を挙げよう。
「僕がペンギン並みに歩くようになると(注・主人公が二歳の頃)、抱かれる人を選ぶ審美眼が芽生えた。近所に住んでいた近眼の、鍋にこびりついた味噌汁の残りのような女子学生が僕を抱こうと手を差しのべたが、僕は壁に当ったボールになって引き返した」(第一楽章、12頁より)
「僕は単純でうぶな青いお尻の坊やに戻ったかと思われた。この頃の僕は道端の石ころに愛情を感じて涙を流したり、路上にうずくまる浮浪者に親近感を覚えたり、「自分は不幸だ」と呟くだけで笑いたくなったりした。高校を中退するまでを行進曲風の反抗期であったとするならば、この時期から、激しい抑揚のない緩徐楽章に入ったといってもいいだろう。そこには一錠の精神安定剤ほどの感傷が混じっていた」(第四楽章、138頁より)
装幀は金子國義氏が担当している。そのブルーの表紙をめくると、若き日の、80年代の髪型をまとった、初々しい作者の顔を見ることができるのだが、それがまた、楽しかったりする本書だったのである。
Fujiko Hemming esprit de Paris
2005/05/18 18:52
煙草とスクーター
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
この本は、フジ子・ヘミング氏のインタビュー集である。
目次を見てみよう。
ヨーロッパ フォト グラフィティ
Passe<過去>
Present<現在>
Avenir<未来>
フジ子さんへの50の質問
CDインタビューCONTENTS
となっている。
<過去>のコーナーでは、フジ子氏が、例えば、ご両親や、ドイツ人、ペット、演奏スタイル、などについて、ざっくばらんに語っている。ここでは、フジ子氏の美少女時代の写真、フジ子氏の父親である、ジョスタ・ジョルジ・ヘミング氏の写真なども見ることができる。お父上に対してフジ子氏は、こう語っている。「父は純粋じゃないけど頭がよくて計算高くズル賢い人だった。そのズルさは私はもらっていないからね」と。
<現在>のコーナーでは、「クラシックって気取ってる?」と題して、このような文章が記されている。
「クラシックを演奏する芸術家に、すごく(気位が)お高い人が多いんですよ。その感じが嫌で、私はお高い彼らと付き合うのが好きじゃありません。今から30年ほど前、ニューヨークのカーネギーホールはGパンでは入れなくて、いくら一等席の切符を持っていても最上階へ移動させられたそうよ。今はそんなことはないですけどね」
他にも、譜面、演奏家としての心得やコンクール、などについての言及がある。
<未来>のコーナーでは、「歌にも挑戦」「チャレンジしてみたいこと」「死ぬ時に聴きたい好きな曲」「美術館」の、4つの項目について、触れられている。
「歌にも挑戦」から引いてみる。
「この前、夏の頃、あれはまぁ頼まれたからやってみたんですけどね。初めてマイクを通して歌ってみたら、全然自分の声じゃないように聞こえるのよ。その前に、夜散歩しながら歌の練習をしていたのね。そしたらベルリンで車に乗っていたドイツ人の男性に「おお、キミは実に素晴らしい声をしているじゃないか!」って言われてしまったわ」とある。
フジ子氏が「死ぬ時に聴きたい好きな曲」に関しては、あえて伏せておくので、本書を手に取って確認してみてほしい。筆者はなるほど納得、でもあり、意外、にも感じられた。
添付されているCDのインタビューは、小林恭介氏が聞き手となって、昨年11月にパリのフジ子氏の自宅でなされたもののようだ。フジ子氏が、ライターを摺って煙草に火を着ける音、窓の外をスクーターが駆け抜ける音など、かなりざっくばらんに録音がされている。
小さな木のテーブルで、お気に入りのお茶やコーヒーを用意しながら、パリの町並を見下ろしているような、楽しい気分が味わえる本書である。
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