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JOELさんのレビュー一覧

投稿者:JOEL

300 件中 16 件~ 30 件を表示

レジーム・シフトとは広辞苑にも載っている理論なのであった。これを理解すると海洋生態系や漁業資源に対する見方が一変する

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 イワシは、かつて大衆魚の代表だった。いくらでも獲れて、安くお店に並んでいたからだ。漢字では「鰯」。「弱」という字を当てられているのも、イワシの立場を表している。

 ところが、イワシの漁獲高が近年、大きく低下している。ほかにも、水揚げが減少している魚は多い。そして、その要因を「乱獲」に求める声が、これまでは大きかった。 
 しかし、著者は、海洋生態系の複雑さをもっと丁寧に解き明かしていく。乱獲だけでは説明がつかないというのだ。

 長期間、データをとり続けていると、歴史的にイワシの漁獲量は大きな上下動を繰り返していることが分かる。そして、イワシの食べる海中のプランクトン量を調べてみると、これも上下動を繰り返している。
 つまり、イワシを養える「海のキャパシティ」の変化にイワシの漁獲が左右されていることになる。これを「レジーム・シフト」というのだそうだ。

 80年代前半には、当初、水産資源学者や海洋学者のあいだでも、レジーム・シフト理論は否定的な受け止め方をされていた。その後、ワークショップを重ねて、80年代の終わりには、専門家のあいだでほぼ支持されるに至ったという。90年代以降は、レジーム・シフト理論に基づく、魚類の個体数変動が盛んに研究されるようになっている。

 「レジーム・シフト」は2008年に発行された『広辞苑(第六版)』にも収録されている語彙だというのだから、理論としては定着したと言える。しかし、この考えは、あまり一般の人々のあいだで広まっていないように思える。著者が本書を刊行したのも、その現状打破にある。

 大気-海洋-海洋生態系という地球環境システムの変動を説明するレジーム・シフト理論はもっと広く理解されてよい。「大気」、「海洋」、「海洋生態系」の3つを関連づけて語らないと、やみくもに稚魚を放流したり、漁獲規制を行ったりということになりかねない。

 ちなみに、海のキャパシティが成魚の量を決めるので、稚魚をいくら大量に放流しても、結果としては変わりがないことになる。実際、このことは北太平洋のシロザケのデータによって確かめられている。

 もっとも、大気-海洋-海洋生態系のつながりを正確に理解しようとするのはかなりの努力を必要とする。著者は、各種データをあげながら懇切丁寧に説明し、読者を助けようとするのであるが。

 海には海流があり、それに乗って魚類が移動していることくらいは、だれでも知っていることだが、海洋環境のダイナミズムはとても複雑だ。大気との熱交換システム、気圧と海水温の関係、それにともなう海洋生態系の変化についての説明は、読者の知力を試しているようでもある。

 海洋は、一般に思われているよりも、もっと変化に富み、それ自体が生き物のごとく振る舞っている。大海原には、どっしりとした安定感があり、揺らぐことがないようなイメージを抱いていた。それが、読後に一変してしまった。

 また、本書の終盤に取り上げられる国連海洋法条約や排他的経済水域の考え方は、「レジーム・シフト理論」からすると、持続可能な漁業にとっては妥当性を欠いているという指摘も鋭い。

 自然の変動によって、漁業資源はもともと上昇と崩壊のサイクルを繰り返すが、回復期に獲りすぎると、資源がもとに戻らない。世界はレジーム・シフト理論を基本に、海洋計画を見直す転換点にあるというのが本書の締めくくりだ。

 科学を基礎に置いた政治的判断。これが今求められている。科学が先行しないと正しい海洋政策も立てられない。そういう著者の主張はなかなか説得力に富むと見た。 

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紙の本人間失格 改版

2009/06/04 00:51

太宰の言葉、私語りの極致

11人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 言わずと知れた太宰の代表作である。今なお表紙を新しくするなどして発刊され続けている。最近では直筆原稿によるものまで出されている。

 そうして、私が太宰にかぶれたのは本書によってであった。それはまだ、思春期の感性が繊細さを極めていたころのことであった。太宰にはまってしまう人にありがちな、あたかも自分のことを語ってくれているかのような錯覚の中で、ズシリと重たい衝撃を受け取ったときのことをまざまざと思い返す。

 金原ひとみが『蛇にピアス』で芥川賞を受賞したとき、選考委員の選評に「人生という元手がかかっている」というものがあった。作風は違うが、人生を賭している作家がいるとすれば、太宰はその原点のひとりになるだろう。

 『人間失格』には太宰の人生の影を見ることができる。これはフィクションでありながら、ノンフィクションとも思わせる筆致で描かれている。太宰は心中事件や薬物中毒を起こしているが、本書の主人公の軌跡も穏やかではない。

 むろん、今の時代との違いを感じないわけではない。文体や言葉遣いがやや古いだけではなく、「世間」というものに焦点があたっている点にハッとさせられる。
 日本人はほんの少し前まで、ひどく世間体を気にしながら生きていたのではなかったか。それからすると、いまでは「世間」という言葉は死語に近くなっていることに気づかされる。ちなみに、太宰は本作で、”世間とは君のことだろう”という鋭い指摘をしている。

 そんな発見もしながらの読書は、古くて新しいひとりの読者として、予想したよりも収穫が多かった。

 ただ、凡庸な読者の常として、つまるところ、太宰とはどういう作家であったのかという探究心を刺激されずにはおれなくなった。こうして、太宰を直接知る人の手になる太宰論へと進むことになった。

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事実と事実の欠落を著者は豊かな想像力で埋めてみせる

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は刊行当時から話題を呼んでいたので、大きな期待を持って手にした。そうして、期待は裏切られなかった。2008年初頭に読売文学賞を受賞しているが、それにふさわしい読み応えがあった。

 著者は、韓国に近い対馬から始まり、近畿、伊勢、伊勢の対岸にある津島、さらに関東、東北などを訪ね歩き、「牛頭天王」が日本においてどのように受容されているかを明らかにする。

 「牛頭天王」とは、朝鮮半島から渡来人とともに伝わってきた信仰対象である。在来のアマテラスオオミカミを頂点とする万世一系の天皇制と相容れないため、明治期の神仏分離令や廃仏毀釈の荒波を受け、各地からその存在を消されていった。しかし、その痕跡がいたるところに残っていることをフィールド・ワーカーとして明らかにしていく。

 正史としての日本の系譜からははずれた存在であるため、常に圧迫される憂き目にあり、その難を何とか逃れる必要があった。うまく逃げおおせた果てに、いろいろな形に姿を変えて、今でも各地に息づいていることを著者は実証する。

 牛頭天王を追いかけることは、日本の異端の歴史を追うことにつながる。それは古代の朝鮮半島および大陸と、日本の関係性への解明にも発展していく。各地を訪ねて著者が示すそれは、どれも実に興味深い。

 正統性をもたないがために、たとえば牛頭天王はスサノオノミコトに読み替えられて生き残る。京都の八坂神社がそうだ。先頃、ポスターの奇抜なデザインが注目をあびた東北の「蘇民祭」にも見出される。

 書名にある「蘇民将来」は、牛頭天王が宿を求めたときに、こころよく一宿一飯を差し出した人物である。断ったコタンの方は、のちに牛頭天王の荒々しい力によって滅ぼされてしまう。

 牛頭天王の荒ぶる神としての側面がポジティブに転ずれば、心強い守護神となる。それが、日本の各地の家に飾られたり、張り出されたりしている「蘇民将来之子孫」のお札である。
 このお札があれば、牛頭天王によって守られる。蘇民将来の子孫であることを示すことは、牛頭天王を親切にもてなした存在であることを意味するからだ。半島から伝わった天王信仰は、様々な圧迫を受けながらも、人々の暮らしの中に今でも生き残っている。この書評を読んでいるみなさんのなかにも、「蘇民将来之子孫」のお札に心当たりのある方がおられることだろう。

 日本が純粋な国風文化だけで成り立っているわけではなく、重層的な歴史を持つことが解き明かされていく。この謎解きにも似た読書の楽しみは、格別なものがある。

 著者は、本書を書き出した時点では、書物の構成を決めてはいなかったに違いない。かなり急展開していく部分があり、様々な話題にその都度、飛んでいく。思いつくままに書きつけていった著者の姿が浮かぶ。それがみなぎる力となり、読者を引きつける。

 著者は研究者らしく、次々に事実を掘り起こす。しかし、同時に空想も膨らませて、事実と事実のあいだの欠落を埋めていく。その空想は著者も自覚しており、読者には茶目っ気として映る。このこともまた、本書をエネルギーみなぎる書物にしている。

 整然とした書きぶりではないが、それが決してマイナスには働かず、かえって起伏に富み、ワクワクさせるような荒削りなものとなって読者の好奇心をくすぐる。

 歴史を学ぶのは、確定した事実を単に暗記することではなく、欠落した部分を想像力によって補いながら、”物語”として受け止めていくものであることを教えてくれるようだ。

 日本史の隠された部分に光をあて、見事に輝きを与える本書は痛快な読み物として賞賛に値する。ぜひ一読をお薦めする。

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日本の中世史を塗り替える驚きの書

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ずばり歴史ファン向けの本といっていいだろう。著者は、おそらく学会のことを意識しており、通説を否定するような挑戦的な姿勢で執筆に臨んでいる。

 それにも関わらず、歴史の専門家向けとせずに、歴史ファン向けとするのは、新書での出版であることと、著者がところどころに見せる茶目っ気のためである。

 特に茶目っ気がいい味を出しており、読者を楽しませる。例えば、「境内都市」という表現が適切かどうか、著者も完全には満足していない。そこで、読者にもっとよいネーミングを書中で募集していたりするのだから、型破りだ。

 この型破りな気質は、そういう細部だけではなく、本書全体にわたって生きている。「歴史」と言えば、教科書にあるような確定的な事実で固まっていると思うのがふつうだろう。歴史観がゆらぐのは、昭和以降の近現代史ぐらいという受け止め方が多いと思われる。

 ところが、著者は「中世」という、はるかに時代を遡る歴史を再構築してしまうのだから驚きである。書名のとおり、中世には「寺社勢力」が力をふるっていたという持論を展開していくのだが、なかなか痛快である。

 ほとんどの人は、平安時代は「朝廷」が支配し、鎌倉時代・室町時代は「武士」が政権をうちたて、その後の戦国時代・安土桃山時代も、朝廷の存在はありながら、「武家政権」が続いたという風に、教科書を通じて学んだはずだ。

 しかし、著者はこうした時代区分に、まったく新しい見方を持ち込んでみせる。上にあげた時代区分とそぐわないのだから、読みながら戸惑うことしきりである。ただし、その戸惑いは、読者に同時に喜びも与える。

 なぜなら、それまでの通説を巧みにひっくり返して、新しい見方を読者の頭に流し込んでくれる快感をともなうものだからである。本書を読み終えて連想が働いたのは、梅原猛の『隠された十字架』である。梅原は法隆寺にまつわる数々の謎を解き明かしながら、読者を知的興奮に導いた。それに近いものを本書に感じたのである。梅原は、史料を駆使しながらも、大胆な仮説や推理を織り交ぜながら論じて見せた。

 本書の著者の伊藤は、あくまで史料に依拠する。あまり大胆な推理はしない。史料の欠落を想像力で補うことはあるが、あくまで史料第一主義である。それでも、これだけ確定的な歴史をひっくり返してみせるのだから見事である。

 ここでいう史料とは、寺院に残る記録である。朝廷や幕府に残る公式の資料は、時の政権に都合のよいように書かれていたり、そもそも信頼のおけるものがなかったりするので、あまり信を置かない。
 歴史の表舞台から離れて存在した寺院の記録の方が、本当のことが書かれているとして、11世紀から16世紀の歴史を再構成していく。そうすると、「寺社勢力」というものが、朝廷や武家政権という中心軸から距離を置きながらも、相当な力を持っていたことが分かってくる。

 比叡山延暦寺というと、たいていの人は最澄が開いた天台宗の拠点という認識くらいしかないが、歴史を大きく揺り動かす存在であり続けた。

 比叡山は、京の都にいくつかの有力な末寺を持ち(祇園社=今の八坂神社)、朝廷や幕府に圧力をかけることがたびたびあった。というより、時の政権は、武力も経済力も持ち、なおかつ宗教的な意味からも手出しできない領域であった比叡山を決して支配できなかった。そして、これは奈良の興福寺や和歌山の高野山などにもあてはまる。

 こうした有力寺院は、いわば境内都市ともいえる機能を発達させていた。今日の神社仏閣のイメージからは、大きくはずれた存在であったことにおどろかされる。ここには政権の警察力も及ばないのであるから、自律的な動きをすることができた。神威を背景にして、内裏に神輿をもって押し掛け、要求を突きつける強訴は当たり前の時代であった。朝廷も警護する武士も及び腰にならざるをえなかった。

 著者は有力寺院が力を維持した1070年から1588年までの約500年間を明快に「中世」と定義する。この中世は、教科書で教わる歴史とは、似ても似つかない時代であったことを例証していく。その手さばきは鮮やかというほかない。

 1571年に織田信長は比叡山延暦寺を徹底的に焼き討ちにした。そうしなくてはならないほどの力を、当時の有力寺院が持ち合わせていたことを示す好例だ。ここに信長の残酷さを見るというより、「中世」の「寺社勢力」の存在感をみるべきなのだ。信長は存命中、比叡山の再興を許さず、これ以降寺社勢力は衰退していき、やがて「中世」は終わりを遂げる。

 本書を閉じるとき、この500年間の歴史を塗り替えて見せた著者に、敬服せずにはいられなかった。

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紙の本地球最後のオイルショック

2008/08/05 19:58

徹底的な取材で、ここまで石油をめぐる事情が解き明かされるとは・・・

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 書名の『地球最後のオイルショック』はおどろおどろしい印象を与える。しかし、その内容はもっと寒々としたものだった。書かれている内容が衝撃的なので、背筋が凍る思いがしたのである。

 著者は170人もの関係者にインタビューをし、大量の資料を読み込んで、本書をものにしている。その精力的な執筆活動は、日本ではなかなかお目にかかれないたぐいのものだ。
手早く情報を処理し、効率的に記事を生み出すのが現在の日本のジャーナリズムだとすれば、本書は対極に位置する。

 著者は骨の折れる作業をいとわずにやり遂げている。日本の著作物になれていると、その書きぶりが、こってりとしてとてもくどい感じがするだろう。しかし、それはついには説得力のある結論へと読者を導いてくれるのだ。

 さて、石油はあとどれぐらいもつのか? これは、だれもが抱く疑問であり、40年程度はあるとか、世界のどこかで新たな油田が見つかるからまだ大丈夫とか、いろいろな情報が飛び交っている。

 ところが、こうした「公式発表」の信頼性に問題があるとしたら、どうなるだろう。思ったよりも早く石油は枯渇することになる。それも、きちんとした備えもないままに。

 驚いたことに、米国の政府機関やOPECなどの示す確認埋蔵量は水増しされている。しかも、すでに採掘されている油田からの原油産出量が減少の一途をたどっていることも、マスコミでの扱いは小さい。

 こうして今後、期待される原油産出量の伸びは、需要の伸びにあっという間に追いつかれてしまう。研究機関によって、その次期に多少の差はあるが、あと10年もかからない。これを「オイル・ピーク」と呼ぶ。枯渇ばかりが問題視されるが、ピークを迎え、原油が減り始めた時点で、将来を見越したエネルギーの高騰が起き、社会的混乱が生じる。

 私たちはすでに二度のオイルショックを経験しているが、それとは性質を異にする。このオイルショックは、枯渇に向けての最後のオイルショックなのだから。ちなみに、本文中では「ラスト・オイルショック」と呼ばれている。エネルギーの高騰は現実のものとなっているから、すでに始まっているのかもしれない・・・。

 ブレア首相が米国の始めたイラク戦争に追随した背景にも、実は英国のエネルギー見通しが逼迫していることがある。北海油田が急激に原油産出量を減らした、つまりピークアウトしてしまったという事情があった。こうした日本ではほとんど報道されていない情報の掘り起こしがある点で、本書の価値はいっそう高まる。

 それにしても、私たちの生活は石油なしには一日たりとも成り立たないものになっている。それ以上に、石油がピークをつけたあとに、代わりとなるエネルギー源がいまだ存在しないという事実が、そら恐ろしい未来を予見させる。太陽光発電も風力発電も、石油と同等のエネルギーを生み出すには広大な土地を必要とし、現実的ではない。水素を原料とする燃料電池となると、水素を取り出す技術さえ不十分であり、インフラ整備もはるかに遠い。

 石油というあまりにも汎用性が高く、エネルギーにも、身の回りの製品にも作りかえられる物質に置き換わるものは事実上ないということだ。地球が何億年もの歳月をかけて生み出した石油という夢のような物質の代わりになるものが、やすやすと見つかるはずもない。

 私たちにできるのは、オイル・ピークとともにやってくる最後のオイルショックに備えて、可能な限り脱石油の生活に転換していくことだ。車に乗ることやはるか遠くで栽培された輸入野菜をあきらめるのは当然のこととなる。

 それにしても、結局のところ最終的な解決策はあるのかと言えば沈黙せざるを得ない。著者は締めくくりに、次のように言う。「われわれは・・・全速力のまま壁に激突する可能性が高くなっている」と。

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紙の本21世紀の歴史 未来の人類から見た世界

2011/02/24 08:06

博学多識のアタリ氏と、過去・現在・未来の旅ができる

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 今、日本でも注目を集めているジャック・アタリ氏の代表的著作である。本国フランスでは、2006年11月の出版以来、ロングセラーを続けているという。かなり分厚い本だが、その分楽しみも多い。

 過去の世界史を振り返る前半部分は、博学多識のアタリ氏の力量がいかんなく発揮されている。西洋に限らず、中国やイスラム世界など、世界のその他の地域も含めて整理してみせる。その力技には感心したし、とても勉強になった。

 「市場」を作り出す人類の動機には説得力があり、面白い。「定住民」と「ノマド」の衝突が、世界史を動かし、市場の秩序を生みだしていったという説明のくだりにはワクワクする。

 本書で有益なのは、各所に挿入された次のような格言だ。「ここで未来への教訓。人類は、ノマドと定住民との衝突によって、権力と自由を手に入れてきた」
 こうした一文は、太字になっているので、拾い読むことができる。これを一覧にしてみるのもいい活用法に違いない。

 「アジアでは、自らの欲望から自由になることを望む一方で、西洋では、欲望を実現するための自由を手に入れることを望んだのである」
 「ここで普遍的な歴史の教訓。巨大勢力がライバルに攻撃されると、勝利されるのは、しばしば第三者である。さらにもう一つ。勝者は、しばしば、打ち負かした側の文化に傾倒する。・・・」
 「ここで未来への教訓。ヴェネチアを含め、その後のすべての「中心都市」とは過剰と傲慢の産物である」
 「ここで未来への教訓。外国人エリートの受け入れは、成功の条件である」

 ほかにも太字になっている箇所はたくさんあるが、外国人エリートの受け入れの一文は、日本にとってドキリとさせられるような内容だ。こうした拾い読みだけでも、本書の楽しみは十分にある。

 アタリ氏は資本主義の歴史を振り返り、これまで九つの「中心都市」があったと言う。ブルージュ、ヴェネチア、アントワープ、ジェノヴァ、アムステルダム、ロンドン、ボストン、ニューヨーク、ロスアンジェルスだ。こうした都市が各々果たした役割、どうして次々に移行していったかの解説、どちらも興味深いものがある。

 市場の秩序は、常に一つの拠点を「中心都市」とした。ここには「クリエーター階級」(海運業者、企業家、商人、技術者、金融業者)が集まり、この都市を支える農業が後背地に広がる。また、製品を輸出する大きな港が必要となる。中心都市の移行の要因は、経済危機や戦争の勃発であるとする。

 こうした過去を振り返ることから、未来への展望が開ける。ただし、「オブジェ・ノマド」という、定住しなくても快適な生活を実現するデバイスやソフトウェアの登場が歴史を塗り替えていくと、アタリ氏は予想する。つまり、インターネットやPCなどのオブジェ・ノマドが、これまでとは違う歴史を導いていくだろうと。
 これは「ユビキタス・ノマド」を登場させる。つまり、特定の都市や国家にとらわれることのない集団、企業などが新たな次元をもたらす。アタリ氏は「国家は解体されるのか?」という提言までも出す。

 ただし、ここから先は、アタリ氏の独特の未来予測になる。「超帝国」、「超監視体制」、「劇場型企業」、「超紛争」、「超民主主義」など、独自のキーワードを駆使しながら、ありったけの想像力を働かせる。これでもかというくらいに、これからの世界のダイナミズムを描いてみせる。

 これには、果たして読者がついていけるかどうかが問題になりそうだ。私は、正直なところ音を上げてしまった。これはサイエンスではなく未来学の分野なのだが、SFという文字が自分の脳裏をよぎった。

 2006年の出版なので、この4年ほどのあいだにアタリ氏の予測がすでにはずれている事例もあるのだが。
 例えば、国家にとらわれない多国籍企業の例として、AIGやシティーグルプをあげているが、両者とも2008年秋のリーマンショックで米国政府に救済されなかったら破綻していた企業である。また、エジプトはEUを脅かすどころか、国内の30年におよぶ強権体制が崩壊し、新たな社会作りに取り組んでいるところだ。

 やはり、将来予測というのはとてつもなくむずかしい。アタリ氏はミッテラン政権で大統領特別補佐官を務め、サルコジ大統領にも助言する存在だが、長期予測どころか、数年内の予測も間違えることがあるのが現実だ。アタリ氏ほどの該博な知識をもってしてもそうである。

 ただ、あながちSF的予想と片づけられない何かを感じさせる部分もあるので、引き続き注目しておいて良い存在だと感じた。

 最後の章は、母国フランスの現状と将来予測だが、ここに書かれた危機感の多くは日本も共有できる内容となっている。むしろ、日本の方があてはまると思われる要素が少なくない。途中で本書に読み飽きたら、フランスの章まで飛んでしまっても構わないとすら感じた。

 歴史の振り返り、未来の予測、フランスの現状認識、と三段階で楽しめる構成になっている。なかなか刺激的でお得な本と見た。

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アカデミズムの世界から吹く、知的な快楽の風

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 古代人の暮らしを正しく把握するのはむずかしい。著者もそれを認めつつ、いくつもの手がかりをもとに、相当大胆に描き出して見せたのが、本書だ。
 平城京ではどういう生活が営まれていたのか、木簡に書かれていることに基づいて想像を膨らませていく。古代史研究といえば『日本書紀』や『続日本紀』、『万葉集』の解読が基本だが、近年、木簡の大量出土が相次いでいる。そこに記されているのは、何でもないことだが、その暮らしぶりを知るヒントになるというわけだ。

 紙で伝えられるものは、正統な出来事である。一方、木簡からは何げないことが伝えられる。たとえば、「支給される食事のおかずがおいしくない」「塩をもっとほしい」といったことが。こうした情報は、当時の生活の断面を教えてくれる。

 著者は、とくに下級官吏に注目して、その生活ぶりを探る。内裏での出来事や騒乱は歴史の教科書にもあるとおり、今日にもけっこう伝わっているが、何げない暮らしはかえって再現がむずかしい。

 夜が明ける前の太鼓の音で、まず目覚め、平城宮に向かう。勤務に向かう役人は1万人ほどだったのではと想像する。また、この太鼓が鳴らされるまでは、夜間は京(みやこ)全体の門が閉じられていて、自由には出入りできなかった。警備官がいて、巡回していたとも。

 こうしてみると、奈良時代の京の人たちの暮らしは、意外に時間に正確である。時間を計る装置も、どこにあったかまでは分からないが、きっとあったはずだと。飛鳥の京では、確かに場所まで突き止められているので、平城京でもそうだったろう。

 下級官吏たちは、5位よりも上に昇進しようと、任官運動にも懸命だったようだ。5位よりも上か下かで、貴族・役人としての地位がかなり違うらしい。まもなく人事が決まる頃と知って、慌てて木簡に昇進の願いを書いて、上司に出したり、付け届けをしたり。なんだか、現代人と大差はない感じだ。
 お酒を求める木簡も楽しい。遠慮がちに、へりくだって、お酒を求めるところもなんだか情景が浮かぶ。

 当時は、テレビもインターネットも、携帯電話もなかったが、感性的な部分では、どうやら現代人と似ていたようだ。

 「馬がいなくなってしまったので、見つけた人は連絡してほしい」という木札が立てられていた。これも、奈良時代の人々を身近に感じさせてくれる。こうした木札はやがて、側溝などに捨てられ、土砂に埋まり、千年以上の時を経て掘り起こされることになる。

 その一方で、地方から京に徴用されてきた「奴婢」が、2度も3度も故郷に逃げ帰り、そのたびに京に繰り返し送られたという箇所には、千年の時を超えて、気の毒になった。容姿端麗な者を京に送れと言われて、選び出された男女はどういう気持ちだったろう。それほど京での下働きは辛かったのか。
 奴婢ではなくても、京に荷物を届けたものの、帰り旅支度のあてがなく、流浪者になったと著者が推定する人たちがいる。やはり気の毒に思わずにいられない。中央政府による徴発は、思った以上に過酷だったようだ。こうした歴史に埋もれた人々の行く末を案じないではいられない。

 木簡は紙による正式な文書と違うので、日常生活のひとこまを教えてくれる。木簡の解読作業は、木簡学会が発足してから精力的に続けられているが、きれいに判読できるものばかりではないので、なかなかたいへんらしい。

 でも、木簡学会によるきちんとした学術的解釈以外に、こうした分かりやすい活用法を披露してもらえるのは、なんでもない歴史ファンにはうれしい限りだ。『木簡から古代がみえる』(木簡学会編・岩波新書)のようなしっかりした書物もいいが、本書のような想像を膨らませた本も、ファン拡大に貢献しそうだ。
 著者は、本書の執筆をする一方、学会員として、この新書の著者としても名を連ねている。こうした硬軟織り交ぜて、楽しませてくれる著者はありがたい。続編に大いに期待したい。

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紙の本邂逅の森

2009/03/20 08:49

マタギの世界を知る人は少ないし、知ろうとする人も少ないかもしれないが、読んで損はない一冊

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 傑作という言葉は安易に使うべきではない。しかし、本書にはためらうことがない。それも、10年に1冊あるかないかの傑作といっていいと思う。

 本書は主に、大正期の東北の伝統的狩猟者であるマタギを主役に展開する小説である。この設定は、読者層を限定してしまいそうであるが、そこに描かれる世界は興味深く、また人間の根源的欲望を扱っているので、多くの人の胸を打つものがあると思われる。

 マタギとは聞いていても、その狩猟の仕方や生きた方を知らない人には、興味津々となりそうだ。マタギを紹介するのが主題ではないが、おおよそ、その暮らしぶりや彼らの掟をつかむことができる。外部者が容易に立ち入ることができない世界であることが分かる。

 筆致は重厚で、物語は厚みがある。かといって読みづらくはなく、この作家の高い技量がうかがえる。これまで読んだことのないジャンルの小説であるが、最後まで興味を引きつけられずにはおれなかった。

 当時の暮らしの楽でないことを思うと現代人の暮らしの快適さが際立つ。大正期から現代を照射してしまう力が本作品にはある。
 旅マタギから、訳あって炭坑夫となり、やがてまたマタギの生活に戻る。狩猟の場面では、体験したわけでも映像を見たわけでもないのに、狩りに参加するものたちの息づかいが聞こえてくるようだ。カモシカ猟、クマ猟の厳しさと醍醐味を教えられた。

 また、男女の恋物語も配置されているが、いろいろな複線があり、運命にあらがえずに別れ、再会するところは、読者に訴えかけてくるものがある。決して、読者に涙を強制するものではないが、自然と登場人物の心境に寄り添うことになる。

 性的描写に関しては、小説に溶け込んでいるので、決して浮いたシーンではない。ただ、女性読者には、個人的には推薦するのを躊躇するくだりはある。しかし、こうした描写も人の生活を活写するのに欠かせないだろう。

 最初は分厚いと感じた本書も、終盤にくるにつれて、劇的な展開を見せ始める。息をのむような波乱の連続である。人と人との強固なつながりと惜別。人と野生動物の激しい闘い。
 読んでいる側でも、精神力と体力を消耗するかのようだ。この筆力は並大抵のものではない。これまで読んでいなかったのが迂闊に思えるほどの出来映えだ。これは小説の域を超えて、芸術作品ととらえてもおかしくはない。

 山本周五郎賞と直木賞を受賞しているが、それにふさわしい力作と感じた。ひとつの小説ながら、幾編もの小説を読んだくらいの収穫があった。絶賛したい。

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飛鳥と山辺の道を2度味わえる良書

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、飛鳥に詳しい第一人者による本である。それだけでも安心感があるが、通読して期待は裏切られなかった。とてもよい本である。
 「図説」とあるように、美しい写真がたくさん添えられている。このような贅沢な本が、1,800円(税別)で入手できるとはありがたいことである。

 写真がたくさん収録されているので、ガイドブック的な使い方をすることができる。しかし、飛鳥や山辺の道の入門者よりは、すでに同地をたずねたことがあり、すでにある程度の理解を持っている人が読んでためになるような本である。感心するような深い考察が随所に見られる。

 日本の歴史について学ぶとき、6世紀に日本に仏教が伝わり、これを蘇我氏や聖徳太子が熱心に信仰したことに目がいく。したがって、ヤマト政権や飛鳥時代をどうしても、寺院の観点から見てしまう。それは間違ってはいないのだが、本書のように、神社に注目して見てみるとまた違った見方ができて、とても有益である。
 三輪山をご神体とする大神神社が、日本最古の神社であることを本書に教えられて同地をたずねると、特別な感慨にひたることができる。

 飛鳥や山辺の道を、まず寺院を中心として訪ねたら、今度は、古社を中心にして訪ねてみよう。そうすれば、楽しみが2倍になるというものだ。
 同地の奥深さには、改めて驚かされるものがある。著者の誠実で、丁寧な学問的考察は、同地に関心を持つものにとって、取り替えのきかない貴重なものと映る。

 本書は、同地に関心を寄せるものには、保存版といってもいいくらいの価値がある。著者には、ますます新たな著書をものにしていってもらいたい。期待大である。

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紙の本京都名庭を歩く

2007/05/12 10:42

著者の推理がさえ渡る京都案内の隠れた決定版

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この新書本は、書店でよくみかける観光ガイドブックよりも、はるかに深く京都の庭園の味わい方を教えてくれる。これは著者自身あとがきにも述べていることなのであるが、全面的に肯定したい。よくある写真中心の観光ガイドブックでは、目的地に行って「ああこれが有名な龍安寺の石庭ね」で終わってしまうだろう。
 しかし、本書に目を通した後ならば、誰がどのような目的で造営し、なぜこういう設計にしたのかなど、一見しただけでは分からない深い情報を持っているので、ほかの観光客とはひと味もふた味も違う見方をできるようになっているはずだ。
 きっと、各庭園での滞在時間もふつうの観光客の数倍に及ぶに違いない。平等院、金閣寺、桂離宮など、著者の示した見方を、細部に至るまでなぞるだけで、あっと言う間に時間が経過するだろう。
 モノクロではあるが、写真も配置されている。しかし、それ以上に、本書の価値を高めているのは、必要な情報だけを盛り込んだ図版を多用することで、名所旧跡やその庭園にこめられた意味がうまく浮かび上がるように工夫されていることだ。写真では全体を写し得なかったり、不必要な情報が多すぎたりするものだ。図版化することで、つかみとりにくいポイントが鮮やかに目に飛び込んでくる。
 そして、本書の真骨頂は、著者による様々な「推理の試み」だろう。各種文献にあたりながらも、著者ならではの目で庭園をながめる。そして、大胆な推理をしてみせて、通説にとらわれない見方を披露する。この推理がすこぶるふるっているのだ。特に、庭園の作者の造営時の心境を推し量る部分では、歴史小説的な味わいも読者に与えてくれる。作られたときの時代状況や当時の人間関係が目に浮かぶ思いがするのは、歴史ファンもうならせるに違いない。
 この著者に感心するのは、こういった細部にいたる描写や複雑な
人間関係を描きながらも、すらすらと読ませてしまう文章のうまさだ。決してむずかしい言葉は用いないし、文体も凝っていない。シンプルな文章だ。なのに読者をグイグイ引きつける文章になっている。こうした著者こそ、本当に文章がうまい人と言うのではないだろうか。このような本を新書で読めるありがたさを感ぜずにはいられない。
 京都観光におでかけの際には、ぜひともあらかじめ本書を読み終えておくことをお勧めしたい。

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あちら側の世界とこちら側の世界をつなぐよき回路

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 読み終えた後、久々に刺激的な本に出会えた喜びを感じた。インターネット元年といわれる90年代半ば以降、我々の生活は、ネットに依存する割合が多くなるばかりである。それは、自分がインターネット上の各種サービスに新たに登録する度にIDとパスワードを設定しなくてはならず、それが日々増えていき、しまいには覚えきれなくなってメモに書き留めたりすることからも分かる。しかし、それは少しずつの変化であって、何か劇的な変化が起きつつあるとまでは思ってはいないのではないだろうか。
 ところが、これから先の10年はweb2.0と呼ばれるテクノロジーによって、これまでのweb1.0の世界とは全く異質な変化が起きるという。ネット業界に身を置いていても、実際にこんな風に説明できる人は少ない。著者は、それができる有能なテクノロジーライターである。そこに、本書が爆発的に売れている理由があると見る。
 本書を読み進むほどに高まるわくわく感。読み終えた後の、これからの世界に対する期待感。こういった感覚を与えてくれる本は、日本の景気が本格的に回復しつつある時代の雰囲気にぴたりと一致している。「閉塞感が漂う時代」という言葉は巷にありふれているが、どうすればその閉塞感をうち破れるのか明示できる人は少なかった。
 本書は、インターネットの「あちら側」の世界と「こちら側」の世界とを対比して見せ、「あちら側」の世界がweb2.0というテクノロジーによって、これまでできなかったことを次々に可能にしていくことを鮮やかに描き出している。これによって読者の抱える閉塞感を解消してくれるのである。
 例えば「ロングテール現象」。書籍を売り上げ順位ごとに並べてみると、上位に位置する飛び抜けて多い部数を誇る書籍が高い山を築き、わずかな売り上げに過ぎないその他多くの書籍が広いすそ野を描く。これをロングテールという恐竜のしっぽに例えるわけであるが、これまでであれば陽の当たる場所に出ることのなかったその他多くの本の中から、web2.0の世界においては、上位本との類似性から陽の当たる場所に連れ出され、埋もれていた良書が脚光を浴びる可能性を高める。これは、価値の転倒をもたらすものであり、負け組が一気に勝ち組に転化することを意味する。これが、よき意味でのルール破壊者としてのweb2.0テクノロジーである。
 古くからの構造である閉塞感漂う「こちら側」の世界に対し、ネットの「あちら側」の世界がいかに新しい可能性をもたらしてくれるかを実にオプチミスティック(楽観主義的)に記述している。しかし、いかに進化しようとも、常に「あちら側」の世界に生き続ける訳にはいかない以上、「こちら側」の世界とを上手く橋渡ししてもらう必要性がある。本書には、それが実によくできている。ネット上での言論にとどまらず、こちら側の世界の産物の典型である「新書」という形態によって、より多くの人の目に触れるようにしたのが、そのよい証明である。その意味で、本書とその著者は「あちら側」の世界と「こちら側」の世界をつなぐよき回路となっている。むろん、一点の曇りもないとまでは言わないが、希望の明かりを我々に灯してくれる良書と言って間違いないであろう。

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紙の本煩悩リセット稽古帖

2011/10/27 22:06

心を解放し、楽に生きるための知恵が満載

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 最近、近所の書店で、この著者の本が何冊も平積みされているのを見た。ちょっとした小池ブックフェアみたいな感じだ。

 そんなに人気があるのかと、試しに一冊手に取ってみた。とりわけ易しそうな本を。それが本書である。項目ごとに四コママンガがあり、分かりやすい文章が続く。

 いや、驚いたこと。見かけは平易だが、内容は極めて深いのである。俗世を生き抜いていくための知恵がたくさん書かれている。それはそう、お釈迦様の言葉を考え抜いた著者が、現代人の文脈で語ってくれているからだ。

 つまらないことで迷ったり、腹を立てたり、悩んだりしているのが、小池流お釈迦様の説法で解決されていく。実際の解決は読者に委ねられているが、どうして迷ったり、怒りがこみ上げてくるのか、心の働きを教えてくれるのだ。
 こうも人の気持ちの動きを的確に解説しているのも、ありそうでない。通常の仏教の教えはむずかしすぎたり、遠回しだったりするのだ。

 著者の小池さんは東大卒のお坊さんだが、よほど頭脳明晰なのだろう。むずかしいことを易しく言えるのが本当に頭がいい人の証拠だ、というよい例がここにはある。四コママンガも、けっこう気が利いている。

 そういえば、最近、朝日新聞でもコラムを書いているのに気づいた。。「小池龍之介の心を保つお稽古」という夕刊の連載だ。イラストだって描けるから多才だ。

 一人でいると、とかくつまらないことに思いをめぐらしてしまって疲れるー、という方には、そんな習慣をやめるためのコツが満載の本になっている。
 ぐるぐると思考が空回りしてしまうのも、そのメカニズムを知れば、その悪癖からさよならできる。禅によって、心を静めるのがいかに大切か、その仕組みから教えてくれるので、はたとヒザを叩くほど合点がいく。

 いや、当たり前のことばかりが書いてあるのだが、実は類例がなく、独創的で、かつ面白くてためになるという何重もの楽しみがある。

 「怒りの業の協奏曲」、「誤爆イラッコ」、「脳内引きこもり」など、各項目のタイトルもユニークで、けっこう核心を突いている。

 本書は手元に置いておいて、折にふれて読み直すのがよさそうだ。読んだときは納得しても、しばらくしたら忘れてしまうのが人間だから。

 著者はほかにもたくさん本を出している。言っていることは一貫しているのだろうが、ひさびさに同じ人の本を次々に読んでみたいと思わせる著者が現れた。

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紙の本乙女の密告

2010/08/19 22:02

楽しく読めるが、本書に織り込まれている現実は軽くはない

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 最近の作家には、森見登見彦や万城目学といった空想力に羽をつけて飛ばしたような作家の活躍が目につく。私も愛読してきた方だ。少し飽きてきたかなと思ったら、なかなかどうして、本書のような作品がさらにこのジャンルの可能性を広げているのが分かった。

 芥川賞を受賞したのもうなずける。かなりよく設計された作品だ。アンネ・フランクの日記世界と、京都にある外語大の女子大学生たちの世界を巧みにオーバーラップさせている。60年以上の時を超えて、強引に結びつけてしまった手腕には唸らせるものがある。

 もちろん、アンネ・フランクの生きた過酷な現実は重い。これをファンタジックに、大学生のドイツ語ゼミの話題へとつなげるのは、必ずしも支持されないかもしれない。
 ただ、これも小説の持つ豊かな可能性のひとつと捉えてみたい。アンネ・フランクの名前は知っていても、実は、『アンネの日記』を読んだことがないという人もいるだろう。強制収容所に送られた少女の生涯に目を向けさせるきっかけになりうると見た。

 世間常識をはずれたドイツ語教師のおもしろさ。その行動を巧みにストーリー展開に活かす高度な筆力。小説を書く前に、設計図でも引いてから書き始めたのではないかと思えるほどうまい。
 
 女子大学生を「乙女」と呼ぶ人は、今はあまりいないだろうが、乙女の定義がないので、ありうべしと思わせる。いや、あってほしいとさえ思えてくる。噂に流される乙女の群。コミカルな描写に、現実が上手にすかし落とされている。

 密告される乙女の姿と、アンネ・フランクの潜伏が密告される緊迫感。微妙にからみあいながら、軽やかさと重たさの両方を読者は受け取り、読みこなさなくてはならない。

 本文中に出てくるドイツ語を自ら翻訳するなど、著者は楽な道を選んでいるわけではない。その覚悟が今後への期待感を高めている。

 「今、わたしが一番望むことは、戦争が終わったらオランダ人になることです!」というアンネ・フランクの言葉をどう受け止めるべきなのか。あの戦争の記憶から遠ざかった私たちは、赤染の作品を通してでも考えていかなくてはいけない。
 
 小説もまだまだ捨てたものではない。再認識させられた。こうした小説は真似できそうで、実際ははできない、よい例がここにはある。  

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紙の本激流中国

2010/02/27 15:07

激流に身を委ねる中国の人たちのありのままの姿を知るのに最適

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 これまでいろいろな中国関係の本を読んできたが、本書は現時点でのベストと言っていいかもしれない。中国で何度もロケをして番組を作り、それを書籍にした本書は、「等身大の中国」を描き出すのに成功している。

 『激流中国』というNHKのドキュメンタリー番組は2007年から2008年にかけて13回にわたって放送された。残念ながら、一部しか見ていないが、本書を通して、いずれも力作の番組であったことが分かる。
 何しろ報道の自由がないとか、人権が保障されていないとか言われることの多い中国を訪れ、中国の人物にカメラの焦点をじっくり据えて、記録していったのだから。

 本書には、多くの中国の人たちが実名で登場する。よく本人や当局の許可を得たものだと思う。これは2008年夏の北京五輪を控えて、取材許可を緩和したことが幸いしている。実にタイミング良く、取材活動を展開したものである。

 政府の言うことにはあらがえないと思われがちな中国でも、確実に自分たちの権利を自分たちで守り、主張し、闘い、勝ち取ろうとする動きがあることが理解できた。なんだかほっとした。

 社会的な問題を取り上げる雑誌社の記者たちの熱いジャーナリズム精神と、当局を刺激しすぎて雑誌が休刊にならないために現実主義に立脚しようする社長のせめぎあいは、なかなか捨てたものではない。このあたりは、ジャーナリズムとは何なのかを深く考えさせるものがあった。

 本書のあとがきにもあるとおり、中国とはいっても、地域により、問題の性質により、当事者の性格により、実に多様である。その多層的な構造は、先進国よりもよほど複雑であり、簡単な理解を許さないものがある。
 日本側の制作者、中国側のコーディネーターの苦労は通常の番組作りの何倍にもなったという。放送そのものは見ていなくても、本書を読むだけで、それは相当な臨場感を持って伝わってきた。

 筆者は、この13話をもって、中国のすべてを捉え得たわけではないことを率直に述べる。たしかにそうだろう。
 しかし、NHKのディレクターたちが、中国の実際をここまで主観を排して、ありのまま捉えて、提示してみせた功績は非常に大きい。放送後に日本人からも中国人からも凄まじい反響が寄せられたとあるが、それももっともだと思われる。人の心を揺さぶるだけの内容がここにはある。

 最終的に浮かび上がるのは、中国人もまた、国家の成員という以前に一人の人間という当たり前の事実だ。一人の人間として、目の前の出来事に苦悩し、これを打破しようと奮闘し、あるいはどうにもならない現実を知って立ちつくす姿がある。この場合、日本人も中国人もないのである。

 「いずれにせよ、中国のドキュメンタリーに携わってきて思うことは、画面に登場する中国人の言動を、国家単位でその思惑推し量るステレオタイプからは脱した方がいいのではないか、ということだ」(p.291)

 読者の中国に対するステレオタイプを打ち壊してあまりあるものが、たしかに本書には詰まっている。

 以下、13話のタイトル。どれも甲乙つけがたい興味深い話題ばかりだ。ただし、放送順と本書の章順は異なっている。

 1.富人と農民工(2007年4月1日放送)
 2.病人大行列(2008年6月15日放送)
 3.上海から先生がやってきた(2008年3月2日放送)
 4.チベット 聖地に富を求めて(2007年10月7日放送)
 5.民が官を訴える(2007年9月9日放送)
 6.北京 怒れるニュータウン(2008年4月6日放送)
 7.ある雑誌編集部 60日の攻防(2007年4月2日放送)
 8.五年一組 小皇帝の涙(2008年1月6日放送)
 9.青島 老人ホーム物語(2007年5月6日放送)
 10.北京の水を確保せよ(2007年6月10日放送)
 11.告発せよ 摘発せよ(2008年7月13日放送)
 12.訴えられたカリスマ経営者(2007年12月9日放送)
 13.密着 共産党地方幹部(2007年11月4日放送)

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紙の本国家と外交

2006/11/05 12:18

日本外交の現実を知るのに最適の本

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 田中均氏は本書において、実に雄弁である。マスコミの伝える印象からは、寡黙な人というイメージがあるが、自分の関わってきた外交の現実を伝えるべく、外務省を退官後に息せき切ったようにしゃべっている。公務員には生涯守秘義務がついて回るものだが、自分自身や外務官僚にまとわりついた誤解を払拭すべく、可能な範囲で語りに語っている。
 職務に忠実に働いたにも関わらず、自分に着せられた「売国奴」という濡れ衣に、それほど我慢ならなかったのであろう。対談の相手が田原総一郎氏というのも幸いしている。ただし、田原氏は、テレビ番組で見せるような舌鋒鋭く相手に切れ込んでいく必要はほとんどなかった。それほど、田中氏の方から、どんどんしゃべっていく。
 外交は、社交とは違う。少なくとも田中氏が責任者として、ことにあたった北朝鮮外交についてはそうである。水面下でのぎりぎりの厳しいやりとりが神経をすり減らすものであったのが、率直に語られる。小泉首相(当時)の電撃的な訪朝を実現させ、何人もの拉致被害者の一部を取り戻すことに成功したのは、この人の功績である。
 拉致問題のみこだわっていては交渉は進展せず、朝鮮半島の安定という大きな地図を描きながら、その実現のために拉致を認めさせ、謝罪させることが、北朝鮮にとってもメリットのあることだと認識させることは、大仕事であった。感情に走らず、常に現実を見据えながら、目の前の出来事を一つひとつ丁寧に処理していく外交という仕事の重さに、読者として感じ入った。
 田中氏の多用する言葉に「大きな地図」というものがある。個々の問題を包み込む大きな絵を常に描きながら、利害が対立する関係者の了解を取り付けていく手法は、自分というものを捨てて大事にあたる人の姿だと言えよう。「省益あって、国益なし」とは日本の官僚制度の欠点を突く決まり文句だが、田中氏のようなすぐれた官僚も、一方では存在することにほっとさせされた。本来、国家公務員とは、こうあるべきだろう。
 ただし、田中氏は目の前の案件を処理していく実務能力はとても高いのだが、「大きな地図」よりもさらにもっと大きなビジョンを必要とする「この国のゆくえ」については、口数が少なくなり、抽象的になる。しかし、これは田中氏の能力の問題ではないだろう。日本がアメリカの庇護下で成長し、90年代に入るまで、「この国のゆくえ」について考えずに済んできた日本の現実を、読者は知ることになる。
 つまり、日本の外交が、社交以上のものになったのはほんの15年程度のことであったのだ。そして、いまだに、この国のゆくえについて、国民的合意が生まれてはいない。「さあ、これから」という時に退官されてしまった田中氏であるが、官僚組織の外から、ぜひ大きな地図以上のビジョンを提唱し、日本という国が自主外交を展開して、経済的側面以外でも世界から尊敬される国となるよう、活躍していただきたいと思う。

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