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  3. つなさんのレビュー一覧

つなさんのレビュー一覧

投稿者:つな

38 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本赤目のジャック

2006/01/26 09:53

パンドラの箱

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これは、「ジャックリーの乱」を題材とした物語。「ジャックリーの乱」とは、「1358年に百年戦争中のフランスで起こった大規模な農民反乱」であり、「叛乱の名前は当時の農民の蔑称ジャック(Jacques)に由来するとされるが、当時の年代記作者によって、当初、指導者名がジャック・ボノムと誤って伝えられたことに由来するという異説もある」そうだ(wikipediaより引用)。佐藤賢一氏による、本作「赤目のジャック」は、この「ジャックリーの乱」に『「ジャック」が本当にいたとすれば、一体どんな男だったのだろう』(あとがきより引用)と想像して書かれた本。惨たらしい描写の数々がなされ、人間の暗部がこれでもか、と描かれる。蓋が外された時、そこには何が立ち現れるのか。
北フランスの寒村、ベルヌ村に住む、十八歳のフレデリは絶望していた。彼が生まれ育った村は、傭兵たちにすっかり蹂躙されていた。フレデリが頼ったのは、村にいつからか住み着いた、乞食坊主「赤目のジャック」。ジャックの色素が薄く、時に赤く光る目は、村人たちに「魔眼」として恐れられていたが、その闇の知恵ともいうべき世渡りの術は、村人たちに一定の信頼を得ていた。ジャックは言う。この惨状は誰によってもたらされたものか? それはひとり直接手を下した傭兵たちによるものではない。村人たちは貧しい中から、領主たる貴族に年貢を納め、賦役をこなしていた。それは本来、「守って貰う」代償としてのもの。「守って」くれない貴族に存在意義はあるのか? 戦に負け、傭兵たちを招きいれたフランスの貴族、騎士たち、彼らは一体何ほどのものなのか。
ジャックの魔眼が光り、杖に付けられた、帆立の貝殻が鳴る時、善良であった村人たちの良心は凍る。ジャックは村人たちに刷り込まれた、貴族に対する畏怖の念を破壊する。農民たちの人数は膨れ上がりながら、「世直しの十字軍」を名乗り、貴族を嬲り殺し、奥方、娘を犯し、およそ人が考えうる限りの残虐行為と略奪を繰り返す。より酷いことをしたものが、より高い地位につく。
フレデリがジャックの他に、もう一人神としたのは、赤毛の貴族の女、ブリジット・ドゥ・ベラトゥール。彼女は過去ジャックとも因縁のあった、冷血の爬虫類にも似る美しい女。彼女に弄ばれたフレデリは、正しい農夫としての人生を否定されたと感じ、貴族の女に対する憎悪の念を深める。
フレデリはジャックを破壊の神と崇め、自分を壊したブリジットを、屈服させるべき偶像、女神として、突き進む。
農民による蜂起は各地に広まったけれど、勿論貴族たちがそのまま手をこまねいているはずもない。これといって策もない農民たちの乱は鎮圧される。偶然にも鎮圧を逃れたフレデリであるが、心優しい旅芸人のジェローム、貴族の娘、金髪のマリーを捨ててまでも、「赤」目のジャックの謎、「赤」毛のブリジットの謎、二つの謎を解くために、再び渦中へと舞い戻る。そこで彼が見た真実とは。
プロローグとエピローグでは、二十年後のフィレンチェにおけるフレデリの姿が描かれる。「赤目」は何度でも現れ、暴徒と化した労働者の群れが、今度は花の都フィレンチェを駆け抜ける。「赤目」はしかし、その威力を信ずる人があってのもの。一番恐ろしいのは、それを信じて疑わないフレデリではないか、と感じた。むしろエピローグがない方が、「希望」を感じたように思う。繰り返される破壊、信仰が、人間の真実なのか。
佐藤賢一氏の入門としてはお勧めしない本であり、既に氏のファンであり、氏の色々な著作を読みたい人向けの本。このテーマ、この話を読み切らせる力量は流石と思うが、他の作品で見られるような爽快感は、ここでは全く見られない。

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紙の本O嬢の物語

2006/03/28 21:21

隷属させられるが故の自由、穢されるが故の美しさ、そして複雑な愛というもの

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ごく普通の若い恋人同士であったOとルネ。ある日、Oはルネに連れ出され、ロワッシーの館へと送り込まれる。裸に剥かれたOは、体の各所に化粧を施され、首輪と腕輪により拘束される。館には妖しげな男たちと彼女と同じような女たちが住まい、女たちの体は昼夜を問わず開かれている。この館では女は物でしかなく、沈黙を強要され、縛られ、鞭打たれる。また、通常使われる部分だけではなく、肛門までをも、ルネだけではなく見知らぬ男性にまで犯される。
 これらの事、全てはOにとって屈辱的なことなのか? 必ずしもそうではない。Oはそれほどまでにルネが自分を愛し、ルネが自分を完全に支配していることに、共に酔う。
 ロワッシーでの時が終る。事情を知る者共通の奴隷であるという印の指輪を携え、街に戻ってきたOは、既に以前の彼女ではない。一部をのぞいて、普通の生活に戻った彼女に、ルネは兄とも慕うステファン卿を紹介する。しかし、これはただの紹介ではない。敬愛するステファン卿と、Oを共有したいというのだ。灰色の髪をしたイギリス人、ステファン卿は、こうしてOの主人となる。ステファン卿は、ルネのようにOを鞭打つ事も出来ない軟弱な主人ではない。Oはルネではなく、ステファン卿を愛するようになる。
 ステファン卿もまたOを愛す。愛するが故に、ステファン卿はアンヌ・マリーの協力を得て、Oに彼個人の奴隷であることを示す刻印を施す。それは下腹部から絶えず重たくぶら下がる鉄環と、尻に施された二度と消す事の出来ない刻印。裸にふくろうの仮面をつけ、エジプトの彫像のような姿となったOは、鉄環に付けられた鎖でもって、パーティーへと引かれていく。ここにOの奴隷としての姿は完成を見る。
 ちょっと意外だったのが、Oがとても進歩的な女性だったこと。彼女はモードの世界でカメラを操り、学生時代から男性だけでなく、女性とも奔放な関係を持っていた女性であった。そんな彼女だからこそ、この一連の殆ど屈辱的とも思える出来事も、彼女にとっては単なる屈辱ではなく、かえって、ルネやステファン卿と共に、客観的に「O」という一つの芸術品、美術品を作っているようでもある。であるからして、人によっては恐怖や軽蔑の念しか引き出せない彼女の姿も、彼女にとっては非常に誇らしく、晴れがましいものである。異様な場所に付けられた鉄環も、焼印を押された尻も、蚯蚓腫れが走る腹も、彼女にとってはこの上なく美しいもの。
 痛い話、こういった話を汚らわしいと思う人にオススメはしないけれど、これもまた一つの愛の形なのかもしれない。見知らぬ世界に酔う一冊。

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紙の本空中庭園

2006/03/06 20:17

砂上の楼閣

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 京橋家のモットーは秘密を作らないこと。全ては「ダンチ」のリビングの、蛍光灯のもとに晒される定め。姉のマナの初潮だって勿論そう(初潮晩餐会が催される!)、弟、コウの性の目覚めもそう。
 わざわざ「秘密を作らないこと」をモットーに掲げるだけに、実は京橋家には沢山の秘密が存在する。一番の秘密は、このモットーを作った母、絵里子がひた隠しにしていること。絵里子は、夫、タカシには避妊の失敗により結婚したと思わせ、またマナたち子供には、ヤンキーだったから早くに結婚したのだ、と説明していたが、実はそれは両方とも真っ赤な嘘。自らの家庭に絶望していた絵里子は、早く自分の家庭を作り、育った家庭を捨てるために、虎視眈々とその機会を狙っていたのだ。彼女のバイト先に現れた、平凡な大学生タカシは、絶好のカモだったというわけ。これはそんな京橋家を巡る人々が語る物語。
 「ラブリー・ホーム」は娘のマナが、「チョロQ」は父タカシが、「空中庭園」は母絵里子が、「キルト」は絵里子の母が、「鍵つきドア」はタカシの浮気相手ミーナが、「光の、闇の」は息子コウがそれぞれ語っている。
 母、絵里子には「こうあるべき」という家庭の理想の姿があった。子供たちを真っ暗な家に帰らせたくはないし、ベランダに設けた庭園には、いつも花が咲いているべき。ところが、毎年花を咲かせるはずの植物すら、この「空中庭園」には根付かない。必死に明るい花を咲かせる絵里子であるが、その背中は他の家族から見ると、鬼気迫るもの。
 絵里子は自分の生涯のある部分までを、なかったことにしたいと思って生きている。母にされた事の逆をすれば、良い子育てが出来ると信じている。絵里子の歴史の曖昧さを意識するからか、娘のマナも「自分が仕込まれた場所」を聞くし(それはなんと近所のラブホテル「野猿」!)、夫タカシもいつまでもフラフラしたまま実家の仕送りを受け続け、息子コウは同じ間取りでも全く違う顔を見せる家庭や建築に異常なまでの興味を示す。ここに出てくる大人は、タカシの浮気相手ミーナを含め、人生のある時点での過ちを、なかったことにしたいと思って生きている。しかしそれは正しいことなのか?
 キルトで語られる絵里子の母の話を読めば、絵里子が信じ込んでいたほど、彼女の育った家庭が酷くはないことが分かる。絵里子の母は不器用だっただけ。懸命に生きていたが、それが娘の絵里子には全く伝わっていなかった。後半で、絵里子の母が倒れ、母の言葉から、また絵里子の兄の言葉から、これまで絵里子が信じていた母の像が毀れる。絵里子は、京橋家はここから、空中の、砂上の楼閣ではなく、しっかりと地に根付いた家庭を作ることが出来るのだろうか。ここで、読者もまた空中に放り出される。絵里子の母の苦労、気持ちが、絵里子に伝わるといいな、と思う。「家族」について、考えさせられる本だった。

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紙の本禁じられた楽園

2005/10/24 11:52

怖い怖い怖い怖い

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

季節は凶暴な夏。
噎せ返るような緑の中、和歌山の山中深くに作られた、『神の庭』に招かれた捷と律子。『神の庭』は、世界的アーティストである烏山彩城が作った、場所や空間全体を作品として体験させる芸術(インスタレーション)であり、一大テーマパークでもある。
しかし、そこは誰もが入ることが出来る場所ではない。彼らをそこに呼び寄せたのは、何の意志なのか? なぜ、ごく一部を除いて、平凡な人間である彼らが、烏山彩城の甥であり、やはり世界的アーティストである、烏山響一から『神の庭』への招待を受けたのか?
烏山響一と、捷と律子との関係は、知人ではあるが、親しい友人ではない。
ほぼ同時期に、『神の庭』プロジェクトに関わった、大手広告代理店勤務の淳が失踪する。彼の婚約者である夏海、大学時代の友人和繁も、淳を追う
うちに『神の庭』に足を踏み入れる。
彼らがそこで見たものとは?
全編に散りばめられた負のイメージや引力、圧倒的なインスタレーションのイメージが、とてもとても怖い小説。憎悪、悪意、暗く隠しておきたい部分。
ラストはそれまでの緊張感に比べると少しあっけない。そこは惜しい点ではあるのだけれど、怖い、不思議な感覚は途中までで十分味わうことが出来る。この本の中のインスタレーションは、絶対自分では体験したくない。自分の中からは、どんな暗い記憶が呼び覚まされるのか?
恩田氏は、どこからこんな怖いイメージを生み出すのか、とても怖く、不気味でもある小説。

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紙の本心臓を貫かれて

2006/04/29 18:31

家族とは何か

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 何とも刺激的な「心臓を貫かれて」というタイトルに、心臓を描いた表紙。ここでいう、「心臓を貫かれて」とは比喩表現ではない。実際に、著者マイケル・ギルモアの兄、ゲイリー・ギルモアは「心臓を貫かれて」死んだのだ。
 モルモン教においては、かつて「血の贖い」と呼ばれる一つの教義があったのだという(ただし、近年に至っては、モルモン教会はこのような解釈を否定している)。
”もし人が命を奪ったなら、その人の血は流されなくてはならない。絞首刑や投獄は、罰としても償いとしても十分ではない。死の方法は、神への謝罪として、地面に血をこぼすものでなくてはならない”(P43より引用)
 著者の兄、ゲイリー・ギルモアは、二人のモルモン教徒の青年を殺害し、死刑宣告を受けた。おりしも、時代は死刑制度を復活させたばかりであり、更に犯罪の舞台となったユタ州は、死刑復活の法案をいち早く通過させた最初の州のひとつだった。
 ゲイリー・ギルモアは現代アメリカにおいて、時代を代表する犯罪者の一人であり、彼の生涯はベストセラー小説の題材となり、テレビ映画にもなったのだという。この現代において、人を二人殺したからといって、(それは勿論大変な事ではあるけれど)稀代の犯罪者となるわけではない。ゲイリーが有名になったのは、罪科の故ではなく、自らの処罰決定に彼自身が深く関わったから。
 ゲイリーは死刑判決に対して上告する権利を放棄し、刑の執行を望み、望みどおりに銃殺されたのだ。日本で言えば、池田小児童殺傷事件の宅間守を思い出す。彼らの望みどおりという意味で、「死刑」は既に罰ではなく、合法的な自殺であったとも言える。
 さて、本書はこのゲイリーの実弟マイケルが著したものであり、なぜゲイリーが殺人を犯し、銃殺刑を望むに至ったのか、彼らの両親の育った環境まで遡って、丁寧に辿られる。年の離れた兄弟であったゲイリーとマイケルは、その生活環境や少年時代の家庭環境においてもかなり大きな隔たりがあり、マイケルはこの本を書くことによって、家族を取り戻したのだとも言える。たとえそれが、おぞましく暗い家族であったとしても。
 そんなわけでこの本には、死刑制度の問題や家族の問題、虐待の問題、家族における秘密の問題、宗教の問題など、どれをとっても重いテーマが含まれている。
 人は怪物になることが出来るし、怪物を作り出す事も出来る。しかもそれが、本来守られるべき、憩うべき場所である家庭で起こることもしばしばあるのだ。「怪物」といっても、それはわたしたちとかけ離れた存在ではない。
”でも残りの僕らは、最終ページのまだその先まで、人生を生きていかなくてはならない。その人生の中では、死者達の残した波が収まることは、絶えてないのだ”(P547より引用)
 わたしたちの人生は死のその瞬間まで続く。本書を読んだ事で、自分の中にも一つの波が出来たように思う。

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紙の本対岸の彼女

2006/01/26 09:40

大人になるのは何のため?

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私たちは何のために年を重ねたのか。何のために大人になったのか。
 大人になったら、子供の頃の悩みは全て払拭され、新しい自分、新しい周囲に恵まれるのだろうか。決してそうではない事を、大人は知っている。子供の頃悩まされたような人は、ある程度の集団になればどこにでもいるものだし、集団であればそこには派閥も勿論存在する。この本の小夜子のように、内気な自分に悩んだ子供時代を、自分の子供に重ねてしまったりもする。
 どこの集団にも馴染むことが出来ず、娘のあかりにもなかなか「お友だち」が出来ない小夜子は、公園ジプシーとなって日々を過ごしていた。この閉塞した状況を抜け出すため、彼女は外の世界に職を求める。自分が外で働き、あかりを保育園に預ける事が出来れば、あかりにも友だちが出来るのではないか?尖った声であかりを叱り付ける事もなくなるのではないか?
 私たちは何のために大人になったのか。
 物語は二つの時間軸で進む。その一つは、小夜子と、彼女が勤めることになった、「プラチナ・プラネット」の女社長・葵の上を流れる時間。もう一つは、葵の高校時代、葵とナナコの上を流れる時間。
 理解のない夫、姑に囲まれた小夜子、横浜の中学校でいじめに遭い、群馬の田舎町の女子高生となった葵。両者に共通するのは、どこにも行くことが出来ないという閉塞感。それでも、小夜子は大人であり、高校時代の葵は当然子供である。
 私たちは何のために大人になったのか。
 専業主婦となり家に入る前は、映画配給会社で所謂「クリエイティブ系」の仕事をしていた、小夜子の今度の仕事は肉体労働の清掃業。いじめに遭ったせいで、どことなく警戒心が抜けない葵の心にするりと入り込んできたのは、天真爛漫に見えるナナコ。さあ、二人は外へと脱出することが出来るのか。
 何を言われても、こんな所に自分の大事なものはないのだから。嫌なら関わらなければいいのだから、という高校時代のナナコの言葉も真実だろう。子供時代の防御壁としては特に。けれども、騙されても信じる事を選び取ることもまた真実であり、迷惑を掛けてはいけない、文句を言われないようにと、一人で背負い込む事をせずに、人と関わっていく生き方もある。年を重ねるのは、人と関わり合う事が煩わしくなった時、都合よく生活に逃げこむためではないはずなのだ。
 大人になるという事は、年を重ね、それぞれ違う場所に立つという事でもある。しかし、違う環境、立場にいる人であっても、全く別のルートから同じように苦労しながら、同じ一つの丘を登ってきたのかもしれない。違う場所にいても、違うものを見ていても、それは「変わって」しまう事と同義ではない。そして、大人になった私達には、足がある。選んだ場所に行くことの出来る足がある。

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紙の本雪のひとひら 新装版

2005/12/06 12:08

ひらひらひらり

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 雲の中から生まれた「雪のひとひら」の一生が、美しい筆致で描かれる。
 彼女はある寒い冬の日に、地上を遠く離れた空の高みで生まれ、一つとして同じものがない美しい雪の結晶として地上に降り、形を変えながらその一生を過ごした。雪だるまの鼻になったり、日の光が届かない積雪の一部となって暗い冬を耐え、溶けて流れる水滴になって流れるままに旅を続け・・・。
 旅の中で、陽気で快活な美しい梨型の「雨のしずく」と出会い、親愛を深め、彼を伴侶とし、四人の子供にも恵まれる。旅は湖をたゆたう様な安楽なものばかりではなく、彼女たち「水」にとって最悪の敵である、「火」に一家で戦いを挑んだりもする。出会いがあれば別れもあり、「雨のしずく」との死別の後に、更に子供たちとの別離も待っている。そして最後に、彼女はこの世の全てとお別れをし、またはるか高みへと還って行く。
 旅の全てを通して、彼女は自分を形造り、かくも美しい世界を見せてくれた、「そのひと」への感謝を忘れない。また、その人生における意味、意義が分からない時には「そのひと」に向かって、なぜ?と問いかける。そういう意味で、この本はファンタジーという形式を取ってはいるのだけれど、信仰を持つ一人の女性の一生として、見ることが出来るのだろう。
 ある意味、非常に「女性らしい」生き方でもあるわけで、もう少し自分が若い頃だったら、反発を感じたのかもしれないけれど、純粋で無垢な魂がひたすら美しいなぁ、と感じた本だった。

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紙の本きよしこ

2005/11/11 14:41

伝えるということ

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 主人公は吃音の少年。カ行とタ行、濁音で始まる言葉は、殆どの場合どもってしまい、上手く発音することが出来ない。「カ行」で始まる友達になれそうな少年の名前も呼べないし、授業で答えが分かっても手を挙げられない。面白いことを思いついても、言葉に出すことが出来ない。呑み込んだ言葉や思いを、常にその身に抱えて生きる。
 そんな彼の名前は、何の因果か、彼が必ずどもってしまうカ行の「きよし」。父親の仕事の都合で、転校続き、苦手な自己紹介を繰り返す少年時代を過ごす。これは「きよし」少年が、その少年時代に出会った人たち、出来事を綴った物語。
 「きよし」少年は、重松清氏自身の分身。これは重松氏が個人的に手紙を貰った、同じように「うまくしゃべれない子ども」である、「君」に向けた「個人的なお話」でもある。
 どもってしまうという形でなくとも、子どもの頃は、今思えば大した事でもないような理由、理屈で、伝えられないことが沢山あった。そんな誰の胸にもあるだろう、子ども時代を思い出す、断片のような物語。
 大人になっても伝えることは得意にはならなかったし、時に頓珍漢なことを言ってしまったりもするけれど、「きよしこ」の言葉のように、「それがほんとうに伝えたいことだったら・・・・・・伝わるよ、きっと」だといいな、とほんのり思う。

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紙の本グロテスク

2005/11/01 12:54

評価の基準

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

高校の同級生だった「わたし」と和恵。「わたし」の妹で、怪物的な美貌をもつユリコ。高校時代、「エリート達」に認められようと必死だった和恵。ユリコはその美貌だけをもって、「エリート」に認定される。時が過ぎ、和恵は一流企業に勤務しながらも、女としての評価を得るために、夜毎街に立ち春を鬻ぐ。同じく街娼となったユリコ。和恵とユリコは娼婦として殺害される。なぜ二人は娼婦となり、殺害されたのか。「わたし」が語っていく。
人間の嫌な部分が沢山描かれる怖い本。従順、協調性、優しさ等が、他者から見た際に重視される女性の世界。さらに容姿や学歴など、シビアでいながら、明文化されていない基準は沢山ある。小中学生であっても、区別の基準は数多あって、女の子のグループは形成されていく。
唯一自己から離れた冷徹な目を持った、ユリコは醜くなり殺されてしまう。
この本を怖いと感じた理由の一つは、落ちていく和恵の気持ちに分かる部分があったから。評価から逃れ、足ることを知るのは、大変に難しいことだけれど、結局、人の決めた相対的な土俵の上で戦っている限り、人は幸せにはなれない。

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紙の本しゃばけ

2005/12/16 10:08

妖(あやかし)

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 江戸十組の株を持つ、廻船問屋の大店である、長崎屋の一人息子、一太郎には、身体が弱く、両親に溺愛されているという他に、ちょっと人とは違う所があった。
 それは、妖(あやかし)の者達が見えるということ。五つのときから、祖父につけられて一緒にいる、佐助、仁吉も、実は犬神と、白沢(はくたく)という妖の者。
 一太郎は極端に身体が弱く、何度も死にかけた身なものだから、「薬種問屋・長崎屋」を任され、「若だんな」と呼ばれるようになっても、いつも周りの者に気遣われてばかり。そもそも、長崎屋が「薬種問屋」を始めたのも、身体の弱い彼のために薬種を方々から集めている間に、商いが大きくなって一本立ちさせたという経緯がある。齢十七では真実店を切り回せるわけもなく、一太郎はほんの形だけの「若だんな」である。そんな自分を不甲斐なく思うのだけれど、人一倍弱い身体はやはり如何ともし難いもの。
 冒頭は、そんな一太郎が独り夜歩きをする場面。彼が供の者も連れず、夜歩きするのは初めてのこと。また、よりにもよってこの夜歩きの際に、人殺しと行き会ってしまう。付喪神・鈴彦姫のお陰でこの危機を何とか逃れ、無事に店へと帰りつくが、一太郎にはこの夜歩きの理由を、周囲の人間に語ることの出来ない理由があった。この理由については徐々に明かされるのだけれど、これは自分の弱い身体、周囲への気兼ねとも無縁ではない。この後、一太郎が行き会った事件を皮切りとし、江戸の町には人殺しが相次ぐ。
 少々軽いかなぁと思う場面もあれど、愛らしい子鬼の鳴家(やなり)、少々色っぽい屏風のぞきなどが、とても魅力的。この「しゃばけ」は、第13回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞したとのことで、江戸捕り物帖を期待する人にお勧めすることは出来ないけれど、江戸ものファンタジーとして、好感を持つ。
 一太郎の幼馴染、表長屋の菓子屋の跡継ぎ、栄吉との会話もいい。十七ともなれば、自分の置かれている立場をきちんと把握しているもの。どうにもお菓子作りが上手くならない、一人息子の栄吉の立場も辛いのだけれど、「現し世はきびしい」し、「世の中、願ってもどうにもかなわない事はあるもんだ」。
 とはいえそんな中、一太郎も敵と対峙することで一回り成長し、御付の二人の妖からも、大人扱いされるようになるし、栄吉もまた自分のペースで成長する。
 菓子屋の命である、美味しい餡を作ることが出来るようになるのは、今しばらくの時が必要になるかもしれないけれど・・。

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紙の本カノン

2005/11/28 16:48

絶対の美、至高の音楽、選ばれし者

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 主人公・瑞穂は39歳の小学校の音楽専科教員。今現在の瑞穂は、大木のようなどっしりとした母であり妻である。けれど、彼女はかつて憧れに満ちた若木のような少女だった。
 経済的事情で教員養成大学に入学したけれど、演奏家になること以外は考えずに、一日八時間の練習をこなす毎日。所属していた学生オーケストラの失敗に終わった演奏会の夜、瑞穂は「闇を切り裂く稲光さながら」のヴァイオリンの音を出す男・康臣に出会う。
 康臣と瑞穂はその晩、オーケストラを辞め、アンサンブルをすることを約束する。ピアノトリオのために現れたのは、康臣とは正反対とも言える、大柄で、秀才、陽性な男・正寛。その夏、三人は「山の家」でアンサンブルのために合宿を行う。様々な出来事があったこの合宿の後、瑞穂の青春の季節もまた終わった。演奏家への道を諦め、康臣への淡い恋も終わり、彼との付き合いも途絶える。
 秀才・正寛との付き合いは続いているものの、康臣との付き合いが途絶えた中、瑞穂は康臣の訃報を知らされる。康臣は瑞穂に一本のテープを残して死んでいた。そのテープを貰って以来、瑞穂の身辺に不審な出来事が多発する。なぜなのか。瑞穂は康臣の死の真相や、付き合いが途絶えた後の彼の身辺を探ることになる。
 本当の天才というものは、その価値が分かる同じ道を目指す者には、絶望しか与えないものなのか。この物語が、ただの天才と秀才の話にならないのは、瑞穂が女性であるからだと思う。瑞穂も、また康臣と同じく天才であった。なかなかに複層的な話である。
 二十年前、打ち捨てた感性、能力を持つ「彼女」と共に生きていく決心をした瑞穂。それはつまり、これまで築いてきた生活を、壊すことでもある。それとは正反対の生き方を続けなければならない、正寛。瑞穂と正寛の人生はこれからも続く。「選ぶことが出来ない」人生というものも、あるのかもしれない。

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紙の本最後の瞽女 小林ハルの人生

2005/10/24 11:56

過酷な生

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「瞽女」とは、盲目の女旅芸人のこと。案内の「手引き」に連れられ、三味線に合わせて唄をうたいながら、村々をまわり歩く。二十世紀はじめには新潟県に五百人もいたそうだけれど、それから百年たって、養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」に二人(廃業)しか残っていないとの事。その中の一人、最後の瞽女といわれる小林ハルさんは、明治三十三年(1900年)新潟県三条市で生まれ、今年一月で丁度満百歳となった(出版された2000年当時)。これは小林さんの生涯を辿った本。
小林さんは生後百日で、白内障にかかって失明し、五歳で瞽女にもらわれ、九歳から親方に連れられて旅に出た。お宮に泊められたり、野宿させられたり、三度のご飯も満足には食べさせてはもらえない。彼女の世界は、障害者が差別と偏見の中で生きた過酷なもの。昭和五十三年(一九七八年)、瞽女唄の伝承者として人間国宝(無形文化財)に選ばれ、五十四年には黄綬褒章も受賞した。
聞き書きだから多少分かり難い部分もあるけれど、その過酷な世界に圧倒される。健常者であっても辛い道のりを、小林さんはひたすら歩き、うたう。意地悪をされても、決して人の悪口を言わず、人に与えるばかりの人生。「意地悪」なんて言葉が生ぬるい位、ひどい嫌がらせや暴力も受けている。
眼が見えないからといって決して甘やかさず、人並み以上の厳しさをもって教育に臨んだ母の愛も素晴らしい。盲目の身でありながら、母の教育のお陰で、小林さんは針仕事から何から何まで、生活の殆ど全てを、一人でこなすことが出来る。
小林さんの生家は比較的裕福だったのだけれど、目が見えない彼女の行く末を心配した祖父が連れて行った先で、占い師にこの子は長生きすると言われたそうだ。
祖父が面倒を見られるうちはいいけれど、代替わりしたら? 彼女の将来を考え、祖父は小林さんを瞽女にすることにしたそうだ。
「一生、他人さまの世話にならねばならない者がなんだ」、「おらの目が見えないのがいっち悪いんだ」という言葉が痛い。晩年は老人ホームで穏やかに過ごされたそうだ。過酷な人生を生き抜いた、つよい人だ。

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紙の本顔をなくした少年

2006/11/15 00:33

少年は呪われた

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 デーヴィットは、最近、全くついてない。
 二年生の時からの大親友スコットは、気付けばクラスの人気グループのロジャーたちに取り入っていて、ある日突然、スコットを邪魔にするようになった。ロジャーたちに「クールなやつ」と思われるために、スコットはことさらにデーヴィットを馬鹿にする。それを見たロジャーたちや、彼らにくっ付く一番人気の女の子達も、勿論デーヴィットを馬鹿にする。
 おまけに「友だち」だと信じて、ロジャーやスコットたちと杖を盗みに入った、魔女と噂のベイフィールドさんの家で、スコットだけが呪いをかけられてしまう!
 「おまえのドッペルゲンガーがおまえの魂を吸い上げてしまうだろう!」
 ベイフィールドさんは、顔を盗む魔女との噂。居間の壁には、彼女がこれまで盗んだ顔がかかっているのだ。
 さて、勿論、盗みなどしたくはなかった、デーヴィットの胸は痛む。ロッキングチェアを引き倒され、少年たちに振舞おうとしたレモネードを顔にかけられ、また投げ入れられた水差しで窓を割られてしまった、可哀想なおばあさん・・・。
 ところが、デーヴィットの身に、ベイフィールドさんにした事と、全く同じ事が起こり始め、魔女の呪いは現実的なものとなる!一体、僕はどうなってしまうのだ? このままでは、本当に顔を失くしてしまうのか?
 スコットという友だちを失くしたデーヴィットは、身近にいた友人に気付く。転校生で、いつも青いサングラスをしているラリー、口では決して負けない女の子、モー。彼らはクールではないし、どちらかというと、「ダサい」存在だけれども、クールなことって、本当に重要なこと?
 呪いの事を気にしつつも、デーヴィットには気になる女の子もいる。「ハイ!ミス・ウィリアムズ」、「ハイ!ミスタ・バリンジャー」と挨拶をし合う女の子。まだファースト・ネームも知らないけれど、彼女もデーヴィットに好意を持ってくれているよう。でも、好きな女の子の前で、呪いによる無様な姿を晒したくはない!
 ロジャーたちのデーヴィットへのいじめはどんどんエスカレートし、また「呪い」も一向に解かれる様子がない。デーヴィットを盲目的に尊敬していた弟、リッキーとの仲もどんどんおかしくなり、リッキーもまた痣などを作って帰ってくるようになる・・・。
 さて、デーヴィットは、このまま本当に顔を失くしてしまうのか??
 一生、魔女の呪いから逃れることは叶わないのか?
 最後まで読み通すと、にやり、じんわり。
 人気グループに付いて行こうと無理をしている子供たち、現在いじめられてしまっている子供たちに、是非読んでもらいたい本。幸運にも、どちらの立場にないとしても、非常に面白い本。

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紙の本ボス猫列伝

2006/02/17 10:55

ボス猫がゆく

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 なんとも貫禄のある、表紙の猫に魅せられた。この本には全部で30もの、「ボス猫」の写真とプロフィール、彼らの物語が載せられている。ちなみに、この表紙の彼は、ボス猫ファイル10に収められた、赤トラボス。「子だくさんの赤トラボス 次のボスは息子にまちがいない?」。彼は、文京区・新江戸川公園そばを縄張りとしているとのこと。プロフィールには、縄張り、推定年齢、ボス猫暦、性格が記されており、この赤トラボスの場合は、「推定年齢・・・7〜8歳、ボス猫暦・・・5〜6年、性格・・・気が強く、次々に縄張り拡張を目論む。家族にはやさしい」らしい。
 この本は東京の猫が中心となっており、月刊誌「ねこ倶楽部」(誠文堂新光社)’94年9月号〜’98年11月号からのピックアップなのだそう。時間が経過しているので、この本と同じ「ボス」に出会える可能性は低いけれど、その場所に行ってみたら、彼らボスの子孫に会えるのかもしれない。
 「ボス猫」と銘打ってはいても、実はみんながみんな「ボス!」という感じではない。漫画に出てくるような、孤高のボス!、という雰囲気のボス猫はあまりいない。飼い猫なのに、あたりを仕切っている猫もいるし、たいていの場合、近所の人からご飯をもらって、平和的に生きている。捨て猫はいけないけれど、こういう風に、猫たちが気ままに共存できる、隙間のような空間はいいなぁ、と思った。
 そして、一口に「猫」といっても、毛の色は勿論、顔の形、大きさ、耳の形など、随分色々とバリエーションがある。それだけ色々な猫が載せられているというわけで、悪役顔のボスから、ちょっと笑ってしまう顔のボス(表紙の赤トラなどはこちらか?)、凛々しい美猫まで、みんな何とも表情豊か。ボスのもとに集まる猫もまた様々。自然な猫の姿がおさめられていて、何とも和む一冊。

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紙の本黒と茶の幻想

2005/11/28 16:51

過去、謎、心、森

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 われわれは過去を取り戻すために旅をする。過去の中にこそ本物のミステリーがある。十数年前の時間と自分を喚起させるメンバー、より深い思索をするのに格好の、俗世と隔絶された目的地。
 学生時代の友人である、利枝子、彰彦、蒔生、節子の四人は、彰彦のセッティングで「美しい謎」を持ち寄ってY島への旅へ出る。深い森に分け入り、滝、M岳、J杉を見るために山を登る。Y島の森を歩くことは、それぞれの心の森に入ることでもあった。日常では交わされる事のない会話が、この非日常的空間で交わされる。
 更にこの旅は、利枝子、彰彦、蒔生、節子の四章に分かれ、それぞれの一人称で語られる。この仕掛けによって主観的、及び客観的記述がなされ、一人一人の性格が立ち上がってくるという仕組み。
 この旅の核となる大きな「謎」は、一つなのだけれど、「謎」がテーマな旅であるだけに、ちょっとした日常の謎、人生への質問が数多く提示され、解決される。最後の文章がとてもいい。全て転じて、正のエネルギーとなったように感じた。自分の中にも、まだ見知らぬ「謎」が眠っているのかもしれない。

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