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反射鏡さんのレビュー一覧

投稿者:反射鏡

18 件中 1 件~ 15 件を表示

うまい絵とは何か?

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

記憶が定かではないが、小学1年生のころ、近所の画家の先生のところで絵を習っていた。野球でもそろばんでも書道でもほかに習うものはいろいろあったはずだが、なぜか「絵」だった。自らすすんで習いたいと言ったのではなく、おそらく、父が習わせたかったのだと思う。それでも父が習わせたかったのが、なぜ「絵」だったのか、わからない。
日曜日の午前中、ひとりでその先生の家に歩いて通った。板の間に、私以外は大人が数名いた。私は、クレヨンや水彩絵の具で、その部屋に置かれている鉢植えの花を描いたり、遠足の思い出のような絵を描いたりしていた。ただ、絵を習っていたからといって、クラスで飛びぬけて絵がうまかったかというそうでもなく、やがて、画家先生のところにも通わなくなった。おそらく、月謝と絵の上達度が正比例しなくなったのだと思う。
絵がうまいとはどういうことか。この問いは、私の頭の中に子どものころからあった。写真で撮ったように描くことが「うまい」ということであれば、わざわざ絵を描かなくても写真を撮ればいいじゃないか。立体感のあるものを描くことが「うまい」のであれば、彫刻でいいじゃないか。平面に描くことでしか表現できないものとは何だろうか。絵でしか表現できないものとは何だろうか。そういうことを考えるようになった。
本書は、わたしのこのような問いに、答えるのではないが、考えるヒントを与えてくれた。何よりもうれしく思ったのは、私の問いかけは的外れではなかったということが分かったことだった。写真の登場により、写真で撮ったように絵を描けることが絵を描くことの本質ではない、ということを明らかにしてくれた。写真の登場は、画家の役割を奪ったのではなく、画家を呪縛から解放してくれた、ということも本書に書かれている。なるほど、そうだよな、と深くうなづきながら本書を読んだ。
子どもの頃に絵を習ったことが影響しているのかはわからないが、いま私は趣味で絵を描いている。自分が知覚していることではなく、「感覚」していることを描いている。それは、写真のように誰が見てもそれと分かる絵ではないが、自分が「感覚」していることに忠実であろうとこころがけて描いている絵である。決して「うまい」絵ではないが、自分にしか描けない絵である。そう思いながら絵を描けるようになったのは、本書のお陰である。

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紙の本日本の伝統

2009/11/17 21:09

自分との勝負としての芸術行為: 岡本太郎の人生論

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

芸術は自分との勝負だ。

私たちは、自然な傾向として、何かの型にあてはまろうとし、何かに所属しようとし、権威を後ろ盾にしようとする。どういう流派に所属しているかとか、どういう先生に教えを受けたかとか、どういう学校を卒業したかとか、どういう先祖をもつかとか、そういうことに自分のアイデンティティを見出そうとするときがある。集団の一員というアイデンティティを保持するためには、その集団のルールや形式、習慣を守らねばならず、それは時には面倒なことでもあるが、面倒でも続けているのは、居心地のよさがあるからかもしれない。

岡本太郎にとって、私たちのこの傾向は、物事に直に向き合う目を曇らせるものである。私たちはこの曇りをとりはらい、何物にもとらわれず、自分の目で物事を批評できなくてはならない。これは私たちにとって、自分との闘いであり、岡本太郎はこの闘いにおいて強い人間であった。私たちが所属する日本的という形式、伝統という習慣にとらわれず、自分の価値観で創作をし、自分の価値観で批評し、自分の価値観で生きることが大切である。

矛盾した言い方になるが、私たちが「自由」になるためには、物事にとらわれないように、自分を抑制しなくてはならない。禁欲的になってはじめて、「自由」を手に入れることができるのである。禁欲的に生きることと自由に生きることは、ここでは両立する。自由な立場から、今まであまり気付かれなかったもの、注目されなかったもの、当たり前と思われていたものに潜んでいる価値を見出すこと、それが岡本太郎にとっての芸術行為である。

岡本太郎の芸術論はそのまま人生論になる。この芸術・人生論が、第一章「伝統とは創造である」、第二章「縄文土器」、第三章「光琳」で述べられている。第四章「中世の庭」では、このような芸術・人生論をもつ岡本太郎の視点から見える庭園の姿が描かれている。(第五章は、後記やあとがきのような意味合いの章である。)

私たち全員が美術館に並ぶような芸術作品を作る必要はないが、物事を自分の価値観で捉え、自分の価値観で意見をもつことは大切ではないだろうか。それは、他人より勝るためではない。あくまでも自分との勝負なのである。

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紙の本意識の起源史 改訂新装版

2009/02/16 22:54

人間の心を知ろうとするひとへのお勧めの一冊

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

既に20年程前のことになるが、当時、町田に住んでいた私は、学校の帰りに古本屋に寄ることが習慣になっていた。ユング心理学に興味を持ち始めていた頃で、関係するものはどんな本でもいいから手にとって読んでみたかった時期である。

『意識の起源史』はそのような頃に古本屋で見つけた本で、上下巻セットで売られていた。ユングの高弟といわれているエーリッヒ・ノイマンによって書かれ、題名のとおり、「意識」というものが深層心理学的にどのように発達するかということを、神話を題材にして論じたものである。

「無意識」という混沌から芽生えた「意識」は、「無意識」との戦いを繰り返しながら自立性を獲得していく。その過程が、怪物との戦いに代表される神話によって表現されているということが描かれている。

ノイマンを批判するひとは、彼の「意識」像は英雄のイメージに重ねて描かれていて意識の一面しか捉えていない、または、「無意識」が母性的なものとしか描かれていないなどと言う。その批判も一理あるが、人間の心についてこのように捉えることが可能なのだということをノイマンは提示したのである。

王子が悪者を退治し、お姫様を助け、結婚するという童話のモチーフにも、「意識」の誕生の過程を見出すことができる。日本神話にもヤマタノオロチ退治などの物語があり、「意識」と英雄のイメージとを重ね合わせることが可能である。

しかし、黄泉の国のイザナミから逃げ帰ってくるイザナギ、幼児を食べてしまう鬼子母神を祭る信仰など、必ずしも負のイメージをもった母性が退治されるわけではなく、日本文化の考察を深めると、英雄らしくない「意識」像を用いて我々の心を理解することも可能なようである。

いずれにしろ、ノイマンのこの著作は、人間の心を知ろうとするひとにとって、様々な刺激を与えることは間違いない。大著であるが、一読をお勧めしたい。

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紙の本神話と日本人の心

2008/10/11 23:00

日本人として現代を生きるために

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

河合隼雄氏の神話研究の始まりは、氏がスイスのユング研究所に在籍した1962年(昭和37年)ごろにさかのぼる。昭和3年生まれの河合氏にとっては、軍国主義思想と神話との結びつきを体験しているので、神話に対峙することにかなりの抵抗を感じていたようだ。しかし、自分自身の分析をはじめとし、日本人や日本文化について理解を深めるにあたり、神話研究の重要性を肌身に感じ、以後、神話研究は河合氏にとってのライフワークになった。現代人の生き方を考えるためにも神話を知ることの重要性を提言しつづけた河合氏のこの著書を、かなりの期待を胸に読み始めたことを思い出す。

『神話と日本人の心』は太陽神の話から始まる。日本神話の太陽神であるアマテラスは女性であり、太陽神が女性であることは、各国の神話と比べてみると例外的である。各国の神話を比較し日本神話の特徴を説明することは、比較神話学の書物にも著されていることであるが、河合氏の著作の面白さは、それが日本人のものの考え方や感じ方、人間関係、行動様式にどのように反映されているかを、実例を挙げて紹介していることである。論旨を追って納得することもよりも、自分の体験を振り返って腑に落ちるというのが河合氏の著書を読む楽しみである。

本書では、「母性原理」をはじめ、「中空構造」「影」「トリックスター」「補償作用」など、河合氏が既に他の著書で指摘してきた概念や、ユング心理学のキーワードを用いつつ、現代の日本人の生き方について神話を通して理解し考えることがテーマになっている。日本神話は、我々がこころの深層において共有している発想の型である。自分のことだから何となく分かることもあり、近くにありすぎてかえって見えにくいというのが、自分自身の特徴であり、自国の文化なのであろう。

本書が研究書としての性格だけをもっているのであったら、知的好奇心が満足することで読了するところであるが、自分の行き方を考えるための啓蒙書という性質を備えていることもあり、ページをめくりながら、自分の深層に日本神話が流れていることを実感し、静かな元気が湧いてくることを体験した。将来、再度本書を読むことがあると思うが、きっとそのときも、我々の深層を流れるの地下水で喉を潤すような体験をすることだろう。

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紙の本アメリカ素描

2008/08/05 22:48

司馬遼太郎が語るアメリカ

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

大学の参考図書の棚にこの本が並んでいた。恥ずかしながら、私がはじめて読んだ司馬遼太郎の著書が、この『アメリカ素描』だった。『竜馬がゆく』も『坂の上の雲』も、これよりあとに読んだ。

私が通った大学には留学生が多くいて、習慣の違いや言葉の違いを話題にすることが日常的だったせいか、私のなかで、自分自身が生まれ育った国はどのような文化を持っているのか、さらに、私たち日本人はどういう国民なのかということへの関心が芽生えていた。

そして、外国人からみた日本はどうなのかを知りたいと思い、ライシャワーやラフカディオ・ハーン、ルース・ベネディクト、ブルーノ・タウトなどの外国人による日本文化論や日本人論の本をよく読んだ。知らず知らずのうちに日本人になったわれわれよりも、日本文化を外から見た人のほうが、以心伝心ではない方法で日本を語ってくれるのではないかと思ったからである。

さて、『アメリカ素描』は、ライシャワーたちが日本を語ったように、日本人が語るアメリカ論である。時代小説を書き、実際のアメリカを目の当たりにすることを避けてきたひとが記したアメリカ論である。このような特徴をもつ著書は、私の体質にしっくりときたのはいうまでもない。

その後、私はアメリカに留学をした。司馬遼太郎が足を運ぶことはなかった中西部で3年半を過ごした。『アメリカ素描』はいつでも手にとりやすいように、本棚には並べず、机の上に置いていた。友人にも勧め、大学の日本の書籍を蔵する図書館にも置いてもらった。

今でも『アメリカ素描』は私の愛読書である。アメリカにいく予定も何もないが、この本を周期的に読みたくなるのは、のどが渇けば水が欲しくなるのと同じで、私の体質が求めているからだろう。

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紙の本10分で読める名作 1年生

2008/07/05 22:51

読書の楽しさ娘に伝えたい

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

娘が小学生になり約3ヶ月が過ぎた。学校の成績をどうこうしてほしいと思う気持ちはないが、本に興味を持ってもらいたい、読書の習慣を身につけてもらいたい、と思う気持ちを私は強く持っている。そんな気持ちからか、娘が読んで分かりそうな本をみると、どうしても家に置いておきたくなるものだ。

子供が本に関心を持ち、読書が好きになるには、まず親自身が本を読む習慣をもたないといけない、親自身が本好きでなければならない、などという文章をよく目にするが、私自身が本を読むことが仕事の一部になっていることと、やはり本好き、読書好きということで、娘は親が楽しそうに本を読んでいる姿を自然に目にはしている。

親が何も教えることなく、娘はひらがなやカタカナに興味を持ち、独学で読み書きを身につけた。自然に興味を持ったことは、親が教えなくても自分で身につけるということは、体験的にも分かっている。

そうなると、読書に関しても、あとは娘自身が興味をもつかどうかで、親がとやかく口出しすることではない。親にできることは、面白いと思えそうな本を子供の目に届くところに置いておくことぐらいである。子供が本を手にするように、北風を吹かせて強要することはできない。

だから私は、無造作に本をそこら辺に並べ、積んでおく。たまには私がその本を手にとってみることもある。後は、いつかその本を娘が手にするだろう、開いてみるだろうと待っている。

『10分で読める名作』もそんなことを想いながら買ってみた。読み始めたらきっと、作品の引力にひかれて物語の世界にひきこまれるだろう。私に「読んで!」と言ってくれれば、それはそれでうれしいものだ。そんな未来の楽しさを思い浮かべながら、また一冊、我が家の本が増えた。


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小学生の記憶がよみがえる

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

今季2回目の雪が降りつもる中、母と5歳の娘といっしょに本屋に出かけた。児童書のコーナーで娘と母がなぞなぞの本を手にとっている近くで、偶然「怪人二十面相」の文字が目に入った。江戸川乱歩の少年探偵シリーズ全26巻の第1巻である。

私にとってはもう30年ぐらい前の話になるが、小学校の図書室にあったこのシリーズを、友達と競うように読んだ記憶がよみがえる。当時は土曜日も午前中だけは授業があり、放課後に本を借り、その日の午後は、肩までこたつにもぐりこみながら江戸川乱歩の世界に没入していたものだ。

小学生の私としては、小林少年に自分自身を重ね合わせ、少年探偵団のもつ「七つ道具」に憧れ、怪人二十面相を憎く思い、明智小五郎を空想上の師匠のように思っていたかもしれない。将来は探偵になりたいと本気で思ったりもしたものである。

私たちの世代が手にしたのは、おそらく、ポプラ社より出版されたハードカバーの本で、全46巻のシリーズだっただろう。今回手にしたものと自分の記憶にある本とを比べると、文体や挿絵、装丁などは異なるが、物語の持つ吸引力や影響力は違わないはずである。

何年かのうちに、わが娘も手にとることになるだろうか。親子で読み継ぎたいシリーズである。

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紙の本タイプ論

2008/01/25 22:32

性格に関心がある人の必読書

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

鋳型に鉄を流し込むような性格分析にはうんざりする。何種類の鋳型を持ち合わせているのかは分からないが、数少ない手持ちの鋳型に無理やり他人のイメージを流し込んで、あの人はこうだ、この人はこういう性格だと人物批評をするのは、聞くに堪えない。

『タイプ論』は、旅に携える方位磁針のようなもので、ひとを理解するための指標を提供してくれる書物である。また、自分の目の前のひとの姿は、森の中の一本の木であり、その人の全体などは見えるものではない、ということを分からせてくれる。紋切り型の性格診断を期待して本書をひらくと落胆するだけの結果になるだろう。

本書を読んで、ひとを理解するのは難しいものだ、という感想を持ったとしたら、それは、本書のもつメッセージのひとつを受けとめることができたということではなかろうか。性格は風見鶏のように、風の方向によって向きが変わるものである。ただし、軸の位置は変わらない。

さて、「外向的・内向的」という言葉で性格を表現することは、この「タイプ論」から始まったそうである。しかし、「外向的・内向的」を「社交的・内気」と同義に理解しているとしたら、本書を正しく理解しているとはいえない。

本書はこのように、性格や性格分類についての思い込みを崩してくれる。大著ではあるが、辛抱強く読み進んで欲しい。

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紙の本看護のための精神医学 第2版

2007/02/24 23:56

精神医学からみた看護論

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私はソーシャルワーカーだが、「看護のための」と看護師向けに書かれたこの本に出会うことができたのは幸運である。
 私は、この世界のことが詳しく分かるわけではないが、看護師の世界では、「専門看護師」「認定看護師」のように、専門性を重視した人材の育成に力が注がれているようである。
 一定の水準に達した人が特定の資格を得るという制度は歓迎するが、看護師が専門性を得るということは、どのような方向にステップアップしていくということなのだろうか?私の個人的な望みは、看護師としてのステップアップが医学的な知識を多く身に付けていくことにならないことである。
 「看護できない患者はいない」。本書は、この看護観を大前提にして書かれている。普段は特定の疾患、特定の世代、特定の病状の時期の患者に接していようとも、必要なときには誰の看護もできる。それが本来の看護師の姿である。
 そのためには、看護師自身の自覚とともに、看護師と協働して仕事をするひとたちが看護についての適切な認識をもっていなくてはならない。
 本書は精神医学という切り口で書かれた看護論である。それも、抽象的な概念を並べるのではなく、具体性の中に看護のあるべき姿が読み取れるように書かれている。精神科看護のテクニックではなく、看護論を学ぶためにも一読に値する一冊である。

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紙の本物語を生きる 今は昔、昔は今

2006/10/24 22:33

物語ることの大切さ

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ひとのこころは動く。
 時には浮かび、時には沈む。あるときは波をうち、あるときはぐるぐるまわる。
 もちろん、じっとしている時もある。
 ひとのこころが動くとき、物語が生まれる。幸せに満ち溢れたひとのこころからも物語が生まれ、失恋した人の沈んだこころからも物語が生まれる。
 物語ることは、自分のこころを動かした出来事を自分のものにするために、ひとりひとりがそれぞれの方法で行う儀式のようなものであり、そのひと独自の体験の仕方が、そのひとの語り方や語りの内容に映し出される。
 体験の仕方によっては、一生をかけても語り尽くせないものもあり、ひと晩語るだけで自分のものになることもある。
 物語ることは、私たちが体験したことを自分のものにするために欠かせない。
 ここでもう少し物語ることについて考えてみると、私たちは既にこころの中にある物語によって動かされていることにも気づく。わたしたちが運命とともに生まれてくるように、物語とともに生まれてくるのだと考えてみることも出来る。
 もし私たちが物語とともに生まれてくるのであれば、物語ることは、何かの出来事に触発されて行われる行為ではなく、息をするのと同じように、生きるためには不可欠な本能的な行為だと考えることも出来る。
 物語ることによって、私たちは生きていくことを続けることができるのである。
 このようなことを考えながら、本書を読み終えた。

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患者さんの選択肢が増えるために

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

在宅ケアは、ホスピス・緩和ケアの領域から広まった。
自分の病状を知り、「自分の最期が間近だと分かっているのなら、自宅の畳の上で死にたい」という要望が、末期がんの患者さんから提示されることが多くなったからである。
病気を治すことだけが医療行為だと思い込んでいるひとには理解できないかもしれないが、このような患者さんからの要望に真摯に耳を傾ける医師がいる。「患者さんが満足する人生を送るために医療を提供しよう」と思ってくれる医師がいる。
本書はそういう技術と理念を持った医師の名簿である。
最近は、在宅ホスピスケアを提供する医師だけではなく、慢性期疾患の患者さんを長期的に自宅で診てくれる医師も増えている。病気や障害をもった患者さんにとって、療養の場所の選択肢が増えていくことを願いたい。

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死を自覚しながらどのように生きるか

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

死を抜きにして人の一生を語ることはできない。
「死ぬのは嫌だ」「長生きしたい」と言っても、いつかは死を迎えることになる。そういう現実をふまえて、「ぽっくりいきたい」「苦しまないで死にたい」、とは多くの人が願うことである。
日本人の死因として一番多いものは「がん」である。がんは、ぽっくりいける病気でもなく、苦しみがない病気でもない。したがって、がんにかかって人生の最期を迎えるとしたらどのような生き方をするか、という問いは国民の多くが考えておいてもいい課題である。
著者は94歳の現役の医師であり、人生の終わりまでその人らしく過ごすことができるように、との願いで、1993年に神奈川県内にホスピスをつくった。ホスピスでは、主に、がんやエイズに対しての有効な治療方法がないと言われ、残された時間をできるだけ安らかに過ごしたいという人々が生活している。または、病院に入院するのではなく、自宅にいながら医師や看護師などの訪問を受けて生活している。(日本では、現時点では、がんかエイズと診断された人でなければホスピスに入院することはできない)。
自分がどのように人生の終わりを迎えるのかは知る由もないが、死を自覚しながらどう生きるか、と考えるヒントを本書は与えてくれる。

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紙の本元型的心理学

2006/01/09 14:10

ホスピスケアに携わるひとの必読書

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私はホスピスケアに携わっていることもあり、スピリチュアルケアという言葉に触れることが多い。学会や研究会などでもスピリチュアルケアがテーマとして挙げられ、医療従事者に加え、哲学者や宗教家なども交えて議論されることも多い。
私は本書を読んで、学会や研究会への参加者の中には、「スピリチュアル」という概念を明確に理解していない人も多いのではないか、と疑問をもつようになった。
本書のなかで、「魂と精神」という項がある。原著では、「魂」は「soul」、「精神」は「spirit」である。著者は、soulとspiritとを明確に区別し、また別の項では、「魂のケア」と「精神的訓練」とを混同してはならないと主張している。
ところが、一般的に両者は混同され、「魂のケア」にあたることも「精神的訓練」にあたることも「スピリチュアルケア」という名称で呼ばれている。その結果、「魂のケア」を求めているひとが「精神的訓練」を受けることになる、というような、ニーズとケアとがかみ合わない状況を生み出す要因にもなる。このような事態を避けるためにも、soulとspiritとの概念の違いを認識することが重要である。
ヒルマンは「soulのケア」を重視する。私も同感である。そして、「soulのケア」を重視するのであれば、自然の流れとして、「スピリチュアルケア」という名称を見直すことも必要になってくると思われる。
本書は、ホスピスケアに携わるひとには是非読んでいただきたい一冊である。

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紙の本古事記 上

2006/01/04 14:08

日本と日本人の財産

16人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

子どもが大人になるためには、その土地に伝わる神話を覚え、後々、次の世代に伝承できなければならなかった。したがって、神話を知らずに生きることは、大人にならないままで生きることを意味した。
『古事記』は言うまでもなく日本の神話であるが、これを読んだことがある人は、今の日本にどのぐらいいるだろうか。
戦後、GHQによる教育方針の制定により、『古事記』などの神話の類は、非合理的・非科学的な思想の種とされ、教科書には載らなくなった。『古事記』は日本社会の片隅に追いやられた。
したがって戦後の日本人は、『古事記』と縁がなく、神話を知ることが大人になるための要件と考えられていた時代の価値観からすると、子どものままで生きることになった。別の言い方をすると、日本社会は大人にならなくても困らずに生きることができる社会になったのである。
『古事記』は、日本人はどのように日本人らしいのか、自分はどのように自分らしいのか、を考えるきっかけを与えてくれる。実際、『古事記』やその他の日本の神話や伝説、昔話に注目したのは心理学者たちであり、特にユング派の心理学者たちは、『古事記』を題材にした興味深い日本人論や日本文化論を展開している。
大人になることの要件のひとつとして、自分自身と自国の文化の成り立ちをよく理解し相手に伝えることが出来ること、を数えるとしたら、『古事記』を読んでみることは、その通過点として重要な書物になるのではないか。
講談社学術文庫の『古事記』は、現代語訳や解説がつけられていて初心者でも読みやすい。是非、一読していただきたい。

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紙の本キャベツくんのにちようび

2005/12/28 01:53

うまいはなし

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

はなしのはじまりは、日曜日にキャベツくんとブタヤマさんが待ち合わせをし、ブタヤマさんがキャベツくんに、「あのね おなかが すいて フラフラなんだ。 キャベツ おまえを 食べる!」と言う場面である。

作者は物語の世界に「どうぞお入り下さい」、と読者を導くのではなく、手首をぎゅっと握り、中にぐいっと引っ張り込むのである。最初から「えっ?どうなっちゃうの?」という気持ちで、次の展開を待つことになるが、これは意外にここちよい。

草の山の後ろから3本の手が出てきて、「いらっしゃい いらっしゃい おいしいものが ありますよ!」という声がきこえ、ブタヤマさんの関心がそれらに引き付けられる。ここで読者は、キャベツくんがブタヤマさんに食べられずにすんだ、という安堵感をもちつつ、手と声の主は誰だろうという好奇心とともに、次の展開を待つことになる。

その手と声の主が3匹の大きな猫たちであることを知り、ブタヤマさんは恐がりながらも、「おいしいものが ありますよ!」という声についていく。すると、あたり一面にキャベツ畑があらわれ、すぐに消え、また「おいしいものがありますよ!」という声が聞こえてくる。ブタヤマさんは、「おいしいものがありますよ!」と文字どおり「うまい話」についていくことをやめられない。キャベツくんはブタヤマさんについていくことしかできない。

「うまい話」についていくブタヤマさん、ついていくだけのキャベツくん、という展開が続くので、この本を読みながら、「お菓子あげるからおいで」というような「うまい話」に我が子がついていかないだろうか、と不安になったりもする。

あたり一面にブタの群れがあらわれては消えたあと、「ブタヤマさんは ブタをたべるの?」とキャベツくんが問う場面で、はなしの展開が変わる。ブタヤマさんは、はっと我にかえり、「ブタは たべない。トンカツだって たべない」とキャベツくんに返事をする。幻影を見せつづけた3匹の猫たちは、「いらっしゃい いらっしゃい おいしいものは ありませーん」と、ブタヤマさんとキャベツくんをからかいながら消えていく。キャベツくんがブタヤマさんを食事に誘い、一番星がひかっているという場面でこのはなしは終わる。

最後の場面を読み終えてから、実は3匹の猫たちも幻影なのではないかと思い、さらには、キャベツくんがブタヤマさんから自分をまもるために、3匹の猫も含めてすべての幻影を生み出したのではなかったか、と深読みをしてみたりもする。

それが絵本であっても長編の小説であっても、幾とおりもの読み方を可能にするのが、はなしのうまさ、というものだろうとつくづく思った。

残念ながら、作者の長新太は、2005年6月26日にこの世を去ってしまった。今ごろ天国で、「いらっしゃい いらっしゃい 深さなんて ありませーん」と笑っているかもしれない。

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