空蝉さんのレビュー一覧
投稿者:空蝉
2011/12/20 13:17
ひさびさの大ヒット&マイブーム!年内に出会えてよかった(笑)
23人中、21人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
半年に一度の「地獄の釜開き」まであと1ヶ月ちょい。( 1月16日と7月16日は地獄の釜の蓋が開いて閻魔大王様も鬼たちもお休みになるという)
閻魔大王第一補佐官の鬼灯(ほおずき)もやっと骨休みが出来るんだね~とおもわずにんまりしてしまう・・・そのくらい地獄は年がら年中大忙しで、出来ない上司(閻魔大王)をもつ出来る部下(鬼灯)はあっちにこっちに引っ張りだこ。苦労が絶えない彼の日常をコミカルに、ブラックユーモアたっぷりに描いた作品がモーニング(この場合morningじゃなくてmourning=喪服(笑))掲載の「鬼の冷徹」だ。
そう、これは現世でいうサラリーマン&会社の苦労をそのまま地獄という大きな組織に置き換えたような何ともリアルな苦労話あれやこれやである。
地獄だ極楽だ、天国だという異世界を舞台にした作品はたいていファンタジックなお話で現世離れした展開になりがちだけれど、これは違う。
主人公はあくまで冷静、展開するストーリーはあくまでリアル。時には仕事疲れのお父様方、身につまされるくだりがあるのではなかろうか?と思ってしまう。
しかも現世ではあり得ない地獄の事情さえ、説明がみょうにリアリティをもっているから説得力もある。
人口急上昇して亡者ラッシュに地獄が人材不足で悩む、という第1話からして何と世知辛い!
そのくせ昔話や伝説上のお話、歴史上の有名人たちがとんでも設定で登場し、現世であれば同じ時代でしか顔合わせし得ない彼らが地獄という永遠のたまり場で一堂に期しているのだ。
古今東西死んだ物であればあらゆる人物&登場人物が思いがけない設定でお目見えする。
こんな自由で面白い設定はなかなかない!
たとえば第一話、過去の栄光にすがる堕落三昧の桃太郎と彼に飽きれて求職中のお供たちなどは鬼灯に一括されて地獄で職を貰って適所適材、万々歳。(中でも犬はレギュラー化)
地獄の沙汰も金次第。
しかし見事な采配と冷酷無比・・・いやいや、冷徹かつ的確な采配をみせる第一補佐官エリートの鬼灯ははした金ではなびかないだろう。(って、大金でなびかれても困るけれども)
後書きにあるように、どうやら作者は民俗学的にも異界をお勉強してあるということがちらほらでてくる地獄の説明にみてとれる。 もちろん諸説あるのでこの作品の説明が「定説」とはいえ無いけれど、あたらずといえども遠からず。ここは作者の解釈に素直に鬼灯たちの日常を楽しめば良い。
今後どんな有名人がでてくるのか、どんな昔話が、歴史が、いやいや現世の事情が地獄で話題になっていくのか、楽しみでならない。
紙の本神話の力
2011/11/21 18:45
社会という神話。もう一度見つめ直すべき神話。
18人中、18人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
本書をギリシアやローマ神話、日本の神話の解説&紹介本と思って手にした方はまるきりお門違いの本に出会ってしまった残念さよりも遥かにおおきい感動と発見と体験をするに違いない。
神話の持つ力、というより神話が存在し続ける意味を私たちの多くは知らない。
いったい世の中にどれだけ今の自分に満足している人間がいるだろう?
己に与えられたフィールドを出来る限り隅々まで駆け巡り、意思の赴くままに走り続ける。そんな素晴らしい人生をいきている人間がどれほどいることだろう??
仕事に恋愛。結婚にご近所付き合い。あらゆることに制約と遠慮と我慢を重ね、当たり障りの無い範疇で消化不良の日々をおくっている殆ど多くの現代人に向けて、人は誰もが己の中の永遠性に気がついていないだけであるということを、神の具現であるという素晴らしい生そのものを消化すべきであると教えてくれる。
とはいえ、ここでいう神はいわゆる宗教的な「神様」ではない。というのも著者キャンベル氏自身が宗教家でも、勿論クリスチャンでもなく、彼の言葉はそういった限定的な存在や思想を超えたもの、時間や場所や人間そのものを遥かに超越した存在、永遠性そのものを神と言っているのだろうから。
二人の知識人の対談によって語られるその多くは世界各国の神話と宗教の普遍性や共通項、そしてその神髄にある物の永遠性について・・・つまり生と死の永遠のサイクル、人間を含めあらゆる生が営み続けてきた永遠のサイクルとそれが「経験」によってのみ認識することが出来る、ということであった。
まず著者であるジョーゼフ・キャンベル氏について。
クリスチャンとして生まれ育ったにもかかわらず幼少期に遭遇したネイティブアメリカンの文化に感動し、青年期にはアジアの宗教/文化に触れることでヒンドゥーとインドの思想に感銘を受け、クリスチャンをやめている。とはいえ彼は宗教を否定しているのではない。もっと大きな普遍的な共通項…かけ離れた文化同士にそっくりの神話を見いだすことに情熱をもったのである。
そんな彼が本書で語る現代の神話は非常に実直で興味深い。例えばジョンレノンの暗殺、スターウォーズの英雄としての神話。大統領の演説。芸術家やアスリート(そして彼自身もアスリートとして記録保持者である)の絶頂の瞬間etc…さらにはそうした「特別」な人でなくとも、誰もが自分を形作る永遠の流れに気がつきさえすれば神話に、神に触れることが出来るのだと訴えているのである。
宗教を持っている人も、無宗教を語る人も、神話や伝説に文学的な興味しか持たない人も、一度まっさらな状態になってこういう開かれた知識に触れてみてはいかがだろうか。
いや、社会の中で生きていく我々現代社会人だからこそ、神話的儀式がいかに重要であるか認識すべきなのだろう。
人として社会の中で生きていくために、人は己の願望や可能性を犠牲にして役を演じる。古い殻を捨て新しい役のために一度「死」んで「再生」し、そうした社会的地位に対して人は敬意を払うとキャンベルは語る。結婚すれば夫や妻に、子供は父母に、生徒は教師に、平社員は上司に、国民は大統領に、患者は医者にetc…。社会的地位を獲得するために(面倒くさいお役所仕事と嫌な顔をする人が多いけれども)我々は社会的、そして神話的儀式を行う。婚姻届、任命式や就名式、入社(学)式に成人式…個々の事情から切り離され演じられるその「役職に対して」私たちは敬意をもっと払うべきではないだろうか。
社会は我々を導くものでなくてはならないと氏は繰り返し語っている。
より良い社会を作ろうというスローガンを良く目にするけれども、こういう社会を作る、という考え方こそがおこがましいのではないだろうか。
己を犠牲にして自分に与えられた地位を演じきり、他者はその社会的地位に対して敬意を払い、社会はその地位を与える立場にある神話の舞台である。
現代にも脈々と流れている神話の力をあらゆる点から語りだす氏だが、しかしそれは認識されずあやふやとなり、崩壊しつつあるという警鐘をもならしている。
社会という神話。それをもう一度誠意を込めて見つめ直すときではないだろうか。
2010/07/26 16:22
目から鱗がおちた。風呂がこの上なく新鮮になる!
18人中、18人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
目から鱗が落ちる、とはこういうことを言うのではないだろうか?
まずこれははっきり言って、ギャグ漫画である。
五賢帝、パクスロマーナなどと言われ多いに勢力を伸ばしていた古代ローマ。
最新の技術をもっていると過信していたローマ人だが、ある建築家はよりよい「風呂」の建築に悩んでいる。その彼が溺れ、意識を取り戻すとそこは21世紀、現代日本の風呂&温泉の中!
そこには観たことも無い文化と器具があり、聞いたことの無い言葉をしゃべる異星人のような「平たい顔の民俗」たちがいる。(もちろん日本人のことだ)
戸惑い恐れ混乱しつつも この時代この国日本の最新?技術と文化に脱帽し、ローマ人としての自信とプライドを多いにくずされるのである。
再度溺れて古代ローマに戻った彼は見たモノ触ったものを彼なりに再現し、革新的な「風呂」をローマに作り出す。
彼は瞬く間に成功を収めるが下等民俗(もちろん日本人)に完全に敗北したこと、結局はまねごとであるという秘密に苦悩し続けるのだった・・・
というのが大筋で、毎回これが時と場所を変えては繰り返される。
それにしてもなんというか、リアルだ。
絵がリアル、というのもあるけれど なによりリアルなのはタイムトリップ&ワープした先の日本で全く言葉が通じず、自分がどのような状況にあるのかが結局彼には何一つ解らないままである、ということだ。
よくあるご都合主義の漫画のように、なぜか言葉が通じて意思疎通が出来てしまう、ということはまず無い。当たり前なことだけれど、それがなんとももどかしく、同時に面白くて笑ってしまう。
最初に目から鱗が落ちた、と言ったのはその当たり前の設定あってのものだ。
私たちがなんと言うこともなしに当たり前に使っている電気、湯沸かし、石けん、風呂桶、タオル、風呂上がりの牛乳(笑)や酒。
そうしたものは古代ローマ人にとって信じられない大発明である。
言葉すら通じず自分の想像力だけで(時には的外れな)予想をたて、これはこうするものであろう、これはこういうものだろうと再構築する彼の姿を見ていると、普段使い慣れている石けん一つにもすごいパワーを感じてしまうのである。
いや、まさに目から鱗が落ちた。
今度また2巻が発売されるという。これはもう見逃せない。
古代ローマ時んである彼はこちらの世界にすっかり魅了されているが、読者である私、日本人は彼の今後に興味津々なのである。
紙の本金持ち君と貧乏君
2012/02/21 13:42
老いてなお愛おしいなら
16人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
今やBL(ボーイズラブ)が堂々と書店でスペースを取っている。しかもかなり過激な内容で。
BL好きの腐女子としては嬉しいことこの上ないのだが、大衆化&一般化するということはその分幅広く容易く刊行され行き渡るということでもある。当然厳選された物だけではなく駄作も内容の無い物もでてくる。
ジャンルがジャンルだけにこうした物はともすれば過激なエロ本になりさがりさえする。
だからこそ、こうした純情な、切ない、美しい、愛おしい物語が必要なのだと切に思う。
物語は親友同士だった祖父たちの孫2人の、不器用な恋物語。
そしてその祖父たちの「小さな恋の物語」が静かに、とても静かに彼らの後ろでもう一度時を刻む・・・
かたや学園理事長の孫<金持ち君>。とり巻き付きで女王様的な彼とは対照的に、その祖父が理事長の親友だったという理由で同じ私立高校に通うことになった超<貧乏君>がもう一人の主人公。
いけず?な貧乏君に校内商売を注意したりつっかかったりしているうちに・・・
いつの間にか彼を好きになってしまった金持ち君だが、なかなか気持ちを伝えられず反発してしまう。
とまあこれはどこにでもありがちな少女漫画的展開。
そこに金持ち君の祖父(理事長)のかつての淡い恋心が入り込んでくる。
理事長は彼の祖父=若き頃、戦時中生死をともにし淡い恋心を封じ込めた親友=の面影を強く残した孫の貧乏君に
かつての想いを馳せ<愛人>のバイト?をお願いする。
理事長が自分の中に祖父を観ていることを、その想いを知った上で優しく接する貧乏君。
彼の立ち居振る舞いに過去をフラッシュバックしつつ、彼ら孫達の淡い恋心を温かく見守る理事長のいじらしさ、切なさ、悲しさが愛おしくてたまらない。
恋愛に年齢は関係ないというけれど、本当にそうだったなら、年老いてなお<彼>を彼の孫の中に探してしまう、求めてしまう理事長の心はどれほどかと。そう思うとはらはらと泣けてきてしまう。
そしてそういう過去に立ち戻る時だけ、よぼよぼの理事長が若き日の姿で描かれるその技法も見事。
号泣するという勢いのある展開ではないし、劇的な話でも、ましてや少女漫画のような恋愛要素が満載、というわけでもない。恋愛成就というかたちのラストをしっかり描いているわけでもない、と思う。
けれどコレで十分ではないだろうか。 そう思う。
紙の本ぼくのメジャースプーン
2009/12/16 12:46
誰よりも自分のために、人を愛す
15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
低年齢の少年少女を主人公にすると、たいていは大人目線で子供の視線をはかるから失敗する。読み違える。どんなに子供の言葉を使おうと、子供の目線で見ようと、それは大人がかがんで子供の目線になったものであり、大人が子供を真似て発した言葉であるからだ。
私の好きな作家、辻村氏も同じクチか・・・と心配しつつ読んだ・・・が、いらぬ心配だったらしい。
子供だったらどう考えるだろう、小学生の頭のレベルってどの程度だろう?そんなこと考えていたらこの作品に真剣に取り組む余裕なんてなくなる。おいていかれてしまうからだ。
昨今、猟奇殺人やら動物虐待やら、児童虐待等様々な「物騒な事件」がある。理由の無い殺人、意味の無い虐待、わけのわからない狂った犯罪・・・どれもこれも「動機」が読めないものばかりである。いや、犯人に言わせると動機はある、自白することもある、がとてもじゃないけれど一般常識からして『信じられない』理由であることが多いのだ。何でそんなことで?という動機。この作品もまさに理解の範疇を超えたといえる動物虐待に端を発している。
いわゆるメガネちゃんタイプのふみちゃんは、早熟で頭が良くて凛としていて、「僕」が一目億幼馴染だ。大好きな憧れの、僕がふみちゃんの特別でいたいと思える存在。飽きっぽい小学生の中、ふみちゃんと僕は毎日、学校の兎の世話をした。大好きな兎は僕とフミちゃんの大事なつながりだ。ある日一人の大学生によって消費・・・虐殺されてしまった兎、それを最初に見つけたのはフミちゃんだった。ネットで、噂で、TVで、メディアで、大量にただ消費されていく「かわいそうなふみちゃんと兎の悲劇」。消費され、器物損壊というオチで決着がついてしまう大学生の罪。
実は「僕」には言葉で相手に条件提示をし二者択一を強要できる『能力』がある。僕は同じ能力を持つ「先生」と1週間相談し、大学生に能力をつあった罰を与えようと画策する。僕が選んだ『言葉』は・・・ というのが大筋。
まずこれが小学生って言うのはちょっとキツイんじゃ・・・?と思う節はいくらでもある。これだけ真面目に考えられる小学生がいれば世の中もうちょっとましになってるんじゃなかろうかと思うくらいだ。が、肝心なのは彼が苦悩した1週間の先生との問答。彼が流した涙。
そのまま被害者の加害者に対する復讐心ややるせなさ、どうすればいいのかわからないほどの葛藤、諦め、とまどい・・・自分が加害者に成るという恐れ。すべてを表象しているのだ。
これは赦しの物語でも、救いの物語でもない。人と人とがひしめき、様々な、本当に色々な人間が混在しているこの社会の中で、都合のいいように世界が住み分けられているが、それでも同じ世界に入り込んできた「他人」と衝突し、犯罪が起きたりする。たいてい加害者が犯罪者になり罰を受けるが、被害者も反撃をした時点で直ちに加害者になる、負けるのである。立場、時間、状況によって二転三転する善悪に正しい結論は無く、正しい罰も見つけることは出来ない。それでも彼は1週間後に一つの選択をした。
その結果は決して正しいものではなく、馬鹿なことをしでかした。だから彼は泣いている。
そして彼は結局フミちゃんのためではなく自分のエゴ、自分のために罰を選んだ。泣きながら思う、人間は自分のためにしか泣くことは出来ないのか?と。
けれど先生が彼にかけた最後の言葉は、きっと多くの読者に涙させる。
「自分のためにその人間が必要だから、その人が悲しいことが嫌だから。そうやって『自分のため』の気持ちで結びつき、相手に執着する。その気持ちを、人はそれでも愛というんです。」
私の心の中の何かがすとんと落ちた。 ああ、私は私を愛し、私のために泣いていいのだと、泣いた。 誰かを想い、何かを感じ、それを自分に結び付けて泣くことは、自分のためだけに泣くことではないのだと、それが相手を愛する証なのだと、クサイかもしれないけれど思った。
久しぶりに愛すべき作品に出会った。この言葉との出会いに感謝する。
紙の本凍りのくじら
2009/10/07 13:00
あなたの S・F はなんですか。
14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
辻村作品には少年少女たちの危うく脆く、繊細な感情がとてもリアルに描かれる。どこか取り繕わなくてはいられないように毎日を生きている、そんな危なっかしい彼らが登場する。
だからこそ「ああ、自分もそうだったよ」とか「そうなんだよな」と共感し、読者の胸に突き刺さるのだ。
ヒロインはSFをS=少しF=ナントカで名前をつける遊びを続けることで、自分以外の世界をカテゴライズする、名前をつけることで個性を付けて、顔を乗っけて「この人はこういう人」にする癖をもっている。
そうやって自分以外の「みんな」をSF(少しナントカ)に位置づけ、少しってあいまいにしておくことでいつも逃げ道を作っているのだろう。
彼女はそうやって自分のSF(=少し・不在)に酔い、現実から逃げ・・・いや、酔っていることにも気がつきたくない、正直言ってちょっとした困ったさんだ。「みんな」の世界に登場できないでいる自分がもどかしくて嫌で、認めたくないから「少し」不在で安心しておく。大人から見れば「甘ちゃん」で片付けられてしまう孤独な子、かもしれない。
けれど、誰でも覚えがあるんじゃないか?とふと思う。
「あの人はちょっと・・・だよね。~~っていう感じで。ーーっポイとこあるね」は日常茶飯事。日本人は断定を嫌う民俗だと言う。だから、「少し」は心地いい。
でも名づけることで安心する、という行為は何も日本人に限らない。人間万国共通だ。
主人公リホコは自分が入っていけない世界の「みんな」をSF少しナントカと名づけて自分の側の世界に登場させる。そうすることで自分が世界に少し不在=少し存在することにしている。
私はこういう感覚をうまく書き上げる辻村作品が好きだ。
流氷の中に閉じ込められて息も絶え絶えになっている凍りのクジラは、リホコ自身。
氷の中にいるかどうかも解らないで、なんだか毎日息苦しくしているのは私。
けれどこうした作品が出てくれることで、私に酸素を送り込んでくれる、いや、二酸化炭素を吐き出させてくれる。だからわたしは、SF=すごく、ふんばっていけるのだ。
紙の本春にして君を離れ
2008/12/15 12:37
誰も死なない、そして何より恐ろしいミステリー
16人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
良妻賢母の主人公ジョーンが、単身旅行の帰り道、かつての学友と偶然会い、一抹の不安を掻き立てられたことからすべてのものがひっくり返っていく。自分の信じてきた夫、子供達、家庭、落ち度の無いはずの自分の人生・・・自分の築き上げてきた過去すべてが、だ。
だれも死なない、事件もおきないこの物語は、しかし殺人事件以上に恐ろしいミステリーである。
人は己が培ってきた経験や築き上げてきた人間関係、環境など様々な過去を土台に今を生きている。信じられないものが多いこの世界の中で唯一最も信じられるモノは何か。自分が今生きていて、生きてきた過去があるということだ。しかしこの唯一頼れる過去とその自分が、実は信じていたものではなかった、としたらどうか。
この作品の主人公ジョーンはまさにそういう恐怖に崩れ落ちていく。真実であると思い込んでいた過去が崩壊し、家族や友、ついには自分自身の『本当の』姿が次々と現れる。
根底から覆されるという恐怖がいかほどのものか、読者は知ることになるだろう。
最終的に彼女が選んだ道は・・・ラストを読んでもらえば判ること。ひとついえるのは、彼女はひとつの彼女を殺し、ひとつの彼女を選んだ。血を流すことの無い、殺人の起きないアガサ・クリスティの作品。しかし、ここにひとつの立派な殺人が、起こっていたのである。
紙の本放送禁止歌
2008/09/16 10:35
放送禁止という幽霊ソング
14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
先日ある若手人気歌手の新曲が‘放送禁止’になり話題を呼んだ。その反響は大きく不満を口にする若者やFAN、逆に当然ととる年配者や保守派など意見は様々で私の母65歳も後者だ。彼女にとって「開放すべき放送禁止歌」は『ヨイトマケのうた』であり、国とか権力に蓋をされた悲劇のヒロイン的存在であって今回のような死を助長する歌(にもとれる)ではないらしい。
しかしヨイトマケは本当に放送禁止歌なのか?そもそも放送禁止って?
簡単に手に入る情報で麻痺した日本人にとって森達也の書はいつも警笛を鳴らしてくれる。本書も見事に根底から思い込みを崩してくれた。
まず放送禁止歌なるものは日本に存在しない。'59民放連が発足させた「要注意歌謡曲一覧」というのが正式名称でA(放送しない)~C(改定すれば放送可)の3ランクに分類されたリストが存在するのみで、放送の是非は各局に委ねられており・・・森自身その事実すら知らなかった。しかもその「一覧」に掲載されていないのに放送禁止歌だと勝手に思い込んでいた歌すら存在することに驚愕する、おそらく多くの読者も驚くだろう。
ただ、それでも実際に放送禁止になった歌は数多く存在する。この矛盾はなんだ?疑問だけが生まれる。そして森は必死に当事者たちへ体当たりの聞き込みを開始するのだが、取材をすればする程行き詰る。
「放送禁止歌」の不可抗力に愕然とし、部落開放同盟というタブーに踏込めば「歌と運動は別や」と一蹴され、改ざんされたと思っていた歌詞は「単に言葉を知らなかった」と腰を折られ、禁止歌を放送した局では無自覚だっただけ。確かに話は核心に迫っているはずなのに、いつまでたっても「放送禁止」の実態が見えてこない。追えば追うほどあやふやに・・・まるで幽霊のようだ。もちろんその当時も今も、放送禁止とされた歌は確かに存在する。日本人お決まりの「臭いものに蓋」に基づく過保護なお達しが存在することも確かだ。そうして禁止された歌を遺恨に思っている当事者(山平和彦)は「僕は誕生間もない子供を殺されたようなもの」と規制された歌を語る。そして今もまだそうした圧力は存在する。事実あのニュースが流れたのだから。ただ、私たちが思い描くような絶対性も、権力も規制も悲劇も、「要注意歌謡曲」には存在しない。あるのは私とあなたと彼ら、人の心の数だけ存在する「放送禁止歌」という奇妙に肥大化された幻想だけなのだ。
メディアの一方的な一報に私達はこうも簡単に踊らされ、勝手に悲劇的幻想を心に肥大化させて伝説をつくろうとしている。笑ってしまう。
「自覚性を持つこと。主語を自分に持つこと。」森氏は常に言い続けている。私たち日本人と日本のメディアに、日本という国そのものに欠落している「主語」「私」だ。
主語も主体も無い幻の権力がメディアを日本を包み込み、部落問題を始め多くの放送禁止を作り出してきたのは事実、またそうして放送禁止になり殺されてしまった子供=歌が存在したのもまた事実。そしてそうして封印されてきた歌の多くがネガティブで悲しみに満ちた苦悩の歌であることも。
しかし思い出して欲しい、本当に辛いとき悲しいとき、本当に心に響くのは同じ苦悩に満ちた歌なのだ。
麻痺したこの日本で、自分で考え、感じ、自分で選べ。森氏はいつも警告している。
2009/02/28 21:58
非現実的なほど恵まれた彼らに明日はあるのか!?
15人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
漫画、アニメ大国であるこの日本において漫画家になりたいと願う少年少女は数多い。そしてそう夢を抱いた若い芽が、画力を磨きストーリーを練り周囲の反対を押し切って漫画家になるまでのサクセスストーリーを描いた作品は過去にもいくつかある。 簡単にあらすじを述べれば本書「バクマン」もその一環に収まってしまうかもしれない…が、決定的に違う点が一つある。
歴代の漫画道マンガが「ありそうな話」であればある程読者の心を捕え共感と希望を膨らませてくれるのに対し、この漫画はその逆から始まるのだ。
主人公の中学生サイコー(最高)はアニメ化したギャグ漫画の原作者を叔父に持ち飛び抜けた画力の持ち主。クラスメイトの秀才・シュージン(秋人)はサイコーの画力と「頭ガイイ」点に目をつけ、作&画コンビで漫画家になろうと詰め寄る。 一方サイコーの想い人は声優を目指す夢見る可愛い子ちゃん(死語)で、漫画家になったら結婚する約束までこぎつけた。さらに彼女の母親と叔父は両想いながら結ばれなかった過去を持っていた…
と、良く言えばドラマチックに運命的で、悪く言えばこの上ないご都合主義の偶然の上に成りたっているストーリーである。彼らは親の反対も恋の挫折も金や環境の心配すらない、いや、かなり恵まれた環境からスタートを切った。 時折見せる漫画専門用語や業界事情が現実的ではあるが、どこまでも「ありえね~っ!」と言いたくなるくらい、ありえない。
けれどここまで気持ちよく恵まれたスタートを切ってくれると、どん底からのレベルUP&サクセスストーリーを見慣れた読者としては今後の展開が逆に全く読めない。彼らがどういう風にどれだけ悲惨な困難を迎え落ちていくのか、現実味がないだけに予想できないのだ。
『DEATH NOTE』で一世を風靡した著者だが死神の力を持ちながらも破滅した前作同様、彼らに明るい未来はあるのか否か?今後も目が離せない。
紙の本ジョーカー・ゲーム
2011/09/29 08:33
何かにとらわれて生きることは容易だ。だが、それは自分の目で世界を見る責任を放棄することだ。
12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
話題になっていただけのことはある、否、それ以上の面白いさに驚いている。
スパイもの、戦争当時のものなんて男や歴史物が好きがたのしめるだけのものだと思っていたが
読まずにいた自分が口惜しいほど 面白いのだ。そしてあっという間に読了してしまった。
あらすじはいってしまえば簡単なもの。
自身「魔王」と呼ばれる超人的な逸話を持つスパイであった結城中佐が、陸軍内に諜報員(すなわちスパイ)養成学校を設立した。
戦時中の日本にあって、現人神として神格化された天皇とその流れを組む形で徹底された軍隊組織の信条を恐れもせず完全否定。
世の中から、陸海軍から、過去から、出自氏名から、あらゆる「常識」から完全に隔離された校舎には地方からのみスパイ候補生が集められ、およそ想像を絶する・・・奇想天外、気違いじみた訓練が日々繰り返される。
…D機関が設置された当時、その存在を不快に思う参謀本部から監視を命じられたエリート組・佐久間が随行した初任務は米人技師Jゴードンがスパイであるという証拠を押さえることであった。しかし既に一度家宅捜索が入ったあとだと言う。「軍には見つけられない」証拠を見つけることが出来るのか?そしてもう一つさらなる思惑がこの指令には隠されていた…
この第一章で成果を上げ、「成功」することでD機関は結城中佐は莫大な予算を手にすることが出来る。
続く2~4章では魔王結城中佐の影やD機関の実態、超人的な訓練や常識はずれの能力を伺わせつつ、
それぞれ任務についた生徒たちの鮮やかな活躍が描かれ ミステリー的な面白さが楽しめる。
さて、一般的に言って「スパイ」とはいかなるものか?
日本で言えば隠密?忍者?に当たるのだろう。任務といえば相手方に忍び込み、見方のフリをして裏工作したり情報を盗み取ったりして、本国にそれらを伝えること。
女スパイは男を誘惑して情報を聞き出し惑わしたり。
捕まったら自白させられる前に迷わず自害する。 そんなところだろう。
が、本書はこの5章何処から読んでもどれを読んでもそれを真っ向否定してくれる。
結城中佐が求める理想にしてスパイに必要な絶対条件それは
「殺人及び自死は最悪の選択肢」「スパイとは見えない存在であること」そして・・・第五章で明かされるもう一つの条件。「なにものにもとらわれないこと」である。
ともすれば映画やドラマで、変装したり誘惑したりあの手この手で派手に活躍するスパイの姿や、ラストで秘密を守り抜いて死を選ぶ姿を想像しがちな私たちの「常識」を完全に覆すことになるだろう。
余りにも鮮やかな、そして終始一貫、徹底したその非常識的な結城中佐のスパイ条件だが、しかし、果たして本当に「非常識」であろうかと途中誰もが思うにちがいない。
戦時下、国中が「死」を美徳とした中で、人目を引くだけの安易な死による解決を否定した。それは死が何の解決にもならない安直な責任放棄となるからだ。
「何かにとらわれて生きることは容易だ。だが、それは自分の目で世界を見る責任を放棄することだ。
自分自身であることを放棄することだ。」
なんと簡潔にして力強い言葉であろうか。
これがスパイ養成学校の言葉でなければ人生の教訓にでもしたい、格言にでもしたい言葉である。
むろんこれは魔王、結城中佐の言葉である以上、自身の無い人への励ましの言葉でも、未来ある少年少女への鼓舞の言葉でもなく、ただただ任務を自己責任で自分自身だけで完全簡潔にやり通せというこれ以上無い冷徹な命令である。
しかし常識や肩書きに捕われて人の言うまま世間のままに生きている私たちにとって
重く鋭い教訓にもなるのではないだろうか。
そんな結城中佐のもと、日々狂気じみた訓練を何故「優秀な」彼ら生徒が続けていくのかと言えば
ただただ「自分にならこの程度はできなくてはならない」という自尊心のみである、らしい。
そこについてはただそう語られるだけであまり触れられていない。
このD機関がいったいなんの「Dなのか?」 生徒も何名在籍し、「卒業生」たちがどのようになっていったのかもまだ謎のままである。もう既に続巻が出ているのだからそこで何処まで語られているのか楽しみでならない。
2010/04/06 09:09
魔法の解けたお姫様
12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
こういう言い方はきわどいのだけれどいい意味で、人が男(女)に本気で落ちるときというのは きっと何かに「気が付いた」時だと思う。
知らなかった自分に、思い込んでいた自分に、そんな自分の作り上げた壁の中でぬくぬくと逃げていた自分に気づかされたとき、人は本物の強さに本当の意味で 魅かれるのだろう。
キャリアウーマンだったつぐみが母の死を契機に祖母の家で田舎暮らしを始めるところからこの物語は始まった。
かつて祖母を愛し続けた50代の教授・海江田が転がり込み共同生活をするが、様々なスッタモンダと海江田の静かで熱烈なアプローチの末、ようやく結婚を考えるまでになったのが、前2巻までのお話。
本書3巻は、つぐみが地元で続ける自家発電の問題(地域住民との開発問題)をサイドストーリー。
つぐみに大きな心の傷を残した元彼からの「離婚したので結婚して欲しい」という連絡、それに揺れ動くつぐみと動揺する海江田の物語がメインストーリーである。
そしてラストは・・・思いがけないアクシデントと最後の「気付き」で幕を閉じる、そう私は読む。
家を継ぐつぐみに周囲の年配者や親族はやれ「家を持つような女は男」だとか、「しょせんは女」「一人のままでもいい」とか、地元の若い人と結婚を…等等、つぐみに(女に)言わせれば「あなたたちが私の面倒を一生見てくれる訳ではないでしょう」な勝手な言い分ばかり。これは昨年の婚活ブームに疲れた多くの女性を代弁しているかのようで正直私自身女として心イタイ。
そんな中でも別の角度から「気が付かせて」くれるのはやはり海江田だ。
つぐみが何か自分の作り上げた逃げ道や言い訳を海江田の言葉に気づかされる、そのシーンを目にする時、同じ女とて私自身がこの物語に引き込まれる。彼女がそうして海江田に「恋に落ちる」たびに私はこの物語にツボをつかれたように落ちるのだ。
「しょせんは女」という言葉に一人では認められない悔しさを愚痴るつぐみに、それは一人で出来ると思い上がった傲慢だと気づかせる海江田。
トラブルから偶然救い出してくれた元彼はまさしく馬車に乗った王子様・・・けれど「よく見たらボロボロの馬車」だと気が付くシーン。
去った恋人に、「大切にしているものは、自分が「大切」と思い込んでいるものばかりだ・・・」と気が付くつぐみ。
一人でもいいと思ってた・・・違う、ひとりじゃダメだから ふたりでいることにも自信がなかっただけ、と自分の臆病に気付くつぐみ。
「一人=独り」であることが心地よくそれが自分に合っていると「思いこんで」生きてきた人間が、いつしか二人でいることをあたり前のように心地よく感じている、そんな自分に気が付いたつぐみ。
そんな数々の「気が付く」つぐみを見ていて思う。
人は「恋に落ちる」というけれど、ホントに落ちるのは恋に落ちている自分に気が付いた瞬間、じゃないかなと。
つぐみをはじめ一人立ちし、自分を知っている分をわきまえた女性は多いけれど、それでも人は弱い生き物だから自分の過去から、周囲の目から、世間の批判、世界から身を守るためのたくさんの言い訳や防御壁を貼っている。
その言い訳が正論であればあるほど、その御託が冷静であればあるほど、自分の作った慰めの言葉の中でつぐみも私も埋もれてしまう。気付かないうちに、気付かされないうちに、そうして年月だけがたってしまう。
つぐみも、私も、多くの女性が与えられるのを待っている「お姫様」だ。
自立していても、ひとりでイイと思っていても、それは現状に甘んじて満足しているだけなのかもしれない。
自分から手を伸ばさなくても与えられ、「幸せ」を運んでくれる王子様をただ待っているだけの受動的なお姫様。
けれど彼女は永い苦難を経て成長し、本当に欲しいものを自分で選び掴み取るのだ。
「王子様」にさよならをしたつぐみが最後に手にしたもの。
もう私は「幸せ」には縛られない。
その言葉に全てが詰まっているのではないだろうか。
紙の本悪人
2007/07/05 02:09
悪人にも五分の魂
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事件が一つ起こったということは、悲劇が一つあったということは、被害者がいて加害者がいて、勝つものがいて負けるものがいる、ということだ。世界は対立する表裏一体の存在があって初めてつりあいよく運営している、そう考えると、自分は一体どっち側なんだ?という疑問がわいてくる。
どっち側であるにせよ、被害者・加害者・傍観者・関係者・・・一つの事件が起きた時そこから波紋のように広がる人間関係は果てしない。そしてその波紋の先に存在する人々すべてに生きてきた年月があり記憶があり場所がある。
「一人の人間がこの世からおらんようになるってことは、ピラミッドの頂点の石がなうなるんじゃなくて、底辺の石が一個なくなることなんやなって」(本文中より)
この作品はそんな当たり前のことを隈なく丁寧に、とても丁寧に切り取っている。
私は時代劇のその他大勢である「斬られ役」達にも人生があるはずだと常々おもう。
彼らだって好きで悪代官の下にいるわけじゃあるまい。悪者側に居たばっかりに、あっさり斬られて死ぬ脇役達。そんな彼らにも家族も友人も恋人もいる。
ともかく。「負組み・勝ち組」なんてコトバが流行っている昨今だが、自分は勝っているのか負けているのか、価値があるのか無いのか、ふと自分の立ち位置が不安になる作品だった。
乗るはずだったバスがバスジャックにあい乗客が死んだ時から、自分は当りをひける人間なのだと初めて感じた女、光代。
人に蔑まれ馬鹿にされても「たまるもんか」と何度も立上がる母。
娘を殺され、そう追い込んだ男に一矢報わずはとスパナを振りかざし復讐する父親。
幼少期に自分を捨てた母親に泣きつかれ、泣いて謝罪されたその瞬間から金をせびり、「加害者」側に変身した男。
約束をそっちのけにし他の男に走り去る女に一言謝らせようとして犯行に及んでしまった男。
「悪人」の周りには「負組」でありそこから必死に駆け上がろうともがく人間ばかりだ。そして彼らの心にはいつでも「私はここにいるのだ」「馬鹿にするな!」という言葉が沸騰している。
又同時に、寂しい淋しいとあえぐ人間ばかりでもある。
だれか話しを聞いて、見て、触れて、と。
「寂しさというのは、自分の話を誰かに聞いてもらいたいと切望する気持ちなんかもしれない」(本文中)
悪人=祐一は、殺人という罪を犯して初めて「誰かに聞いてもらいたい話」を持つことが出来た。皮肉にもそれは聞いてもらえたとたんに、また独りぼっちになるであろう話すなわち殺人の自供である。そんな寂しい男が、寂しい女とメールで出会い繋がりお互いを満たし得た。彼女(光代)は祐一の手を引いて警察から逃げた。ただ一緒にいたい、一人きりにしないで、と。そして私はこの人とここに居るのだと必死に存在を主張する2人の逃避行が始まる。
被害者側にも加害者側にも、勝組にも負組にも、味方と敵とがいて、憎しみも愛も半々、そうやって均衡が取れている、そうでなくてはいけない。そう「悪人」は感じているのだ。
だから彼はひたすら悪人であろうとした。
彼は被害者にはならなかった。ただただ、加害者という悪人であり続けることに徹したのだ。自分がすべて受け持ってこの均衡を守ってやるからと。
逃避行を斡旋した愛する女までも「被害者」にすることで守り抜いている。彼は悪人なのか?それはもう、彼にも彼女にも誰にも、どうでもいいことである。
ただ彼は負け組みではない。確かに己を貫いた勝ち組である、そう信じたい。
政治にも思想にも絶対多数が常識・正解とされる今の世に大切なものを投げかける作品である。
紙の本乙嫁語り 1 (BEAM COMIX)
2010/08/28 12:58
乙女で嫁で、逞しいお嬢様に夢中
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このところノルディック柄が流行っているのだという。
ノルディック、すなわち北欧風の雪やトナカイ、幾何学模様を取り入れたモチーフ柄でレトロかつ民俗風のイメージが受けているらしい。
さて、本書は北欧とはまったく異なる地、中央アジアの草原が舞台なので無関係かと思いきや、以外に通じるところがあるのではないかと思う。
つまり人工的で都会的な大量生産&消費される柄ではなく、自然のモチーフや熟練の手仕事による服飾が 今改めて注目されているのだ。
ニットなどの北欧ノルディック柄と彫金や天然石に刺繍に毛皮を使用した中央アジア遊牧民族の柄…場所も気温も違えど、彼らのようにより自然に近しく生きる民族は自然の恩恵をふんだんに取り入れ尊敬し、モチーフとして身につけているのだ。長らくそうしたものから遠ざかった日本人にとって、それは懐かしいというより新鮮で斬新なものとして今注目されている。
本書「乙嫁語り」はまさに今注目されるべき作品なのだ。
森氏は前作同様、風景、服飾、史実、風俗描写を忠実に、綿密に描き込んでいて読者は内容もさることながら、まずこの描写の素晴らしさに魅了されるに違いない。森氏自身が服飾装飾を描き込んでいる時「生きてる!」と感じると言っているくらいだ、その描き込みようは読者を裏切らない。
舞台は19世紀後半の中央アジア草原地帯。
12歳の少年カルルクの元に他の部族から嫁いできた娘アミルは8歳年上の姉さん女房。作者が後記で語るようにアミルは弓も包丁さばきも乗馬もできて、賢く強い。天然キャラで逞しいが「でも乙女」で「でもお嬢様」。
そしてこれは森氏の人物描写に特徴的なのだが、彼女をはじめ登場人物の表情からはその心情すべてが読み取れきれない。
言葉数はすくなく目で語り、なかなか読み取りきれないもどかしさや割り切れなさに読者はドキリとしたりやきもきしたりする。
物語はすでに波乱含みの展開を始めている。
親族がアミルを他の力ある部族へ嫁にやるため、連れ戻しに襲撃に来る。
カルルクの親族の中にも歳の行った女房に不満を感じる者もいる。
これからの展開がどのようになるものか・・・
やはり森氏の作品からは、目が離せない。
2010/01/28 09:49
君に届いた!
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早い者で君届も10巻・・・いや~近年まれに見る純情かつ真っ直ぐな少女漫画!
感動やで純粋で超前向きなのに、見た目の「怖さ」で「サダコ」だのとあだ名されるほど敬遠され友達が出来ない孤独な少女・黒沼爽子が
一人の人望厚く爽やかで明るい人気者男子・風早翔太に助けられ憧れから恋へと発展していく物語。
風早の親友で寡黙ながらも信頼厚い龍太、義理人情に厚い男前のチヅや鋭い観察眼で恋愛相談はオテノモノな姉さんキャラあやのが親友になり、4人の力を借りつつ、少しずつクラスの誤解を解き仲間入りしていく、笑顔を見せていく爽子。
1~9巻までそれこそほんとにすったもんだの展開があった。
やのちん、チヅ、龍太それぞれのエピソードや過去、恋愛話が出てはそれぞれの道をみんなで見つけてきた。友達だから出来ること、友達だけどどうにも出来ないこと、それでもせずにいられないこと・・・
もどかしさやじれったさが私たちを引き込んで止まない展開で笑いあり涙あり感動あり、どこも目が離せない思いが詰まっている。
爽子自身も長年孤立し続けていた「癖」が 普通の女の子が普通に友達・恋愛をしていくノリを邪魔している状態。
だからずっと気になっているのに風早への感情が尊敬→友達→恋愛感情であることに気付けないという不幸な展開(笑)
超美少女・くるみという強力なライバルの出現でようやく「恋愛感情」なるものをつかみ出してきたのが今まで。
そしてこの10巻、とうとう真正面きっての「告白」だ。
お互いの気持ちを伝えるところまでようやく辿り付いた来た二人。ハッピーエンドかと思いきや、以前くるみが仕掛けたように風早を好きな女子たちから何やら仕掛けられそうな気配もあり。これまた気になるところで10巻が終わっているのだが、なんとも歯切れが悪い・・・
椎名先生、10巻で円満解決~!と行くつもりだったじゃなかろうか。だって、爽子の「君」には「届いた」わけだから。
でも続くならそれもまたよし! こっちは続いてくれた方が嬉しかったりする。
できることならやのちん、チヅ、龍太、そしてくるみちゃんの「君」に思いが届く日までを描ききって欲しい!
紙の本萌えの死角
2009/02/17 09:06
死角直球
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知る人ぞ知るBL(ボーイズラブ)漫画家、今市子によるエッセイ漫画・・・に名を借りた萌え解読本!いや、BLに萌える腐女子視点による名作解説書というべきか。
今市子氏の目に掛かればかの名作も大作も、名著も著名人もすべて、BLで埋め尽くされた美味しい世界に塗り替えられる。
紹介されるのは「ベン・ハー」「白鳥の湖」「こころ」・・・宗教映画であろうがバレエであろうが誰もが知る数々の名作。しかしこんなに美味しいシーンが、話題が、裏話が合ったなんて!と、まさに目からウロコものである。
ここでは細かいネタバレはすまい。というのも、言ってみればネタしか詰まっていない。内容が濃密。なので一言漏らせば即ネタバレになってしまうから。
ノンケな貴方の大切なイケメン俳優も美しい人も愛するスクリーンも本書ではすべてBLに変換されて読み返される。同音異句とはよくいったもので、同じモノでも内容が違って見える、これはある意味二倍三倍のオタノシミになること請け合いである。
神聖な物語を冒涜している!とお怒りになる人もいるかもしれない、けれど今日本は漫画帝国であり「BL」は既に公用語に近いものがある。食わず嫌いの前に知っておいて損はない。
BLには興味はないけれど読んでは見たい、知っておきたい。そんな方に本書はもってこいだ。激しい描写も専門用語も多用せず初心者にも詳しく優しく解説してくれるワンシーンがなんとも微笑ましい。そう、ノンケにもノーマルな人にも勿論腐女子諸君にも(笑)安心して読める温かで緩やかな入門書なのだ。
まだBLに手をつけていない人、手をつけるべきかまだ迷っているそこの貴方。まず入門書として本書を手に取るべし!(笑)
と同時に、今市子氏の一面しか知らないファンにとっても、今氏の文芸・映画etcへの知識教養の深さ・広さに驚かされる新たな発見本になるだろう。
いずれにしても色々な意味で「死角」満載の一冊である。