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  3. 仙人掌きのこさんのレビュー一覧

仙人掌きのこさんのレビュー一覧

投稿者:仙人掌きのこ

27 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本響鬼探究

2007/09/26 03:49

「劇場版」「仮面ライダー響鬼」「七人の」「王子」

19人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「仮面ライダー響鬼」(以下「響鬼」)のファンは屈折している。
 自分の好きなものを好きとは言い切れない……そんな鬱屈した想いを抱いている。その原因は、番組中盤でのプロデューサー交代劇にある。作る人間が変われば内容が変わるのは当然の事だ。「響鬼」は連続した物語でありながら、ふたつのテイストを持ってしまった作品なのだ。

 この『響鬼探求』はその交代前、29話までを対象にした本だ。30話以降は別物として考え批判はしない、というスタンスが貫かれている。最初にその構想を知った時、ずいぶん窮屈な本になるのではないかと心配した。しかし、読み進めるうち、なるほどそういう事かと得心が行った。
 帯にはこう書いてある。……『いまでも、鍛えてます!』
 この本は「響鬼」という番組を振り返るものではない。「響鬼」という作品に触発された人々が、それぞれの得意フィールドでの「鍛えの結果」を披露するものなのだ。他人の過去ではなく、自分の現在を語る本なのだ。
 それはあたかも、番組中で「鬼たち」をサポートしていた“たちばな”のメンバーの活動を見るようだ。魔化魍(まかもう)を研究する者、鬼の秘密を探る者、修行方法を考察する者……番組終了後も続いているであろう彼らの研究発表会を覗いている、と考えると楽しくなってくる。「響鬼」は人間の善を描こうとした健やかな番組だった。『響鬼探求』のアプローチと読後感は、それに相応しいものである。

 さて、ここからは書評から少し遠ざかってしまうが御容赦いただきたい。
 この書評の題は「劇場版 仮面ライダー響鬼と7人の戦鬼」を意識したコラージュだ。省略せずに書くと「劇場版未来少年コナン」「七人の侍」「太陽の王子ホルスの大冒険」である。この3作は「途中で完成があやぶまれた、或いは違う形で完成せざるを得なかった」という点で「響鬼」と共通している。
 まず「七人の侍」だが、言うまでもなく黒澤明の代表作である。当初の予算の五倍を要したという大作は、撮影半ばにして中断の危機をむかえた。この時、黒澤は映画会社の重役を前に撮影が済んだ部分だけの試写会を行った。中途半端に終了し「この続きは?」と問う重役に、黒澤は「これから撮ります」と答えて追加予算を得た。作品の面白さで説得したのである。
 「太陽の王子ホルスの大冒険」は、現在ジブリを支える宮崎駿・高畑勲らが青春をつぎ込んだと言ってもいい長編アニメだ。製作期間8ヶ月の予定が2年以上かかり、上司は「君たちは会社がプレハブを作れと言っているのに、鉄筋コンクリートを建てているんだ」と叱ったという。発表時の評判は芳しくなかったが、今では日本長編アニメの金字塔と評されている。
 「ホルス」にも参加していた宮崎駿が、初めてオリジナル作品に挑戦したのが『未来少年コナン』である。この作品の映画化が決まった時、宮崎は頭をかかえたという。もともとTVシリーズで13時間近くある作品を、2時間にまとめるのは不可能だと思われたからだ。思い余った宮崎は完全新作の「未来少年コナン2」の企画を提出した。(後の未来少年コナン2 タイガアドベンチャーとは別物)しかし、TVのダイジェスト版で十分と考えていた会社と折り合いがつかず、新作は却下された。「劇場版」は他の人間が担当し、似て非なる作品となった。もしこの時に英断があれば、ナウシカ以前に傑作が誕生していたかもしれない。

 いずれの作品も予算や制作期間を超過したのは、その志の高さゆえだ。良いものを創ろうという情熱は、時として収まるべき器まで破壊してしまう。しかし、そうしたエネルギーを持たねば到達できない領域が確かに在るのだ。「響鬼」は間違いなくそれを秘めた作品だった。
 「響鬼」が秘めていた情熱の「現在」の結実が『響鬼探求』であるならば、「未来」はどうだろうか。初心貫徹ならなかったスタッフが、将来また別の形で「鍛えの成果」を見せてくれるのを、私は期待して待ちたいと思う。

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紙の本

紙の本あちん

2008/05/31 05:28

メメント・モリ

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「メメント・モリ(死を忘れるな)」
「哲学とは死の練習である」

 思春期の頃はそんな言葉をメモして、わかったような気分になっていたものだ。その時は真剣だったが、切実ではなかった。あくまでも「死」はまだまだ先の話であり、他人事だった。絶対に安全を保証された場所から、死の恐怖をのぞいていたに過ぎない。いわば遊園地のバンジージャンプのようなものだ。
 怪談の醍醐味もまた、それに似ている。どんなに恐ろしくおぞましい話であろうと、それは活字(または映像・語り)の向うの世界だ。安全な場所で、擬似恐怖体験や仮の死を味わうのだ。
 しかし「あちん」を読み進むうち、じわじわとその安心が侵されていくのを感じた。そう、作品に登場するオホリノテが這い出てくるように。この感覚は、いったい何なのか。

 「あちん」は福井県の都市伝説や実話をもとに書かれた、連作短編怪談である。『雨の日にお掘りばたを歩いてはいけない』という言い伝えを破った主人公は、オホリノテと呼ばれる藻草を踏んでしまう。それ以降、靴に残った黒いシミが拡がるように次々と怪異に襲われる。切るとタタリがあるというご神木、死者と話せる公衆電話、逆回りすると黄泉の国に誘われる島、見たら必ず死ぬという武者行列……。どこの街にもありそうな怪異そのものが怖いのではない。それに付随して語られる、身近な人の死や確執が怖い。今まで平凡だと思っていた生活がもうひとつの顔を見せる、その逆転が怖い。安心だと信じていた道が、実は「死」につながっている事をリアルに思い出させるのだ。いわゆるホラー映画のような派手な恐怖ではなく、十年ぶりの同窓会に顔を見せないクラスメートの不幸を知ってしまったような、リアルで重苦しい恐怖である。
 それを支えているのが、的確で読みやすい文体と、抑制のきいた人物描写だろう。都市伝説や近しい人の死の描写にリアリティがあるからこそ、読者の記憶や体験と重なりあって「こちら側」を侵す恐怖がうまれるのだ。

 私たちの歩む道は、かならず「死」に通じている。「あちん」はその根源的な恐怖を、リアルに思い出させる。主人公はその恐怖に直面しながら、もがき苦しみつつ、やがて一つの解に辿り着く。それは特別なものではない。
『これからも、この土地で生きていく』という、平凡だが強い決意だ。その決意をもって怪異を見直せば、祟りと思えた死が護りであった事に気付く。呪詛の声と恐れたものに、友情がこめられていた事を知る。怪異に侵された日常が、さらに逆転して進むべき道がみつかる。
 死を忘れてはいけない。しかし、囚われてもいけない。そんな事を思い起こさせてくれた怪談集であった。

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紙の本

怪談108R(ラウンド)――怖いって何だろう?

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 帯には「3分で読める800字の怪談が108編!」とある。編者である東氏は「カップ麺」と「ウルトラマン」をあげていらしたが、私の脳裏に浮かんだのは「ボクシング」であった。更に、愛読しているボクシング漫画「はじめの一歩」を連想し、こうつぶやいた。『怖いって何だろう?』

 ふとしたきっかけでビーケーワン怪談大賞に作品を投稿し、それが本になるという僥倖を得たのは、文章の素人である私にとっては喜びであるとともに戸惑いでもあった。まさに、ボクシングに巡り合ったばかりの一歩くんの気分だ。自分の書いたものが評価されるのは嬉しい、他の人の素晴らしい作品を読むのは楽しい、しかし常に原点とも言うべき問いに立ち返る。『怖いって何だろう?』――と。
 この問いに対してもっとも無難で納得できる解は、「怖さは人それぞれだから正解はない」というものだろう。しかし、それでは間口は広がるばかりでますます霧は深くなる。この「てのひら怪談 己丑」には108もの怪談がおさめられている。それぞれが工夫をこらし切り口を変えて、それぞれ怖い。こんなに沢山の怖さを味わったのなら、もう満足しそうなものだが、もっと怖い話を読みたい、そして書きたいという気持ちが湧き上がる。これはいったい何なのか。
 その秘密は怪談の「談」にあるような気がする。談とは「話す」ことである。すなわち、話し手と聞き手とがそこに居る。もちろん小説をはじめ、すべての創作は作者と受け取り手のキャッチボールだ。しかし、怪談はその関係が非常に濃密であるように思われる。「怖さ」を伝えようとする語り手と、受け取ろうとする聞き手。その距離は、普通の小説よりもずっと近く、膝突き合わせているような感覚だ。そして「怖さ」というのは、その距離を保つための約束事なのではないか。「これから始まるのは怖い話ですよ」という約束事が、話者と聞き手の一体感をうみ、他の本とは違う濃厚なコミュニケーションを可能にする。それが怪談のもつ独特の魅力につながっているのではないか。

 冒頭に引用したので、すこし「はじめの一歩」の話をしよう。いじめられっ子だった主人公がボクシングに出会い、釣り船屋を手伝っていた地力をもとに努力を重ね、多くのライバル・友人とともに成長していくという王道の少年漫画である。一試合ごとに課題を克服し、必殺技を身につけ、ついには日本チャンピオンになるが「強いって何だろう?」という疑問は解けないままだ。これは、この漫画が「物理的な強さ」を描いているのではないからだ。物理的な強さの追求ならば、相手を殴り倒した時点で終わりだろう。しかし、一歩の闘う相手には、それぞれの人生が用意されている。様々な理由でボクシングを続け、それぞれの努力の仕方で武器(強さ)を身につけている。一歩は、闘うたびに違う強さに巡り会う。いわば「強さ」を約束事にした、濃厚なコミュニケーションの物語なのである。

 怪談もまた『怖いって何だろう?』という気持ちで作品に対峙すれば、それは語り手の人生――そのなかでもかなり激烈な一瞬――を共にする事になる。普通の小説や会話では得られない、深く濃厚なコミュニケーション。それが本来負の感情であるはずの「恐怖」を、悦びに昇華させるように思うのだ。
 山下昇平氏がつくった魅惑的なキャラクターが、本文中で旅をしているのは象徴的だ。この本に収められた一作一作は、すべてそれぞれの作者が、人生という旅のなかでみつけたとっておきの怖さなのだから。

 現在(2009年6月1日~7月21日)、「第7回ビーケーワン怪談大賞」が開催中である。今年もまた『怖いって何だろう?』と自問しつつ、ひとりでも多くの人と濃厚なやりとりを交わしたいと思っている。

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紙の本

紙の本八本脚の蝶

2007/04/26 05:39

過剰なる蝶

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

かけがえのない人の永遠の不在は、悲しみではなく巨大なストレスである。
二階堂奥歯「八本脚の蝶」…最初この本を書店で手にした時、私はそっと棚に戻した。プロフィールに「自らの意志でこの世を去る」とあったからだ。数年前、私は続けざまに近しい存在を失った。10年以上ともに暮らした愛犬、文学・絵画観に多大な影響を受けた恩師、そして「右腕」ではなく「半身」として仕事を支えてくれた私よりずっと若い友人。これ以上のストレスに耐える自信がなかったからである。
その後、奇縁あって再びその本は私の前に現れた。これは避けては通れない本なのだ、と覚悟を決めてページをめくり…いきなり冒頭で釘付けになった。紹介されているのはミロ・マナラと朝山蜻一。私が10代最後の頃に知り、今でも愛しているエロティックでリリカルな作家たちだ。メジャーではない、だからこそ「かけがえのない」存在である。なにか共犯者めいた笑みを見せられたような気がした。もちろん、その後の彼女の世界は私の貧弱な読書経験など軽々と飛び越えて、深く広く鋭くひろがっていく。私は最初のページで受けた衝撃を引きずったまま彼女の内宇宙へと潜っていった。
私はネット上での彼女を知らない。今回の読書が初めてだ。ブログと書物では決定的な違いがある。「本」は視覚や触覚によって「残り」がわかってしまうのだ。センチメンタリズムは排除するべきだと頭で理解していても、徐々に息苦しくなっていく。酸素が足りないのではなく、過剰だから感じる息苦しさ。過剰な書物、過剰な思考、過剰な探求、過剰な祈り……。息を吸い続け肺が膨らみきって限界…というところで最後のページに辿り着き、私はおおきく息を吐く。
その時、私はストレスを感じただろうか。いや。私が感じたのは聡明でオシャベリ好きな少女(なぜか成人女性という気がしない)と楽しい時間を過ごしたという想いだった。冒頭の私と同じ理由でこの本を手に取るのを躊躇する人がいるかもしれないが、ぜひ読んでみて欲しい。彼女の残した「ものがたり」は透明で繊細で硬質な光をたたえたオブジェにも似て、じっくりと鑑賞するに足るものだと思うのだ。
ありがとう、二階堂奥歯さん。

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紙の本

世にも稀なるブリガドーン現象の観察記録

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私はつねづね「水木しげる」とは、戦後日本を襲った最大級の“ブリガドーン現象”ではないかと考えている。ブリガドーン現象とは、百年あるいは千年に一度、複雑な気象条件と物理条件がそろって現れるもので、その中は妖怪や幽霊が跋扈(ばっこ)する世界であるという。
 私たちの周囲をよく再確認してほしい。TVや映画では何度も「鬼太郎」がリメイクされ、その登場キャラクター、すなわち妖怪グッズがあふれている。『砂かけ婆』と聞けば、ほとんどの人がそのビジュアルを思い描く事が出来るが、もともとは“誰も姿を見た事がない、一地方の怪現象”だったのである。それを日本全国津々浦々にまで広めたのは、他ならぬ「水木しげる」であった。もし彼がいなかったら、『砂かけ婆』は地味な伝承として、今頃は忘れ去られていたに違いない。

 また「水木しげる」の猛威は、妖怪のみにとどまらない。ヒットラーや南方熊楠の伝記、自らの体験をもとにした戦記、幸福論や人生論、その全体像はあまりにも巨大で見極めるのが難しい。
 しかし、ここにその強烈なブリガドーン現象を定点観測していた人たちがいる。「水木しげる」の家族である。彼らは凄まじいエネルギーの内側、台風の目のような場所に身をおいて、この稀有なる活動の一切をみつめてきた。これはどんな「水木しげる」研究家が望んでも得られない幸運であり、貴重な記録である。
 さらに幸運な事に、水木しげる夫人:武良布枝氏の『ゲゲゲの女房』と、次女:悦子さんの『お父ちゃんと私』(本書)がほぼ同時に上梓された。妻と娘という二つの立場を読み比べる事ができるのだ。夫人の記録は丁重で人生の滋味を深く感じさせるのに対し、本書は軽妙で「水木しげる」の明るいひょうきんな側面をより多く伝えてくれる。どちらが良いというものではない。同じ事件を取り上げても、微妙なニュアンスの違いがあるのだ。私が特に感動したのは、「水木しげる」が妖怪の存在に疑問を抱きスランプに陥った時、悦子さんの言葉で自信を取戻した時のエピソードだ。ぜひ、双方の記録を読み、この未曾有のブリガドーン現象が、実は家族の愛で支えられていた事を確認してほしい。

 水木漫画のなかの“ブリガドーン現象”は、人間社会を混乱させるものとして消滅させられてしまう。しかし、その社会が目に見えるものだけに価値をおく( いや、価値があるかどうかわからない株価の変動に右往左往する )ものならば、それは守るに値するものだろうか。
 私たちは幸いにして、目に見えないが感じる事のできるものの価値を「水木しげる」に教えてもらっている。その豊かさをいま一度かみしめ、子供時代に鬼太郎の歌を口ずさむたびに感じた、開放感、幸福感を思い出したい。

(書評のなかとはいえ、敬称略で「水木しげる」と書くたびにドキドキした事を付記しておきたい)

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紙の本

紙の本100KBを追いかけろ

2008/07/27 01:03

黒史郎を追いかけろ

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 第1回『幽』怪談文学賞・長編部門大賞受賞者、黒史郎の四冊目の単行本である。
 受賞作『夜は一緒に散歩しよ』は妻の死をきっかけに綻びをみせる日常を描いたサイコホラー、次の『獣王』は他に類をみない奇妙な愛の物語、そして3作目の『黒水村』は脱出型アドベンチャーゲームを思わせるライトノベル。そして本作では、作者がもっとも興味を持つもののひとつとしてあげている「都市伝説」と、工業地区で育った若者たちの「傷だらけの青春」の組み合わせにチャレンジしている。

 物語の舞台は、横浜の鶴見だ。その描写は徹底してリアルで、登場する地名や店名はほとんどが実在のものだ。土地勘のある人ならば、「ああ、あそこのコンビニ」と見当がつくだろう。その空気のざらつきすら感じるような生々しい日常の中に突如として現れるのが、100KBというきわめて非日常的なキャラクターなのである。
 ――100KB、100キロババア――有名な都市伝説のひとつで、走行中の車を高速で走って追いかけるという老婆である。100キロでも逃げきれず、追い抜かれた車は事故をおこすともいう。主人公たちは様々な理由からその老婆を追いかける事になる。しかし、「都市伝説」のウワサを追うというのならまだしも、老婆本人を追うと言うのだから、かなり荒唐無稽な話だ。街の描写がリアルなぶん、その非現実的な存在が浮いているように感じるが、読み進むにつれてその違和感は徐々に消えていく。そこには筆者特有の語り口のうまさがある。
 黒史郎の使う修辞は独特だ。たとえば冒頭の事件の「ショートケーキ」。そして最初の事故の「卵」。いずれも日常にありふれた食品を用いたたとえで、パッとイメージが頭に浮かぶ。しかし、そこで起きているのは、とても日常的とはいえない惨劇である。一瞬ユーモアすら感じてしまうイメージと現実の情景のズレ、そのふたつが結びついた時、忘れ難いインパクトが読者を襲う。その中で現実と非現実の境界線は曖昧になって、「都市伝説」は生き生きとしたリアリティを獲得する。気がつくと読者は、違和感なく100KBを追いかけているのだ。

 本書は350頁ちかい長編である。しかし、その疾走感はただ事ではない。まさに100KBのごとく、物語が進行していく。うっかりすると読者の「謎解き」を追い越すほどのスピードで。
 今までの黒史郎の作品のなかでも、バランスの良さは一番だ。三人の若者を中心にした魅力あるキャラクター達、演劇やネット世界にも及ぶ多様なエピソード群、それらがジグソーパズルのピースのように、次々と噛み合わさっていく。ぜひ、まるごと一冊を一気に読みきる快感を体験してほしい。物語を駆け抜けたあと、あなたはランナーズハイのような至福を味わうだろう。

 黒史郎は、今作でまたひとつギアをあげたようだ。しかし、まだ間に合う。その背中を見失わないようについていけば、おそらく今まで経験した事のない、優しさと狂気が混在した世界へ連れていってくれるに違いない。
 さあ――黒史郎を追いかけろ!

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紙の本

紙の本定本久生十蘭全集 1

2009/01/26 05:53

幸福なバーチャルツアーへのチケット

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「久生十蘭」と聞いて、身構えてしまう人は多いのではないだろうか。私もその一人だ。
 私の世代にとって十蘭といえば、三一書房版の全集であり、澁澤龍彦や中井英夫など一流の好事家たちが愛した稀代の作家というイメージが強い。したがって、その書評なんておこがましいとは思うが、三一書房版あるいはその他の書籍では味わえない「特別な魅力」をお伝えしたく、恥をしのんで書かせていただく。

「特別な魅力」とは何か。それはパンフレットに明記されているし、月報で中野美代子氏も指摘している。
『小説は編年体の編集を採用。作品の発表順に収録し、久生十蘭の軌跡がたどれるように構成』されている事だ。
 なんだ、それだけの事か……と思われるかもしれない。だが、実際に順を追って読んでみるとこれが想像以上に面白いのだ。
 十蘭のデビュー作は「ノンシヤラン道中記」、ギャンブル好きの片鱗がうかがえるのは「黒皮の手帳」、彼が異常にこだわって改稿を重ねた短編は「湖畔」、長編の代表作のひとつが「魔都」。こうした断片的な知識は持ち合わせていても、これらの作品が一九三四~八年というわずか四年の間に書かれた事を意識してひとつながりに読んでみると、まるで違った景色がみえてくる。
 短編と長編が溶け合い作り出すより大きな流れは、すなわち十蘭の作家人生の歩みそのものであり、それをなぞる事は、いわば十蘭の脳内バーチャルツアーとも言うべき贅沢極まる愉しみなのだ! もしかしたら、その道程には「小説の魔術師」「多面体作家」と呼ばれたこの作家の謎を解く鍵が落ちているかもしれない……。

 更に、最近併せて読んだ久生十蘭『魔都』『十字街』解読によって、もうひとつの視点を教えてもらった。(この本は「ノンポリで芸術至上主義者」という十蘭の仮面の下のもうひとつの顔を暴こうという、スリリングな刺激に満ちた意欲作だ。一読をおすすめする)
 海野氏は、十蘭のデビューから「魔都」までの(つまり本書に収められた)作品群が書かれたのが、「日本が戦争に向かい表現の自由が奪われていく不自由な時代」だった事を指摘する。当然といえば当然だが、十蘭もまたそういう時代を生きたひとりの人間なのだ。圧倒的な衒学と徹底した韜晦によって時代を超越した作家、という見方に支配されていたので、まさに目から鱗が落ちる思いだった。
 編年体による編集は、十蘭の創作の軌跡を鮮やかに甦らせるだけではなく、十蘭の作品によってその時代を振り返る事も可能にするのだ。読む側の心構えひとつで、まだまだ様々な愉しみ方がみつかるような気がする。

 最初に「十蘭と聞くと身構えてしまう」と書いた。しかし、これは十蘭作品の敷居が高いという意味ではない。たしかに十蘭の文章は職人的なこだわりによって磨きぬかれている。どこから仕入れてきたのかと思うような専門知識が散りばめられている。イコール偏屈で難解、なのではない。基本は極上のエンターティメントであり、すべては読者の愉しみのために捧げられている。
 十蘭の作品のなかで「娯楽性」と「芸術性」は対立しない。なぜなら、それぞれに対するのは「下品」と「劣悪」だからだ。十蘭の作品は、芸術的で娯楽に満ちている。ならば読む事をためらう理由は何もない。

 かつて「えらばれた少数の幸福な読者のためにある作家」などと呼ばれた十蘭。実は「この作家を知った少数の読者だけが幸福」だったのではないだろうか。ひとりでも多くの方が、この幸福なバーチャルツアーへのチケットを手にされる事を願っている。

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紙の本

800字書評【コレクター】

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「私、コレクターなんですよ」
 良く通る低い声で話しかけられたのは、古書展の帰りにふらりと立ち寄った小さな酒舗でだった。永年探していた獅子元蜂蝋の『世界綺想生物大全』を抽選の末に勝ち取り、独りでその祝杯をあげようかというタイミングだったので、さてはこれが目当てかと思わず鞄を引寄せた。が、逆に男はふところから一冊の本を取り出し、差し出してきたのだ。
 黒い表紙のすこし縦長の本。男にうながされて表紙を捲ると、そこには五百円玉の倍ほどの穴があいていた。何だこれはと覗こうとすると、ヒョッコリ赤い玉が現れアッと思う間もなく引っ込んだ。直後、穴の中から大勢の子供の笑い声が聞こえたような気がした。
 いまのは酔いの見せた幻か。おそるおそる頁をめくると、今度は鶏卵大の石が穴に嵌めこまれていた。……鉱物図鑑?いや、違う。磨き上げられた石の中には水がたたえられ、一瞬、魚影が翻ったのだ。その後も頁を捲るたびに、奇妙なものが現れた。
 羽根をふるわせる絶滅した鳥のイラスト、艶めかしい女の太もも、美味しそうな匂いまで漂ってくる焼き貝。いきなり何の動物かわからない唸り声とともに本が揺れた事もあった。あまりの事の連続に、私は不思議だと思う間もなく頁を捲り続けた。
「如何ですか。これらは皆、泡沫のように消えてしまう定めのもの達だったのです。私はそんなカケラを集めているのです」
 驚きのあまり、それはタイヘンですね……と間の抜けた相槌をうつと、男は眼鏡の奥でにんまりと笑った。
「いいえ、自ら集まってきてくれるのですよ。とても良い方法をみつけたので。どうです、貴方も……」
 その先の記憶はない。気がつくと独りで夜道を歩いていた。苦労して手に入れた本はひどく色褪せて見え、男から聞いたあのコレクションに加わる方法を頭の中で反芻していた。


*******************************


当初はここまでで終るつもりだったが、「てのひら怪談」を知らない方にとっては何の事だかわからない、書評の体をなしていないように映るだろうと思い直した。以下、蛇足と承知のうえ記す。

「てのひら怪談」はオンライン書店ビーケーワン主催の「ビーケーワン怪談大賞」応募作100編を収録した怪談集である。400字詰め原稿用紙2枚、800字以内という制約のなかで怖い話、不思議な話、奇妙な話が語られる。それらは狭義の怪談の枠を超え、作家の数だけ個性的な小宇宙が生まれている。その多彩さは、ぜひ手にとって確かめていただきたい。
 評価なしは前回に引き続き拙作を収録していただいたからで、内容は自信をもって5ツ星をつけてお薦めしたい。なお、ビーケーワン怪談大賞は毎年夏に開催されるオンライン公募企画である。800字以内であれば、誰でも参加できる。来年はあなたも、是非。

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紙の本

ハラノムシが治まる成分が含まれております

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 架空生物の図鑑というのは、なぜこんなに楽しいのだろう。シュテンプケの「鼻行類」しかり、鳥山石燕の「画図百鬼夜行」しかり。生物ひとつひとつの意匠を味わうのも良いが、全体を流れる独自の世界観や体系がまたたまらない。役にたたない知識を蓄える喜びを満たしてくれる。この「戦国時代のハラノムシ」もまた、頁をめくるたびに思わず笑みがこぼれる一冊だ。前記の作品が好きな方なら楽しめること請け合いである。63匹の可愛い(なかにはグロテスクなものもいるが)ムシたちが、あなたを迎えてくれるだろう。
 とはいえ、ハラノムシ達を「ハナアルキ」や「ぬっぺっぽふ」と同列にあつかうのは問題があるかもしれない。彼らが収められた『針聞書』は読者を楽しませようとして書かれたものではないからだ。れっきとした日本中世の学術書、医学書なのである。ハラノムシとは当時の人々が実在を信じた、自分たちを苦しめる病魔なのだ。『針聞書』は五臓六腑のうち特に重要な五臓(肺・心・肝・脾・腎)を五行説(金・火・土・木・水)に当てはめ、そこから各々に巣食うハラノムシの弱点を推測し、鍼や薬物で退治するという意図のもとにまとめられたものだ。現代の知識・医学からすればナンセンスかもしれない。しかし、当時も今も痛みや苦しみは「目には見えないがリアルにそこにあるもの」だ。それらに形を与える事によって、コイツさえいなくなれば解放される…と信じた人々の切実な思いを笑うことはできない。
 そのような視点で見直すと、可愛らしく見えたハラノムシ達の顔がなんとも憎らしく見えてくる。馬・牛をモチーフにしたものは、こんなのが体内で暴れまわったらたまらないと思わせるし、名医でも手をやくヤツは笠をかぶっている。これでどんな薬もはじいてしまう、という理屈だ。なかにはハラの中にしまっている欲望を閻魔大王に告げ口して、宿主を地獄におとそうとするお節介で性悪なのまでいる。「痛み」にまでキャラクターを与えるあたり、アニミズム大好き日本人の面目躍如といったところだろうか。
 このキャラクター性に目をつけた九州国立博物館(『針聞書』所有)では、絵本「はらのなかのはらっぱで」を始め、ハラノムシ・グッズを作り販売していて好評だという。戦国時代の病魔がこういう形で甦り、受け入れられるのは実に楽しい事だ。私もフィギュアを数点購入してみたが、肝積(かんしゃく)の胴体をオオオナモミ(いわゆる「ひっつきむし」と呼ばれる草の実)で再現するなど工夫されていて、なかなか愛らしい。ただし、収容された小瓶のフタをしっかり締めておく事が肝要だ。見ているぶんには癒し系だが、ハラノナカに潜り込まれるとやっかいだからである。

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紙の本

「最後のフロンティア」の素顔

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『深海は宇宙よりも謎に満ちている』と言われる。宇宙よりはるかに身近にありながら、重力と暗闇と低温が人類の侵入を拒んできたのだ。『地球最後のフロンティア』という言葉にロマンを感じたものである。

 ところが昨今、深海生物の映像を見る機会が増えているように思う。「へんないきもの」のヒットもあってか、TVで生きたユメナマコの姿が紹介されるのも珍しくない。本書「深海生物の謎」も図版が豊富だ。200頁中半分、あるいはそれ以上をカラー写真が彩る。どうやら『深海』は以前に比べると、すこし身近になっているようなのだ。これらの映像はどのように記録されたのだろうか。そこに注目して読むと、我が国の深海探査の現在が見えてくる。

 日本の深海探査と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、有人潜水調査船「しんかい6500」ではないだろうか。その通算潜航回数が1000回を越えると知って驚いた。誕生から17年、単純に割れば月5回一週間に一度は潜っている計算だ。
 また我が国は、世界で唯一の1万m級の探査機を持っていると記憶していた。しかし、この無人探査機「かいこう」は、残念な事に2003年にケーブルが切れる事故で失われてしまったという。現在は7000mまで潜れる無人機で代用しているそうだ。更に3500mまで潜水でき、自律航行可能な探査ロボット「うらしま」がある。

 これらは深海探査の花形と呼べるもので、門外漢の私でも知っていた。しかし、相模湾・初島沖の海底1175mに「深海底総合観測ステーション」が設置されている、というのはまったく初耳であった。すでに1993年から14年間も観察を続けているのだそうだ。この画像が滅法おもしろい。街角に置かれた定点観測カメラさながら、深海生物の素顔をのぞく事ができるのだ。
 たとえば右から左へ、物体のように流されていくだけのテングギンザメ。大きな目を持ちながらカメラにぶつかるソコダラ。キャプチャー画面だから不鮮明ではあるが、なんとも気取らない普段着の姿だ。筆者はこの映像から、「エサが少ない深海魚はロスを避けるために泳がない」「目はついていても使っていない」のではないか、という仮説をたてている。深海には我々が魚に抱いているイメージを覆す、ただ「流されていくだけ」という生活があるのかもしれない。
 もうひとつ、観測ステーションがとらえた極めて珍しい乱泥流の連続写真も載っている。これは地震によって起きる海底の地滑りだそうだ。深海生物にとっては生き埋めの危険もあるが、浅い海から豊富な有機物を運んでくれる恵みの現象でもある。映像としては地味だが、地球誕生以来くりかえされてきた営みだと思うと感慨深い。
 その他にも、クジラの死骸に群がるエゾイバラガニや、突然の探査機との遭遇に驚き逃げ惑うクマナマコ、そして水圧によってカルシウムが溶けて貝殻を失いイソギンチャクを直に背負っているヤドカリなど、滅多に見られない画像のオンパレードである。

 それにしても、なぜこんなに熱い視線が深海に向けられているのだろう。それは、深海と呼ばれる「トラフ」や「海溝」がプレートが沈み込む所、すなわち『地震の巣』だからだ。地震大国・日本としては無視できない場所なのである。
 また、海底火山活動の活発な場所には独特の「化学合成生態系」が存在する。光合成に頼らず、硫化水素などの化学物質からエネルギーを得るチューブワームやシロウリガイは、まるでSF小説に出てくる生命体のようだ。しかし、逆に彼らの生きる環境こそ、生命が誕生したばかりの原始の地球に近いのだそうだ。そういえば海底をさまようナマコは、カンブリア紀の生物に似ているようにも見える。深海は地震のメカニズムだけではなく、生命の秘密も隠しているようだ。

 深海は謎に満ちている。しかし、少しずつそのベールは剥がされつつある。それを眼で確認できる入門書として、最適の一冊だと思う。

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紙の本

紙の本久生十蘭「従軍日記」

2007/11/06 00:36

ジュウラニアンにとってのパンドラの箱

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ジュウラニアンと呼ばれる「久生十蘭中毒者」にとって、彼の残した従軍日記(すなわち本書である)が存在し出版されるというニュースは、喜びよりも戸惑いをもって迎えられたのではないだろうか。十蘭はいっさいのプライベートを秘匿し、また嘘の経歴で人を煙にまくことを喜びとする人だったからである。そのスタイルを愛したファンが、いまさら手品の種明かしなど見たくないと思っても不思議ではない。そういう人がこの書評を目にするか疑問ではあるが、ひとつだけ取り急ぎ伝えたい。現在の久生十蘭著作継承者、十蘭の姪の三ツ谷洋子さんの言葉だ。

「叔父様、スミマセン。素顔が公開されて恥かしいのは我慢してください。名前さえ忘れられている今となっては、これしか方法がないんです」

 私はこれを読んだ時ショックだった。「良いものはいつまでたっても古びない」などという常套句は、この大量消費社会では容易に飲みこまれてしまうのだ。思えばジュウラニアンという言葉を作り出した中井英夫氏や、高い評価をあたえていた澁澤龍彦氏、都筑道夫氏も鬼籍に入って久しい。十蘭その人が忘れられては、種明かしも何もない。迷いつつも、書評の筆をとった次第である。

 ここから先は、多少なりとも十蘭の「人となり」に触れてもよい、という人を対象にして書くので御了承いただきたい。

 さて、生身の十蘭とはいかなる人か……という興味で読み出したのだが、まず驚いたのが「戦争」というものの実態である。それはあまりにも意外なものだった。とにかく豊かで余裕があるのだ。
 十蘭の従軍日記は1943(昭和18)年の2月下旬から9月上旬までの約半年の記録で、海軍従軍記者として台湾-フィリピン-インドネシア-ニューギニアを回っている。その扱いは一般兵と違っていて当然だが、ほとんど毎日晩酌は欠かさないし、食事はすき焼き・中華・刺身、食後にはチョコレートまで楽しんでいる。前半の物見遊山のようなフィリピン滞在は特別としても(当時“南方の天国”と言われていたらしい)、前線に近いアンボン島ですら「さもしい事を云うようだが内地の乏しい暗い食事のことを考え、帰ってからのわびしさが思いやられ沈んだ気持ち」になる、と告白している。娯楽も豊富で、麻雀、ビリヤード、トランプ、そして慰安所通いもきわめて日常的に書かれている。
 十蘭の素顔に驚く前に「戦争」の素顔に驚かされた。

 そんな環境の中で、十蘭は率直で人間的だ。
「作家の才能などはどこかへ埋めつくし自分を戦争の純粋な一個の卒伍とし報道班員としての命をかけた日々の実践そのもののほうがよっぽどすぐれた作品だ」と熱く語ったかと思うと、「死ぬのはいやなり、なんとかして安全に帰りたし」と友人に帰還命令を出してもらえぬか依頼しようと考えたりする。これは建前と本音というより、特殊な環境におかれた一人の人間の思考の揺れだろう。折にふれ「きょうこそ死ぬような気がする」と不安をもらし、「十三日の金曜日」を気にかけたり、空襲中に「お守袋を忘れた」と引き返すあたりの心理は、私たちとなんら変わらないと感じた。

 私はこの従軍日記と並行して、十蘭の短編作品をいくつか読み直した。サランガン湖畔に滞在した際の「おれは湖畔が好きだ」から始まる故郷・函館の湖畔の思い出の描写を読んで、どうしても名作『湖畔』を読み返したくなったのだ。『湖畔』の最初の発表は1937年だが、その後改稿版は1952年、つまりこの従軍日記を挟んでいる。ふたつを読み比べれば、サランガン湖畔での体験の影響が読み取れるかもしれない。他にも『黄泉から』で語られるニューギニアでのヒロインの最期は、マラリヤを覚悟した自らの体験が重ねあわされているのだろう。『母子像』もまた、サイパンでの悲劇が骨子となっている。
 逆に日記では書かれていない事が、作品から読み取れるケースもある。日記では現地の人々の描写は淡白だが、『手紙』ではまさに骨身を削って日本人に尽くすインドネシア人が描かれる。十蘭が彼らにどんな視線をむけていたかが感じられる。

 この従軍日記を読む前と後で、やはり十蘭作品の味わいは変わる。私がさらに味わいを濃くするフレーバーと感じても、ある人にとっては耐え難い移り香かもしれない。そのあたり読む前に一考を要する本といえるだろう。しかし、少なくとも「久生十蘭」という美酒はもっともっと飲まれるべきだ。このような宝が、たかだか没後50年で埋もれていいはずはないのだから。

 それにしても、生前に作品以外のすべてを隠そうと苦心していた作家が、よりによって「読みかえしては強く舌打ちすべき」「怠惰と無為の日々」と自ら記す記録を白日のもとにさらす事になるとは、実に皮肉だ。まるで『黒い手帳』の主人公のようだ、と書いたら十蘭はどんな顔をするだろうか。

――運命とは元来かくのごとく不器用なものであろう――久生十蘭『黒い手帳』より

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紙の本

「ヒカ碁」の面白さはスパイラル!

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 初めにお断りしておくが、私は碁が打てない。それでも、「ヒカルの碁」(以下ヒカ碁)は、何度も繰り返し読む愛読書である。その面白さはどこにあるのか、私なりの楽しみ方をご紹介したい。

 唐突ではあるが、まずは頭の中になるべく大きな円錐(すい)を思い浮かべていただきたい。そして、その頂点から底辺にむけて、螺旋(らせん)状に溝を掘っていく。するとドリルのような立体ができるはずだ。これが私のイメージする「ヒカ碁」の世界である。
 頂点はもちろん、「神の一手」。螺旋状の溝は、そこに至るまでの道のりだ。「ヒカ碁」に登場する人物は、例外なくこの道のどこかに存在する。ヒカルやそのライバル塔矢アキラはもちろんのこと、囲碁界の頂点に君臨する塔矢名人、1000年の時を越えた存在である藤原佐為さえも。
 「ヒカ碁」の面白さを支えるもののひとつが、この円錐(すい)形の世界観のゆるぎなさだ。物語の前半部でいえば、日本棋院のシステムをリアルに描いていること。これが、ともすれば「なんでもあり」になりがちな少年漫画的加速のブレーキの役割を果たして、リアルな勝負の面白さをうんでいる。

 さて、この螺旋(らせん)状の道には、ところどころにポイントがある。「関所」のようなイメージを描いていただくと良いかもしれない。それらは、「院生試験」であり、「若獅子戦」であり、「プロ試験」であり、「新初段シリーズ」であり、「大手合」であり、「タイトル戦」である。「神の一手」に近づくためには、それらのポイントをひとつずつクリアしていかねばならない。物語は当然、主人公ヒカルの視点で描かれる。通常なら順番にクリアしていくその道筋が、佐為の存在によって混乱させられるのが「ヒカ碁」の読みどころだが、かといって一足飛びに飛び越えるわけではない。混乱しつつも、ヒカルは自分の力でこのポイントをクリアしていく。塔矢アキラが歩いた道をなぞるように。

 しかし、この道を歩くのはヒカルとアキラだけではない。ヒカルと同期の院生たちも、そのうえのプロ棋士たちも、そして物語後半ではヒカルの後輩たちも、それぞれのスピードでこの道を登っていく。そこで私の「ヒカ碁」の楽しみ方だが、ひとつのポイントに限定して、各キャラの違いを楽しむのである。つまり、「プロ試験」であれば、ヒカルの前にクリアしたアキラはどうだったのか、真柴はどうだったのか、ヒカルの後に受けた伊角や門脇はどうだったのか。ヒカル・和谷・伊角がしのぎを削ったプロ試験を読んだ後に、アキラのそれを読み返すと、なぜ和谷がアキラのズル休みに対して怒ったのかがよく理解できる。さらに「新初段シリーズ」に注目すると、伊角と真柴がそれぞれ桑原本因坊と対戦している。その対応の差によって、直接対戦が描かれないにもかかわらず、伊角ファンは溜飲を下げる事ができる。

 もちろん、すべてのキャラ、すべての対戦が描かれている訳ではない。しかし、行間を読むヒントが多いのも「ヒカ碁」の魅力のひとつだ。たとえば、私のお気に入りのキャラである倉田六段の初登場はヒカルがプロになった直後だが、それ以前からアキラと塔矢名人の強さをつなぐミッシングリンクとして何度も会話のなかに登場している。それぞれのポイントを細かく拾い上げていけば、倉田の辿った道筋が浮かび上がってくるかもしれない。

 このように「ヒカ碁」は、ゆるぎない世界像と、そのなかでのリアルな戦いの道程によって何度でも……、いや、むしろ再読にこそ面白みがある。すこしサイズが大きく印刷の美しい愛蔵版が出たのを機に、また読み直してみるつもりだ。

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紙の本隠居の日向ぼっこ

2008/06/19 07:01

800字の小宇宙

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 今年もビーケーワン主催の「ビーケーワン怪談大賞」が開催されている。800字以内の怪談を創作・実話を問わず募集し、全投稿作をブログ形式で発表するというユニークな試みは、すっかり夏の風物詩として定着したようだ。私も駄文を書き連ねたり、磨き上げられた玉のような作品を拝読したりと楽しませて頂いている。この催しに参加して痛感した事は、800字、わずか原稿用紙二枚分の文章が、実に豊潤な可能性を秘めているという事である。

 さて、前置きが長くなったが、この杉浦日向子「隠居の日向ぼっこ」も800字以内で書かれたエッセイだ。江戸から昭和にかけて活躍した道具をテーマに、博識とユーモアを織り込み驚くべき小宇宙をつくりあげている。さながら、庶民生活の歴史のミニアチュールを覗いているようで、とても原稿用紙二枚分とは思えない内容の濃さである。その懐の深さは、さまざまな楽しみ方を提供してくれる。
 なぜ「踏み台」は市販されていなかったのか、なぜ不正乗車の事を「きせる」と呼ぶのか、そんなトリビアを拾い集めてもいいし、「はいちょう」や「おひつ」などの絶滅危惧種の話を読んで昔話にふけるのもいい。いまでも現役の「すごろく」や「櫛」の、江戸時代と現代の違いに驚くのも楽しい。また、「鏡」における『わたしたちは鏡の国に住んでいる』『虚像と現実がごちゃまぜで、他人はもとより、自分とも向き合っていない』という鋭い指摘は、たいへん考えさせられるものであった。

 魅力をあげだすとキリがないが、ただひとつ寂しいのは、作者がすでに夭逝されている事だ。もともと漫画家として優れた作品を発表されていたが、突然「隠居宣言」をしてコメンテーター・文筆家に転身した。そのとき既に闘病生活をはじめられていたという。そんな事を微塵も感じさせなかった明るさと、前向きなユーモアはこの本でも健在だが、随所に「一度きりの人生を真剣に生きよう」という覚悟が語られていて、胸にせまる。
 文中で「若い人に“蚊帳の海で泳ぐ”という表現が通じなかった」というエピソードが、苦笑まじりに紹介されている。「蚊帳」だけではない。「頭巾」「ひごのかみ」「ねんねこ」……忘れ去られようとしている物たちへの愛情は深い。それは後ろ向きの感傷ではなく、先人の知恵を未来へ伝えていきたいという想いが込められているのだ。この本に紹介された「道具」だけではなく、この本を書いた「杉浦日向子」という優れた表現者がいた事も、同時に語り継いでいきたい。

 なお、蛇足ではあるが、杉浦日向子には百物語という怪談漫画の傑作がある。いまは文庫本一冊で、読むことができる。怪談に興味のある方には、ぜひ一読をお勧めする。

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紙の本綺想迷画大全

2008/01/21 05:46

斉天大聖(せいてんたいせい)大暴れ

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「まぁ、なんとお行儀のわるい……」
 お釈迦様にそう怒られるのではないか、というのがこの本の第一印象だった。

 「西遊記」の訳者であり、シノロジー(中国学)図像学の第一人者である中野美代子氏が、お気に入りの絵画について語った本とくれば面白くない訳がない。そう思って読み始めたのだが、こちらの想像をはるかに超えた自由な精神の飛翔にめまいを覚えた。
 対象は中国を飛び越え、タイの寺院の壁画、中世ヨーロッパの写本、ペルシアの絨毯にまで及ぶ。さらにその内容といったら、巨大な一本足の怪物スキヤポデス・写字生たちが写本の余白に描いたラクガキ・皇帝のハンコがペタペタ捺された画巻・、日本の誇る若冲のニワトリ・デューラーの犀・十八世紀中国のフィギュアスケート……興味のおもむくままにその美味しいところを味わおうという姿は、天界の蟠桃や金丹を平らげた斉天大聖(孫悟空)の大暴れを思わせる。

 しかし、ただ単に食べ散らかす(この場合は見散らかす、か)のではない。その絵の描かれた時代背景に深く切り込み、作者やその絵を描かせた権力者の思惑までを暴き出す。たとえば、パオロ・ヴェネローゼ作『アレクサンダー大王の前のダリウス一家』のなかにさりげなく描かれた一匹のサル。ヨーロッパには棲息しないサルは、「東方」への植民地主義の表れだと読み解く。それは十七世紀のヨーロッパの地図に見られる偏見を経て、現在の私たちにもつながっている。本書の巻末で紹介される『西遊漫記』(1945)の内容は強烈だ。
 また権力者の肖像画の顔ではなく体の「異様な大きさ」に注目し、その例としてイギリスのヘンリー8世と明の洪武帝・永楽帝をあげる。ともに暴君として知られ、帝王の本質が洋の東西を問わないという指摘にはなるほどと思った。
 その逆に、西洋絵画と中国画の違いの解説も興味深い。十五世紀に「消失点」を発見し、二次元のなかにリアルな三次元を再現しようとしたヨーロッパに対し、中国画は遠近法をもたない。これはひとつの画面のなかで右から左へと視点が移動していくからだ。その鑑賞法を知らなければ、奥行きのないつまらない絵として見過ごしてしまうかもしれない。
 ただ漫然と画面を見ているのではわからない事がなんと多い事か。今まで絵画を見散らかしていたのは自分の方ではないか、と恥かしくなる。

 最初に著者の奔放さを孫悟空になぞらえたが、むしろ釈迦如来に例えるべきだったかもしれない。
 自分は絵画が好きで他人より多く観賞してきた、世間の評判にとらわれず自分の価値観で好きな絵を選んできた……そういう人にこそ、この本を読んでもらいたい。今まで自分が見てきた絵画とその理解が、いかに狭く浅いものであったかを知るだろう。そして自分こそが、「世界の果てまで飛んできたと思ったら、お釈迦さまの掌から出ていなかった孫悟空」だったと気づくに違いない。

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紙の本

紙の本世界のキノコ切手

2007/12/26 06:53

50万分の1のキノコ

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本を手にしたら、まずは表紙の切手部分を撫ぜてみてほしい。少し段差があって、本当に切手が貼ってあるように感じるはずだ。こういう遊び心を発見すると、たまらなく嬉しい。

 さて、本書は20年以上前に突然キノコに「取り憑かれた」という写真評論家・飯沢耕太郎氏が収集したキノコの切手のコレクション・カタログである。3000枚以上を収集したという目にも鮮やかな世界中のキノコ切手が、国別に分類され紹介されている。そこにはふたつの世界への扉が用意されている。すなわち、「キノコの世界」と「切手の世界」である。

 まずは「キノコの世界」。私も筆名に使っているくらいだからキノコは好きだが、その魅力は奥深い。思いつくまま挙げてみよう。色や形が豊富である・食べられる・毒がある・生態に謎が多い・多くの文学や絵画や映画作品に登場する……等々。さまざまなアプローチの仕方があるし、どの角度からみても飽きない面白さを持っていると思う。本書巻末の対談では、植物でも動物でもないキノコのあり方が語られていて興味深い。とかく白黒をつけたがる現代の人間に、第三の道を示しているようにも感じられる。

 次に「切手の世界」。かつて切手といえばコレクションの花形だった。1960年代前後のブームの頃は、子供から大人まで夢中になって収集したものだ。額面以上に価値が出るのでは……という投機的な側面もあったが、やはり切手の持つ魅力が大きかったのだろう。小さく美しく種類が多い切手は、コレクションに最適だった。
「小さく美しく種類が多い」という特徴はキノコにも被っている。キノコと切手は相性がいいのだ。二つの世界が、とても自然に重なっている。
 コレクションの楽しみは、分類する楽しみである。本書の分類どおり切手デザインのお国柄を楽しむのも面白いし、あるキノコ1種を見比べてその共通点や違いを発見するのも味わい深い。また記念切手を重要な外貨獲得の手段として、力をいれている国も多い。切手から国際情勢にまで思いが及ぶ。

 世界最古のキノコ切手は何か、海外のキノコ切手カタログにみつけたとんでもない日本切手へのカン違いとは、などエッセイ部分も面白い。なかでも私が興味をひかれたのは以下の数字である。
 世界中に存在するであろうキノコの種類:約50万
 そのうち発見されているもの:その5%
 学名があるもの:2-3万
 日本に存在するキノコの種類:約1万
 和名のついているもの::2-3000
 世界で発行されている切手の基本セット:3840
 日本で発行されている切手の種類:1

 我が国唯一のキノコ切手は、1974年「第9回国際食用きのこ会議記念」切手に描かれたシイタケである。いかにも寂しい。郵政民営化後の記念切手がどうなるのかは知らないが、もう少し遊び心があってもよいのではないだろうか。著者と声をあわせて叫びたい。
「日本にキノコ切手を!」

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