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仙人掌きのこさんのレビュー一覧

投稿者:仙人掌きのこ

27 件中 1 件~ 15 件を表示

怪談108R(ラウンド)――怖いって何だろう?

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 帯には「3分で読める800字の怪談が108編!」とある。編者である東氏は「カップ麺」と「ウルトラマン」をあげていらしたが、私の脳裏に浮かんだのは「ボクシング」であった。更に、愛読しているボクシング漫画「はじめの一歩」を連想し、こうつぶやいた。『怖いって何だろう?』

 ふとしたきっかけでビーケーワン怪談大賞に作品を投稿し、それが本になるという僥倖を得たのは、文章の素人である私にとっては喜びであるとともに戸惑いでもあった。まさに、ボクシングに巡り合ったばかりの一歩くんの気分だ。自分の書いたものが評価されるのは嬉しい、他の人の素晴らしい作品を読むのは楽しい、しかし常に原点とも言うべき問いに立ち返る。『怖いって何だろう?』――と。
 この問いに対してもっとも無難で納得できる解は、「怖さは人それぞれだから正解はない」というものだろう。しかし、それでは間口は広がるばかりでますます霧は深くなる。この「てのひら怪談 己丑」には108もの怪談がおさめられている。それぞれが工夫をこらし切り口を変えて、それぞれ怖い。こんなに沢山の怖さを味わったのなら、もう満足しそうなものだが、もっと怖い話を読みたい、そして書きたいという気持ちが湧き上がる。これはいったい何なのか。
 その秘密は怪談の「談」にあるような気がする。談とは「話す」ことである。すなわち、話し手と聞き手とがそこに居る。もちろん小説をはじめ、すべての創作は作者と受け取り手のキャッチボールだ。しかし、怪談はその関係が非常に濃密であるように思われる。「怖さ」を伝えようとする語り手と、受け取ろうとする聞き手。その距離は、普通の小説よりもずっと近く、膝突き合わせているような感覚だ。そして「怖さ」というのは、その距離を保つための約束事なのではないか。「これから始まるのは怖い話ですよ」という約束事が、話者と聞き手の一体感をうみ、他の本とは違う濃厚なコミュニケーションを可能にする。それが怪談のもつ独特の魅力につながっているのではないか。

 冒頭に引用したので、すこし「はじめの一歩」の話をしよう。いじめられっ子だった主人公がボクシングに出会い、釣り船屋を手伝っていた地力をもとに努力を重ね、多くのライバル・友人とともに成長していくという王道の少年漫画である。一試合ごとに課題を克服し、必殺技を身につけ、ついには日本チャンピオンになるが「強いって何だろう?」という疑問は解けないままだ。これは、この漫画が「物理的な強さ」を描いているのではないからだ。物理的な強さの追求ならば、相手を殴り倒した時点で終わりだろう。しかし、一歩の闘う相手には、それぞれの人生が用意されている。様々な理由でボクシングを続け、それぞれの努力の仕方で武器(強さ)を身につけている。一歩は、闘うたびに違う強さに巡り会う。いわば「強さ」を約束事にした、濃厚なコミュニケーションの物語なのである。

 怪談もまた『怖いって何だろう?』という気持ちで作品に対峙すれば、それは語り手の人生――そのなかでもかなり激烈な一瞬――を共にする事になる。普通の小説や会話では得られない、深く濃厚なコミュニケーション。それが本来負の感情であるはずの「恐怖」を、悦びに昇華させるように思うのだ。
 山下昇平氏がつくった魅惑的なキャラクターが、本文中で旅をしているのは象徴的だ。この本に収められた一作一作は、すべてそれぞれの作者が、人生という旅のなかでみつけたとっておきの怖さなのだから。

 現在(2009年6月1日~7月21日)、「第7回ビーケーワン怪談大賞」が開催中である。今年もまた『怖いって何だろう?』と自問しつつ、ひとりでも多くの人と濃厚なやりとりを交わしたいと思っている。

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800字書評【コレクター】

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「私、コレクターなんですよ」
 良く通る低い声で話しかけられたのは、古書展の帰りにふらりと立ち寄った小さな酒舗でだった。永年探していた獅子元蜂蝋の『世界綺想生物大全』を抽選の末に勝ち取り、独りでその祝杯をあげようかというタイミングだったので、さてはこれが目当てかと思わず鞄を引寄せた。が、逆に男はふところから一冊の本を取り出し、差し出してきたのだ。
 黒い表紙のすこし縦長の本。男にうながされて表紙を捲ると、そこには五百円玉の倍ほどの穴があいていた。何だこれはと覗こうとすると、ヒョッコリ赤い玉が現れアッと思う間もなく引っ込んだ。直後、穴の中から大勢の子供の笑い声が聞こえたような気がした。
 いまのは酔いの見せた幻か。おそるおそる頁をめくると、今度は鶏卵大の石が穴に嵌めこまれていた。……鉱物図鑑?いや、違う。磨き上げられた石の中には水がたたえられ、一瞬、魚影が翻ったのだ。その後も頁を捲るたびに、奇妙なものが現れた。
 羽根をふるわせる絶滅した鳥のイラスト、艶めかしい女の太もも、美味しそうな匂いまで漂ってくる焼き貝。いきなり何の動物かわからない唸り声とともに本が揺れた事もあった。あまりの事の連続に、私は不思議だと思う間もなく頁を捲り続けた。
「如何ですか。これらは皆、泡沫のように消えてしまう定めのもの達だったのです。私はそんなカケラを集めているのです」
 驚きのあまり、それはタイヘンですね……と間の抜けた相槌をうつと、男は眼鏡の奥でにんまりと笑った。
「いいえ、自ら集まってきてくれるのですよ。とても良い方法をみつけたので。どうです、貴方も……」
 その先の記憶はない。気がつくと独りで夜道を歩いていた。苦労して手に入れた本はひどく色褪せて見え、男から聞いたあのコレクションに加わる方法を頭の中で反芻していた。


*******************************


当初はここまでで終るつもりだったが、「てのひら怪談」を知らない方にとっては何の事だかわからない、書評の体をなしていないように映るだろうと思い直した。以下、蛇足と承知のうえ記す。

「てのひら怪談」はオンライン書店ビーケーワン主催の「ビーケーワン怪談大賞」応募作100編を収録した怪談集である。400字詰め原稿用紙2枚、800字以内という制約のなかで怖い話、不思議な話、奇妙な話が語られる。それらは狭義の怪談の枠を超え、作家の数だけ個性的な小宇宙が生まれている。その多彩さは、ぜひ手にとって確かめていただきたい。
 評価なしは前回に引き続き拙作を収録していただいたからで、内容は自信をもって5ツ星をつけてお薦めしたい。なお、ビーケーワン怪談大賞は毎年夏に開催されるオンライン公募企画である。800字以内であれば、誰でも参加できる。来年はあなたも、是非。

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てのひらからてのひらへ

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

たくさんの個体が集まって巨大な群体をつくる…鉄腕アトムに登場した「ロボット宇宙艇」のような生物が実在するという。
深海に棲むクダクラゲである。
驚いた事にそれぞれの個体は、専門の役割を担っているそうだ。あるものは捕食、あるものは生殖、あるものは移動…あたかも一つの生命体のように。
この「てのひら怪談」はまさにそんな一冊である。
インターネットでの公募という、地域も年齢も性別もバラバラな60名以上の語り部から集まった100の怪談。
しかし読み進むうちに、作品と作品が繋がり脈打ち出すのを感じるはずだ。
それは「連句連歌」を意識したという編者の巧みな演出によるものであり、また全く意識されない偶然の連鎖でもある。
怪を語ろうという意志が、あたかもクダクラゲのように繋がってひとつの命を作り出しているのだ。
かくいう私もその一部に参加するという僥倖に与った。
次に繋がるのは、これを読んでいるあなたかもしれない。
「てのひら怪談」は陽の届かない深海ではなく、一人ひとりの頭蓋の裏の暗闇に棲んでいるのだから。

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紙の本久生十蘭「従軍日記」

2007/11/06 00:36

ジュウラニアンにとってのパンドラの箱

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ジュウラニアンと呼ばれる「久生十蘭中毒者」にとって、彼の残した従軍日記(すなわち本書である)が存在し出版されるというニュースは、喜びよりも戸惑いをもって迎えられたのではないだろうか。十蘭はいっさいのプライベートを秘匿し、また嘘の経歴で人を煙にまくことを喜びとする人だったからである。そのスタイルを愛したファンが、いまさら手品の種明かしなど見たくないと思っても不思議ではない。そういう人がこの書評を目にするか疑問ではあるが、ひとつだけ取り急ぎ伝えたい。現在の久生十蘭著作継承者、十蘭の姪の三ツ谷洋子さんの言葉だ。

「叔父様、スミマセン。素顔が公開されて恥かしいのは我慢してください。名前さえ忘れられている今となっては、これしか方法がないんです」

 私はこれを読んだ時ショックだった。「良いものはいつまでたっても古びない」などという常套句は、この大量消費社会では容易に飲みこまれてしまうのだ。思えばジュウラニアンという言葉を作り出した中井英夫氏や、高い評価をあたえていた澁澤龍彦氏、都筑道夫氏も鬼籍に入って久しい。十蘭その人が忘れられては、種明かしも何もない。迷いつつも、書評の筆をとった次第である。

 ここから先は、多少なりとも十蘭の「人となり」に触れてもよい、という人を対象にして書くので御了承いただきたい。

 さて、生身の十蘭とはいかなる人か……という興味で読み出したのだが、まず驚いたのが「戦争」というものの実態である。それはあまりにも意外なものだった。とにかく豊かで余裕があるのだ。
 十蘭の従軍日記は1943(昭和18)年の2月下旬から9月上旬までの約半年の記録で、海軍従軍記者として台湾-フィリピン-インドネシア-ニューギニアを回っている。その扱いは一般兵と違っていて当然だが、ほとんど毎日晩酌は欠かさないし、食事はすき焼き・中華・刺身、食後にはチョコレートまで楽しんでいる。前半の物見遊山のようなフィリピン滞在は特別としても(当時“南方の天国”と言われていたらしい)、前線に近いアンボン島ですら「さもしい事を云うようだが内地の乏しい暗い食事のことを考え、帰ってからのわびしさが思いやられ沈んだ気持ち」になる、と告白している。娯楽も豊富で、麻雀、ビリヤード、トランプ、そして慰安所通いもきわめて日常的に書かれている。
 十蘭の素顔に驚く前に「戦争」の素顔に驚かされた。

 そんな環境の中で、十蘭は率直で人間的だ。
「作家の才能などはどこかへ埋めつくし自分を戦争の純粋な一個の卒伍とし報道班員としての命をかけた日々の実践そのもののほうがよっぽどすぐれた作品だ」と熱く語ったかと思うと、「死ぬのはいやなり、なんとかして安全に帰りたし」と友人に帰還命令を出してもらえぬか依頼しようと考えたりする。これは建前と本音というより、特殊な環境におかれた一人の人間の思考の揺れだろう。折にふれ「きょうこそ死ぬような気がする」と不安をもらし、「十三日の金曜日」を気にかけたり、空襲中に「お守袋を忘れた」と引き返すあたりの心理は、私たちとなんら変わらないと感じた。

 私はこの従軍日記と並行して、十蘭の短編作品をいくつか読み直した。サランガン湖畔に滞在した際の「おれは湖畔が好きだ」から始まる故郷・函館の湖畔の思い出の描写を読んで、どうしても名作『湖畔』を読み返したくなったのだ。『湖畔』の最初の発表は1937年だが、その後改稿版は1952年、つまりこの従軍日記を挟んでいる。ふたつを読み比べれば、サランガン湖畔での体験の影響が読み取れるかもしれない。他にも『黄泉から』で語られるニューギニアでのヒロインの最期は、マラリヤを覚悟した自らの体験が重ねあわされているのだろう。『母子像』もまた、サイパンでの悲劇が骨子となっている。
 逆に日記では書かれていない事が、作品から読み取れるケースもある。日記では現地の人々の描写は淡白だが、『手紙』ではまさに骨身を削って日本人に尽くすインドネシア人が描かれる。十蘭が彼らにどんな視線をむけていたかが感じられる。

 この従軍日記を読む前と後で、やはり十蘭作品の味わいは変わる。私がさらに味わいを濃くするフレーバーと感じても、ある人にとっては耐え難い移り香かもしれない。そのあたり読む前に一考を要する本といえるだろう。しかし、少なくとも「久生十蘭」という美酒はもっともっと飲まれるべきだ。このような宝が、たかだか没後50年で埋もれていいはずはないのだから。

 それにしても、生前に作品以外のすべてを隠そうと苦心していた作家が、よりによって「読みかえしては強く舌打ちすべき」「怠惰と無為の日々」と自ら記す記録を白日のもとにさらす事になるとは、実に皮肉だ。まるで『黒い手帳』の主人公のようだ、と書いたら十蘭はどんな顔をするだろうか。

――運命とは元来かくのごとく不器用なものであろう――久生十蘭『黒い手帳』より

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紙の本響鬼探究

2007/09/26 03:49

「劇場版」「仮面ライダー響鬼」「七人の」「王子」

19人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「仮面ライダー響鬼」(以下「響鬼」)のファンは屈折している。
 自分の好きなものを好きとは言い切れない……そんな鬱屈した想いを抱いている。その原因は、番組中盤でのプロデューサー交代劇にある。作る人間が変われば内容が変わるのは当然の事だ。「響鬼」は連続した物語でありながら、ふたつのテイストを持ってしまった作品なのだ。

 この『響鬼探求』はその交代前、29話までを対象にした本だ。30話以降は別物として考え批判はしない、というスタンスが貫かれている。最初にその構想を知った時、ずいぶん窮屈な本になるのではないかと心配した。しかし、読み進めるうち、なるほどそういう事かと得心が行った。
 帯にはこう書いてある。……『いまでも、鍛えてます!』
 この本は「響鬼」という番組を振り返るものではない。「響鬼」という作品に触発された人々が、それぞれの得意フィールドでの「鍛えの結果」を披露するものなのだ。他人の過去ではなく、自分の現在を語る本なのだ。
 それはあたかも、番組中で「鬼たち」をサポートしていた“たちばな”のメンバーの活動を見るようだ。魔化魍(まかもう)を研究する者、鬼の秘密を探る者、修行方法を考察する者……番組終了後も続いているであろう彼らの研究発表会を覗いている、と考えると楽しくなってくる。「響鬼」は人間の善を描こうとした健やかな番組だった。『響鬼探求』のアプローチと読後感は、それに相応しいものである。

 さて、ここからは書評から少し遠ざかってしまうが御容赦いただきたい。
 この書評の題は「劇場版 仮面ライダー響鬼と7人の戦鬼」を意識したコラージュだ。省略せずに書くと「劇場版未来少年コナン」「七人の侍」「太陽の王子ホルスの大冒険」である。この3作は「途中で完成があやぶまれた、或いは違う形で完成せざるを得なかった」という点で「響鬼」と共通している。
 まず「七人の侍」だが、言うまでもなく黒澤明の代表作である。当初の予算の五倍を要したという大作は、撮影半ばにして中断の危機をむかえた。この時、黒澤は映画会社の重役を前に撮影が済んだ部分だけの試写会を行った。中途半端に終了し「この続きは?」と問う重役に、黒澤は「これから撮ります」と答えて追加予算を得た。作品の面白さで説得したのである。
 「太陽の王子ホルスの大冒険」は、現在ジブリを支える宮崎駿・高畑勲らが青春をつぎ込んだと言ってもいい長編アニメだ。製作期間8ヶ月の予定が2年以上かかり、上司は「君たちは会社がプレハブを作れと言っているのに、鉄筋コンクリートを建てているんだ」と叱ったという。発表時の評判は芳しくなかったが、今では日本長編アニメの金字塔と評されている。
 「ホルス」にも参加していた宮崎駿が、初めてオリジナル作品に挑戦したのが『未来少年コナン』である。この作品の映画化が決まった時、宮崎は頭をかかえたという。もともとTVシリーズで13時間近くある作品を、2時間にまとめるのは不可能だと思われたからだ。思い余った宮崎は完全新作の「未来少年コナン2」の企画を提出した。(後の未来少年コナン2 タイガアドベンチャーとは別物)しかし、TVのダイジェスト版で十分と考えていた会社と折り合いがつかず、新作は却下された。「劇場版」は他の人間が担当し、似て非なる作品となった。もしこの時に英断があれば、ナウシカ以前に傑作が誕生していたかもしれない。

 いずれの作品も予算や制作期間を超過したのは、その志の高さゆえだ。良いものを創ろうという情熱は、時として収まるべき器まで破壊してしまう。しかし、そうしたエネルギーを持たねば到達できない領域が確かに在るのだ。「響鬼」は間違いなくそれを秘めた作品だった。
 「響鬼」が秘めていた情熱の「現在」の結実が『響鬼探求』であるならば、「未来」はどうだろうか。初心貫徹ならなかったスタッフが、将来また別の形で「鍛えの成果」を見せてくれるのを、私は期待して待ちたいと思う。

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紙の本あちん

2008/05/31 05:28

メメント・モリ

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「メメント・モリ(死を忘れるな)」
「哲学とは死の練習である」

 思春期の頃はそんな言葉をメモして、わかったような気分になっていたものだ。その時は真剣だったが、切実ではなかった。あくまでも「死」はまだまだ先の話であり、他人事だった。絶対に安全を保証された場所から、死の恐怖をのぞいていたに過ぎない。いわば遊園地のバンジージャンプのようなものだ。
 怪談の醍醐味もまた、それに似ている。どんなに恐ろしくおぞましい話であろうと、それは活字(または映像・語り)の向うの世界だ。安全な場所で、擬似恐怖体験や仮の死を味わうのだ。
 しかし「あちん」を読み進むうち、じわじわとその安心が侵されていくのを感じた。そう、作品に登場するオホリノテが這い出てくるように。この感覚は、いったい何なのか。

 「あちん」は福井県の都市伝説や実話をもとに書かれた、連作短編怪談である。『雨の日にお掘りばたを歩いてはいけない』という言い伝えを破った主人公は、オホリノテと呼ばれる藻草を踏んでしまう。それ以降、靴に残った黒いシミが拡がるように次々と怪異に襲われる。切るとタタリがあるというご神木、死者と話せる公衆電話、逆回りすると黄泉の国に誘われる島、見たら必ず死ぬという武者行列……。どこの街にもありそうな怪異そのものが怖いのではない。それに付随して語られる、身近な人の死や確執が怖い。今まで平凡だと思っていた生活がもうひとつの顔を見せる、その逆転が怖い。安心だと信じていた道が、実は「死」につながっている事をリアルに思い出させるのだ。いわゆるホラー映画のような派手な恐怖ではなく、十年ぶりの同窓会に顔を見せないクラスメートの不幸を知ってしまったような、リアルで重苦しい恐怖である。
 それを支えているのが、的確で読みやすい文体と、抑制のきいた人物描写だろう。都市伝説や近しい人の死の描写にリアリティがあるからこそ、読者の記憶や体験と重なりあって「こちら側」を侵す恐怖がうまれるのだ。

 私たちの歩む道は、かならず「死」に通じている。「あちん」はその根源的な恐怖を、リアルに思い出させる。主人公はその恐怖に直面しながら、もがき苦しみつつ、やがて一つの解に辿り着く。それは特別なものではない。
『これからも、この土地で生きていく』という、平凡だが強い決意だ。その決意をもって怪異を見直せば、祟りと思えた死が護りであった事に気付く。呪詛の声と恐れたものに、友情がこめられていた事を知る。怪異に侵された日常が、さらに逆転して進むべき道がみつかる。
 死を忘れてはいけない。しかし、囚われてもいけない。そんな事を思い起こさせてくれた怪談集であった。

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世にも稀なるブリガドーン現象の観察記録

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私はつねづね「水木しげる」とは、戦後日本を襲った最大級の“ブリガドーン現象”ではないかと考えている。ブリガドーン現象とは、百年あるいは千年に一度、複雑な気象条件と物理条件がそろって現れるもので、その中は妖怪や幽霊が跋扈(ばっこ)する世界であるという。
 私たちの周囲をよく再確認してほしい。TVや映画では何度も「鬼太郎」がリメイクされ、その登場キャラクター、すなわち妖怪グッズがあふれている。『砂かけ婆』と聞けば、ほとんどの人がそのビジュアルを思い描く事が出来るが、もともとは“誰も姿を見た事がない、一地方の怪現象”だったのである。それを日本全国津々浦々にまで広めたのは、他ならぬ「水木しげる」であった。もし彼がいなかったら、『砂かけ婆』は地味な伝承として、今頃は忘れ去られていたに違いない。

 また「水木しげる」の猛威は、妖怪のみにとどまらない。ヒットラーや南方熊楠の伝記、自らの体験をもとにした戦記、幸福論や人生論、その全体像はあまりにも巨大で見極めるのが難しい。
 しかし、ここにその強烈なブリガドーン現象を定点観測していた人たちがいる。「水木しげる」の家族である。彼らは凄まじいエネルギーの内側、台風の目のような場所に身をおいて、この稀有なる活動の一切をみつめてきた。これはどんな「水木しげる」研究家が望んでも得られない幸運であり、貴重な記録である。
 さらに幸運な事に、水木しげる夫人:武良布枝氏の『ゲゲゲの女房』と、次女:悦子さんの『お父ちゃんと私』(本書)がほぼ同時に上梓された。妻と娘という二つの立場を読み比べる事ができるのだ。夫人の記録は丁重で人生の滋味を深く感じさせるのに対し、本書は軽妙で「水木しげる」の明るいひょうきんな側面をより多く伝えてくれる。どちらが良いというものではない。同じ事件を取り上げても、微妙なニュアンスの違いがあるのだ。私が特に感動したのは、「水木しげる」が妖怪の存在に疑問を抱きスランプに陥った時、悦子さんの言葉で自信を取戻した時のエピソードだ。ぜひ、双方の記録を読み、この未曾有のブリガドーン現象が、実は家族の愛で支えられていた事を確認してほしい。

 水木漫画のなかの“ブリガドーン現象”は、人間社会を混乱させるものとして消滅させられてしまう。しかし、その社会が目に見えるものだけに価値をおく( いや、価値があるかどうかわからない株価の変動に右往左往する )ものならば、それは守るに値するものだろうか。
 私たちは幸いにして、目に見えないが感じる事のできるものの価値を「水木しげる」に教えてもらっている。その豊かさをいま一度かみしめ、子供時代に鬼太郎の歌を口ずさむたびに感じた、開放感、幸福感を思い出したい。

(書評のなかとはいえ、敬称略で「水木しげる」と書くたびにドキドキした事を付記しておきたい)

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ハラノムシが治まる成分が含まれております

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 架空生物の図鑑というのは、なぜこんなに楽しいのだろう。シュテンプケの「鼻行類」しかり、鳥山石燕の「画図百鬼夜行」しかり。生物ひとつひとつの意匠を味わうのも良いが、全体を流れる独自の世界観や体系がまたたまらない。役にたたない知識を蓄える喜びを満たしてくれる。この「戦国時代のハラノムシ」もまた、頁をめくるたびに思わず笑みがこぼれる一冊だ。前記の作品が好きな方なら楽しめること請け合いである。63匹の可愛い(なかにはグロテスクなものもいるが)ムシたちが、あなたを迎えてくれるだろう。
 とはいえ、ハラノムシ達を「ハナアルキ」や「ぬっぺっぽふ」と同列にあつかうのは問題があるかもしれない。彼らが収められた『針聞書』は読者を楽しませようとして書かれたものではないからだ。れっきとした日本中世の学術書、医学書なのである。ハラノムシとは当時の人々が実在を信じた、自分たちを苦しめる病魔なのだ。『針聞書』は五臓六腑のうち特に重要な五臓(肺・心・肝・脾・腎)を五行説(金・火・土・木・水)に当てはめ、そこから各々に巣食うハラノムシの弱点を推測し、鍼や薬物で退治するという意図のもとにまとめられたものだ。現代の知識・医学からすればナンセンスかもしれない。しかし、当時も今も痛みや苦しみは「目には見えないがリアルにそこにあるもの」だ。それらに形を与える事によって、コイツさえいなくなれば解放される…と信じた人々の切実な思いを笑うことはできない。
 そのような視点で見直すと、可愛らしく見えたハラノムシ達の顔がなんとも憎らしく見えてくる。馬・牛をモチーフにしたものは、こんなのが体内で暴れまわったらたまらないと思わせるし、名医でも手をやくヤツは笠をかぶっている。これでどんな薬もはじいてしまう、という理屈だ。なかにはハラの中にしまっている欲望を閻魔大王に告げ口して、宿主を地獄におとそうとするお節介で性悪なのまでいる。「痛み」にまでキャラクターを与えるあたり、アニミズム大好き日本人の面目躍如といったところだろうか。
 このキャラクター性に目をつけた九州国立博物館(『針聞書』所有)では、絵本「はらのなかのはらっぱで」を始め、ハラノムシ・グッズを作り販売していて好評だという。戦国時代の病魔がこういう形で甦り、受け入れられるのは実に楽しい事だ。私もフィギュアを数点購入してみたが、肝積(かんしゃく)の胴体をオオオナモミ(いわゆる「ひっつきむし」と呼ばれる草の実)で再現するなど工夫されていて、なかなか愛らしい。ただし、収容された小瓶のフタをしっかり締めておく事が肝要だ。見ているぶんには癒し系だが、ハラノナカに潜り込まれるとやっかいだからである。

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「最後のフロンティア」の素顔

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『深海は宇宙よりも謎に満ちている』と言われる。宇宙よりはるかに身近にありながら、重力と暗闇と低温が人類の侵入を拒んできたのだ。『地球最後のフロンティア』という言葉にロマンを感じたものである。

 ところが昨今、深海生物の映像を見る機会が増えているように思う。「へんないきもの」のヒットもあってか、TVで生きたユメナマコの姿が紹介されるのも珍しくない。本書「深海生物の謎」も図版が豊富だ。200頁中半分、あるいはそれ以上をカラー写真が彩る。どうやら『深海』は以前に比べると、すこし身近になっているようなのだ。これらの映像はどのように記録されたのだろうか。そこに注目して読むと、我が国の深海探査の現在が見えてくる。

 日本の深海探査と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、有人潜水調査船「しんかい6500」ではないだろうか。その通算潜航回数が1000回を越えると知って驚いた。誕生から17年、単純に割れば月5回一週間に一度は潜っている計算だ。
 また我が国は、世界で唯一の1万m級の探査機を持っていると記憶していた。しかし、この無人探査機「かいこう」は、残念な事に2003年にケーブルが切れる事故で失われてしまったという。現在は7000mまで潜れる無人機で代用しているそうだ。更に3500mまで潜水でき、自律航行可能な探査ロボット「うらしま」がある。

 これらは深海探査の花形と呼べるもので、門外漢の私でも知っていた。しかし、相模湾・初島沖の海底1175mに「深海底総合観測ステーション」が設置されている、というのはまったく初耳であった。すでに1993年から14年間も観察を続けているのだそうだ。この画像が滅法おもしろい。街角に置かれた定点観測カメラさながら、深海生物の素顔をのぞく事ができるのだ。
 たとえば右から左へ、物体のように流されていくだけのテングギンザメ。大きな目を持ちながらカメラにぶつかるソコダラ。キャプチャー画面だから不鮮明ではあるが、なんとも気取らない普段着の姿だ。筆者はこの映像から、「エサが少ない深海魚はロスを避けるために泳がない」「目はついていても使っていない」のではないか、という仮説をたてている。深海には我々が魚に抱いているイメージを覆す、ただ「流されていくだけ」という生活があるのかもしれない。
 もうひとつ、観測ステーションがとらえた極めて珍しい乱泥流の連続写真も載っている。これは地震によって起きる海底の地滑りだそうだ。深海生物にとっては生き埋めの危険もあるが、浅い海から豊富な有機物を運んでくれる恵みの現象でもある。映像としては地味だが、地球誕生以来くりかえされてきた営みだと思うと感慨深い。
 その他にも、クジラの死骸に群がるエゾイバラガニや、突然の探査機との遭遇に驚き逃げ惑うクマナマコ、そして水圧によってカルシウムが溶けて貝殻を失いイソギンチャクを直に背負っているヤドカリなど、滅多に見られない画像のオンパレードである。

 それにしても、なぜこんなに熱い視線が深海に向けられているのだろう。それは、深海と呼ばれる「トラフ」や「海溝」がプレートが沈み込む所、すなわち『地震の巣』だからだ。地震大国・日本としては無視できない場所なのである。
 また、海底火山活動の活発な場所には独特の「化学合成生態系」が存在する。光合成に頼らず、硫化水素などの化学物質からエネルギーを得るチューブワームやシロウリガイは、まるでSF小説に出てくる生命体のようだ。しかし、逆に彼らの生きる環境こそ、生命が誕生したばかりの原始の地球に近いのだそうだ。そういえば海底をさまようナマコは、カンブリア紀の生物に似ているようにも見える。深海は地震のメカニズムだけではなく、生命の秘密も隠しているようだ。

 深海は謎に満ちている。しかし、少しずつそのベールは剥がされつつある。それを眼で確認できる入門書として、最適の一冊だと思う。

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紙の本世界のキノコ切手

2007/12/26 06:53

50万分の1のキノコ

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 この本を手にしたら、まずは表紙の切手部分を撫ぜてみてほしい。少し段差があって、本当に切手が貼ってあるように感じるはずだ。こういう遊び心を発見すると、たまらなく嬉しい。

 さて、本書は20年以上前に突然キノコに「取り憑かれた」という写真評論家・飯沢耕太郎氏が収集したキノコの切手のコレクション・カタログである。3000枚以上を収集したという目にも鮮やかな世界中のキノコ切手が、国別に分類され紹介されている。そこにはふたつの世界への扉が用意されている。すなわち、「キノコの世界」と「切手の世界」である。

 まずは「キノコの世界」。私も筆名に使っているくらいだからキノコは好きだが、その魅力は奥深い。思いつくまま挙げてみよう。色や形が豊富である・食べられる・毒がある・生態に謎が多い・多くの文学や絵画や映画作品に登場する……等々。さまざまなアプローチの仕方があるし、どの角度からみても飽きない面白さを持っていると思う。本書巻末の対談では、植物でも動物でもないキノコのあり方が語られていて興味深い。とかく白黒をつけたがる現代の人間に、第三の道を示しているようにも感じられる。

 次に「切手の世界」。かつて切手といえばコレクションの花形だった。1960年代前後のブームの頃は、子供から大人まで夢中になって収集したものだ。額面以上に価値が出るのでは……という投機的な側面もあったが、やはり切手の持つ魅力が大きかったのだろう。小さく美しく種類が多い切手は、コレクションに最適だった。
「小さく美しく種類が多い」という特徴はキノコにも被っている。キノコと切手は相性がいいのだ。二つの世界が、とても自然に重なっている。
 コレクションの楽しみは、分類する楽しみである。本書の分類どおり切手デザインのお国柄を楽しむのも面白いし、あるキノコ1種を見比べてその共通点や違いを発見するのも味わい深い。また記念切手を重要な外貨獲得の手段として、力をいれている国も多い。切手から国際情勢にまで思いが及ぶ。

 世界最古のキノコ切手は何か、海外のキノコ切手カタログにみつけたとんでもない日本切手へのカン違いとは、などエッセイ部分も面白い。なかでも私が興味をひかれたのは以下の数字である。
 世界中に存在するであろうキノコの種類:約50万
 そのうち発見されているもの:その5%
 学名があるもの:2-3万
 日本に存在するキノコの種類:約1万
 和名のついているもの::2-3000
 世界で発行されている切手の基本セット:3840
 日本で発行されている切手の種類:1

 我が国唯一のキノコ切手は、1974年「第9回国際食用きのこ会議記念」切手に描かれたシイタケである。いかにも寂しい。郵政民営化後の記念切手がどうなるのかは知らないが、もう少し遊び心があってもよいのではないだろうか。著者と声をあわせて叫びたい。
「日本にキノコ切手を!」

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紙の本古本屋を怒らせる方法

2007/10/11 10:28

書を求め、町へ出よう

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

思わず手に取りたくなる、いい題である。
 著者は「『古本屋を怒らせる方法』という本を書いたとしてもさっぱり売れそうにない」と謙遜するが、そんな事はない。タイトルに惹かれて購入した者がここにいる。
 ただ、タイトル買いなので、たいへん失礼ながら著者の林哲夫氏が画家である事も、雑誌の編集人として歴史に埋もれた出版人の再評価に尽力されている事も知らなかった。

 氏の興味の対象――古書店に求めるもの――は主に雑誌である。しかも「埋もれた出版人」の出したものであるからマイナーだ。私の浅学菲才を差し引いても、聞いた事のない名前の雑誌が並ぶ。
 読み進むと、ちょっとした古書店散歩ガイドといった趣きの章がある。しかし、紹介されているのは京都で、私の行動範囲からは遥かに遠い。つまり本書の内容は、興味のある本のジャンルも地理も、私とは完全にズレていたのだ。

 やはりタイトル買いなどするものではない……と私はガッカリして本を閉じた、のではない。むしろ逆で、最後まで非常に面白く読む事ができた。
 ジャンルや地理が違っていても、古書店で味わう喜びや憤りは同じだからだ。均一棚から思わぬ掘り出し物を見つけた喜び、偏屈な古書店の主人に対する立腹、趣味を同じくする古書仲間との競争や友情。そんな古書を巡る出会いや別れ、喜怒哀楽が生き生きと描かれている。古書店巡りが好きな人にとって、それらは容易に自分の体験と置きかわり、旧知の友の語らいを聞くような楽しみを見出すはずだ。
 作中、愛犬の死が語られる印象的なエピソードがある。火葬場で亡骸を焼く間、著者は古書店を巡り、そこで信じられない価格で貴重な資料を入手する。哀しみのなか小さくガッツポーズを取る姿に、私は本好きの業を見てほろり、ニヤリとさせられた。

 それにしても古本屋というのは特殊な空間だと思う。ある種の緊張――怒られるのではないかという心配――を伴う商売なんて、古本屋と寿司屋、そして特別なラーメン屋くらいではないだろうか。店主が客を叱り飛ばす、そのあり得ない光景があり得るものとして感じられるからこそ、このタイトルが活きてくる。
 寿司屋の場合は主従関係がハッキリしている。客は「生徒」であり、職人肌の「先生」に教えていただくという気分がある。(もちろんこれはイメージで、現実にはリラックスして食べるに越した事はないが)「おまかせ」「時価」という特殊なシステムに、それが現れている。
 古本屋の緊張感は、それとは少し違う。主従が曖昧なのだ。客は店主の不得意なジャンルに「掘り出し物」がないかと常に目を皿にしているし、店主は客の好みを探って「とっておきの一冊」を売ろうとする。買い取りの時などは、まさに立場が逆転する。客はその本の稀少性をアピールし、店はひとつでも多くシミを発見しようとする。(少々誇張もあるが)
 古書店の客と主人は表裏一体、ほのかな共犯関係とも同病相憐れむともいえる心理を抱いているのではないだろうか。その店内に流れる緊張感は、近親憎悪から生まれるものなのかもしれない。

 最近は「新古書店」に押されて、個人店が次々に消えているという。もちろん、時代の要請で新しいシステムが出来ることは良い事だ。この本の著者だって、ネット注文やオークションを駆使している。
 しかし、暗く雑然とした店内で静かに火花を散らす楽しみは、新古書店やネットでは味わえない。
 インターネット書店の書評で書くのもどうかと思うが、たまにはパソコンの電源を切って自分の町の古書店を覗き、店主に「怒られる」のも悪くないのではないだろうか。

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紙の本生き屛風

2008/12/10 02:49

モノノケ・セラピー

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 もしあなたが、心の中にひとつ隠れ里を持ちたいと願うなら、この「生き屏風」を読むと良いだろう。
 日本ホラー小説大賞短編賞という肩書きや、そのタイトルから、おどろおどろしいイメージを持つかもしれないが心配御無用。確かに、死霊や鬼の子は登場するが、怨恨・復讐・暴力などとは無縁で、ひなびた温泉宿でのんびりとくつろいだような気分を味わう事ができる。日本むかし話とムーミン谷、そしてアリスが巡った不思議の国を混成したような理想郷がここにある。

 それにしても主人公・皐月の人(鬼?)の良さは、読んでいて気の毒になるほどだ。初対面の相手からはまず容姿を褒められないし、村を災いから守っているのに尊敬もされていない。自慢のツノを見せれば「変わった色のこぶか、オデキにしか見えない」と貶され、片思いに悩む村娘からすら「頼りない」と罵倒される始末。それでも皐月は怒らない。
 これは徹底した平和主義者というよりも、経験不足からどう対処していいのか判らない子供の態度だろう。人より寿命が長いからといって、精神が成熟しているとは限らない。皐月はまだまだ子供なのだ。それは食べ物を前にした時にはっきりする。「食べなくても飢えて参ってしまう事はない」存在のはずなのに、好物の梅の実や酒・西瓜に心を奪われてしまう。それらを食する時の無邪気さは、本当にほほえましい。
 好物を喜び、人からの相談には不器用に、しかし真摯に向き合う皐月。読み進むにつれ、その素直さがどんどん好もしくなってくる。

 田辺青蛙氏の作品に初めて接したのは、ビーケーワン主催の第四回怪談大賞だった。佳作受賞作の『薫糖』(てのひら怪談ポプラ文庫)にも鬼が登場するが、なにより「水あめで髪を練る」という発想の奇抜さと「日本のどこかに本当にある習俗かもしれない」と思わせる説得力が印象的だった。
 その手腕は、「生き屏風」でもいかんなく発揮されていて、その代表的なものは「馬の首の中でねむる」と「雪に化身する」だろう。その強烈な、或いはつかみどころのないイメージを読者に追体験させ、しかも嫌な感じがしないという匙加減は見事だ。前者では血の匂いよりも胎内回帰の安心感を、後者では感傷的な心象風景ではなく若旦那の洒脱な遊び心を感じさせて、読後感が心地よい。

「生き屏風」「猫雪」「狐妖の宴」の連作の中で、時間軸を前後しながら浮かび上がってくる各キャラクターの物語。それらは思わぬ所でからみあっていて、何度も再読したくなる。そして、まだ語られていない空白の時間に思いをはせる。さいわい続編が予定されているそうで、その空隙を埋める事ができる日も近そうだ。それまで、しばし「布団」にくるまって待つ事にしよう。次回作へのさらなる期待を込めて、星をひとつ減らした。

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紙の本トンコ

2008/11/26 22:36

ある名作アニメによせて

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 第15回日本ホラー小説大賞短編賞作「トンコ」、前年度の同賞最終候補作を全面改稿した「ぞんび団地」、そして「黙契」。

 この三作を読みながら、私はしきりにあるアニメ作品を思い出していた。「アルプスの少女ハイジ」である。作品から受ける印象は人それぞれだと思うが、私にとって「ハイジ」は『孤独な魂の救済劇』だ。村人との交流を避け世捨人となった“おんじ”、家柄と足の障害のため同年代の友人を持たない少女“クララ”、旧弊な常識に縛られた執事“ロッテンマイヤー”。彼らは、ハイジというきわめて無垢な存在に触れて心を開いていく。そして、実はハイジ本人もその交わりの中で救われている。
 トンコは孤独な豚である。「ぞんび団地」の“あっちゃん”も、おそろしい程に独りだ。「黙契」の主人公の苦悩には、アルムの山からフランクフルトに連れてこられてホームシックにかかったハイジの姿が重なる。彼らは皆、無垢である。限りなく無知に近い純心さをもって、救いを求めている。そして、それぞれに相応しい「救済」が訪れるが、それは血と汚穢(おわい)にまみれた破滅のようにも見える。本当にこれで幸せなのか、最後に残るのは優しさなのか残酷さなのか、それは読者自身が選びとるべきものなのだろう。

 前作「あちん」も読みやすく安定した文体だったが、今作ではさらに磨きがかかっているように感じた。「トンコ」では兄弟豚の個性をあらわす鳴き声がくりかえし挿入されるのが効果的だし、児童文学調の「ぞんび団地」は一見ユーモラスな語り口が凄まじい現実を覆い隠しているものの、クライマックスに至るねじれ方は相当なものだ。(余談だが、いささか懐かしい「あっちゃんの頭の中で電球が光りました」という表現がかなり気に入っている)
 二つの視点が交差する「黙契」は非常に面白かったものの、もう少し短い方が切れ味が増したのではないだろうか。冒頭の「一年ぶりに再会した絢子は、骨壷に入っていた」という一文が素晴らしかっただけに、少々饒舌だったのが惜しく感じられた。
 ともあれ、「トンコ」で大きく世界をひろげた作者の次回作を、今から心待ちにしている。

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紙の本人魚と提琴

2008/02/28 15:52

「人魚と提琴(ヴァイオリン)、どこが似てる?」と聞いたれば、『あたしはどちらも煮てないわ』とはアリスの答え。キャロルおじさん曰く「人魚は『幻想の生物』、ヴァイオリンは『弦奏の静物』……」

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「人魚と提琴(ヴァイオリン)」には『鏡の国のアリス』が重要なモチーフとして登場する。物語の導入部で、主人公・涼子は黒猫のキティに導かれて玩具館「三隣亡」に足を踏み入れる。その入口で玩具館の共同経営者・美珠と合わせ鏡のように向かい合った時、現実と幻想の境界は「ガーゼのように柔らかく」なり、不思議な物語が始まるのである。

「燃えさかる炎のなかでヴァイオリンを弾く少年、その周りで踊る人魚」という涼子の記憶は、おとぎ話のように美しく思われるかもしれない。しかし、その炎は涼子の肉体に火傷の痕を残しているし、人魚はアンデルセン童話のような美しい存在ではなく、人にも魚にもなれない生臭い不気味な生物として描かれる。
「人魚と提琴のどこが似てる?」という問いの答えは「音」である。人魚の歌は船乗りを惑わせ、ヴァイオリンの演奏は聴く者の魂をゆさぶる。互いの音が響きあい重なって、人魚は「おとぎ話から現実」に一歩踏み込み、ヴァイオリンは「現実からおとぎ話」を生み出す。おとぎ話と現実が溶け合っていく。
「鏡の国のアリス」に登場するユニコーンは、アリスを見てこう言い放つ。
「小さなオンナノコなんて、おとぎ話の中の怪物かと思っていたよ!」
 おとぎ話がおとぎ話でなくなった時、それは人間の制御を離れ、不気味で不吉なものに変容していくのだ。

 物語の主人公・涼子ともう一人のヒロイン・響は、表面上申し分のない「お嬢さん」だ。周囲とトラブルを起こす事もないし、きちんと職業を持って明るく前向きに生きている。しかし、読み進むうちに不安がつのってくる。どこかがズレている、何かが欠けている。現実の境界線から、一歩踏み込んだ所に存在しているようで危なっかしい。
 この「欠落」が物語の大きなテーマのように感じる。考えてみれば「人魚」というのも、半身が欠落した存在だ。人としても魚としても完全ではない。(おまけにこの物語ではアイディンティティである声帯まで奪われている)
 ヒロインの二人だけではない。登場人物のほとんどが決定的な何かを失い、その「欠落」を求めている。明日のジャムと昨日のジャムの間で永遠に失われ続ける今日のジャムを。しかし、それは時間を止める事でしか得られない。欠落を埋めたからといって、幸福になれるとは限らないのだ。

「境界」と「欠落」の舞台として、玩具館「三隣亡」は申し分ない。ともすれば悲劇的になりそうな場面も、美珠とその兄Tのかけ合い漫才のような軽さが救ってくれるし、重大なトラブルが発生しても「万事こころえています」と処理してくれる。この空間では、すべてが玩具化し遊びの要素が加えられる。その一方で、現実的な仕入れや経営の話題がはさまれるのもバランスが良い。店内には、まだまだ語られるべき物語が隠されていそうだ。
 再び玩具館「三隣亡」を舞台にした物語を読みたい、それが「人魚と提琴」を越えた物語であって欲しいという願いを込めて、星はひとつ減らして四つとした。

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紙の本文人暴食

2007/08/06 03:04

ふたたび名作を味わうためのレシピ

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「我輩は猫である」と鉛筆で百回なぞっても、夏目漱石にはなれない。しかし漱石が食べた味そのまま、というカキアゲを食べる事は今でも可能だ。(私も食べた)憧れの人物の好物を知りそれを食すという行為は、いささかミーハー的ではあるけれども、同一化の願望を満たす最もお手軽な方法ではないだろうか。
 「文人暴食」は同じ著者による「文人悪食」の続編である。37人ずつ、計74人の日本を代表する文人たちの食卓・酒席のエピソードを集め、日本の近代文学史を「食」の観点から語ろう…という試みだ。一見、誰でも思いつきそうな平凡な企画のように思われる。しかし、この2冊を書くために、著者は十年の歳月を費やした。全集はもちろん研究書もひもとき、明治・大正・昭和初期の古雑誌の囲み記事までチェックしたそうだ。平凡どころか異常な執念すら感じさせる作業だ。
 結果、そこに浮き彫りにされるのは、文人たちの生身の姿である。曰く、青い目の日本人・小泉八雲は和食を愛したが、旅行先の朝食では生卵8、9個と牛乳を飲んだ。曰く、「赤い鳥」を創刊した児童文学の父・鈴木三重吉は芥川の原稿に朱をいれるほどの自信家で、酒を飲むと本領を発揮して誰彼なくからんだ。曰く、とぼけた味わいの詩を残した草野心平はプロレスラーのような巨漢で、焼き鳥の屋台をひいていた事があった…云々。
 作品は純粋に作品として評価するもので、写真週刊誌的な興味を加味すべきではない…という考え方もあるだろう。しかし、その作家がどんな家庭に育ち、何を食べ、人生のどんなタイミングでその作品を書いたかを知ってから読めば、また違ったものが見えてくるはずだ。メニューを見ているだけではわからない、レシピを聞いて初めて気付く味がある。むかし教科書で読んで退屈だった作品に、意外な輝きを再発見するかもしれない。またこの本で興味をもって「食わず嫌い」だった作家にチャレンジするという、逆引きも面白いのではないか。実際、私も数冊の文庫本を購入した。この本は読者を今一度、近代文学の世界へ誘う魅力に満ちている。ただし、ひとつだけ注意したいのは、これは著者・嵐山光三郎氏の主観で書かれているものだという事である。取材の綿密さは驚くべきものだが、誤解や偏見がないとは言い切れない。特に交流関係・男女関係においては、しばしばスキャンダラスで断定的な描写が散見されるように感じた。あるエピソードに興味をもったら、別の資料をあたって自分なりの判断を持つ事が肝要だろう。

 私は下戸なので、文人たちの酒量が気になった。
 酒が弱かったのは……夏目漱石・有島武郎・二葉亭四迷・芥川龍之介・伊藤左千夫・武者小路実篤・川端康成・佐藤春夫・荒畑寒村・宇野浩二・金子光晴・深沢七郎。
 逆にウワバミは……幸田露伴・種田山頭火・北原白秋・石川啄木・萩原朔太郎・太宰治・山本周五郎・南方熊楠・室生犀星・吉田一穂・草野心平
 なかでも酒乱は……梶井基次郎・中原中也・国木田独歩・鈴木三重吉・尾崎放哉・若山牧水・久保田万太郎・稲垣足穂……
 さて、酒量と作品の傾向は……それについて分析するのはまた次の機会にしよう。階下から、カレーの匂いが漂ってきた。

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