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くにたち蟄居日記さんのレビュー一覧

投稿者:くにたち蟄居日記

315 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本呪いの時代

2012/01/23 11:19

森は樹海とも言うべき迷路ながらも

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 福島原発、草食男子、秋葉原無差別殺人等、最近の日本の事例を著者なりの切り口で読み解く著作である。読んでいて、内田らしい快刀乱麻ぶりに感心した次第だ。

 哲学、若しくは哲学者とはどうあるべきかということを考えさせるのが内田という方の持つ魔術である。

 僕らが普段「哲学」と聞くと、まさに「象牙の塔の中での空中戦」であり、僕らの現実との接点は無いような印象を受けてきた。「哲学科」に進む学生とは一種の変人であり、哲学者とは一体何をしているのか分からない人であるということが一般的な理解である時代もあったと思うし、今でもそうかもしれない。

 これは哲学若しくは哲学者側の問題でもあったし、あると僕は思う。哲学書の多くはジャーゴンともいうべき専門用語に満ちており、何を言っているのかは容易には読めない。「容易に読もうと考える事が間違っている」と哲学者は言うかもしれないが、「簡単に理解出来され得ないことは 往々にして最後まで誰も理解しない」ということはあると思う。難しいことを簡単に説明することこそがプロというものだと僕は思う。むしろ多くの哲学書はわざと難しく書いているのではないかと勘ぐってしまうくらいだ。

 その中で内田というお方の立ち位置は非常にユニークである。

 内田という方で哲学に親しみを覚えた方は間違いなく多いと思う。そうではない限り、著者の書いた本の多さや売れ行きは説明出来ない。装丁や題名を幾分カジュアルにして門戸を大きくし、書いている文章にも難しい専門用語は出てこない。身近な例から書き起こしてくるので頷きながら、僕らはみるみる哲学の森に入っていくことになる。森は樹海とも言うべき迷路ながらも、内田は「けもの道」を歩きながら僕らに手招きしてくれる。その「手招き」の絶妙さが彼の最大の魔法であると僕は思っている。

 森林浴という言葉がある。内田の本を読むことはその体験に近い。読み終えてなんだかすがすがしい気持ちになる。

 哲学が、これほど現実の社会を観る際に役に立つものだとは、内田が登場する前には想像出来なかった。その意味では内田に感謝すべきは僕ら一般の読者ではなく、哲学側だと思う。哲学は実に世俗的に役に立つことが分かってきた。

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火鉢の中の炭のように

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本作で紹介されたいくつかの岩波少年文庫は僕も昔に愛読した。本作を読んだことで子供時代の自分の読書経験を顧みるきっかけとなった。

 僕も本書で紹介されている「やかまし村」「海底二万里」「ムギと王様」「ドリトル先生」等は それこそ繰り返し読んだものだ。その他岩波少年文庫以外も含めて、あの頃は良く児童文学を読んだ。僕にとっての児童文学の頂点は中学三年生に読んだ「指輪物語」だが、それらの読書体験が中年になった僕にとって依然として大きな財産になっていることを本日思い知らされた思いがした。

 年を重ねるということは中々楽しい。現在の中年の僕は中学三年生の頃の僕には分からなかったことが分かるようになった。その「分かったこと」の中には「自分には出来ないことが余りにもたくさんある」というような、苦みを帯びている認識もある。「何かを得ることは同時に何かを失うことだ」ということも、人生を振り返って感じることだ。おそらく、これから老いを迎えるにあたって 更にそうであろう。
 そんな中で 説明しにくいが、児童文学にはある種の「温かみ」があり、それが現在の自分自身の心のどこかに残っているという感じだ。そうしてそんな「温かみ」は、今なお僕自身の心を温めつづけてくれている。火鉢の中の炭のように。

そんな気がしてきた。

 思えば児童文学を読んでいた時は「世界は面白そうだな」というわくわくする思いだった。本書で宮崎は児童文学を「生きててよかったんだ、生きていいんだ、というふうなことを、子どもたちにエールとして送ろうというのが、児童文学が生まれた基本的なきっかけだと思います」と言っている。これは正に子供の僕が当時漠然と感じていたことだったのだと思うし、それが今に燈り続ける「炭のうっすらとした赤さ」なのだろう。
 
 宮崎の作る映画も「生きててよかったんだ、生きてていいんだ」というメッセージに満ちているとしたら、彼の出発点にも児童文学があったに違いない。それが最後の読後感である。

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それは定点を失った人が抱く妄想に近いのかもしれない

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書では「他者とは何なのか」をひたすら追求していると読んだ。

 日本人は自己主張が弱いと一般的に言われてきた。学校でも「自分の意見を持ち、主張すること」を言われてきたし、会社においても同様である。

 それは有る程度までは正しいと著者は思っているだろうし、著者自身も「自分の意見を持ち、主張」していることは著者の数多い著作を見ても分かることだ。

 但し、そこに落とし穴もあるということが著者の指摘である。余りに自己の拘泥する余り、「他者」というものに対する認識が甘くなってきたという問題提起がある。

 「認識が甘くなってきた」と僕は書いた。それはかつての日本ではどうやら他者というものに対して非常に厳密な認識があったと想像するからである。本書でも描かれる葬儀への考え方は優れた哲学であり、昔の人は、死者という名前の他者ときちんとコミュニケートすることが出来たことを示している。

 振り返って、現代の日本では他者とはコミュニケートする対象ではなく、競争するものに成り下がっている。本来であるなら、他者をきちんと設定し把握し分類することで、自分の立ち位置と足元が定まるはずであるのに、他者が矮小化されてしまったことで自分の位置が分からなくなってしまった。「自分探しの旅」であるとか「運命の相手を探す」という風潮が現代にあるとしたら、それは定点を失った人が抱く妄想に近いのかもしれない。

 著者は「自分の欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」と言う。そこに著者の贈与論の面白さがあるわけだが、その前提としてきちんと他者が目の前に生き生きとして立っているのかどうかが必要であろう。

 勿論他人は目の前にいることは間違いない。後は、その他人を他者として捉える知的作業が必要なだけである。僕らは他者を通じてでしか自分を理解出来ないはずだ。自分の性格にしても能力にしても、全て他者とのコミュニケートの中で見えてくるべきものだろう。その「他者というもの」をどうやって復権させるのか。それが著者のチャレンジなのだと僕は理解した。

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遅かれ早かれ死から免れないという状況の中で、善く生きるということは何なのか

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 数ある宗教の中で仏教は比較的穏やかな宗教だと一般的には思われるかもしれないが、本書を読む限り、仏教も大変厳しいものがあるということを再認識した。

 本書で著者は以下のように言っている。因みに著者は福島から遠く離れた安全な場所で発言されているのではなく、正しくフクシマにてこれを言っている点は付け加えておく。

 「しかし(放射能に)悩まずにいようではありませんか。自分が感知しえないもののためにうんざりするのは仕方ないが、わざわざ悩みを深める必要はない」(55頁)

 「放射線量は低ければ低いほどいいという考え方があります。しかし、じつはそうではないかもしれない。」(60頁)

 著者のこういう発言を科学的な見地から見て正しいかどうかは不明である。本書で著者が引用している科学的データや科学者の発言に関しても、それが正しいかどうかを判断出来る知見が僕には無い。

 但し、著者は科学として上記を発言したとは僕は思わない。仏教という立場で放射能を語っていると僕は読んだ。

 本書で著者は鴨長明の方丈記を読み解くことで、仏教というものの厳しさを説いている。全ての執着心を捨て、「執着心を捨てた自分」すらも捨てなくてはならないという仏教の在り方がそこにはある。

 その場所から今回の震災を見直した場合に違う風景が見えてくるということなのだろう。上記発言に関しても「放射能が体に悪いかどうか」という科学的な見地を突き抜けたその先で、「放射能という煩悩からどうやって抜け出すのか」、「放射能に執着する心」をどうするのかという問題を提起している。全ての人は遅かれ早かれ死から免れないという状況の中で、善く生きるということは何なのかという問題に組み立てなおしたとしたら、あるいは上記のような発言も可能なのだろう。

 それをフクシマという場所で著者に言わせているのが仏教の厳しさであり、同時に仏教の勁さでもあるのではないだろうか。それが僕の読後感である。

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「責任」という言葉は変質してはいないか

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 インドネシア在住ということで本書を読む機会を得た。著者は教職にありながら、この労作を書き上げた。読後感は二点である。

 一点目。本書を読みながら「責任」という言葉を何度も考えさせられた。

 本書の主人公である三浦が自決した理由の一つとしては、インドネシア独立を説きながらもそれが果たせなくなった事にあると読んだ。自決することで自らの言葉に対する責任を取ったと僕は解した。

 振り返って21世紀の現在、「責任」という言葉は変質してはいないか。「責任」とは「自ら取る」ものではなく、「他人に取らせる」ものになってはいないだろうか。
 「自己責任」という言葉もここ十年よく聞くが、基本的には「他人に投げつける為の言葉」になっている。「自己責任でやります」ではなく「自己責任でやれ」という使い方だ。しかも往々にして弱者に投げつける場合が多い。格差社会が進行する中で、弱者を更に追い込む言葉として「自己責任」という言葉にはある種の毒があると僕は思う。その中で再度「責任」という言葉の持つ毅然とした意味を本書を通じて考える機会となった。

 二点目。現在のインドネシアを三浦が今見たとしたら何と思うだろうか。

 三浦が望んだ通りインドネシアは独立を果たした。独立後のインドネシアは開発独裁の道を辿った。紆余曲折は有ったが、基本的には前に進んできていると僕は思う。特にリーマンショック後のインドネシアの立ち直りの速さと力強さは見るべきものがある。

 インドネシアは、17,000を超える島と500を超える言語を抱えているという多様性を持つ。それはインドネシアの発展の阻害要因ではあった一方、「多様性を抱え込める」という懐の深さも培ってきたと思う。イスラム教の国としては世界最大でありながら、いわゆる「欧米対イスラム」という最近のステレオタイプとも言えるパワーゲームからも免れている。その理由の一つとして、多様性を認めることが出来るという資質もあるのではないか。多様性を認めることが出来ないことで起こった悲喜劇はいくらでも例があるのだ。

 三浦がインドネシアにどのような夢を持っていたのか知る由もなく、また現在のインドネシアが必ずしも彼の期待の延長上にあるのかどうかも分からない。但し、漸くインドネシアは、その潜在力を発揮しつつある。インドネシアの発展を推し進める力の一つに三浦の魂もあるのではないだろうか。

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多様性と寛容性に富んだインドネシアという国の在り方

5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 会社の先輩から借りて読んだ。冒頭から引き込まれてしまい、一気に読了した。本書は色々な読み方が出来る本である。また実に「新書らしい新書」とも言える。以下三点の読み方が出来る。

 一点目。「アラブの春」が中東で勃発した現在に本書を読む価値は大きい。インドネシアはイスラム教国として世界最大である。従来、独裁者の元で開発が進められてきたという点ではインドネシアと中東諸国は似ている。しかるに、インドネシアの大きな違いは民主主義への転換において先行したという点にある。
現在中東では独裁者の退陣と、その後の混乱が見られている。その中で、インドネシアの成功事例は非常に彼らにとって参考になるはずだ。その意味では本書はイスラム若しくは中東に関与する方にとって大変示唆に富む一冊となるはずだ。

 二点目。僕は「新書らしい新書」と冒頭で言った。

 僕の考える「あるべき新書」とは、「その時代のその局面できらりと光る分析や洞察を持った本」である。一定の賞味期間の間は、実に美味しく消費出来る一方、賞味期限が過ぎると、その役割を果たすという意味だ。本書を貸してくれた先輩も、まさに今この瞬間に読むべしと言われたが、まさにその通りであった。また役割を果たした後でも、「その時代の証人」という形で長く残る新書もある。本書もそんな一冊になる予感がする。

 本書はスハルト以降のインドネシアを活写している。インドネシアに関して不勉強であった僕には大変勉強になった。特にスハルト以降に、どうやって多様性を抱え込みながらここまで来ることが出来たのかという点が実にすっきりと書かれている。現在のインドネシアを理解したい方には非常に参考になる一冊となるはずだ。

 三点目。インドネシアと他の東南アジア諸国との比較という面でも本書は読みごたえがある。例えばタイとインドネシアとの相似点と相違点等も本書で見えてくる。

仮に東南アジアで事業を展開しようと考えている人がいるとしたら、本書を通じて、どのような投資ポートフォリオを組むべきかという事を考えることが出来よう。
それは必ずしも「インドネシアこそが投資先としてベストだ」という話ではない。例えばインドネシアを核とするなら、タイ、ベトナム、おそらくこれからはミャンマーをどのような衛星国的に起用するのかという戦略である。若しくは、ベトナムを核としたい人が、市場としてインドネシアをどう位置付けるかという話も十分あり得る。

 本書は日本で売れて行くと聞く。インドネシアへの注目度が日本で上がって来ていることの証左であろう。多様性と寛容性に富んだインドネシアという国の在り方は日本として再度勉強するに値するということが僕の最後の読後感である。

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実際にそんなことが可能なのかと疑問を持ちながら

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 知人の紹介で読んだ。「お金」と「宗教」という二つの要素が混ざった本だと理解した。

 僕が書店に行って感じることの一つとして、「お金」と「宗教」の本が多いという事がある。「お金」関係は説明の必要は無いと思う。どうやってお金持ちになるのかというテーマの元で書かれた本は山ほど積んである。
 「宗教」に関しては、宗教そのものの本だけではない。もっと広い意味で「宗教」と呼んでも良い本は案外多いと思う。自己啓発やモチベーションといったジャンルの本も読んでみるとかなり宗教に近い本が多い。そもそも人間の心を扱う本は時として宗教がかると僕は思う。

 本書はその二要素を巧みにミックスしている。大富豪という題名=「お金」という入口で読者を誘い、中身は「宗教」に近い性格の本だ。本書の裏の宣伝文句に「これからの人生を豊かに生きていくヒントに満ちあふれ」とあるが、これは新興宗教の宣伝にもそのまま使える。

 僕がこの本に興味を持つとしたら、本書が非常に多くの読者=信者を獲得している点にある。こういう本が売れる社会とは何なのかを考えることは考える訓練になる。
 本書は「経済的な成功と人間としての心の豊かさが合致すること」を主張している。これはいかにももっともらしいが、実際にそんなことが可能なのかと疑問も感じる。そもそも本書で説かれる「心の豊かさ」に関しては今一つ具体性が見えてこない。何かそこにあるように書いているが、結局具体的なのは「物質的な豊かさ」である。クルーザーや大豪邸という舞台で語られる「心の豊かさ」という場面には、やはり若干鼻に付く面は否定出来ない。

 本書を読んでいてはっとさせられた部分もいくつかは有った。但し、それ以上に本当だろうかと自問する場面も多かった。繰り返すが本書が売れているという現実はもっと更に考えなくてはならない。

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いずれも過渡期的なものであることも免れない

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 音楽には比較的疎いが大変勉強になった。感想は二点だ。

 一点目。インターネットが、音楽業界を液状化してきていることが良く分かった。特に音楽業界のビジネスモデル、特にレコード会社が「権力」化していた状況が根底から崩れつつある点に興味を覚えた。

 考えてみるとネットの影響で旧来のビジネスモデルが壊れたり、新しいビジネスモデルが出てきたという事態は音楽業界だけの話ではない。むしろ音楽業界もネット社会の変化の一例として本書で語られている程度なのかもしれない。本書の著者たちも、自身の仕事が音楽だけに限定されるとも思っていないだろう。

 その意味では本書で紹介される事例はいずれも過渡期的なものであることも免れないと思う。例えば今猛威を振るっているI podも、例えば10年後はどうなっているかは誰にも分からないだろう。音楽を携帯するにおいて、現段階ではI podが一番ポピュラーであろうが、考えてみると「携帯する」という圧倒的な不便さもあるからだ。I Podを無くして泣く泣く買い替えた人がいるとしたら、それは「携帯する」ことによる弊害なのである。10年後のI podはハードとしての存在は無くなっているかもしれない。



 二点目。改めて音楽とは何だろうと考えさせられた。

 僕の理解では音楽の起源は宗教である。神への祈りがメロディーを持ち、メロディーを持ったことである種の陶酔を齎すものになったのではないかと想像している。

 現在にも、他にもさまざまな芸術はある。美術、文学等だが、それに比べても音楽の人気度は飛びぬけて高いと思わざるを得ない。例えば本書で知った事実としてはライブの人気が高くなってきたことがある。ネットを通じていくらでもバーチャルに音楽を楽しめる環境が整備されつつあるなかで、人は全く逆に、自ら足と金を使って、音楽の「現場」に行く。そこまでさせる音楽の麻薬性というものは何なのかを考えることは実に頭の体操になると思う。

 僕の思いつきとしては、音楽が「目」ではなくて「耳」を媒介とする点に何かがあるのではということだ。人間は情報処理の大部分を視覚に頼っているように思ってきた。その視覚を通じてアクセスできる美術や文学より、聴覚を通じた音楽の方が人気があるということにはきっと何かがあるはずだ。今の段階で気のきいた仮説は出せないが、今後ゆっくり考えてみたい。

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波打ち際で足が波に洗われながら 水平線を見ている後ろ姿

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

妖怪譚を楽しく読んだ。

 昔の人は妖怪を信じていたと思う。実際に妖怪が居たかどうかは大した問題ではない。妖怪を信じるという知性があったことが大事だ。

 妖怪は非科学的であり存在しないと現代の僕らが単純に考えたら、昔の知性を見誤ることになる。昔の人にとっては妖怪の存在とは「科学」だったはずだ。妖怪の存在を設定することが物事の科学的説明になっていた時代があったということだ。

例えば、日照りの際には竜という妖怪を設定し、それを祀ることで雨を祈願する。雨が降らなければ竜への祈願が足りないという科学的判断を行い、生贄を捧げる等の対応策が取られる。
若しくはある家の興隆が座敷わらしという妖怪の有無によって理解される。座敷わらしが居なくなったことで、その家は没落したと状況を整理する。

そう考えることは合理的であり、考える力は知性に溢れていたに違いない。物事はなんらかの形で解釈され整理されるべきだと考える点では昔の人も現代の人も同じ水平線上にいる。

 但し本書はそんな「民俗学」或いは「哲学」で読んではいけない。著者が「あやかし」の中で何をつかみ上げようとしてきたのかをゆっくり眺める作業こそが本書の正しい読み方である。

 著者が取り上げる主人公は、此岸と彼岸の境界線に立っている人間たちであることが多い。人間の社会が此岸であり、妖怪が息づくのが彼岸である。主人公たちの、その境界線での「立ち姿」はいずれも美しい。足は此岸にありながらも顔は彼岸を向いている。波打ち際で足が波に洗われながら 水平線を見ている後ろ姿に似ている。人には見えないはずのものが見えてしまっている主人公達の視線のありようが本書の心臓部である。

 各主人公達の行く末を著者は最後まで書き込まない。それがなんとも言えない読後感に繋がっている。読者はなんとなく宙吊りにされながら、本を閉じることになる。但し、主人公達の立ち姿はくっきりと残る。

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紙の本丸山真男をどう読むか

2011/09/24 21:45

この「目線」の違いこそが、著者の丸山批判の主眼であると僕は理解した

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 二回続けて読んだ。

 著者は本書では丸山をかなり批判的に語っているが、そもそもの出発点では著者と丸山は共通する部分が多かったと僕は考える。両者ともに西欧近代思想に強く影響を受け、かつそれを肯定的に捉えるところでは一致していると読んだ。
 
 但し、そこから先である。

 長谷川という方は大学院を出た後、大学には残らず、学習塾を開いて生計を立てつつ、哲学の勉強を続けるという道を取った。学生運動等を経てきた結果、在野の哲学者という道を選ばれたのかもしれない。学習塾も単なる学習だけではなく、色々な催し物も行う等、非常にユニークなものであると聞く。

 その経歴は、物理学者の山本義隆に重なるものがあるが、誤解を恐れずに言うと 敢えてアカデミズムからドロップアウトしたということだと思う。

 一方本書で語られる丸山真男は、アカデミズムに留まり、そこから出てこなかったということになる。長谷川は繰り返し丸山が最後まで大衆との距離感を取り続けた点を指摘している。いまふうに言うと「上から目線」ということか。この「目線」の違いこそが、著者の丸山批判の主眼であると僕は理解した。スタート地点が近かったものの、社会に対するスタンスの違いが全く違うということが、長谷川と丸山の関係の最大の違いとなっているはずだ。

 本書にて著者が一番やりたかったことは、丸山のスタンスを批判的に捉えることで、自身のスタンスを再確認するという作業ではなかったのだろうか。それが最後の読後感となった。

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紙の本夜間飛行

2011/09/24 21:43

現場の強さがあるとしたら、そこには「現場のリーダーシップ」が必ずあるはずである

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「夜間飛行」の新訳が出た。旧訳の本書が実に面白かったので、直ぐに購入した。旧訳は詩人の堀口大學であり、言葉は綺麗ながらも現在から見ると古い。新訳の方が今の僕らには読みやすいと思った。

 本書を再読して、改めて、この作品の主人公リヴィエールの造形に感じ入った。僕も主人公と同じく中年であり、組織でいくばくかの部下を抱えて働いている。その立場に立って見ると、主人公の見せるリーダーシップの難しさということが分かる。

 僕の仕事は、部下に死の危険を強いるようなものではない。一方、夜間飛行を強いる主人公の仕事は部下の命を危険にさらす厳しいものだ。その厳しさの中から、主人公の並はずれた自制心と、自他共に律する厳格さが産まれてきたのであろう。著者のサン=テグジュペリ自身がパイロットであり、最後は地中海で撃墜された程の危険な任務についていたこともあり、本書に描かれる業務の危険性には非常に説得力がある。その上での主人公の造形だ。

 ここからはいささか想像力をたくましくしたい。

 福島第一原発では3月以来、既に半年もの間、非常に危険な部署で多くの人が今なお懸命な作業を続けておられる。死の危険に晒されながらも、作業を進める姿には世界からも称賛の声が寄せられている。その中で、どのようなリーダーシップが発揮されてきているのだろうかということだ。聞くところでは、本社からの指示を無視して、注水を続けたリーダーもいらしたという。指示を無視した点の是非は議論の余地は十分あるわけだが、そこにはいくばくかのリーダーシップ論もあるような気がしている。

 日本の強みは本社ではなく現場だと言われることは多い。そんな現場の強さがあるとしたら、そこには「現場のリーダーシップ」が必ずあるはずである。リーダーシップというと、どちらかというと日本人はそれに欠けていると言われがちかもしれないが、おそらくそれは間違っているはずだ。そうでないと現場の強さが説明つかない。
 リヴィエールの見せる現場でのリーダーシップもその一つの例である。僕自身も現在はいわば現場勤務であるだけに、余計に本書に引き込まれるのかもしれない。

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紙の本世界を知る力 日本創生編

2011/09/24 21:42

政治家のせいだけにしていないだろうかといささか反省も強いられた

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

面白く読んだ。読後感は二点である。

 一点目。著者の主張は「今回の災害を奇貨として、再度日本を考え直す良い機会とすべきである」という点に尽きると読んだ。災害には物事をリセットする面はあると思う。

 勿論「だから災害が来てほしい」と言っているわけではない。リセットには非常なるコストが掛るし、大変な不幸を背負う人が膨大に産まれる。来ない方が良いに決まっている。但し、「来てしまった災害」をどう捉えるのかと考えた場合には、そう前向きに考えるしかない。そう考えた上で、どのような構想力を持って、リセット後の世界を考えていくのか。そこが今回の日本の試練であり、著者は本書で自身の考えを述べている。
 振り返って新聞から見えてくる日本の議論から、リセット後のビジョンはなかなか見えてこない。政治家のせいだけにしていないだろうかといささか反省も強いられた。


 二点目。原子力に関する著者の意見は、まだちょっと楽観的ではないかと気になった。原子力という魔物は、稼働中だけではなく、いわゆる「使用済み燃料棒」という形で、未来に向かって問題を残していくということが今回はっきりと見えてきた。

 僕も不勉強で、「使用済み」という言葉に惑わされてきた。
 「使用済み」というと、既に中身がスカスカなものをイメージしてきた。実際にはむしろ「使用後をどうするのか」ということが正に未解決であり、その未解決を未解決のまま見切り発車してきたことが日本の原子力行政だったということなのだと思う。本書には、その点の視野が若干欠けてはいないか。

 
 いずれにせよ、読んでいて元気が出る本である。それが最後の読後感だった。

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紙の本福島原発の真実

2011/09/24 21:40

実は自分たちの間では「部分最適」だらけであることが本書から見えてくる

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書を読みながら「国家の暴力」という言葉を常に思った。

 国として電力安定供給という「全体最適」の為に、福島県の意見を「部分最適」と断定し、それを無視する形で原発が進められて来たことが本書を読んでいて良く理解出来た。
 一般論として全体最適の為に部分を犠牲にするということは、あってはならない事だが現実としては有るとは思う。何かを選ぶ時は、それ以外を捨てることであることも多い。全ての人や物が幸せになるということは話としては美しいが、なかなか難しい。

 但し、ここから先が問題だ。

 「部分最適」を否定し、「全体最適」を錦の御旗としてきている国が、実は自分たちの間では「部分最適」だらけであることが本書から見えてくる。原子力行政や電力会社は所詮、自分たちの「部分最適」を求めているだけに見える。県の「部分最適」を否定しながらも、自分達は結局は自分達だけの為の「部分最適」に走っているだけではないか。これでは欺瞞であると言われてもしょうがないだろう。それが出来るのも国家が暴力を行使しているからだ。著者は国策捜査ともいうべき汚職事件で失脚を余儀なくされたという。

 本書は福島原発の話だ。但し、例えば著者が最後に書いている自身の汚職疑惑における検察もほぼ同構造である様だ。著者は原子力行政と検察の持つ基本的な相似を描き出していると僕は読んだ。

 これは人間の業なのだろう。日本だけの特殊な話だとも思えない。他の国でも大なり小なり同じような話はあるはずだ。そう考えると、本書は突き詰めて行くと人間論になっていくはずだ。
 但し、そこまで抽象化している場合でもないかもしれない。原発事故は今なお現在進行形だ。本書で描きだされた様々な隠蔽も、現在なお進行中に違いないのだ。

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本書を批判するに際して、目新しさが無い点を挙げても的外れである

14人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書の副題は「いくつか学び考えたこと」となっている。これが本作の鍵だ。


 本書で著者が展開する議論での素材や情報一つ一つには目新しいものは多分無いと僕は思っている。著者自身が「特別にユニークなことが書かれているわけではない」とあとがきで断言しているが、おそらくその通りであろう。著者が認める通り、著者は原子力の専門家でもないからである。従い、本書を批判するに際して、目新しさが無い点を挙げても的外れである。


 但し目新しくない素材を集めた上で「学び考えたこと」の展開を通じて、本作は非常にコンパクトながらも、ピリリとした、山椒のような著作になっている。特に、人間が自然との対峙スタンスをどのように変化させてきたのかを展開する部分は大変勉強になった。原発が立っている土台には、人間の自然観と技術観、つまりは人間の哲学が存在している点は、今回の事故を通じて見えてきたものの一つである。


 今回の事故を通じて、「脱原発」「原発継続」「原発推進」等の議論が発生している。これからもこの議論は続くだろう。
 ともすると経済成長とのバーターというような議論(若しくは恫喝)に矮小化されてしまう可能性もあるが、本当に今の段階で試されているのは人間の哲学であると僕は思っている。


 「哲学というような青臭い議論をしている暇は無い」という異論もあろうが、長いスパンで考えた場合には、必ず哲学の問題になると僕は確信している。いかに今後技術が発展しても、人間が内部から崩壊していく可能性は常にあると考えているからだ。


 その意味では今回の事故を通じて「学び考えたこと」をどのくらい積み上げることが出来るのか。その一例として、著者が提起している「科学技術幻想とその破綻」という切り口は、大いに傾聴に値すると僕は考える。

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災害を乗り越えることで 未来が拓けるか

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 東日本大震災を念頭に置いて本書を読んだ。


 今回の震災において、日本人の冷静な対応ぶりが世界で評判となった。しかし、本書を読む限り、震災時の市民の互助利他的な対応は日本の特許ではない。本書で展開される世界各国での同様の対応には人類が持つ「社会資本」というものが見える。新自由主義や経済合理性からでは理解できない人間の一つの強さがそこにある。「自分にとっての最適な経済活動」を本能的に取る動物が人間だという考え方から、今回の震災時の市民の対応は説明不能である。
 


 一方、災害時のエリートが見せるパニックという視点は大いに勉強になった。

 エリートから見ると、災害とは自分の既得権=権力が失われる重大な危機であり、パニックを起こすという図式は今回の震災からも見えてくる。
特に福島原発を巡る各種混乱は、このエリートパニックという観点で見ると良く理解出来る。原発関連のエリートにとって救助すべき対象は退避している福島県民や農水産業を含む環境問題ではない。それは「自分の地位」なのではないかと感じてしまう場面が多くないか。

 但し、現場の「エリート」がパニックを起こしているか。具体的には自衛隊、警察の方を意味するわけだが、メディアを見ている限り、今回の震災で彼らが暴挙を働いたという話はない。これは本書が最後に大きく取り上げているニューオリンズのハリケーンカトリーナの事例と大きく違っている。世界が称賛しているのは、案外現場エリートの沈着な対応なのかとすらちょっと考えた程だ。



 日本の社会は閉塞している。赤木智彦という論者は「戦争になる方が良い」とすら語った。戦争になれば、今の固定化された社会が液状化し、弱者のチャンスが来る可能性が、現在より大きくなるだろうという期待だ。

 今回の震災は戦争ではない。しかし、日本の社会を液状化させる可能性は秘めている。災害を奇貨と出来るかどうか。それこそが震災が起きてしまった日本の力である。


 人間は災害をきっかけに成長してきた。それも本書のメッセージだ。日本は災害が多い国だ。災害が多かったからここまで成長してきたのかもしれない。であるなら、今回の災害をどう克服するのか。それが本書を読みながら絶えず突き付けられた質問であった。

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