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  3. 菊理媛さんのレビュー一覧

菊理媛さんのレビュー一覧

投稿者:菊理媛

54 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本狐笛のかなた

2007/10/26 14:13

命有るもの

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

不覚にも通勤電車の中で涙をこぼしてしまった。
不遜と思われるかもしれないが、日ごろから人が災難に遭う映像より、動物が殺されたり迫害されている映像に心が痛む人間である私としては、人に良いように使われる身でありながら、人の娘である小夜に恋慕の情を持ってしまった野火が愛しくて、哀れでならなかった。
児童書でありながら、この物語に貫かれている精神は、今の世の中で大人が考えるべき真理ではないかと思う。恨みを恨みで洗うような正義は、各々には正義であるかもしれないが、相手にとってはただの横暴であると、せめてその事実だけでも理解できたなら、今の世の不条理もずいぶん沈静されるのではないかと思う。
主に使い魔として操られる霊狐たちが行う殺人は、人と人との争いの産物である。「食べるために殺すねずみをかわいそうとは思わないが・・・」という野火の言葉が生きるための糧としてでない殺戮の無意味さを率直に表していると思った。
命あるものすべて、この世にあるものすべて、それぞれに命を持っている。利権のためでなく、生きるための食物連鎖上のことならともかく、恨みを晴らすための恨み、相手を苦しめるためだけの争いには終着点がない。そんなことのために命を取ったり取られたりすることなど、何の意味も甲斐もないと、読むものに教えてくれる本だと思う。
小夜も野火も小春丸も、果ては玉緒さえも幸せに生きてくれたらよいと願わずにはいられない。残り少ない命と知りながら、呪者としての生き方を選んだ主でさえ、それにふさわしい死に方を経て、穏やかになれたのではないだろうかと思える作品であり、作者の精神の豊かさを表す傑作だと思う。

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紙の本獣の奏者 4 完結編

2009/09/10 11:16

人と獣の絆が災いとなるのか? 人間の欲望が絆を禁忌へ向かわせる

14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

獣の奏者 完結編

 読み終わって、なんとも「心痛む作品」という印象が残ります。
 たぶん、読み終わってからもう少し時間をおくと、徐々に穏やかな気持ちになれるのではないかと希望的観測をしてしまうのですが。

 争いを止めることのない「人間」という生き物への憤りと、自分もその人間であることへの悲哀。より豊かな生活を求めて利権を争うことの意味と必然性に憤然としながらも、現実に照らせば理解できてしまう自分が許せないような気持ちになります。

 しかしながら、私が一番心痛いのは、人と信頼関係を結んだために人でない生き物が犠牲になってしまう部分でした。

 エリンがリランと心結ぶことがなければ、リランは幼獣のまま死んでいたかもしれない。エリンがリランに示した愛情は本物であり、本編でエリンがとった行動は、リランの子孫を野生に戻し、後の世において王獣を人の手から解放するという未来を得たことを考えれば、彼女が取れる選択肢の中で最上のものであり、(今現在は否定的な響きのある、どこかで聞いたことのある言葉を使えば)「痛みを伴う改革」だったのだろうとは理解できるのですが。

 その痛みが、あまりにも痛い。エリンに甘えるリランの長男の末路。穏やかにエリンの最後の従うリラン。

 あまりにも人間の考えや行動は身勝手で、庶民を守らねばならない義務があるというセィミヤの言葉も、ラーザの戦闘力に対抗するには必要だという理屈も、相手が仕掛けてきたのだから避けようが無かったと言う言い訳も、すべては人間の都合であることであり、その領地取りのために生をゆがめられた闘蛇も王獣も、人間の身勝手さの被害者であることが一番辛い展開でした。

 いにしえの時代に自らが誓った「禁忌」さへも再び繰り返してしまう愚かさ。

 「あれば使う」「知れば使う」諸刃の剣となる兵器としての闘蛇と王獣を、二度と同じ間違いを犯さないためにと、人の手から未来永劫取り上げようとした先人の知恵は「教えて諭す」ではなく「知らせず秘する」だったことで破綻をきたしてしまいました。

 ならば、「教えて諭す」を選んでいたなら、同じ過ちを犯すことはなかったのかと考えるに、それでもなお別の道を通って同じ過ちは繰り返されたのではなかろうかと思えてしまうあたりが、やはり人間の愚かさゆえなのかと思えてしまいます。

 それは、「戦争など、誰にも幸せをもたらさない」と知っているはずなのに、世界のどこかで絶えることのない戦争を続ける人間という生き物の性(サガ)というか、戦争をしないまでも自国の利権を主張しあう姿に見える業というか、そういうものを払拭できない限り、愚かにも大禁忌を繰り返しかねねない人間の本質を、どうしても否定できないからなのかもしれません。

 食べるためのブロイラーを羽毛がもともとないように遺伝子操作し、豚のロースを増やすために肋骨の数を増やしたという話を聞くたび、人間の都合で生をゆがめられている動物がどれほど多いのだろうと苦々しく思いながらも、自分の食べている食品の実態など実はよく判ってもいない愚かな私が言ってはいけないのでしょうが、人間はあまりにも自分たちの都合で他の生き物の生をゆがめているのではないでしょうか。

 先の二編(闘蛇編・王獣編)で終わっていたなら、結末はファンタジーの常の形で収まりがついていたように思います。けれど、この二編(探求編・完結編)は、ファンタジーながら現実の厳しさを強く示していると思います。
 私のような極楽トンボは、「めでたし、めでたし」で終わりたい。そう終われない結末は目を閉じてみないようにしてしまうところがあるので、この完結編の最後部分は読み進めるのが辛く、週末が予見できてからは読みたい気持ちと読みたくない気持ちの葛藤でした。

 けれど、確かに「こうならなけらば次が無い」という終わり方であったことも、素直に認められるのです。

 エリンとリランの生涯は、お互いに普通の生ではなかったかもしれませんし、世の中に大きなひとつの「災い」をもたらしたのかもしれません。けれど、彼女たちの絆そのものは、夢のような、羨望に値する、すばらしい関係だったと、完結編を読み終えた後でも、それだけは、そのことだけは、羨望の気持ちをもって「有り難い絆」と思えるのです。
 エリンとリランの絆は、古代の人々が禁じたものを壊すきっかけとなってしまったかもしれませんが、壊すために利用したのは人間の欲望だということを読者は理解しなければならないと思います。

 ファンタジーでありながらも、多くのことを示唆したすばらしい作品であると、たくさんの人に勧めたい本です。
 

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仔猫の愛らしさと、ちいちゃんの愛おしさに涙する

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

偶然、つい最近近所で捨て猫を見つけた。
家に猫がいる関係で連れて帰ることもできず、朝晩食事を運びながら貰い手を探すという経験をしたが、この猫が懐いて甘えてくるので、可愛くて可愛くて、イザとなったら家人と喧嘩をしても…という気になっていたのだが、幸いな事に貰い手が見つかり引き取られていった。
後に残ったお皿を眺め、しばらくは寂しくて仕方なかった。身を摺り寄せてくる小さな命の愛おしさというものは、体験してみるとなんとも言えない感情であることがわかる。
低学年用の読み物とはいうものの、読んでいて感極まって涙が出てしまった。
貰い手が居なかったら死ぬしかない命を、引き取り手が居なかったら殺すという人間の傲慢さ。ちいちゃんという、小さな人間がカラスから守った仔猫の命を、いとも簡単に「保健所へ連れて行く」と言い切る大家さんの言葉に、人間の身勝手な考え方と世の無常を感じて憤慨してしまい、ちいちゃんといっしょにお母さんの言葉にたしなめられた気がした。
命の大切さを子どもに伝えることが、なぜか難しくなってしまった今の時代。バーチャルなゲームで、遊び感覚で殺りくを楽しむことより、自分より弱い命を守る誇りを知ってもらう術を大人は模索しなければならない。
「ほんとうは、うちの子にしたかったの」と泣くちいちゃんの言葉が、優しくて痛い。
それでも今の時代、動物を飼うということには、子どものお小遣いではまかない切れないものがあることや、それでも命のあるものを愛しむ大切さを教えてあげたい。
子どもの感受性を育み、時には死を身近に感じて悲しむことは、人としてとても大切な敬虔だと思う。
最後に、猫は犬のように愛想良くないと思われがちだが、この物語の仔猫のように、飼い主が帰る時間に玄関で待っていてくれるくらいの愛想は十分にあるということを明記しておきたい。
たくさんの子どもたちに読んでもらいたい本である。

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多くの人の「人生の秘宝」となるか?

14人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

初期のころとは打って変わって重苦しい話になってきた。とはいえ、違和感があるわけではなく、守られていた子ども時代から大人になるに従って、悲しみや辛い出来事の度合いが増すという、人生の構図そのものだと感じる。
それを子どもが読んでどう感じるかは、大人になってしまっている私には計り知れないことであり、もしかしたら、同じ本の中に違う世界を見るのかもしれないとも思う。
とはいえ、やはり「ハリーポッター」は面白いと、読みながらつくづく思った。この巻がでるまでの長い待ち時間と、ずいぶん前にニュースで盛り上がっていた「ハリーポッター最終巻」の大騒ぎのせいで、ともすれば興味が冷えてしまった感もあったのだが、最初に「…と賢者の石」を読んだ時と同じく、読みはじめからどんどん引き込まれて行く。
ストーリーそのものは、すでに周知の内容の「その続き」ということで間違いない(ネタバレ要素など、より少ない方が良いと考える)ので割愛させていただくが、今回この本を読んで、なにに心引かれたかと言えば、「人は誰も良い面と悪い面をもっている」「完璧な善人も純然たる悪人も存在し得ない」という事実を再認識したということだ。
たとえばクリーチャー。あのシリウスを死喰い人に売った屋敷しもべだ。彼があることをきっかけにドビーと少しも変わらない忠誠な屋敷しもべであることが今回わかる。思わず「シリウスが悪かったのだ」と思ってしまった。もちろん、シリウスが悪かったとも言い切れない。つまりは環境と状況と相手の態度でどうとでも、その個人に対する評価は変わり、評価が変わって態度が違えば、対する相手との関係性も変わってくるのだ。
そしておなじみのロン。彼の心の闇を聞いてしまえば、責める方がおかしいような内容だ。当然感じて然るべき杞憂だろう。それでもなお、その思いを自ら振り払い、その闇に身をゆだねてしまわなかった者が正しい道を歩むのだろう。
闇はだれにでもある。ダンブルドアがハリーに言った「なにがあろうと私を信じろ」という言葉ほど、難しい試練は無い。誰も否定してくれない状況で、「もしかしたら」と悪い事態を考え始めたら、あっというまに闇が生まれ、意図せぬ間に広がってゆくのが人の心の弱さかもしれない。考えまいとして考えずに済む事ではないし、そういうことを考えもしない人生などありえないだろう。
実は、まだ上巻しか読んでいない。読み始めると、寸暇を惜しんで読んでしまうので、終わりに近づくのが惜しいのだ。とはいえ読まずにはいられない。多少モレ聞くネタバレで、あまり楽しい場面はなさそうだけれど、それでも下巻を読むのが楽しみだ。
楽しいばかりの人生などない。それでも、人と人は信じあう事でお互いを守ることもできるのだ。目に見えず、手で触れもしない「疑心」に自らを蝕まれてはいけないと、作者は教えてくれる。

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紙の本いっちばん

2008/08/19 15:06

好きな人を一番よろこばせられるのだーれ?

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まずは「良かった!」と、読み終わってその出来に安堵した。
大団円に向けて少々先細りの感ありか…と思われる前作ではあったが、今回は楽しく読めたので、ファンとしてはとても嬉しかった。これでおわりかとの心配もせず、次巻を楽しみに待てようというものだ。

表題となっている、「いっちばん」。いつものように体調ばかりは優れない若だんなを慰めるため、なんとか喜んでもらおうと贈り物を競う妖たちの優しさが微笑ましい。「人でなしな事件」が多発する現世にあっては、ちょっとハズレているけれど、実に心優しい妖たちの言動の温かさに癒される。
また、「いっぷく」前巻の「鬼と子鬼」を下地展開されるお話だ。人には見えないはずの鳴家のうわさをめぐっての推理ゲームの一方で、お店対抗の品比べが催されることになり、お店の威信をかけて長崎屋が商いの真髄を見せる。品比べの勝者は? 読者の溜飲は下げられるのか? なにはともあれ、一番のニュースは若だんなに栄吉以外の人間の友ができたかも? とは喜ばしい。
そして「天狗の使い魔」は、これまでとは一味違うおいしいお話。またまた攫われてしまった若だんなが無謀にも大天狗相手に勝負を挑む。
個人的には、この大天狗のキャラクターが好ましい。なんというか、正攻法しか知らない真面目な男が、真面目のつもりで、どこかズレた所業を重ねたゆえの大騒動。皮ごろも様も巻き込んで、もう大変。
それにしても甘えた様子の若だんなは、いつにもよりちょっと可愛らしく、兄やの背中が温かみもあって、大騒動のわりには、ほのぼのとしたお話になっている。
「餡子は甘いか」は風刺と示唆に富んだ作品。若だんなの幼馴染の栄吉は、和菓子屋に生まれながら餡作りの才能がまったく無い。真面目だが何事にも器用とはいえない性質のようで、世渡り上手というわけでもないので、修行に入った先でも後輩に先を越されるような始末だ。
「1%の才能と99%の汗」とか「好きこそモノの上手なれ」とも言うけれど、確かに人には才能の差があることは否定できない世の中の哀しい現実だろう。そんな世知辛い世の中で、どことなく自分の人生も絡めて、人の生を肯定してもらえたようで心が和む仕上がりになっている。
最後は、綺麗になった塗り壁娘のお雛ちゃん。綺麗になったばかりに三角関係を引き起こされる「ひなのちよがみ」。このお話では、歳のわりに、そして寝込んでばかりいる割りには人の出来てる若だんなの、まだまだ人の機微に疎い、文字通り若い若だんなぶりの青さが微笑ましい。
全編をとおして、「あぁ、『しゃばけ』だな」と思える仕上がりだ。

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うちの猫が、仰向けに転がるのなんて、当たり前だと思ってた。。。

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 今は昔。「うちで猫かってるの」と家人がおっしゃる家の猫は、ほとんどが外出自由の身であったり、逆に外に棲みかを持っていて、食事と安息の場として人の家(あるいは地域に)出入りして暮らすことが多かったように記憶しています。

 やがて、ドックフードなみにキャットフードも一般化し、主には純血種などを外出禁止の家猫として飼う家庭が増え、「猫にはご飯に鰹節のせて、味噌汁かけたものをやればいい!」などとおっしゃるお婆ちゃんの怒声を振り切って、ドライフードだ猫缶だと専用のフードを買い込み、「臭いの気にならない」とか「しっかり固まる」とかいうトイレ用の砂を備蓄して、猫に生活をさせる飼い方が定着しつつあるようです。

 今では、初めて猫を家族に迎える家庭では、どのような猫を家族に迎えるかの段階で、「ネコ図鑑」などで念入りに調べたり、「上手な猫の買い方」などの本で、猫の生活必需品を調べ、飼育ノウハウを勉強することになります。
 まぁ、ノウハウについては、ブリーダさんや(個人的には推奨しませんが)ペットショップの担当者さんに、たいていの疑問は答えていただけますけれど。

 現実を振り返れば、多くの捨て猫、野良猫が一日に何匹も薬殺されていることを思えば、「里親探し」などしている団体や集会に出向いて、貰い手がなければ人間の身勝手な判断で殺されてしまう猫を一匹でも救ってあげるべきだとも思うのですが、「慈悲心」「慈善心」とかとは種類の違う「愛護精神」で自分たちの好みの猫との出会いを希望する人たちにとっては、「どんな種類の猫がいるのか」「その猫はどんな性格なのか」ということや、初めて猫と暮らすにあたっての準備品の種類や注意事項が気になることも事実でしょうし、その家に来ることになる猫にとっても、家主である人間たちが、自分たちに必要なものを知っておいてくれることは必要なことなので、そのような本の必要性は否定することが出来ないと思います。

 さて、本書はその名のとおり「キャット・ウォッチング」の本です。つまり、「どのように猫を飼うか」ではなく、「猫とはどういう生き物か」あるいは、「見慣れた猫の仕草や行動には、実はこのような理由がある」ということの類が書かれています。

 表紙に書かれた「なぜ、猫は あなたを見ると 仰向けに 転がるのか?」については、猫と身近に接した経験のある人なら、漠然とそれが親愛の情を示す行動であることぐらいは、わかっているんじゃないのかなと私は思いますが、それならば何故、「撫でて~♪」とばかりにそのような仕草を見せた猫が、「そおぉ? じゃぁ」と撫でると、その手に攻撃してくる不思議。まぁ、それも、「だって猫なんだから、じゃれ付くんでしょ?」という風に漠然と納得しているのは私だけではないように思います。

 本書でいわく、「私がお腹をみせてころがるのは、あなたの前で弱みをさらす姿勢をとれるほどあなたを信頼していると言いたいからです」と猫は伝えているのだとか。では、なぜ撫でようとする手に攻撃をしかけてくるのか? それは、「仰向けディスプレーをしているネコがあなたにその柔らかな腹面をなでさせる用意があると考えるのは、かならずしも正しくない。柔らかな腹部に近づくのを許さない用心深いネコのほうがふつうである」ということだそうです。

 そのように、多くの「よく見慣れた猫の行動」から、「見たことの無い猫の行動」まで、動物行動学の権威である著者が、「猫という動物」について多くを語ってくれています。

 猫と暮らす初心者には、飼い方本と併用することで、より新しい家族の理解に役立ち、長く猫と暮らしてきた猫好きにとっては、長年の不思議と誤解が解消される内容です。

 同居する仲間としては、できるだけ相手のことを知っているほうが要らぬ誤解や軋轢が減るのは当然のこと。また、食わず嫌いで猫を避けてきた人にとっても「猫と暮らす人」の特権やら、猫にまつわることわざなど(とはいえ、これはイギリスのことわざなので、日本では馴染み深いわけではないけれど)を解説してくれている部分などは興味深く、猫好き・猫嫌いを問わず有益な本のように思います。

 猫っ気などまったく関係ない生活を送る、生活にストレスを感じているアナタ。ぜひ、ご一読を。。。とお勧めします。


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紙の本獣の奏者 3 探求編

2009/09/01 13:35

愛する家族のために、古の禁断を解き明かし希望の光をつかめるのか

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 偶然街角で旧友に遭遇したような感があるとでも言いましょうか。彼女は確実によわいを重ねた風でありながら、いっきに懐かしい時間に引き戻してくれるだけの「記憶のまま」の姿で目の前に現れました。

 さて、子供向けのお話の多くが「悲しい部分や残酷な部分」を削られて広められていると薄々でなくハッキリと認識したのは『人魚姫』が『リトル・マーメイド』として発表されたときでした。
 人魚は恋破れて泡となって消えてゆく。そんな悲恋物語であったはずなのに、王子様と結ばれて終わる『リトル・マーメード』となり、きっと今の子達はそちらを主流に覚えているのでしょう。
 『シンデレラ』然り、『桃太郎』然り、『かぐや姫』然り。みんな「めでたし、めでたし」で終わるように修正されるのは、その方が子どもの情操教育によろしいと大人が判断するからでしょうか。世の中はそんなめでたいことばかりではないのにね。

 そんな「めでたし、めでたし」で終わらせた童話にも、その後の物語あって当たり前だと気づいたのはいつごろだったでしょう。たとえば『桃太郎』は、後に「宝を奪われた鬼たちに復讐される」わけですが。。。

 この『獣の奏者』は、「闘蛇編」「王獣編」で完結したものと思っていました。物語として十分に完成されていると思いましたし、その後のエリンの人生が楽なものではなかろうとは想像できたものの、ひとつの決着がついたあの「降臨の野(タハイ・アゼ)」での出来事で終え、「後のことは読者それぞれの想像に任せます」という終わり方なら、「エリンはリランたちとともに、リョザ神王国に拘束されない山の中で幸せにくらしましたとさ」的な「めでたし、めでたし」終わりが好みならそのように。また、「唯一の王獣を操れる者として、ヨジェ直轄の地位を得て・・・」と、次の物語を自分の中でだけなら自分勝手に想像するのも楽しかろうと思っていました。

 今回、まったく予期せぬ幸運というか、この「探求編」が出たことを知り、もちろん嬉しかったのですが、少しばかり困ってしまいました。なぜなら、子どもではない私の思考回路では、エリンのその後の人生が「めでたし、めでたし」では無かったはずだとしか考えられなかったからです。
 想像のとおり、エリンの人生はたいへんなもののようです。それでも、「あ、やっぱり?」と思う男と結ばれ、さらには母となり。あたかも旧友に「どうしてたの?」「あ、結婚して子どももいるんだ?」「最近はどうよ?」などと矢継ぎ早に質問して、友が答えてくれているような部分もあり、エリンの人生が想像を絶して辛いものであったとしても「続きを読めてよかったな」と思えました。

 先の2編が「闘蛇編」「王獣編」であったように、今回の2編も「探求編」では闘蛇にまつわる話を中心に進められていたので、「完結編」では王獣にまつわる話が語られるのでしょう。
 無敵の闘蛇部隊を、たとえ一頭であっても王獣が蹂躙する事実で終えた先の「王獣編」から十年の時を経て、幼かったエリンが抱えていたより大きな難問が母となったエリンを苦しめます。闘蛇の操縦法が他国にもれたかもしれない状況下で王獣部隊を組織するように迫られるエリン。子どもながらに潔くも「いざとなったらこの命を捨てさへすれば」と誓っていたエリンも、妻となり母となり、自分の命ひとつを引き換えに逆らえるものではなくなったことも、皮肉な運命といえるのかもしれません。

 命を捨てることも逃げることも出来ないと悟ったエリンが向かった先は。そして、そんなエリンを守るためにエリンの夫がとった行動とは。物語は「完結編」へと流れてゆきます。

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猫を深く理解するために

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

キャット・ウォッチングの第2弾です。

 猫の謎を解き明かすとありますが、一作目でだいたい猫の習性などについては語られつくしたように思います。

 続編の形で出版された本作は、その一作目を読んだ愛猫家の読者から寄せられたさまざまな質問に答えるという内容になっています。

 たとえば、「眼による信号」や「尾による信号」などは、家に猫が居る人か、よほどの猫好きで、巷で猫を見ると思わず凝視してしまう人でもなければ、あまり気にならないような内容ですし、そういう動きをするとさへ知らない人も多いのではないでしょうか。
 さらに、「超能力があるか」という疑問になると、なんの前触れも無くそそくさと玄関に猫が向かったと思ったら、ほんのしばらくで家族の誰かが帰って来るなどの不思議についての疑問でしょうし、ずっと大事に暮らしてきた猫が、死ぬときになって自分たちから見えないところへ行って死を迎えるということに対して、「私のことを信頼してくれてなかったの?」という感情からの質問だろうと思うので、特に猫に興味は無いという人にとっては、「猫のそんな習性は知らない」という話も多いように思います。

 しかしながら猫の歴史、崇められたエジプトの猫、悪魔の手先として迫害を受けたヨーロッパでの災難や、戦争兵器として毒ガスを背負わされた話などを読むと、人間のために意味も無く迫害された時代のことを知り、心痛む思いがしました。

 家具を傷めるからとか、自分が痛いからと、爪を抜く手術をするなどということを聞くと、「じゃぁ、猫を飼うな!」と言いたくなる私も、我が家の猫は虚勢しています。それは、オスの場合は強烈な尿をスプレーするので、その臭いに耐え切れなかった経験上、当然のように6ヶ月にもなったころ獣医さんへ連れて行って虚勢手術を行いました。
 虚勢や避妊手術の是非については、「虚勢したオスは大人しく、いつまでも子猫のように可愛らしいし、喧嘩などしなくなるから」とか、「避妊手術することにより、卵巣の病気などにかかる心配が減るし、もらいてのない不幸な子猫を増やさなくて済む」など、猫のためにも良いからと謳って、正しいことのように行われるわけですが、それらは、実は単に人間が「自分たちに都合の良いペットとするために、猫をゆがめている」という事実を理解したうえで、行われるべきだという作者の言葉で、「お互いのため」のように思っていた私としては、大いに反省しなければならないと感じました。

 とはいえ、確かに(それは人間の勝手ではあるけれど)数を規制する必要はありますし、大事に育てられない家猫が捨てられたり、野良猫の数が増えることで、迫害されたりというマイナス面があることも事実ですので、必要悪というものかとも思います。

 ただし、それは「人間の都合で、猫の権利を奪う行為を行っているのだ」と理解して、行われるべき罪であるということは理解できる気がします。

 それにしても、人間の思考による弊害による不幸な過去とは言うものの、ある宗教の教えによって、それ以前の神が悪魔とされたり、その手先だといって黒猫を生きたまま火に放り投げたりという歴史があったと知ると、なんともやりきれない気持ちになってしまいました。おもわず、うちの猫に「ごめんね」と謝ってしました。

 国が違う場合はもちろん、同じ国民同士でも、人間同士の争いや迫害ならば、被害者だと大声で叫ぶび、声高に「補償」を叫ぶところでしょうけれど、人間による動物迫害については、人間が自ら反省する以外ないのでしょうね。また、動物たちは「補償しろ!」とスクラム組んで交渉するなんてこともせず、「そんな不幸な過去もあったわね」と達観したように、人間の側で人を癒してくれてるのねと思えば、物言わぬ友を大切にすべきだと暗に示唆する本でもあるように思います。

 現代の完全家猫(外へ出さない猫←これも、人間の身勝手により猫の楽しみを多く奪っているのでしょうが)に照らすと、この本に書かれていることはちょっと違ってきているという内容もなくはないのですが、小さな友をより理解するためには、お勧めの一冊です。

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紙の本ころころろ

2009/08/14 13:50

「置き去りにされた」と思う心が、鬼の闇

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 おなじみのシリーズも8巻めなりました(末広がりで、お目出たい♪)

 さて、あまりにお目出たくてか、新刊『ころころろ』では、若旦那の“お目”玉が、つまみ“出”され、もってかれてしまうようです(洒落ですか?)

 しかし、毎度おなじみ病弱で外出もままならない若旦那が失明したとて、どうせ普段から寝てばかりいるんだから大差ないようにも思えてしまうのですが、家はおろか離れから出もしないのに、転んだりぶつけたりと、まことに器用に危ない目にあってしまうとあって、大事な若旦那には、超甘々の両親と、超々甘々のふたりの兄やをはじめとする甘々面々は、人も妖もこの椿事に大弱りの大騒ぎとなります。

 大事な若旦那の災難だけでも、心配マックスの兄やに、若旦那の母であり大妖皮衣の娘、おたえを悲しませたのは、兄やふたりの「守りがだらしないからだ」と、おたえの守狐から責められて、キレたふたりは、「鼠捕り」よろしく、神様をエサでつってつかまえてしまえと、罰当たりな行動に出ます。
 そんな単純な罠に神様ともあろうお方が引っかかるものか? と思いきや、そこがこのシリーズに出てくる“人ならぬ者たち”らしいところとでもいうのでしょうか、あっさり捕まった神様は、若旦那とその親衛隊の妖し連中に交換条件を出します。その勝負に勝利して、若旦那の「光」を取り戻すことができるのか?

 必死に玉を求めるあまり、「神様捕り」にひっかかってしまうちょっと間抜けな(?)神様。今回初登場の品陀和気命(ほむだわけのみこと)は、生目神社に祭られる目の神様。その神社に備える鎮壇具(ちんだんぐ)の七宝玉が全編を通してのキーワードとなってます。

 個人的におもしろかったのが、神さまが出した「問題」に出てきた『桃太郎』についての妖たちの解釈。実は私も「桃太郎のやったことってどーよ?」と思っていたので、「そうそう、その通り!」と膝を打って賛同してしまいました。昔話って、端折ってあったり、「めでたし、めでたし」と終わるので、大団円で終わったかのように思い込んでいますが、後で冷静に考えてみると筋が通らないことがままありますね。

 いにしえからの日本における神と人との交わりは、時にやさしく、時におそろしく。祀ったり、祟ったり。捧げたり、奪ったり。祈ったり、封じ込めたりと、一面だけでは理解が難しいかかわりかたをしてきた歴史があります。神の時間と人の時間のタイムラグ。神や妖からみれば、人の時間は儚くも短くて。

 「神とはいかなる者なのか」

 日本人なんだから、日本の神様がいかなるものか、そして古来から人間と神はどのようにかかわり、どのように接し、また距離を置いてきたのかを、さらっと程度には知っておく必要がある気になってくる今回のお話。

 神様は偉い人? 神様は祟る人? 神様に貢物、神様に人身御供。神様って怖い存在だから畏れ敬われるのか、慈悲深い存在だから祀られ敬われるのか。
 すくなくとも、このシリーズにおける神様は、とっても人間的。いや、鬼だって妖だって、とっても人間的。理由があって恐ろしく、理由があって悲しい存在として描かれます。
 兄やふたりも、それぞれに“鬼”を相手に大活躍。けれど、やっぱり病弱な若旦那の大活躍には適わない?

 今回も人情味あふれる(?)妖怪たちの活躍で、やさしさが“ころころろ”と転がって、この世もあの世も、誰かを失って鬼になるなら、誰かを守って何になるのでしょう?
 置いてゆく身と置き去りにされる身は、さてどちらが辛いのか。置き去りにされた事が辛いのか、それとも「置き去りにされたと思う心」が痛いのか。
 それが神であっても鬼であっても、ましてや儚い人の身ならなおのこと、いつか来る別れを思へば疼くような胸の痛みが、仁吉の「我らはすっと、側におりますからね」の一言に、それが事実であろうとなかろうと、少し慰められた気がします。

 

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紙の本天と地の守り人 第1部

2008/12/08 14:33

守り人シリーズ、大団円に向けて

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

天と地の守り人 第一部

 「この作者の作品が、一番好きだ!」と、上橋菜穂子作品を読み終えたとき必ず思う。とはいえ、薄情なもので、他の作者の本を読んでいるときは、あっさり忘れて、その時読んでいる本に肩入れしていたりもするのだけれど。

 上橋菜穂子の作品は、総じて全身をすっぽりと包み込んでくれるほどの深みがある。読んでいるとき、読者は俯瞰して物語を楽しんでいる身ではなく、どっぷりと作品の世界にはまりこみ、登場人物に憑依して物語の進行に身をゆだねざるを得ないような一体感で、喜びも悲しみも、痛みも癒しも体感するのだ。
 主役が女性用心棒であるあたりがすでに珍しいが、その女性が実はお姫様であったり、絶世の美女というわけでもない。アニメではかなり美人で若く描かれていたが、本の中では三十路の短槍使いの女性としか表現されていない。その主役、バルサと不遇の太子チャグムの馴れ初めで始まった「守り人」シリーズ。この人気シリーズの説明は、今さらなので必要もないだろう。
 本作品は、守り人シリーズに、(当時は幼かった)皇太子チャグムを主役として派生した別流「旅人」シリーズが合流し、シリーズの集大成として壮大な物語となっている。
 個人の意志などではどうにもならないかのような、国と国との攻防のはざ間で、己の力なさを骨身の真まで思い知らされながらも、歯を食いしばって愛する故国のため、民のために自分のできることを成し遂げようとするチャグム。「精霊の守り人」で登場した、守られるばかりだった少年が、ここまで成長したのかと思うと、読んでいるこちらも感慨深いものがある。まして、バルサはどう思うだろうと考えるに、雛が翼の下から飛び立ってしまったような寂しさもあるのだろうなと旧知の友の心情を探るかのようにしみじみ思ってしまう。
 ちょうどこの本を読み終える2日前に、「天と地の守り人 第二部」が届いた。早く続きを読みたくてうずうずしてはいるのだが、せめて第三部の発売予告が出るまでは、「お預け!」と自分に禁を課した。そうでもしないと、第三部が待ちきれなくて、禁断症状を起こすだろうと本気で思うからだ。
 幼い自分を守るために命をかけてくれたバルサ。青年となったチャグムは、そのバルサに再び自分のために危険に身をさらして欲しいと、自らはとても言えないし、言いたくはないのだ。そんなチャグムを頼もしく思いながらも、わが子のことのように放っておけないバルサ。自分の知らないところでチャグムが危険にさらされるよりは、自分の体を張ってでもチャグムを守る方が気が休まるのだろう。缶バルへ向かうチャグムに随行を買って出た時、拒否しようとするチャグムに「私のことは私が決めるよ」と言い放つバルサ。バルサに再開できて嬉しいのは事実、ともに来て欲しいのも事実。それでも今の自分には、バルサのその行為に報いられる何も無い。その上、今回の道行きの危険度は前回の否ではない。
 成長したチャグムは、それがわかるゆえに、バルサに自分とともに来て欲しいとはとても言えなかったのだろう。けれど、やはりバルサはともに行くのだ。「守り人シリーズ」の主役である短槍使いのバルサは、やはり「守り人」なのだから。
 守る女槍使いバルサ。守られる運命の皇太子チャグム。バルサが帰る故郷はタンダ。シリーズでお馴染みのメンバーも、それぞれ自分の持ち場で危険と隣り合わせに頑張っている。みんながみんな頑張っているから、読者も必死に付いていこうという気持ちで、上橋ワールドの存亡を守り、旅するのだ。

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紙の本ゆきとくろねこ

2008/11/24 19:09

はじめての雪を体験してみませんか

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

黒い猫と白い雪をつつみこむ桃色の絵本です。

初めての雪を迎える黒猫は、大きく描かれているけれどまだ子猫なのでしょうか。
未知の予感に、わけもなくどきどきしてた子どものころを思い出しました。

昨日の続きの今日、今日の続きの明日。いつもと同じ日常の中に、なんだか不思
議な予感がある。そんな気持ちがよく表現されています。

「ゆきとくろねこ」という題からは、モノトーンの世界が想像されますが、この本は
暖色系を中心に描かれた温かい挿絵がすてきです。

部屋の中の暖かさや、心の温かさは、ほんのりとしたピンクで表現されています。
窓の外の世界も、明るい色使いで楽しく描かれて、絵そのものも楽しめます。

ごはんを食べてみても、ぬくぬくと丸まって眠ってみても、「何かがやってくる」と
いう予感にどきどきしている黒猫の心の動きは、きっと子どもたちの共感を得る
ことでしょう。

降りたての雪に残す自分の足跡を振り返って眺める楽しさ。

舌を出して雪を味わってみたときの、味もしないはずの雪の味。

寒くなって家に駆け込んだときの、家の中の温かさ。

眠っている間にも降り積もる雪の音を聞きながら、ぽかぽかのお布団で眠る幸せ。

子どものころの記憶に残る、雪が積もった朝の感動と、うれしい気持ち。

大人になって忘れてた、遠い記憶に鼻をくすぐられた気がします。

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紙の本猫の遺言状

2008/09/04 10:31

そこに愛はあるか

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一時よりは少々下火らしいが、世はまだまだペットブームである。
その陰で、傍目の可愛らしさにひかれてペットを求め、「思っていたのと違う」とか「家庭の事情で飼えなくなった」という理由で捨てるということも多いらしい。別荘地では、どうみても純血種であろうとおぼしき犬も野犬化しているという。
最近は、わが子でさへ育児放棄して親が好き勝手をする時代であるから、犬猫を捨てたり、飼育放棄するなどという行いは避けようが無いのかもしれない。ペットブームに高騰した仔犬・仔猫が無分別にブリーディングされ、近親交配の結果、奇形が多く生まれているというドキュメンタリー番組もあったが、すべては人間の分別ない自己満足を満たした結果と言えるだろう。
動物は生き物であり、「待て」の一言で見ているこっちがかわいそうになるほど、何時間でも待ってくれる警察犬のようなものばかりではないことを知っておく必要がある。

本書は、元来、猫と目を合わせるのも怖かったという猫嫌いの著者が、猫好きな娘さんの影響で猫を飼うハメになり、出会った仔猫の天使のような愛らしさに猫好きの門をくぐってしまい、「猫好きさへも恐れる野良猫、ゴールド」と、深い信頼関係をつくり外猫として愛するようになる。そして一匹、また一匹と家猫、外猫が増えてゆき。。。
結局は「困った」がつくほどの猫好きになってゆくさまが、一般家庭と変わること無い家庭風景をとおして描かれている。
描かれる内容は、猫との出会い、死別、生き別れと、ほのぼの路線ばかりではない。家猫として申し分のない最初の五右衛門は別として、捨て猫を家に入れたときの苦労話や奮闘記もリアリティをもって描かれている。
飼い犬、飼い猫との死別は辛い。本書にもかかれているが、ある意味近親者の死よりも切実に胸に迫ってくることがある。それは、物言わぬ動物たちの人に向けてくれる愛情、そしてその動物たちと共にすごした時間の、あまりにも当たり前に、その辺りに転がしておいたような絆を後悔する気持ちによるものだと思う。愛していた、確かに可愛がった事実もあるのだけれど、もの言わぬ彼らをいつもこちらの都合で後回しにしていたことを後悔するのだ。
実家の猫が死んだ日、仕事場の関係でマンション暮らしをしていた私は、余命短い猫にお土産を買って実家へ帰る予定であったにもかかわらず、金曜日だった(土曜日にもう半日勤めがあった)ことと、夕方から吹雪きだったことを理由に、一日遅らせてしまった。その結果私は、その日の夜死んでしまった愛猫の死に目に会えなかった。まともに歩けないほど衰弱していた彼は、夕食後にテレビを見ていた父母の元へヨロヨロと出てきたそうである。
自分の都合を優先した私は、猫のお別れの挨拶を受ける事ができなかった。5年経とうという今でも、ずっと私は後悔し続けている。
著者は「あとがき」で「愛情をもって彼らに接するようになって初めて、私は猫という動物に限りなく悪意と偏見を抱いていたことに気付いた。猫という動物は、どれをとっても情が薄くて冷たくて、社会性がなくてずるくて身勝手で、我儘かつ陰険な性格の動物だと思い込んでいたのだ。」と書いている。
従順なイメージの犬に比べると、猫は我儘なイメージが強い。けれど、彼らが示す情愛行動は、こちらが恥ずかしくなるくらいストレートなものがある。
作者は「生ゴミを漁る汚らしい野良猫にも、人家に忍び入り食物を掠め取る泥棒猫にも、何もしない家猫を襲う凶暴なやくざ猫にも、そうせざるを得ない哀しさと理由があることを、そしてそれはほとんどの場合無責任な猫の飼い方をした人間たちが原因を作っていることを知っていただけたら、そんな想いで書きました。」と書いている。
相手の人格を尊重して相対する。犬には犬格、猫には猫格があり、それを尊重するなら、相手もこちらを尊重してくれるのだと、そんな当たり前のことの大切さを知らずに、犬も猫も飼う資格など無いのだと、改めて実感させられる内容だった。

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紙の本ゆめつげ

2008/05/12 15:15

超能力禰宜さん登場

10人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者の他作と比較する気はさらさらないが、人気シリーズが「水戸黄門」とすれば、こちらは「鬼平犯科長」といったところか。
勧善懲悪を見終えた後は心地よいが、かなり現実離れしている。というか、現実離れが売りなのだ。絶対安全、絶対安心、多少の危機や涙があっても、スケサン・カクサンは一騎当千の凄腕で、それでも危機一髪の瀬戸際には必ずヤシチの赤い風車が飛んでくる。ギリギリまで追い詰められようが、最後は「めでたし、めでたし」で終わるのだ。こういうストーリー展開をバカにしてはいけない。読者(視聴者)はそれを望んでいるし、だからこそ長寿番組となりうる。私も大好きだ。
これが鬼平犯科帳となると少々様相が違ってくる。もちろん勧善懲悪で、最後は「火付け盗賊改め、ハセガワヘイゾウである!」の名乗りをあげて、バッサバッサと悪人を切り倒し、血も涙もない極悪人は容赦なく切り捨てる。時には悪事を働いてしまった善人をわざとお目こぼししたりもするけれども、水戸黄門でなら死なずに済ますであろうところだが、鬼平犯科帳では死んでしまったり、ところ払いになったりする。要は比較的リアルなのだ。どっちが好きかと言えば、私はこちらに傾倒している自覚がある。「剣客商売」も大好きだ。
もちろん、鬼平犯科帳だってフィクションに違いない。あんな大根を切るように多数の悪人を一人で切り倒していけるはずもない。けれども、どこかリアルなのだ。
前置きが長くなったが、本作品はフィクションでありながら非常にリアルなところがあり、主人公が瀕死の状態にまで追い込まれてしまう。和製サスペンスと言って良いストーリー展開で、主役一家を除けば善人・悪人が定まらない状態で話が進んでゆく。もちろん、「夢告」という超能力がストーリー展開に濃厚にからんでいるので、「リアルな話」というと眉間にシワを寄せる人も多いであろうことは否定できないのだけれど。
「これも面白かったよ、畠中さん。また新作も読ませてね」と、友だち口調で話し掛けたなら作者に怒られてしまうだろうか。

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紙の本オドの魔法学校

2008/04/24 12:48

魔法とは何ぞや

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 電車通勤をするようになって、めっきり読書量が増えた。新刊本だと重かったりするので、文庫本サイズで面白そうなものを物色する日々である。
 本書は表紙の絵が綺麗だったので手に取った。電車時間に余り余裕が無く、正直なところ「これでいいや」程度に選んでレジへ行った。千円だった。。。
 「え? 文庫本なのに!?」というのが感想だった。執筆者のファンの方には怒られそうだが、博識でない私はマキリップなどという名にはトンと聞き覚えが無かった。選定基準としてはファンタジー物が好きという程度で選んだのだ。
 読み始めてしばし、なかなかページが進まない日々が続いた。なぜかというと、出だしは極めて辛気臭いのだ。その上、話の筋が複数あって主役が誰だか混乱してしまう。たぶん、ブレンダン・ビッチの話から始まるので、オドに誘われて魔法学校の庭師となる青年が主役なのだろうなと思いながら読み進むのだが、途中登場の複数がブレンダンに劣らぬ扱いを受けだす…というか、話の筋が複数展開しはじめるのだ。その昔、大いなる期待をもって魔法学校に入った男が今や教師に納まっている男と、その恋人。ロミオとジュリエットよろしく、取り締まる側の男と、目をつけられる手品師の娘。そして、役人根性丸出しの王家お抱え魔法使いと、ささやかな魔力を持つことを隠しているお姫様。
 どれ1つとっても、それだけで一物語できそうな組み合わせのストーリーが、複雑に、そして巧妙により合わされている。それが、大河ドラマのごとく、支流がいつか一本の大河となって大団円を迎えることになるのだが。。。
 結末は、たぶん「めでたし、めでたし」ということなのだろうと思う。「たぶん」といわざるを得ない終わり方であるところが、うまいところだと思っている。
 きっと、魔法というものはこういうものなのだろうと最後に思った。一番簡単な魔法は祈る事。そういう、日々に埋もれて気にもされずに普通にソコにあるものこそが、太古からの魔法であると、作者は言いたかったのだろうか。

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紙の本生き屛風

2008/11/06 14:24

煙管の煙が目に染みて

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私は根っからホラーやオカルトは嫌いな性質で、子供だまし程度でも「お化け屋敷」などというものには近づきたくも無い人間である。真夏であっても、その類の映像は予告を目にすることさえも避けたし、ましてその手の本を好んで読もうと思った記憶もない。
 この『生き屏風』をなぜ手に取ったのかについては、自分のことながらよく分からないくらいで、読み終わった今考えても「なぜ?」と思ってしまう。しかしながら、読み終えた感想としては「粋」とか「洒脱」、あるいは「風流」という言葉さえ似つかわしい作品であり、「恐ろしい」という感覚はまったく感じなかった。
 帯に「ホラー小説」と書いてあるのだから、「恐ろしくなかった」などと書くと貶し言葉になってしまうのかもしれないが、「面白かった」と言って憚らないので、私なりの褒め言葉だと思っていただきたい。
 主役は妖鬼の娘。名は皐月と可愛らしが、父は人に育てられた鬼であり、母は花塊という妖とある。なんとなく父の姿は想像できるが、母の姿は皆目わからない。花の塊というからには美しいのか? とは思う。しかしながら、主人公の皐月は「へちゃむくれ」と屏風中の奥方に言われ、「狐妖と比べて綺麗じゃない」と菊の精に言われ、散々である。しかしながら、そう言われて怒るでもないあたり、かなり性格美人と見受けられるし、妖鬼といってもオデキのような角を前髪で隠せば、見た目には人と変わりない姿の娘のようである。とはいえ、人の一生とはかなり時間基準の違う生を送っているらしく、県境に住み着き、外部から入ってこようとする邪気や病を防いでいる彼女は、赤ん坊が長老と言われるころになっても、まだ変わらすそこに居るのだという。
 土地を守っているのだから、元来、悪い者ではないという認識にいたる。入り込もうとする邪気や病をすべてを祓えるわけではないけれど、力の及ぶ限り人の生活を守ってくれる者とあらば、守り神みたいなものではないかと思う。物語中、神と妖しの違いについてなども、私見程度だけれど書かれていて、なかなか興味深いものがあった。
 さて、日本ホラー小説大賞の短編賞を受賞したという「生き屏風」。皐月がいつものように生活しているところへ、近所の酒屋の小間使いがやってくる。その酒屋では、一昨年前に亡くなった奥方が夏場になると屏風の中に現れて我儘放題を言って家の者を困らせるので、人ならぬ皐月に彼女の相手をして欲しいという。あまり気が進まないながらも出かけてみると、口は良くないがなんとなく気の合いそうな奥方が、まっかな屏風の中にいて。。。
屏風中の奥方は、商家の妻女というよりは置屋の女将といった感じの粋な女性で、三味線を爪弾きながら小唄を口ずさんでいる婀娜っぽい姿が似合う女性が想像される。生きていたころは体が弱かったため外出もあまりしなかったという色白の肌と、半開きの赤い唇に寄せたガラスの煙管から漂う赤や紫の煙という描写が、えも言われぬ美しい絵を想像させてくれる。(もっともディズニーの『不思議の国のアリス』に出てくる幼虫の姿とも多少はダブらないこともないが)
 死んでなお、この世に居つき、残した者たちに我儘を言う奥方の、ちょっと捩れた愛情が見え隠れする。読み手には、この世に残した旦那に対する愛情が見えるのに、居着かれた旦那は迷惑なばかりのようで、邪魔をされていると思いこんだ手つき女には火をつけられそうになる。それを旦那が止めるのも、死んだ女房がかわいいからでなく、家が燃えては困るからであり、悪鬼となって祟られてはたまらないからという、心根で比べればどちらが妖怪か分からないような心情が語られる。
 なんとなく胸が痛くなるような展開だが、最後にほっとするような一文があることで、心が和んだ。
 恐ろしげだが、尋常ならぬ美しい妖の女。生きてはあるが、了見の狭い愚直な人の女。屏風の奥方や里外れに住むの狐妖の方が、旦那のお手つき女や、(狐妖の宴に出てくる)八つ当たり娘よりも、粋に婀娜っぽく、美しく描かれている。
 もっとも、生身の女たちの描かれ方も、生身ならば当たり前という程度のものではあるけれど。一人、「猫雪」に出てくるお妙さんが、生身の女の面目を躍如してくれているのが救いと思う。
 収録の作品どれをとっても、ホラーというには優しく、美しい情景の話に仕上がっている。ホラー嫌いの私としては、ちょっとしたカルチャーショックな作品だった。

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