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悠々楽園さんのレビュー一覧

投稿者:悠々楽園

44 件中 1 件~ 15 件を表示

エリック・ホッファーとは何者かを知るに十分な1冊

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 エリック・ホッファーは人生のほぼ半ばまで季節ごとに場所を移動して農作業に従事する移動労働者として働いた。39歳のときサンフランシスコに定住したが今度も沖仲士として厳しい港湾労働に明け暮れる。そういう生活の中で本を読み思索した。
 7歳で失った視力が15歳で奇跡的に回復するとホッファーはドストエフスキーなどの著作に没頭した。18歳で父親と死別し天涯孤独となる。28歳の時には、働くのをやめ貯えを食いつぶしながら1年の間旧約聖書を精読した。34歳の冬にモンテーニュの「エセー」を初めて手にする。この3つの本が彼の哲学形成に大きく影響したのは確からしい。
 49歳の時に最初の著作を刊行。以後も65歳までは沖仲士の仕事を続けながら本を執筆した。
 この間62歳から70歳までカリフォルニア大学バークレー校にて週一回政治学(!)を講じてもいるが、その仕事について本書に収録の角間隆のインタビューで「たった三時間だけ教室にすわっていて、そこにやってくる人々と話合いをするだけ」で、あまりにも楽をして金がもらえるその仕事が性に合わないのでやめようと思うと語っている(大学からの引き留めでもう1年延長したのち言葉通り辞めた)。

 ほとんどは、すでに掲載されたインタビューや書評、エッセイなどの寄せ集めだが、エリック・ホッファーという人物を初めて知ったわたしにはひじょうに興味深くもあり役にも立った。彼という人間の特徴的な出来事のいくつかを知り、彼の哲学のエッセンスは十分くみ取ることができる。さらにはどのように受容されてきたのかもあらましつかむことができる。
 そしてわたしはエリック・ホッファーという人物の魅力に引き込まれた。

 ある程度の知識があるなら、あとは9冊ある彼の本を読めばいいのでこの本のほとんどは不要になるかもしれない。ただし、単行本には収録されていないエッセイがいくつか含まれているし、ホッファーに関するまとまった本はほかにないので、研究者には物足りなくても彼に関心のある読者には手にとってみる意味がある。

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紙の本超簡単お金の運用術

2011/06/09 13:35

投資から学ぶ人生のスタンス

5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ひとはこの手の本を手にとって読んでみたい衝動に駆られがちだが、手にしてみればやっぱりあまり真剣に読む気にはならないし、読む必要もなかったと後悔することが少なくない。
 この手のモノゴトに「読んだ通りやればうまくいく」ことなど皆無なのだ。その点では本書も多かれ少なかれその例に漏れない。
 ただし、山崎元という人の反抗的態度というか、体制や権力に(おおむね)こびることなくすっぱりとモノ申す姿勢や言葉に元気や(ときには)勇気をもらえるという効用がこの本にはある。
 といっても、巨悪をあばくというほどの物々しさはない。そのあたりの、良くも悪くも市民的良識的態度に真実味があり、共感を覚える向きは少なくなかろう。

 タイトルの通り「余剰資産の超簡単な運用方法を提示する」というのが本書のメインテーマであり、さらに、その根拠の説明とに紙数の大部分を当ててもいる。考えてもしょせんわからないことや専門知識と時間が必要なことを素人がするのは現実的ではないので、投資効果として大きく劣らないお金の運用方法を伝授しようというわけだ。
 著者の十分な経験と豊富な知識から洞察される経済・金融に関するアドバイスにはもちろん説得力がある。それはそれで役に立たないとは言わないが、この本の趣旨はまことしやかに語られるウソや儲け話のたぐいを真っ向から否定することにこそある。
 すなわち、「甘い話には裏がある」ということであり、「十分準備をして真っ当なことを続ければ正当な利益(さほど大きなものではない)がもたらされる」ということにほかならない。投資に興味のある多くの人にとっては実につまらない話と映りかねないが、それが本当のことなのだろう(と思える)。
 だからこの本から学ぶべきより重要なことは、投資や資産運用のプロとして、仕事を通して著者が見つけた「大らかな合理主義」と呼ぶところの処世訓のほうにこそある。いわく、

1 結論が出るものについては勇気をもって優劣をつけて選択し、しかし、
2 努力で改善できないものについてはくよくよとこだわらず、
3 事前の意思決定としておおむねベストならそれでいいではないか、
 
 著者が本当に書きたかったのは、投資の技術や資産運用の方法論ではなくて、世の中にはびこる罠やごまかしに足を取られることなく、快適に人生を送るために取るべき人生のスタンスなのだ。

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カンブリア紀研究の最新成果に触れる喜び

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書が画期的なのは、何といっても出版時期が比較的新しく(2008年4月初版)、バージェス頁岩、中国・澄江(チェンジャン)というカンブリア紀の生物に関するいわば「二大聖地」と、さらに世界中でその後続々発見された化石や研究の最新成果を踏まえて、解説がなされている点である。
 科学的な書物においては、わずかな時間経過によってそれまでの学説が引っくり返ったりすることは大いにあるので、新しいものを読むに越したことはない。
 とはいえ、専門家が読むような専門書や論文は別として、わたしたち一般人が手に取れる範囲でそうした書物はカンブリア紀の生物を扱った本ではなかなかなかったのではないかと思う。
 少なくともわたしはサイモン・コンウェイ・モリス著「カンブリア紀の怪物たち」を読んで以来の最新の成果に好奇心を掻き立てられた。

 本書の後半半分は、もちろん最新の成果を踏まえたうえでではあるが、カンブリア紀生物図鑑的様相を帯びている。これはこれで興味深かったが、似たような生きものも多くて、本書の簡略なイラストと文章だけでは違いがわかりずらく、延々と続くのには途中で正直退屈した。
 また分類や進化に関する専門的な説明がいくつもはさまれていて、これまた興味をそそられたが、必ずしも専門的だからということではなく、むしろはしょり過ぎているきらいがあってわかりにくいところが多かった。専門性のレベルによっては多少難しくてもきちんと説明してもらったほうがよかった。
 本書の体裁や構成から察するに、対象とする読者レベルに比べて、内容的に欲張り過ぎたということかもしれない。

 著者は実は古生物学者ではない。
 それまでの時代に比べて一気に生物が巨大化し複雑化したカンブリア紀の生物が、進化の謎を解く鍵をはらんでいると考え、アノマロカリス(カンブリア紀の代表的生物)の動きをコンピュータ・シミュレーションすることによって解き明かそうとする物理学者なのである。
 最後の10ページ弱がおまけのようにその説明に充てられている。キーワードは「収斂進化」。ぜひ今度は著者の本来の研究分野からの視点で導き出された進化論の成果についても読む機会があるとうれしい。

 以上、若干の不満はあるにせよ、本書は現状においては他に代え難い価値を有していると言って差し支えないと思う。

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フルマラソンをちゃんと完走したい人に最適の一冊

15人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 Qちゃんこと、あの高橋尚子。オリンピック2大会連続メダルの有森裕子。世界陸上金メダルの鈴木博美。千葉ちゃんこと千葉真子も教えを請うた。
 誰もが知る日本一のマラソン指導者であるあの小出監督が書いた本である。

 マラソンは苦しい。苦しいけど楽しい。
 楽しさのミナモトはいろいろあるだろうが、「生涯に一度はフルマラソンを走ってみたい」という人は少なくないだろう。いくばくかの苦しさや困難を乗り越え、少し前の自分ならゴールするなど思いもよらなかった距離を走り切り、完走するという夢が達成できるかもしれないという期待は大きなモチベーションになるだろう。
 逆に、レースに出てはみたものの、途中でリタイヤするようなことになると、その悔しさは決して小さくはない。レベルは人によるだろうが、自分なりに努力をしてきたのならなおさらだ。
 何回走ってもタイムがいっこうに縮まらない、というのもけっこう落ち込む。
 そういう人に、この本はまず大いに役立つにちがいない。

 多くの市民ランナー向け指導書同様に、この本も初心者からベテランまでどのレベルのランナーにも役に立つように工夫されてはいる。
 マラソン・レースといっても、10km、ハーフマラソン、フルマラソンなど距離はさまざまだ。挑戦したい距離に合わせて細かな練習方法と、レース前の調整方法が記されている。

 さらに、他の本にはあまり書かれていない特徴がある。
 レースに向けたトレーニングやコンディショニングさらにはレース当日の走り方といった、「マラソン大会を走る」ことにかなりの重点が置かれている点である。小出監督ならでは、という本だといえる。

 わたしが特に面白いと思ったのは、シドニーでの高橋尚子、世界陸上での鈴木博美のレース前10日ほどのコンディショニング・メニューである。トップシークレットといってもよいようなコーチングの核心である(今回初めてオープンにしたそうだ)。
 この二人のメニューがコースの特徴やレース展開によってどのように違ったか--まるで今これからまさに大きなレースに臨もうとするコーチと選手のやりとりが、目の前で展開されているかのようなワクワク感が味わえる。
 「そうか、そんな作戦があのレースの前に練られていたのか」という、あたかも歴史の1ページの謎が解けていくような歓び!

 小出さんの指導の基本は決してしち面倒くさくない。たとえば、ランニング・フォームについて聞かれた時の監督の答えは「結論から言うと、基本的にフォームは気にする必要はありません」ということになる。
 あるいは練習方法のポイントさえきちんと押さえておけば、1日30分のランニングでも、ちゃんと完走できる、といったことが書かれている。「がんばり過ぎ」はいけないと書かれている。時間がないとあきらめていた多忙な会社員も、この本を読んでもう一度チャレンジする甲斐が十分あると思う。

 今月末には東京マラソンが行われる。
 昨今のマラソンブームは、ヒートアップとどまることを知らず、東京マラソンに至っては3万2千人の募集に何と27万2千人以上の応募があったそうだ(フルマラソンの部)。宝くじ並みの確率にもかかわらず出場権を手にした3万人余りの幸運なランナーたち。その中には「勢いで申し込んだら当たっちゃったので、とにかく走ってます」という方もいるかもしれない。そんな人は今からでもこの本を手に取れば、少なからず役に立つに違いない。
 とはいえ魔法の本ではない。完走にせよサブフォーにせよ、目標が達成できるかどうかは、あなたのこれまでとこれからの努力次第であることに変わりはない。

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来年に迫った南アW杯。バッジョのような選手がすい星のごとく現れるのを期待しつつ、サッカー史上稀有な孤高のファンタジスタの言葉に耳を傾ける。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アメリカ・ワールドカップ(1994)の決勝でPKを外したバッジョを、私もTVの生中継で観ていた。
 日本でJリーグが始まったのは1993年である。私たちはラッキーだった。おかげでバッジョのキャリアの絶頂時に彼を知ることができたし、ワールドカップという最高の舞台でいくつかのプレーを目の当たりにすることもできた。

 90年代、カルチョの国イタリアを代表する――いや世界中を熱狂させた偉大なサッカー選手ロベルト・バッジョ。創価学会の熱心な信者(毎日2時間お題目=南無妙法蓮華経を唱えるのだそうだ)であり、狩猟をこよなく愛する男(殺生を禁じる仏教の教えと矛盾するのではないかと非難されてきた)。ハンサムでしなやかな風貌にコディーノ(ポニーテール)というスタイル。
 本書の中心はバッジョのインタビューである。その言葉が、どのくらいバッジョの言葉そのものなのか、イタリア語がさっぱりわからない私には確かめるすべもないが、ここに描きだされたロベルト・バッジョが個性的で魅力にあふれた人間であることは確かだ。
 それまでタブー視されてきたこと、世間がゴシップとして扱ってきたようなことについても(きわめて個人的ないくつかのことを除けば)バッジョは自分の言葉で語っている。

 知らない話がたくさんあった。バッジョのひざの怪我が本格的なキャリアを開始する前に起きたこと(絶望と不安、あまりのつらさに「殺してくれ」とお母さんに頼んだそうだ)、しかも想像を絶する大けがだったということをこの本で初めて知った。
 キャリアの最後まで膝の痛まない日はなく、試合に出るためには過酷なリハビリ作業が毎日1時間以上必要になる。テクニシャンなのにぬかるんだピッチを好む。硬くて乾いたピッチではひざが痛くてまともなプレーはできないからだ。そのようにして始まったにもかかわらず、積み上げられた数々の栄光の記録。人々の記憶から消し去ることが不可能なほどファンタスティックなゴールの数々。記録と記憶に同時に残る数少ない偉大な選手に違いない。バッジョのキャリアは確かに偉大なチャレンジの連続だった
 「あなたほど謙虚で、しかも誇り高い人に会ったことがない」とインタビュアーが思わず告白している箇所がある。私にはそれがどのくらい本当かどうかはわからないが、少なくともこの本を読む限り、その言葉をほぼ信じる気になる。

 「日韓ワールドカップに出場するために日本に来る。横浜のピッチに立つ」――イタリア代表はあろうことか3大会連続でPKに敗れ、ワールドカップを勝ち取ることができなかった。その中心メンバーだったバッジョがキャリアの最後と決めた大会だった。その夢の実現を強く信じる言葉でこの本は締めくくられている。
 現実は甘くない。弱小チーム ブレシアで奇跡的な活躍を続けアピールしたが、結果的にはまたしても直前の大けがで代表入りはできなかった。
バッジョは今どこで何をしているんだろう? この本を読んで無性に気になった。「自分と家族のため、そして何よりも他人のためにつくしたい」そう彼がこの本で語った通りに生きていると私は信じて疑わない。
人間としてもプレーにおいても、これほどファンタスティックで、これほど豊かな人間性を感じさせるサッカー選手を、少なくとも私はほかに知らない。

 蛇足だが、宗教的な匂いに敏感すぎる人にはこの本は向かないかもしれない。全体を通して仏教や創価学会の教え、師と仰ぐ池田大作の名前や言葉が随所に語られる。ただ、それもまたバッジョをかたちづくる重要な一部であることはまぎれもない事実だ。

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紙の本アンネの日記 増補新訂版

2009/06/27 09:11

過酷な運命と引き換えに残された人類の宝物。戦争の理不尽さを嘆くだけではもったいない。

14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アンネ・フランクという少女の、13歳から2年余りにわたる日記が貴重なのは、それがアンネとアンネの家族および彼女を取り巻く人々の死と引き換えにこの世に送り出されたものだからということは疑いようがない。
 確かに、その1点をもってしても、おおむね平和のうちに長い間暮らしているわれわれが耳を傾けるべき言葉がこの日記にはいくつも含まれている。

 というわけで私もまた、この、おそらくは世界一有名な日記を、「第二次大戦におけるユダヤ人への無差別的な迫害に対するけなげな少女のふるまいや感想」、あるいは「理不尽な運命への怒りや悲しみやはかない希望」といったものばかりが綴られているのだろうと漠然と考えながら読み始めたのだった。
 しかし全然違った。
 アンネという少女は、おしゃべり好きで、気が強くて、現代のわれわれの身近にもときどき見かけるようなオシャマで明るい女の子だった。彼女は「文章を書くことで生計を立てたい」と自分の将来をすでに明確に思い描いていた。利発で健康な普通の女の子だ。

 アンネの生まれた1929年は、イプセンの「人形の家」出版のちょうど50年後だが、当時でもまだ女性が自立するという考えはヨーロッパでも進歩的かつ少数派だったようだ。
 そんな中、家庭におさまり家事や子育てだけをするのではなく、家を出て人の役に立ちたいとアンネは強く願っていた。
 そして何より私の印象に強く残ったのは、彼女がものごとを「自分で考える」人間だということである。それがこの日記を、他にも数多く存在するであろう同時代の日記と一線を画し、60年以上を経た今も世界中の人々が共感をもって読み継いでいる最大の理由だと思う。

 また、普通の思春期の少女の心のうちをかなり正直に記しているという点も、記録として貴重だろう。心だけでなく身体の変化へのとまどいや興味についても赤裸々に――発表するつもりではなかったわけだから赤裸々も何もないわけだが――記している。アンネの性の成熟に対するとらえ方はとても前向きで、生きることの肯定と重なっている。彼女にとって女性として生きることは誇らしく美しいものだった。
 思春期の性にとまどう少年少女たちにとっても貴重な示唆に富んでいる。

 もうひとつ、二千年以上にわたって世界史の中でも特異な運命をたどった――その悲劇のピークがヒトラーのナチス・ドイツによる大虐殺である――民族であるユダヤ人の生活や世界に対する見方の一端を、ごく普通のユダヤの家庭の、普通の少女の目を通して知ることができるということもこの本の特筆すべき魅力だと思う。少なくとも私には興味深かった。
 「ひとりのキリスト教徒のすることは、その人間ひとりの責任だが、ひとりのユダヤ人のすることはユダヤ人全体にはねかえってくる」という教訓がユダヤの人々に語り継がれているそうだ。
 あるとき、ドイツを逃げ延びオランダにやってきたユダヤ人は戦争が終わればドイツに戻るべきだという風潮があると知り、アンネもまたそれがどうやら真理であるらしいと認めざるを得ない。
 だが、「善良で、正直で、廉潔な人々」であるオランダ人までもが、ユダヤ人だというだけで色眼鏡で見るということにアンネは納得できない。大きなリスクが伴うのを承知で、アンネたちの隠れ家生活を支えてくれている人たちもまた愛すべきオランダの人たちだからだ。
 アンネはこう書いている。
 「わたしはオランダという国を愛しています。祖国を持たないユダヤ人であるわたしは、いままでこの国がわたしの祖国になってくれればいいと念願していました。いまもその気持ちに変わりはありません!」(1944年5月22日の日記)
 オランダを「美しい国」と呼ぶアンネの一番の願いは「ほんとうのオランダ人になりたい」(1944年4月11日の日記)ということだった。
 民族間の歴史的な確執は世界中に存在する。今後も存在し続けるだろう。個と個の間では軽々と乗り越えられることも多いのに、民族と民族、国家と国家の間ではしばしばそれは容易ではない。
 私がオランダ人なら、涙なしにアンネのこの言葉を聞くことは難しい。だが現実にはしばしばこういうことは起こりうる。

 「隠れ家」での2年にわたる逃避生活は、物質的にも精神的にも次第に困窮を極めていく。同じ戦時といっても、ユダヤ人でないオランダ人やドイツ人とは全く異なる苦しさだった。
 アンネの書きたかった大切なことのひとつが、そうした過酷な状況にあっても自分たちにはごく普通の日常があり、希望があったということなのである。
「毎週の最大の楽しみと言えば、一切れのレバーソーセージと、ばさばさのパンにつけて食べるジャム。それでもわたしたちはまだ生きていますし、こういうことを楽しんでいることさえちょくちょくあるくらいです」(1944年4月3日の日記)
 1944年7月22日の日記では、ヒットラー暗殺の未遂事件に触れ「やっとほんとうの勇気が湧いてきました。ついにすべてが好調に転じたという感じ」と希望を熱く語ってさえいた。
 しかし、私にはこの事件がアンネたち隠れ家の8人と支援者たちが連行される引き金になったという気がする。ヒトラーはさらに国内反対勢力への警戒を強め、ユダヤ人へのお角違いの憎悪を増幅させた可能性があるからだ。
 わずか2週間後の8月4日、車から降り立ったゲシュタポに連行され、数日後にはアウシュヴィッツに送られる。その後移送され、極度に衛生状態が悪かったというベルゲン=ベルゼン強制収容所で、数日前に先だった姉のマルゴーを追うように蔓延したチフスのためにアンネも亡くなったそうだ。1945年2月から3月の頃と推定され、これはイギリス軍による解放のわずか1か月前のことだという。
 8月1日付の最後の日記でも、自分の内に抱える矛盾について、アンネはいつもと同じようにどこか楽しげに思索を巡らしたり、アンネの快活さを揶揄する家族への不満を訴えたりしている。そのころにはもう危険が身近に迫りつつあることは間違いなく意識していたはずだ。いつも野菜を届けてくれていたオランダ人支援者が逮捕されるという事件が少し前に起こっており、アンネもまた大きなショックを受けていたのである。
 「隠れ家」にあっても、どこにでもいるごく普通の少女の日常の暮らしがあり、不満があり、笑いがあり、喜びがあったのだ。ただ毎日仔猫のように震えて、びくびく過ごしていただけではない。他人から見れば、短くて、悔しくて、辛いことも多かったかもしれないけれども15年余りの人生をきちんと生きていたのである。アンネはそのことを認めてほしかったのだろうと思うし、この日記がその何よりの証左ともなった。

 個人的には、以前読んだケルテース・イムレの「運命ではなく」で語られていた強制収容所での「不幸ばかりではない日常」の暮らしという感覚を、この日記を読んで再確認できたということにも意義があった。

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紙の本登ってわかる富士山の魅力

2009/04/11 11:44

富士山に登りたいという漠然とした気持ちが確信に変わる

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 素人への目線で書かれた肩ひじの張らない文章で、ひじょうに読みやく楽しかった。カラー写真はないけれども、必要十分な写真・地図などが配置されていて、過剰でない分かえって理解しやすい。富士山登頂の準備には十分な内容だと思った。
 そうした実用性以上に、富士山に登ることがいかに素晴らしい体験かという著者の思いがあふれていて、読み終わったときには、ぜひ富士山に登りたいという気持ちがさらに強くなっていた。

 著者は国内外の高峰にも登攀歴のある登山家だが、富士山登山についてはとりわけ広く深い知識と経験を持っている。あらゆるルートから登頂回数は数知れず。なお富士山への思いはとどまることを知らず、頂上からのスキー滑走や、果てはパラグライダー滑空までしてしまっている。まさに、富士山を知りつくし、遊びつくしている人なのである。
 そのアドバイスは、わかりやすく簡単なものも多いが、どれも説得力がある。たとえば「経験から、この山はとにかくゆっくり登るのが必勝法」。急いで登ってバテテしまっている若者をしり目にたいていは8号目あたりで追いつくらしい。
 素人には気になるトイレや服装・装備などについても親切に書かれている。基本ルートだけでなく、とっておきのルートも紹介してくれたり、富士山登山は実は甘く見てはいけない難事業なのだと言う一方で、健康な人がきちんと準備をすれば誰にだって可能なことでもあると背中を押してくれたり。気の知れたガイドに話を聞いているような気やすさと信頼感がある。
 ところで、この本では、中腹、5合目付近のハイキングについても1章が割かれている。こちらは大げさな準備をしなくても家族連れで訪れることが可能である。しかも、手軽なだけではなく侮れない魅力にあふれているようで、気候の良い時期のハイキングも相当楽しそうである。この本を手にとったときには、頂上に登るということしか考えていなかったので読み飛ばすところだった。
 著者の実感あふれる文章に引き込まれ、どっぷり富士山にはまってしまいそうだ。

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紙の本北の動物園

2009/04/07 00:42

抱腹絶倒の日々。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 倉本聰といえばどうしても「北の国から」を思い浮かべるわけで、(細かなことは忘れて)とにかくあの「愛と感動の物語」の延長線上の話を期待してしまう。
 このエッセイ集に関していうなら、その期待はまず大きく裏切られる。
 帯裏を見ると「夕刊フジ大好評連載」とある。夕刊フジといえば、満員電車で通勤・移動する中年男性が、おもにKIOSKで買う大衆紙である。視聴率の厳しさが身にしみている人気脚本家は、的確にその読者層を把握し、サービス精神を発揮するのにぬかりはない。グルメや旅や病気だのといった定番の話題に加えて、中年男の関心を引くシモネタやトイレネタがそこかしこにちりばめられることとなる。それだけではもちろんないが「愛と感動」からはほど遠い。期待を大きく裏切られた気持ちになり、「おかしいな、倉本聰ってこういう人だったっけ?」と腹さえ立ってくる。
 しかし、だ。よくよく考えれば「北の国から」もいろんな意味でサービス精神満載だったではないか。まるですぐ目の前に手で触れられそうな酷寒の大自然と生き物たちの貴重な映像。北の大地の厳しさは自然だけではなく経済にも及ぶ。21年にもわたって制作され、20世紀末の叙事詩ともいえそうなこの比類のないTVドラマには、必然的にありとあらゆる人間模様が織り込まれ、まことに人間臭いストーリーでもあった。
 自然や、野生の動物は美しいが、人間から見れば残酷でもある。その人間だってまさしく自然の一部なのであり、他の動物に比べて特別上等でもきれいでもあるまい。ものを食べ、排泄する。子孫をつくり育てる。我が身を守るために少しは嘘もつけばごまかしもする。ある時は敵と戦い家族を守る。基本は変わらない。そんな中でも、喜び悲しみ、時に憎み恨み、でも懸命に生きている。けなげに生きる人間たちの姿は、滑稽だが、いとおしく、時に美しかった。ずいぶんと涙したなあ。

 新聞連載のエッセイなので1篇の話が3ページに収まっている。かなり短い。ちょっとした時間に読むにはうってつけである。我が家では1年近くトイレに常備しちびちびと楽しんでいた。
 (品はたいてい失われたままだが)面白さを受け入れたら、もうおかしくて仕方がない。誰かに話したくてうずうずするようなエピソードが満載である。現実が悲しいばかりだとやりきれないし、救いもないから、このエッセイ集は笑いに重点を置いている。涙と笑いはしょせん裏と表である。97篇もあるが残り少なくなるにつれ、ただ下品でおかしいだけでなく、こうした倉本聰の生きざまこそ「北の国から」の本質そのものだと思えてくる。
 そうはいっても、きれいなもの、美しいものからは、汚いものや醜いものは遠ざけたい、と考えるのは自然な感情だろう。子供や妙齢の女性にはあえてお薦めはしない。「北の動物園」よろしく珍獣が闊歩する大人の世界を覗くには多少の覚悟も必要となる。

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紙の本虹の天象儀

2009/03/29 22:56

瀬名秀明の提示する「生きる意味」

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 五島プラネタリウムがなくなる、というニュースは聞いた気がする。さほど思い入れのある施設でもなかったのでよく覚えていないが2001年のことだそうだ。この小説の主人公はその五島プラネタリウムで投影された星空を解説する人物であり、物語は閉館の日の最後の説明の場面から始まる。
 彼は星空を、宇宙を、そしてプラネタリウムを愛していた。そして何よりも愛していたのは、カール・ツァイス製の投影機だった。彼にとって「投影機の仕組みを知ることは宇宙を知ること」と同じだった。
 だからこそ、自らの手で閉館の準備を進めながら、彼の「思い」はその投影機に「残」ったのだった。その思いは、彼の前に生きた別の人間の残した「思い」と時間を超えて呼応する。そういう風に全く違う時代を生きた幾世代もの思いが受け継がれていく。
 瀬名秀明は本作で、いつか必ず死ぬ運命にある人間という存在が生きることの意味の1つを提示している。「死んでも懸命に生きた思いは残る」。その思いが場所を変え、ときには形を変え、次の世代にDNAと同じように受け渡されていく。それは人の記憶にとどまらない。時代の風景やモノの中に--たとえばプラネタリウムの映写機にも--人知れず刻み込まれてあるにちがいない。このアイデアの素晴らしいところは子供がいない人--若くして亡くなった子供だって--にも生きる意味になりうるというところだと思う。

 物語は、その残されてきた思いを逆にたどるように次々タイムスリップしていくSF小説とも読める。
 戦争直後の昭和21年にタイムスリップした主人公は靴磨きの少年の肉体を借りている。その場面を読んだとき、なぜだか、とても恐ろしくなった。一列に並んで「磨きましょう! 磨きましょう!」と合唱し、客に蹴り上げられ、思わず逃げ出す主人公の少年。腹を空かし残飯を求めて廃墟の町をさまよう姿は、私にはとてもリアルに感じられ、「その時代に生まれなくて本当によかった」と思った。作者の描写の正確さのせいかもしれない。
 正直に言うと、この小説のSF的な手法に気付くまでの前半部分はあまり面白いと思わなかった。もう少しで放り出すところだった。しかし、誰も助けてくれない切ない時代を生き抜く少年の姿がリアルに感じられた瞬間から、この小説はがぜん面白くなった。
 表題の「虹の」の意味も、少なくとも私には、まったく予想できない形で明らかになる。科学的な素養の幅の広さに「へえー」と感服するばかりである。

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14歳でこの本を手に取るチャンスを得たあなたは幸せだ

26人中、26人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 もう5年も前に出た本だし、著者の早すぎる死とも相まって大きな話題にもなったので、この本についてはすでに多くの書評や感想が出尽くしている感がある。好意的な意見があり、批判的な意見があり、この本を手に取ろうかどうしようか迷っているあなたはその中から自分が信じられる書評を参考にすればよいだろう。いろいろな意見がありすぎて、逆に迷ってしまうかもしれない。書評に限らず、真贋を見抜くというのはなかなかに難しい(本書で池田さんは「本物を見抜ける人間になるためには、自分が本物にならなくてはならない」と書いています)。

 私はあなたにただこう言いたい。もしあなたが14歳なら、こういう本を若いうちに手に取る機会があり、この本に書いてあるようなやり方で考えることに興味を持てたなら、人生はきっと豊かで面白いものになるだろうと(それが世間的な幸せと一致するかどうかはわからないが)。

 この本に対する読者の批評として、「まだ物事をよくわかっていない子どもを、恣意的に誘導しようとしている」「14歳に読ませるならもう少し教育的な内容にすべきだ」といった感想が割と多いのはうなずける。
 真実を知るということは絶対的には素晴らしいことであるはずだけれど、考えようによっては実は恐ろしいことでもある。真実はしばしば厳しく美しい。真実の峻厳さはそうでないことを寄せ付けない。
 上述のように感じてしまうとすれば、「大人は正しいが子供はしばしば間違いを起こすものだ」とか「14歳に真実を正しく理解することができるかどうか疑わしい(大人なら正しく理解できるけど)」といった意識があるからだろう。
 しかし、実はそういう考えは必ずしも正しくない。年長の者が敬われるべきだという考えの裏付けは、より多くの時間を生きてきたというその点についてだけはまぎれもない事実が――おそらくは――年長者ほどより多くの経験をし、考えを巡らせ知恵を獲得している“はず”だという不確かな根拠でしかない。しかし、実際には子供でもより多様な経験をしていたり、より深く物事について考えたりしている場合はもちろんある。昨今世の中をにぎわすろくでもないニュースの数々を持ち出すまでもなく、大人がみんなものごとの真理についてよく考えていて、正しく行動しているわけではない。
 著者は、本書で取り上げている問題の多くについて「ちゃんと考えもしていない大人の方が多い」としばしば指摘している。私自身もここに取り上げられたテーマのほとんどについて少なからず考えをめぐらせてきたつもりだが、哲学の大命題とは、いわば「当たり前のこと」が「本当に当たり前かどうか」考えることにほかならず、よく考えてみたら「当たり前でもない」ことばかりなのである。考え抜いたなどと胸を張って言うのは到底はばかられる。世界は謎だらけだということに気づき(あるいは著者の言うように気づきさえしないまま)、多くの人が考えることをやめていくのかもしれない。生きることは誰にとっても楽なことではないから理由はいくらだって用意できる。
 そんなわけだから、あなたがもし14歳なら、この本に関して大人の言うことはあまりあてにはならないと思った方がいい。
また、「独断的な物言いが鼻につく」といったまったくお角違いと思える意見もたまにあるが、この本くらいニュートラルな立場で書かれている本はあまりないと私は思う。断定的・独断的に見えるところは、論理的に疑いようのないことに限られている。

 今あなたがこの書評を読んでいるなら、この本を眼の前にして通り過ぎてしまうのがどれほどもったいないかということだけは伝えたいと思う。そして大人たちの言い分が正しいかどうか自分で確かめてみたらどうかと、14歳のあなたに言いたいと思います。

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紙の本海のはてまで連れてって

2009/02/02 01:26

大人向けのちょいワル冒険小説でした。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アレックス・シアラーの名前は、金原瑞人さん(あの金原ひとみのお父さん)が訳者であること、帯の紹介がどれもなかなか魅力的なこと(つい手を出したくなる)、欧米では相当なベストセラー作家らしいことなどから、ずいぶん前から気にはなっていたのだった。訳者あとがきに書かれた金原さんの紹介が大いに期待させる内容だったので楽しみに読み始めたが、少々私の期待とは違った。
 残念ながら私には、帯に書かれた、「ハッピーな感動」はもたらされなかった。これは少年少女向け冒険譚、勧善懲悪、予定調和的な物語である。プロットはしっかりしていて話自体はよくできている。翻訳も読みやすい。海に浮かぶ豪華客船が舞台ということもあり、それだけでも一部の人には魅力があるともいえるが(「海」とつくものに弱い私は、だからシアラーの他の本ではなくこの本を選んだのだった)、見え透いた設定だといえなくもない。時々はさみこまれる太字の強調文は、真実の一端として的外れではないと思うが、この物語から導かれた言葉では薄っぺらに感じられるのは致し方ない。
 小学校の高学年くらいの子供が、物語を読み始めるとっかかりとしては悪くないかもしれないと思ったりもしたが、主人公が男の子ということを差っぴいても、双子の弟・クライヴに対する言葉や譬えは(それが親しみの表現であるにしても)あまり品がいいとはいえない。イギリスの子供たちにはおなじみの言い回しなんだろうか?
 また、やもめの父親が親切で「疲れて帰れなくなった女の人」を時々連れてきては家に泊めてあげるというくだりが何度も出てくるが、小学生の子供向けの話ではない。そういう意味では大人向けなのか子供向けなのかはっきりせず中途半端だという気もする。
 というわけで、あえて言うなら、天気の良い休日にリビングでリラックスしながら、周りではしゃぐ子供たちを見て、たわいもない少年時代の冒険を懐かしむような気分になったお父さんにお勧めしたい。

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紙の本アシュリー

2009/01/27 23:37

なかなか素敵な本です。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 もちろんTVで彼女を取材した番組を見て、私は彼女のことを知っていたからこの本を手にとったのだった。
 アシュリーは前向きだ。彼女の言葉からは14歳らしい可愛らしさを十分に感じ取れるけれども、その人生観は到底14歳のものではない。
 体内時計が10倍も速く進んでしまうプロジェリアという病気だけれど、病気によってもたらされた過酷な運命は、彼女の身体だけでなく精神をも10倍速く成長させるのではないかと思う。あらためて、人の一生は長さに関係なく等しく平等なのかもしれないという思いを強くする。つらくとも楽しくとも悲しくともうれしくとも。
 であるならアシュリーのように前向きに、自分にもたらされた生命の奇跡をそのまま受け入れ、なおポジティブに過ごした方が得に決まっている。しかしながら、このことほど言うに易く行うに難いことはないということもまた、我が身を振り返ればすぐわかる。
 というわけで、それを実践しているアシュリーの笑顔や言葉は私たちに勇気を与えてくれる。イラストもアシュリーのものだが、それも含めてこの本全体から、日常を強く生きようという意志と生きていることへの感謝や希望がはっきり感じられ、その健気さを祝福したい気持ちになる。
 生きることに健気になれない自分を見つけてネガティブになったとき、この本を開いてアシュリーの言葉に耳を傾けたら、傲慢で欲張りな自分に気づいて、少しは健気な自分を取り戻し、明日を迎えることができると思う。

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紙の本東京奇譚集

2008/12/29 15:11

天才的職人の技に気軽に酔いしれる幸福

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本を手に入れたのはずいぶん前のことだ(というわけでもう文庫になっちゃってるんですね)。最初の「偶然の恋人」を読み、期待通りの面白さに舌を巻き、次の「ハナレイ・ベイ」を十分に味わい、満ち足りた気持ちになり、たとえばディズニーランドで買ってもらったクッキーをいっぺんに食べるのがもったいなくて2枚食べたところでやめにして、明日また缶を開けて食べるのを楽しみにしている子供のごとく、「いっぺんに食べちゃう――いや読んでしまうのはもったいない。さあて、次はいつ読もうかな」と大事にしまっておいたのだが、あんまり大事にしすぎて、そのまま食べるのを――いや読むのを忘れてしまっていた。

 村上龍がどこかの雑誌か何かで、村上春樹のことを評して次のように語っていたと記憶している。たぶん親・龍(反・春樹)的な色合いの強い人たちによる座談会での発言だったと思う。
「春樹さんはうまいんだよね」。
 親・龍的な人たちの反・春樹的な心情は相当過激だった気がするが、このときも含めて村上龍本人が村上春樹の人や作品を悪く言ったりするのはほとんど聞いたことがない。その作風や取り上げる素材において共通するものの少ない二人だが、村上龍は村上春樹をきちんと認めていると思う。

 今回、続く「どこであれそれが見つかりそうな場所で」「日々移動する腎臓のかたちをした石」「品川猿」と読んだのだが、あまりの面白さ、見事さに感動し、さらに冒頭の2遍も再読した。
 小説を読む、あるいは物語に聞き入ることの原初的な面白さの典型のひとつが間違いなくここにある。当代随一の短編作家は村上春樹だと言ってしまいたくなる。しかも、その圧倒的な面白さにもかかわらず、単なるエンタテイメントに堕していない。書き下しの「品川猿」だけ、途中で突然“羊男”的“品川猿”が登場して、ナンセンスな物語となるけれども、他の作品は「奇譚」という表題にふさわしい不思議なエピソードをモチーフにしながらも、背景として選ばれた時空は現代のノーマルな日常である。といっても何もSFやナンセンスが悪いとか価値がないと言いたいわけではない。むしろそうした要素や表現方法は元来物語に不可欠なものである。ただそこに必然性がないと物語は薄っぺらで、言うなれば子供向けの駄菓子のようなものとなる(子供にとってはうれしいけれど)。
 誤解を恐れずに言えば、村上春樹はポーや芥川の正統を継ぐ短編作家でもあると改めて思った。再び誤解を恐れずに言うなら、(本人も言うように)村上春樹を天才というのはなんだかどこか憚られる。少なくとも短編に関して言うなら、むしろ職人的な――それも天才的な職人としての作家というのがふさわしいのではないか。村上龍の「春樹さんはうまいんだよね」という評価がこうした意味を含んでいるのかどうかはわからないが、当たらずとも遠からずであると私は思っている。
 吟味した素材を使って、手入れの行き届いた道具を用い、細心の注意と集中力を注いで作品を作り上げる。人々はそれを棚から取り出し、手にとって、矯めつ眇めつ眺めたり、時には使ってみたりする(職人の作った道具も今では美術館に収蔵される場合も少なくないが)。
 考えてみれば、もともと物語とはそんな愛着のある身の回り品のようなものだったのかもしれない。一通り楽しんだら大事にしまって眺めてるのも悪くないが、それが見事なものであればなおのこと、ときどき取り出して使ってみることの贅沢は至福の時間をもたらす。

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ワールドカップ・南ア大会予選を戦う岡田ジャパンの押しも押されもせぬ大黒柱に成長した中村俊輔のセリエAデビューをめぐる記録

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本には、写真は表紙の1枚を除いて皆無である。が、背番号の10とNAKAMURAとのみ白抜きされたエンジのユニフォームをまとい、天に向けて両腕を差し上げ両手の人差し指を突き出してゴールを祝うSHUNSUKEの姿のなんとカッコイイこと。
 本書はレッジーナの本拠地レッジョ・カラブリア生まれのスポーツ記者である著者の綿密な取材のみによって構成された、いわば硬派なサッカーファンのための本である。

 タイトルの通り、本書は日本サッカー史上屈指のファンタジスタ・中村俊輔について書かれた本である。2002年日韓共催のワールドカップの代表落選からレッジーナへの移籍とその後1年間のプレーぶり、さらにはジーコ監督の下での日本代表としての活躍が語られている。
 5年前に出された本で、スポーツのようなニュース性の高い話題ではどうしても興味が持続しにくいことは否めない。まして中村俊輔のような、いまだキャリアの発展途上にある選手の場合はなおさらだ。
 しかし、イタリアで俊輔が成し遂げたことに限って言えば--あるいはレッジーナというチームの歴史、もしくはレッジョ・カラブリアというイタリア半島のつま先にある美しい街にとってと限定すべきかもしれない--歴史の1ページに刻まれる成功をおさめたことは間違いないわけで、ジーコやジダン、あるいはマラドーナやペレ(最も偉大な選手として俊輔はこの2人を挙げている)、さらには様々な類似によって当時世間で比較されていた(俊輔本人は比較自体ばかげていると語っている)イタリアの至宝ロベルト・バッジョの数々の栄光の歴史の一部を詳細に読むのに匹敵する面白さがあった。
 訳はこなれていて読みやすいし、俊輔本人はもちろんチームメイトやライバル、レッジーナ関係者、通訳、歴代監督など多岐にわたるインタビューによって、中村俊輔という人間をさまざまな角度から浮き彫りにしている。
 それにしても中村俊輔という男のサッカーへの心酔ぶりにはただただ頭が下がる。誰のインタビューでもその謙虚さ、適応能力の高さ、目標の高さと努力を惜しまないまじめな態度が語られており、まさにそういう人間なのだということを疑いようがない。
 これほどの成功をおさめた現代のスポーツ選手で、これほど世事からきちんと距離をとり(しかも礼を失しない)、ひたすら競技のためだけに生きている(ように見える)選手もいないのではなかろうか。1人いた。野茂英雄である。

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紙の本グレート・ギャツビー

2008/12/06 12:35

村上春樹渾身の訳業がさらにくっきりと浮かび上がらせたフィッツジェラルドの天才。

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 たったの29歳でこの小説を書いたというのは信じがたい。そして1940年、たった44歳で死んでしまった。まさに波乱の人生であり、フィッツジェラルドは早足で時代を駆け抜けた寵児だった。
 翻訳でしか読んでいないので文章家としての彼の力は私には評価のしようがないが、物語の設定、推理小説仕立ての構成、人物の造形、魅力的な会話、背景描写の繊細さと時折挟まる正鵠を得たアフォリズム。彼は人間が何たるか、宇宙の真理のなんたるかを若干29歳ですでに深く理解していた。誤解を恐れずに言うなら、人生とは、この世とは、はかない夢に過ぎない、そういうことだ。
 この小説の展開する時代と場所はフィッツジェラルドの実生活を深く投影している。現実の枠組みを使って虚構の世界を築いたのはもちろん作者たるフィッツジェラルドだが、物語はさらにジェームズ・ギャッツなる作中人物がジェイ・ギャツビーという虚構を創りだしたという入れ子の構造になっている。ギャツビーを創りだしたのは、その時代であり場所でもある。「光陰矢のごとし」「夏草や兵どもが夢の跡」。遥か昔から少なからぬ人間が悟っていた真理。ギャッツビーにまつわるすべては「夢」、しかし生きることは「夢」を紡ぎ続けることにほかならないのかもしれない。はかないものは美しい。美しいからこそはかないと知っていながら人はそれに手を伸ばそうとする・・・そんなことを考える人間は数知れないが、それにきちんと形を与えて表現できる人間は極めて数少ない。フィッツジェラルドはそれを表現する能力を備えていた。まさに天才のなせる技としか言いようがない。
 訳者の村上春樹によれば--あとがきを読むと、もし自分にとって重要な本を3つあげろと言われたら、「ギャツビー」のほかに「カラマーゾフの兄弟」とチャンドラーの「ロング・グッバイ」を挙げるが、1冊に絞れと言われれば「迷うことなくギャツビー」だそうだ--残念ながら、この小説が彼の真骨頂であり、「ギャッツビー」で舞い降りた天啓は以後の彼の作品に再び訪れることはなかったという。当たり前だと思う。こういう小説をわずかに44年の生涯でいくつも創作することなどおそらくは誰にも出来ない。そういう小説だと思う。
 私が「ギャツビー」を最後まで通して読むのはおそらく2度目だ。前回読んだのは遠い昔で、今回は村上訳(彼のこの小説への思い入れを知っていればこそ)だから読んだ。かなり熟練の英文読者でないと原文で読むのは難しいようだが、翻訳で読んでも――少なくとも以前読んだ翻訳では――わかりやすい文章ではない。
 この小説を翻訳することは当然ながら村上にとっても特別なことだった。他の翻訳のような良く言えば黒衣に徹するような文章、悪く言えば色気の薄い文章ではなく、小説家としての経験を縦横無尽に駆使して「正確なだけ」ではなく、できる限り作家の意図を伝えることに腐心したと後書きにもある。
 いわゆる専門の翻訳家に比べて村上訳では英語のままカタカナに置き換えることが多い。そういう事例があまりにも多すぎるとなると、「翻訳」という仕事の存在理由が損なわれかねない。この小説でも、友人に「old sport」と呼びかけるギャツビーの口癖をそのまま「オールド・スポート」と表記していて、これが口癖だから頻繁に出てくる。最初はニュアンスが捕まえ切れていないので違和感があるのだが、途中からはこの親密さのニュアンスは確かに日本語には置き換えようがないかもしれないと思う。というような点も含めてあとがきで語られた村上の翻訳への姿勢も一聴に値する。詳細に読み比べたわけではないが、この訳は村上春樹の意図に見合った十分な成果を上げているのではないだろうか。
 この小説が確固とした魅力なり力なりを一読して私の中に残したのは間違いのないところだが、私にとって「ギャツビー」のわかりやすい魅力の大部分を占めていたのは、ロバート・レッドフォードとミア・ファローのキャスティングによる邦題「華麗なるギャッツビー」のかっこよさ、美しさにほかならなかった気がする。あるいは最初に読むきっかけもこの映画だったのではなかったろうか。映画のイメージを払しょくすることはおそらくもう不可能だが、今回村上訳の「ギャツビー」を読み終えて――小説のほうがオリジナルなので本来おかしな言い方だが――小説自体が喚起するイメージ力によってこの物語の輪郭がより豊かで鮮やかになったという実感がある。

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