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  3. ツキ カオリさんのレビュー一覧

ツキ カオリさんのレビュー一覧

投稿者:ツキ カオリ

51 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本博士の愛した数式

2005/03/13 14:50

芥川賞作家の新境地?

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 作者の小川氏が芥川賞を受賞したのは、1991年、『妊娠カレンダー』という作品にて、だった。

 『妊娠カレンダー』を読んだ方はご存知だと思うが、この話は、グレープフルーツがキーワードの、怖い話なのである。未読の方は、ぜひ読んでみていたただきたい。この作品のイメージが強烈だったことに加え、例えば氏のある短編には、ケーキにたかった蟻の描写が出てくるものがあるのだが、そういったイメージが重なり合って、氏の作品群に対して、私は勝手なイメージを付与していたようだ。

 なので、この『博士の愛した数式』が、一昨年の、読売文学賞の小説賞を受賞しただとか、昨年の、第1回本屋大賞も受賞した、などという話を聞くにつけ、そうか、小川さんの怖い話が巷では流行ってるのか、何せ、ホラー・ブームだし、などと呑気に構えていたのであった(笑)。だが、本屋大賞というのは、確か、本屋さんが一番売りたい本に与えられる賞のはずだし、泣ける話という噂も伝わってきて、どういう内容なのか知りかったのだが、入手できたのは、つい最近のことだ。

 で、この本だ。この本を読んで、残念ながら、泣けはしなかった。もちろん、涙腺は大いに刺戟されたのだったが。

 小川氏は、人間のもつ、えぐみや渋みを抽出することに長けている作家だ。だが、あえて今回は、そう言う部分は抑制して書いている、というよりは、人物を動かしているうちに、まるで、炭火焼にすると肉の余計な脂が落ちてしまうように、自然に、えぐみや渋みが、なくなっていったのではないか、とも思った。

 唯一、博士が、感情を強く出す場面が、最初のほうにある。
 家政婦の「私」が、博士の食の好みを知ろうとして、声を掛けるところだ。

 「言うべきことなど何もない」
 不意に博士が振り向き大きな声を出した。
 「僕は今考えているんだ。考えているのを邪魔されるのは、首を絞められるより苦しいんだ。数字と愛を交わしているところにずかずか踏み込んでくるなんて、トイレを覗くより失礼じゃないか、君」

 これは、博士の、唯一見せた狷介な部分である。だが、この無二の我侭も、数字、数学を考えるためなのだから、いとおしいではないか。
 これ以外の大きな動きとしては、例えば、「私」の息子、「√(ルート)」が怪我をした際に、博士は大層慌てるのだが、それも「√」を思いやってのことだし、博士は終始、温和な性格として描かれている。

 かつて、こんなに優しい目線のみで、小川氏作品が描かれたことがあっただろうか。むしろ、これまでの氏の真骨頂なら、博士の狷介さを、いっそう、膨らませそうなものなのだが。「裏切り(?)」とも感じられるこの展開を、私は、いい意味として受け止めた。

 そもそも、80分しか記憶がもたない、とは、どういうことなのか。例えば、こうやって書評を書いているうちにも、5分、10分と、時間は過ぎていく。ある時点を「0」として、その目盛りを分単位とした場合、それが「80」に達した段階で、博士は「0」以前の記憶はなくなってしまうのだ。その論理でいくと、ある瞬間は、始点と考えれば全て「0」、終点と考えれば全て「80」である。ある瞬間を始点として、終点を追ってみると、もしくは、ある瞬間を終点として、始点を遡ると、などと連続して考えていくと、段々、思考の塊が、スパイラル状に、上へ上へと、動いていくような錯覚に囚われた(笑)。

 こんな、博士のような人が夫だったら、きっと私も、主人公の「私」のように、いかに、人参を人参とわからせずに食べさせるか腐心するだろうなと思う。何せ、「考える」ためには、栄養は、重要な要素だからだ(笑)。

 数学が、かつて嫌いだった、今嫌い、徐々に嫌いになりかけている、人達が、きっと、数学に対する新しい発見をするに違いない、本書である。
 

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紙の本

インテリおじさま御推薦英語本2の2

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 小生は、少し前に、某インテリおじさまが買うはずだった2冊の英語本を代わりに買うことになったのだった。

 1冊は、先日ご紹介した『英語スピーキングマニュアル 文法編』だ。
 もう1冊が、本書である。

 前回は「いい英語の本を見分けるには」として、えらそうなことを書いてしまったが、ちっともえらくないのである。なぜならば、本当に英語ができる方は、このような書籍を買って勉強する必要がないからである。できなくて勉強しているので、おのずと本を買うようになり、その繰返しから、こういう本がいいのでは? と考えるに至った。

 先日、ご紹介したのは、以下2つのポイントだ。

 (1)囲みや線で、区分けがしてあって、単語や例文が、わかりやすい(読みやすい)形に、なっていること。

 (2)重要な部分がカラー化されていること。ただし、カラーの色が強すぎたり、その面積が多すぎてはいけない。なぜなら、マーカーで線引きしたりなど、自分でもアレンジを加える余地があるほうが、よいからだ。2色使いプラスアルファくらいが望ましい。

 本日は、もう1つのポイントを挙げたい。

 (3)英語とそれに対応する日本語が、なるべくそばに書いてあって、一度に目に入りやすい形になっていること。例えば、左側に英文、右側に日本文とか、なるべく同じ面積を使って呼応する形になっていると、例文が頭に入ってきやすいのである。

 この書籍は、(1)は満たしている。(2)に関しては、中は黒だけの一色刷りだが、グレーの濃淡の、罫線が、太く、細く、いい具合に使われていて、2色刷り・カラー印刷の本と比較して、全く遜色はない。

 さらに(3)だが、必ず英文の上下に該当する日本語の文が付いており、一度にそれを目にすることができるようになっている。

 本書は、序章「良い英文を書くために」、第1章「文法編」、第2章「語法編」、第3章「句読法編」、第4章「アメリカ英語とイギリス英語」の5章から成っている。
 各々に数字順に小見出しが付けられているが、特に目を惹いた箇所を幾つか記す。

 まず、第2章「語法編」の3「冗漫な表現と簡潔な表現」の部分を見てみよう。目次を見ると、わかりやすいのだが、

 強調表現 (very / really) を多用しすぎない
 「事前に」(in advance / beforehand) が不要な場合
 「基本的に」(basically) を乱用しない
 「将来」(in the future) はたいてい不要
 「それに」「さらに」(moreover / furthermore) を乱用しない

 などと、さらに続く訳なのだが、これらは、英語ライティングの注意事項というより、まるで日本語の文章上達心得であるかのようである。

 著者も、こう戒める。

 日本語からそのまま直訳してしまうと、冗漫 (redundant) になってしまうケースがある。日本語の「頭痛が痛い」のような文法的におかしいものだけでなく、まわりくどい冗長な表現は避けて書くようにする必要がある。シンプルですっきりした表現こそ、相手にとって読みやすいことを覚えておきたい。

 巻末にある資料も充実している。

 「一般的に使われている略語」の項目を見てみると、

 3D 3-dimensional 3次元
 4WD four-wheel drive vehicle 四輪駆動車

 など、当り前に使われているが、実際に英語化するとこういう表現だったのか、と改めて気付かされるものが沢山あった。

 学生時代を終えると、なかなか英語を勉強する機会がないが、秋の夜長に、こういう本を読んでみるのもいい、と思わせてくれた本書だった。

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紙の本

早く出会えた偶然に感謝!

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本は、ひょんなことから、目の前にやって来た。

 某インテリのおじさまが、一度は、この本を買ったのだ。だが諸事情あって、そのおじさまは、代金を払う直前にキャンセルせざるを得なかった。にて、この本も含めて数冊の本が、宙に浮いてしまったのだ。
 ところが何せ、そのおじさまは、日頃から、ありとあらゆるジャンルの本を、ばんばん買う、いや、買うだけではなく、勉強するのでも有名なおじさまだったので、浮いてしまった書籍数冊は、皆、想像以上に、充実のラインナップだったのである。

 偶然の出会いではあったが、いつかこの本を読んでみたいと思っていた小生が、このチャンスを逃すはずもなく、この本と英語関係書籍2冊の購入者は、インテリおじさまから小生へと、スライドされたのだった。

 で、この本である。
 表紙がトルコブルーとオレンジとの組み合わせで、目立つこと、このうえない。中身も表紙以上に、迫力があった。

 おもしろいと感じたのは、齋藤さんが提唱する「偏愛マップ」である。
 119ー120頁の記述によると、

 A4か、B4ぐらいの大きさの紙を用意して、そこにその人の「かたよるほど愛してやまないもの」を書いてもらいます。好きな食べ物、お店、本や映画などの固有名詞をどんどん書き出していくのです。書き方はまったく自由。いくつでも、どんなものでも、どんなふうに書き出してもらってもかまいません。(中略)
 たまたま同じものを書いていたりすると、いま出会ったばかりということが信じられないほど気が合って、一挙にその人との距離が縮まったりすることがありました。

 齋藤さんによると、大学のゼミや、企業、合コンでも試した結果、よく知らない者同士がコミュニケーションを図るのに、このマップの効果は絶大なのだそうだ。

 もう一つ注目したのは、倉田さんの考えを齋藤さんが整理してまとめた、「いとをかし」「いとわろし」リストである。

 倉田さん曰く、これは絶対イヤ、ここはこうあってほしいという、自分なりのポイントによるチェックリストを、日頃からつくっておくのが、自分と合う人を見極めるのに有効であるという。

 齋藤さんの示唆に従って、倉田さん、齋藤さん共に、「いとをかし」「いとわろし」リストを、披露している。
 
 倉田さんは「いとをかし」ポイントが、●どこか野暮ったくてスマートじゃない部分を残している人、他2つ。「いとわろし」ポイントは、8つ。
 齋藤さんは「いとをかし」ポイントが、●軟骨をガリガリ食べる女、他6つ。「いとわろし」ポイントは、2つ。

 倉田さんが減点法式、齋藤さんが加点法式のように感じられたのは、気のせいだろうか(笑)。

 自分と合う人を見極める、イコール、自分をよく知る、知っていることなんだなあと、改めて思った。

 遠からず、この本には出会っていただろうが、それを少しでも早めてくれた「偶然」に、心から感謝する次第である。
 
 

 

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紙の本

「うふ&くす」の世界

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ある時期(かなり前)から、コミック(漫画)誌上では、追いかけなくなったのだが、この作者の作品は、コミック(単行本)化されているものには、すべて目を通している。「絵」はずいぶんと変わったという実感がある。

 そもそも、なぜ、この作者(の作品)が一番好きになったのだろう。
 分析はあまりしたくないが、幾つか理由を挙げてみたいと思う。
 
 (1)「絵」が好き。
 (2)ファッション・センスが好き。
 (3)北海道出身の作者らしく、冬のシーンには必ず「雪」が登場する。
 (4)独特のユーモアが効いている。

 もっと理由はあるのだが、これくらいにとどめたい(笑)。

 (2)と(4)について補足しよう。

 まず、この作者の作品の登場人物が着ている(着ていた)服は、いわゆるファッション・グラビアから抜け出てきたようなものではないが、(私の)成長過程において、その時々で、まさに着たい服(普段着、もちろんお洒落着も)、なのだった。
 例えば、かなり昔の作品を思い出してみると、主人公の友達が、白い毛糸のカーディガンに青いギンガム・チェックのブラウス、オリーブ色もしくはカーキ色のボックス・プリーツのスカートを穿いていた。ブラウスの色をアレンジするだけで、幾つかの組み合わせが可能である。

 次に、この作者のユーモアは「ゲラゲラ」というものでは決してない。「うふ」「くす」と、吐息と共に口角が「きゅ」と上がってしまうような笑い、とでもいったらいいのだろうか。

 本作でも、その世界が炸裂している。
 本日時点で、このシリーズの最新刊「4」の16-17頁から引用してみよう。

 ヒロイン=「桃田(さん)」が憧れている「赤井君」には、亜矢子さんという若い義母がいる。この義母は、赤井君も思慕するくらい美しい顔立ちなのだが、なぜか、眼鏡や今いちのファッションで、その美しさを隠しているのだ。
 以下は、赤井君がかつて付き合っていたユミちゃんが、合鍵で赤井君の部屋に入って居たところ、留守だと思っていた亜矢子さんが玄関に入ってきて、二人が鉢合わせをするシーンである。亜矢子さんは眼鏡をはずしながら「部屋の主(?)」が誰なのかを尋ねる。そのシーンを回想しながらユミちゃんは、桃田に対して、亜矢子さんと赤井君はあやしい関係だから注意せよ、と促すのだ。
 
 亜矢子 「ところで あなたどなた?」
 ユミちゃん 「あなたこそ どなた?」

 ビシッ ビシッ ピシ ピシッ パシッ ピシッ パキーン

 桃田 「今のは?」
 ユミちゃん 「視線と視線がぶつかり合う音を表現してみました」

 亜矢子さんとユミちゃんとの女の戦い(?)を、絵でも再現できないのは残念である(笑)。 
 
 赤井君と桃田は両思いなのだが、付き合うには至っていない。
 帯にも「スレ違い、縺(もつ)れっぱなしのラブコメディー」とある。
 まるで初期の頃の『ふたりの童話』を彷佛とさせるような展開だ。

 果たして、赤井君と桃田は、うまくいくのだろうか?
 結果が、タイトルの「アマリリス」が、くっきりと咲くようなものであることを期待せずにはいられない、この第4巻なのだった。

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紙の本

紙の本アフターダーク

2004/12/20 23:58

記憶に残る、深夜から早朝まで

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 例えば、一晩一人で過さなければならなかったりする。

 どこに泊まろうか、何を食べようか。
 そして、何をしようか。

 各自のスタイルがあるだろう。

 この物語の主人公、浅井マリは、デニーズで読書をすることを選んだ。

 ほっそりとした小さな顔。黒縁の眼鏡をかけている。眉のあいだにときどき、きまじめそうなしわが寄る。
 彼女はずいぶん熱心に本を読んでいる。ほとんどページから目をそらさない。分厚いハードカバーだが、書店のカバーがかかっているので、題名はわからない。真剣な顔をして読んでいるところを見ると、堅苦しい内容の本なのかもしれない。読み飛ばすのではなく、一行一行をしっかりと噛み締めている雰囲気がある。
(中略)
 入り口の自動ドアが開いて、ひょろりと背の高い、若い男が中に入ってくる。(中略)大きな黒い楽器ケースを肩にかけている。管楽器。そのほかには汚れたトートバッグを下げている。中には楽譜やらその他細々したものが詰め込まれているようだ。右の頬の上に、人目を引く深い傷がある。尖ったものでえぐられたような短い傷跡。それをべつにすれば、とくに目立ったところはない。ごく普通の青年だ。
(中略)
 彼は声をかける、「ねえ、間違ってたらごめん。君は浅井エリの妹じゃない?」
              
 声を掛けて来た男、タカハシと出会い、言葉を交わさなければ、ほぼ確実に、デニーズで読書をし続けたまま、夜明けを迎えるはずだった浅井マリの「アフターダーク」に、変化が訪れる。
 都会の、ファミレスから始まった、ありがちな夜は、濃密さを保ったまま、夜明けへと移行するのだ。

 新しい太陽が、新しい光を街に注いでいる。高層ビルのガラスがまぶしく輝いている。空には雲はない。今のところひとかけらの雲も見あたらない。地平線に沿ってスモッグの霞がたなびいているのが見えるだけだ。(中略)ビルのあいだにはさまれた多くの街路は、まだ冷ややかな陰の中にある。そこには昨夜の記憶の多くが、手つかずのまま残っている。

 ファミレスで、一人で読書をし続けなければならない一晩があったとしたら、少し読むのに飽きてきたり、疲れてきた瞬間にのみ、異性に、それもなるべく魅力的な異性に(笑)、構ってもらいたい。
 複数の人数で来店した訳ではないのだし、構ってもらえる時間はそう長くなくていい。目的はあくまでも一人で読書に没頭することなのだから。

 そんな些細な願い(?)を、作者は叶えてくれた。
 365日のうちの一日、たった一晩だけでも、こんな「アフターダーク」があったなら、その年は、忘れられない年になるだろう。

 さて皆さんは、どのような、記憶に残る「アフターダーク」を過したいだろうか?
 作者の提示した一例を参考に、ぜひ考えてみてほしい。

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紙の本

インテリおじさま御推薦英語本2の1

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 先日、『喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな!』の、ご紹介の際に既にお伝えしているのだが、小生は、某インテリおじさまの購入予定だった『喫茶店〇〇〇』以外の、2冊の英語本も、代わりに購入することになったのだった。

 とてもいい本だったので、本日は、そのうちの1冊をご紹介したい。

 英語の本は、ぱらぱら捲(めく)った段階で、いい本かどうか、大体見分けが付く。

 (1)囲みや線で、区分けがしてあって、単語や例文が、わかりやすい(読みやすい)形に、なっていること。

 (2)重要な部分がカラー化されていること。ただし、カラーの色が強すぎたり、その面積が多すぎてはいけない。なぜならば、マーカーで線引きしたりなど、自分でもアレンジを加える余地があるほうが、よいからだ。2色使いプラスアルファくらいが望ましい。

 まだまだ見分け方には続きがあるが、それは次回にしたい。

 さてこの本は、上記(1)(2)の条件を満たしていることはもちろんだが、副題『会話のための10の文法上達法』からもわかるように、文法的視点からスピーキングを学んでいこうという趣旨に基づいて、つくられている。

 10の分類だが、1「Yes.とNo.の使い方」、2「現在完了」、3「冠詞」、4「数量・割合」、5「比較する」、6「時制と話法」、7動詞プラス“動詞”、8「仮定法」、9「語順」、10「関係代名詞と受動態」、となっている。

 この各項目に、それぞれABC順の小見出しが付いている。
 例えば、5「比較する」は、A「より多い、より少ない」、B「比較したところ同じ」、C「「ずっと」や数量で表す」、D「倍数や割合で表す」、E「最上級で語る」といった具合だ。

 さらに細かく見ていこう。数字順で幾つか記された例文は、とてもわかりやすい。
 例えば、5のCの3では、「入国審査の例」と題して、

 A: Look at that long line. Okay, let's get in this line.
 B: It's even longer.
 A: But it's moving faster.
 B: You're right--a lot faster.

 という、やり取りが挙げられている。
 会話を学びながら、文法も復習できるようになっているのだ。

 お約束のCDも付いている。
 アメリカ英語の軽快なアクセントが、音楽と共に聞こえてくる。

 このシリーズは他に、基礎編と発展編があり、この本は中級的に位置付けられているようだ。「では、シリーズ残り2冊も買って、勉強することにしよう」という気にさせられた1冊だった。

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紙の本

紙の本お縫い子テルミー

2004/10/09 00:18

純文学の新しい光?

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 まず、タイトルに惹かれた。
 このタイトルで、この本を掴む人は、沢山いると思う。で、実際に読み始めると、ぐんぐん引っ張られる。引っ張られた。
 どんどん頁を捲(めく)った。

 何でだろう。

 おそらく、主人公テルミーが、とても魅力的だから。
 そして、ストーリーが面白いから。

 テルミーは、故郷を捨て、身一つで東京に出て来た、16才の、プロのお縫い子だ。お縫い子というだけあって、ミシンは使わない。服をつくるためにテルミーは、一針一針、手縫いにしている。「一針入魂」が彼女のモットーだ。
 店はもたない。もっていない。服づくりを依頼されると、そのお客の家に泊まり込むという方式、すなわち「流し」でやっている。そのため、時には、お客と、はからずも、性的関係をもってしまうこともある。だが、あくまでも、お客の家に泊まるのは、服づくりのためだ。お客の生活を邪魔しないように極力配慮しながら、テルミーは、服づくりに励む。
 お客の評判は上々で、評判が評判を呼び、テルミーの仕事依頼は絶えることがない。

 純文学には、いろいろな方向性がある。
 最近は特に、正直、ストーリー重視というよりも、表現重視の傾向が、なきにしもあらず、というのは否めない。というよりも、それこそが、純文学の王道なのだろう。

 だが、表現や形式で、純文学を読む楽しさをわかってくると、必ずしも、ストーリーが劇的に展開していかなくとも不満はないし、逆に、あまりにも「偶然に」「都合良く」、例えば、「人が殺されて」しまったり、それも「たくさん(の人が)」という流れのお話には、違和感を覚えないこともない。

 この作品は、日頃から、ストーリーがある物語を多く読んでいる人でも、充分に満足できる純文学だ。
 4つ星にしたのは、もっともっと続きが読みたかったのに、え、ここで終わってしまうの? という期待感のためである(決して失望感ではない。念のため)。

 まだまだテルミーには、何かが起きそうでならない。
 作者は続編を書かないのだろうか?

 この作品に出会えて本当に良かった、と思える1册だった。

 芥川賞候補になった新作も、早く単行本として、読みたいものである。

 

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紙の本

紙の本オテルモル

2005/03/24 00:35

こんなホテルで暮したい!

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ホテルって確か、年間宿泊(長期滞在)も、できるはずだ。
 もちろん、そのホテルの、システムや受け入れ体制にもよるのだろうけれど。
 例えば、デーブ・スペクター氏は、その制度を利用していたはずだし、ある時期のピンク・レディーも、確かそうだったはずだ。

 ホテル暮し。
 ホテルで暮す。

 何と心地よい響きだろう。
 ホテルの部屋が過しやすいのは、余計なものが置かれていないからに違いない。
 逆に言えば、ホテルに置いてある、あんなに少ないものだけで、人は、暮らせるのだ。むしろ、普段よりも快適に。

 さて、この小説に出てくるホテル、すなわち、オテル・ド・モル・ドルモン・ビアンは、見付けにくく、入って来にくい場所にある、なおかつ、地下に建てられている、会員制ビジネス・ホテルである。ホテル名の意味は、「わたし」=本田希里(きり)の解釈だと、ホテルぐっすりもぐら、である。高卒の学歴しかない23歳の「わたし」は、これまで、一度も就職の経験すらなかったというのに、家庭の複雑な事情により、働く決心をする。このホテルのフロントデスク募集の広告に惹かれ、「わたし」は面接を受け、見事に採用される。働き出してわかったのだが、ここは普通のホテルではなかった。特殊な用途があったのだ。

 「わたし」は、外山(そとやま)さんという客室係の女性から、研修を受ける。

 「地下二階、客室フロアです」
 エレヴェーターから客室が見えない造りになっているらしく、目のまえに「B2」の文字が浮きでた壁だけ現われた。降りるのかと思いきや、ドアは閉められた。
 「よほどのことがないかぎり、本田さんが客室に下がることはないでしょう。部屋の内部の見学は省略します。いずれ試泊をしてもらいますから、そのときじっくり確認してください」
 外山さんは十三階のボタンを押した。彼女がわたしの足元を見つめているので、視線をたどる。気づかなかったのだが、扉と反対側の床近くに、エレヴェーターの現在階をしめすパネルがついていた。ふつうならば扉の上にあるものだ。わたしもうつむきかげんに首を曲げた。わたしたちは黙って、パネルを見つめた。オレンジの表示は、ゆっくり、ゆっくり、太極拳の動作のように、右から左へと動いた。メモ帳に、「エレヴェーターのパネルは足元にある。注意」と記す。

 「わたし」は生真面目に、外山さんから貰った情報その他を、逐一メモ帳に書きつけていく。少しでも早く仕事を覚えたいからか。それとも、せっかく得た職を失いたくないからか。それとも、働いている間は、家のことを忘れていられるからか。家では、姪と、姪の父親が待っている。「わたし」はこの2人と、3人で暮しているのだ。

 このようなホテルに籍を置いて、ここから仕事先に行けたらいいなと思う。
 地下にあるホテルだなんて、そこはかとなく、お洒落である。
 わくわくする。
 ただし、もしかしたら、難しいかもしれないとも思う。
 このホテルのチェックアウトの時間は、日の出前なのだ。
 長期滞在者には、チェックアウト時間の優遇は図ってもらえないのだろうか(笑)。
 しまった。もう1つ難問があった。
 このホテルには、朝食はおろか、夕食も付いていないのだ。
 どうしよう(笑)。

 合い言葉は、「悪夢は悪魔」の、オテル・ド・モル・ドルモン・ビアンである。

 この作品は、昨年、第131回の芥川賞候補となった。

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紙の本

紙の本白の咆哮

2005/03/21 18:58

噛めば噛む程、味わいの出る

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 小説を読む際、少なくとも、2度は読むことにしている。
 なるべく「誤読」を防ぎたいという思いがあるのはもちろんだが、1回目で取りこぼした(?)新たな発見が、2度目以降には、必ずあるからなのである。1作で2度も3度もおいしい小説だと、読みがいもあるというものだ(笑)。

 さて、中島たい子『漢方小説』と同時に、昨年度の「すばる文学賞」を受賞した本作だが、前者は芥川賞候補になったが、本作はならなかった……。

 第二次大戦から60年を経て、日本は、絶望的な冬の時代に入っていた。その憂鬱な空気が限界に達した時、北陸地方の山間部で<土踊り>が発生した。ほぼ同時期、九州地方・中央部の農産地域で、ある男が<発起人>となり、入植者を募集し始めた。時事問題を扱う雑誌の契約記者であった「わたし」は、「九州の入植者たち」と「北陸地方の<土踊り>」に関する記事を書いたため、それら2つを継続取材するよう、命じられる。取材中「わたし」は<土踊り>を教わり、強く魅了される。その一方で九州にも赴き、<発起人>にインタビューしたことが元で、「わたし」は、<土踊り>を止め、仕事も辞め、家庭も捨てて、「入植」を決意する。 

 作中の<土踊り>なるものは、例えば「北陸地方の山間部に住む少年たちの遊戯に端を発する」、あるいは「能という古典芸能の影響を色濃く受けた」、などと表現されているのだが、どういう踊りなのか、定かではない。踊りの一部に<サササの偶然>という箇所があり、そこだけが、どういう動作なのか、具体的に書いてあるだけだ。もちろん、これは作者の明確な意図によるものだろう。全体像が結ばない<土踊り>だけに、それが、北陸地方を越えて、じわじわと、他の地方をも侵食していく様には、神秘性や、無気味さが増すのではないか。 

 一読した段階ではぴんと来なかったのだが、この小説の良さは、ひたひたと、まさに<土踊り>のように、寄せてくる(笑)。

 その、噛めば噛む程、味わいが出るところに惹かれ、4つ星とした。
                                                                                                                                       
 前述の『漢方小説』が、「とっつきやすい」「わかりやすい」「読みやすい」<草加せんべい>だとすると、本作は<南部せんべい>的味わいである。<南部せんべい>は、食べ慣れていない人が、1度くらい食べた段階では、いわゆる「粉っぽくて(おいしくない)」ということになってしまうらしい。だが、あの良さは、1度食べただけではわからない。少なくとも2度以上、よく噛みしめて食べないと、あの、香ばしさ、おいしさには、気づきにくいのだ。まさに、この小説のようである。

 と同時に、この作品の評価は、いわゆる、ストーリーがある物語が好きな人、もしくは、小説では会話を中心に楽しみたい人、にとっては、星は1つ減ってしまうのかもしれないな、とも思った。それこそが、「とっつきやすさ」「わかりやすさ」「読みやすさ」に関連してくる部分だろう。そのエリアにあえて入り込んでいないところが、芥川賞候補にはならなかった理由でもあろうし、逆に、この作品の強みでもあると思う。

 「土踊り」で日本中を席巻することを試みた作者が、次にどんな手を仕掛けてくるのだろうか。

 本作は、この作者の処女作、である。

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紙の本

紙の本ロマンチックください

2005/01/23 17:29

女子校出身者ならフムフムと共感できる部分多し?

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 春野なずな、すずな、は、清陵女学館(高校)に通っている、双子である。

 二人の家は、祖母の藤間萩(ふじまはぎ)、母の春野撫子(はるのなでしこ)、姉の、はこべ、せり、との、女系6人家族だ。
 祖父は、亭主関白で、口やかましかったらしいが、戦死した。父は、仕事が忙しかったせいかほとんど家に寄りつかず、賭け事で大好きだったようだが、交通事故で死んでしまった。長女のはこべは、28になるのに嫁に行こうともせず、次女のせりは、大学3年なのに、夫の浮気が原因で、既に出戻りなのである。

 こんな環境に加え、二人は幼稚園から高校の現在に至るまで、女子校育ちなので、共に「男ギライ」を自認している。

 今通っている、清陵女学館には、電車で通わなければならないので、二人は、毎日チカンに遭う。すずなが、実際の被害を受け、なずなが、それを逐一助けている。
 その窮状を二人が夕食時に訴え、すずなが「歩いて行ける学校だったらいいなあ」とつぶやいたことがきっかけで、なずなは、次女のせりと喧嘩になる。
 その喧嘩を、祖母の萩が、鶴の一声で、一喝するのだ。
 「男とつきあいもしないで男ギライだなんて そりゃ殿方に失礼というものさ ふたりとも東高へおいき これは命令だよ」

 東高は、確かに歩いては行ける学校だが、二人の大キライな「男」が沢山いる、共学校なのだった。

 小難しくて、1行読み進むごとに、辞書を引いたり、何度も読み返したりするような本を、読みこなしていくのも楽しいが、時には無性に、何も考えずに、いわゆる「ナナメヨミ」ができる本やコミックを手に取り、アハハ、オホホと、笑いまくるのも、これまた楽しかったりするのだ。

 掲載の、表題作『ロマンチックください』と、もう一つの『ロマンチックあ・げ・る』の『りぼん』初出は、それぞれ、昭和63年と平成元年だったようだが、今読んでも全く古さを感じない。

 五つ星ではなく、一つ引いて、四つ星にしたのは、二人と絡む男性が、各々、いい男だったからである(笑)。ハンサムな男性が登場するのは、とてもうれしいが、なかなか現実では、出会えない。もっとも、そういう男性と、いとも簡単に遭遇できるのが、少女漫画の醍醐味だともいえよう。

 高校時代にタイム・スリップしたような気になって、楽しめる1册である。
  

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紙の本

紙の本袋小路の男

2005/01/18 00:36

川端賞のイメージを変えた表題作

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 この作品は、昨年度の川端賞受賞作である。

 川端賞受賞作の中では、沢山好きなものがある。
 例えば、佐多稲子や色川武大などの作品だ。
 いちいち挙げないが、受賞こそしなかったが、候補になったものの中にも、佳品が山のようにある。

 現在の芥川賞選考委員の中で、川端賞受賞者、もしくは候補者にならなかった人は、ほとんどいないのではないか? と思うくらい、この賞は、(作者の)年齢が割合と高く、手練(てだれ)、いわゆる、短編の名手、と言われる人達のための賞、という印象があった。
 ご興味がある方は、川端賞受賞作だけを編んだ本も出ているので、ぜひ読んでみていただきたい。

 さて、表題作『袋小路の男』と、次の『小田切孝の言い分』に出てくる、あなた、こと小田切孝は、実にイヤな男である。私、こと、大谷日向子(ひなこ)が、自分に好意をもっているのを知っていながら、付き合う気はさらさらない。「まさに、気分は、暇つぶし」なのだろうか? こういう男に限って、あくまでも、自分の領域を侵食しない範囲内で、という限定条件付きで、構ってほしいので、女が離れそうになると、逃げていかない程度、うまい具合に、ちょっかいを出すので、やっかいなのである(笑)。

 読みながら、「気まぐれな小田切」と「その小田切のご機嫌を取り続ける私、日向子」に対して、「すっごくヤな奴」「こんなヤな男に優しくする必要ないって!」とイライラし、毒づいている自分に気付いた。ところが、この不機嫌さは、ある段階までは続いたのだが、最後には消えてしまった。なぜだろうか? 

 作者はこれまで三度も芥川賞候補になりながら、受賞には至らなかった。至っていない。ところが、川端賞を先に取ってしまった。時代の流れとともに、川端賞受賞者も低年齢化しているが、デビューして日も浅いのに、いきなりの受賞である。驚いた、と同時に、その快挙は、同世代の女性として、素直に、うれしい。

 どうりで、これまでの作品よりも、人物や状況設定、その他、の振り幅が、いい意味で減り、収斂されてきたように思う。 
 
 作者には、今後も、いい作品を世に送り出してほしい。
 間違いなく、作者の「礎」の一つとなる、作品集である。
                  

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紙の本

紙の本物は言いよう

2004/12/19 22:46

1ランク上の「デキル男」になろう!

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 セクハラという言葉が、初めて日本にアメリカから入ってきたのは、1989年だそうだ。----『セクハラ完全マニュアル』若林恵子・井上憲一著、社会批評社、1997年より----以来「こういうことを、しては、言ってはいけない」という、あらゆる事例が提示されてきた。にもかかわらず、ごく最近、初歩的なエラーを犯す30代の男性を見掛けた。悪気はないのはわかったが、それだけに「デキナイ男」という感じがしてしまった。

 逆FCコードに引っ掛かるかもしれないが、女は自分より「デキル男」が好きである。「デキナイ男」に何かを言われる、される度に、女は傷ついたり反論したくなったりするが、いずれ空しくなり止めてしまう。なぜなら、関わる時間が無駄だからだ。その時間があれば、他の前向きな努力をしたり、「デキル男」と関わるほうが有意義だ、と考えるからなのである。

 *「デキル男」は素直で前向きである。よって、他人の良さも素直に認めることができるし、自分も前向きに努力する。*「デキル男」は、沢山のことを知っている。だが、それをひけらかさない謙虚さも併せもっている。*「デキル男」は、人の足(特に、女の足)を引っ張らない。引っ張る必要がない。*「デキル男」は、何かをあからさまに否定しない。異論・反論を唱える場合でも、ソフトである。ウィットに富んでいる。*「デキル男」は、自分を大きく見せない。見せる必要がない。*「デキル男」はマジメだが、マジメすぎない。
 
 等々、挙げ出したらきりがないが、ほんの些細なことが「デキル男」と「デキナイ男」との分かれ目である。「デキナイ男」ほど、(存在を)見た(発言を)聞いた、瞬間にわかるような致命的な欠点を数多く抱えているのに、それにも気付かず、自分を「デキル」と勘違いし、居丈高になっていたりする。ちなみに、この「デキル」は、勉強、仕事が 「デキル」ということではなく、「思いやりがある」「器が大きい」という意味である。だが面白いことに、そういう男性ほど、勉強も仕事も、なぜか「デキル」のである。

 セクハラ等は昔よりは減ったかもしれないが、残念ながら、現存するのは事実である。
 そのような基本的事項への対策も、もちろんだが、さらにもう一つ、FC(フェミコード)という新しい概念を、男性はもちろん、我々女性も学ぶべきだと、斎藤美奈子先生は主張なさるのである。
 一部引用してみよう。

 たとえば、
「いやいや、×××さんは、女だてらに立派なもんですな」
「まったくです。女にしておくのは惜しいですよ」
 という会話が耳に入ってきたとしよう。変なこといってるな、とあなたは感じる。しかし、これが「セクハラ」「差別」かとなると、微妙なところ。
 こんなとき、FCという語が効果を発揮する。ピッタリ来るのは、このひと言だ。
「それってFC的にどうよ」
 フェミコードとはつまり、性や性別にまつわる「あきらかにおかしな言動」「おかしいかもしれない言動」に対する、イエローカードなのである。

 斎藤先生はフェミコードを、ドレスコードと比較してわかりやすく説明している。具体的事例もぜひ併せて読んでほしい。尚、先生は、男性に対してのみならず、我々女性に対しても「愛のムチ」攻撃を向けていたことは言うまでもない。小生は、何度も、大声で笑ったり、真剣になったりしたが、本を読みながら、これほど表情や体が動くのも、珍しいことなのである。

 この本を読んで、目くじらを立ててしまったり、それこそマジメに短所を数え上げたくなってしまった貴方は、まだまだ修行が足りない。斎藤先生からユーモアを学ぼう。笑いながら読んでいくうちに、FCという新しい概念を学ぶことのできる画期的な本なのだ。

 1ランク上の「デキル男」(「デキル女」)になりたい貴方の、必読書である。

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紙の本

紙の本二匹

2004/11/07 19:48

「お次は何?」のお楽しみ

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 この作品は、あの『白バラ四姉妹殺人事件』を書いた、鹿島田真希の処女作、文芸賞受賞作、である。

 高校生の妻城(つまぎ)明は、学校の廊下で外を見ながら、孤独感に浸っていた。だが、高校生活の厳しい現実は、そうやって明が、ほんの一瞬でも、ぼんやりとしていることさえ許さない。クラスメートが、野球ごっこのボール代わりにしたミカンの皮が、途端に、明の顔を襲ってくる。この弱肉強食の世界を生き抜くために明は、タイトル部分しか英語で歌えない英語版『マイ・ウェイ』を「ラララ」のスキャットで歌って、自分に活を入れるのだ。三学期直後の昼休みに行われた席替えで、明の席は、窓際の一番後ろに、追いやられていた。元の席に置いておいたはずの教科書は、全てゴミ箱に捨てられていたのだ。

 対照的なのは、明の幼馴染みの藤田純一だ。純一の席は丁度教室の中心部にある。何をやってもトロい純一なのに、人気者なので、純一はクラスのみんなに構われている。純一は、箸がまともに使えないので、お昼ごはんのメニューは、大抵パンかおにぎりという体たらくだ。しかも、要予約のパンやおにぎりさえ、あまりのトロさに、買うことができない。なのに、黙って席に座っているだけで、いつの間にか誰かが世話をしてくれるので、純一はランチを食べはぐれたことがないのだ。

 二人の家は隣同士だ。アルバイトもせず、こづかいも貰っていない純一は、放課後になると、明の家に合鍵を使って入り込み、明のウォーターベッドで昼寝をする習慣だ。やがて帰宅する明との、くだらないやり取りには、それなりに、はずみが付くのだが、二人は、学校ではあまり話をしなくなっていた。

 教室の中にいると、自然に序列が出来てくる。役割や分担みたいなものを、誰が決めた訳でもないのに、クラスメートの誰もが、その与えられた「何か」を、当り前のように、こなすようになっていく。
 ところが、その役割や分担を、気軽に受け入れられない、もしくは、受け入れ損なうメンバーが、必ず出てくる。

 例えば、『蹴りたい背中』では、綿矢りさが、そういう男女の高校生を描いていた。
 鹿島田真希も、同様の男子高校生を描いている。
 読み比べてみるのも面白いかもしれない。

 鹿島田真希は、男子高校生を主人公にしたが、きちんと主人公達が、男性になっている。かつ、高校生くらいの、何ともやるせない、どこかに飛び出していきそうな感じ、もしくは、逆に、少しだけ退廃的な感じが、よく出せている。そういうモヤモヤしたものを、主人公たちは自らを進んで道化役にすることによって、うまく、かわしていっている。

 だが、どうしても『白バラ四姉妹殺人事件』の、突き抜けた弾けぶり、どんどん頁を捲(めく)っていった、あのドキドキ感には、少し満たない感じがしたのは否めなかった。なので、四捨五入にての星4つ、とした。

 鹿島田真希の単行本は全て読んだが、不思議な作品が多い。
 『白バラ〇〇〇』以降に、どういう作品が出てくるのか、とても楽しみである。

 

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紙の本

紙の本グランド・フィナーレ

2005/04/01 00:24

哀しみと、おかしみと

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 この作者の処女作、『アメリカの夜』は、あの作品の語り手である「わたし」によると、哀しい話のはずだった。確かに、あの作品の主人公、中山唯生は、アルバイト先の唯一の楽しみともいえた「読書」を禁止され、恋をした「ツユミ」ともうまくいかず、映画学校の同級生が監督した映画に「ツユミ」と共に出演するという口約束も反故にされ、散々な目に遭うのだった。だが、中山唯生のふるまいには、時折、ある種の「おかしみ」が、感じられはしなかっただろうか。ツユミとの共演に備えて、公園で、ひたすら体力づくりに励む中山唯生。その様(さま)が真剣であればあるほど、公園でラジオ体操をしながら、彼を見ていた人達がきっとそうであったように(?)、読んでいる我々も、思わず頬が弛(ゆる)んでしまったのではなかっただろうか。

 さて、この『グランド・フィナーレ』には、作者のそれまでの作品の「キーワード」が数多く見受けられる。例えば「神町」ということであれば、『シンセミア』もそうだし、『ニッポニア・ニッポン』の鴇谷(とうや)少年も、かなり端役ではあるが、作中に登場している。そのような直接的な関わりもさることながら、私には、本作からは、前述の、『アメリカの夜』的匂い、が漂ってきたように感じられたのだった。

 この作品の主人公、沢見=わたしは、東京で教育映画の製作に携わっていたが、知人の影響で、少女のヌードに、趣味をもつようになった。「わたし」は、そのことを妻に知られてしまったため、離婚せざるを得なくなったばかりか、職も失ってしまう。故郷の山形・神町へ帰った「わたし」は、友人を通じて、せめて娘の誕生日には一目会いたいと上京するが、その願いは叶わなかった。打ちひしがれて故郷に戻った「わたし」に、小学校の体育館で開かれる芸能祭で、演劇発表する小学6年生・女児2人の、「演出」をしてほしいという話が浮上する。

 『シンセミア』ほど陰惨な話ではないにしても、本作は、まさに「哀しい話」である。いや、「哀しい話」というよりも「ひどい話」だと言えよう。「わたし」は、周囲の人達から、沢山「ひどい」ことを言われたりされたりするが、それは、「わたし」が、周囲の人達に対して、沢山「ひどい」ことをした報い、だとも受け取れるのだ。だがこの話は「ひどい話」であると同時に、『アメリカの夜』がそうであったように、ある種の「おかしみ」も伴っているのだ。例えば、娘の名前は千春というのだが、本作で「わたし」は、会える可能性が皆無に近い、目の前に居ない娘に向かって(心の中で)「ちーちゃん」「ちーちゃん」と呼び続け、切ない心情を吐露するのである。「わたし」の心情を聞くのは「ちーちゃん」だけではない。ぬいぐるみの「ジンジャーマン」も貴重な話し相手の一人だ。この、ぬいぐるみは、かつて「ちーちゃん」にプレゼントしたものだった。「ジンジャーマン」は、「わたし」の質問に即さないとはいえ、「やあ、綺麗なお星さまだね」などと、粋な答えを返すのである。「少女のヌード撮影」という暗い要素を引きずった話は、「女児たち」を取り巻くファンシーな小道具たちによって、深刻すぎ、にはならず、むしろ「奥行き」を生んだ、のである。

 タイトルは『グランド・フィナーレ』だが、この「フィナーレ」には、沢山の意味合いがあるであろうが、大筋で、2つの「フィナーレ」が含まれているように思う。1つの「フィナーレ」は、「女児2人の、小学校生活最後の、芸能祭の演劇発表」である。2つ目のフィナーレの意味は、ぜひ、読んで確かめていただきたい。

 『シンセミア』を再読した直後だけに、「重苦しい話」は覚悟していたのだが、いい意味で裏切られた、本書だった。

 芥川賞受賞を機に、この作者は、どこへ向かうのだろうか。

 
  

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紙の本

すぐれた作り手が必ずもっているもの

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 高樹のぶ子さんのご発言を、何かの雑誌で読んだことがある。高樹さんは、このようなことを仰っていた。「小説は、男女、女男の書くものだ」と。蓋し名言である。

 著者は、いい意味での「女男」の典型と思うのは、私だけだろうか。

 この本の、特に前半部分は、少女マンガに紙数を割いている。
 少し長くなるが、引用してみよう。1983-84の、38頁である。

 ぼくはなんて無知なんだろう。『りぼん』や『ぶーけ』や『別マ』にはいつも目を通しているつもりだったのに、ほんとはまるで眼中になかったんだな。知り合いの女の子から、清原なつのの『なけなしのラブストーリィ』を借りて読んだ時に、びっくりして思わず「これ誰?」って言ったら失笑をかってしまったよ。「へえ、清原なつのを知らないでマンガのコラム書いてるわけ?」
 それから、ぼくは荻窪「タウン・セブン」の本屋さんへ走って、清原なつのの『未来より愛をこめて』と『3丁目のサテンドール』を買い、家へ帰って読んだ。うーむ、うーむ。それからぼくは清原なつのをぼくに教えてくれた知り合いの女の子に電話して、いったいぼくは何を読んだらいいのかを聞き、再び「タウン・セブン」へ引き返し、かの女の指定した吉野朔美(さくみ)、松苗あけみ、高橋由佳利、岩館真理子、を買って帰った。(中略)やっぱり、ぼくは「ふつうの」女の子が少女マンガを読むみたいには、少女マンガに接していなかったのかな。そんな反省をこめて、ひさしぶりに少女マンガについて考えてみたくなった。

 男性にとって、やはり少女マンガは、ある種の聖域なのだろう。私も全く似たような体験をしたことがある。まるで、歩く辞典のような男性が、「陸奥A子って誰? どういう字を書く人?」と言ったのだ。懇切丁寧に教えてさしあげながら、思いっきり優越感に浸ることができた。こういうことがあると人生はなかなか楽しかったりする(笑)。

 2005年の今、どの書店に行っても、少女マンガのコーナーに置かれている人は限られている。というより、新刊は出るので、出た段階では公平に棚に並べられるのかもしれないが、前述の、もう「大家」と呼ばれるようになってしまった少女マンガ家たちの作品は、私も含めた熱狂的なファンが、出た瞬間に買ってしまうため、棚に、いつまでも置かれてはいないのだ。
 よく覗く本屋さんでも、「一条ゆかりのものは男性も買うので常に置くけれども、最近、話題になっていたり、賞を取ったような漫画家さんのもの以外は、出た段階で数冊は置くが、なくなってしまったら積極的に補充はしない」とのことだった。寂しい限りである。

 著者の書評は「作り手」と呼ばれる立場の人でも参考にしていると聞いたことがある。ハクガクな源一郎さんの源(みなもと)は、前述のような地道な努力にあったのだと納得させられる。

 四つ星にしたのは、訳がある。1988-89の「少女マンガ ベスト50」と題されている中の、89頁に、「岩館真理子さんは、ぼくのいちばん好きな少女マンガ家です」と書いてあったので、この点に関しては、著者と全く同じ感想をもっている私としては、ベスト50の中に、彼女の、『1月にはChiristmas』を選ぶのはいいとしても、他に補足として挙げられているものの中にも、ほぼ同時期に出た『五番街を歩こう』が入っていないのは、果たしていかがなものか、と思ったのだった(笑)。

 とはいえ、くらもちふさこ、吉田まゆみも、きっちり押さえているとは、さすがに源一郎さんである。

 この本は、我々読者の側も楽しめることはもちろんだし、大家と呼ばれてはいるものの、もしかしたら、最近少し元気がなくなっているかもしれない、少女マンガ家達の、さらなる創作意欲を刺激することになるのではないかという、高い期待がもてる1册だったのである。

 

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