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  3. きゃべつちょうちょさんのレビュー一覧

きゃべつちょうちょさんのレビュー一覧

投稿者:きゃべつちょうちょ

231 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本白蓮れんれん

2014/10/10 10:04

中公文庫版の魅力は、巻末の瀬戸内寂聴の解説。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

集英社文庫版も読んだのだけれど、
このドラマで蓮子が着ていた着物柄と似ている装丁(!)に惹かれた。
そして、題字。
山梨文学館で「白蓮れんれん」の生原稿を見た記憶が蘇る。


ときは大正。華族の血をうけた柳原白蓮の恋のてんまつ。
そして周りの人たちの思惑。
階級というものに縁遠い現在の日本からみると、新鮮であった。
それと同時に考えさせられた。
身分の違いというものは、
これほどまでに考え方の齟齬を生むものなのか。

華族のお嬢さまで美貌と才能に恵まれた白蓮が、
どうしても手に入れることができなかったもの。
それは家族の愛情だったといってしまえば簡単なのだが、
どうやらそれだけではなさそうだ。

白蓮が運命に翻弄されたというのは一理あると思うが、
彼女はかなり残酷な部分を持った女性だったと思う。
それはかけおちうんぬんの以前の問題で、
彼女の、たとえば使用人や自分より身分の低い友人を見る目である。
常に自分は上からで、常に他人を値踏みしているようなところ。
林真理子が女性のこういう描写を描くのがうまいというのももちろんあるが。
この本を読んで「階級意識」というものの匂いをなんとなく感じられた。

「白蓮れんれん」の魅力は、なんといっても、
門外不出だった白蓮とその恋人の手紙(700通!)をベースに書かれているということ。
本文にはふたりの往復書簡の一部も引用されている。
いままで誰も資料にできなかったものを資料にして書き出すということは
とても画期的だし、それだけですごいと思う。
骨の折れる作業もあったのではないだろうか。

林真理子の本をひさしぶりに読んだけれど、読みやすくおもしろかった。
さくさくと情景が頭に入ってくるし、比喩が的確でとてもうまい。
それにしても、
この作家は色々な女たちの、赤裸々な心のなかを描くのが上手である。
立場や身分や職業の違いはもはやたいしたものではないと思えてくる。
「ひとりの女」としてなにを見つめてなにを考えているのか。
そこがはっきりと浮き上がってきて、おもしろくもありこわくもある。

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紙の本たんぽぽの目 村岡花子童話集

2014/10/10 09:56

色々な味のする、粒ぞろいのお話の詰め合わせ。品質保証。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

すべて村岡花子が書いたお話集なのだけれど、まるでオムニバスみたい。
宮沢賢治、グリム、アンデルセン、イソップ・・・・・・。
寓話的なものが多いので、いくつかはちょっと苦いブラックコーヒー風味。
特に「みみずの女王」は、この本でいちばんブラックな作品かもしれない。
こういうお話だったのかと軽く衝撃をうけた。
「利口な小兎」と「王様の行列が黒猫から」もなかなかビター。
けれども、読んだ後にほっこりと温かくなるホットミルク風もたくさんある。
純日本ふうのお話もあれば、ほんのりと欧米の小説のかおりがするお話もある。
日本のことを書いているのだけど、ウィットが満ちているという感じ。
「ポストへおちた蝶々」は掴みもOKだが、終わり方もとてもしゃれている。
オー・ヘンリーの短篇のような、外国のいいお話を読んだな、という読後感。
「花の時」というお話はどこかしらアン・シャーリーの想像の翼を思わせる。
こういうお話をつくっていた作者だからこそ、アンにあれだけ共感できたのかも!
「赤毛のアン」が好きな人は、きっと頬をゆるめることでしょう。
ちなみにドラマにでてきた「めぐみの雨が降るまで」というお話は、
実際に村岡花子の愛児・道雄が亡くなった年に書かれており、せつなさが残る。

そしてこれは、作者が読破した洋書の影響が大きいのではないかと思うのだが、
この物語集には依存するお話がない。
みじかい中でも、自分で考えたり行動したりして、何かに気づく。
自分のまわりとの関係性を冷静にみつめる要素が入っている。
自立を促す物語、といってもいいのかもしれない。
子どもたちはお話の中で、動物や植物を大切に思い交流するが、
不思議とべたべたと仲良くなるわけではなく、
それぞれの立場を考えた引き際がちゃんと用意されている。
だから、大人が読んでもおもしろいし読後感がいいのかもしれない。

「みんなよい日」は、あんなに短いのに、もうひとつのお話が入れ子になっている。
とても新鮮でいちばん惹き込まれて読んだお話だった。
・・・・・・と、大人になるとよかったものに理由をつけたくなるが、
きっと子どもは理由なんてつけずに、本能的に嗅ぎ分けるのだろう。
こんな素敵ないくつもの童話に、幼いころからめぐり合えるとしたら、
とても幸せなことだと思います。

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紙の本昨夜のカレー、明日のパン

2014/10/10 09:47

明日のパンを買いに行こう。

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「昨夜のカレー、明日のパン」。ドラマ化も気になったが、
なんといっても魅力的なのはこのタイトル。

木皿泉のはじめての小説で、
人も気持ちも、ちょっとずつ繋がっている連作短編集。
みんな普通に働いて食べて眠っているが、
一筋縄ではいかない、それぞれの理由がある。
なんていったら良いのだろう、
なんだか、新しいけどなつかしい感じがする。
もちろんこれはフィクションなのだけれど、
いま、こういうことを思ったりする人はいそうだな。
と、世の中の息吹を感じさせるところがある。

ほんわりとあったかいと思うのは、
この本の中の人たちが、ちゃんと繋がっているところ。
会って、話をして、表情を確かめ合って。
ときにはどうしたら相手が喜ぶだろうかと考える。
相手を悲しませないために努力する。
それがなんというか、とてもふんわりしている。
描かれている人の事情というのも、わりとヘヴィめなのに、
あっさりと読めてしまう。不思議なおかしみさえ漂っている。
ちょっとこわかったりもするのだけど、
このふわふわと透明な感じが、癒されるのかもしれない。。

「山ガール」は、先日の御嶽山噴火事件を思い出して
読んでいてどうなることかとハラハラしてしまったが、
いいエンディングでほっとした。
いちばん好きだったのは「魔法のカード」というお話。
さえない感じの岩井さんのこと、すごいなぁって思った。
終わりの2篇はちょっとせつない。
でもこんなふうに人はくっついたり離れたりして、
色々な気持ちを味わうことになるのだろう。

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紙の本ふつうな私のゆるゆる作家生活

2012/08/27 10:40

出版社で、新人研修につかわれることもあるそうです。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

もうこれ、何回読んだだろうか。
益田ミリの本のなかでいちばん手に取る確率の高い本。
すごくツボにはまるというか・・・・・・。
何回読んでもくすっと笑ってしまうし、へぇって思う。

タイトルどおり、益田ミリの創作活動およびその近辺を
まんがで綴ったものだが、
編集者とのやり取りがとにかくおもしろいのだ。
いろんな人間がいる。
いろんな作家がいる。
いろんな編集者がいる。

益田ミリはクールな目線で彼らをしっかりと観察している。
これを読んでいると、編集者って職人みたいな部分が
あるんだなと思う。
画一的な仕事ではなく、その人によって全く違うという面。
まぁ、生み出すものがほんとうにそれぞれの作家を
相手にし、それぞれの創作意欲を促進させるのだから、
当たり前かもしれない。

「書くのは人の常、編集は神の技」と、
スティーヴン・キングは著書のなかに書いたが、
作家と編集者が出会わなければ、本はできない。
本読みにとっても、まさしく神の職業だと思うが、
益田ミリは、そういうことをじゅうぶんに踏まえたうえで、
こういう人もいるんだよ、と教えてくれるのだ。
嬉しいおどろきも多々あるが、
ええっ!?なぜそう来る?というおどろきも多々ある。

わたしはいままで、
作家とか編集者をすごく美化していたんだなぁと。
編集者だって人間なんだから、
自分の担当した作品を、謙遜を通り越して卑下したり、
思わず作家の悪口をほかの作家の前で言ってしまったり、
そういった失敗もするわけなのだ。
そんな彼らを受け止める注意法なども、
益田ミリは教えてくれる。
読むだけのサイドからは全く見られない部分を
知ることができてほんとうにおもしろい。

でもつよく心に残るのは、やはり真剣な編集者の話だ。
ある編集者は、打ち合わせの時に
この主人公は、どこにお勤めしているのでしょうか
と尋ねる。
その質問に益田ミリははっとする。
そうか!そういうことまで考えるとリアルになるのか!
そして実際にその職場のモデルを探し出してくる。
編集者はそこが見たいと言い、
ああ、わかります。ぶれていません。と現場を見て言う。
なにげない創作の一コマだけれど、
なんだかふるえてしまうような場面だと感じた。

ある編集者と本の話をしていて、あ、それ読んでいません、
益田ミリがこたえると、
その編集者はたくさんの本を買い込んで、彼女に渡す。
すばらしい表現力に、ぜひ触れてほしいんです!!と。
編集者は領収証を切らなかった。
ああいう人が会いに来てくれたって、嬉しいな。
頑張っていかないと。と、益田ミリはじんとする。

じんとするといえば、何回読んでもうるうるくるのが、120ページ。
自分ができないことを知っていて/
人ができることを尊敬できる心/
そういう単純なことが/
実はとても/
仕事をするうえで/
大切だったりするのではないか/
8コマに込められた、セリフの輝きにいつも魅了させられる。

益田ミリの本が好きな人、作家の創作近辺に興味のある人で、
まだこの本を知らない人は、ぜひ手にとってみてください。

ちなみに本書は、
新人編集者の研修に使われることもあるらしい。
その出版社、応援したくなってくる。

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紙の本冷血

2012/08/27 10:16

平面的な絵をあらゆる方向から見てみると・・・・・・

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

鳥肌が立つようなおぞましい殺人事件を、
まるでジグソーパズルの切片をひとつひとつ拾い出すように、
膨大な資料を収集し、取材・見聞し、
それらを取捨選択して的確な位置におさめ、
物語として再構成されているのが、カポーティの「冷血」である。

詩のようなうつくしい表現が重なる文体はここでは影をひそめ、
事実が淡々と正確に精密に綴られていく。
作家自身が多くのインタビューをこなし、
犯人の処刑現場にまで立ち会って書き上げられた膨大なレポート。
6年間の作業、ノート6千ページ(!!って、いったい何冊なんだ?)
にも及ぶ資料。
それらが、息をもつかせぬ小説のかたちとして、読者に差し出される。

本書には、ひとつの事件をめぐるさまざまな人たちの生活と思惑が
綿密に書かれている。ほんとうに多方面の、心と体の記憶が。
凶悪な殺人事件というと、被害者の悲惨さと加害者の残忍さが
まず思い浮かび、マスコミによってそれらがクローズアップされる。
たった一枚の「殺された絵」として、
切り取られてしまいがちの事件の裏側に、
そして事件が起きるまで、裁判上の終結を迎えるまでに、
いったいどれだけの人とものごとが関わっているのか、
これを読んでいると、改めて考えさせられることが多い。
3回くらい読み返しているが、いつも惹き込まれてしまう。

被害者の人権。加害者の人権。検察側、弁護側の思惑、出廷する証人たちの思い。
どこかひとつに肩入れするわけでもなく、カポーティの目線は徹底的に事件を俯瞰し、
事実をひとつひとつ拾い上げ、そのバックボーンまでを語っていく。
すごい仕事だと思う。文体は淡々としているが、その底には情熱がたぎっている。

そして読者は、切り取られた一枚の絵に秘められた数多くの物語を知る。
ひとつの四角形をかたちづくっているのは、単純な四本の線ではないこと、
その線を、こまかな点が連なり、結んでいる事実に目をむける。
カポーティの仕事は、わたしたちの心の目を大きくひらかせてくれる。

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紙の本風と共に去りぬ 改版 5

2012/04/24 23:53

「明日はまた明日の陽が照る」の末路。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

4巻を読んだら、もう、すぐに5巻を読みたくなる。
こんなに主人公の性格が好きになれないのに、惹き込まれるストーリーってすごい。
5巻はいよいよ最終巻。スカーレットの、生きてきた総決算である。

裏表紙にもあるが、スカーレットとバトラーはついに結婚するに至る。
ふたりの間には可愛い娘が生まれ、バトラーは意外にも子煩悩ぶりを発揮する。
そして娘のきたるべき社交生活のために、バトラーは生活を方向転換する。
近所の人たちと仲むつまじく、教会にも顔を出し、いい父親ぶりをアピールするのだ。
しかし、そんな生活は長くはつづかなかった。

スカーレットのお馬鹿さん!!バトラーがここまで努力しているというのに。
2匹のウサギを同時に捕まえられるわけがない。
どうして彼女は、あそこまで執拗に獲物を追いかけようとしたのだろう。
彼女の欲していた、お金と贅沢な生活が手に入ったというのに、
彼女は手に入るはずのないものまで欲しがったのだ。
彼女は感謝を知らなかった。
彼女は、他人を自分におきかえて想像するということを知らなかったのだ。
だから、5巻に至るまで、他人を理解するということができなかったのだ。

スカーレットには、いいところもいくつかある。
バイタリティとか、現実志向とか、楽観主義とか。
まれに、目をみはるくらいに、はっと身につまされるような深い洞察力もある。
彼女はその場その場でエネルギーをとにかく消費するので疲れるのだろう。
戦中、戦後、再建時代を生き延び、ましてや前よりよくなろうという野心があるなら、
当然のことともいえる。
だから、いまでなくていいことは、後回しになってしまう。
面倒なことは、明日がきたら考えよう。それでずうっと、
たいせつなことまでが後回しになってしまったのだ。

スカーレットと対照的に描かれるのが、義妹でありアシュレの妻であるメラニーである。
作中人物ではナンバーワンの審美眼を持つ(と思う)バトラーが、唯一みとめた貴婦人。
メラニーは、あまりにもいい人すぎて、最初は胡散臭かったのだが、
物語を追っていくうちに、あまりのその邪気のなさ、純真さにうたれる。
スカーレットがメラニーに対して悪意を抱くのは、
その純真さに惹かれてしまいそうになるのがこわいからだと思う。
いつだって攻撃心は恐怖からくるのだ。
つい、意地悪をしてみたくなるタイプなのかもしれない。
でも、じつはみんながその子のことを好きだという・・・・・・。
波乱万丈なストーリー展開のなかで、メラニーの存在は読者を安堵させる。
メラニーはやさしいけど臆病ではない。純真だけど馬鹿ではない。
ほんとうの強さと賢さを、その場に合わせて、出せる力を持っている人だ。
謙虚にふるまっているけど、存在感のある人。
こんな人に敵うわけがない。スカーレットも心の奥では知っているのだろう。
流行遅れのドレスを着古していたとしても、心はいつもピカピカなのだ。
貶められようとするたびに、自分の真価を上げていってしまう人なのだ。
おそらくメラニーは理想郷のシンボルマークとして描かれているのだろうが、
時代が混乱していればいるほど、こういう人の存在はたいせつで、
男も女もみんな、メラニーみたいな人のために頑張っていくのだと思う。
何もかもをすっぽりと包んでくれる、癒してくれる、あったかい存在のために、
人は頑張れるのだと思う。

スカーレットはバトラーと結婚するまでに、2度の結婚と死別を経験している。
しかしどちらもほんとうに好きな相手ではなかったので、
死別という事実は、彼女にはいっこうにこたえなかったようである。
そして3度目の結婚(が、破綻しそうな間際)で、ようやく大事なことに気づく。
読者は、狂言のような彼女の自己中心的なふるまいとその結果について読んでいくうち、
友情とか結婚とか家族、その他生きていくうえで起きる色々なことに考えを深めていく。
「風と共に去りぬ」は、アメリカの激動の時代を描いた歴史小説であると共に、
最もおもしろい結婚小説のうちのひとつではないだろうか。

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紙の本風と共に去りぬ 改版 4

2012/04/24 23:50

過去を彷徨う王子。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この小説はすごい。巻を追うごとにおもしろさが増していく。
エンタメの王道である。
4巻では、実妹スエレンの婚約者に言い寄り(しかもお金のために!)、
みごとに妻の座に座ってしまったスカーレットの、
肝っ玉妻ぶり(あくまでも妻だ。子どもはいるが肝っ玉母さんでは断じてない)に、
目を見張らされる。
気の弱い夫・フランクをしり目に、ばんばん事業を拡大していき、
利益をあげることだけに全力を注いでいく。

最初の結婚のときも思ったのだが、子どもに対する愛情はほとんど描写されない。
子どものことを夫よりは大切にしているらしきことぐらいしか伝わってこない。
子育ては女性にとって結婚に次ぐ一大トピックであり、
子を持つ親なら無関心ではいられないと思うのだが、
スカーレットはどこか他人事のようなのだ。
やはり、いまもアシュレへの思いが断ち切れないからだろうか。

アシュレという男はまったく不可解である。
なにかを胸に秘めているのだろうが、それは現実には役に立たないことばかりだ。
戦後の焼け野原のなかで逞しく根を張ろうとしている人たちと対極にある。
理論よりも、実際に畑にまいたひと粒の種のほうがはるかに価値があるのに、
プライドにしがみつき、がむしゃらになれない。
しかしこの弱さも、誰もが持っているものかもしれない。
弱さに引きずられずに、地に足をつけて、頭だけでなく体も動かせる人たちを見ながら、彼もずいぶんと歯がゆい思いをしてきただろう。
衣食住に困ったことなどなかったアシュレが、南北戦争の嵐に巻き込まれ、
わけもわからず兵役をつとめ、帰還してみれば生まれ育った地はまるで変っている。
やりきれなかったに違いない。
詩と音楽と文学の話だけしていればよかった彼が、人殺しの手伝いをさせられる。
アシュレは自己崩壊を経て、生まれ変わることができなかったのだ。
戦争という禍に、魂をうばわれてしまった。彼の肉体だけが生き延びてしまったのだ。
彼の魂は、戦争など遠いむこうにあった時へと戻り、いまも彷徨いつづけているのだ。
体ごと、命を散らした人もたくさんいて、生き残った人は必死でリセットを始める中で、
アシュレのように生ける屍と化してしまった若い魂がたくさんあったかもしれない。
実際にかぞえられる遺体のうえに、さらにもっと多くの死があり、さらに魂の死がある。
それを考え合わせると、ほんとうに戦争というのはどれだけの犠牲を出すものなのだろう。

アシュレもスカーレットも、戦争の前は、タラの地でおなじ風景を見ながら
のどかに会話をしていたというのに、完全に違う道を歩むことになった。
しかし、時を経て状況が変わってもなお、
スカーレットは幼馴染みに対する恋慕をひそかに持ち続ける。
彼女はアシュレを永遠の貴公子かなにかのように崇めており、
しかも自分の都合のいいように妄想をふくらませて、
〈アシュレがほんとうに思っているのは、妻のメラニーではなく、この私〉
という考え方をかえようとしない。2児の子を持つ母親だというのに。
はたしてアシュレはどう思っているのだろう。
彼の目には、現在のスカーレットがきちんと映っているかもあやしい。
魂が昔にとんだままなら、スカーレットの記憶も過去のものしかないのではないか。

南北戦争という名の戦いは、南部の敗北で幕を閉じたが、
再建時代というもっとも過酷な戦いは、まだまだつづいていく。
綿花の栽培で潤っていた南部の畑は戦火で焼かれ、労働力も取り上げられた。
のちに黒人参政権へとつながる奴隷解放運動が実施されたためである。
しかし解放運動はきれいごとだけでは済まされなかった。
解放された奴隷たちの中には、職を見つけられず不満を募らせる者もいた。
時には北部の心ない指揮にしたがい、南部で暴れる奴隷たちもいた。
強盗やレイプなど、南部人の被害はあとを絶たなかったのだ。
そんな中、敵討ちの隠密同心とでもいうべきか、KKKは結成されたのである。
(結成当時は、現在の活動とは一線を画している)
メンバーのリストには、スカーレットの夫であるフランクの名が載っていた。
彼女の周辺にはまた嵐が吹き荒れることになる・・・・・・。

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紙の本ロミオとジューリエット

2012/04/17 16:50

うつくしい訳文は、物語のロマンチックさを盛り上げる。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

さすが岩波文庫。ジュリエットではなく、ジューリエットときた!(笑)
まぁそれはともかく、とてもいい訳文だと思う。
「ロミオとジュリエット」は、悲恋物語としてあまりにも有名だけれど、
じつは裏テーマとして、思春期の性へのめざめが書かれている。
14歳の若きジュリエットが、少女から女性へと変化していくようすである。
これを反映しているためか、文中に性的なことを示唆する表現が何度か登場する。
この岩波文庫版では、雰囲気をこわさずに、そのあたりの表現が柔らかくなっている。
中学生にも安心しておすすめできる版である。

表紙には「『ウエストサイド物語』は、構想をこの作品から得ている」とあるが、
ミュージカルにはまるで無頓着だったので知らなかった。で、観てみた。
たしかに、「ロミオ~」は、5日間のみじかい悲恋のお話だが、
「ウエスト~」は、さらに期間が限定され、2日間の悲恋。
そして「ロミオ~」でのバルコニーのシーンは、「ウエスト~」では非常階段に。
憎み合うコミュニティにそれぞれ属するふたりが恋に落ちるところも、
伝言がうまく伝わらずに、ふたりが行き違ってしまうところも一緒である。
決定的に違うのは、ラストシーンだろう。
中世イタリアに生きるロミオとジュリエットは自ら命を絶つしかなかったが、
現代アメリカに生きるトニーとマリアは、自殺という道をえらぶことはなかった。

ロミオはラストシーンを迎える前にも、自殺を試みようとするが修道士に止められる。
148ページには、修道士の、場面に即した対応が描かれる。まとめると、
1 修道士はまず、ロミオの死ぬという選択に反対する。
2 そしてロミオの衝動的な選択ではなく、人生そのものを肯定する。
3 最後に解決策を導く。
解決策がほんとうに有効であったかどうかは別としても、
修道士は自分の機知を総動員して、ロミオの死を全力で止めているのである。
シェイクスピアの普遍性ということについていまさら言うまでもないが、
現代まで生き残り、読まれる価値を持つ作品群なのだと改めて思う。
死ということをうつくしく描き、生をクローズアップさせる。

わたしがこの本を読んではっとしたのは前口上である。
いちばん最初に、ラストまでのいわゆるネタばれをしてしまうという太っ腹加減。
互いに憎み合う良家に生まれたロミオとジュリエットは、悲恋の末に命を落とすが
その一部始終を2時間でご覧にいれましょう、というわけである。
出し惜しみなし。ものすごい自信。そして実際に惹き込んでいくのだから、おどろく。

バルコニーでジュリエットが口にする。
「おおロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの」
このセリフに、いったいどれだけの人たちが胸を焦がしてきたのだろう。
「ロミオとジュリエット」は、ひとつの恋愛のパターンをつくったのではないか。
(ちなみにシェイクスピアはギリシャ神話から構想を得たらしい)

それにしても、バルコニー!!
このバルコニーから思いを巡らすというのがこころ憎い演出である。
地上からバルコニーまでの距離はそのままロミオとジュリエットの距離ともいえる。
ロミオが窓を見上げ、バルコニーからジュリエットが見下ろすという描き方は
とても立体的で、距離感がよく出ている。
バレエの「ロミオとジュリエット」も、舞台を二階建てにして階段を利用し、
舞踊効果をうまく演出している。
髪をなびかせながら駆け下り、ロミオのもとへ飛び込むジュリエットの恋する姿は、
これ(階段)以外の舞台装置では考えられない。階段というアイテムの威力!!
シェイクスピアがもしも戯曲ではなく小説を書いていたら、
「ロミオとジュリエット」にバルコニーは登場しただろうか。

ふたりが死ぬからうつくしいのか、うつくしいから死ぬしかないのか・・・・・・。
この物語のキモは、やはりジュリエットが薬をのむシーンだろう。
そしてその時期が早すぎても遅すぎてもだめなのだ。
ロミオのためのジュリエットでしかないその時に、薬をのむからこそ、感動がある。
ジュリエットは、永遠にロミオのためのジュリエットであり続けるのだ。

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紙の本妖精学入門

2012/04/11 15:58

妖精の不思議な魅力にはまる、第一歩。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

山岸涼子の「妖精王」を読んで、妖精に興味を持ったので読んでみた。
井村君江という名は、イェイツの訳書などできいたことがあった。
おそらくケルトの神話や妖精の研究を、日本で最初に始めた人ではないだろうか。
アーサー王伝説などの騎士物語やシェイクスピアにもかなり通じている人で、
多方面からの妖精の分析は、興味と味わい、ともに深い。

「ピーターパン」のウェンデイ、「夏の夜の夢」のパックなどをはじめとして、
小説や演劇、オペラやバレエ、絵画や音楽など、あらゆる分野に妖精は存在している。
ケルトの神々は、新たな神の出現によって勢いをなくしてしまったが、
妖精たちはまだまだ現在にしっかりと息づいているのである。

本書では、なぜ妖精というものが生み出されたのかを、人間の心理に照らして探り、
ケルト神話からの妖精の起源を辿り、分類、分析していく。
入門とうたっているだけあって、広大な妖精の世界への入り口として最適で、
要所要所のエッセンスをおさえてあり、全体像をざっくりと掴めるようにできている。
そびえ立つ高い山を、一歩一歩登っていくのではなく、まずはリフトに乗って
ある程度の高さまで行き、ざっと景色をのぞむという感じだろうか。

先に触れたシェイクスピアは、じつは現代の妖精のイメージをつくりあげた人だった。
本書の妖精小辞典をみてみるとわかるのだが、
妖精ときくとなんだか可愛らしくて羽が生えてふわふわ飛んでいるイメージがあるが、
ケルト神話とともに語り伝えられてきた妖精は、意外にも容姿がみにくかったり、
人を呪ったり食べたりと、血なまぐさい匂いにあふれている。
妖精というより、化け物、怪物といったほうが喚起するイメージに近い。
では、いつから妖精があの小さくてふわふわしたイメージになったのか。
それはシェイクスピアの戯曲に妖精が書かれてからだとか。
シェイクスピアは民間伝承の妖精やギリシャ・ローマ神話の精霊たちを
素材を生かしながらも料理の腕をふるい、ひとつの皿の上に盛ってみせたのだ。
かれの作り出した作中の妖精たちは、古くからの伝説や神話の要素を持っているが、
シェイクスピア独自の斬新なスタイルという味つけで、ファンに愛されてきたらしいのだ。
いまふうにいえば、シェイクスピアに登場した妖精たちはファッションリーダー的な存在。
そのかわいらしいスタイルが時代のアイコンになって、人々の心に深く残り、
現在も支持されているって、すごいことじゃないだろうか。
妖怪ときくとなんだかゾッとするが、妖精ときくと愛らしい。
この淵源がシェイクスピアにあったとは。

意外なエピソードはまだたくさんあり、あのホームズシリーズのドイルが、
妖精についての研究した文章を書いていた話や、妖精ときのこをめぐる話など、
興味は尽きない。
これを読んだわたしは、井村君江著の「ケルトの神話」を買ってしまった。
おそらくおなじ著者の「アーサー王ロマンス」にも手をのばすだろう。

その気になれば、妖精は書物や舞台のなかだけではなく、現実世界にもみえるだろう。
なんだか森に出かけたくなった。

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紙の本クルミわりとネズミの王さま

2012/04/09 16:33

奥深い世界がひろがる、大人もたのしめるおとぎ話。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

クリスマス上演率ナンバーワンのバレエ「くるみ割り人形」の原作。
ホフマンは幻想小説を得意とする書き手らしく、
童話にも不気味さや恐怖のスパイスを忘れていない。
といっても、正義が勝つお話だし、なんといってもストーリーテリング。
惹き込まれて読んだ後には、ああおもしろかった!という本なのだ。

ネズミの王さまには頭が七つもあったり、川にアーモンドミルクが流れていたり、
大きな広場で世界各国の人々がイベントを繰り広げる壮大な描写があったり、
ただくるみ割りの人形が動くだけのおとぎ話ではなく、
そこには神話の世界が息づいていたり、スペクタクルがひろがっていたりする。

物語中でいちばんわくわくするのは、くるみ割り人形にかけられた呪いの理由である。
理由というものは、それらしくないと本当にがっかりさせられるものだが、
こんなに魅力的に理由が展開されていくと、つづきが気になって仕方がなくなる。
そして物語の華、お菓子の国。ここの描写は、読む者をうっとりとさせる。
読者はとっぷりとお話の世界へ浸ってしまうのである。

キーマンであるドロッセルマイアーの奇妙さは、時にぞくぞくするほどこわい。
ドロッセルマイアーの得体の知れなさと共に、
このお話には時おり現実が混ぜられていて、それがファンタジーに異彩を放つ。
夢のような物語の途中で、寝室の時計が鳴り響く音や、マリーの熱病。
どこからが現実なのかが曖昧で、それがたぶん、いちばんこわいのだろう。

バレエの「くるみ割り人形」には、大きく分けてふた通りの演出がある。
少女がくるみ割り人形の王子とお菓子の国を訪れ、そこで踊りを観るパターンと、
大人になったマリーが、少女のころの記憶をクリスマスイブの夢で辿るパターン。
わたしは夢を辿るバージョンしか観ていないが、
リアルタイムの少女のバージョンでは、少女を子役が演じるらしいので、
おとぎ話らしさにあふれていそうで、そちらもまた興味深いものがある。

ちなみにバレエ「コッペリア」も、ホフマンの原作をもとに書かれた作品であるが、
かわいらしい中にも不気味さが光る。「くるみ割り人形」よりもずっとこわいと思う。
そして「コッペリア」もまた、人形をめぐるお話なのであった。

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紙の本スピカ 羽海野チカ初期短編集

2012/04/02 16:54

白く光る星スピカは、白い衣装で踊るバレリーナのイメージ。

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羽海野チカの初期短篇集。
「ハチミツ」と「ライオン」(7巻よかった!泣)でおなじみの彼女だけれど、
これを読むと、色々と方向性への旅をつづけてきたんだなぁと感じる。

バレエの好きなわたしは、表題作の「スピカ」がいちばん好きだが、
つづく「みどりの仔犬」と「花のゆりかご」もすてきな作品。
やさしい気持ちになれそうな、とてもなごむストーリーだ。

「スピカ」の美園優香は、「ライオン」のひなちゃんの前身ぽいと、作者。
たしかに。ひなちゃんが高校生になるとこんな感じかもしれない。
あのまっすぐな感じ。協調性を持ちながらも、きちんと自分を持っているところが。

本の内容そのものもよかったのだけれど、いちばん買ってよかったと思う点は、
この本を買うだけで、東日本大震災の被災地を少しだけ応援できること。
作者が、被災地と購入者をつないでくれている気がする。
「この単行本の印税は全て東日本大震災により被災された方々と、
被災地のためへの義援金とさせていただきます。
一日も早い復興を心より祈っております」(帯にある作者の言葉より)

タイトルとおなじ名前を持つ、おとめ座の一等星、スピカ。
パリ・オペラ座バレエ団では、プリマバレリーナをエトワールと呼ぶ。
フランス語で、星という意味を持つが(ドガの絵も有名)、かけているのだろう。
白っぽく光るスピカを率いるおとめ座は春の夜空に浮かぶ星座である。

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紙の本オネーギン 改版

2012/04/02 16:49

可憐なタチヤーナをバレリーナがどう演じるのか、観てみたい。

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わたしはこの本の存在さえ知らなかった。
三浦雅士の「バレエ名作ガイド」を読んで
プーシキンの「オネーギン」がバレエになっていることを知り、
そのあらすじと解説を読んで、なんだか気になり、手に取った次第。
バレエのほうは残念ながら映像化されていないようで観ていない。

「アンナ・カレーニナ」にはなれなかったタチヤーナが、いいと思った。
でも、我慢しているふうにみせなければ、もっとよかったと思う。
決定的すぎるわりには、まるで意味のない一言。言ってはいけなかった。
あの一言がなければ、タチヤーナがもっと凛として輝いていられるのに。
そこだけが残念。オネーギンにはもっと挫折感を味わわせなければ!!

この文庫には「オネーギン」本文のほかに、訳者のあとがきとエッセイが付いている。
プーシキンのほかの短い作品を入れるわけにはいかなかったのだろうか。
ちょうどよいページ数のものが見つからなかったのか、といぶかしげに読んだが、
これがけっこう興味深いものがあった。

エッセイは2篇も付いていて(びっくり!!)
翻訳についてと、無冠のプーシキン研究者についての文章だった。
プーシキン研究者について書かれたものがとくに印象深かった。
鳴海完造という人は、筋金入りのプーシキン研究者で、蒐集家でもあった。
蔵書はプーシキンに関するものだけで千冊にもおよび、その他ロシア文学が三千冊!!
マニアもここまでくれば立派なものである。
しかもお金に不自由しなかったわけではなくむしろ貧乏な勤め人だったらしいのだ。
なんとかやりくりしながら、モスクワまで本を買い求めに行った経験も持つ。
鳴海の、プーシキンが好きで好きでたまらず、こつこつと本を集めていく姿に、
単なるマニアを超えるパッションを感じる。
そして「オネーギン」の訳者である池田健太郎の感想。
「足らぬがちの生活の中を、気兼ねしいしい、やむにやまれず買う、
 それを蔵書の心とよびたい」
この言葉が、もしかすると小説本文よりも胸にささったかもしれない。
それにしても、鳴海完造の奥さんも大変だっただろうなと苦労がしのばれる。

プーシキンは、「スペードの女王」のタイトルだけは知っていた。
今回「オネーギン」を読んで、ほかの作品も読んでみようかなという気になった。
たぶん「バレエ名作ガイド」で「オネーギン」の存在を知るきっかけがなければ、
プーシキンという作家の本を手にとることもなかっただろうし、
四千冊ものロシア文学のコレクターのことを知ることもなかっただろう。

不案内の世界を覗くことができた読書だった。近づくきっかけというのを、大切にしたい。

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紙の本風と共に去りぬ 改版 3

2012/03/24 16:44

ハングリーはアングリー。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

母は死に、父は廃人同様になってしまい、すっかり変わり果てたタラの土地。
それでもここで生きていかねばならない!!!と決意をかためたスカーレット。
たくましく荒れた畑を耕し、かよわい白い手をまめだらけに働く彼女は、
男気さえ感じさせ、頼りがいもあって、感心する。
あいかわらず、自分が一番!!というところもあるのだが、
父に妹たち、そして義妹と忠実な召使いまでも養おうと決意するのはけなげである。
そして義妹のメラニー。彼女は1巻から天使ぶりを発揮してはいたが、
それが天然なのかつくられたものなのか、ちょっとすぐには見抜けなかった。
しかしこの3巻のある事件をきっかけに、天使なばかりではなく、
ほんとうの勇気をも持っている、心底やさしい女であることがわかった。
メラニーとスカーレットは、性格がまるで逆なのだけれども、
全体のバランスをみると、釣り合いが取れているようなので、
強いむすびつきができれば、とてもわかりあえるふたりなのだと思う。
というか、わかりあってうまくやりきっていってほしい。

敗戦の色が日に日に濃さを増してきて、ついには南軍の完全な敗北が確定され、
なにもかもが混沌として無力なようすが細かく描き込まれる。
敵は、畑を焼き家を焼き家畜を焼き、金目になるものはすべて取り上げていった。
山は焼け焦げてはげ山になり、川は真っ赤な血の色に染まる。
とくに負ける直前の、北軍のふるまいは信じがたいほど野蛮で、
こういうことが実際に何度も場所をかえ人種をかえて行われてきたのだな、と
しんみりした気持ちになった。
考えもつかないほどの莫大な、人間の精神と体力の無駄づかいが延々とつづくのだ。
戦争のない時代に生まれてきてよかった。
いまの、とりあえずは国の命令で殺し合いをしなくてすむ日本の治安のうえには
どれだけ多くの犠牲者がいたのだろう。
そんな思いをめぐらすことができただけでも、この本には価値がある。

戦争が終わって、北軍の侵攻にようやくおびやかされなくなったスカーレットは
妹たちを連れて、むかしなじみだった近所の人たちを訪ねてまわる。
さいごに訪ねたタールトン家では、4人の息子がつぎつぎと戦死し、家は焼かれ、
知り合いの北部人の家に身を寄せる、タールトン夫妻と娘たちの姿があった。
皆で家の近くの墓地へお参りするシーンで、タールトン夫人は、
「先週、建てたのよ」と、あたらしい大理石の墓石を前に誇らしげだ。
しんみりとセンチメンタルな空気がながれる中で、
スカーレットただひとりが、きわめて現実的な思考をめぐらせる。
墓石!おそろしく高価なものに違いない!
食べものが高騰して入手もむずかしいのに、こんなものにお金をかけるなんて、
この人たちはなんてばかなんだろう!贅沢な人たちは同情に値しない!!
スカーレットは戦死という事実の哀しみよりも、墓石の値段に反応する。
馬車なしで徒歩で移動する毎日、彼女の可愛らしい靴には穴があいた。
ダンスやピアノを弾くためだけにあった白い手は、
くわやすきをふるうために豆だらけになった。
ショックからすばやく立ち直ったスカーレットはたしかに、逞しい。
しかし、戦争という悪魔は、スカーレットの魂からなにかを抜いてしまった。

メラニーの夫であるアシュレと、駆け落ちしようと考えたり、
アトランタの監獄までバトラー(逮捕されてしまったのだ!)に会いに行き、
財産狙いでプロポーズさせようとしたり。
そこまでやるのか!という感じで、とにかくタラという土地に執着する。
吊り上げられてしまった破格の税金をなんとか払い、タラに住みつづけることだけが、
スカーレットの生きるすべてになってしまったのだ。
アイルランドからやってきた開拓民である父の血はしっかりと受け継がれていたのだ。

知り合いの結婚式に参加しても、スカーレットは、いらいらのしどおしだった。
着るものや食べるものが粗末になっても、上流階級の彼らは動じないからだ。
かつては一緒にパーティーでたのしく過ごした仲間たち。
彼らは、大きな無力感を抱えながらも、笑顔と人への気遣いを忘れずにふるまう。
まるで仮面のように張り付いた、その変わらない優雅さが、
スカーレットにはもう理解できなくなっていた。かつては自分も笑っていたのに。
そして、なにかが変わってしまった自分と彼らの境界をはっきりと感じてしまう。
あたしはあきらめないわ!気持ちだけの貴婦人なんて、ごめんだわ!
絶対に、またほんとうの貴婦人に戻ってみせる!!!
ハングリーはアングリーだ。
スカーレットは目にみえるものしか信じられなかったのだ。信じられなくなったのだ。
タラという土地のために、今後さらに、金の亡者ぶりを発揮していくことになる。

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紙の本椿姫

2012/03/21 20:30

心の奥深くに届く、極上の恋愛小説。

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先日ノイマイヤーが振り付けしたバレエ「椿姫」を観て、
その奥の深さにおどろき、原作を読んでみたのだが、
胸をしめつけられるような、せつない話だった。
「椿姫」には、ただの恋愛のいたみだけではない、せつなさがある。
家族、友情、そして献身について、考えさせられてしまうのである。

作中には、愛とか愛していますとか愛し合うという言葉が頻発する。
あんまりにも容易にそれらをつかいすぎなんじゃないか、と思うほど。
しかし、後半に入ってくると、
読者は、これらを多用した効果を感じないではいられないし、
その言葉の意味をじっくりと考えずにいられないだろう。

高級娼婦であるマルグリットと平凡な青年アルマンとの恋なんて、
まったくの別世界のできごとで感情移入などできないと思っていたが、
マルグリットの心境が変化していく後半から、なんともせつなくて
ためいきをついたり、目がうるんできてしまったり。
完全にこの19世紀のパリの街に住むふたりの世界へ連れて行かれた。

332ページ。『あたしたちはこうして静かに暮らし、これからもっと
静かに暮らしていこうとしているだけなのに』という淡々とした表現の中に
マルグリットの切実な願いが込められていて、ぐっときてしまう。
そして、ふたりのいきいきとした日々に、マルグリットはピリオドを打つ。
401ページのアルマンのみじかい手紙には、泣かされてしまった。
これを読んだマルグリットは、いったいどんな気持ちがしたのだろう。
哀しみという感情で自分自身が張り裂けそうになったことだろう。
涙も出ないくらいのショックと虚無感にうち砕かれたと思う。
アルマンも、彼女へのいとしさが本気だからこそのことだろう。
ふたりの気持ちが、それぞれ浮き上がってくるから、つらい。

クライマックスでは、マルグリットの手紙の中で、
彼女がなぜアルマンとの別れをえらんだのかが明かされる。
これを読んだアルマンは、おそらく前出のマルグリット以上に、
うちのめされることだろう。
だって、もうマルグリットとは二度と会えなくなってしまったのだから。
彼女はほんとうの意味で姿を消すまで、別れの理由を伝えなかった。

この話には、揺れ動く政治情勢や民衆のようすなどはまったく書かれていない。
ただひとりの青年の追憶、しかも、ある女性のことをどれだけ好きだったかが
綿々と綴られる。この時代の激動を考えれば、能天気な小説といえるかもしれない。
それなのに、読んだ後のこの重厚さはなんだろう。
アルマンはマルグリットの美貌に惹かれていったが、彼のその誠実な好意によって
彼女の持つ本質的な気高さが引き出されていった。
人としての誇りをみつめ、掘り下げていく、極上の恋愛小説。
もっともっと、読まれていっていいのではないだろうか。

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紙の本舞姫 改版

2012/03/19 16:35

虚無感に酔いそう。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

戦後のバレリーナの母娘の話ということで読んでみたが、
ひとつの家庭が崩壊してゆく不気味な物語だった。
読後感はあまりよくなかった。
川端康成の作品はこれまでもそう感じたものが多かった。
ただ、重苦しい物語なのに最後まで読ませる力はあると思う。

風景などの描写に、はっとする美しさが散りばめられているが、
わたしの最大の関心は、
踊り子マニア(!)の川端がバレエをどう描くか、についてだった。
専門用語や、ときの著名なダンサーの実名なども出てきて、
丹念にしらべた形跡は見受けられるのだが、
踊りそのものの描写には、心を揺さぶられるものがなかった。
それは、肝心のバレリーナ母娘たち本人が
踊る姿が描かれていないだからだ。
バレエのシーンは、娘がちょこっと練習しているところか、
劇場で観ている場面だけなのだ。
劇場で展開されるバレエシーンは、モダンな振り付けの日本のストーリー(!)で、
それはそれで斬新ではあったが、感動は伝わってこない。

作者が狙っているのは敗戦後の無力感ということらしいので、
わざとこの母娘を情熱的に描かなかったのかもしれない。
母親の波子も娘の品子も、まるで「細雪」の四姉妹のようにゆったりしている。
しかし、「細雪」のように、ヒロインたちに華やかさは備わっていない。
まるで能面をつけた人形のようで、生命力はあまり感じられない。
彼女たちの家には、とんでもないモンスター・矢木が住んでいる。
矢木の部屋にある掛け軸には『仏界は入り易く、魔界は入り難し』と書かれている。
一休のことばらしいのだが、矢木の部屋にそのことばは溶け込んでいて、
その存在が、なにかが崩れていくようなこわさをよく表している。
品子は『魔界というのは、強い意志で生きる世界なんでしょう?』と尋ねるが、
のんびりとした品子にこの言葉を言わせるのでは、説得力はない。
(品子はバレエに情熱を注いでいるようには見えない)
魔界とはもしかしたら、人が一心にかたむける世界を指すのだろうか。
そのすべてを虜にしてしまうような世界のことを。
作中でもいちばんの無気力人間である矢木は、
波子たちが浸るバレエの世界を、魔界とみなしていたのだろうか。

それにしても、ダンスという情熱的なアイテムをつかいながらも、
これだけ無力感の漂う世界を描けるというのは、すごいことなのかもしれない。
ダンスどころか、戦争という一大事も、この物語のなかでは
虚無感を語るための道具でしかない。
砂でつくった城がさらさらと壊れていくような、しずけさがひろがる。
ラストシーンでは、崩壊のあとに、新しくはじまるものの予感があるが、
読み終わって本を閉じると、薄いもやに包まれたようで、
さいごまでこの母娘の目が捉えていたものを見ることはできなかった。

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