サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. 峰形 五介さんのレビュー一覧

峰形 五介さんのレビュー一覧

投稿者:峰形 五介

69 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本WATCHMEN

2009/03/09 23:06

「35分前に実行したよ」

15人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 物語の舞台は1985年のアメリカ。ただし、我々が知ってる1985年ではないし、我々が知ってるアメリカでもない。
 そこはニクソンが十年以上も大統領を続けているアメリカ。
 そこはウォーターゲート事件が発覚しなかったアメリカ。
 そこはベトナム戦争に勝利したアメリカ。
 そして、派手なコスチュームをまとったスーパーヒーローが実在するアメリカ。
 フランク・ミラーの名作『バットマン:ダークナイトリターンズ』と同様に『WATCHMEN』の世界でもヒーローたちの自警行為は法で禁じられ、ごく少数のヒーローだけが政府の工作員として(時には兵器そのものとして)活動している。
 ある夜、そんなヒーロー/工作員の一人が殺害される。アメリカの敵対国が刺客を放ったのか? ヒーローに恨みを持つヴィランが復讐を果たしたのか? それとも……?

 スーパーヒーローの物語を描く際にリアリティを重視するのは危険だ。リアルに描けば描くほど、スーパーヒーローという存在の滑稽さが際立ってしまうのだから。下手をすると、ギャグにしか見えなくなる。しかも、笑えないギャグだ。
 この『WATCHMEN』がお寒いギャグマンガにならなかったのは、登場するヒーローたちが己の滑稽さを自覚しているからだろう。滑稽さだけではなく、非力さも自覚している。悪事を働くヴィランたち(彼らもコスチュームをまとっている)を退治したところで、この世界に迫る本当の危機を打破できるわけではないのだ。
 それでもヒーローたちはコスチュームをまとわずにはいられない。滑稽で非力な道化役を演じずにはいられない。なぜなら、ヒーローだから。

 物語の終盤、コスチューム姿のヒーローたちがある場所に集結する(ドクター・マンハッタンだけはコスチュームを着ていない。全裸がデフォルトなので)。黒幕までもが必要もないのにコスチュームを身に着けている。しかし、そこで繰り広げられるのはコスチュームヒーローの物語に相応しい勧善懲悪の大団円ではない。かといって、巨大な悪の前に善が膝を屈するわけでもない。もっと残酷で幸福で邪悪な結末が待っているのだ。
 ヒーローとして生きることしかできない者にとって、アラン・ムーアが描く世界は悪夢だろう。悪と戦って華々しく散ることさえ許されないのだから。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ケッ! おれは第二部至上主義者だよ。第四部のノベライズなんて女子供の読む物はチャンチャラおかしくて……ンまぁ~~~い!

16人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

荒木飛呂彦と乙一の才能を疑う者はいないだろう(作風に対する好悪は別として)。しかし、両者の親和性については首をかしげる者が多いのではないか? 今は昔、「やってみたら美味しかった。和食の後のコーヒー」なんてCMのコピーがあったが……うまいわけねえだろ、ジョーシキテキに考えて!
まあ、これがメディアミックの一環であり、荒木と乙一が同じ素材を個別に料理するのであれば、親和性など気にかけなくてもいい。むしろ、二人の差異を比較して楽しむべきだ。しかし、本書はあくまでも『ジョジョの奇妙な冒険』のノベライズなのである。まず原作ありきなのである。荒木飛呂彦は動かないのである。その不動の荒木山脈に乙一が登頂を試みるのである。無謀である。無茶である。自殺行為である。凡百の作家ならば八合目あたりで満足して引き返すはずである。
ところが、乙一は見事に登りきった。しかも、山を穢さなかった。自分の持ち味を出しながらも、原作には傷一つ付けなったのだ。
そう、本書は紛れもなく乙一の小説だが、同時に『ジョジョの奇妙な冒険』の小説でもある。読んでいる時に何度か「ゴゴゴゴゴ……」という擬音が見えたし、終盤の「億泰VSある人物」のバトルに至っては荒木の絵が見えた(いずれ本書の一シーンを荒木の絵柄で再現したパロディコミックが「朝目新聞」等のサイトで紹介されるに違いない)。また、原作の愛読者たちをニヤリとさせる「くすぐり」や楽屋オチも山ほど詰まっている。
それだけではない。本書は、ボルヘスの諸作と同じ匂いを持つ良質なメタフィクションでもある。断言しよう。『ジョジョの奇妙な冒険』を知らなくても……いや、漫画そのものに興味がなくても、本書を読めば心を打たれるはずだ。「物語」というものに重きを置く人間であれば。



大袈裟かもしれないが、本書は奇跡のような作品である。しかし、人間というのは欲深いもので、たった一度の奇跡では満足しない。二度、三度と求めてしまう。
というわけですから、集英社さん。次は「乙一による四部以外のストーリーのノベライズ」とか「荒木飛呂彦による乙一の短編のコミカライズ」なんか、どーですか?

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本未来医師

2010/07/29 01:38

医者はどこだ?

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 山本弘だったか誰だったかが「P・K・ディックは過大評価されすぎ」というようなことを言っていたが、本当に過大評価されているのだろうか?
 P・K・ディックのファンの多くはディックのことを超一流の天才作家などと思っていないし、『サップ・ガン』だの『死の迷路』だのといった作品について(個人的には好きだとしても)「これはSF史に残る名作だ!」なんて主張することもないし、でたらめなプロットや陳腐なガジェットに小難しい理屈をつけて美化することもないし、晩年の薄っぺらい神秘体験を真に受けて感化されることもない(よね?)。ダメなところはダメだと認めた上でディックの作品を愛しているのだ。
 そういうわけだから、本書の裏表紙に記された「時間SFの秀作、本邦初訳!」という一文に期待を膨らませることもないだろう。「秀作」と呼ぶに相応しい作品なら、とっくの昔に翻訳されているはずだ。
 で、いざ読んでみると……確かに秀作でも傑作でも名作でもないのだが、思っていたほど悪くはない。いや、ディックらしくないと言うべきか。
「医療が違法行為とされている悪夢のような世界に医師が迷い込む」というプロットはディックらしいと言えるし、そのプロットが練りこまれることなく、中盤から別の話に変わってしまうといういいかげんなところもディックらしい。しかし、その中盤からの「別の話」がディックらしくない。なんと、まっとうなタイムトラベル小説なのだ。
 どれくらい「まっとう」かというと――

「ロバート・A・ハインライン『夏への扉』のように、理論の辻褄がきちんと合っているのだ」

 ――と、巻末の解説に書かれてしまうほど。
 そう、この小説は辻褄が合っている。主人公がタイムトラベルを何度も繰り返すことによって状況は混沌としていくが、最終的には全ての謎が解き明かされ、パズルのピースがきちんと収まり、複雑にもつれていた糸が解け、物語は破綻することなく大団円を迎えるのである。
 ディックの小説なのに(しかも、たいした思い入れもなく、適当に書き散らしたであろう小説なのに)破綻がないなんて……人によってはがっかりするかもしれない。
 でも、たまにはこういうのも良いよね。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本血で描く

2012/05/17 21:26

極度に退化したバードウォッチャーは鳥と区別がつかない

13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

しかしながら、私も私で自分のトークへの対し方を、間違ってい
るとは思わない。主体を自分の内部に置くか、観客に置くかは、
演芸の仕事に携わったことがあるかないかの違いだと思う。花見
客にとって、いきなり余興で談志が『芝浜』をやりだしたら、そ
れはそれで迷惑なことなのである。
                 (唐沢俊一の裏モノ日記より)



 唐沢俊一や岡田斗司夫に対して「オタクのくせにウスい! ヌルい!」と噛みつくオタクは少なくないが、そういう人も上に引用した文章を読めば納得するだろう。唐沢俊一はウスいのではなく、TPOというものを考えて喋っているのだ。空気が読めるオタクなのだ。
 だが、その納得は新たな疑問に繋がる。「では、唐沢はどこで『芝浜』を披露するのか?」という疑問だ(「談志の『芝浜』に相当するものが唐沢にあるのか?」という疑問にはあえて触れないでおこう)。
 たとえばテレビ番組などにゲストとして参加するのであれば、『芝浜』レベルのことをやる必要はないだろう。相手は不特定多数の視聴者だし、時間も限られているのだから。しかし、上の引用文での「トーク」というのはSF大会でのトークなのである。SF大会ならば、それなりに濃ゆい人が集まっていると思うのだが、唐沢はその客たちを「花見客」と見做したらしい。
 トークだけでなく、著書においても唐沢の姿勢は変わらない。たとえ、その著書が自身にとって初の長編小説でも……。

 本作は呪いの貸本漫画が巻き起こす恐怖を描いた怪奇小説である。貸本漫画というのは(本人の言を信じるなら)唐沢にとって得意分野のはずなのだが、貸本漫画に関するディープな知識などは作中に盛り込まれていない。もちろん、なんでもかんでも盛り込めばいいというものではないが、本作の場合は必要なものまでもが削ぎ落とされているような気がする。ぶっちゃけ、ディテールが粗いのだ。それに物語の整合性にも難がある。また、後半にはメタフィクショナルな仕掛けが施されているのだが、たいした効果は挙げていない(実験的な手法を得意とする弟に教えを請うたほうがよかったのでは?)。
 もしかしたら、それらの欠点は意図的なものなのかもしれない。古き良き時代の貸本漫画やB級ホラー映画のチープな雰囲気を再現したかったのかもしれない。だが、チープなものをチープなまま模倣するのは誰にでもできる。本作には貸本漫画等に対する愛が感じられなかったし、センスも感じられなかった。唐沢俊一(や、と学会の面々)が斬り捨ててきた作品群と同じように。
 非常に残念だ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本トラウマ映画館

2011/04/12 23:58

トラウマよ、トラウマよ!

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者には失礼な話だが、私にとって本書は『〈映画の見方〉がわかる本』の第三弾が出るまで(年内には刊行されるらしい)の繋ぎのようなものだった。
 で、軽い気持ちで読み始めて……打ちのめされた。キツい。これはキツい。かなりキツい。なにせ、本書で紹介されているのは、夢が破れ、絆が壊れ、良心が裏切られ、正義が踏みにじられ、愛が報われることもなければ、孤独が癒されることもなく、決して答えの出ない問題を突きつけて苦い後味だけを残す映画ばかりなのだから。
 幸か不幸か、私が見たことのある映画は一本もなかったので、「そういえば、こういう映画、あったよね」とか「この映画、子供の頃に見たことがあるような気がするな」というようなノスタルジックな気分に浸って逃避することもできなかった。
 そんな二十数本のトラウマ映画のなかで特に気になったのは以下の四本。


『悪い種子(たね)』
 罪悪感を抱くことなく殺人を犯していく八歳の少女(スチールに写っている顔がまた怖いんだ)を描いた作品。あまりにもショッキングな内容だったので、製作者は勧善懲悪な結末とカーテンコールを撮り足したという。しかし、凄惨な物語にお気楽なカーテンコールを付け加えたら、却って不気味な感じがするのでは?

『マンディンゴ』
 アメリカの奴隷制度の真実を描いた作品。「真実」であるが故に映画評論家たちから叩かれまくったらしいが、同じく映画評論家である著者は言う。
「『マンディンゴ』の物語は確かに差別的で笑ってしまうほど残虐で愚劣だが、それは実際に奴隷制度が差別的で笑ってしまうほど残虐で愚劣だからだ」

『眼には眼を』
 復讐する者と復讐される者との地獄の道行きを描いた作品。作品は当然として、母との確執についての著者の挿話も興味深い。ちなみに著者は本書を母に捧げている。

『愛すれど心さびしく』
 心優しき聾唖の男が寂しい人々の魂を癒して小さな幸せをもたらしていく様を描いた作品……ではなく、「共感を込めて描かれた登場人物すべての夢と希望が無残にも踏みにじられていく」(本文より)という残酷な作品である。しかし、ただ残酷なだけの映画ではないのだろう。『悪い種子』と『マンディンゴ』は日本でもDVD化されているが、本作は未DVD化(AmazonではVHS版に高値がついている)で原作も絶版。この原作も映画以上に残酷な物語であるらしい。


 これらのトラウマ映画を未見であることについて「幸か不幸か」と書いたが、「幸」だと言い切れる人――甘い感動だけを映画に求めている人には本書は必要ないだろう。もしかしたら、映画そのもの(だけでなく、物語というもの自体を)も必要としていないかもしれないが。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本拷問者の影 新装版

2008/05/22 21:34

新しい『新しい太陽の書』

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 早川書房創立六十周年記念リバイバルフェアなる企画で再版されてから五年も経っていないというのに、『新しい太陽の書』がリニューアルされた。リバイバルフェアの時にあわてて購入した私としては釈然としないものがある。しかし、未訳だった『新しい太陽のウールス(仮題)』も発売されると聞けば、新装版を買わずに済ますことはできない(なんだかハヤカワさんに踊らされているような気がするけども)。
 というわけで、新装版を買って読んでみたのだが……おもしろーい!
 正直、旧版を読んでいた時は「おもしろくないこともないけど、ちょっと疲れるなー」などと思っていた。世界観に圧倒されて筋を追うだけで精一杯だったからだ。しかし、今回は物語の全体像を把握した上で読んだので、余裕を持ってウールスという世界に挑むことができた。結果、初読時に見落としていた多くの伏線を見つけ、ジーン・ウルフの超絶な技巧(と、読み手としての自分のレベルの低さ)を思い知った。数年前のリバイバルフェアで『新しい太陽の書』に入門した新参者がこんなことを言うのは生意気かもしれないが、この新装版で初めて『新しい太陽の書』に触れる人に忠告しておこう。一回目で肌が合わなかったとしても、投げ出さないほうがいい。この物語は二回目からがおもしろい。もしかしたら、三回目はもっとおもしろいかもしれない。
 古参の読者にも報告しておくことがある。今回のリニューアルで変わったのは外側だけではない。そう、本文にも手が加えられているのだ。たとえば、「ウールス」や「高貴人」という言葉に付いていた注釈(それが原注なのか訳注なのかは判らない)がなくなっている。読み進めていくうちに意味は判るだろうから、わざわざ注釈を付けるのは野暮だと判断したのだろうか? それから、五章と六章におけるセヴェリアンの口調が変わっている。旧版では大郷士や絵画清掃人ばかりかウルタン師にまでもタメ口をきき、そのことついてウルタン師に咎められてから口調を改めるのだが、新装版では全員に対して丁寧な口調を使い、つい油断して発した「おれ」という一人称を咎められている。他にも、セヴェリアンとアギアの乗る辻馬車を引いているのが驢馬になっていたり、漢字にルビが付いていたり(若年層への配慮?)、逆にルビが排除されていたり(「櫓(バービカン)」や「鍔(キヨン)」など)、台詞の語尾が変わっていたり、「一張羅」が「唯一の衣服」に、「エスコートしている男」が「付き添っている男」に、「イッキ飲みをするから」が「一息に飲むから」に、「より経験のあるメンバー」が「より経験のある者」に、「活人画です」が「劇的場面です」に……などなど、数え切れないほどの変更点がある。誤訳の修正だけで済まさなかった訳者のこだわりには感服の至り。時間に余裕のある人は1ページずつ旧版と読み比べてみるのもいいかもしれない。
 ちなみに本文以外でリニューアル・ポイントは以下の通り。

1 裏表紙の概略が変わった
2 カバーの折り返しに著者の紹介文がついた
3 背表紙が黒くなった
4 柳下毅一郎の解説がついた
5 訳者のあとがきがなくなった
6 表紙のイラストが小畑健

 個人的には3と4がよかった。5はちょっと残念。訳者のあとがきがないと、ウールス(Urth)の本来の発音が「アース」であることが判らない。
 6については……う~ん、どうだろう? 新たな読者層を狙ったということなのかもしれないが、『DEATH NOTE』のブームが過去のものとなった今では証文の出し遅れのような気がしないでもない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本時計じかけのオレンジ 完全版

2008/09/18 20:58

それは「蛇足」だと判断されたから、本体から切り落とされた。しかし、もし本体が「蛇」ではなかったのだとしたら……

10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 無数のキューブで構成された謎の建築物――そこに閉じ込められた人々の脱出行(と内輪もめ)を描いた『CUBE』という映画があった。その作品の登場人物と同じように『時計じかけのオレンジ』の読み手たちも囚われている。キューブではなく、キューブリックという牢獄に。
 ……のっけから寒いダジャレをかましてしまったが、言わんとすることは判っていただけるだろう。キューブリックの『時計じかけのオレンジ』を頭から消し去り、真っ白な状態でバージェスの『時計じかけのオレンジ』を読める(また、語れる)人は多くないということだ。

 本書は『時計じかけのオレンジ』の完全版(英国版)である。旧版(米国版)との違いは幻の最終章が収録されていること(※1)。そして、それはキューブリックの牢獄――映画版『時計じかけのオレンジ』との違いでもある。
 我らが看守キューブリックは最終章を蛇足と見做していたという。今回、完全版を読んでみて、彼の判断が正しかったことを確信した。そこにあるのは〈みなさまのつつましき語り手〉の開き直りにも似た更生、後の世代への共感混じりの諦観、醜悪かつ甘美な寓話をつまらない訓話に変えてしまう寒々しい大団円。読み終えた後、アレックスが最後に放ったのと同じ言葉を叫んでしまいそうになった。
「くそくらえだ!」
 とはいえ、作品は作者のものである。どのような感想を抱こうと読者の勝手だが、作者の意図は尊重すべき……と、自分を納得させたのも束の間、巻末にある柳下毅一郎(※2)の解説を読んで驚いた。なんと当のバージェスも最終章の扱いについて迷っていた(かもしれない)のだという。現金なもので、それを知った途端、最終章に対する印象が変わった。蛇足だという思いに変わりはないが、「くそくらえ」と叫びたい衝動は消え去った。

 小説というものは文章だけで形作られているわけではない。バージェスが抱いていたかもしれない迷いも小説の一部だ。たとえ、それが本編に記されていなくとも。もしかしたら、完全版を完全版たらしめているのは最終章ではなく、その「迷い」なのかもしれない。
 なんにせよ、「不完全版」支持者も完全版を読むべきだ。何度も読み返せば、キューブリックの牢獄から解放されるだろう。
 ……え? そう言うおまえは解放されたのかって? 判りきったことを訊かないでくださいよ。牢獄から解放された人間がこんな書評を書くわけないでしょうが。



※1:ただし、旧版にあったスタンリイ・E・ハイマンの解説と訳者のあとがきは収録されていない。
※2:ちなみに柳下の生涯のベストムービーは『時計じかけのオレンジ』だという(『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁』より)。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本鉄子の旅プラス

2009/03/23 20:28

「どこにでもあるような駅」が「そこにしかない駅」であることを教えてくれた人たち

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 なんでも『日本鉄道旅行地図帳』なるものがバカ売れしているそうで。テツブームはまだまだ終わらないようだ。
 そのテツブームの隆盛に貢献した(と思われる)実録マンガ『鉄子の旅』が帰ってきた。リアルタイムで読んでいた人にとっては約二年振りの単行本ということで喜びも一入だろう。もちろん、私のような俄かファンにとっても喜ばしいことだが。
 最新巻にして最終巻である本書でも横見浩彦は絶好調。キクチの容赦ないツッコミも健在(でも、カバーを外したら読める恒例のオマケマンガではキクチがボケ役で横見がツッコミ役)。もちろん、要領が良いんだか悪いんだかよく判らない編集者のカミムラの出番もたっぷりとある。
 そんな三人と多彩なゲストによる「鉄子の最後の旅」の内容は以下の通り。


1 「相互乗り入れ企画!? 酒井順子さんと水のある風景を求めて」
 月刊IKKIと小説新潮のコラボレーション企画。ゲストに酒井順子を迎え、
 「水のある風景」が堪能できる北の秘境駅を目指す。

2 「秘境駅の女『鉄子の旅』同乗記」
 1の模様を酒井順子が記したエッセイ。横見に対するキクチの感情をストック
 ホルム症候群に例えているのがおもしろい。

3 「押しかけ同行取材! テツドラマ誕生の地へ」
 テレビドラマ『特急田中3号』のロケに同行し、トリテツの聖地に向かう。ス
 ペシャルオマケマンガ付き。

4 「アニメ化記念スペシャル! 皆でワイワイ、サンライズで出雲にGO!」
 アニメ化記念企画。アニメの主題歌を担当したSUPER BELL"Zと豊
 岡真澄がゲストとして参加。目指すは直江駅。
 横見「キクチナオエが「直江」に行くの! ナオエが「直江」へ!! すご
  いでしょ!?」

5 「アニメ制作地獄 スタッフが語るアニメ『鉄子』の裏側」
 アニメのスタッフ(と自分)の苦労についてカミムラがキクチに語る。

6 「銚子電鉄応援企画 ここではやっぱり全駅乗下車」
 完全にテツオタと化した豊岡真澄、彼女のテツ師匠ともいえる南田、自称ソフ
 テツの村井美樹、そのマネージャーであるマイペースの米田といった濃い面々
 と共に銚子電鉄の全駅を乗下車。

7 「実録! テツヲタブランド化計画」
 『鉄子の旅』終了後に連載された近況報告マンガ。

8 「2008年9月2日AM11:19までのエピソード」
 本書のプロローグとエピローグ。そして、各エピソード間のインターバル。キ
 クチが読者に語りかける形で進行する。


 1と3と4は連載終了後に掲載された特別編。DVDのVol.2で4の実写映像を見ることができる。
 5はDVDの初回特別限定版の特典。6は銚子電鉄応援BOXの特典。一部の人しか読めなかった「幻の作品」を収録してくれたのはありがたい(でも、特典目当てにDVDや応援BOXを買った人は釈然としないものがあるだろうなー)。
 描き下ろしの8はキクチによる『鉄子の旅』の総括である。
 そして、『鉄子の旅』への決別でもある。
 彼女が後にする久留里線の東清川駅は第一話で鉄子一行が駅弁を食べていた場所。横見がJR全駅制覇時代の貧しい食生活を回想して感慨にふけっていたあの駅だ。『鉄子の旅』を締め括るに相応しい場所かもしれない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ずっとお城で暮らしてる

2009/04/04 21:30

「機会があれば、ほんとうに子供を食べられるかしら」

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 村人たちに疎まれている二人の姉妹――コンスタンスとメリキャット。
 コンスタンスは他者と接触することを恐れて屋敷にひきこもっているので、村に買い出しに行くのはメリキャットの役目。彼女に向けられる村人たちの視線は冷たい。心ない言葉をぶつけられる時もある。その度にメリキャットは物騒なことを考える。

「そもそもこんな人たちが生み出されたことに、どういう意味があるのかわからない」

「みんな死んじゃえばいいのに、そしてあたしが死体の上を歩いているならすてきなのに」

「みんな死んで地面に転がっていればいいのに」

 メリキャットは「フシギちゃん」と呼ぶには不気味すぎる。しかし、怖いのは彼女ではない。いや、怖いことは怖いのだが、得体の知れぬ怪物じみた存在は距離を置いて見ることができる。
 本当に怖いのは村人たちのほうだ。メリキャットと違って、彼らは理解しがたい存在ではない。どこにでもいる普通の人々だ。そう、読者と同じように……。
 村人たちの悪意は読者の心に潜む悪意であり、村人たちの醜い行動は読者がいつか犯してしまうかもしれない(あるいは過去に犯した)過ちなのだ。
 終盤、悪意の発露が集団ヒステリーの様相を呈し、村人たちは暴徒と化す。ここまで極端なことになると、読者は逆に安心できるだろう。狂った暴徒たちをメリキャットと同じような怪物と見做し、「俺の中にも悪意の種はあるけど、ここまで非道なことはしないよ」と思い込むことができるだろう。
 ところが、そんな安易な逃避を作者は許さない。時が経つと、村人たちはしおらしくなり、姉妹に許しを乞い始めるのだ(卑怯にも匿名で)。こうして、読者はまた思い知らされる。村人たちが卑屈で非力で臆病な「どこにでもいる普通の人々」であることを。自分自身の姿がそこに映し出されていることを。
 ああ、怖い、怖い。



 ちなみに書評のタイトルはメリキャットが口にした言葉。
 それを聞いた姉のコンスタンスはこう答える。
「料理できるかどうか、わからないわ」

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ネバーウェア

2012/05/29 00:23

映画化されるって本当ですか?

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

その昔、クリストファー・ファウラーの『ルーフワールド』という作品があった(残念ながら、現在は在庫切れで注文できない)。ロンドンの「空」で生きる者たちの戦いに巻き込まれた青年の物語だ。
一方、この『ネバーウェア』はロンドンの「地下」で生きる者たちの戦いに巻き込まれた青年の物語である。地下で生きると言っても、遊民や浮浪者の類ではない(まあ、そういうのも含まれているのだが)。扉を自由に開閉する能力を持った少女ドア。彼女の味方でありながら、どこか信用できないカラバス侯爵。ネズミに仕えるネズミ語りたち。凶悪だが、どこか憎めない二人組の殺し屋クループ氏とヴァンデマール氏。地下鉄を己が宮殿としている隻眼の伯爵。ある場所へと通じる鍵を守る修道士たち。そして、本物の天使であるイズリントンなど、個性的とか魅力的とかいった言葉では表現しきれない面々なのだ。
そんな異形の民に翻弄される不幸な主人公の名はリチャード・メイヒュー。やたらと上昇志向の強い美女との結婚を目前に控えた青年。証券会社に勤務。趣味はトロル人形の収集。
ゲイマンの他の作品『アナンシの血脈』や『スターダスト』の主人公がそうであるように、我らがメイヒュー君もちょっと頼りなく、なにかにつけて要領が悪い。しかも、それら二作の主人公たちと違って、特殊な生い立ちもなければ、不思議な力を秘めているわけでもない。もちろん、物語の途中で御都合主義的にヒーローとして覚醒することもない。だからこそ、彼の最後の選択に読者は共感し、羨望を抱くことができるのだろう。

ちなみに『スターダスト』と同様、本作も映画化が決まったというニュースが流れたが、実は既に映像化されている。いや、正確に言うと、本作は映像作品のノベライズなのである。まず、テレビドラマとして制作されて → 脚本を担当したゲイマンがそれを小説化して → 今度は映画になる……という流れらしい。オリジナルのドラマ版のDVDは日本でも発売されているが、ちょっとチープな出来なので、万人にはお勧めできない。しかし、『サンドマン』でおなじみのデイヴ・マッキーンがオープニングを担当していたりするので、ゲイマンのファンはそれなりに楽しめるかもしれない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本モンスター 完全版

2012/03/18 19:51

蝿とダイヤモンド

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ユーゴスラヴィアが分裂し、崩壊へと向かっていた時代。サラエヴォのコシェヴォ病院に三人の赤ん坊がいた。セルビア人狙撃手の遺児であるアミール、後にイスラエル外相の養女となるレイラ、そして、戦場で拾われたナイキ。
 生後18日の赤ん坊であるにもかかわらず、ナイキは知っていた。この町が戦火にさらされていることを。自分が孤児であることを。両隣にいるアミールとレイラもまた無力な孤児であることを。
 砲撃によって穿たれた穴から星空を見上げて、ナイキは誓う。血の繋がらない弟妹――アミールとレイラを永遠に守る、と。
 しかし、病院が破壊され、三人は離れ離れになってしまう。
 それから三十三年後、かつての誓いを思い出したナイキは「弟妹」たちを探し始めるが、反啓蒙主義を奉じるテロ組織の闘争に巻き込まれていく。
 その闘争の裏には「モンスター」とでも呼ぶべき怪人物の影があった。



「日本初のヨーロッパ漫画誌!」を標榜する『ユーロマンガ』がリニューアルし、雑誌形式から単行本に変わった(創刊時に「Vol.6に達する前に廃刊になるのでは?」なんて失礼なことを書いたけど、きっちり6号まで続きました。ごめんなさい)。
 リニューアル後の第一弾がこの『モンスター 完全版』である。著者は、バンド・デシネの第一人者にして映像作家でもあるエンキ・ビラル。完全版ということで、第一巻『モンスターの眠り』(過去に邦訳されたことがあるらしい)、第二巻『12月32日』、最終巻(第三巻と第四巻の合本)『パリのランデブー/4人?』までのすべてのエピソードが収録されている他、巻末には用語解説やユーゴスラヴィア紛争の歴史やビラルと貞本義行との対談なども付いている。

 この作品はとにかくヴィジュアルが凄い。日本の漫画のような躍動感には欠けるが、一コマ一コマの完成度が高く、ちょっとした画集のような趣がある。砂漠から天空に伸びる軌道エレベーター、白い部屋で繰り広げられる血の惨劇、虚空に浮かぶゲートから放出される黒い雲、水槽の中の生首とその周囲を漂う魚たち、眉間に弾痕がある巨人の頭蓋骨、甲板にサッカーコートが設置された空飛ぶ空母、物語の随所で重要な役割を果たす蝿――冷たく湿った悪夢のようなイメージの奔流にただただ圧倒されるばかり。
 ヴィジュアルだけでなく、ストーリーも濃密。過去と現在が交錯する第一話が特におもしろい。物語が進行すると同時に主人公ナイキの記憶は過去にさかのぼり、生後18日から17日に、16日に、15日に……そして、この世に生まれ出た日(サラエヴォが無差別砲撃された日)に至るのだ。
 第二話からは怪人物ウォーホールが主人公を食うほどの活躍を見せる(第一話にも登場しているのだが、その時点ではただの悪役の域を出ていない)。死と復活を繰り返し、幾度も名を変え、姿を変え、生きる目的を変え、物語内でのポジションを変え、ナイキや読者を翻弄していく様はまさに「モンスター」だ。ラストで明かされるその正体もブッ飛んでいる。

『ユーロマンガ Vol.6』に掲載されていた記事によると、本書は「記憶をめぐる物語」なのだという。
 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなかに生まれたナイキたちの記憶、本人曰く「常に狂ったようにジグザグ」に歩んできたというウォーホールの記憶、旧ユーゴスラヴィア出身である作者自身の記憶――それらが塗り込まれた物語は読者の記憶にも強く刻まれ、忘れ難いものになるだろう。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

「永遠につづくものなんてないのさ」

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 SFマガジン創刊50周年記念アンソロジーの第三弾。ちなみにこのシリーズは編者だけでなく、表紙イラストの担当者も巻毎に変わっている。今回の表紙、意味はよく判らないが、なんだかカッコいい(描き手は『順列都市』『祈りの海』『ディアスポラ』などの表紙イラストを手がけた小阪淳)。

 シリーズ最終巻である本書のテーマは「ポストヒューマンSF」。ポストヒューマンと言われてもピンと来ない人(実を言うと私はピンとこなかった)のために乱暴に言い換えると「未来SF」である。もう少し丁寧に言うと、「テクノロジーによって変容した人類の姿、そしてそれにともなって倫理観や価値観、さらには人間性の意味や人間の定義までもが大きく変化した世界の物語」(編者あとがきより)ということらしい。
 また、本書には「愛」という裏テーマもあり、「テクノロジーによって変容した愛のかたち(おもに夫婦)の物語」(編者あとがきより)がいくつか収録されている。
 たとえば、デイヴィッド・マルセクの『ウェデイング・アルバム』も夫婦の物語。舞台となるのは、人生の節目に記念写真ならぬ記念複製人格を記録する行為が一般化した未来世界。結婚式の日に記録された新婦の複製人格が主人公だ。幸せの絶頂の時点で「固定」されている複製人格の妻と、時が流れるにつれて変化していくオリジナルの妻との対比が描かれていくのだろう……と思って読み進めていくと、きっと驚くことになる。あまりにもスケールの大きな展開が待っているからだ。
 もっとも、スケールという点では冒頭に収録されているジェフリー・A・ランディスの『死がふたりをわかつまで』に敵うものはないだろう。題名から察しがつくように、これも愛を描いた作品。一組の男女が「出会わない」ところから物語が始まり、長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長ぁ~い愛の歴史が描かれる。たったの6ページで。
 愛と関係のない収録作の中では、デイヴィッド・ブリンの『有意水準の石』が良かった。「フィクションの存在に人権はあるか?」という新城カズマが好みそうなテーマを含んだ作品である(先に挙げた『ウェデイング・アルバム』にも同じようなテーマが含まれている)。物語のオチは定番ともいえるものなので、読んでいる途中で予想がつくかもしれない。しかし、そのオチを真正面から受け止める主人公の悲壮な決意には胸を打たれるはず。

 このSFマガジン創刊50周年記念アンソロジー三部作はどれも楽しめた。しかし、SFマガジンに掲載された短編小説の中にはまだ一度も書籍に収録されていないものが山ほどあるという。またアンソロジーが編まれて、それらの作品が日の目を見るのはいつのことだろう? 「60周年まで待て」なんて言わないでね、ハヤカワさん。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本魚舟・獣舟

2011/01/18 21:46

ギョギョ!

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 恥ずかしながら、本書の表題作のことはSFアンソロジー『ぼくの、マシン』を読むまで知らなかった。
『ぼくの、マシン』における作品解説によると、本書(と表題作)は多くの人々に絶賛されたという。その解説を書いている大森望自身も「“オールタイムベスト級”との賛辞に恥じない出来」と認めている。
 そう、これはオールタイムベスト級の作品だ。間違いなく。

 物語は、主人公である「私」の回想から始まる。
 獣舟(けものぶね)と呼ばれる異形の海洋生物――七歳の時に「私」は初めてそれを見た。家族と共に暮らしていた船の上で。
 一家の船を追い越していく巨大な獣舟に目をやり、「私」の父は「星形の疵が見える」と呟いた。
 そして、「私」を振り返り、こう言った。
「あれはおまえの伯母さんだ」

 この強烈な掴み! 読書というのが書き手と読み手の戦いだとするなら、ここで書き手の勝利は決まったも同然だろう。
 あとはワンサイドゲーム。獣舟とはなにか? 「私」の一家が船上で暮らしている理由は? なぜ、獣舟が「私」の叔母なのか? 読み進めていくうちにそれらの疑問が解き明かされ、「私」が生きている世界の様相があきらかになってくる。その間、冒頭部で掴まれてしまった心は解き放たれることなく、激しく揺さ振られ、揺さ振られ、揺さ振られて……クライマックスで粉々に握り潰されるのだ。読み手の完全敗北である。
 しかも、この勝負はあっという間に終わる。『魚舟・獣舟』は壮大なスケールの作品であるにもかかわらず、30ページ(字組みは17行×41字)にも満たない短編なのだから。もちろん、長編の美味しいところだけを抜き取ってきたようなダイジェスト風の代物ではない。「本物」の短編小説だ。
 もう「参りました」としか言えない(こういう気持ち良い敗北があるから、本を読むことがやめられないんだよね)。

 ちなみに表題作を含むいくつかの作品はホラーアンソロジー『異形コレクション』シリーズで発表されたものなので、ホラー小説としての側面もある。とくに『くさびらの道』は怖い。ホラーが好きなかたは勝負を挑んでみては?

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

われわれはそれに憧れ、それを求め、必要な道具を作り、それをやってのけた。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 しかも、火星はつねにここにある。もっと徹底的に火星を調べたいという夢と決意を持った人間が見れば、それは手招きする光となって、夜空に輝き続けるだろう。  ――『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』より



 SFマガジン創刊50周年記念アンソロジーの第一弾。テーマは宇宙開発SFだ(ちなみに第二弾は時間SFアンソロジーで、第三弾はポストヒューマンSFアンソロジーとのこと)。宇宙SFではなく、宇宙開発SFである、念のため。
 50周年記念ともなれば、収録作のラインナップも古くは60年代から新しくはゼロ年代まで……と思いきや、全ての作品が90年代以降に発表されたもの。にもかかわらず、このアンソロジーには歴史の重みがある。なぜなら、収録作の約半数が宇宙開発SFであると同時に宇宙開発史SFだから。
 そして、改変歴史SFでもあるから。
 そう、ここで描かれているのは、作家の想像力によって書き換えられた世界。現実とは違う宇宙開発史を辿った世界。人類が再び月に立ち、火星に第一歩を記し、木星を後にして、土星を越え、更にその先を目指す世界。
 しかし、作中の宇宙開発史と現実のそれとの差異を思うと、なんだか悲しくなってくるし、悔しくもなってくる。二年ほど前、フレドリック・ブラウンの名作『天の光はすべて星』を初めて読んだ時も同じような思いを抱いたものだ。『天の光はすべて星』では2001年に木星行きの有人ロケットが飛ぶのに、現実の世界と来たら……いやいや、やめておこう。宇宙に対して深い思い入れがあるわけでもない(それでいて、はやぶさの帰還には感動してしまうミーハーな)人間にそんなことを嘆く権利はない。第一、現実の世界で宇宙開発に力を尽くしている人たちに対して失礼だ。

 話を本書に戻すと……収録されている作品は七本。ソ連のロケット工学者セルゲイ・コロリョフの人生を虚実入り交えて描いた『主任設計者』、サターン5型ロケットが現役で飛び続ける『サターン時代』、アーサー・C・クラークの短編を発展させた『電送連続体』、月に取り憑かれた少年の物語『月をぼくのポケットに』、複数の並行世界が出てくる『月その六』、前世紀の遺物と化したバイキング1号が思わぬ「活躍」をする『献身』、感涙必至の『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』。
 一番のお勧めは『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』だが、「この作品を紹介できただけでも、本書を編んだ甲斐はあった」と編者が巻末で述べている『月をぼくのポケットに』も良い。きっと、主人公の少年と同じ世代――アポロ計画の熱狂をリアルタイムで体験した世代には堪らないだろう。その人たちが羨ましい。
 しかし、いつの日か、それ以降の世代も後人に羨まれるはずだ。はやぶさの帰還がもたらした感動をリアルタイムで味わった世代として。おそらく、人類が火星に立った時の感動をリアルタイムで味わった世代としても。ひょっとしたら、木星に到達した時の感動も……。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

われ天保のGPU

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 山田風太郎の作品集をいくつも企画・編集してきた日下三蔵が『忍法創世記』の解説で、こんな言葉を用いたことがある。

「あまり出来のよろしくない(あくまで風太郎忍法帖のなかでは、ということだが)後期の数作」

 この後に続く文章で日下が挙げた「あまり出来のよろしくない」作品は四本。『忍法剣士伝』(個人的には大好き)と『忍法双頭の鷲』(これはいまいち)と『秘戯書争奪』(Vシネ版は噴飯物)。
 そして、『忍者黒白草紙』だ。
 確かに『忍者黒白草紙』の完成度は高くない(日下が述べているように、あくまでも他の忍法帖と比較した場合だが)。しかし、逆に言えば、後人が手を加える余地があるということ。「完成度が低いのなら、俺が完成させてやる! 七十点の作品を百点にしてやる! いや、百二十点にしてやる!」ってなことを考えたのかどうかは知らないが、鬼才・長谷川哲也がコミカライズに挑んだ。

 快作にして怪作である『ナポレオン -獅子の時代-』を生み出した長谷川のことだから、原作とは似ても似つかぬ作品を描くのかと思いきや、この『アイゼンファウスト』のストーリーの骨格は原作に忠実だ。ただし、あくまでも骨格だけ。長谷川はその骨格に大量の筋肉を貼り付け、熱い血を通わせ、肌色には程遠い派手な色を塗りたくっている。エロス&バイオレンスは原作の五割増し。ナンセンスは八割増し。主人公の天四郎と空也、それに影の主人公とでもいうべき鳥居耀蔵のみならず、脇役の服部万蔵や死之介までもが強烈なキャラになっている。
 長谷川のブッ飛んだアレンジの一例を挙げよう。悪の剔抉者となることを選んだ天四郎、悪の擁護者となることを選んだ空也――両者が袂を分かつシーン。原作では空也が鎖分銅で天四郎を牽制し、その隙に逃げ去るのだが、『アイゼンファウスト』では二人が風呂場でバトルを繰り広げる。風呂場なので、どちらも裸。湯船で戦いを見守っている鳥居耀蔵も裸。その耀蔵の頭上にはダモクレスの剣さながらに抜き身の刀が何本も吊り下げられている。そして、耀蔵の娘のお兆が『荀子』を暗誦しながら、天四郎に……常軌を逸したシチュエーションだ。それでも原作を冒涜しているような印象は受けない。むしろ、原作者への敬意が作品のそこかしこから感じられる。

 冒頭で触れた『忍法創世記』の解説によると、山田風太郎は石川賢の『柳生十兵衛死す』を一読して「うーん、こりゃ、原作よりすごいネ」と述べたという。
 山風がまだ生きていたなら、この『アイゼンファウスト』にはどんな感想を抱いただろうか?
「これも原作よりすごいネ」と言うかもしれない。
 だけど、その後で「でも、まだ原作に遠慮してるね。もっと弾けてもいいよ、長谷川クン」なんて付け加えたりして。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

69 件中 1 件~ 15 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。