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足目*さんのレビュー一覧

投稿者:足目*

9 件中 1 件~ 9 件を表示

役に立てようとすれば副読本が要りそう

11人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

冒頭にある「世界標準の文章技法であるパラグラフ・ライティングを学習する」という目的にかなった成果はえられるのでしょうか。
 たとえば「文章をパラグラフで効果的に書くために、守るべき7つのルール」(45頁)があげられています。
 1 総論のパラグラフで始める
 2 1つのトピックだけを述べる
 3 要約文で始める
 4 補足情報で補強する
 5 パラグラフを接続する
 6 パラグラフを揃えて表現する
 7 既知から未知の流れでつなぐ
いったいどんな順番で並べてあるのでしょう。これだけでは何をすべきかはっきりしない節もあります。
 本書のキーワードとしては、パラグラフ・トピックさらにロジックを真っ先に挙げることができるでしょう。ところがその説明がはっきりしないため(しかも索引は、出てくるところを網羅するでもなく、説明の要点を遺漏なく指示するでもなく、使い勝手がよろしくない)、入門で必要不可欠な「何を」「どのように」という点が要領を得ないのです。
 たとえば「補足情報」とは何か。「どういう意味か」「なぜそう言えるか」「どれだけ重要か」であるとの説明は半ばをすぎてのこと。「パラグラフを使うと、書き手は、ロジックを組んでから文章を書くので、より論理的にまとめられ」る(79頁)はずなのに、構成に難があるなんて……
 そして例文を示して行う練習は、「書く」過程のごくごく限られた局面での「添削」にすぎません。それができるほど形にするためどうすればよいのかは、著者の念頭におよそないようなのです。
 作文全般を対象とする戸田山和久の『論文の教室:レポートから卒論まで』新版、さらに論証を詳細に説明した福澤一吉の(『文章を論理で読み解くためのクリティカル・リーディング』よりも改善された)『論理的に読む技術:文章の中身を理解する"読解力"強化の必須スキル!』をわざわざ避ける理由はないでしょう。
 ちなみにくだんのルールは、構造化されたパラグラフをいかに積み重ねるかという方法で文章全体を構造化するという観点で、整理しなおすこともできそうです。
 1 パラグラフの構造
  1-1 1つのトピックだけを述べる
  1-2 要約文+(横並びとなる)補足情報(縦つながり)
  1-3 既知を基に未知を提示する(縦つながり)
 2 全体(パラグラフの配置)の構造
  2-1 総論→各論→結論(縦つながり)
  2-2 形式による構造上の位置づけ(横並び)

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色っぽい

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

41首を取り上げて現代語訳・解説を加え(1首が見開き2頁)、短い伝記・年譜・読書案内・注目すべき文章一篇という手軽な一冊。藤岡忠美「和泉式部、虚像化の道」が、和泉式部の多情好色について検討しています。
著者はどのように読んでいるのでしょうか。最初の歌(2-3頁)を見ます(たった一首の紹介では著者に対して公平を欠きますが)。
  黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき
現代語訳「黒髪が乱れることを気にしないで思い乱れて突っ臥すと、まず、かつて髪を掻きやってくれた、あの人が恋しい。」解説は「苦しみのために髪の乱れも気にかけずに突っ臥すと、ふとかつての甘い恋の記憶が呼び覚まされてくる。とたんに孤独な現実に引き戻され、はっと我に返る。過去の甘美な記憶と、現在の孤独との間に揺れながら、自らの喪失感を見つめた一首である。」
著者は、この歌が「うち臥せば」と「まづ」との間に断絶があると読んでいます。そこには時間の推移があるらしい。前半では黒髪の乱れが思いの乱れを表し、後半は髪と思いとが男によって媒介されて関連し合います。前半と後半との断絶は、こうして結びつけられて一首を一体に仕上げている、ということでしょう。
残念ながらこの読みには表現に即した説明がありません。たとえば「苦しみのために」は何に由来するのでしょう。
よく見るとこの歌は「黒髪の乱れも知らず」(「黒髪の乱れて知らず」という本文もあるらしい)「うち臥せば」「髪をかきやりし人」「人ぞ恋しき」の四つからなっているようです。「知らず」は終止形ですが、ここでいったん切ることはできないのでしょうか。
あるいは「『かきやりし人』、かつて自分の髪を掻き撫でた人」と述べているのですが、現代語で「やる」には、たとえば「物をやる」「押しやる」のように手許から遠ざけるような意味が感ぜられます。
『日本国語大辞典』を見ると「かきやる」は、(1)「髪の毛を手で払ってわきへのける。払いのける。」として、「宇津保物語」から「髪かきやり給ふ手つきいとうつくしげなり」を用例としています。続けて(2)「隅の方へ寄せる。かきのける。」(3)「手で押してあける。」と説明し、いずれも「源氏物語」から用例「涙のこぼるるを、袖のいとまなく、えかきやり給はず」「帷子を、すこしかきやり給へれば例の、いとつつましげに、とみにもいらへ聞へ給はず」をもってきています(著者には「源氏物語」の著作があり、そこからの引用も本書では目立つ)。
とすれば、この歌の髪をかきやるは、顔を露わにするというかなり露骨なふるまいを示唆していないでしょうか。平安時代の「高級な女」の顔はそうそうたやすく拝めない、というのが「常識」と思われます。
「(…は知らず」の形で)問題にしないでおく、さておくの意を表わす。」(『日本国語大辞典』「しらず」)を鵜呑みに、ここでいったん切るとどうなるか。黒髪が乱れても関係ない。でも俯せになれば髪が顔にかかり、真っ先に思い出す。顔から髪を払ってくれたその人が何て恋しい。顔をおこして髪を振り乱しそうです。
『日本国語大辞典』を金科玉条にするつもりはありません。それと異なる解釈には素人用の説明が必要なだけです。

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紙の本丸谷才一全集 第9巻

2013/12/17 12:42

日本文学史の見なほし

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

丸谷才一の仕事で特筆して位置づけねばならないのは、日本文学史の見なほしであらう。もつとも50年後、著者の議論が当り前になつてゐればごく平凡な主張を今さら読む必要になるものか。それでも「日本文学史早わかり」「後鳥羽院」(第2版はまだ読んでゐないけれど)は外せない。小説はもういいやといふのは当方の趣味にすぎないであらう。

第九巻は漱石を中心とした作家論・作品論が集められてゐる。それもやはり文学史の見なほしが中核であることは一目瞭然だ。

ところでこの全集は、「未刊行も含めた全小説と、主だった評論のほとんどを収録(選評、時評、匿名コラムを含む)」するから、さう呼ぶことにしたのかしら。奇妙なことに第九巻のどこにも収録方針がないので、「主だった」にも「ほとんど」にも含まれなかつた評論があるのかないのかすらわからない(第十二巻収録予定の武藤康史構成「年譜・書誌」を見ればわかるらしいから、信頼できるものを期待する)。底本が何であるかはわかるものの、なぜそれを選んだか、どう取り扱つたかは説明もない。わざわざ「第2刷」などとあつたりするのに。つまりこの著者に本文をめぐる面倒な問題はない、と判断してゐるといふことか。

それはともかく、歌仙や対談はどうなるのかしら。とりわけ歌仙は文学史の見なほしにも直結してゐるやうに思はれる。

編集委員の皆さんがかうしたことを気にとめなかつたためにはつきり記されないのだとすれば、いささか残念に思はないでもありませんね。

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バイユーの綴織より「ノルマン征服」に興味の人向き

3人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

バイユーの「タペストリー/タピスリー/綴織」だけを取り上げた日本最初の書物かも知れない。日本語論文も少なく、英語形・フランス語形・日本語訳語の三種があるごとく、表記もまだ統一されていないということか。
目次
 第I部 絵解き
  第1幕 ハロルド ノルマンディに行く
  第2幕 ブルターニュ戦役
  第3幕 ハロルドの宣誓と臣従
  第4幕 エドワード王の死去とハロルドの戴冠
  第5幕 前哨戦
  第6章 ウィリアム 海峡を渡る
  第7章 決戦前夜
  第8章 戦闘
 第II部 「綴織」の制作とその歴史
  第1章 「綴織」の構成と制作の過程
  第2章 「綴織」の歴史
 第III部 歴史的背景
  第1章 イングランド人の国王とノルマン人の公
  第2章 新貴族
  第3章 紛争解決と新体制
  第4章 地域に生きる人々
  第5章 「ノルマン征服」か
  エピローグ
に見る通り、刺繍で描かれたことがらとさまざまな史料を照合して、史実を明らかにすること(絵解き)が著者の第一のねらいだ。何しろ「決して雄弁ではない。それだからさまざまな解釈が生まれる余地が存在した。なかには,論者の思いつきでしかないものも多々あった」(329頁)という。そこで「どうしても同時代の資料を参照しなければ,何が起こったのかを正確に描くことはできない」(5頁)。
その結果、おそらくこの時期この地域に関して日本でもっとも詳細な歴史記述なのであろう(むろんてきとーな当推量)。
英仏という枠組のできるはるか前の「環海峡世界」がそこには展開している。境界が生ずるような周縁と周縁の衝突という印象は受けなかった。日本で使われている地名の「英国」「イギリス」「イングランド」のどれもがまだ確立せず、現代につながるような囲い込みもまだない。日本の読書人に皆目知られていないような人名(同時代史料の歴史記述者)には目がくらみそう。いや、「ノルマン征服」で知っている人名といえば、ウィリアムないしギヨームくらいか。
ただし著者の英語名称の表記にはやや癖がある、意気ごみはわかるけれども。
綴織自体についての説明はあるものの、長さ70メートル近い長大な物としての魅力に迫る記述や写真がないのはやはり残念に思う。マイケル・カミール『周縁のイメージ:中世美術の境界領域』(ありな書房、1999年)のような関心がないのだから、やむをえまい。

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素人(「文系読者」)でもポイントはわかったつもり

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

評判の著者による評判の著書で関心のある確率・統計ときて、初めてこの著者を読んだ。

まず「誤差の本質は2つの部分で構成される」と「この世界の誤差は多段式構造で生まれている」は、内容の指摘が明快であるばかりか、これがポイントであるとの指摘自体とても大切に思えた(著者のいう「文系読者」から見て)。

著者はさり気なく「この問題を単純化するヒントを得ることができる」などとわかりやすく説明を進めてゆく。当然ながら、もう一度複雑な現実にもどらなくてよいのかしらなどなどいろいろ思えてくる。説明が進むにつれて、引っかかりかけたところの説明が出てくるし、「このように思想的に大きく捉えることで,議論は単なる誤差論から脱却して,もっと大きな確率分布の話題へと飛躍する」と話を進める動力としても活用される。 つまり説明が、さらに別の説明で補足……というより拡大・展開し、それが次の説明へとつながる。

世の中には頭の悪い本があって、だからそこんとこ放置して進めるのかね、ということが累積していらいらをつのらせてくれるのとは大違い。

偏差値については思いの外ちゃんとわかっていたのが確認できた。正規分布曲線の両端が極限へ向っているとはまったく気づかずにきたたわけでも、しだいに解きほぐされてゆくのを読み進めてきて、「一般常識として『サンプルをたくさん集めれば,ばらつきが相殺されて0になる』と思っている時,実はその相殺メカニズムは2種類のものから成っていて」に到り、ほとほと感心してしまった。

こう書く程度の者がこれ以上内容に触れることはやめるが、とにかく頭のよい本は気持よく読めるので好きである。読みやすく、しかもどれくらい理解できたかよくわかる(正規分布や中心極限定理がここまでわかるとは思いもしなかった、と感じているところ)。知ったことを自分で使え、他の人に説明できるという理解に関してはまったくこちらの課題だ。

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紙の本プラトンとミーメーシス

2017/06/29 17:15

アリストテレスの「詩学」ではよくわからないので読んでみた

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『プラトンとミーメーシス』は、ミーメーシスという概念がどのように捉えられていたか、特にプラトンの「国家」第三・十巻を中心に探っています。この概念は、「模倣や物真似、倣うこと、再現、表現、……模像やコピーとも訳され」、とりわけ「西洋の芸術思想史においてもっとも重要な概念の一つ」(「はしがき」、1頁)だそうな。
著者はミーメーシスという概念について、構造分析と名づけて、そのミーメーシスという行為によって何が生ずるかという観点から、分析を行います(第一章)。本書での用語をわざといいえかえてまとめれば、(1)元になるオリジナルという対象をだれかが模倣して結果を産出する場合と、(2)オリジナルに当る何かとよく似た代替物が見出される場合との二つこそミーメーシスに他ならない。いずれにせよオリジナルの理解なり把握なりがあってこそ、ミーメーシスの結果が生ずることになります。
著者のこだわるミーメーシスの主体というべき結果の作成者がいるかいないかでこの両者を区別できるとしながら、両者の差異がさほど明瞭でない印象なのは不思議なことです。ミーメーシスは結果が提示されてこそミーメーシスと知れるので、ミーメーシスであるとする「解釈者」は不可欠なのかも知れません。
プラトンはミーメーシスに関してきわめて神経質で、たとえ誤解であるにせよミーメーシス野郎を抹殺すべしと主張した、とされてきました。この激越は何に由来するのでしょう。
「モデルとは本来模倣物よりも先行的に存在するにもかかわらず、模倣家たちは像を提示することによって、実際には存在しないオリジナルを人々に想起させ、社会に広めていくことができる」(46頁)という「倒錯」(著者の用語にあらず)にプラトンは慄いたののでした。だってすべてに先立つ「イデア」なんか要らないよ、ってことになりかねませんものね?
もちろんミーメーシスはその後、プラトンの否定論から始まったのをアリストテレスの肯定論(積極利用かな)が切返しての大展開なので、そこまできちんとつないでおくのが親切というもの(125頁の第3章注*55でちらり触れてあるくらいか)。
もう少し上手く整理してあると、小生のようなド素人にもすっきりわかりやすくなった気はしますが、3点ではきつすぎるように思います。

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紙の本演劇学の教科書

2017/05/15 12:17

入手困難

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原著が分厚くても安く買えるのに(「フォリオ文庫」)、高くて大きな日本語版は、残念ながら大学の教科書として使いにくいでしょう。また読みやすさにばらつきがある一方、訳語の選定がいささか杓子定規で、読んでいて不安になりました。
たとえば「表象=再現」は、アリストテレスのミーメーシスや英語ならrepresentationをめぐる翻訳史のあれこれがからんで、多義というより曖昧に思えます。あるいは「上演=再現の問題によって、私たちは模倣、ミメシス、本当らしさ、それらを支えるコード、それらを舞台上に現勢化する方法を考えることになる。したがって上演はつねに技術、見せかけのことである」(308頁)はどうでしょう。

品切れなのか、出版社取り寄せのあげく注文キャンセルとなってしまうようです。図書館で借りて読みました。大学生向きに翻訳を手直しして復活することを強く期待はしていますが、はたして。

ただし「演劇とはなによりもまず見世物(スペクタクル)であり、つかの間の身体的表現行為(パフォーマンス)であり、つまり、見つめている観客を前にして俳優が提示する身体の作業であって、たいていの場合は特別の場所、特別な舞台装置(デコール)のなかで、ある方向に向けて、声と身振りを行使しながらおこなわれるものだ」(9頁)からも伺える通り、(書くことや書かれたものよりも)「演劇」に狙いを定めて明快に書かれています。
内容の広さも申し分ないと感じました。フランスに偏りすぎとしても、大学の教科書であるならやむをえないでしょう。

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見て欲しいところを見てもらわなければ

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この本自体、本というメディアを用いたプレゼンでもあります。全体にわかりやすい文章で書かれ、本文(明朝体)の随所に強調部分(ゴシック体)と小見出し(ゴシック体大文字)が散りばめられています。そこを注目せよ、ということでしょう。
ここが重要、と読み取った部分からいくつか紹介してみましょう(具体例や詳細までは拾いきれませんが)。

何より「すべて『聞いている相手を動かすこと』を見据えている」必要があります(33頁)。「プレゼンの成否は……『何を伝えるか』を考え、それを具体化する段階で大方決まってしまう」(48頁)ものの、「聞き手があなたの話を聞きたがっているとは限らない」(56頁)。

「資料を読むとき、通常は『左から右』『上から下』に視線が動きます。これが『自然な視線移動』なので」、スライドでの配置もそのようにすべきです(99頁)。そして「重要なことは『上半分』に集中させる。人間の自然な視線の動きに配慮して、戦略的なレイアウトを考えるようにしましょう」(102頁)。

「『聞き手の視線をとらえて離さないシナリオ』があってこそ」(124頁)であり、「軸となる主張からブレた余計な言葉が入り込んでいないか、チェック」が必要です(157頁)。

著者は、「紙の資料だけでは伝えきれないこと」として、「プレゼンの場合、最も大きな割合を占めるのは、プレゼンター自身の『身体の動き(アクション)』」(205頁)で、「ちょっとした手の動き、指の動き、身体の運び、姿勢、そして目の動き。こうしたものはプレゼンの成否を大きく左右します」(205−206頁)といいます。それを細かく説明はしてありますが、うっかりすると自覚せずに何かを伝えてしまう、ということもできそうです。

紹介したところは必ずしも著者の強調および小見出しと一致しませんでした。その意味では著者の視線誘導にしたがわなかったことになるかも知れません。
大筋はこれまでのプレゼン用ガイドに近いと思われます。 それでも「『相手の目が見えていないもの』について伝えても、99.9%理解されない」けれど「『なぜか伝わる』人」は「『自分が伝えたいこと』と『相手が見ていること』を一致させる――『視線誘導』ができている」(9頁)。それを伝えようとするため、ただ聞き手の目線をいかにとらえるか、そこに注目した1冊です。

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ミケランジェロでも「芸術家」は大変です

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『ミケランジェロとヴァザーリ : イラストで読む「芸術家列伝」』は、ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』から「ミケランジェロ」の本文を訂正もしながら要約し、イラストによる図解や作品の写真を添え、社会情勢・絵画技法・素顔の解説を行い、美術館めぐり用フィレンツェ・ローマの地図をつけた欲ばりな一冊である。最後の参考文献にもどこにもなぜか、ヴァザーリの日本語版である『ルネサンス画人伝』(白水社、1982)あるいは『芸術家列伝 3 : レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ』(白水Uブックス、白水社、2011)が挙げられていない。

白水Uブックス版もいちおう読んでみた。「レオナルド」がざっと30頁のところを「ミケランジェロ」は6倍以上の分量で書いてある。本文と訳注とわずかな白黒写真だけでヴァザーリを読み進めるのは、確かにきつい。まずは作品へ近づくために写真を見て、作者の生涯から作品各所にある意味まで解説されないことにはわかった気がしない現代人の堕落であろうか。

パノフスキーから「たんなる事実確認を超えようとは」していない(『イデア』)といわれても、「芸術家」という種族の姿を事実によって示しただけ、とヴァザーリはいいそうである。ミケランジェロもレオナルドも、無名の「職人」となるべく徒弟として修業を始め、今につづく名声と傑作を有する芸術家になった。

ミケランジェロのそばに長くいたヴァザーリに「客観性」は期待できないとしても、その数多い事実から、制作する者や注文し支払う者(ヴァティカンの教皇やメディチ家などの権力者)とそのとりまきからなる「芸術の共同体」には、名声・評判をめぐる角逐のあったことが読み取れる。「列伝」の醍醐味というのか、そうした集団における視線の交錯が見出せる。ヴァザーリの特徴といえば大げさにせよ、膨大な逸話……もっといえばゴシップを集めたことになる。
サン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ」(さすがにイラストは勇み足であろう)について「これだけの短期間でこれほど神々しくすばらしい作品を仕上げたことに驚嘆するばかりである。なんの形も持たない石が、あれほどの完璧な姿になるとは奇跡である」(31頁)というのも、同時代人による集団評価の表現と見てよさそうである。(「ロンダニーニのピエタ」の解説が欲しかった。)
ゴシップの集積にとことんつきあうのでないかぎり、本書のような要約はありがたいし、一つ一つ指摘はしないものの、日本語版にちょくちょくあるたどたどしい感じもない。

「ヴァザーリの美術家伝をいまこそ世に問いたい」というのは、同時代人による逸話集だからこそ「日常の出来事に一喜一憂する人間ミケランジェロが見えて」くる(「あとがき」110頁)でとどめておいた方がよいかも。現代人にとって、つけたしである図解・写真・解説・地図こそミケランジェロその他のルネサンス・イタリアの芸術家を見る手助けであり、ヴァザーリはつけたしにすぎないように思われる。

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