ヨウスケドンさんのレビュー一覧
投稿者:ヨウスケドン
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フィロソフィア・ヤポニカ
2012/02/02 09:46
語られなかった田辺哲学の真骨頂
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田辺元は、戦後ただちに『懺悔道の哲学』を著して、祖国の敗戦に対する懺悔(ザンゲ)を明らかにしたのであるが、田辺が自ら告白しているように、親鸞の『教行信証』の徹底的な解明によってそれをなそうとした。続いて田辺は、『愛と実存と実践』及び『キリスト教の弁証』においてその宗教的自覚を深めていった。特に『キリスト教の弁証』は、『懺悔道の哲学』の延長上に位置づけられるものであって、それは田辺の序文において明確に書かれている。
「哲学教師として、西洋哲学の二大源泉の一たるキリスト教思想に、真の理解をもち得なかったことは、私の重大なる欠陥であって、今なお慙愧を禁じ得ない所である。しかるに停年退職に先立つ半年、今次戦争の終結によりも約一年以前の頃、国運の緊迫と思想者の任務との間に板ばさみとなって、私は自己の哲学思想に行き詰まりを感じ、絶望の極、懺悔の自己放棄に出づることにより、新しく『懺悔道の哲学』に再出発せしめられると同時に、今まで見ることを得なかったキリスト福音の真理に、始めて眼を開かれるような感を懐いた。自覚的には私は、当時哲学の自力から他力への転換において親鸞に導かれ、彼を先達としたつもりで居ったのである。
しかし後から憶ふと、むしろ多年養われたキリスト教の悔改の教えに影響されたものであることをみずから疑い得ない。このことは日を経るに従い漸次はっきりして、新たにキリスト教の福音に対する親近を感ずること愈々強くなった。かくして私は今や、多年の宿題たるキリスト教との対決をなすべき時に達したと思わざるを得なかったのである。」(『キリスト教の弁証』序)
したがって『懺悔道の哲学』と『キリスト教の弁証』とは、田辺宗教哲学の双璧をなす重要な著作なの
である。『キリスト教の弁証』においても「懺悔道」は中心テーマの一つとしてより深い考察がなされて
いる。
「“懺悔”は、前にもふれた如く、単に倫理的なる後悔と異なり、後悔の如くどこまでも理性的主観の反省により、自力をもって、過去の罪過を悔い、将来に向かって復びこれを繰り返すことなからんための決心を固める、に止まるものではない。もしこれだけの単なる内心の悔悟を意味するのみであるならば、それはどこまでも個人的自己の意識態度に係わるに止まり、社会的・客観的となることはできぬ。
したがって、それを行なう結果、社会の前に自己の名誉を失墜し、社会の非難処罰を受け、その極自己の生命をも失う可能性を、含むという如きことは全然ない。
如何に内心の苦痛を伴うも、それは自己一人の内的状態に止まり、直接に社会的審判にさらされ、その非難・軽侮・排斥を受ける客観的危険を内蔵すると言われぬ。すなわち自己の存在そのものをそれに賭けるという実在性はそこには存しないのである。
然るに“懺悔”というのは、かかる倫理的・自力的なる内心の悔悟及び改善の決意に止まるものではない。
かかる自力の悔改が連帯責任の広さの無限と、
人間の罪業の深さの無限とに対する自己の無力の故に絶望に帰し、
罪悪の抜けがたき根元に撞着して自己放棄の窮状に落ち込み、
羞恥をも屈辱をも耐え忍んで、社会の前に自己の罪過を告白し、
それに対する社会の審判に進んで身を委ね、甘んじてこれに服するところの外的行為が、
すなわち“懺悔”たるのである。
“懺悔”は単なる悔悟・後悔が自己一人に属する内心の出来事として、あくまで内的行為に止まるのに異なり、その内容その内容の社会的なると共に、神の審判に身を委ね、これに服する宗教的行にほかならない。」(『キリスト教の弁証』)
ここに敗北の哲学者・田辺元の真骨頂がある。また敗北の宗教学者・中沢新一が、徹底的に田辺に学ばなくてはならない点であったのではないか。しかるに宗教学者であるはずの中沢氏は、『フィロソフィア・ヤポニカ』において、田辺の宗教哲学の重要著作である『懺悔道の哲学』についてはわずかに触れただけであり、親鸞の『教行信証』果たした決定的な役割については全く触れられておらず、『キリスト教の弁証』においてはほとんど言及されてはいない。しかも、その前書きにおいては「死者(田辺)との二年間に及ぶ対話」を行なってきたとさえ語っているのである。もちろん中沢がこの二著作を読まなかったはずはなく、むしろ最も深く感銘を覚えた著作であったが、それゆえにこそ、中沢はこの二つの著作に言及することを意図的に回避したのであった。
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